畠山記念館  生誕150年  原三渓ー茶と美術へのまなざし(2)

原三渓(1863~1939)は、増田鈍翁と並んで明治、大正を通じて、日本美術品の海外流出を防いだ、日本美術品の大コレクターであった。また、この二人は数寄者としても著名であった。原三渓は慶応4年岐阜県に生まれ、明治21年に上京し、跡見女学校で漢学と歴史を教える傍ら、東京専門学校(現早稲田大学)に学んだ。明治25年、教え子の原屋寿と結婚した。原屋寿は両親に早く死なれ、横浜で生糸問屋を営んでいた祖父原善三郎の相続人となっていたため、富太郎が原家に入籍して店を継いだのである。善三郎亡き後は原商店を原合名会社に改組して輸出業に着手、34年からは株式会社第二銀行の頭取も勤めた。三渓は事業を拡大する一方、その莫大な財産を後ろ盾として本牧三の谷の三溪園に居を移し、ここに古建築の購入、移築を行い、今日の「山渓園」を作庭した。また数寄者として、茶人との交流も多く、三溪園でも茶会を催している。しかし、至福の時は続かなかった。大震災で強羅の別邸白雲洞を失い、生糸も焼失し、その後の世界的恐慌もあり、後継者も亡くなり、晩年は恵まれないまま、昭和14年(1939)に亡くなった。膨大な収蔵品は、奈良の大和文華館や東京国立博物館に多数引き取られた。また、茶道具をはじめ一部の美術品は、畠山即応にも渡り、今回の展覧会となった。今回は、写真が多く入手出来たので、2回に亘り、連載することにした。畠山記念館としては、初めてである。

重美  四季花木図屏風  渡辺始興作   六曲一双 紙本着色 江戸時代

誠に華麗な屏風であり、茶人の即応が何故、このような美しい屏風を手に入れたのか、不思議に思ったが、琳派の収蔵品も多く、琳派の一人であるため、入手したものであろう。四季花木図は琳派の画家達が好んで屏風絵とした題材で、四季の花木や草花を右から左に配置し、一双を立て廻らせることによって、居ながら花園を鑑賞することができるものである。本作は始興の代表作とも言うべき作品であり、たらし込みの技法や胡粉を盛り上げ、その他草花に用いらた意匠化など琳派様式であり、如何にも公家好で王朝風である。この姿勢は、始興が仕えた近衛家煕(いえひろ)の影響があったのではないかと思われる。地味な茶道具の最後に、この華やかな屏風には、毎度驚かされる。原三渓の旧贓品である。

重文 竹林七賢人図屏風  雪村周継作  六曲一双屏風 紙本墨画 室町時代

中国の魏末・晋初(3世紀頃)竹林に集まって酒を酌み交わし、琴を弾じ、清談にふけった七人の陰士がいたという。彼らの姿は権力欲や物欲などを捨て、あるべき人間の理想の一つと認識されている。中国では四世紀以降、この逸話を題材にした「竹林七賢図」が描かれるようになり、日本では等伯や探幽なども描いている。雪村周継は、室町時代末期の画僧。常陸を中心に會津、鎌倉において活動し,晩年は三春(福島県)に渡り、当地で没した。昨年、名古屋で「雪村周継展」が開催され、見学できなかったことが残念であったが、思わぬ所で作品に接し、大変勉強になった。本作も、原三渓の旧贓品である。

重文 大慧宋杲墨跡  尺牘           南宋時代(12世紀)

この墨蹟はは大慧晩年70歳のもので、宛名は判明しないが、厚誼の深い禅者に送った書簡である。終わりより三行目に戊寅とあるから、南宋高宗朝の紹興8年(1158)であることが知られる。茶会の席に飾られたものであろう。

水玉透鉢  野々村仁清作            江戸時代(17世紀)

この作品は、畠山記念館で拝見したのは初めてではない。全く同じ品を、今年の2月にサントリー美術館で開催された「寛永の美」で拝観したので、係員に「サントリー美術館に貸し出したのか?」と聞いたところ、外部には全く貸し出していないとの返事であった。「寛永の美」の図録を確かめたところ、MIHO MUSEUMの所有であった。思うに仁清は、似たような作品をある程度の数を作り、各所に販売したのであろう。なお「白釉円孔透鉢」の名称で陳列されていた。図録では「シンプルかつシャープな造形で現代の工芸品にも引けを取らない斬新さを見せるこの鉢は、色絵とは違った面での仁清の真骨頂に位置付けられる作品であろう」とまとめている。誠に要点を得た説明であり、そのまま借用しておく。なお、この作品は、三渓とは無関係とのことであった。

備前種壺共蓋水指  銘 太秦(うずまさ)    室町時代(16世紀)

中世以来壺・甕・擂鉢等生活雑記を焼造してきた備前焼は、侘び茶の広がりと共にその素朴な作風が好まれ、水指・建水等に見立てて使用されたり、次第に茶陶として茶人好みの作品が焼かれるようになった。この水指にような器形を、種壺と称している。箱蓋裏には三渓の花押があり、その横に畠山即応が「太秦」と銘を書きつけている。作意の感じられない侘びた趣は、小壺を見立てたものとも考えられる。

青磁鍔花入                 南宋時代(13世紀)

青磁は今から2千年ほど前、中国の漢時代(前220~後221)の初期には既に黄河や揚子江流域で焼かれていたが、釉色は茶色味がかかってオリーブ色を呈していた。青いいわゆる青磁の美しい色が出せるようになるのはそれから千年後、宋時代(960~1279)のことである。日本には花入・香炉・瓶などが禅宗の渡来と共に請来され、寺院の荘厳具、座敷の床飾りにと、珍重された。この花入れは古代銅器をかたどって造られたもののようである。中蕪の胴に太い円筒状の頸がつき、頸の胴に近い部分にある張り出しを茶人は刀の鍔に見立てて、鍔花入れと呼んでいる。

共筒茶杓  銘寿  尾形光琳作        江戸時代(18世紀)

尾形光琳(1658~1716)は、高級呉服商の雁金屋の次男に生まれた。絵画の制作、手箱の蒔絵、弟の乾山陶器への絵付けなどさまざまな作品を残し、江戸琳派を代表する一人となった。芸術家の茶杓としては、狩野探幽・尾形乾山・酒井抱一などが知られるが、蒔絵類まで手掛けた光琳の茶杓には、その洗練された意匠性がうかがわれる。櫂先は丸みを帯びてゆったりとした中節の茶杓で、節下、追取の部分は竹の模様に沿って削り込まれ景色をなし

共筒茶杓 銘 有明 小堀十佐衛門政貴作        江戸時代(17世紀)

作者小堀政貴(1639~1704)は、遠州の四男で茶道具の目利きに勝れ、特に茶杓は得意であつたと言われている。本作の銘の由来は明らかでないが、茶杓の露と櫂先は、急角度に曲げられている。露の先端中央から細い縦縞が通っており、中節を過ぎるとやや右寄りに流れている。全体的にほっそりとして引き締まった造形は、父遠州の作風を踏襲した瀟洒な作行きである。

共筒茶杓  佐久間将監真勝作       江戸時代(17世紀)

作者佐久間将監真勝(1570~1642)は、家康・秀忠・家光の三代将軍に渡って作事奉行を勤めた人物で、晩年は京都柴野の大徳寺に隠棲し、寸松庵という茶室を設けて茶湯三昧に過ごした。所持していた紀貫之の色紙は「寸松庵色紙」として知られている。茶杓は櫂先が大きくたっぷりとして、やや右上がりの作振りである。中節は直腰、節上は鼈甲色で直下には刀で刹ぎ目を入れた景色がある。本作は下方に「寸松庵」と墨書された珍しい一作となっている。箱裏蓋には三渓翁の署名が認められる。

備前火襷水指   銘玉柏           桃山時代(16世紀)

備前焼特有の緋襷(ひたすき)は器に入子にして焼成する際、作品同士のくっつきを防ぐために間に挟んだワラが器胎の鉄分と反応し、赤く襷掛けしたような文様に焼き上がったものを言う。備前焼は茶人に賞玩されてきたが、自然の力によって生まれた緋襷等は殊に珍重された。この水指の肩は心持ち張らせ、裾へかけてすぼまった端正な作行きで、白い地肌に襷の火色も鮮やかに出ている。形、色とも品格がある。

 

原三渓より畠山即翁が譲り受けた作品(水玉透彫は除く)ばかりであるが、優品が多い。特に二つの屏風には驚いた。重文、重美などの指定を受けたもので、雪村の「竹林七賢図」、渡辺始興の「四季草花図屏風」、共に傑作であり、この茶の湯専門の美術館でお目に懸れるとは思っていなかった作品である。また、水差、茶杓など、毎回拝観しているが、写真が入手できないため、招介をあきらめていたが、今回は図録などのおかげで、招介することが出来た。畠山記念館を2回にわけて紹介したのも、茶杓、水差など、常日頃招介できないものが、多数招介できたる機会となった。

 

(本稿は、図録「原三渓旧蔵の茶道具」、図録「与与衆愛玩  畠山相応の美の世界」、図録「与衆愛玩 琳派」を参照した)