相国寺  伊藤若冲の生前墓

京都の真中を縦貫する大通り、京都駅の真ん前の烏丸通りを北上するとほぼ京都の中心あたりに京都御所がある。その御所の北約300メートルほどのところに位置するのが相国寺(しょうこくじ)である。正式には「萬年山相国承天禅寺」といい、京都の有名寺院のほとんどが観光寺院として賑わっているのに対し、相国寺は独り、広い境内に人影はなく、静寂な寺院であり、京都では数少ない貴重な存在である。相国寺は、足利三代将軍義満(よしみつ)によって建立された禅宗寺院であり、永禄2年(1382)から10年の歳月をかけて建立された。明徳3年(1392)に完成し、京都五山の第二位となり、勧請開山夢想礎石、第二世である事実上の開山春屋妙葩(しゅんおくみょうは)禅師とし、京都の叢林の中枢として隆盛を極めた禅寺である。創建時の総面積は140万坪と伝わるが、天明の大火や明治維新後の廃絶した寺院跡が同志社大学等になり、現在の面積は4万5千坪と言われる。末寺として鹿苑寺(金閣寺)、滋照院(銀閣寺)、真如堂など全国百ケ寺を擁し、臨済宗相国寺派の大本山である。しかし、戦火により幾度も焼失し、今日に至っている。相国寺の中心寺院である法堂(はっとう)も4度焼失し、桃山時代に豊臣秀頼の寄進により完成し、今は仏殿の役目も果たしている。京都五山制度の確立とともに、僧録司(そうろくし)が設けられた。春屋が初代僧録司に任命された。僧録は、臨済宗五山派寺院を支配統括する機関であるばかりでなく、平安時代の遣唐使派遣途絶以来、途絶えていた中国との国交が義満によって回復されりとともに外交業務、外交文書の作成を行い、まさしく外務官僚の役割を果たし、春屋以来230年余りにわたって、相国寺がこの僧録司を独占してきたのである。また明徳4年(1392)には、画期的な七重塔の着工がはじまり、百九メートルという天下の大塔、七重塔の建立である。しかし、京の街の中心地に位置する相国寺は、大小17回の火災に遭い、再建に次ぐ再建の歴史であった。

重要文化財  法堂 単層切妻      慶長10年(1605)桃山時代

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法堂(はっとう)は桃山時代に再建された禅宗様建築では、最大最優作と呼べる堂である。豊臣秀頼の寄進で、慶長10年(1605)建立の建物である。現在は仏殿がないため仏殿も兼ね「本堂」と言っている。中心部の桁行五間、梁間四間で、これに一間通りの裳階(もこし)がめぐっているので、外観は正面七間、側面六間を数える。相国寺法堂は仏殿や法堂など禅宗様仏殿のうち、現在最大のものである。無為堂(むいどう)とも称し、本来畏れることなく法を説く行動的役割を果たしている。

法堂内部 蟠龍図(約9M経)  狩野光信作    桃山時代

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法堂の内部は、禅宗寺院ならではの荘厳な佇まいである。鏡天井一面には巨大な蟠龍図が描かれている。龍は仏法を守る守護神であり水を司る神でもある。火事から護るという意味から、禅宗の法堂の天井には龍がよく描かれている。慶長10年(1605)相国寺の法堂が再建なった際に、狩野光信によって描かれた。光信は狩野永徳の長男として生まれ、父とともに信長、秀吉に仕えた。光信はこれを描き上げた3年後に没しており、本図は光信にとって最後の大きな仕事となった。天井は中央が少し盛り上がった「むくり天井」になっている。そのため、蟠龍図の下で手を叩くと反響して音がかえってくる。このことから「鳴き龍」とも呼ばれる。

方丈   単層入母屋造り             文化4年(1807)再建

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禅宗建築の配置は、三門、仏殿、法堂、方丈が南北に真直ぐに並んで建てられるのが特徴である。相国寺も同様に法堂の北に法丈がある。現在の建物は文化4年(1807)に開山堂、庫裏とともに再建された。中国宋代の名筆家・帳即子(ちょうそくし)の扁額が掲げられている。構造は単層入母屋造りの桟瓦葺である。

開山堂  単層入母屋造り       文化4年(1807)再建

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開山夢想国師像を安置するため、開山塔(開山堂)と呼ばれる。法堂の東に位置し境内で最も大切な場所である。開山塔の庭は白砂が敷き詰めた真の庭に石を、奥に奇石を配して樹木が植えられている。創建当時、上加茂から水を引き、丁度この庭の中を通して御所に流して御用水としていたため、裏庭の無い変則的な造りになったと言う。

庫裏(くり)「香積院」 切妻入        文化4年(1807)再建

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大きな禅宗の本山でも塔頭(たつちゅう)でも、現在では方丈に続いて庫裏があるのが一般であり、これは事務所であり、台所でもある。大きい本山ではごく大規模の庫裏があり、当山もそうした一つである。禅宗寺院の庫裏は大小にかかわらず型が決まっていて、切妻妻入(屋根の三角形の見える方が正面で出入口のあるもの)で、大きい破風や壁面が印象的である。入口を入れば広い土間で、大きな竈(かまど)などもあり、見上げる天井は高く、複座に組まれた巨材が縦横に通っていて遥か上に煙り出しを仰ぐ。香積院(こうしゃくいん)とも呼ぶ。

鐘楼(しぉゆろう)「洪音楼」         寛永6年(1629)再建

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開山堂の南、法堂の東南に大きい鐘楼がある。この鐘楼は「洪音楼」(こうおんろう)と号し、裳階付のものでは大型のもので、裳階の下に花崗岩の壇を持ち、内部は階段により鐘を吊った上の重(かみのじゅう)へ上るようになった型通りのものである。寛永6年は法堂のできた慶長10年から24年後であるから、その後の災害をすべて免れてきたものである。

経蔵                      創建 万延元年(1860)

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経蔵は安政6年(1859)第百二十世和尚の寄進により、万延元年(1860)に創建されたもので、高麗版一切経(一部宋版を含む)650巻余が納められている。幕末争乱の時期に、よくぞ経典を入手し、経蔵を創ったものだと感心する。日本の文化の逞しさを痛感した。

承天閣美術館 鉄筋コンクリート造平屋建て(一部二階)昭和59年(1984)

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収蔵庫、展示室、講堂の3棟からなる。同寺に伝わる国宝、重要文化財に指定される相国寺の数千点の文書、墨跡、茶器、絵画の名品などの什器を展示し、調査研究することを目的としている。応永3年(1398)建造の金閣寺の古材でしつらえた茶室夢中庵は見逃がせない。すべて同寺に伝わる文化財を展示している。伊藤若冲「釈迦如来三尊像」、長谷川等伯「竹林猿猴図」なども含まれる。

斗米庵若冲居士の墓(左)と大典の碑文(右3面)    明和3年(1766)

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相国寺の墓地に残る若冲のお墓は、生前の明和3年(1766)51歳の時に造ったお墓であり、寿蔵(生前墓)である。この寿蔵の側面(2面)と背面(1面)に大典禅師の碑文が刻み込まれている。これは51歳の若冲が、妻子も無く、跡を継がせようとした末弟にも先立たれたいう事情から、生前に自分の墓を建てておくことを思い立ち、親交のあった大典禅師に碑文を依頼したものである。若冲の人生、人柄や制作態度などについて貴重な証言がそこに残されている。よほど良い石材が使ってあるのだろうか、この刻文は、250年後の今でも読み取れる。大典の碑文については、石碑の3面に刻文を写真として写した。全文は大典の詩文集「小雲棲稿」に乗せられている。また、「若冲展」の図録に全文、読み下し文、訳文が掲載されている。

釈迦如来三尊像  伊藤若冲作        明和2年(1765)

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釈迦如来三尊像3幅と「動稙綵絵」24幅を、明和3年に相国寺に寄進した。「動稙綵絵」は明和7年(1770)に全30幅が寄進された。明治22年に「動稙綵絵」は、金1万円の下賜金の謝礼として皇室に献納され、今日に至っている。相国寺に残る三尊像は、いずれも正面を向いているのが特徴である。驚くべき綿密さで、精魂を傾けた力作である。明和2年(1765)の寄進状(相国寺蔵)によると「かって張思恭画の参尊像参幅を観てその巧妙無比なのに感動して、その心要を募倣(ぼほう)し、ついに三尊三幅を完成したのだ」と述べている。張思恭は中国の著名な仏画師であり、ラマ教的なところを取り入れた異色のものであるが、若冲はむしろそれを完全に超越した独自のものを作り上げたのである。毎年6月17日に相国寺で行われた法要、観音繊法(せんぽう)(観音に懺悔する法要)では、「釈迦如来三尊像」3幅を正面中央に掲げ、その東西左右に15幅ずつ対になるように掛け並べられた。三十三幅という観音繊法に使用するための掛幅画の総数は、観音菩薩が「三十三応身」して衆生を救うという教えが意識されたのかも知れない。先の「若冲展」の展示の仕方は、この観音繊法に倣ったものであったのである。

重要文化財竹林猿猴図屏風(右隻)長谷川等伯作 紙本墨色六曲一双 桃山時代

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等伯は、能登から京都に進出後、中国・南宋時代の著名な牧谿(もっけい)筆「観音・猿鶴図」三幅対(大徳寺)と出会う。薄明にただよう微妙な光、湿潤な大気の表現という、牧谿画の持つ優れた稀有の表現を直接学習する機会を得たのであった。その成果として生まれたのが一連の猿猴図、竹鶴図などである。本作は、左隻に竹林、右隻に猿猴を描いた屏風であるが、「観音・猿鶴図」学習が端的に表れている。優品である。

 

人気(ひとけ)のまるでない相国寺を訪れたのは正直言って、伊籐若冲が「動稙綵絵」30巻、「釈迦如来三尊像」3巻を納め、平安人物史にゆるぎない地位を確保した場所を確認するというのが目的であった。しかし、壮大な敷地と伽藍を有し、金閣寺、銀閣寺を塔頭として持つ、足利時代を代表する足利義満公が開祖となった相国寺は、予想以上に大きな力を政治に発揮した寺院であった。僧録司という、僧侶の人事権や、対明貿易(朝貢貿易)の外務官僚のような仕事をして、義満の頭脳の部分を果たしていたことが明らかになってきた。しかし、目的の若冲の生前墓(寿蔵)と、大典の碑文を拝読できたことは、「若冲の旅」を志した私に取っては、大きな収穫であった。承天閣美術館で、相国寺の宝物を拝観する機会には恵まれなかったが、せめて2点の美術品(若冲展と長谷川等伯展で観た物)を参考として紹介することができた。尚、同寺には若き日の雪舟や作家水上勉の話があるが、今回は見送ったので、ご了承頂きたい。

 

(本稿は、新版古寺巡礼 京都8「相国寺」、古寺巡礼「相国寺」、図録「長谷川等伯展  2010年」、新潮日本美術文庫「長谷川等伯」、図録「若冲展 2016年」を参照した)