石峰寺  若冲終焉の地

 

話題の多かった「生誕300年記念 若冲展」も44万人の見学者を集め、5月24日に終わった。最終の頃は、入場まで4時間待ち、入場後2時間、かつグッズ類は大半が売り切れたとのことであった。異常なブームということもあったが、辻惟雄氏の「奇想の系譜」の中の「この本に登場する六人の画家たちは、当時はみな美術史の脇役だったが、今やかれらの江戸時代絵画史上のスターであり、とりわけ伊籐若冲の人気上昇は異常なほどだ。知らない間に現代の美的好みの方が、どんどんこちらへと接近して来たようなものである」(文庫本あとがき)という記述が、正しい認識かも知れない。さて、今回は6月に京都に行く機会があったため(聚光院創建450年記念公開を見学することが主目的であった)ついでに若冲終焉の地である石峰寺を訪ね、若冲のお墓に詣でる気持ちで、京阪線「深草駅」下車、徒歩5分の場所を訪ねた。朝9時からの石仏開扉であるが、私が8時半に着いた所、お寺の奥様が、気を使って入門を許可されたので、まず若冲の墓前に参詣し、その後、石峰寺の五百羅漢に詣でた。世に五百羅漢と呼ばれているが、釈迦の一生を石仏群で造ったものであった。私が、東京の「椿山荘の美」(2013年11月11日)で取り上げた羅漢石(伊東若冲の下絵による)20体は、この石峰寺から流出したものであった。裕福な家庭に生まれ、凡そ絵画を売却することも無かった若冲に、大変な危機が訪れた。天明8年(1788)1月30日の夜明け前から翌2月1日夕刻にかけて、京都の街は応仁の乱以来と言われる大火事に見舞われた。猛火は洛中全体に燃え広がり、後世まで「天明の大火」として記憶される江戸時代最大の京都の火災となった。若冲73歳の老境であった。市内4ケ所に持っていたアトリエと多数の作品も失った。錦街の2軒の住居も失った。この不慮の災厄により、若冲の生活環境は激変した。生活のために描くという、これまでに全く配慮の必要がなかったことに、彼は初めて直面した。これ以後、西福寺襖絵をはじめ、多くの傑作が生まれることになった。西福寺における制作のあと、若冲は京都へ戻り、石像の制作以来縁の深い石峰寺に偶居したようである。

石峰寺の赤門

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石段を登りつめると赤壁の竜宮造りの門が見える。このお寺は、若冲のお墓があり、かつ五百羅漢像のあるお寺である。9時開門であったが、8時半に着いた所、奥様の計らいで、お墓と五百羅漢像を拝観させて頂いた。

石峰寺の本堂

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卍くずしの勾欄に囲まれた禅風のお寺である。正式には黄檗宗のお寺である。お寺の建築は昭和に入ってからの建築である。

若冲のお墓(石峰寺)                 江戸時代

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若冲は、寛政12年(1800)9月10日に亡くなった。葬儀は石峰寺で行われたと思われ、遺体は同寺に土葬された。「三暇寮日記」10月27日の条には、没後尽七日(四十九日)に当たるこの日、相国寺一山の仮方丈となった鹿苑院で、若冲生前の同寺に対する篤志に報いるべく法要が行われたことが記録されている。若冲のお墓は、相国寺の寿蔵のほか石峰寺にも残る。ここの墓地には、墓石と、筆形の石碑が並んでいる。この墓は、石峰寺の石蔵が文政13年(1830)の大地震によって崩れたので、当主の伊籐清房が、天保4年(1833)修復した。お墓には、相国寺の寿像と同じ「斗米庵若冲居士墓」とあった。

筆塚(石峰寺)          天保4年(1883)  江戸時代

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伊藤家の当主であった清房が、天保4年(1833)に墓の修復と併せて、若冲の遺言により筆形の墓を傍らに造った。所謂、筆塚である。この筆型の石碑の軸の部分には、貫名海屋(ぬきなかいおく)の撰文が刻まれている。海屋に評伝を依頼したものである。伊藤家は、この清房の代あたりまではなお資産を残していたようであるが、その頃から、急速に没落し、慶応3年(1867)遂に家屋敷を町中に売渡して大阪へ去った。その際、伊藤家に伝わった下絵など長持一杯分の若冲関係の資料が、大阪へ運ぶべく委託した運送屋の火災で消失してしまったと伝えられる。

五百羅漢像(釈迦誕生)             江戸時代(18世紀)

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五百羅漢と称しているが、現実には、釈迦の一代記である。この写真は、雨の中で撮ったため、暗いが、釈迦誕生の場面である。

五百羅漢図(托鉢修行)              江戸時代(18世紀)

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この写真は、石峰寺で購入した専門家の写した写真である。全部、専門家の写真を使った方が分かり易いが、五百羅漢という言葉に釣られて、仏殿図の意味が理解されていないようである。

五百羅漢像(涅槃像)               江戸時代(18世紀)

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釈迦涅槃の場面である。一番奥に眠る(横たわる)のが、釈迦の涅槃像である。

虎図  伊藤若冲作   紙本墨色  一幅 石峰寺   江戸時代(18世紀)

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江戸時代に生きた虎を見ることは出来ないため、絵師たちは舶載された毛皮や古画に基づいて虎図を作成した。尾形光琳「竹虎図」に通じるとされるが、似た粉本に基づいて虎図を作成した可能性が高い。若冲が晩年を過ごした石峰寺に伝わった作品で、印の状態より最晩年の作ではないが、深草隠棲後の作例と見られる。

五百羅漢図  伊藤若冲作  紙本墨色  一幅   寛政3年(1791)

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画面を見下ろし遠くを眺めるように構図が工夫されており、画面中央の対角線で空間は区切られ、下半分は羅漢が群れをなして左下方向に波の上を徒水する様子を描いている。画面に署名はなく、右側に「籐汝鈞印」(白文方寸)、「若冲居士」(朱文円印)を押す。実際の五百羅漢像とは、まるで違う図である。構想であろう。

石峰寺  伊藤若冲作  紙本墨色  一幅       寛政3年(1791)

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若冲は遅くとも寛政5年(1793)までに石峰寺門前に移り住み、この地で没した。石峰寺の裏山には、若冲が下絵を描き、制作にかかわった羅漢の石像が残っており、同寺院とは非常に縁が深かった。本図の景色は石峰寺の実景とは異なるが、若冲が思い描いていた石像群の最終予定図とも言われている。裏山には中国西湖のイメージを重ね合せているとも思える。

 

石峰寺は深草にある黄檗宗の寺院で、この裏山には五百羅漢と呼ばれる石像群がある。天明7年(1787)刊の「拾遺都名所図会」に「石像五百羅漢像」が紹介されている。辻惟雄氏の推計によれば、石像群は安永の中頃(1776年頃)から天明の初め(1782年頃)にかけて、すなわち還暦に当たる60歳から66,7歳の頃にかけて、若冲の指揮下に制作されたものである。「図会」では釈迦説法のみを紹介しているが、実は釈迦の、所謂「本生譚」(釈迦一生の物語)を石像を使用して展開したものであるが、全体の構想は天明の大火以後のことらしい。現在、石峰寺で見られる石像は、釈迦の仏伝(釈尊の一代記)の諸場面である。寛政3年(1791)76歳の若冲は、大火後の困窮につき、町内及び相国寺と交わした永代供養の契約を解除している。寛政5年頃(1793)78歳の若冲については、平賀白山が「焦斎筆記」の中で次のように述べている。「今は稲荷街道(伏見街道)に隠居して五百羅漢を建立し、絵一枚を米一斗と定め、後ろの山の中へ自身の下絵の思ひつきにて、羅漢一体づつを建立しぬ。」若冲は妹とその子供と、石峰寺の門前に偶居していたと伝えられるが、最近の研究では、妹ではなく、末弟の荘厳の妻と、その子と同居し、仲睦まじい老夫婦と見られていたようである。

 

(本稿は、図録「生誕300年記念 若冲 2016年」、図録「生誕300年 若冲と蕪村   2015年」、辻惟雄「奇想の系譜」、「若冲」を参照した)