禅   心をかたちに

およそ千五百年前、達磨(だるま)大師によってインドから中国へ伝えられたとされる禅宗は、唐時代の中国において臨済義玄(りんzないぎげん)禅師によって広がり、日本には鎌倉時代にもたらされた。禅は武家のみならず、天皇家や公家にまで広く支持され、日本の社会と文化に大きな影響を与えた。江戸時代に入ると、臨済の流れをくむ黄檗宗が伝わると共に白隠慧鶴禅師らの高僧により民衆への普及が進み、現代においても禅は多くの人の心の支えとなっている。また最近では欧米の人々の間にも「ZEN」の思想が浸透し始めている。臨済宗、黄檗宗の源流に位置する高僧、臨済義玄禅師の1150年遠忌(おんき)、ならびに白隠慧鶴禅師の250年遠忌を記念する本展は、臨済、黄檗宗十五派の協力のもとに開催された。国宝、重要文化財を含む約300件の多彩な名宝を通じて、禅の真相に触れ、かつ日本文化に果たしてきた役割をも紹介する企画である。(東京国立博物館にて11月27日まで)

国宝 達磨図  蘭渓道隆筆  鎌倉時代(13世紀)  山梨・向嶽寺

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本図には、中国から渡来して建長寺の開山となり、宋朝禅の日本導入に大きな役割を果たした禅僧、蘭渓道隆(1213~78)の賛がある。そのためこの達磨図は禅宗導入期の禅宗絵画の最初期の遺品と思われる。賛の末尾に「建長の蘭渓道隆、朗然(ろうねん)居士のため拝賛す」とあり、朗然居士は北条時宗にあたることがほぼ確実視されている。時期は文永3年(1264)頃と推定され、時宗は14歳にして連署となった年である。達磨の顔の描写は精細で優れており、身体を包む襞を表す衣文線は流麗でありながら立体感に富み、堂々たる体躯である。一方、彩色は抑制され、達磨は光と空気に包まれ、現実の空間に存在するように感じられる。これらの特色を持つ本図は、得宗家の若き棟梁、北条時宗のための達磨図たるに相応しい。禅宗導入期の日本における導入の中心地、鎌倉で、将来の最高権力者のために作られたとみられる記念碑的な大作であり、その歴史的な重要性は比類ないものがある。

国宝 慧可断碑図 雪舟等楊筆 明応5年(1513)室町時代 愛知・済年寺

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この絵は、私にとって思い出深い絵である。大学3年の秋(1954年)に、雪舟の画論を読んでいて、この「慧可断碑図」(えかだんぴず)が愛知県知多半島の済年寺の所蔵であることを知り、是非観たくて、済年寺まで出かけた。当時、この絵は重要文化財であり、寺宝として保管されていた。1時間以上の時間をかけて済年寺に着いた私に対して、住職は「拝観させる訳にはいかない。一般公開していない。」と断った。私は、腹を立てて、「重要文化財は国民の財産である。所有するお寺の私物ではない。税金で保管費用を賄っている筈だ。もし、拝観がお寺の保存状態を考えて無理ならば、博物館に寄託して、お寺ではその写しを拝観させることが理にかなっている筈だ」とまくしたてた。しかし、住職はたかが一人の大学生の意見を取り入れることもなく、「出来ないものは、出来ない」と冷たく追い返された。しかし、この図は、後年重要文化財から国宝に指定替えされ、お寺では京都国立博物館に寄託し、写しをお寺で拝観できるようにした。正しく一大学生が提案した通りになったのである。今回の「禅 心とかたち」は、この「慧可断碑図」を拝観すれば、それで終わりという位、思い出が詰まった作品である。さて、本論に戻る。インドから中国へ禅を伝えた達磨が、少林寺で面壁九年(岸壁に向かって九年間座禅し続ける)の修行を行っていたとき、神光という僧が入門したいといってやってきた。その時の逸話が慧可断碑である。弟子にしてほしいという神光の希望に達磨は見向きもしない。神光は決意を示すために自分の左腕を切って達磨に差し出した。それを見て達磨は入門を許し慧可という名を与えた。この慧可が達磨の跡を継いで、禅宗の祖の2代目となった。主題からすれば禅の宗教画である。縦180センチという大きさも、禅宗寺院で公的に使われるのに相応しい。しかし、表現は、とても仏画とは思えない。慧可の切り落とした左手の付け根は、血で汚れている。こんな仏画がある筈がない。達磨と神光との間の火花を散らす精神の交流を描いたものが本図である。研ぎ澄まされた厳しさを、右から上におおいかぶさる焦墨によって表された岩によって表現しており、画僧雪舟の、禅に主題をとった最後の作品である。画面左端の落款は入明して天童山景徳寺の禅班第一座になったことを誇るものであり、明応5年(1496)77歳の筆になることが知られる。本図の裏幅には、天文元年(1532)尾張知多藩の城主佐治為貞(さじためさだ)が寺に寄進されたことを記している。なお昭和52年版の原色日本の美術第10巻では、まだ重要文化財のままである。作者も制作年も特定出来ているのに、国宝に長く指定されなかったのは、血のしたたる絵画を国宝に指定することに、躊躇する気持ちがあったのではないだろうか。私にとっては、本展覧会一番の見物であった。

国宝 無順師範像 自賛 中国・南宋時代  嘉熙2年(1238)京都・東福寺

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東福寺の開山である聖一国師円爾(えんに)(1202~80)が入宗時に参禅した、臨済宗楊岐派の巨匠、無準師範(1178~1249)の頂相(ちんぞう)である。中国の法脈が日本に受け継がれたことを象徴するのは勿論のこと、精緻を極めた南宋時代の肖像画の水準を示す作例である。

国宝 蘭渓道隆像  自賛 文久8年(1271)鎌倉時代  神奈川・建長寺

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寛元4年(1246)34歳で来日し、ほどなく北条時頼の帰依を受けて建長寺の開山に招かれた蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)の現存最古の肖像画である。賛は文永8年(1271)、蘭渓が59歳のとき、朗然居士(北条時頼)のために建長寺の観瀾閣(かんらんかく)で書いたものである。蘭渓は、袈裟を着け、右手に竹箆を持ち、法被を掛けた椅子に坐す。斜め左向きの姿に表されて、椅子の前の履床の上に履(くつ)が置かれており、宋代禅僧肖像画の基本パターンに則って描かれている。宋代禅僧肖像画に劣らない出来映えである。

国宝 宗峰妙超墨跡「開山」道号 1幅 嘉暦4年(1329)鎌倉時代 妙心寺

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紫野・大徳寺の開山宗峰妙超(大塔国師)が開山慧玄に雲門関(うんもんかん)の公案を示したところ、2年後の嘉暦4年(1329)2月「関」字を悟った慧玄に意を得て認めた宗峰が、道号「開山」二字を大書し、一偈(いちげ)を書いて与えた墨跡である。宗峰妙超48歳の時の筆で、当時、開山慧玄は53歳であった。道号の由来は「碧巌録」(へきがんろく)の第八則に載せる雲門文偃(うんもんぶんえん)の「関」という公案を透過したことによる。

半身達磨図  白隠慧鶴筆 紙本着色 江戸時代(18世紀) 大分・萬寿寺

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背景の深い深い黒。衣の鮮やかな朱、顔面のほのかな朱。そして、眼球、胸と「直指人心、見性成仏」という賛文の白。数千点も現存する白隠の作の中で、これほど鮮やかな色彩のコントラストを示すものは他にない。しかも縦2メートル近い。渾身の力が漲った大幅。ゆえに、白隠の代表作として多くの書物等で繰り返し紹介されてきた、もっとも有名な作品である。白隠は、臨済宗中興の祖、五百年に一人の英傑として讃えられ、現在の臨済宗の僧侶たちの系譜をさかのぼれば、すべて白隠に行き着くほどの重要な存在である。白隠慧鶴(1685~1768)は江戸時代中期の名僧である。

重要文化財宝冠釈迦如来坐像院吉・院広・院遵作南北朝時代・観応3(1352)

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禅宗では頂相(師の像)が重要視され、造仏は比較的少ない。文殊と普賢両菩薩を従えた釈迦如来坐像の背面に、この像がかって常州茨城郡の清音寺に安置され、元禄年間に徳川光圀が修理させたことが記されている。清音寺は南禅寺派の禅宗寺院。源氏一族で常陸に住んだ佐竹氏の菩提寺である。この三尊像は明治時代に方広寺へ遷された。この三尊像は失われた天龍寺本尊の作風をしのばせるもので、鎌倉時代の彫刻とは一線を画している。印派仏師の作り上げた宋風(中国風)の完成形を見ることが出来る。当時の禅宗寺院の本尊の典型的な作例として貴重である。

国宝 玳帔天目(たいひてんもく)吉州窯 陶製 南宋時代(12世紀)相国寺・京都

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玳瑁(たいまい)と呼ばれる亀の甲羅、つまり鼈甲(べっこう)を意味する。黄褐色の地に黒色文様が現れた様子を指して、この名が付いたのであろう。室町将軍家が所蔵した唐物である。天目茶碗呼称は、中国宋・元時代に浙江省天目山に留学した日本の禅僧たちが、そこから持ち帰ったことから、この名がついたとされる。松平不昧公が大名物と区分して、愛した逸品である。日本と中国を行き来した禅僧たちは、思想だけではなく、様々な文物(唐物)や風習をもたらした。その代表例が喫茶・水墨画・誌画軸などで、日本の中世文化に影響を与えた。日本人は唐物をアレンジして、室内を装飾する等新たな美意識を創りだし、日本人の感性に磨きをかけた。

国宝 秋冬山水図 雪舟等楊筆 紙本墨色 室町時代(15~16世紀)東京国立博物館

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雪舟が行きついたところの一つがこの絵であろう。現在は秋と冬だけが残っているが、もとは四幅の四季山水図だったようである。作成の時期は山水長巻を描いた後、はっきりと自分の画風を意識し、画師としての地位を確立してからであろう。左隻(冬)でまず目を惹くのは画面の中央部分の上である。これが大きな岩であることが判る。しかしこの絵を見ていると、「岩だ」という理解が皮相なものに思えてくる。こんな風景が実にあるわけではないし、そもそも山水画だと言うことも忘れてしまうほどだ。具象と抽象との狭間のような表現になっている。勿論、雪舟が抽象画を知るはずはないし、室町時代の人々にこのような理解が出来たわけではないだろう。この絵は南宋の画院画家夏珪に倣った風景山水図なのだが、完全に手本の世界を衝きぬけてしまっている。あるいは、こんな考え方は近代人の勝手な思い入れかも知れない。

国宝 瓢鯰図大巧如拙筆、大岳宗宗等三十一僧賛 室町時代(15世紀)退蔵院・京都

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日本における禅画の起源と言えるのが、この「瓢鯰図」(ひょうねんず)である。作者の如拙(じょせつ)は、水墨画を確立した雪舟の師匠・周文の師匠に当たることから、美術史では「瓢鯰図」が水墨画の起源の一つとして重要視されてきたが、絵画として見たときには奇妙な点が多い。まず「ナマズと男」という不思議な画題である。「これは、つるつるとした瓢箪でぬるぬるしたナマズを押さえられるか」という公案(禅の問い)を絵にしたものである。花園大学国際禅学研究所・吉沢勝弘氏は次のように述べている。「4代将軍・足利義持は、自ら新しい公案を考えてこれを描かせたのである。義持はそれほど深く禅を勉強していたのである。では、絵の上部にぎっしり書かれた文字は何を意味するのか。これは”賛”。絵で描かれたことに賛同した人による、いわば解説や感想である。同じテーマによる絵と文学の究極のコラボと言える。この賛があることで、飛躍的に絵の持つ意味が広がる。賛を書いたのは31人の高僧たちである。当時、寺は高等教育機関や役所のような役割だから、今でいう有名大学の学長クラスである。そんな知識人たちが競ってコメントを寄せたのだ。多くは、瓢箪でナマズを捉える行為を不可能だと書いている。しかし、その真意は次のようなものである。禅のテーマは「心とは何か?」一人一人の胸にあるのが心かというと、そうではない。それは時間と空間を超えて一貫する何かー真理である。我々は頭で考え、葛藤するものだが、決局は、とらえられない、のである。背景に何気なく描かれている山水画も、実は禅の思想を体現しているという。空と川の境目がなく一体化している。どちらが空で、どちらが水かは分からない。これが禅の世界観である。このことが意味するものもやはり「心」である。山水とは、ある種日本精神の風景画ではないでしょうか」

 

長い長い解説になったので、これ以上付け加えることはない。私に取って「慧可断碑図」をまじかに観ることで十分満足した。300点余の展示物を観るのは疲れる。自分の見たいものを定めて観覧することが、大切であろう。図録は非常に役に立つ。日本の中世と近世(桃山から江戸時代まで)を理解する鍵が、ふんだんに含まれている。

 

(本稿は、図録「禅 心をかたちに  2016年」、図録「白隠展  2012年」、原色日本の美術「第10巻  禅寺と石庭」、古寺巡礼「 第8巻 相国寺」、「第31巻 妙心寺」、新潮日本美術全集「1巻 雪舟」、日経大人のOFF2016年1月号、日経新聞2016年11月2、4、5日夕刊」を参照した)