等 持 院   足利一族の菩提寺

室町時代は、南北朝が対立し、日本史上でも判り難い時代である。足利尊氏は、自分の屋敷内に幕府の政庁を開き、かつ、そこに「等持寺」という寺院も在ったというからややこしい。尊氏は足利家の菩提寺として、まず「二条高倉」の京屋敷に、寺院の役割を兼ねさせ、「等持寺」と名付けた。その後、北朝の応暦4年(1341)、足利尊氏が無窓礎石を開基として、衣笠山(きにがさやま)のふもとに「等持院」を創建した。衣笠山は標高200メートルに過ぎないが、古くから多くの人が称賛してやまない美しい山である。等持院は、この衣笠山の眺望の美をひとり占めする、贅沢なロケーションである。等持院の規模は、かって壮大であった。伽藍の建物は、仏殿・大方丈・御殿・大庫裏・鐘楼・宝蔵など26の建物が威容を誇ったという。格としては天龍寺の末寺ということになる。延文3年(1358)4月29日に足利尊氏が亡くなり、等持院に葬られ、芙蓉池と心字池との間に尊氏の墓がたてられた。尊氏の葬儀を行ったあと、歴代将軍の葬儀は等持院でおこなわれるしきたりとなった。三代将軍義満によって、五山に続く十刹(じゅっせつ)の首位となった。26の伽藍を誇った等持院は、火災で大半を失い、長禄元年(1457)の尊氏没後百年祭までは粗末な伽藍のまま耐えることを余儀なくされた。尊氏百年祭を挙行したのは八代将軍足利義政である。義政は尊氏百年祭を盛大に行うことで等持院の復興を実現した。その後、再建、火災を繰り返し、文化5年(1808)4月に、等持院は3度目の火災をうけ、すべてを失った。10年の歳月を費やし、文政元年(1818)に復興事業がおわった。この時、妙心寺の塔頭・海福院の法丈が等持院に移され、本堂となった。海福院の方丈は福島正則が造営・寄進したもので、現存する建物のうちの最古のものだと言われる。

表門  切妻造、本瓦葺                江戸時代

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山門から入って進むと庫裏(くり)の玄関に入る表門がある。一門一戸の薬医門で、切妻造り、保瓦葺きで、文化5年(1808)の火災後に再建された建物である。「等持院」の名称が記憶に残る、大きな文字である。

庫裏(くり)  切妻造 本瓦葺           江戸時代

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表門をくぐると、庫裏の玄関になる。左手が住職の住まいとなり、庫裏は御勝手、住居、事務所である。文化5年(1808)の火災後に再建された建物である。後ろに衣笠山の美しい姿が見える。棟に煙出し盧を乗せている。拝観の受付場所であり、ここで入山料500円を支払う。他の寺に比較して、何時も安いと思う。それだけ、知名度が低く、観光客が少ない寺院である。しかし、私は、この等持院の持つ雰囲気が好きで、毎年のように訪ねている。「庫裏が玄関」という構造も好きである。如何にも禅寺らしい。この寺には、国宝、重要文化財の建物がない。檀家もない。入山料も高く取れない。そんな事情があったのか、映画の撮影場として珍重されていた。小さな禅寺の運営はさぞかし大変だろうと思う。しかし、室町時代230年間は、相国寺、等持院、等持寺の三ケ寺は別格であった。それは相国寺は教団統括の僧録司を抱えており、等持院と等持寺は将軍墓所、葬礼の寺であったからである。等持院の室町盛期の収入は千石を超えたと言われる。(大名クラス)諸国にまたがる膨大な寺領は”東班衆”(とうばんしゅう)と呼ばれた会計専門の禅僧がこれを管理していた。東班(とうばん)衆はお経よりも算盤が出来なければ務まらなかった。ともかく、東班衆と言えば室町時代では有能な管理者として引っ張り凧で、ただ単に禅宗寺院に留まらず、あらゆる造営事業に広く活躍していた。”不立文字”(ふりゅうもんじ)の禅僧が、計数に明るく、算盤に強かったというのは信じがたい話であるが、室町時代の禅僧の半数は、実はこの東班衆だったのである。近世の日本では数学が相当普及していたが(和算のたぐい)、それも実は室町時代の東班衆という基礎があっての事かも知れない。

方丈と庭園                  元和2年(1616頃)

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方丈前には庭園があり、勅使門がある。

霊光殿内部                 江戸時代

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方丈の東にある霊光殿は、足利将軍家歴代の肖像彫刻を安置している。その奥の内陣には、中央に利運地蔵(りうんじぞう)と呼ばれる地蔵菩薩立像を本尊として祀り、向って左側には禅宗の始祖である達磨大師像、右側には開山の無窓礎石像を祀っている。霊光殿脇壇には、室町幕府初代将軍足利尊氏像など歴代将軍像が祀られている。但し、五代義量(よしかず)像、14代義栄(よしひで)像を欠いている。等持院の足利将軍木像は、幕末に盗まれている。文久3年(1863)2月22日の夜、尊王攘夷派の志士が等持院に侵入して、尊氏、義詮、義満の木造の首をひきぬき、三条大橋の下で曝した。首にはそれぞれ位牌を掛け、「逆賊」と題した宣告分の立札がそえられていたという。

芙蓉池と本堂                 江戸時代

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庫裏から書院に廻ると、芙蓉池(ふよういけ)が見える。この庭園(西の庭園)は、私は好きである。おとなしくて控えめな庭園であり、庭園として強く主張しない点が好きである。室町幕府を開き、日本文化史上に極めて大きな役割を果たした十五代に及ぶ足利将軍家の文化史上の事績を思えば、その菩提寺の庭園は、もっと注目を浴びるべきであると、専門家は指摘する。西の芙蓉池については、銀閣寺を建てた足利義政が尊氏の百年忌のため、長禄元年(1457)等持院を再興した際に、かなり手を加えたのではないかという説がある。しかし、庭園は手の入れようで大きく変わることがある。私自身は、江戸時代に現在の庭園が完成したと思っている。池の真中に島があり、島と庭園をつながりは、一本の石の橋があるのみである。躑躅の低い樹に覆われている。正面右手に見えるのが本堂である。この本堂は、桃山・江戸初期の武将福島正則によって創建された妙心寺塔頭である海福院(かいふくいん)の客殿として、元和2年頃(1616頃)に建てられた。その後、文化5年(1808)の火災によって等持院方丈が焼失したため、同9年(1809)に移築され、文政元年(1818)に竣工したものである。等持院では一番古い建物である。

芙蓉池(ふようち)と清蓮亭(せいれんてい)      江戸時代

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芙蓉池に、一面に躑躅が咲いた景色であり、あれほど平凡に見えた庭に活気が着く。遥かに庭を隔てて、清蓮亭(茶室)が見える。これが等持院の、私の好きなお庭である。こうやって茶亭を眺めると、庭全体が茶の湯の空間である。書院から見た茶室と築山の配合の妙、数多く配置されたとび石、回遊の心地よい園路などを備えた茶庭と見えるのである。この庭園では茶室建築としての数寄屋建物の役割が大きい。これによって庭園全体の雰囲気が生まれる。利休の侘び茶以前の大らかさ、明るさが、私は好きである。出来れば、この茶室でお茶を飲んでみたい。

池から眺めた清蓮亭                  江戸時代

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現在の庭園は江戸時代中期に整備されたものとされている。小高い丘に茅葺屋根と桟瓦葺の二棟続きのお洒落な茶室・清蓮亭がある、寺伝では、長禄2年(1458)に足利義政が等持院を復興した際に茶室清蓮亭を造営したとされるが、現在は江戸時代中期に庭園が整備された頃の様式であるとされる。

「清蓮亭」上段一畳貴人床           明治時代

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明治時代に付け加えられた上段一畳貴人床である。果たして、こんな床が必要だったのであろうか。私から見ると、余分な建物のような気がする。

心字池と半夏生(下は半夏生に囲まれた池)         江戸時代

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東の心字池(しんじいけ)を中心とする庭園は、庭園関係者の間では夢窓国師が創った池の面影が残るとされる。等持寺の西に真如寺という名の寺があった。真如寺は足利尊氏の側近である高諸直(こうのもろなお)が康営元年(1342)開山を無窓国師の請うて開いた寺である。この真如寺の庭園が、何時か、等持院の東側の庭園に組み込まれたとされる。確かに西の芙蓉池と、東の庭園とは違う雰囲気がある。寺伝の通り、別の庭園を付け加え、東の庭園にしたのかも知れない。芙蓉池に比較すると、やや暗い印象は免れない。池の周りは、夏になると白い葉を付ける半夏生(はんげしょう)で囲まれる。(半夏生とはドクダミ科の多年草で、水辺に生ずる。夏、茎の頂きに白色の葉を生じ、その䈎腋に白色の穂状花を綴る)

足利尊氏公の墓                    室町時代

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芙蓉池と心字池の真中辺りに、足利尊氏公の墓がある。延文3年(1358)の銘がある。足利将軍の墓にしては、小さいような気もする。確かに足利尊氏は延文3年(1358)に、亡くなった。太平記によれば、背の「廱痩」(ようそう)が悪化し、本道・外科の医師が手を尽くし治療にあたったが及ばず、54歳で亡くなったとされている。

 

島崎藤村の大作「夜明け前」の第1部上巻第6章(和宮御降下の下り)に、この等持院・霊光院の尊氏他3人の首を抜き、三条河原に晒した事件が出てくる。第1巻の山場である。文久3年(1863)2月末に、青山半蔵の自宅に一人の訪問者がひっそりと訪ねてくる。平田門人の先輩、「暮田正香」であった。半蔵は、暮田が幕府の探偵につけられていることを察し、土蔵の中へ隠す。そこで、暮田は「平田門人ら9人が、等持院に安置してある足利尊氏以下、二将軍の木造の首を抜き取って、23日の夜にそれを三条河原に晒しものにしたという。暮田に言わせると、徳川将軍の上洛の日も近い。三条河原の光景は、これに対する一つの示威である、尊王の意志の表示である」。島崎藤村は、足利将軍の木造の首を抜いて三条河原に晒した歴史上の事実を、国学者の仕業にしたものであろう。

 

(本稿は、パンフレット「等持院」、古寺巡礼 京都「第34巻 等持院」、日本の歴史 佐藤進一「第9巻 南北朝の動乱」、永井路子「太平記ー古典を読む」、島崎藤村全集「夜明け前 第2巻」を参照した)