紅葉に包まれた北野天満宮

2017年11月下旬に京都・北野天満宮を参拝した。天満宮は言うまでも無く、菅原道真公をお祀りする神社である。現在は、むしろ合格祈願の神様として篤い信仰を受けている。歴史を遡れば、延喜3年(903)、菅原道真が無実の罪で配流された九州大宰府で没した後、都では落雷などの災害が相次ぎ、これが道真の祟りだとする噂が広まり、御霊(みたま)信仰と結びついて恐れられた。そこで、没後20年目に、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を戻し、正二位を贈った。天暦元年(947)、現在の北野の地に朝廷によって道真を祀る社殿が造営された。後に藤原師輔(時平の甥)が、自分の屋敷の建物を寄贈して、壮大な社殿に造り直されたと言われる。永延元年(987)に初めて直祭が行われ、一条天皇から「北野天満宮天神」の称が贈られた。西暦4年(993)に正一位・右大臣・太政大臣の称が贈られた。如何に、天変地異に慄き、天満宮に頼ったかかが判る。幕末の神仏分離令まで三院家の社僧が、代々神官を務めた。天正15年(1587)10月、境内において豊臣秀吉による北野大茶会が開催された。この大茶会の場所として北野が選ばれたことは、聚楽第からもほど近く、秀吉が朝駆けに参詣することも多く、なじみ深い場所であったからだろう。あるいはそれ以上に、北野社が中世以来、詩文の神として一般の深い信仰を集める、庶民群集の場ともなって、京都では祇園とともに東西の遊楽の場でもあったことが原因であろう。江戸時代の頃には道真の温霊としての性格は薄れ、学問の神として広く信仰されるようになり、寺子屋などで当社の分霊が祀られた。明治4年(1871)に官幣中社に列するとともに、「北野神社」と改名された。旧称の北野天満宮に復活したのは、戦後の神道国家管理を脱したあとである。

北野天満宮の大鳥居

楼門

北野天満宮の楼門で、大鳥居から一列に並んでいる。

重要文化財  中門(三光門)           桃山時代

北野天満宮の中門である。この門から拝殿を包む西回廊も重要文化財に指定されている。

国宝  拝殿            慶長12年(1607) 桃山時代

慶長12年(1607)に建立された建物である。入母屋造の本殿と、同じく入母屋造の拝殿の間を「石の間」で接続して1棟とする。権現造社殿である。唐神社の場合は拝殿の左右に「楽の間」が接続して複雑な屋根構成となる。屋根はすべて桧肌葺き。本殿、石の間、拝殿、楽の間を合せて1棟としており、国宝に指定されている。

国宝  拝殿(お土居からみた)       慶長12年(1607)桃山時代

お土居の上から拝んだ拝殿の横顔である。

御土居(おどい)            天正19年(1591)桃山時代

秀吉が農村にせまった間地と刀狩の意欲は、京都にも迫った。それは聚楽第を構想したとき、既に京都という王城の地に根本的な変化を迫るものであった。それは聚楽第を中心とした城下町化の方向である。まず天正18年(1590)平安京の規模に基ずく町割りを整理し、寺町ー高倉間、堀川以西・押小路以南の地域には、半町ごとに南北の道路をつけた短冊形の新地割を断行した。そしてそのうえで翌天正19年(1591)閏正月、秀吉は禁裏西片の六丁町を大名屋敷とすることとし、従前より居住の廷臣らに替屋敷を与えているのである。つぎに市中散在の寺院を東の京極および安吾院付近にあつめ、前者を寺町、後者を寺の内と称した。最後に、同じ年(天正19年ー1591)、総延長五里二十六町におよぶ御土井(おどい)を建設した。東は加茂川、北は鷹ケ峯、西は紙屋川、南は九条という新しい京都の境域を示したのである。いわば聚楽第を中心とした京都の城塞化であった。秀吉はその竣工を、その年の5月に親しく視察した。現在、御土井が残っている場所は少なくなったが、京都市内に何カ所も残る。特に北野天満宮の御土井は紅葉で有名である。

御土井の紅葉

御土井の紅葉を3枚示した。今や、紅葉の観光地として、天満宮御土井の紅葉は、京都では最も有名な観光場所となっている。

 

11月から12月にかけて京都は、紅葉を求める観光客で、満員であり、ホテルもなかなか取れない程である。北野天満宮に事寄せて、是非、今回は京都の紅葉を楽しんで頂きたい。

 

(本稿は、「日本の歴史{第12巻  天下統一」、「ウイキペディア」、「楽々京都」を参照した)