至上の印象派展  ビューレル・コレクション  ポスト印象派編

印象派と呼ばれた中から、いろいろなグループが生まれた。本稿では、ポスト印象派として点描派、フィンセント・ファン・ゴッホ、ポール・ゴーギヤンを取り上げる。3人の共通点は無いが、時期的に印象派の後を継ぐ世代であり、一般的に後期印象派と呼ばれることが多いから、このような区分を採用した。ビューレル・コレクションでは、この後、フォーヴィズム、キュビズム等と呼ばれる前衛画家が大勢出てくるが、「至上の印象派展」には、馴染まない前衛画家は省略をして、まず新印象派(別名 点描派)の登場は、1886年に開催された最後の印象派展においてであった。新印象派の代表的な画家はスーラーやシニャックであった。彼らは、揺れる水面や陽光の移ろいを捉えた印象派の作品に影響を受けた。スーラーが新印象派の記念碑的な大作「グランド・ジャット島の日曜日の午後」を描いたのは1884年であった。またオランダ出身のフィンセント・ファン・ゴッホは、1888年のパリ滞在で、印象主義、新印象主義を知り視覚と技法を一新して強烈な色彩による感情表現への道を歩み始めた。ゴッホとアルルで共同生活に失敗したポール・ゴーギャンは印象主義の感覚主義的な現実描写に対して明快な反対を掲げ1888年にいわゆる総合主義の様式を確立した。従って、この3人を「ポスト印象主義」で一括りすることには無理があるが、あえて、「ポスト印象派」としてまとめてみた。

ジュデッカ運河 ヴェネツィア、朝 ポール・シニヤック作 油彩・カンヴァス 1905年

シニヤックは、1880年にパリで開催されたモネの展覧会を見て画家になることを決意した。間もなくモネやシスレーの影響を感じさせる風景や静物を描き始める。1884年無審査、無償を原則とする新しい展覧会サロン・デ・ザンデパンダンの創立会員となり、「アニエールの水浴」を出品したスーラーと出合う。この作品の点描技術に魅せられたシニャックは、スーラーと共にその理論の研究を更に深め、1886年までには科学的色彩理論に立脚した完全な点描によって作品を制作するようになった。この頃、美術批評をするフェリックス・フェネオンと出合い、彼はスーラーとシニヤックの試みを「新印象主義」と名付け、熱烈に擁護した。シニヤックは終生、新印象主義の理論に忠実で、晩年になるまで点描を続けた。絵画と並んでシニヤックが情熱を傾けたのは船旅であり、ヨットの操縦であった。ヴェネツィアの景勝地を描いた作品も、そういった旅の成果の一つである。画面中央に聖堂をどっしりと配し、手前の運河には何艘ものゴンドラやヨットを浮かべた風景は、大きな点描で埋め尽くされ、まるで空間全体が揺らいでいるように、あるいは靄に包まれているように見える。しかも白い色調で統一されているために奥行きや立体感も稀薄になり、画面が限りなく平面化に向かっている。

古い塔  フィンセント・ファン・ゴッホ作 油彩・板に貼られた紙カンヴァス 1884年

ファン・ゴッホ(1853~1890)の「古い塔」は、1883年12月に両親の住むニューネン(オランダ)に移り住み、以後2年間をこの地に住んだ。「古い塔」は、このニューネン滞在期に描かれた作品である。画家は1884年5月にニューネンの教会堂を管理していたヨハネス・シャフラーから部屋を借り、そこを制作の場としていた。自作の絵画や素描に加え、モデルに着せるための衣装などさまざまな物にあふれたアトリエからは、15世紀末ごろに建てられたとされる廃墟となった教会を目にすることができ、ファン・ゴッホはこの古びた塔を繰り返し画布に留めた。本作品では廃墟となった塔が中心的モチーフとなっている。画家は「古い教会の塔、ニューネン(農民の墓地)」では、この塔の屋根が崩れ落ちた状態を描いている。つまりファン・ゴッホが描きたかったのは、朽ちて行く教会、宗教と、永遠に続く生のいとなみの対比である。人間が作り上げた制度としての教会や宗教はいずれ朽ちていくが、神はなくならない、そして農民のいとなみもなくならない。

自画像 フィンセント・ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァス 1887年

1885年3月、父のテオドルスが急死すると、周りの人々との関係も悪化し、ファン・ゴッホは、ベルギーのアントウェルペンに向かった。翌1886年1月、アントウェルペンの王立美術学校アカデミーに登録し、人物画及び石膏像の素描を学んだ。しかし、ベルギーでの生活も長続きせず、1886年2月末、ファン・ゴッホは弟テオのいるパリに移った。オランダ時代のファン・ゴッホは、バルビゾン派の画家達に大きな影響を受けていた。とりわけ、ジャン・フランソワ・ミレーに深い感銘を受け、ミレーと同じく、暗めのトーンを支配する画面の中に労働に謹み、慎ましやかな生活を営む農民の姿を数多く描いた。パリに出て直ぐに通い始めたフェルナン・コモンの画塾では満足した指導は受けられなかったものの、エミールベルナールやトュールズ=ロートレックら若き画家たちに出会い、芸術について議論し、刺激を受け合った。この時期、オランダ時代の暗い色調を放棄し、明るい色彩を取り入れるようなった。さらに、第8回印象派展を目にする機会にも恵まれた。この時期の印象派展にはルノワール、シスレーらは不参加で、代わりにジョルジュ・スーラーやポール・シニャックら新印象主義の画家が参加していた。新印象派の絵画から色彩対象の方法を深く理解するに至った。また、日本の浮世絵との出逢いも大きな影響を与えた。パリでの生活が2年目を迎えた頃に描かれた本作品では、ファン・ゴッホが色彩への新たなアプローチを試みたことが窺える。画家の背景は、緑、橙、水色の短い線で塗られ、互いの色彩が混ざり合うことなくその明度を保っている。ジャケットの襟の緑の縁には、ピンクの点を配し、茶色との対比でよりいっそう明るさを主張している。パリ滞在中、ファン・ゴッホは30点近くもの自画像を描いたとされる。

アニエールのセーヌ川にかかる橋 ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァス 1887年

1886年にパリに出ると、ファン・ゴッホは印象派の絵画を目にする機会に恵まれた。他の印象派作家と同じように、戸外での制作に取り組むようになった。1887年の夏には、19世紀産業革命によって労働者が増加し、余暇を過ごす場所もできた。パリ光背のアニエールに足を運び、日の光を浴びる風景を描いた。この「アニエールのセーヌ川にかかる橋」に描かれた鉄橋や紅い蒸気船は、近代を象徴するモチーフである。画面奥に描かれた橋の更に奥には、煙を出す工場の煙突が描かれており、郊外の工業化を示す印でもある。アニエールでの制作は、色彩の表現を研究していたファン・ゴッホにとって満足の行く成果を上げていたようだ。ピンクのドレスを身に付けた女性の持つパラソルの赤と川面を彩る青と黄色など、印象派の絵画とは一線を画すファン・ゴッホ独自の色彩表現が綿密な構図の中に発揮されている。

日没を背に種まく人 ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァス 1888年

1888年11月21日に弟テオの宛てた手紙の中で「太陽のような、巨大なレモン色の円盤がある。黄みどりの空にはピンク色の雲がある。地面は菫色だ。種まく人と木はプルシャン・ブルーで大きさは30号だ」と画家が記した作品こそ、ミレーの「種まく人」に想を得て制作された本作品のことである。また、画家は本作品と類似する「種まく人」(ファン・ゴッホ美術館蔵)も制作している。それはサイズを小さく、より激しい色使いと筆触の粗さを特徴とする。(昨年の「ゴッホ展~巡りゆく日本の夢」に出品されていた)本作品には長年のミレーへの敬愛が明確に表れている一方で、アルル時代の画家の関心が認められる。前景には濃紺で描かれた人物が、背景には黄緑色の空にに黄色い夕日が大きく描かれ、色彩の対比は各モチーフの存在をよりいっそう際立たせている。太いリンゴの木は、画面を分断しているが、この構図は日本の浮世絵から借用したものであろう。

二人の農婦 ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァスに貼られた紙 1890年

1888年12月23日、ゴーギャンとの関係が悪化し、精神障害の激しい発作を起こしたファン・ゴッホは自らの耳を切り落す事件を起こす。アルル精神病院での療養で肉体的には回復したものの、この頃からゴッホは、激しい発作に見舞わらるようになり、自身でも精神の崩壊を危惧し始めた。事件の翌月の1月には退院して制作を開始するが、発作を繰り返し、自ら申し出てアルル北東のサン・レミにあった精神病院に入院している。修道院の経営する病院であったが、精神医学の未発達であった当時、この種の病院の実態はむしろ監獄に近かったのでは無いだろうか。本作品は1890年の春に制作された。画面には雪の残る畑で農作業に勤しむ二人の農婦が描かれている。病院の個室の窓から外の景色を眺める日々を送る中で、弟テオから送られたミレーの複製画をもとに故郷のオランダで目にした勤勉な労働者の姿を描くようになった。本作品はそのうちの一つで、ミレーが1857年に描いた「落穂拾い」(オルセー美術館蔵)に想を得て制作された。本作品では、雪の間から緑の葉をつけた作物を掘り起こそうとする農婦が描かれている。厳しい自然の中で、懸命に労働に向き合う農婦の姿を描くことで、ファン・ゴッホは画面に故郷へのノスタルジックな想いを込めたのである。このサン・レミのタッチの渦巻く空の雲は、正にサン・レミのゴッホのオリジナルな渦巻く雲である。

花咲くマロニエの枝 ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァス 1890年

サン・レミとオーヴェル=シュル=オワーズで過ごした最晩年の時期、ファン・ゴッホは、草花や昆虫、樹の枝などの自然のモチーフを描くことが多かった。セーヌ川の支流のオワーズ川沿いの小さな村で、ファン・ゴッホは命を絶つ寸前まで制作に意欲を燃やし、わずか2ケ月に70点もの作品を制作した。この「花咲くマロニエの枝」は、オーベル=シュル=オワーズで制作されたファン・ゴッホの最晩年の作品の一つである。この作品は、ファン・ゴッホがこの段階に至ってもなお、新印象主義のスタイルを独自に発展させていたことを示している。画家の死後、弟のテオは本作品をポール・ガシェ医師に寄贈した。ガシェ医師はファン・ゴッホがオーヴェールに移住してからすぐに親しくなった素人画家で、絵のモデルも務めた。また、同時代の画家の作品を蒐集したことで知られており、ファン・ゴッホの作品も多数所蔵していた。ビューレル・コレクションには7点ありファン・ゴッホの作品の中で唯一の花の絵画である。

肘掛け椅子の上のひまわり ポール・ゴーギャン作 油彩・カンヴァス1901年

ひまわりは、ファン・ゴッホとゴーギャンを結びつける重要なモチーフであった。彼らがパリで出合った時に、ゴーギャンはファン・ゴッホが描いたひまわりのある静物画を称賛し、その小品2点と自身の作品と交換する。またゴーギャンがアルルにやって来ることになった時、ファン・ゴッホは共同生活を送る「黄色い家」を絵画で飾ることを企てて「ひまわり」の連作を制作し始め、ゴーギャンを迎える準備を整えた。さらに、ひまわりが置かれた肘掛け椅子もまた、ゴーギャンにとってダン・ゴッホとの思い出に欠かせないものであった。ファン・ゴッホはゴーギャンと共同生活を送るために、「黄色い家」のために、用意した豪華な肘掛け椅子の方をゴーギャンに差し出し、自らは簡素な藁座面の椅子を使用した。本作には当然ながらこうした経緯が含まれており、ゴーギャンは椅子に自分のサインを入れて自身の分身のように扱い、まるで肘掛け椅子(ゴーギャン)がひまわり(ファン・ゴッホ)を抱くようなかたちで描いている。これらのひまわりのある静物画が完成したのは、ゴーギャンが亡くなる2年前のことである。かれは晩年に懐かしい記憶の糸をほどきながら、すでに亡き友人に思いを馳せて、これらの作品を描いたのであろう。

贈りもの ポール・ゴーギャン作 油彩・カンヴァス  1902年

1891年4月、ゴーギャンは文明化された社会から逃れるために、フランスを離れ、タヒチに向かった。その2ケ月後、首都のパペテーに到着するが、そこには植民地化された町並みであり、失望感を覚えた。その後、ゴーギャンはパペーテから80キロほど離れたマタイエアに移り住み、現地で出合う人々やその暮らしの様子を鮮やかな色彩によって想像を交えて描き、幻想性あふれる作品を数多く生み出していった。その後、1893年9月に再びタヒチに戻った。1901年9月16日、さらなる野生の残る地を求めて、マルキーズ諸島のヒヴァ・オア島に移り住み、最晩年の時を過ごした。この「贈りもの」は、このマルキーズ諸島在住中に描かれた作品である。本作品には、ヒヴァ・オア島で出合った二人の女性が描かれている。彼女たちが佇む小屋の窓からは、別の小屋の屋根が見える。つまり、ここでゴーギャンが描いているのは2階建ての小屋の2階に当たる場所で、画家自らが「メゾン・デュ・ジュイール(快楽の家)」と呼んだ建物の一室である。画面左の女性が花を手に持ち、隣の赤子を抱いた女性に差し出そうとする儀式的な場面、物静かで穏やかな物腰、生まれたばかりの乳児が母親の腕の中に身を委ねる姿勢からは、1901年に制作された「黄金色の女たちの肉体」(オルセー美術館蔵)に通じるような楽園の雰囲気が醸し出されている。新しい生命の誕生を祝うこの光景には、キリスト教美術の図像は描かれていない。しかし、キリスト教絵画の聖母子像の伝統に連なっていることは明らかである。マルキーズ諸島には、生命の誕生を祝うために人々は花を贈る伝統があり、本作品での姿に西洋の祈りのポーズが重ねられている。本作品ではとりわけ女性の肌の表現に画家の関心があることが窺える。

 

今日、ファン・ゴッホとゴーギャンを印象派の画家と呼ぶことは全くない。ポスト印象派と呼ばれることが多い。実際にゴーギャンは、第4回印象派展から5回に亘り印象派のグループ展に参加し、批評家からも印象派と見られた時期がある。それに対し、ゴッホは、最後となる第8回の印象派展を観たとき「不完全で、見苦しく、ひどい描き方」と酷評したが、その後いくつかの展覧会で目にするうちに、次第に称賛へと変わり、印象派の画家は「眼に触れるすべてのものを、画壇で名を馳せている多くの大家より見事に描ける」と評するほどになった。一方、1870年代からパリに暮らしたゴーギャンは、絵筆を執り始めた頃から印象派の作品に親しんだ。株式仲買人として成功した時期には、自らも同時代の作品を取集した。かつゴーギャンは技術や表現だけでなく、印象派の画家を巡る社会的評価にも注目していた。一方、ファン・ゴッホは、印象派を二つのカテゴリーに分けていた。既に評価を得て、大通りに位置する画廊で作品を展示及び販売できる画家とみなした。エドガー・ドガ、モネ、ルノワール、シスレー、ピサロなどを彼は「大通りの印象派」と呼んだ。一方、まだそれほど売れていないスーラー、ポール・シニヤック、ゴーギャン、ロートレック、エミール・ベルナールたちを、彼自身を含め「裏通りの印象派」とした。1888年4月3日頃の弟テオに宛てた手紙で、「ぼくはまさに”裏通りの印象派”で、今後もそのままありたいと思っている」と述べている。一方、ゴーギャンは、かれが疑いなく印象派から多く学んだうえで、新しい表現を獲得していく様に端的に示している。「大通りの印象派」の画家とその作品は彼にとって憧れ、学ぶ対象であると同時に、ファン・ゴッホが「裏通りの印象派」であり続けたいと述べたように,彼ら自身の表現を展開していく足掛かりとなるものであった。

 

(本稿は、図録「至上の印象派展 ビューレル・コレクション 2018年」、図 録「ゴッホとゴーギャン展  2017年」、図録「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢 2017年」西岡文彦「謎解きゴッホ」、国府寺 司「ゴッホ 日本の夢に掛けた芸術家」を参照した)