至上の印象派展  ビューレル・コレクション  印象派編

ビューレル・コレクションは、スイスの実業家エミール・ゲオルク・ビューレル氏(1890~1956)によって収集されたもので、印象派絵画を中心とした、約600点の西洋美術からなるプライベート・コレクションである。彼の興味はフランス印象派にあったが、印象派のルーツを探るために、16世紀から18世紀のオランダ絵画やヴェネツイア派の絵画などを積極的に購入するだけでなく、印象派の理解を深めるために、ナビ派、フォーヴィスム、キュビスムなど、1900年以降のフランス前衛絵画を買い求め、世界でも稀にみるコレクションを形作っていった。2008年に盗難事件にあい、美術館が閉館されたため、以降このコレクションの全貌を確認できる機会は失われた。2020年にこのコレクションは一括してチューリッヒ美術館に移管されることになった。従って、ビューレル・コレクションを楽しむ機会は、日本のこの展覧会が最後となるであろう。今回の展示作品は、64点で、16世紀から18世紀のオランダ派やヴェネツィア派、印象派、ポスト印象派、更にナビ派、フォーヴィズム、キュビスムなど、1900年以降の傑作も多数含まれているが、「至上の印象派展」の名前に惹かれて拝観した美術展であるので、印象派、ポスト印象派に絞って紹介することにした。結論として「至上の印象派展」になったことは、非常に嬉しく、かつ心の癒しとなった。是非、拝観されることをお勧めする。

ベルヴェの庭の隅 エドュアール・マネ作 油彩・カンヴァス  1880年

明るく光に満ちた画面を特徴とする本作品は、晩年のマネが印象派の画家達に影響を与えたことを示している。1874年8月、マネはアルジャントュイでモネとルノワールと一緒に絵画制作に励んだ。この時、マネは戸外での制作を決定的に受け入れるようになった。細かいタッチを重ねて、明るい画面を作り出すモネの影響を受ける一方で、マネは風景を描くよりも人物を研究することに関心を向けたのだった。そして、モデルや友人を自然の中に配して、中心となる人物が周辺の風景と一体化する場面を作り上げることを目指したのである。本作品でも、マネは読書に没頭する紺色のジャケットを着たマルグリットを、鑑賞者のまなざしが向くように画面中心に据える一方で、彼女が周囲の花や草木と調和するように細かいタッチを巧みに用いている。光と鮮やかな色彩にあふれた本作品は、若き画家たちとの交流を示している。通常、マネは「印象派の父」と呼ばれているが、ただの一度も「印象派展」に出品したことは無かった。マネの本心は印象派に無かったのではないだろうかと私は思う。マネの「印象」は、現代人の心に潜む闇を描きだそうとしたのではないだろうか?

ヴェトュイユ近郊のヒナゲシ畑クロード・モネ作油彩・カンヴァス 1879年頃

マネに対し、モネこそ心底からの「印象派主義者」であったと思う。1870年代後半、モネはさまざまな困難に見舞われていた。1877年には最愛の妻カミューユの健康状態が悪化し、1878年にはパリから約60キロ離れたヴェトュイユに移住した。それから1年後に、カミーユは32歳の若さで亡くなった。ヴェトュイユの生活は1881年まで続いた。モネはヒナゲシ畑のその奥に広がる街の光景が見渡せる場所にイーゼルを立て、細かいタッチによってヒナゲシの花を生き生きと描き出している。その繊細な筆の動きは、奥に見える街の風景と明らかに異なっている。モネは燃えるようなヒナゲシ畑の広がるヴェトュイユの風景を描きだした。自然の光景の中に女性や子どもを描くのは印象派絵画の典型例であり、ここでもモネは人物(大人1人、子供3人)を描いている。ヒナゲシの花束を抱える白いドレスを着た女性は、臨終間際のカミューユと見做すことは出来ず、女性の右側に描かれた二人の男児に関しては、その年齢から考えるとモネの二人の息子(ジャンとミシェル)が描かれたと考えるのは不自然で、むしろ描かれた女性はアリスで、少年たちはアリスの息子で、この頃6歳と2歳の子供の可能性が高い。

ジヴェルニーのモネの庭 クロード・モネ作 油彩・カンヴァス  1895年

1880年6月にラ・ヴィ・モデルヌ画廊で開いた個展が好評を博し、その後作品が売れるようになった。経済的な余裕を得たモネは、夫と離別したばかりのアリス・オシュデとその子供たちと暮らすことを考え、1883年4月にジヴィエルニー移って9,600平方の広さを誇る敷地を借りた。そして7年後の1890年11月、モネはジヴェルニーに家と土地を購入し、その庭を自らが思うように手を入れることに専心するようになっていった。モネは絵の知識を生かし、光と影が差す場所を計算しながら広大な土地に色とりどりの花々が咲き誇るように庭を造成した。1892年、その前年に未亡人となったアリスと正式に結婚した。本作品はジヴェルニーの家の前にある「クロ・ノルマン(ノルマンディーの囲いの庭)」の光景が描かれている。アリスの息子ジェルメールの記憶によれば、青いブラウスに赤い上着を重ね、麦藁帽子を被る赤毛の女性は、アリスの連れ子の中でも特にお気に入りのモデルであったシュザンヌである。光りを浴びてアイリス、シャクヤク、ゼニアオイ、バラ、フジによって彩られた「クロ・ノルマン」を描くにあたって、画家は抑揚のある筆致を重ねている。ダリアに手を触れるシュザンヌはその存在を主張することなく、万華鏡のように輝きながらさまざまな色彩に埋め尽くされる風景の中にみごとに溶け込んでいる。

陽を浴びるウオータール橋、ロンドン クロード・モネ作 油彩・カンヴァス 1899年

普仏戦争が勃発した1ケ月後の1870年8月、モネは徴兵を逃れるためにパリを離れ、ロンドンに向かった。ロンドンではシャルル=フランソワ・ドビーニから画商デュラン=リュエルを紹介され、それ以降ドュラン=リュエルはモネをさまざまな形で支援していく。ロンドン滞在でポサロとともにジョゼフ・マロード・ウイリアム・ターナーやジョン・コンスタンブルの作品を積極的に見て回った。1871年1月普仏戦争の休戦協定が結ばれ、同年秋にモネはフランスに戻った。モネは、その後ロンドンを数回訪れている。とりわけ1899年、1900年、1901年の3回の滞在では、国会議事堂、ウォータール橋、チヤーリング橋という大きな建造物を主要なモチーフとする連作を制作した。ロンドン連作は円熟期を迎えたモネの代表作であり、1904年にデュラン=リュエル画廊で37点が公開された。この「陽を浴びるウォータール橋、ロンドン」は正に一連のロンドン連作に属する作品である。モネはテムズ河畔のサヴォイ・ホテルの部屋から見える光景を画布に留めた。画面の中心となるのは1871年に開通したウォールタール橋で、画面右手前には帆船が描かれている。モネはロンドンの近代化を象徴する建造物をモチーフとしながらも、橋の堅牢な構造を感じさせることなく、光が反射する水面と霞(かすみ)が織り成す幻想的な世界を軽やかな筆触によって描き出している。

控室の踊り子たち エドガー・ドガ作 油彩・カンヴァス 1889年頃

ドガの関心は、競馬と踊り子であった。オペラ座の定期会員であったドガは、その舞台裏にも足しげく通い、稽古場の控室の様子を積極的に描いた。また、ドガは踊り子たちが置かれた社会的状況をも示していた。「エトワール」(オルセー美術館蔵)では、舞台上で可憐に舞う踊り子を舞台袖から見つめる黒いタキシードの男性を描き、若い踊り子が娼婦と変わらず、性的な対照として欲望される存在であったことを示している。ドガが踊り子を主題に作品に取り組むようになったのは、1872年頃からである。1870年代後半から横長の画面の中に稽古場の踊り子を描くことを試みる。ドガは、人物の左右のいずれかに集めて描くようになり、時には画面に深い奥行き感を作り上げていた。本作品では舞台の控室で準備をする踊り子たちの様子が描かれている。横長のカンヴァスが使用されているが、画面のトーンが全体的に暗く、群像が画面の大半を占めているため、ここでは奥行の表現は曖昧にされている。絵具は素早く粗いタッチで塗られている。この筆の運びにより人物の顔はぼかされていて、その表情をうかがい知ることは出来ない。

可愛いイレーヌ ピエール=オーギュスト・ルノワール作 油彩・カンヴァス 1880年

1870年代後半から80年代にかけて、ルノワールは洗練された裕福な人々の知遇を得るようになり、その多くは肖像画制作の依頼を受けた。ルノワールとカーン・ダンベール家の出会いも、この時期に当たる。裕福なユダヤ人銀行家のルイ・カーン・ダンベール伯爵とその妻ルイーズは、美術雑誌「ガゼット・デ・ボザール」の編集長であり、銀行家、美術史家、美術蒐集家としても活動し、印象派の画家たちの支援者であったシャルル・エフリュシを通してルノワールと出合った。ルノワールには、カーン・ダンヴェール夫妻の5人の子供のうち3人の娘たちと、伯爵の弟アルベール・カーン・ダンヴェールの肖像画の注文が寄せられた。本作品はカーン・ダンベール夫妻の長女、イレーヌを描いたものである。イレーヌを描いた本作品は、ルノワールによる子どもの肖像画を代表する傑作の一つとして知られている。本作品は1881年のサロンの好評を得たため「ガゼット・デ・ボザール」誌(1881年7月号)にルノワール自身によって制作されたデッサンが掲載された。

夏の帽子  ピエール=オーギュスト・ルノワール作 油彩・カンヴァス 1893年

1881年のイタリア旅行でポンペイの壁画やルネサンス期の巨匠ラファエロによるフレスコ画等に感銘を受けたルノワールは、印象派から離脱してゆく。その後、固い輪郭線を用い、モチーフの質感と量感の表現を追求する古典芸術に魅了され、自身の作品でも実践し、印象派から離れた。このようないわゆる「アングル様式」と称されるスタイルによって多くの作品を生み出したルノワールだが、1880年代後半になると徐々にこの古典様式から離れ「真珠色の時代」に移行する。リボン装飾が付いたレースの帽子をかぶった褐色の髪の少女が、もう一人の金髪の少女が見に付けている麦わら帽子に赤いひなげしなどの草花を飾っている姿を描いた本作品は、この「真珠色の時代」におけるルノワール作品の特徴を示す好例である。

赤いチョッキの少年 ポール・セザンヌ作 油彩・カンヴァス 1880年

「赤いチョッキの少年」は、セザンヌの画業を語る際に必ず言及される高名な作品である。描かれているのは、イタリア出身のプロのモデル、ミケランジェロ・ディ・ローザと伝えられてきたが、詳細は不明である。1886年に亡くなった父の遺産を手にしたセザンヌは、プロのモデルを雇う余裕もあったのであろう。彼にはさまざまなポーズを取らせて、本作品を含む4点の油絵と2点の水彩画を仕上げた。本作品に採用された伝統的なメランコリーなポーズは、セザンヌの1870年代から80年代の作品にはほとんど見られないが、90年代にはしばしば取り上げられている。この作品で特筆すべきは、その鮮やかな色彩のハーモニー、そして長く引き伸ばされた腕に見て取れる、造形的な自立性であろう。少年の頃、長く伸びた腕を覆うシャツ、右端のソフアの上に載る四角い紙は光を反射して白く輝き、その周囲に配された、ヴォリュームのあるカーテン、少年の膝をつく椅子の濃い色調と、鮮やかな対比を見せている。そして、まさに本作の主役とも言えるチョッキが、その内部に置かれることで、色彩のリズムが完成している。もう、印象派というより抽象絵画に近づいているように私は思う。セザンヌは一時期、印象派に近づいたが、本格的な印象派の画家では無かったと思う。

パレットを持つ自画像 ポール・セザンヌ作 油彩・カンヴァス 1890年頃

本作品は、パレットと絵筆を手にしてカンヴァスに向かうセザンヌ自らの姿を捉えた自画像である。その堂々とした体躯は、簡素で無骨な仕事着に包まれている。セザンヌは生涯に、およそ25点の自画像を制作したが、初期の表現主義的な自画像を除いては、画家としての職業や設え(しつらえ)もそこに加えることはなかった。画家の姿だけを簡素に素直に描きだした自画像は、社会から超絶し、孤独に制作に励んだセザンヌの生き方そのものを反映しているように思う。そういう意味で、セザンヌの自画像の中で最大を誇るこの作品は、画家としての姿を明確にしているという点で例外的な自画像と言える。

睡蓮の池、緑の反映 クロード・モネ作 油彩・カンヴァス 1920~26年

1883年に、ジヴェルニーに移り住んだモネは庭造りに熱中し、自宅の前に多種多様な花の咲く「花の庭」を造った。その後さらに拡張し、池を造成して睡蓮を浮かべた「水の庭」を造った。1890年代後半から、この池がモネの絵の主要なテーマとなった。最初の池の連作では、日本風の太鼓橋を中心に、池とその周囲が大きく捕えられていた。その後、1903年から描き始められた連作では、睡蓮の浮かぶ水面の広がりだけで画面が構成するようになった。この「水の池」を舞台にモネは、実に200点以上もの睡蓮の池を描いている。その後、妻のアリスと長男のジャンの死や、白内障による視力の悪化からしばらく制作は滞るが、1914年、地下室に放置されていた睡蓮の花を見付けたモネは、親友の政治家、ジョルジュ・クレンマンソーの励ましもあり、再び装飾画への情熱を取り戻した。翌1915年には、睡蓮の大装飾画のためのアトリエを建てて制作に没頭し、1920年には国家への力作の寄贈も決まったが、最晩年には体力の低下により制作ははかどらず、最終的にオランジュリー美術館に渾身の22点が納められたのは、モネ没後の1927年のことだった。モネ亡き後のジヴェルニーのアトリエには、寄贈されなかった同サイズの装飾画が残されていた。ビューレルは1951年にこのアトリエを訪れ、そのうちの2点(睡蓮の池、アイリス)と「睡蓮の池、夕暮れ)を購入した。これらは、その後すぐにチューリヒ美術館に寄贈された。この(睡蓮の池、緑の反映)は、ビューレルが1952年に新たに購入した作品である。200×425cmという大作の睡蓮の池を見るにのは私にとって初めての体験であり、多分今後も無いだろう。さて、私は、生涯を貫いて印象派であったのは、モネ一人であると思う。改めて、モネ論の一文をものしたいと思う。

 

クロード・モネは批評家から「印象派」における中心的な風景画家と認識されるようになるが、それは特に彼の作品が多面的だったからである。長い時間をかけて探した末に、1883年にモネはセーヌ川沿いにあるジヴェルニーに一軒の家を見つけ、そこを終の棲家(ついのすみか)として手を入れ続けた。「ジヴェルニーのモネの庭」は、後にモネが池のある広々とした風景に拡張していったが、その庭の最初の部分を見せる作品である。そこから出発して、遂にモネは国家から懇望されて、「睡蓮の庭」の大作を寄贈するまでになった。終生変わらぬ印象主義を貫いたモネについては、更に研究を深めて、オリジナルな「モネ論」をいつか展開したい。ここまで書いたら、日経新聞の2月27日(火)の記事に次のような記事があった。「国立西洋美術館は26日、戦後、所在が不明になり、2016年にパリのルーブル美術館で見つかった印象派の画家モネによる油絵「睡蓮ー柳の反映」の寄贈を受けたと発表した。」記事によれば、横4メートル、縦2メートル弱というから、正しくこの「緑の反映」と同じサイズの作品である。修復の上、19年6月に公開するとのことであるので、改めて報告したい。

 

(本稿は、図録「至上の印象派展  ビューレル・コレクション 2018年」図録「モネ展 マルモッタン美術館所蔵 2015年」、吉川節子「印象派の誕生」、中野京子「印象派で近代を詠む」、図録「オルセー美術館 印象派の誕生  2014年」を参照した)