興 福 寺   南 円 堂

興福寺には、講堂が3棟、塔が2塔、その他に南円堂、北円堂がある。南円堂は興福寺の伽藍の主要伽藍の中で、最後に建てられたお堂である。創建は弘仁4年(813)に完成した。本尊は講堂に祀られていた不空羂索観音菩薩像(天平18年ー746)が移された。その後永承元年(1046)、治承4年(1180)、嘉暦2年(1717)の四回の火災に遭うが、その都度再建されている。現在の本尊・不空羂索観音菩薩像と法相六祖像、四天王像は、治承4年の火災後に造られたものである。運慶の父康慶が中心となり、文治4年(1188)6月18日から翌年の9月28日まで、1年4か月をかけて完成させた。南円堂再建事業を指導したのは氏の長者・九条兼実で、その日記「玉葉」には彼が制作現場にしばしば訪れたことが記され、兼実が仏像に高い関心をもっていたことがわかる。南円堂は西国三十三所観音霊場の第9番札所に指定され、興福寺の信仰の裾野は飛躍的に広がった。昭和20年代後半に興福寺を訪れる人は少なかった。「廃仏稀釈」の実例のように感じたことがあった。まだ国宝館も建設されず、阿修羅像など人気の高い八部衆は、国立奈良博物館に保管されていた。しかし、南円堂だけは、拝観する人が多く、目立ったものである。南円堂に日参する人も多く、参拝客のため、お寺では、納経所を毎日早朝の5時から夜9時まで開いていた。大衆信仰の強さに驚いた記憶が残る。

重文  南円堂  本瓦葺  江戸時代(寛正岩年ー1789)

現在の建物は享保2年(1717)の火災後に復興されたもので、寛正元年(1789)の完成までに50年近くかかっている。再建にあたっては八角堂である北円堂が参考にされた。南円堂再建事業を指導した氏の長者・九条兼実は、日記「玉葉」によれば、仏像に高い関心を持っていたことがわかる。現在の本尊・不空羂索観音菩薩像と法相六祖像、四天王像は治承4年の火災後に造られたものである。運慶の父康慶が中心となって完成させたものである。鎌倉時代を代表する名作である。

国宝 不空羂索観音菩薩像  木造  康慶作 鎌倉時代(文治5年ー1189)

南円堂の本尊である。文治5年(1189)康慶の作である。治承の兵火のあと復興された。額に縦の一眼があり、手が八本の三目八臂(はっぴ)の姿である。不空羂索とは、第四の左手に持つ羂索(網)で人々の願いをすべてすくい集めるという観音の誓願をあらわす。。威厳のある風貌で、鎌倉期の造像ながら、天平盛期の重厚さを伝えて迫力がある。10月17日の大般若転読会(てんどくえ)の時だけ拝観できる。

国宝  四天王立像  木造 康慶一門作  鎌倉時代(文治5年ー1189)

四天王立像は、一条寺本の南円堂曼荼羅図などに描かれた四天王のポーズや細部の形式まで一致することから、本来南円堂に安置されいたいたことが確認された。南円堂の諸像は康慶工房が文知2年(1188)から翌5月にかけて造営したことが、四天王像については「南円堂本尊以下修理先例」という記録から、工房内の実眼が担当したことがわかる。ゆったりとした溝や、にぎやかな兜のかたち、やや重々しい体の表現などは、たとえば、治承4年(1178)の東大寺持国天像など12世紀後半の奈良仏師の作例とよく似ている。しかし、瞳に玉を嵌める手法は南円堂の本尊・不空羂索観音像とも共通する。

国宝 四天王の内  増長天立像  木造 康慶作  鎌倉時代(文治5年ー1188)

 

国宝 持国天立像(四天王の内) 木造  康慶一門作  鎌倉時代(文治5年ー1188)

国宝  玄賓坐像  木造  康慶作  鎌倉時代(文治5年ー1188)

法相六祖とは、法相宗のすぐれた僧六人のこと。奈良から平安時代のはじめに法相の教義に通じ、興福寺の法相興隆に貢献した僧を「法相六祖」と呼んで尊ぶようになった。人選については、各種あるようである。ここでは玄賓坐像を取り上げた。

 

南円堂は、現在では庶民信仰の堂であるが、興福寺の堂であるだけに、安置された仏像類は国宝が揃っている。鎌倉期の美の殿堂である。開扉は10月17日の大般若経転読会(てんどくえ)の日のみで関東から概観するには、やや難がある。私は、関西勤務時に一度拝観したことがある。

 

(本稿は、図録「興福寺国宝展  1997」、図録「国宝 阿修羅展 2003」、古寺巡礼5巻「興福寺」、古寺をゆく第1巻「興福寺」、金子啓明「興福寺の仏たち」を参照いた。