興 福 寺   東 金 堂(1) 

興福寺には、中金堂、東金堂、西金堂の3金堂がある。これは奈良時でも珍しい寺院構成である。東金堂は、東にあるので東金堂と呼ばれる。神亀3年(726)、聖武天皇が、叔母にあたる元正太政天皇の病気平癒を祈って建立した。創建時は、須弥壇の敷瓦として水波紋の瑠璃瓦が敷き詰められていたという。6度も被災して、現在の建物は応永22年(1415)の再建であるが、寄棟造りの屋根や太い柱、前1間を吹き放ちとした深い軒などが創建当初の姿を伝えている。

国宝  東金堂  寄棟造 本瓦葺  室町時代(1415)

中金堂が再建されるまでは、興福寺唯一の金堂であり、仏像を拝観出来るのは、東金堂のみであった。後に国宝館が建設され、多くの仏像類が拝観出来るようになった、古い建物で、仏像群が拝観できるのは東金堂のみであった。この東金堂は応永18年(1411)の火災ののち、応永22年(1415)に再興された建物である。奈良時代の規模と形を意識しながら建築された。重厚で堂々とした姿には奈良時代の往時が偲ばれる。興福寺は火災と復興を繰り返したが、建造物も仏像も天平草創期を古典として尊重している。

重分 薬師如来坐像  室町時代(応永22年ー1415)  銅像

東金堂の本尊像である。応永22年(1415)、東金堂の再建と同時に造られた仏像である左手の薬壷(やっこ)は、一般的に薬師仏に必需の持物(じもつ)である。薬師如来は、病気を治し、福利増進をつかさどるとされる。堂々とした像の光背は薬師如来の瑠璃光世界をあらわし、宝塔に安置された如来、七仏薬師や供養菩薩、飛天などが配されている。両脇侍(わきじ)は、日光・月光菩薩である。

国宝  文殊菩薩坐像  木造  鎌倉時代(建久7年ー1196) 定慶一門作

国宝 維摩居士坐像  木造  鎌倉時代(建久7年ー1415)定慶作

 

文殊菩薩は維摩居士(ゆいまこじ)と同時期の作で、定慶かその周辺の仏師の作と考えられる。弁舌にたけた知恵第一の文殊が討論する場面を表す。病にかかった高齢な維摩とは対照的に丸々とした張のある顔と体で、若々しく健康的である。台座と光背も円形が基本となり、台座、隆平が方形である維摩同様に宋時代に流行したモチーフを多く取り入れている。維摩居士は釈迦在世中のころの富豪の在家仏教徒で、大乗仏教の模範とされる人物である。「唯摩詰所説教」に、病気の維摩居士を見舞った文殊菩薩との間で法論をたたかわす場面がみえ、東金堂でも文殊菩薩像と対比して安置する。若くはつらつとした文殊菩薩と問答する病弱な老人の維摩居士を生きた人間として写実的に造形している。仏師定慶(じょうけい)の作で、像内に「建久7年(1196)」の造立銘がある。

国宝 四天王立像  4躯  平安時代(9世紀)

増長天立像      多聞天立像

 

東金堂の四天王立像は国宝に指定されている名作で、平安時代初期の8世紀~9世紀初期頃の作品である。治承4年(1180)の平重盛の兵火で東金堂が焼け、再興された後に別の堂から移された。4体すべて残るが、それ以前の伝来についてはよくわからない。少し寸の詰まった短躯の像で、そのため横幅が広く、奥行きもあって迫力みなぎる表現である。頭部から邪鬼まで、一木のヒノキの造り、像内の内繰り(うちぐり)を作らない全くの一木造である。一木造の隆盛したこの頃の時期を代表する四天王像の秀作である。

国宝  十二神将立像  木造  鎌倉時代(13世紀)

十二神将は薬師如来の守護神で奈良時代からの作例がある。最も古いものは新薬師寺の像である。奈良時代の像の頭には何も付けないが、平安時代後期の東大寺像では一体一体の頭部に子(ね)、丑(うし)、寅(とら)の十二支の動物が標識として付けられている。以後鎌倉時代の作例からは十二神将と十二支獣の関係は不可分となる。各十二神将の名称と像の仕草や形の関連性などの規定はなく、さまざまな姿企が見られるのも十二神将の特色である。

国宝 十二神将(迷羅大将立像) 木造  鎌倉時代(13世紀)

国宝 十二神将(安底羅立像) 木造  鎌倉時代(13世紀)

国宝  珊底羅大将立像  木造  鎌倉時代(13世紀)

 

東金堂は、従来唯一の仏像と共に金堂が拝観できる施設であり、興福寺と言えば、東金堂を思い浮かべる程である。狭い堂内に所狭しと並べられる仏像類は「息苦しい程の」濃密勘が漂う世界であった。南円堂、北円堂など古い建物と仏像類はあるが、公開日程が少なく、常時拝観できる金堂として東金堂は、興福寺の顔であった。

 

(本稿は、図録「国宝 興福寺仏頭展  2013年」、古寺をゆく第1巻「興福寺」、金子啓明「もっと知りたい興福寺の仏たち」を参照した)