興 福 寺  東 金 堂(2)

興福寺東金堂の薬師如来像の頭部は二つある。それは白鳳時代(7世紀後半)の薬師如来像(坐像?)は天武14年(685)、讒言により自裁した蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)の冥福を祈って開眼供養された仏像である。本来、飛鳥の山田寺講堂の本尊として造像されたが、文治3年(1187)、興福寺東金堂衆が強引に奪取して東金堂の本尊に据えたものである。このことは、治承4年(1180)の平重衡南都焼き討ち後の、興福寺鎌倉復興造営のさ中に起こった未曽有の大事件であったが、(藤原氏)氏長者の事後承諾もあって、東金堂本尊として長らく礼拝されることになった。その後、文和5年(1356)の五重塔への落雷による東金堂類焼にさいしても、無事搬出されて事無きをえたが、応永18年(1411)の落雷で、この白鳳薬師仏はついに頭部を残すのみとなった。そして応永22年(1415)に現存の薬師如来本尊が造健され、旧本尊の白鳳仏頭は、新本尊台座の正面に向けて安置された。(墨書)その収納状況から、その当時、白鳳仏頭は依然として礼拝対象として認識されていたと思われるが、台座内安置の伝承もいつしか忘却された。

国宝 丈六銅像仏頭(正面)           白鳳時代(7世紀後半)

この銅像仏頭は、白鳳時代を代表する薬師仏の頭部である。元山田寺の本尊である。大化の改新で中野大兄皇子(後の天武天皇)と組んだ、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)は、乱後右大臣に昇進した。この石川麻呂の一族は、飛鳥の山田の地を地盤としていた。この地は、桜井から安倍を通って飛鳥に入るところにあり、飛鳥への東の入口を押さえる、交通上・戦略上の要地である。蘇我氏本家の氏寺である飛鳥寺(元興寺)に対して、山田寺は石川麻呂という傍系蘇我氏の氏寺であった。山田寺は皇極2年(643)に金堂が建ち、大化改新を経て、大化4年(648)に初めて僧が住むような寺となった。この矢先の大化5年(643)3月に、石川麻呂は中大兄皇子に対する謀反の疑いをかけられ完成間もない金堂で自害した。難波京にいた石川麻呂は、死に場所として自らが建立した山田寺を選択し、妻と子息3人、娘1人を含む8人とも死をともにした。山田寺の丈六の薬師像は、この非業の死を遂げた石川麻呂を弔うために制作された。天武2年(673)山田寺の塔の心礎に舎利を収めて心柱が立てられた。それから3年後のb天武5年(676)に塔の屋根に露盤を上げて、塔は完成した。丈六の薬師如来像は、天武14年(683)3月25日に仏像の眼に瞳を入れる開眼供養が行われた。この日は、石川麻呂が金堂で自害してから37回忌の祥月命日に当たる。この工事を進めたのは、石川麻呂の孫娘に当たる鵜野讃良孝女(うのささらのひめみこ)、つまり後の持統天皇であった。仏頭は丈六像で制作時期が判明する白鳳時代の貴重な作例であり、極めて優れた白鳳彫刻の白眉ともいうべきすがすがしい青年の顔であり、正に白鳳の貴公子である。

国宝 興福寺仏頭(左側正面)  銅像   白鳳時代(7世紀後半)

仏頭を見ると、耳が欠損している。また左耳上の頭髪部に縦に入った鋭角的な深い窪みがある。この損傷は堂が焼けて頭部が落下した時に当たった打撃の痕である。落下した時の衝撃で、頭頂部が飛ばされ、左耳の下辺部も折損し、白豪も失われている。りりしいお顔であるが、痛ましく傷ついている。治承4年(1180)平家の攻撃によって、興福寺は一堂も残さずに焼け落ちた。東金堂は、文治元年(1185)には既に建物は出来上がっていたが、堂内に安置されるべき仏像は同3年になってもまだ造られず、3月上旬に東金堂を活動拠点とする東金堂衆が、飛鳥の山田寺の丈六薬師如来三尊像を奪いだして奈良に運び、東金堂の本尊として安置した。かねがね、この蛮行は何故行われたのかと不思議に思っていたが、2013年の図録の中で安田次郎氏(御茶ノ水大学教授)が「東金堂衆と山田寺薬師三尊像」と題する論文を寄せている。推定が多いが、今まで読んだ論の中では一番問題点を抉り出しているので、要点のみを記したい。ときの摂政九条兼実(くじょうかねざね)の日記「玉葉」では、次のように記している。「別当僧正示されて曰く(いわく)、東金堂衆、宗徒・僧綱等に触れず、また長吏に申さず、自由に山田寺の金堂丈六薬師三尊像を奪い取り、件(くだん)の東金堂に安んじ奉らんと欲すと云々、」これによれば、事件は興福寺当局(宗徒、僧綱=別当)に無断で起こしたものであった。この記述に対し、安田氏は東金堂衆とは何か、何故山田寺なのか、という2点からこの事件を追及している。長い論文なので、結論のみ言えば、東金堂衆とは大和国の武士たちを率いることが出来るような存在、即ち彼ら自身が武士層の出身なのだろうと推測している。金堂衆とは、金堂というよりは、むしろ興福寺の軍隊、部隊として動いた武士層であると考えている。次に何故山田寺を狙ったのかであるが、安田氏は文治2年(1186)に仁和寺は興福寺の末寺である嵯峨野大覚寺を横領したとしている。それに対抗して翌年、興福寺は仁和寺の末寺である山田寺を襲撃したのである。安田氏は次のようにまとめている。「中世の社会には、荒っぽい一面がある。やられたらやり返せ、これが普通のことである。やり返すことが認められていた。むしろ場合によっては、やり返さなければ名誉が保たれないと意識されることもあった。このような場合、報復はむしろ義務であり、名誉を維持するための立派な行動ということになる」。強奪事件から2年半経った文治5年(1189)8月、兼実は興福寺南円堂の観音の参拝かたがた再建工事進捗状況を視察するために奈良に下向した。東金堂で、問題の金銅仏に礼拝し、「事件直後に返却を命じたが、こうして拝見すると東金堂にまさにふさわしい。機縁によってこのような結果となったのだ」とそ日の日記「玉葉」に記している。ときの朝廷のトップが東金堂衆の行為を追認するに至ったのである。東金堂は応永18年(1411)に、落雷で発生した五重塔の火が東金堂に及んだ時には、如来像は頭部を残して他はすべて焼失したのである。その後、応永22年(1415)以来、500年以上にわたって本尊の台座に収められていた。昭和12年(1937)の東金堂解体修理の時に発見されて、大きな話題となった。

国宝 板彫十二神将(迷企羅大将像) 檜材   平安時代(11世紀)

東金堂の本尊・薬師如来を護るのが十二神将であり、元はバラモン教系の神々であったが、仏法に帰依して、東方浄瑠璃世界の教主・薬師如来の護法神・眷属となった。この板彫十二神将が作られたのは、当初の東金堂が消失した後に、新たな堂宇が長元4年(1031)に供養された頃に制作されたものと推測される。厚さ3cm程の檜材の板からさまざまな表情が刻みだされた、わが国の浮彫刻(レリーフ)の傑作である。これらの諸像は、搬送が容易なためか、一時は南円堂など他所に移されながらも一体も失われることなく今日に伝わっている。本来、この板彫十二神将、薬師如来像(白鳳の貴公子)が座る台座の四方を荘厳していた可能性が高いものである。通常は興福寺国宝館の入口に、一列に並んだ十二体が拝観できる。

国宝 板彫十二神将(宮毘羅神将像)  檜材   平安時代(11世紀)

刀を採り威嚇する姿が特徴である。十二神将像は、全体として目鼻・口腔の起伏や手足の重なりがわずかな厚みの中に奥行きをもって巧みに表現されており、製作者たちの技量の高さがうかがうことが出来る。

 

国宝 銅像仏頭は、白鳳時代を代表する傑作であり、その歴史は、興福寺の中世の東金堂衆の荒々しさを今に伝えるものである。また板彫十二神将立像は平安時代の神将像の傑作であり、国宝に指定されている。鎌倉時代の興福寺復興期における十二神将立像と合わせ、そろって現代まで伝えられたことは奇跡に近い出来事だと思う。東金堂の仏像類は、素晴らしい出来栄えの仏像類と思う。

 

(本稿は、図録「国宝興福寺仏頭展  2013年」、直木幸次郎「古代国家の成立」を三sぃ陽)