興 福 寺  西 金 堂 (1)

 

興福寺西金堂(さいこんどう)は、天平5年(733)に亡くなった橘三千代の一周忌の天平6年(734)1月11日に、娘の光明皇后によって建立された堂宇である。橘三千代は藤原不比等の妻であり熱心な仏教信者であった。法隆寺には彼女の念事仏とされる逗子入りの銅像阿弥陀三尊像が残っている。西金堂の内部には、釈迦、両脇侍、羅漢十躯(十大弟子)、四天王、八部神王(八部衆)などが安置されていた。これらの群像のうち、現在では八部衆8体と十大弟子のうち6体とが寺に残っている。その後9世紀初め頃までに阿弥陀仏、不空羂索観音、十一面観音像が安置され、天長2年(825)には新たに十一面観音像が加えられた。永承元年(1046)の火災で堂は焼失したが、仏像は救出され彩色修理が行われ、承歴2年(1078)に再建され堂内に収められた。治承4年(1180)の平重衡の兵火で西金堂は再び焼け、この時は堂と仏像の多くが失われたが八部衆、十大弟子像は救出された。堂は元歴元年には完成していたが、仏像の製作は遅れており文治5年(1189)8月に氏の長者である九条兼実が西金堂に入った時は、まだ白木の状態で完成していなかった。西金堂は嘉暦2年(1327)と享保2年(1717)にも火災にあい、享保の時には西金堂は再建されず、今日に至っている。礎石だけが残り、再建が待たれる。

西金堂の跡地

西金堂は治承元年(1046)の火災で焼失したが、仏像は救出され彩色修理が行われ、承歴2年(1078)に再建され、仏像群は堂内に収められた。治承4年(1180)の平重衡による南都焼討ちで興福寺は、全山余すところなく消失した。西金堂は、養和2年(1182)に再建され、鎌倉時代の仏像が沢山収められた。西金堂の鎌倉時代再興の本尊として運慶が造ったと考えられる木造の仏頭が、国宝館に安置されている。建仁2年(1202)に釈迦如来の脇侍として薬王、薬上菩薩像が造られている。(現在中金堂に安置)また優れた鎌倉仏が運慶の子息康弁などにより造像されている。しかし、嘉暦2年(1327)と享保2年(1717)に西金堂は火災にあい、享保の火災後は再建されないまま、西金堂跡地の石碑が立つのみでである。美しい西金堂の仏像群を安置するためにも、是非西金堂を再建して頂きたいと思う。

国宝 阿修羅像(八部衆のうち) 脱活乾漆造  奈良時代(天平6年ー734)

八部衆とは、もとは古代インドの異教の神々で、獣神や戦闘神、歌舞音曲の神、嗚悪鬼だったものが、釈迦に教化されて、仏法の守護神となったものである。天竜八部衆とも呼び、8人の神から成り立っている。特に、興福寺の阿修羅像は日本で一番愛される仏像である。2009年の「国宝阿修羅展」の東京会場では100万人以上となり記録を作り、未だにこの記録は破られていない。会場は若い女性客で溢れ、阿修羅像のミニチュアは絶大な売れ行きを示し、未だに語り草となっている。この阿修羅像は、八躯中唯一甲を着けていない。上半身裸形で天衣と丈拍(じょうはく)を着け、胸飾、臂釧(ひせん)、腕釧(わんせん)を着け、下半身には裙(くん)を着け、板金剛を履く。顔は少年の相で、美少年である。私は、西金堂を建立した光明皇后は、長男の首(おびと)皇子を幼くして亡くしているので、その青年として成長した面影を、阿修羅像に託したのでは無いかと想像している。なお、制作にあたったのは正倉院文書によれば百済系帰化人「将軍万福」と伝えられている。(八部衆はすべて)奈良時代の仏像で、作者名が明らかなのは、この八部衆のみである。

国宝  五部浄(八部衆のうち) 脱活乾漆造  奈良時代(天平6年ー734)

五部浄は幼い幼い少年というべき年齢であろうか。少し垂れた目、わずかに寄せた眉、後世に描かれたものであるが若干上方寄りの瞳などから、上目遣いの不安げな表情に見える。異形の表現としては、頭部に象を被っている。

国宝 緊那羅立像(八部衆のうち)脱活乾漆造  奈良時代(天平6年ー734)

このふっくらとした頬は少年を思わせる。どのような感情を表そうとしたのか意図を十分くみ取れないが、怒った不満げな表情に見える。異形という点では、額にも目があり、その上方には一角を有する。目尻が少し吊り上がり怖さもある。その怖さはかなり強い怖さである。緊那羅は瞋目ではないが、それに類する形状で、上まぶたの目頭近くに切り込みをつくっている。その目によって憤怒の表情を表すので、瞋目を意識した形状と考えていいだろう。これは怖さよりも異形をねらったものと思われる。

国宝 鳩槃荼立像(八部衆のうち)脱活乾漆像 奈良時代(天平6年ー734)

口を大きく開け、頭髪が逆立ち、目を吊り上げた怒りの表情を表す。目頭も立てて眼部には黒いガラスをはめ込む。表情は人間というよりは獣に近いが、怒りをぶっけるというほどではなく、むしろ性格描写的な色合いが濃い。いま、鳩槃荼と呼ばれているが、「金光明最勝王経」などに説かれる夜叉に当たると考えられる。

国宝 迦楼羅立像(八部衆のうち) 脱活乾漆像 奈良時代(天平6年ー734)

この像は烏頭の姿で表され、少年の相ではない。頭頂部は欠損するが鶏冠があり、口は嘴で、その脇には鶏のように肉垂を表す。瞋目で人の目の形状ではない。まさに異形の姿であるが、見る者との距離感が八部衆のなかで最も近いように感じられるのは、その目の表現のゆえであろうか。迦楼羅の瞳は、別素材を嵌入されているのか黒く光り、それが写実性を高めている。

国宝 冨楼那立像(十大弟子のうち)脱活乾漆像 奈良時代(天平6年ー734)

この像は明らかに老相を呈する。面部の皺は額にとどまらず、目尻や頬にもある。胸部には肋骨が浮き出ている。一点を見つめる視線はいかにも温和で、何事に対しても穏やかでいられる60歳代であろうか。釈迦は説法第一としている。

国宝 須菩提立像(十大弟子のうち)脱活乾漆像 奈良時代(天平6年ー734)

最も若年で、顔には皺はなく、頬には柔らかな張りがある。卵型の頭部からはふっくらとした印象を受ける。優しい眼差し、下唇が広くふくよかな口は若々しい清純さを演出する。眉の形を明確にしないため、ある一つの強い思いは伝わってこない。その顔は、仏弟子として遊行を志す、希望に満ちた前途洋々たる十代後半の青年に見える。釈迦は解空第一としている。

国宝 目健連立像(十大弟子のうち)脱活乾漆像 奈良時代(天平6年ー734)

この像の顔には多くの皺があり、口元に衰えがみられる。老境に差し掛かった年齢である。優柔な雰囲気であるが、眼差しはいまだ衰えを知らない。これまでの経験を活かし、さらに自分の道を追及しようと充実した様子がうかがえる。五十歳くらいであろうか。釈迦は神通第一としている。

国宝 羅喉羅立像(十大弟子のうち)脱活乾漆像 奈良時代(天平6年ー734)

額には皺が二本あり、左目尻の上にも皺がある。年長であることを示している。盲目を表している可能性もある。少し垂れ下がった眉からは力は感じられず、目は閉じてゆったりと瞑想しているようにみえる。その顔は、血気盛んであった時期を過ぎ、諸事に対して落ち着いて対処できるようになる、四十歳を過ぎたくらいではないだろうか。釈迦は密行第一としている。

 

西金堂の彫刻群は釈迦如来をはじめとする二十八体の像が群像として安置されていた。釈迦集会(しゅうえ)の彫刻群である。礼拝の対象である須弥壇にこれほど多くの像が置かれた例はなかった。奈良時代には東大寺法華堂諸像など群像制作が流行したが、西金堂はその始まりとして画期的な意味を持つ。それは天平群像の隆盛のさきがけであった。二十八体の仏像は釈迦如来の他、両脇侍、十大弟子(残ったのは6体)羅㗅羅(らごら)、梵天、帝釈天、四天王、八部衆(8体揃っている)像である。創建時の像で現存するのは八部衆八躯とと十大弟子のうちの6躯、それにいま華原馨(かげんけい)と呼ばれる金鼓んみである。恐らく、東大寺法華堂と並ぶ天平時代の華と呼ぶべき西金堂である。是非、再建され群像が一堂に並べられる様子を拝観したい

 

(本稿は、図録「国宝阿修羅展  2009年)、図録「興福寺の仏頭展  2009年)、日径新聞「私の履歴書 多川俊英氏 28回」を参照した)