興 福 寺  西 金 堂 (2)

興福寺は、中世には大和一国を支配したといわれる。朝廷から任命される大和国司が国務をとらず、鎌倉幕府も守護を置かずにその職務を事実上興福寺に委ねたからである。興福寺は、伽藍の再建過程で大和の庶民に人夫役などの労役を課したり、反米(田一反あたりに賦課される米)を出させたりした。それらは本来勧進(かんじん)と言われた僧侶の呼びかけに応じて行われる自発的な労働参加や寄付であったが、次第に一国を対象とした恒常的課役(租税)に転化していったのである。このようにして成立した大和の一国平均役は、後には寺門半銭(じもんたんせん)と称して銭でも徴収されるようになり、一寺の重要な種入となった。興福寺の大和支配のもうひとつの柱は、武士の掌握・組織化である。これは、保延2年(1136)に始められた春日若宮祭礼(おん祭り)の執行を軸として行われた。祭礼に際しては若宮の神に奉納される流鏑馬(やぶさめ)に国内の武士を動員することは、興福寺及び春日社の当初からの方針であった。大和では鎌倉時代のおわりころまでに、平田党、長川党、長谷川党、戌亥脇党(いぬいわきとう)、蔓上(かずらぎかみ)党、散在党という六つの武士団が順結成され、おん祭りの流鏑馬を一定の方式で勤めるようになっていった。15世紀半ば、京都は応仁の乱の舞台となる。戦乱をさけて貴族たちが奈良をはじめとして各地に疎開した。関白で当代きっての学舎であつた一条兼良など、奈良に逃げてきた規則を迎えて世話したのは、興福寺およびその門跡らであった。乱が収まるまでの約10年間、興福寺は文化の中心として存在したのである。しかし、織豊政権は、この興福寺の大和一国支配を認めなかった。信長や秀吉は、差出(さしだし)や行い、国内の有力武士であった筒井氏に「国内一円(すべて)」を安堵(承認)するなどして興福寺が持っていた荘園や、12世紀以来大和国に対して行使してきた一国支配権などを取り上げたのである。織豊政権が興福寺にあらためて認めた石高は、少ない時で9千石前後、多い時で2万5千石前後であった。次の徳川幕府は、興福寺の朱印高を1万5千石予Tと定めた。これは小大名クラスの石高にすぎず、お膝元の奈良の街に対する位牌も幕府の出先機関である奈良奉行の所管とした。もはや興福寺には立ち直る力はほとんど残されなかった。

国宝 華原磬(かげんけい) 銅造  96.0cm 中国唐代(8世紀)

文献では金鼓と出てくる。奈良時代には西金堂に置かれたが、治承の兵火で大破した。獅子は創建時のものとされるが、他は鎌倉時代に補われた。法会などで打ち鳴らす梵音具の一種である。制作年代については諸説があり華原が中国の名石の産地であることから、寺伝では中国の唐代の作とする。世阿弥の「海人」(あま)では「興福寺の宝の一つ」と歌われる。

重文 仏頭(丈六釈迦如来像頭部)木造 運慶作鎌倉時代(文治2年ー1186)

西金堂の本尊釈迦如来像の頭部であるこが銘文からわかる。享保2年(1717)の西金堂の火災時に頭部のみが救われた。天平彫刻を学習したと思われる若々しく張りのある面の取り方に特色がある。作者は大仏師運慶である。なお、文治5年(1189)の時点ではまだ白木の状態であったことが、日記「玉葉」の記録からわかる。運慶は文治2年(1186)に静岡・願成就院の阿弥陀如来像等を制作しているが、両者はかなり作風が異なっており注目される。現在は国宝館に安置されている。なお、この釈迦如来像の脇侍は重文 薬王菩薩立像、薬上菩薩立像であり、現在は中金堂の両脇侍としなっている。写真は「興福寺 再建された中金堂」を参照願いたい。

国宝 金剛力士像(阿形) 木造  慶派仏師作 鎌倉時代(12~13世紀)

西金堂に安置されていた像。筋骨隆隆とした肢体を執拗なまでに追及した鎌倉時代の仁王像の名作である。口の開閉と動作、裳裾(もすそ)のなびく方向が互いに呼応して見事な空間を作り上げている。吽形像のふくよかさなど一部に土を盛り上げる手法、上半身と下半身を輪切り状に上下に矧ぐ(はぐ)寄木法など定慶の関与が推測される東金堂の十二神将像に共通するものがある。

国宝 金剛力士像(吽形) 木造 慶派仏師 鎌倉時代(12~13世紀)

金剛力士は口を開いた阿形と、閉じた吽形で一組をなし、通常は仁王門などに安置される。しかし、この像は須弥壇に安置されて四天王などとともに壇を守護する役割を担っている。この種の金剛力士像の安置方法は、奈良時代創建期の復古をめざしての再興像であったからである。この金剛力士像は、鎌倉初期の彫刻の特色である写実性と力強さを兼ね備えている。それに加えてこの像では風が意識されている。強風が吹いて両脚の間に裙(くん)を挟み込み、裳裾(もすそ)は横になびいている。また、阿形では左の拳を高く上げて斜め下方の敵に怒りを叩きつけているが、その動きには上から下への方向性が強調されている。怒りは緊張のあまり血管を浮き上がらせるなど、まさに迫真的な描写である。怒りの激しさと、体の激しい動きが一体となった金剛力士像の名作である。

国宝  天燈鬼立像   木造  康弁作  鎌倉時代(建保3年ー1215)

灯篭(とうろう)は両者ともに後代の保作である。四天王に踏まれる邪鬼が立ち上がり、仏に燈明を供えるという発想と、ふと笑いを誘われるポーズには作者のユーモアが感じられる。額には一眼がある。建保3年(1215)の作で、天燈鬼は朱、竜燈鬼は緑に彩色されている。建保2年(1215)の作で、元は西金堂の須弥壇に一対として安置されていたものである。

国宝  竜燈鬼立像  木造 康弁作  建保3年(1215)

天燈鬼が口を開いた阿形、竜燈鬼が口を結んだ吽形であることから、仁王のつもりで造形されたものと考えられる。竜燈鬼の像内には、建保3年(1215)に法橋康弁(こうべん)が造ったとという明記があった。なお天統鬼の作者は不明であるが、私は康弁が対で造ったものと考えている。康弁は、かの有名な仏師運慶の三男であり法橋の地位まで上がっている。鎌倉時代の復興期に新たな創意で制作されたものである。

 

ここに挙げた仏像群は、いずれも鎌倉時代の復興期に造られたものであり、国宝あるいは重要文化財に指定されている。現在はいずれも国宝館に安置されるが西金堂に群像として安置されたようには見えない。出来れば、西金堂を復興し、一群の仏像類を全体像として安置された様を見てみたいものである。西金堂の仏像群は、鎌倉時代の復興像も含めて、極めて出来が良く、名品揃いである。光明皇后の思いが伝わる名品ばかりである。

(本稿は、図録「興福寺国宝展  1977」、図録「阿修羅展  2003」、古寺巡礼奈良5「興福寺」、古寺をゆく第1巻「興福寺」、金子啓明「興福寺の仏たち」を参照した)