興 福 寺(終)  五 重 塔  三 重 塔

興福寺について、7回の連載となり、この原稿が最後の記事となる。お付き合い頂き、誠に有難うごいました。この稿では、興福寺に感ずる「廃仏稀釈の嵐」を考えてみたい。鵜飼英徳氏の「仏教抹殺」(文春新書)を参考にして所謂「 廃仏稀釈」について、その詳細を記録したい。この新書によれば「明治維新」は美しい美談ばかりが語られている。しかし華やかな歴史の影に、目を覆わんばかりのいたましい事実が隠されているのたのである。1868年(慶応4年)に出された一連の神仏分離令に伴う、仏教への迫害・破壊行為「廃仏稀釈」は明治3年(1870)ごろピークを迎え、断続的に明治9年(1876)頃まで続いた。

霞たなびく興福寺伽藍              入江泰吉氏撮影

この写真は、奈良を愛し、美しい写真を撮り続けた入江泰吉氏の撮影になるものである。新薬師寺の近くに「奈良市写真美術館」がある。そこには、戦後、奈良を愛し、美しい写真を撮り続けた入江泰吉氏の写真美術館である。そこでは、入江氏の写真を廉価にで売っている。これが、その1枚である。これは奈良興福寺の五重塔と手前に北円堂の屋根が写る。その奥の建物は、江戸時代に建てられた仮金堂(現在の中金堂の前身)、背後の春日山に連なる高円山には霞がかかっている。三重塔は、低い場所に建っていつため、この写真には写っていない。興福寺の伽藍を遠くから映した美しい写真である。

国宝  五重塔  木造       室町時代(応永3年ー1426)頃

応永33年(1426)頃に完成したこの塔は、京都東寺の五重塔に次ぐ、日本で2番目の高さ(50.1メートル)を誇る。天平2年(730)に光明皇后の御眼で建立されたのが最初であるが、平安時代以降、雷火、兵火などで焼失するたびに再建された。木割が太く、建築様式は和様(わよう)の伝統的な姿である。細く高い姿と屋根の勾配が強い点に中世の特色が見られる。

国宝  五重塔初層内陣         室町時代             釈迦如来坐像、文殊菩薩騎乗像、普賢菩薩騎乗像

創建当時、初層の東西南北に釈迦、弥勒の浄土変(じょうどへん)を表していた。現在は同様の四仏をそれぞれ三尊の形式で安置している。これらの仏像は、15世紀半ばに奈良で活躍していた椿井仏所(ゆばいぶっしょ)の仏師が創り、興福寺一条院に出入りしていた奈良の絵師たちによって彩色が施された。元号がまだ明治になる前の慶応4年(1868)新政府は神仏混淆を改めるべく神仏分離令を発布した。この神仏分離令が契機となり、明治初年から明治10年ごろにかけて、廃物稀釈嵐が吹き荒れたことは有名である。島崎藤村の「夜明け前」の青山半蔵(藤村の父親)は、神道の熱心な信者(国学を勉強した)であった。それまでは、日本中で寺院と神社は一体的な関係にあった。明治政府は、この寺社の伝統的な在り方を否定し、この政策に便乗して過激な仏教排撃運動が展開された。興福寺では門跡をはじめとする僧侶たちの多くは春日社の神官に転身した。さらに明治5年(1872)に興福寺は廃寺と決定されると、同社や寺の周囲のぐるりと囲む「大垣(おおがき)」と呼ばれた築地塀も次々と取り壊された。この五重塔を取り壊すということで入札が行われた。おこれをある人が十五両(諸説あり)で落札した。ところがそれを壊そうとすると足場を組むなど余計な費用が掛かるため落札者は逃げてしまった。仕方ないので時の県令で、廃仏家として有名であった四条隆平(しじょうたかとし)は、五重塔の周りに薪を積んで焼き払うよう命じた。しかしながら類焼を恐れた町民が、焼き払うのはどうかご勘弁願いたいと愁訴したため、困った四条は火を付けることもできなかった。四条が県令を辞めると命令は沙汰止みとなり、五重塔は命拾いをすることとなったという。至難はまだ続く。多川俊英貫主は、父俊乗氏の言葉として「明治初めより戦後間もなくの方が厳しかった。困窮した興福寺は五重塔への登楼で一定の種入を得て急場をしのいだ。今では考えられない無謀なことだった」と「私の履歴書」第19回に述べられている。戦後間もない時期は私の小学校6年生の時で、正に廃仏稀釈運動」より厳しい時代であった。現在、登楼は元より、1階の「初層内陣」も拝観できない。

国宝  三重塔   木造    鎌倉時代

康治2年(1143)に崇徳天皇の中宮、皇嘉門院藤原聖子(こうもんいんふじはらせいこ)の発願によって創建されたが、治承4年(1180)の兵火により焼失した。鎌倉時代初期に再建されたのが現存の塔である。木割が細く、繊細優美な平安時代後期の建築様式を引き継いで造られた。低い場所にあるため、気が付かない人が多い。北円堂から眺めると、はるか下に見える。興福寺は北円堂と並ぶ古い建築物である。

国宝  三重塔初層内部          鎌倉時代

中央部に弁財天を配置する。四面に千体づつ描かれた四方仏は、薬壷状のものを持つ東方薬師以外、ほぼ同様の像容である。また四天柱、長押の柱、扉、板壁などにも宝相華文や仏菩薩浄土の様子などが描かれている。

国宝館                  昭和時代(昭和34年ー1959)

食堂(じきどう)は東金堂の北側に位置していた。食堂とそれに接続する細殿(ほそどの)の遺跡の場所に、昭和34年(1959)に宝物を保存するための施設である国宝館が建てられた。食堂の遺構は国宝館の地下にそのまま保存されている。国宝館には西金堂に安置されていた仏像群や、板彫十二神将など東金堂の遺品も保存されている。この国宝館が完成するまでは、これらの仏像群は概ね、奈良国立博物館に寄託されていた。昭和28年ごろに奈良巡礼する場合には、奈良国立博物館は欠かせない施設であった。なお、川端康成の「舞姫」を読んでみると、昭和20年代初期には、東京国立博物館に寄託されていたようである。時代の変遷を感じる。

 

 

「廃仏稀釈」と言うと、必ず興福寺の五重塔の売却と、15円(15両)の価格、償却処分の話が出る。これは実話らしいが、興福寺は、仏像を売却したり、粗末に扱った事例は報告されていない。鵜飼秀徳氏の「仏強抹殺」(文芸新書)によれば、廃物稀釈について、次のように説明している。日本の宗教は、世界の宗教の中でも特に特殊の形態を辿ってきた。中世以降江戸時代まで、神道と仏教がごちやまぜ(混洪宗教)になっていたのである。祈祷もするし、念仏も唱えるし、祓いもする。寺と神社が同じ境内地に共存するのも当たり前。神に祈るべき天皇が出家し寺の住職を務めた時代も長かった。このように日本ではおおらかな宗教風土が醸成されてきたのだ。しかし明治維新を迎えたとき、この日本の宗教は大きな節目を迎える。新政府は万民を統制するために、強力な精神的支柱が必用と考えた。そこで王政復古、祭政一致の国づくりを掲げ、純然たる神道国家(天皇中心国家)を目指した。この時、邪魔な存在だったのが神道と混じりあっていた仏教である。新政府は神と仏教を切り分けよ、という法令(神仏分離令)を出し、神社に祀られていた仏像・仏具などを排斥。神社に従事していた僧侶に還俗を迫り、葬式の神葬祭への切り替えなどを命じた。興福寺は、定められた「神仏分離令」に従うため、僧籍を離脱し、春日大社の神官となり、130人に及ぶ僧侶はすべて春日大社に移行し、広大な境内地と七堂伽藍だけが残された。金堂は警察の屯所となり、冬場になると凍えるような堂内で警官たちは焚火をして暖を取ったという。薪がなくなれば、堂内に安置してあった天平時代の仏像を引きずりだし、まるで薪割りのように仏像を割り裂いて火中にくべたというのである。これが廃仏稀釈の吹き荒れた明治初年の興福寺の様であった。(鵜野秀徳著「仏教抹殺」より引用した。         私は、この話を信用している訳ではない。明確な資料の出所が明らかでなく、少なくとも、金堂の仏像類を燃やしたという説は、資料の出所が不明である。「漫談明治初年」など極めて出所の不明な文書の引用に頼っていている点が信用できない。確かにその頃、興福寺に僧侶がいなくなったことは事実であるが、天平時代の仏像を燃やしちゃ処は、誇張であり、事実ではないと思う。しかし、概ね、この本の描く世界は仏教にとって、「廃仏稀釈」の嵐、仏像の海外への流出を招いたことは事実である。非常に残念な結果であるが、「戦後の日本の方が、はるかに酷かった:」という父親の乗俊氏の言葉の方が、信用出来ると思う。

 

(本稿は、図録「国宝阿修羅展  2009」、図録「興福寺国宝展 1997」古寺巡礼奈良第5巻「興福寺」、金子啓明「興福寺の仏たち」、中野明「流出した日本美術の至宝」、鵜飼秀徳「仏教抹殺」を参照した)