興福寺  再建された中金堂

奈良興福寺と言えば、奈良を代表する寺院であり、国宝、重要文化財を日本一保有している寺院として知らない人はいない。ところが、古都奈良の散策に欠かせない本として有名な和辻哲郎「古寺巡礼」、亀井勝一郎「大和古寺風物詩」、竹山道夫「古都遍歴」の3誌とも「興福寺」と名付けた章は設けていない。これは、あれ程読み込んだ私にとっても驚くべき発見であった。勿論、文中には「興福寺」に触れ、特に興福寺の仏像には適宜触れていることは当然であるが、項目(章)として興福寺を立てていないのである。何故、誰でも知っている興福寺を「章立て」しないで、古寺巡礼や古寺風物詩が書けたのであろうか。私の昭和20年代の記憶では、興福寺は奈良公園んの一部であり、少なくとも建物として古いものは、東金堂、五重塔、三重塔などはあるが、肝心の金堂が仮本堂でみすぼらしいお寺であった。仏像は沢山あるが、肝心の要となる金堂が無い寺として写った。幸い、日経新聞「私の履歴書」に、現貫主の多川俊英氏が2018年11月1日より29にまで28回に亘り、履歴書とともに興福寺の歴史に触れてみえ、私の知らないことが沢山記事になっていた。この履歴書を参考にしながら、興福寺の各お堂や、仏像を連載してみたい。まず「信仰の起点」と題する第20回の履歴書に、「興福寺は天平回帰、つまり最新の技術と様式で造り直すのではなく、創建当初の姿に近づこう、戻ろうとしてきた」と述べられている。その中に奈良橿原考古学研究所の泉森氏が「興福寺には信仰の動線がない」と指摘され、「あっ、痛ッ」と感じたと述べておられる。正しくその通りである。私の「美」の最初の一文が「興福寺 廃仏稀釈の嵐」と題して、五重塔、東金堂の建物を取り上げ、子規の俳句として、次の歌を引用している。「秋風や 囲いもなしに 興福寺」 子規              さて、中金堂は藤原不比等によって平城遷都の年(710)に、藤原氏の氏寺として丘陵の先端地を整地して伽藍が計画され、最初に建立に取り掛かった金堂である。その完成は不比等の死(養老4年ー720)までには完成していたと思われる。その後7回に及ぶ火災を被り、特に7回目の火災は享保2年(1717)に発生し、その後の再建は仮堂にとどまった。私がみた興福寺中金堂は、その江戸時代の仮金堂であり、到底興福寺の中心となる金堂とは思えなかった。中金堂の再建は、興福寺再建の柱事業として、平成の初め頃から計画され、周到な準備のもと20年以上の歳月をかけて、本年(2018)10月7日から11日まで落慶法要が行われた。実に江戸時代の火災以来300年振りの本格的中金堂の再建であった。

再建された中金堂 平成29年(2018年)

天平時代の中金堂をそのままの大きさで再建された中金堂は、確かに信仰の中心となる立派な建物である。この再建法要にあたり、多川貫主は、次のような挨拶をされている。「本日、中金堂の再建落慶法要を迎え、自ずからの思い出されるのは、かってある識者が公園的形状の当山境内を総覧してー興福寺には、信仰の動線がない。と、言われたことです。このご指摘は、明治このかた雑然とした植栽が行われ、どこが境内の中軸であるかさえ不明瞭な事情を一言で言い当てたものでした。しかし、動線の有る無し以前の、中金堂という中心そのものがそもそも無かったわけで、ここにそれがようやく実現でき、感慨無量という他ありません。」    このご挨拶を記せば、中金堂の興福寺再建の内容をゴタゴタ記す必要は無いだろうと思う。和辻、亀井、竹井の著名な哲学者・文学者が生存されたならば、必ず「興福寺」を一章として、多分東大寺の次に記されたであろうと思う。中金堂の再建は、かっての名著の内容を著しく変更するほど大きな要因であると思う。これ以上、中金堂を飾る言葉は不要であろう。

中金堂の三尊と法相柱

この写真は、新築なった中金堂の三尊と法相柱の一部を映した写真である。中央の釈迦薬師如来坐像は江戸時代(文化8年ー1811)に、仏師赤尾右京が造った仏像であることが、像内墨書銘により明らかになった。この仏像は、江戸時代に再建された仮金堂の本尊として造立された仏像である。左右の薬王、薬上菩薩立像については後に触れる。なお、左端に法相柱が建立されている。これは法相宗の祖師が描かれた柱であり、法相柱と呼んでいる。これが創建当初から存在したかは不明であるが、興福寺の最初の大火(永承元年ー1044)後の再建記録である「造興福寺記」には、、法相宗の再興について記録されている。興福寺は奈良時代以降「法相専寺」を標榜してきたこと、法相柱はその一つの象徴として、比較的初期の頃から存在していたことが推測される。法相柱については、無著・世親から鎌倉時代を下限に法相の教えを確立・発展させてきた14人の祖師を、畑中光享画伯が華やかな天平時代に相応しい群青を背景に描いたものである。柱絵が「千年残る」ことを目指し厳選した絵具・紙を用い、柱に麻布を巻き、漆で固め下張りの紙や三重に張り付けた上から祖師画を重ね合わせたものである。

重分 薬王(右)・薬上(左)菩薩立像 鎌倉時代(建仁2年ー1202) 木造

 

仮金堂の釈迦如来坐像の両脇に置かれていたが、像内銘文により建仁2年(1202)に造られ、西金堂に安置されていた薬王(やくおう)、薬上(やくじょう)菩薩像であることが知られる。これは鎌倉時代の復興像である。これらの菩薩の登場する「法華経」の薬王菩薩本事品(ほんじぼん)に、女人の極楽往生が説かれており、光明皇后の祈りに相応しい像と言える。

重分 四天王立像 康慶作  鎌倉時代(文治5年) 木造

持国天立像            増長天立像

 

南円堂に安置されていた鎌倉時代(文治5年ー1189)の後慶作の四天王立像を、中金堂に祀ってあった。いずれも康慶作で、鎌倉時代の四天王像である。ゆったりとした構えや、にぎやかな兜のかたち、やや重々しい体の表現などは、例えば治承2年(1178)の東大寺持国天像に似ている。しかし、量感のある堂々とした姿は迫力がみなぎっており新時代の感覚が十分にうかがえる。なお、彩色も製作当初のものがよく残ることも貴重である。

 

中金堂は、左右約36.3メートル、奥行きは約23メートル、基壇からの高さは約19.6メートルである。1998年の境内整備着手にはじまり、2010年の立柱式を経て、20年がかりで再建したのである。興福寺整備委員会の鈴木嘉吉座長は中金堂再建の意義を次のように説明する。「興福寺はいわば300年間、へそを欠いた状態だった。興福寺の堂塔のなかでも中金堂は最大の中核施設。繰り返し創建時代の規模・形式で復元されてきた。ところが1717年に焼失してからはそれがかなわなかった」「ながらく信仰の動線のない状態が続いたが、今回はまさに七転び八起きでのぞむ再建」と多川俊英貫主は語る。

 

(本稿は、多川俊英「私の履歴書 全28回日経新聞、日経新聞2018年10月記事、図録「平成再建 興福寺中金堂落慶  2018年」、古寺巡礼奈良第5巻「興福寺」、金子啓明「興福寺の仏たち」を参照した)