芸大コレクション展   後期

この展覧会は、東京芸術大学が保有するー芸大コレクションー(凡そ2万9千点)-を公開し、大学美術館の存在理由を明らかにし、様々な問題点を素直に展覧会に反映させるという意魏があった。初日に入館した時は、観客が少なく(7月14日)不安を覚えたが、流石に後期で、しかも期日が過ぎると(8月18日)、かなりの入館者であった。他の美術館と異なる点は、和服の女性が目立ったことである。お茶の展覧会には和服の女性客が多いことがある。(例えば畠山記念館)芸大コレクション展という性格からして、日本美術の粋、もしくは芸大卒業生等、どちらかと言えば地味な展覧会であり、余程芸大の美術館を見慣れた人以外は参観し難い展覧会であるにも関わらず、和服姿の女性客(かなり高齢)が多いのが不思議であった。

重要文化財 槇楓図屏風 尾形光琳作  紙本金地彩色  江戸時代

山種美術館が保有する伝俵谷宗達作の「槇楓図屏風」を光琳が模写、正確にはそれに修正を加えて独自にアレンジした作品である。まず右端の大木の幹の湾曲を抑え、また右から第3扇の身をくねらせるような木の急角度なねじれを弱め、さらに、原本においおいてやや画面上での役割が明らかでなかった左端の槇の枝ぶりをより安定感のあるものに変え、かつ少し左に移動している。結果として、原本の持つ力強い運動間は弱まったが、平面的な律同感はより鮮明になると同時に、色彩も明るくなって緑と朱の対比が鮮やかになった。明治時代には蜂須賀家に伝来したものである。

柳下鬼女図屏風 曽我蕭白作 紙本墨画淡彩 二曲一双  江戸時代

曽我蕭白は、近年辻惟雄氏の「奇想の系譜」において紹介され、俄かに有名になった江戸時代の画家である。最近まで、伊勢出身と考えられていたが、京都出身で、京都の興聖寺に墓石があることが明らかになった。「群仙図屏風」が有名である。この絵は、謡曲「鉄輪」からの着想で、嫉妬に狂う女が鬼となって、もとの夫を呪い殺そうとする場面である。顔貌部分の損傷がその恐怖を煽る。

重要文化財 不動明王 狩野芳崖作  紙本墨色  明治20年(1887)

フェノロサとともに日本画の改良を試み、その成果を示した作例の一つである。従来の狩野派にはない求心的な構図の彩色の濃淡に工夫が見られる。

重要文化財 白雪缸樹 橋本雅邦作  紙本彩色   明治23年(1890)

第3回内国勧業博覧会に出品された大作である。東京美術学校教綬として新しい日本画の方向を内外に示すための遠近感などが意識されている。岡倉天心の影響が認められる。

ティヴォリ、ヴィラ・デステの池 藤島武二作  油彩・カンヴァス 明治42(1909)年

イタリアへ留学した時のティヴォリでの取材した作品である。藤島は、既に日本で装飾風の独自の画風を確立していたが、フランス・イタリアへの留学は大変勉強になったようであり、様々な作品を描いている。日本では既に独自の画風を確立していたが、滞欧経験は、藤島に色彩の解放と新たな装飾性の志向をもたらした。

村童観猿翁 横山大観作 絹本着色  明治26年(1893)

横山大観の卒業制作であり、「作家の原点」として展覧されたもので、これからしばらく、卒業制作が続く。大観は日本画科率、猿回しの翁は恩師である橋本雅邦を見立て、村童たちは同期生11人の幼顔を想像して描いたという。大観は4年間の学校教育だけで画家としての基礎を身に付けたはじめての日本画家ということが出来る。

砂丘  高山辰夫作  絹本着色   昭和11年(1936)

日本画卒の卒業制作。房総の御宿海岸で、砂丘の風紋の美しさに魅了されたのが制作動機となっている。雄大な自然に感動した作者の心情世界が広がる。いい絵である。

渡頭の夕暮れ 和田栄作作 油彩・カンヴァス 明治30年(1897)

鹿児島に生まれ、はじめ黒田清輝らの指導を受ける。1896年、東京美術学校西洋画科助教綬となるが、翌年4年に編入、卒業。フランス留学から帰国後母校の教綬となりのち同校校長。穏健な作風で官展の重鎮として活躍した。その人の卒業制作である。私の好きな画家の一人である。多摩川の渡し場で舟を待つ人々を描いたものである。夕焼けに染まる空と川の色を的確に捉えた画面は、叙情的で郷愁を誘う。まさしく、和田栄作の制作の原点と言って差し支えない。

稽古  白滝幾之介作  油彩・カンヴァス   明治30年(1897)

兵庫生まれ。はじめ山本芳翆、ついで黒田清輝に師事。1896年東京美術学校西洋画予科3年に編入。1898年卒業。その後欧米へ7年間遊学。1911年帰国の後は官展に作品を発表。外光派表現を取り入れた穏健な画風を示した。1952年に日本芸術院恩賜賞を受賞。この卒業制作は、黒田清輝の外交派の影響を強く受けている。下町の日常風景を描いたものである。

草花鳥獣文小手箱 松田権六作  金沃懸地  大正8年(1919)

蓋内部で大きく口をあけて吠える獅子と表の鹿や兎と各種の鳥が逃げ惑う描写により、百獣を怖れさせる威力を持つ獅子吼(ししく)という釈迦の説法の譬えを表わす。表面には漆に金粉を全体に蒔き、漆の固まらないうちに一気に動物の輪郭を針金で引っ掻き、金銀の箔片を散らす。卒業時の成績採点では百点満点がつけられた。当然だと思う。

重要文化財 日本婦人 ヴィンチェン・ラグーザ作銅像 明治13年(1880)

ラグーザは工部学校の教師として彫刻科教師をつとめ、日本滞在中に著名人の銅像を作成すると同時に「日本婦人」、「日本の大工」といった身近な人々を生き生きと映し出した秀作を残している。この「日本婦人」の石膏原型は重要文化財に指定されている。明治14年(1881)の第2回内国勧業博覧会に出品され、大いに注目された。本作品は、昭和33年(1958)に原型から鋳造された作品である。

裸婦  原 憮松作 油彩・カンヴァス  明治39年(1906)

岡山に生まれる。洋画家多賀清光、平野雄也に学ぶ。1904年渡英。古今の名画を模写し、イギリスで高い評価を得た。明治期における本格的な油彩技法を習得した画家の一人であるが、1907年の帰国後、作品を発表する機会に恵まれず病没した。本作品は平成25年度に画面洗浄等の処置を、芸大で施した「修複作品」である。

黄泉比良坂 青木 繁作 紙・色鉛筆・パステル 水彩 明治36年(1903)

第1回白馬会賞受賞作、黄泉比良坂(よもつひらさか)とは、古事記の一場面で、それが水彩や色鉛筆で幻想的に表現されている。本紙の波状の折れ等に対し変形修正等の処置が施された。「修複作品」の事例である。私は、青木繁の生涯」を追い、手に入る限りの写真を集めて、いずれ、この恵まれない天才画家の生涯を、この「美」でまとめてみたいと思っていた。この「よもつひらさか」がどこに所蔵されているか不明であったが、思いがけない処で、遭うこと出来、かつ写真も入手することが出来た。非常に喜んでいる。

 

後期は、江戸時代の琳派の名品や、明治時代初期の日本画、洋画、卒業制作、修復作品など幅広く紹介した。思いがけない青木繁作の「よもつひらさか」に出会えるなど、寄寓もあった。卒業制作は、正に作家の原点であり、力作を作成した作家は、その後も大家に成長した作家が多い。しかし、萬 鉄五郎氏のように、ゴッホやマチスを思わせるような「裸体美人」を卒業制作にしたことにより、黒田清輝教授の反対により、卒業成績を下位に落された(と思われる)事態も発生している。しかし、作家の評価は大学の教授が決めるものでは無く、万人の眼で決められるものであり、結果として、学校の卒業順位はさして意味が無いこともある。

 

(本稿は、図録「芸大コレクション  2017年」、図録「明治ニッポンの美    2015年)、図録「燕子花と紅梅図  2015年」、土方定一「日本の近代美術」を参照した)