芸大コレクション展  前期

東京芸術大学は、今年、前身である東京美術学校の設立から130周年を迎えた。官立の美術学校としては、明治9年(1876)に開校し明治16年(1883)に廃校となった工部省所管の工部美術学校があったが、それは文明開化の時代を象徴する「西洋技術の獲得」という一過性の役割を持ったものであった。それに対して明治20年(1887)に設置された東京美術学校は、近代国家の形成期にあたって文明国の世界表準を備えるため、美術教育を奨励する新しい国家政策の柱として期待された文部省所管の機関である。東京美術学校の創設、開佼に深く尽力した岡倉覚三(天心)は、学校運営のなかに参考美術品の蒐集、学校関連品の収蔵という、コレクションの蒐集と活用を組み込んだ教育方針を草案した。この方針に沿って、初期の東京美術学校では生徒が制作の参考とするために有数の古美術品を購入している。今日、国宝、重要文化財などの指定を受けている名品の数々が所蔵されているのは、この草創期の蒐集実績によるところが大きい。        芸大の保有する芸大コレクションは、現在およそ2万9千点に及ぶものである。この度の、東京芸術大学130周年記念ー「芸大コレクション展」-は、芸大コレクションはどうあるべきか、今後どうするのか等、様々な問題を素直に展示に反映させることによって、この大学美術館の存在理由を明らかにしていきたいと考えた展覧会である。(吉田亮氏の見解)                      これだけ大きな展覧会であるが、入場者数は思いがけない少ない人数であった。(7月14日現在)。例えば、グッズ売り場で、図録や写真を購入していたのは、私1人であった。これだけの名品を揃え、高校の日本史では必ず目にする名品の数々を、何故、もっと多くの人が見学しないのか?実に不思議に思う。西洋美術館の「アルチンボルド展」が大入りであるのに対し、何故、日本の古代及び近代美術の名品を拝観しないのだろうか?1回で800円、2回券1300円(2期展示があるため)と割安で、国宝、重要文化財が多数拝観できるチャンスである。是非、拝観して頂きたい。近代日本の西洋画の重要文化財指定作品は20件だそうである。その中の4点を、この展覧会で見ることが出来る。美術愛好家でなくても、話題豊富な展覧会である。展覧会の構成は次のようになっている。

テーマ編                                 名品編 平櫛田中コレクション 卒業制作  作家の原点  現代作家の若き日の自画像 真似から学ぶ、比べて学ぶ  石膏原型一挙公開  芸大コレクションの修復

アーカイブ編                               藤田嗣治資料   記録と制作ーガラス乾板・紙焼き写真から見る東京美術学校

第1回は「名品編」をまず、見て行く。

国宝 絵因果経 紙本彩色墨書 26.5×1100.5cm奈良時代(8世紀)

絵因果経は仏伝経典の一つで、釈迦の前生における善行から説き起こすが、主として釈迦の誕生から太子時代の事績、続いて出家、山中の苦行、降魔成道、初転法輪を述べ、最後に太子の出家入団に至るまでを叙し、多くの仏教経典と同様に釈迦の前半生を取り扱っている。

重要文化財  菩薩立像  銅像 高 43.4cm  白鳳時代(7世紀)

法隆寺献納宝物48体のほかにも、各地の寺に飛鳥、白鵬時代の小金銅仏が伝わっている。これらの小金銅仏は、古代の人々の念持仏(ねんじぶつ)として制作されたものであろう。30~40cm程度の大きさの像が多いこと、朝夕祈りを捧げるのにふさわしい、親しみやすいお顔つきに作られている点も、このことを訟している。本作は、端正な白鳳様式をみせる金銅の菩薩像である。頭部の三面宝冠、胸から腰を飾る瓔珞、翻る天衣等華やかに装飾されている。お寺の名前が不明なのは、廃仏毀釈の時代に、学校が入手したためでは無いだろうか?

美人(花魁) 高橋由一作  カンヴァス・油彩    明治5年(1872)

作品の中に署名、年紀は無いが、裏には「長崎/美人油画 高橋由一筆」とある。明治5年作については異論が多々あったが、現在は明治5年とされている。新吉原の花魁・こ稲を描いたものである。わが国最初期の油彩による肖像画である。技術的な未熟さに関わらず、写実への意欲がみなぎる作品である。

重要文化財  鮭 高橋由一作  紙・油彩   明治10年頃(1877)頃

明治30年(1897)5月付で「鮭」は東京芸術大学資料館に収蔵された。納入者は小林万吾氏である。現在のように表具仕立てになったのは昭和10年(1935)頃であるが、修理記録は残されていない。修理される以前は、鮭を描いた部分以外の紙には波状の襞ができていた。高橋由一の代表作であるが、この作品には署名・年紀がない。また「鮭」と題する作品は、少なくとも3作ある。1994年の「高橋由一展」で3作が並べられたことは記憶している。比較すれば、本作が一番優れている。ざっくりとしたタッチで、荒縄、鱗、ヒレ、赤身などそれぞれの質感を描き別ける。その迫真性は近代日本洋画の幕開けを告げる作品であった。

重要文化財靴屋の親爺 原田直次郎作カンヴァス・油作 明治19年(1886)

灰色のバックの前に、仕事着を着てやや斜めに身構えた靴屋の親爺の半身を力強い写実的な手法で描き出した力作である。禿げ上がった額、深く落ち窪んだ眼、豊かな髭のなかにしっかりと結ばれた唇等、相貌の個性的特徴を余すところなく捉えられ、かなりコントラストの強い明暗の効果によって、ほとんどドラマチックなまでの表現力を見せている。この作者が、森鴎外の「うたかたの記」のなかで、日本人画家巨勢(こせ)として登場してくる原田直次郎で、この作品は明治19年(1886)、ドイツ留学中のものである。

重要文化財 収獲 浅井忠作 カンヴァス・油彩 明治23年(1890)

明治23年(1890)の第2回明治美術会展に出品されたもので、浅井忠代表的名作である。明るい日ざしを受けながら取り入れの作業にいそしむ農家の人々を、褐色を主調とした柔らかい色調のなかに落ち着いた抒情味を湛えながら見事に描き出している。ここには何とかして対象に肉薄しようとする高橋由一のあのドラマチックな緊張感はもはや見られないが、その代わり、的確な空間構成の中に、風景も、人物も、さらには空気や光までをも巧みに捉えて、一つのまとまりある画面を作りだしいるところは、空間を統一的に把握する成熟した眼の存在を物語っている。この作品によって、はじめて日本人の体質に根ざした写実主義が生まれたと言われる。

婦人像(厨房) 黒田清輝作 カンヴァス・油彩  明治25年(1892)

本作はパリ郊外のグレーシー=シュエル・ロワンにて豚肉屋の娘マリア・ビヨーをモデルに描かれた作品である。戸口で椅子に腰かけこちらをじっと見つめている女性は、男物の上着を羽織り、画面左奥上から差し込むやわらかな逆光に照らされている。黒田はグレーでマリアの姉の家に投宿しており、本作に描かれているのはその家の台所であると見られている。その前の作品である「読書」が、わざわざ衣装をそろえて描いたのに較べて質素な作業衣着風の衣服を身に付けていることからも、あるいはそうした生活の中から自然に生まれた作品かも知れない。黒田は、秋の景を描いた油彩1枚とともにサロンに提出したが、作品は2点とも落選した。黒田は「まことにびしびなことにてめんもないことでございます」と養母に書簡を送っている。しかし、一方で師であるラファエル・コランが本作を評価したこともあってか、同年8月に日本へ手紙を送った際には「どこに出してもまた人がなんとゆってもはずかしはないつもりです」と養母に書き送っている。私は名品と思う。

重要文化財 悲母観音 狩野芳崖作  紙本彩色 明治20年(1887)

芳崖の絶筆となった「悲母観音」は、晩年を芳崖がフェノロサと共に挑んできた日本画革新運動の終結点であると同時に、次世代に受け継がれた近代日本画の出発点として位置付けることができる。狩野芳崖は、かの桃山時代以降の狩野家を継ぐ日本画の大家であり、下図を見ると(これも重文)、逐次狩野派から近代日本画家へ転身する様が見て取れる。「日本画再生の原点」とも呼ぶべき大作である。観音と童子の組み合わせは伝統的なものだが、少なくとも空中で球体に包まれる嬰児のポーズは一般的な仏画には見られない。下図を重ねながら芳崖が創造したものである。芳崖はもはや仏画を描こうとしたのではなく、母の子を思う愛という普遍的な主題を絵画表現したものであり、奥行きや空間表現とも相まって、近代的な絵画の在り様を示している。

白頭  前田青邨作  紙本淡彩   昭和36年(1961)

前田青邨は岐阜県生まれ。上京して梶田半古の塾に入る。1914年再興日本美術院の同人となる。1929年「洞窟の頼朝」を発表・1935年帝室技芸員。1951年東京芸術大学日本画科教授となる。法隆寺金堂壁画の模写事業に尽力した。本作は、喜寿を迎える画家の自画像である。青邨は鏡を見つめるのではなく、制作に打ち込む自分の姿を客観的に捉えることで自己の肖像画にした。

径(みち) 小倉遊亀作  板・彩色    昭和41年(1966)

滋賀県に生まれる。旧姓溝上。奈良女子高等師範学校卒業後、教職の傍ら安田靫彦に入門、1932年女性で初めての再興日本美術院同人となる。1961年「母子」で日本芸術院賞を受賞。1973年勲三等瑞宝章。1976年日本学芸員会員。1980年文化勲章を受章。                      本作は、明るく、温かく、たのしいもの。遊亀はふと思い浮かんだその印象を絵画化するために、女性、子供、犬で構想を練り、本作の構図に至った。見るだけで楽しくなる画面である。名品として推奨したい。

 

第1回は「名品」の部にすべてを割いた。まさに日本の美術史(通常高校で学ぶ日本史)の教科書を見る思いで、日本の近代洋画、近代日本画を生み出すための苦難の時代を物語るものである。本稿とは離れるが、資料の部に「藤田嗣治資料」が含まれていることに違和感を覚えた。勿論、藤田氏は芸術大学卒業であり、ここに資料が存在することには異論がないが、晩年にはフランス国籍を得て、日本に帰国する意図は全くなかった。その藤田氏が何故、大量の資料を芸大に残したのか?芸大に寄贈された資料は、5,808件に及び膨大な資料であるが、それは夫人君代氏からの寄贈であった。記録魔とも呼びたくなる、精密な資料である。出展しているのは数点であつたが、私が一番知りたい戦後の日本の「戦犯問題」に関する重要資料を見つけ出したのである。書類の名称は、不確かであるが「確認書」と書いてあったように記憶する。占領軍に対して、自分(藤田氏)が戦犯に該当しないことの証明を求める書類であり、占領軍より、「戦犯に該当しない」との回答書であった。藤田氏は1947年(昭和22年)の2月6日の日記に「追放なし」と書いている。更に翌2月7日の日記には「お祝いする 赤飯たく」と記している。(図録181ページ)図録の写真によれば、昭和24年3月2日付のビザには、1947年4月14日付指令に基いて「連合国最高司令官により許可された日本国民であるに相違ないことを証明する」とされ、日本国外務大臣吉田茂が捺印している。戦争画に対する世間の評判から(実は日本人画家の嫉妬)、藤田氏は戦犯に指定されて、極刑にされるとの噂が流れたことがあった。同僚の荻巣氏が渡仏することを羨んでいた時であるだけに、さぞうれしかっただろうと思う。同年5月29日の日記には、「仏領事館より仏へ渡航許可外務省より来れりとて出頭せよ通知うれしくて君代涙す」とある。藤田氏の心情が心から理解出来る資料であった。これも本展覧会を観た余禄である。

 

(本稿は、図録「芸大コレクション パンドラの箱が開いた」、図録「ダブルインパクト 明治ニッポンの美 2015年」、図録「黒田清輝 日本近代絵画の巨匠2016年」、図録「明治100年 高橋由一展  1994年」、現色日本の美術全30巻のうち「第27巻 近代の洋画」を参照した)