茶碗の中の宇宙   楽家一子相伝の芸術

桃山時代は、政治史では天正から慶長(1573~1614)までの四十余年を指し、また文化的には江戸初期の元和(げんな)年間(1615~23)まで含めても、五十余年の短期間であった。にもかかわらず、この時代の文化は飛躍的な発展をして、ようやく近世的な息吹を示している。従って清新さにあふれている。楽焼は、この時代(今から450年前)に、千李休の指示のもとで長次郎という人物によって創造され、一子相伝と言う形態で今日まで続いている。この楽焼は茶器の焼成を専らとし、造形は「ロクロ」を使わずに、指先のみの手こねで制作した。同時代の瀬戸や唐津にくらべると異色の焼物であり、日本の陶芸の中でも他に類を見ない独特の美的世界を作り上げてきている。特にその美意識と思想性は「侘び」という言葉に集約され、その美意識は禅、タオイズム等と深い精神的繋がりをもち、日本の精神的土壌に深く根を下ろしていると言えよう。当時長次郎および長次郎の家族は田中姓を名乗ったが、安土桃山時代の天下人(最高権力者)であった豊臣秀吉より楽の印を賜り、楽焼という名称が生まれ、それはやがて楽家という家の姓になったという。以来、450年にわたって楽焼は、日本陶芸史において重要な役割を果たしてきた。

重文 黒楽茶碗 銘大黒(おおくろ)初代長次郎作桃山時代(16世紀)楽美術館

楽家初代であり、楽焼の創始者である。渡来人・阿米也の子とされる。阿米也は中国・明国より三彩陶(素三彩、あるいは華南三彩)の技術を日本に伝えた人物と考えられる。この技術が楽焼の釉技の基本となった。長次郎の妻は田中宗慶の孫娘とされる。田中宗慶は楽家血脈上の直系の家祖であるが、長次郎は田中家の婿として宗慶らと共に楽焼を営む。李休の創意を受け、利休が大成させた「侘茶」の精神を色濃く表した一碗の赤色(土色)の茶碗を制作、さらにその後、黒楽茶碗を完成させる。これが楽焼の始まりとなる。大黒は、利休の侘びの思想が最も濃厚に反映されている作品である。楽の典型的な姿である。腰が丸く、ふっくらとしている。口縁はやや内へ抱え込み気味で、平である。高台は丸く、高台内に兜巾渦巻がある。見込みには茶溜りがなく、丸く、広々とした感じである。茶色味を帯びたやや光沢のある黒釉が塗られている。千李休所持と伝わる。

重文 赤楽茶碗 銘 無一物 初代長次郎作 桃山時代(16世紀) 潁川美術館

 

「無一物」の銘は六祖禅師慧能(えのう)禅師の偈頌(げじゅ)から取られた。高台が丸く、中に兜巾(ときん)渦巻がある。高台のまわりに竪しわがある。口縁は平に近く、見込には茶溜りがない。赤釉はかさかさした感じで、粉を吹いたような肌である。色は薄い赤色である。一切の装飾性を抑え、削ぎ落とした志向性は、簡素化を推し進める抽象表現を感ずる。

重文 赤楽茶碗 銘太郎坊 初代長次郎作 桃山時代(16世紀) 表千家今日庵

「大黒」と全く同じ形である。腰が丸くふっくらとしている。口縁はやや内へ抱え込み気味で、平である。胴に少しへこみがあるが、腰がふっくらと丸い。高台は大黒と同じである。胎土に子砂が多く、肌がさらさらしている。赤色は薄く 、見込みの方がやや濃い。利休が愛宕山の太郎坊の頼みで作ったとされるものである。長次郎は「寿楽土」と呼ばれる聚楽第付近から出る土を用いて制作したと言われる。

重文 黒楽茶碗 銘 青山 三代道入作  江戸時代(17世紀) 楽美術館

三代道入は、二代常慶の長男である。別名「のんこう」の愛称で呼ばれている。本阿弥光悦と親交が深い。光悦が京都・鷹峯の土地を拝領するのは元和元年(1615)、光悦58歳の時である。その時、道入は17歳の青年であった。その後道入は光悦が亡くなるまで長きにわたって光悦と親しい関係を持ち、光悦の茶碗を焼くなど作陶にも協力する。また光悦から、茶碗を造るということに関して大きな影響を受け、光悦の芸術性、新たな造形へ挑む精神を学んだようである。装飾を極限まで切り捨てた長次郎茶碗の伝統に、軽やかな装飾を持ち込む。艶やかな黒釉に抽象的な文様、黄抜けの意匠を表し、黒釉が抽象文に流れ入って自然な変化を加える。

重文 赤楽茶碗 銘 鵺(ぬえ)三代道入作江戸時代(17世紀)三井紀念美術館

この茶碗は、口縁にやや変化があるが、平に近く、美しい赤色で、艶がある。胴部中程に見る不思議な黒い景色。銘は、正体不明の文様を、平安時代に御所に夜な夜な出没した怪鳥「鵺」(ぬえ)にちなんで付けられた。おそらく刷毛で意識的に描いたものだが、どのような釉薬を用いたのかは不明である。野々村仁清の装飾とは異なる発想である。腰は丸く、ヘラの切りまわしがあう。

重文黒楽茶碗銘雨雲(あまぐも)本阿弥光悦作江戸時代(17世紀)三井紀念美術館

刀剣の鑑定や研磨を生業とする本阿弥家、本阿弥光二の子である。寛永の三筆に数えられる。書だけでなく、陶芸や蒔絵など、多くの分野で活躍し、琳派様式の創始者でもある。楽家とは、法華、日蓮宗の信仰を同じくして親しい関係を結んでいたようである。光悦は楽家二代常慶、三代道入の指導・協力を得て、京都・鷹峯を拝領、所謂光悦村を開き、そこで自由気ままな作陶を始めた。それら楽茶碗の制作には楽家二代常慶が手ほどきをし、そのほとんどは楽家の窯で焼かれた。光悦の茶碗は、風流に生きた人の手すさびであったから、その作風は誠に自由で、こころの働くままに手と箆を駆使して形成している。口造りに鋭く平らな箆目をつけたこの茶碗には、長次郎や道入には見られない迫力が感じられる。高台を極度に低く削り出し、まるい腰から直線的に立ち上がった姿は光悦の独創であり、前面にかけたものを一部掻き落としたと見られている釉は、あたかも驟雨(しゅうう)を伴う雨雲のような趣きであることから「雨雲」と銘されたものであるが、一説には、この釉調は窯中で自然に飛び散ってできたものではないかとも推測されている。

重文 赤楽茶碗 銘 乙御前(おとごぜ) 本阿弥光悦作 江戸時代(17世紀)

ふっくらと花の蕾が開くような愛らしい一碗、光悦の赤楽茶碗を代表する作である。口部を三角形に変型させ、口部一方を端反らせ、他方は内に抱え込ませている。左右非対称の動きを巧みに表現している。胴部から腰にかけた丸みは光悦独特の造形、高台は底部からめり込んでいる。いずれもこれまでの楽茶碗には見られない独創的な造形である。なお、楽家とは離れた存在である光悦作品を楽家の作品に混ぜて展覧した企画者には篤くお礼を申し上げたい。実にありがたかった。

赤楽茶碗 家祖年忌 12代弘入作  1890年(明治23年) 楽美術館

十一代慶入の長男で、15歳で家督を継いだ。弘入も父・慶入と同じく明治維新前後の茶道の衰退した時期を過ごしているため、代を継いだばかりの20歳前後の時期は、楽茶碗の制作にも依頼は少なく苦労の日々を過ごした。そうした事情も反映し、実際に作品を世に出せたのは25歳の頃であった。34歳の時(1890年)に父・慶入と共に、長次郎三百回忌を行い、赤楽茶碗300碗を制作しているが、この作品である。この頃から茶道具界の活気が戻り始めた。若い時の作であるが、好入はさまざまな箆を用いてこの茶碗を制作している。

黒楽茶碗銘林鐘(りんしょう)14代 覚入作1959年(昭和34年)楽美術館

13代惺入の長男。第二次世界大戦に従軍し、昭和20年(1945)に帰国するが、父・惺入はすでに1年前に他界していた。混乱の中で楽家を立て直し、晩年には、楽焼の普及や保持のために、「財団法人 楽美術館」を開館した。戦後の厳しい世の中で、お茶の世界もあれたことだろうが、この道一筋に進み、開館と同年、文化庁より無形文化財技術保持者として認定された。九代了入の開発した箆削りの技法は、それ以降、近代の歴代へ大きな影響を与え、装飾的な表現を強めた。角入の取り組みは近代の歴代が見せる装飾的な箆とは異なり、茶碗自体の骨格、形を形成する彫刻的ともいえる箆削りへと昇華させている。この「林鐘」こそ、典型的な楽茶碗であると私は思う。

焼貫黒楽茶碗 15代吉左衛門 銘隴明(ろうめい) 1986年(昭和61年)楽美術館

際めて前衛的な茶碗であり、これに対し世間は驚き、世の中の常識、価値観を揺るがす起爆剤となった。称賛するもの、批判するもの、世の中、ことに茶の湯界は沸騰したそうである。私自身は「この茶碗では、さぞかしお茶は飲みにくいだろう」と思ったが、この色の景色には魅力を感ずる。

 

松原龍一氏が、冒頭の論文で、この「茶碗の宇宙 楽家一子相伝の芸術」について、極めて適切な論文をものしているので、以下引用する。「今から450年前、千利休の指示のもと長次郎という人物によって創造された楽茶碗は、一子相伝という形態で現在まで続いている。一子相伝とは、技芸や学問などの秘伝や奥儀を、自分の子の一人だけに伝えて、他にも秘密にして漏らさないことであり、一子は、文字通り実子ではなくても代を継ぐ一人の子であり、相伝とは代々伝えることである。このような考え方で、長年制作が続けられている楽家の楽焼きは、長い伝統を有しているが、しかし、それらは伝統という言葉で片付けられない不連続の連続であるといえる。長次郎から始まり十五代を数える各々の代では、当代がそれぞれ”現代”という中で試行錯誤し創作が続いている。本展では、現代からの視点で初代長次郎はじめ歴代の”今ー現代”を見ることにより一子相伝の中の現代性を考察するものである。まさしく伝統や伝承ではない不連続の連続によって生み出された楽焼の芸術世界の検証を試みるものである。」これ本展の意義や目的が見事に表明されていると思う。尚、東京(京都)国立近代美術館で開催されていることにも注目して頂きたい。正に、一人一人の現代が「今ー現代」であり、初代長次郎でも歴史的な長次郎ではなく、現代を生きた長次郎である。最後に、12代弘入の「赤楽 家年忌」を取り入れた理由について述べる。私が、昭和31年(1956)、学校を卒業して会社に入社し、最初の任地、長野県上田市に赴任する時、母が12代弘入の制作になる明治12年頃(1879)の作品である「黒楽茶碗」と茶道具一式を、私の旅立ちの記念として贈ってくれたのである。母の形見として、爾来60年以上に亘るが、常に毎日お抹茶を嗜む生活を送ってきた。今年で制作後140年近くになるが、10回以上の転勤にも耐えて、疵一つない黒楽茶碗は、私の大事な「お宝」である。そのために、12代弘入の「家祖年忌」を挿入した次第である。

 

(本稿は、図録「茶碗の中の宇宙ー楽家一子相伝の芸術  2017年」、陶磁体系 磯野信威「第17巻 長次郎」、原色日本の美術 全30巻の内「第19巻 陶芸」、林家晴三「日本の陶磁器」を参照した)