藤田嗣冶展  フランス国籍取得と祈りの世界

藤田は戦争画の制作と国家への忠誠に自らを捧げ、戦争という国家的事業に加わることにより自らの存在価値を国家に認めさせることが出来たと思った。「アッツ島玉砕」の前にひざまずき手を合わせながら涙を流す老若男女の姿は、それまでにない充実した喜びを藤田に与えた。「この世に生まれた甲斐のある仕事をしました」という言葉には嘘はない。誰もが認める戦争画の第一人者として、藤田は制作に没頭した。そして、それが戦後の悲劇をもたらした。日本画壇は、敗戦と同時に藤田の戦争責任を追及し始めた。日本人画家には、藤田を戦争犯罪人であると決めつける人もいた。結果的に見れば、1947年2月の連合軍総司令部(GHQ)が発表した戦争犯罪人リストに藤田の名前はなく、彼の戦犯容疑は晴れた。戦犯としての容疑は晴れたが、それまでに彼が受けた傷は深かった。美術家の戦争責任を一人ですべて負うように画家仲間に迫られたり、強い人間不信に陥つたと思われる。藤田は「絵描きは絵だけ描いてください」「仲間げんかはしないでください」「日本画壇は早く世界水準になってください」といった有名な言葉を残して日本を去った。フランスからの査証がなかなか下りなかった藤田は、とりあえずアメリカを目指し、10か月ほどをニューヨークで過ごした。翌1950年2月、藤田は妻君代と共にフランスのパリに戻った。出迎えに来たマスコミに発せられた最初の質問もやはり戦争にからむものだった。フランスにおいても、ナチに関わった人々への責任追及が激しく行われていたのである。藤田はパリ郊外の田舎町、ヴィリエル=バクルの農家を買い取り改築した家に移り住んで、ここで6年余りを過ごすことになった。

猫を抱く少女  布・油彩   1949年      個人蔵

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1949年11月にニュヨークのマシアス・コモール画廊で開催された個展の出品作と考えられている。背景の建物が、作者が滞在していたニユーヨークの街並みではなく、パリないし古いヨーロッパの街並みであることから、人物は日本で描かれたものと推定されている。1949年3月のニューヨーク到着後、当地の美術館を訪れて久しぶりに西洋美術の巨匠の作品に触れることで、藤田が受けた刺激を感じる。個展出品作であれば、満を持して制作されたものであり、自身のこれまでの技量と経験を注ぎこんで、しかし新鮮味も備えるという課題にに取り組んだ藤田の再出発の緊張感をたたえた作品である。この少女は、生きたモデルによる肖像ではなく、これ以後多数制作される、作者の中で理想化された少女の姿を描く、ごく初めのものと解することができる。その意味では、最も注目すべき絵画である。

藤田君代の肖像   紙・鉛筆  1950年      ランス美術館

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1936年(昭和11)に堀内君代と生活を始めた藤田は、1949年(昭和24)に単身でニューヨークに出発し、君代は2月21日に到着した。この絵は1950年にニューヨークで描かれたデッサンである。この絵が描かれた頃の夫人は40歳くらいのはずだが、固い頬はまるで少女のようで、藤田が抱いていた夫人のイメージがよく理解できる。

ノートル=ダム・ド・ベルヴゼ=レ=ザヴィニヨン 厚紙に貼った布・油彩 1951年                   ランス美術館

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前年の夏をブルターヌで過ごした藤田は、1951年の夏を、教皇庁で有名なアヴィニヨンのローヌ川にあるヴィルヌーヴ=ザヴィニヨンで過ごした。藤田は1918年の夏にも同地で過ごしたことがあり、この街に色濃いキリスト教文化を手掛かりに宗教主題の作品を描いた。本作品で描かれているのは、この街のサン・タンドレ要塞の中にある礼拝堂である。かって要塞内に住む人々のためのものだった中世の礼拝堂の質素さと、要塞の端にあって小道を登っていくと忽然と現れるこの建物の弧絶した雰囲気が藤田を惹きつけたのではないだろうか。

二人の祈り   布・油彩   1952年        個人蔵

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藤田がキリスト教を主要な画題として本格的に取り上げるのは敗戦の後、1年に満たないアメリカ滞在を経てパリに渡った以降のことである。1952年の年記を持つ本作はそうした中でも最初期の例で、画家と君代夫人が生涯身近に置いた思い入れ深いものである。ここに描かれるのは聖母子に向かいひざまずき、祈りを捧げる藤田夫妻の姿である。傍らの画架には、ゴルゴダの丘へ向かうキリストの相貌が写し取られたという聖顔布を思わせる素描を描いたキャンパスが置かれている。藤田が祈ったのは画業に対する祈りのみではなく、それによって代表される西洋文明社会のことではなかっただろうか。聖母子と絵画芸術とが象徴する清い世界へのあこがれが、画家のルサンチマンと表裏一体であったことを示している。

小さな主婦   布・油彩   1956年       いずみ画廊

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バケットと牛乳を手に、パリの歩道に立ってこちらを向く少女を描いたもので、これよく似た作品が他にもいくつかある。身近に置いて眺めたいお気に入りの画題だったのである。ポーラ美術館は、多数の類似コレクションを所蔵している。少女のいでたちと、石畳、ペンキのはげやフランス窓の描出などをみれば、ノスタルジーとシックさが主眼となっているのが分かる。

教会の内部  布・油彩     1956年      ランス美術館

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画家お手製の模型を描いた作品である。1953年の夏、藤田が友人のジョルジュ・グロジャンのビの所領に滞在したおりに聖堂の模型を制作したと伝えられている。おそらくその時の模型が本作に描かれたものであろう。ビラの夏、画家には友人にいつかは聖堂の建設を実現したいと語ったという。この頃には君代夫人のうちにもカトリックに対する宗教的感覚が芽生えたようで、彼女は聖地ルルドの訪問を希望し、グロジャン一家は彼女の願いを叶えるために運転手付の車を用意したという。グロジャンは後に、藤田のフランス国籍取得に際しても力を尽くすことになる。藤田が3年の時をおいて、この模型を絵画に取り上げたのは、1955年2月のフランス国籍取得がきっかけになったかも知れない。「教会」内には、南米で手に入れたという豪華な衣装で全身を覆った聖母マリア像が立つ。

聖母子 布・インク、金箔、油彩 1959年ノートルダム大聖堂(ランス美術館寄託)

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縦長の画面に聖母子と4人の天使を描いた「聖母子」の完成画には1959年10月14日、すなわち画家夫妻がカトリックの洗礼を受けた記念すべき日付と、レオナール・フジタとして生まれ変わった画家の初々しいサインが記されておる。本作は受洗後最初の作品であり、完成まもなくランス大聖堂に献納された。藤田の洗礼名はルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチにあやかるレオナール(藤田自身はイタリア語風に、あるいは日本でそう呼ばれたようにレオナルドと発音していたようである)、アッシジの聖フランチェスコからいただいたフンソワ、そして代夫にして晩年の画家を支えたパトロンのルネ・ラルーへの敬意を込めてルネ、以上三つを得た。藤田のカトリック信仰に対する傾倒は1950年代の早いうちからうかがわれるが、自身の二度の離婚が改宗の妨げとなることを心配し、躊躇する期間が長くなったようである。1959年10月、歴代のフランス王が戴冠式を行ったランス大聖堂において洗礼にあずかることになる。その模様は世界各地からやってきたテレビ、ラジオ、新聞に取り上げられ、メディアの寵児としての健在ぶりを示したことにもなった。

キリスト  ガラス・油彩、鉛  1965年      ランス美術館

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ノートル=ダム=ド=べ礼拝堂の装飾計画に際して、フジタはおびただしい量の素描やフレスコ習作などの準備作を残した。その中でも、まぶたを閉じ悲痛な表情を見せるキリストの頭部は特に集中的に取り組まれた画題である。多くは息絶えたキリストを描いたもので瞳は描かれず、眉間やまぶた、口元の表情、かすかな顔の向きなどの組み合わせによって威厳、苦痛、諦念、赦しといった様々な感情を見る者に感じさせる。

聖母子   ガラス・油彩・鉛  1965年頃    ランス美術館

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「平和の聖母」の名を持つノートル=ダム=ド=ラ=ベ礼拝堂がフジタの生涯の最後を飾る畢生の大作であることは疑うまでもない。自らの作品として礼拝堂を立てたいという画家の望みが、敗戦後にパリに渡って間もなく芽生えたのである。これが現実のものとして計画に移されるのは1965年頃のことと考えられている。ルネ・ラルーの勧めにより彼の経営するG・Hマム社の敷地内に置かれることに決定した。画家は建物の壁面をフレスコ画で飾ることに決めるが、この技法は80歳になろうとする彼にとっても初めてのものであった。堂内はフレスコ画だけではなく17枚のステンドグラスによっても彩られた。フジタはステンドグラスについても、入念な下絵を描き、ステンドグラスの職人の協力を得ながらグリザイユ技法による仕上げを行った。本習作は「平和の聖母」の名にふさわしい穏やかな聖母子の姿を描いたものであり、フジタの到達した祈りの世界を描いたもである。

 

藤田は美術学校卒業後、文展に3回連続落選し、渡仏の翌年に第一次世界大戦が勃発して、日本からの送金も絶えて苦しい生活を余儀なくされた。しかし、1917年の初個展以降着実に実績を積み上げ、独自の乳白色の世界を作り上げ、渡仏から10年を超えた1920年代には、パリ画壇の寵児(土方定一 日本の近代美術)とも言うべき高い地位に上り詰めた。藤田の作品は、ピカソやマチスに匹敵する高値を呼び、高級住宅に住み、社交界の花形として夜ごとパーティーに繰り出したものであった。しかし、1929年を境として、藤田の人生は全く違う様相を帯び始める。世界各地を転々とし、確立した筈の様式からも時には大きく逸脱し、試行錯誤の連続となった。その迷いを振り切って没頭した戦争画の制作は、戦後、藤田と祖国の間に癒しがたい深い傷を負わせ、画家仲間から戦犯の汚名を着せられ、ここで祖国と決定的な離別をもたらした。日本を離れた藤田は、再びフランスに腰を落ち着け、小どもやパリの街角や女性の姿を描き始めた。日本国籍を捨て、フランス国籍を取得し、カトリックに改宗し、礼拝堂の建設によって人生を締めくくることにより、身も心も西欧の一員となった証を立てようとした。君代夫人は、「藤田は日本を捨てたのではなく、捨てられたのだ」と語ったというが、日本は藤田を忘れることが出来ず、藤田も日本に別れを告げられなかったのではないだろうか。フランスへの帰化、カトリックへの改宗は、むしろ自らと日本のつながりの強さを改めて藤田に感じさせたのではないだろうか。今回の府中市美術館での「藤田嗣冶展」には、実に大勢の観客で賑わっていた。私たちは、藤田の作品に、日本的なもの、例えばー細い墨の線を入れる技法は(浮世絵の技法から学んだのではないだろうか)を見出し、日本離れをした藤田の芸術に魅了され、藤田を日本の誇りと思うからこそ、こんなに沢山の観客が見学に来るのであろう。尚フランス政府から1957年(昭和32年)にオフィシェ・ド・ラ・レジョン・ドヌール勲章を受章した。日本政府は、1968年(昭和43)4月(没後)に、勲一等瑞宝章を授与した。正に、東と西の政府から、名誉ある勲章を贈られたのである。レオナルド・フジタは、見事に日本と西洋の架け橋になったのである。

 

(本稿は、図録「藤田嗣治展ー東と西を結ぶ絵画 2016年」、図録「特集:藤田嗣治全所蔵作品展示 2015年」、図録「レオナール・フジターポーラコレクションを中心に 2013年」、図録「コレクター鈴木常司ー美へのまなざし 2012年」、福島繁太郎「近代絵画」を参照した)