藤田嗣冶展  美術学校から戦争絵画まで

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藤田嗣冶は、1886年(明治19)に東京府牛込区(現新宿区)に生まれた。藤田家は房州長男藩本田家の家老職の家柄であった。父藤田嗣章は医師で、後に森鴎外の後を受けて陸軍中将軍医総監を務めた人であり、国を担う見識と格調を備えた明治人であった。母藤田政は、旧幕臣小栗信の次女である。嗣治はこの両親の次男であった。画家への道へ進みたいという嗣冶の希望が許されたのは、彼が次男であったからであろう。藤田が格式を備えたブルジョアの家庭に育ったということには意味がある。かれの生涯を見る上で重要である。藤田は晩年に日本を捨てフランス国籍を取得し、カトリックに帰依する際、洗礼名に「レオナルド」という一般には少ない名前を選んでいるが、このイタリア・ルネサンスの偉大な人物を意識してものと私は思う。藤田は暁星中学の夜学でフランス語を学び、1905年には東京美術学校西洋画科に入学した。美術学校の主任教授は黒田清輝のいわゆるフランス帰りの「外光派」理論とはそりが合わなかったと自ら記している。藤田は1910年、23歳で美術学校を卒業、1912年、26歳の年に鴇田登美子と結婚したが、これは恋愛結婚であった。そして藤田は1913年(100年以上前)にパリへ単身で、私費留学生として渡仏したが、彼が妻に送った179通に及ぶ書簡が1980年頃に鴇田家から発見され、逐次刊行された。パリのモンパルナスに住んだ藤田は、モディリアーニとスーチンに合った。間もなくピカソを家に訪れ、そこでアンリ・ルソーの傑作を見ている。藤田は稀な日本人画家である。彼は、第一次世界大戦と第二次世界大戦をともにフランスで体験した希少な芸術家である。(府中市美術館にて10月1日より12月11日まで)

自画像  布・油彩   1910年       東京芸術大学

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やや斜めに構えたポーズや、見下ろす視線は、自画像の典型の一つであるが、画家として身を立てていこうとする若者らしい気負いも感じられる絵である。東京美術学校の卒業制作として提出される3点のうちの一つで、自画像は必修課題であった。後に藤田は、西洋画科の主任教授であった黒田から、自分の卒業制作を「悪い例」として示された、と回想している。色彩がやや暗いと言う点が、黒田の眼鏡にかなわなかったかもしれない。しかし、全体的に落ち着いた色調で、酷評されるような作品ではない。私は、むしろ後年の藤田に較べれば、むしろ「極めてまともな」基礎的技術をきちんと積み上げた作品ではないかと思う。卒業時の成績は30人中16番くらいという平凡なもので、卒業後も若手画家の登竜門とされた文展への落選が続いた。日本では全く芽が出なかったのである。

パリ風景  布・油彩   1918年     東京国立近代美術館

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パリの南のはずれ、地下鉄13号線に「ヴァンヴ門」という駅がある。ここはかってパリを囲んでいた市壁に設けられた門の一つで、第一次世界大戦が終わる頃までは税官吏が立ち、市内に入る物資に税金を徴収していたそうである。この作品が描かれたのは1月のことである。空も樹も道も人影も色を失って灰色である。奇妙な静けさに包まれている。アンリ・ルソー(1844~1910)の影響を受けているそうだ。正当な美術教育を受けず日曜画家として描き始めたルソーは、朴訥な表現を大真面目に描いた人物である。彼の作品をいち早く注目したのが、ピカソや詩人アポリネールだった。藤田はピカソのアトリエを訪ねた時、そこで目にしたルソーの人物画に衝撃を受けたというが、より直接的な影響が見られるのは風景画である。アカデミックな規範から外れたルソーの作品に、強い感銘を受けた藤田が目指したのが、素朴な味わいの表現であった。後に本人も「パリの城壁には、自分が少年時代に親しんだ東京の「見附」(つまり江戸城の城門跡)にも通じるものがあった」と述べているが、「異邦人の目で捉えたノスタルジックなパリの風景」として新鮮に映ったのであろう。「ルソーの後継者」という好評にもつながったのである。こうした風景画は、一部の美術愛好家の間で、藤田の名が知られるようになるきっかけを作ったのである。この時代の絵画は殆ど残っていない。藤田は500枚にも上る、自分の作品を焼却処分していたのである。

バラ   布・油彩   1922年     ユニマットグループ

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私は、この「バラ」を見て、まず乳白色のバックに引き付けられた.1920年代の藤田は、まさに画壇の寵児と言う言葉がふさわしい活躍ぶりであった。まばらに「生けた花」というモチーフは、乳白色の下地に流麗な線で描く技法を生み出しつつあった時期に、「線」の表現を追求する中で興味を持ったモチーフだったと考えられる。水指の下に敷かれた花柄の布も、特徴的である。やがて布は人物の肌を引き立てさせる役割を意識して描かれるようになるが、それ以前の貴重な作例であると思う。

アントワープ港の眺め  布・油彩  1923年    島根県立石見術館

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ベルギー、アントワープの銀行家ポール・フィーランの注文で、彼の自宅を飾る7点の装飾画として描かれた作品の一つである。藤田は、既に乳白色の下地のスタイルで人気が出始めた頃だったが、隣国ベルギーの評価も高かったため、こうした依頼にもつながったのであろう。この作品にえがかれているのは、アントワープの黄金時代であった16世紀から17世紀頃の様子である。つまり、中央の川は貿易港の繁栄を支えたスヘルデ川、中央の高い建物はノートル=ダムの大聖堂の塔である。大型の帆船は大航海時代を象徴しているのである。藤田は取材のため現地を訪れたが、昔日の隆盛を表すために、当時の景観図や文献、銅版の風景画などを参照したらしい。予定通り7枚すべて描かれたらしいが、現在知られているのは、この1点のみである。注文主のフィーランが破産したため、画料もほとんど払われないうちに、7点がばらばらばらに人手に渡ってしまつたようである。

五人の裸婦  布・油彩    1923年     東京国立近代美術館

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藤田は1920年代のパリで大成功を収めた。人気の秘密は、まるで日本画のようなしっとりとした白い下地と美しい墨色の描線で、この作品にもその特徴がよくうかがわれる。この白い下地の秘密は、下地の最表層から「タルク」と呼ばれる物質が検出されたことにより、藤田の絵画技法の解明が急速に進んだ。藤田がこのタルクを、油性地の上に墨で線をひくための画材として使用していることが確認されたのである。タルクは「滑石粉」とも呼ばれ、ベビーパウダーの主な成分として、乳幼児の湿疹などを防止する効果があることで知られている。土門拳氏(1909~1990)が1941年夏から1949年3月までのおよそ8年間、藤田のアトリエを撮影していた。そこには画家ばかりでなく、その制作過程に使用した画材、旧作、日用品などをはっきり映し出していた。その中に和光堂の「シッカロール」という文字が写っていたのである。(図録「レオナール・フジタ 2013年」)五人の女性はそれぞれ、布を持つ=蝕角、耳を触る=聴覚、口を指す=味覚、犬を伴う=嗅覚と、人間の五感を表すとも言われる。中央を占める女性は、絵画にとって一番重要な視覚を表すというわけである。藤田が西洋絵画の神髄に真っ向から挑んだ作品は、彼のそれまでのサロン出品作の最高額となる25,000フランの値をつけたのであった。それはピカソやマチスに匹敵する価格であったと言われている。

坐る女性と猫  布・油彩   1923年    鹿児島県立美術館

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この頃の藤田は、パリ画壇の寵児と言われ、裸婦の絵画が多い。1924年の渡仏以来住み慣れたモンパルナスを離れ、高級住宅街の16区に移り、糟糠の妻とも言うべき2番目の妻フェルナンデスと別れて21歳のリュシー・パドウ(ユキ)と暮らし始めた。運転手付の高級車を乗り回し、社交界の花形として夜毎にパーティーに繰りだたのもこの頃からである。おかっぱ頭のロイド眼鏡、ちょび髭にイヤリングといった強烈な自己演出によって様々な場所に出没し、画家の枠を超えたパリのアイドルとして認識されたのである。この絵は、薄青色のワンピースの女性が、左手を上げて髪を整えるような仕種をしている。上目遣いにこちらを見るキジトラ模様の猫のそろえた前足がかわいらしい。同じ時期に制作された「タピスリーの裸婦」(京都国立近代美術館)と良く似たポーズで、モデルも猫も同じである。本作ではワンピースの青色以外はほぼモノトーンで色調を抑えている。女性の表情も寂しげで物憂げな表情が印象的である。藤田の絵具も独得の技法で用いられている。ワンピースの薄青色を通して、下地の色がはっきりと感じられるのである。

自画像  布・油彩   1929年     東京国立近代美術館

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藤田の最も得意とする白地の女性像(額入り)と猫と共に描いた自画像である。藤田の宣伝用の像とも言えよう。1919年にサロン・ドートンヌに6点全点が入選し、かつサロンの会員となり、成功の鍵を掴んだ。1921年、35歳にして、サロン・ドートンヌの出品作品が高額で売れて、その後1928年まで、各種サロンに出品しながら、ヨーロッパ各地で個展を開いた絶頂期であった。彼の画家の枠を超えた活動には、逆に彼の画家としての評価に疑問を投げかける結果を一部にもたらした。派手な私生活をとらえて、宣伝屋、ハッタリヤ、お調子者のレッテルを貼り、作品の評価もろともに引きずり降ろそうとする人々が日本人の中に登場した。藤田と日本の間の亀裂が次第に大きくなっていった。第一次世界大戦の束の間の平和と繁栄を謳歌した1920年代は終わり、ニューヨークの株価暴落から世界恐慌、そして戦争へと向かう激動の時代を迎えて、藤田の生活と創作も大きく揺れ動いた。

青いドレスの女  布・油彩   1939年    島根県立美術館

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西洋の女性をモデルに描いた1939年の作品であり、本作は東京で描かれたものである。この絵のモデルは、2番目の妻マドレーヌ・ユキの面差しに似ている。マドレーヌは1936年に急逝しているので、描きためたスケッチを元にして描いたのであろう。

猫  布・油彩   1940年        東京国立近代美術館

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14匹の様々な種類の猫が組んずほぐれつの喧嘩をしているように見える。1940年の制作ということもあって、時局を反映した殺伐とした空気を表現しているという解釈もある。背景を黒く塗りつぶす手法は、画題に関係なく若い頃から何度も使われているが、ここでも極めて効果的である。飛び上がる猫の姿をくっきりと浮かび上がらせ、なおかつ下辺がやや斜めになっていることによって、画面の感動を一層強めている。14匹の猫は8の字を描くように配置され、これも画面のスピード感と動きの連続性を増している。

アッツ島玉砕  布・油彩  1943年(昭和18)  東京国立近代美術館

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1943年(昭和18)5月29日、アリューシャン島で、アメリカ軍の攻撃により日本の守備隊が全滅した事件を描いた絵画である。レオナルド・ダヴィンチ等泰西の戦争名画から学んだ技法を駆使し、三角形を積み重ねた技法である。昭和18年5月と言えば、私は小学校4年生であり、ハッキリこの玉砕事件は記憶している。何故、アリューシャン島という孤島で全員玉砕したのだろうかと不思議に思った。要するに戦略的重要性について、まるで理解できていなかったからである。それは、今でも不思議に思っている。玉砕という全員死亡事件には、前途に不安を感じた記憶がある。この絵画の暗い色は、一体何を描きたかったのだろうか?2006年に国立近代美術館で「藤田嗣冶展覧会」が開催され、それを高校時代の同窓生と観覧したことがある。その時に、藤田の戦争画を初めて見て、強烈な印象が残っている。この絵が、戦意高揚に繋がるとは、到底思えない。厭戦思想が涌くものの、戦意高揚には程遠い絵画であると感じたし、今回も同じ印象を持った。藤田は陸軍や海軍の依頼を受けて何点もの作戦記録画を描いているが、この作品は依頼によるものではなく藤田が自発的に描いてその後陸軍に献納され、9月の国民総力決戦美術展に出品されるという経過をたどっている。調べてみると、陸軍は当初、この作品を公開することに躊躇していたという話がある。(図録より)北の孤島における日本軍全滅の悲劇を生々しく伝える画面が、国民の戦争に対する士気を低下させるのではないかという危惧は当然のことである。しかし国民の反応は全く逆だった。玉砕し軍神となった兵隊たちの最後の瞬間に直面することにより、敵である鬼畜米英に対する怒りや憎しみはさらに増したのである。展示された作品の横には「脱帽」の二文字が大書され、賽銭箱が置かれ、絵に向かって手を合わせて拝む人が後を絶たなかったという。藤田自身がそれらの老若男女の姿を目にして「生まれて初めて自分の絵がこれほどまでに感銘を与え拝まれたことはいまだかってない異例さに驚き」「この絵だけは、数多くかいた絵の中の尤も快心の作だった」と後に記している。

 

今回展示された藤田の絵画は158点に及び、日本全国の地方美術館を含め、ほぼ日本中にある藤田作品を網羅したばかりでなく、フランスのランス美術館からも多数出展された素晴らしい展覧会であった。府中市美術館の総力を挙げた展覧会であり、図録の内容も、従来の図録を上回る内容であった。未公開作品も多数含まれた本展が、藤田芸術の新たな解釈と理解につながることを強く期待する。

 

(本稿は、図録「藤田嗣冶展ー東と西を結ぶ絵画 2016年」、図録「特集:藤田嗣治、全所蔵作品展示 2015年」、図録「レオナール・フジターポーラ美術館コレクションを中心に 2013年」、図録「コレクター鈴木常司ー美へのまなざし 2012年」を参照した)