観音の里の祈りとくらし  Ⅱ

img823

国宝や重要文化財の多い地域は、東京(東京国立博物館があるため)、奈良、京都の順に多いが、4番目となると知る人は少ない。実は滋賀県である。近江・滋賀は政治の中心になった時期は、短い。殆ど古代のことであり、都の跡も明確ではない。しかし、近江国は京都から東国への交通の要衝に位置しており、歴史上幾多の戦乱に見舞われて、多くの寺社仏閣は、その災禍に巻き込まれて、失われてしまった。堂宇は失われたが、村の人達は大切な仏様を救いだし、自分たちの手で護り通してきた。「湖北」と呼ばれる、長浜市の北部地域には、百を超える観音像が伝わり、村々のお堂には観音菩薩像、薬師如来像、大日如来像が、村人の手によって守り継がれてきた。長浜市は「観音の里」として有名である。この「観音の里」を一躍有名にしたのは、昭和40,50年代に発表された文学に拠る所が多い。特に井上靖の「星と祭」、白洲正子の随筆「十一面観音巡礼」、「近江山河抄」などではないかと、私は思っている。近江国は大変行き難い場所であり、特に観音の里では、お寺ではなく地域住民(「惣村」と呼ばれる自治組織)に守られ、秘仏が多く簡単には拝めないということもあり、今までも生きたいけれども、行き難い場所であった。今回、東京芸大が、長年湖北に伝わる観音様の修理・保存を通して、地域の皆さんと協力して43体の仏像、光明本尊1と重要文化財の文書を5文書・合計49点が展示された。これは、東京芸大と地域の住民の信頼関係の上で実現した展覧会であり、2度と見ることが出来ない仏像も多い。是非、拝観されることをお勧めする。

重要文化財  伝千手観音菩薩像  長浜市 観音寺蔵   平安時代

img824

観音寺本堂の厨子内に安置されている伝(でん)千手観音立像である。十八臂(ぴ)は珍しい。針葉樹材製で頭体幹部は一木造りである。たくましい上半身には胸と腹の括れを大きく彫り込み、足首にかけて絞り込んだ下半身には太い衣文線や渦巻を深く彫り込む。顔の墨描、朱彩は後から補修したものであろう。卓越した技量で木彫で彫り込んでいる。平安時代前期(9世紀半ば)の作と見られる。観音寺は、軍師官兵衛の黒田家発祥の地として知られる長浜市木之本町黒田にある。無住で住職は兼務のため、日常の維持管理と参拝者対応は、世話方(せわかた)が行っている。世話方は定員3名、任期3年、集落のうち17軒から毎年1人づつ選出されて、入れ替わり2年目の世話方が代表者となる。この度、厨子をでることすら稀であった本尊が初めて展覧会に出陳されることとなった。

重要文化財 十一面観音菩薩立像  長浜市 医王寺蔵    平安時代

img825

湖北の観音様は、どなたも美しい。医王寺の十一面観音も、息をのむほど端正である。この観音様は、明治20年に、当時のご住職が長浜の骨董店で見つけ、購入したものだと伝わる。巳高山(こみたかやま)にあったどこかのお寺から流失したものであろう。明治初期の神仏分離、廃仏稀釈の際に流出したものであろう。優品である。

重要文化財  聖観音立像  長浜市 来現寺蔵     平安時代

img837

弓削(ゆげ)町(旧びわ町)の観音堂に安置される。堂々としたボリュームあふれる等身大の聖観音立像である。弓削(ゆげ)の地名は、古代この地に、弓を制作する弓削部(ゆげべ)が居住したことによると言われる。湖北長浜市には、石作・玉作・田部・物部など古代の部民(べみん)制を連想させる地名が多く残っている。かっては村の西方、小字「万願寺」あったと言われる。萬願寺は、聖徳太子の建立した寺院であった跡と伝える。萬願寺は火災で消失したが、本像は村人が池に沈めて難を逃れたという。弓削部落で火事がないのは「観音さんのおかげ」と、代々語り継がれている。

重要文化財  十一面観音立像  長浜市 浅井町  善隆寺蔵  平安時代

img830

この寺は、山門(やまかど)という名の里にある。文字通り山に囲まれた集落は、まさに日本文化の原風景である。この観音様は、湖北を代表する美人観音である。井上靖は「飾り気というものの全くない質素な美しい女体」と評している。確かに、装飾が少なくシンプルである。しかし、お顔は鼻筋がくっきりと通り、しこぶる秀麗である。湖北には十一面観音立像が多い。その理由は、最後にまとめたい。

重要文化財  伝薬師如来立像  長浜市 高月町 充萬寺蔵  平安時代

img827

この寺には、十一面観音菩薩立像(重文)と伝薬師如来立像(重文)と、驚くべき仏像が2体残されている。(十一面観音菩薩立像は出展していない)寺の創建は奈良時代末期。伝教大師最澄が、ここでその2体の像及び薬師如来の眷属である十二神将を彫って祀ったのが始まりと伝わっている。ほぼ等身大の堂々たるものである。胸や腹は量感たっぷりである。お顔も肉厚で男性的である。正に、寺の名称通り、充分に活力に満ちた、頼りがいがある仏像である。薬師如来像と伝えられているが、現在は薬師の標識である薬壷を持たず、阿弥陀如来来迎印を結んでいるが、この両手先は後補であるため、当初の名称は確かめることは出来ない。制作は平安時代、10世紀と推測される。

重要文化財  大日如来坐像  長浜市 太田町 光信寺蔵  平安時代

img828

意外であるが、浄土真宗寺院光信寺の文化財収蔵庫に安置される金剛界の大日如来坐像である。ケヤキ材製で、頭部幹部は髪から地付まで一木造として、後頭部と背面から内刳(うちぐり)する。低く抑えた髷、丸顔の穏やかな表情、薄い衣に浅く刻まれた衣文線など定朝様(じょうちょうよう)の特徴を備えるが、目の見開は強く、正面から絞り込まれた腰の側面観は意外に奥行がある。平安時代後期(11世紀)の作と思われる。この大日如来像は、もとは隣接する中山神社境内の大日堂に安置され、かっては天台宗寺院・寂静山(じゃくじょうざん)大福寺の本尊であったと言われている。実際の管理は太田自治区で結成する太田大日保存会が行っている。町内20軒ほどがすべて光信寺の門徒であり、町全体で守るということから、保存会の会長・副会長は正副自治会長が務める。以前は50年に一度開帳する秘仏であったが、現在は1月の中神社の新年祭とオコナイ、大日堂のオコナイ、9月の放生会(ほうしょうえ)の際に開帳される。(秘仏だから現色が残っている。)

重要文化財  阿弥陀如来仏頭   長浜市 浅井街 善隆寺蔵 平安時代img831

図録では、単に仏頭とのみ記されているが、私は阿弥陀如来像の頭部と思う。長縁寺旧蔵で、現在は善隆寺の文化財収蔵庫の安置される如来形の仏頭である。はじめから頭だけを造ったとも言われるが、来歴は不明である。タイのアユタヤ遺跡には、木の根に抱かれた謎の仏頭もある。日本では、興福寺の国宝館にある旧山田寺の仏頭が有名である。伏せた目や鼻、口を丸い顔の中央に集めるさまは定朝様(じょうちょうよう)を踏襲する。収蔵庫に安置される十一面観音菩薩像と仏頭は、観音講である「和蔵講」が異時・管理している。山門区内77軒のうち4軒が4軒が講員で、全隆寺もその中に含まれる。講の役員は「当番」と呼ばれ、1年毎に持ち回りで交代し、収蔵庫の鍵と仏器を引き継ぐ。毎年8月9日の千日参りでは、この十一面観音像を本尊として収蔵庫内で法要が営まれる。現代まで宗教は生きている。

重要文化財  愛染明王坐像  長浜市 宮前町 遮那院蔵  鎌倉時代

img839

遮那院の秘仏本尊である。炎髪(えんぱつ)を逆立て獅子冠(ししかん)を戴き、三目で牙を剥き出しにした憤怒相(ふんぬそう)を表す。鎌倉時代の作である愛染明王は、躍動感あふれる像である。頭上に獅子頭をいただき、額には第三の目。尖った上向きの牙も印象的である。このような激しい姿であるにもかかわあらず、愛染明王は愛の仏様である。愛欲は人間の本能であり、否定できないため、そのエネルギーを転換して悟りへの道へとつなげるというのが、この仏の功徳である。愛染明王の像は比較的珍しく、特に近江では数が少ないと思われる。

千手千足観音立像  長浜町 高月町  正妙寺蔵    江戸時代

img832

琵琶湖のほとりの田圃の真中の小高い丘の上に立つ小さいお堂の中に、日本で多分一つだけと思われる不思議な観音様が祀られている。何しろこの観音様に十一の顔と千本の手と足がある。少なくとも国内では千足という名のついた仏様は知らない。顔も独得である。馬頭観音によく見られる憤怒相だが、怒っているというより威張っている子供のようにも見える。この寺は11世紀の建立され、その当時から、千手千足観音が祀られていたという。元和3年(1617)には兵火にかかり、お堂は消失。しかし村人は必死でこの像を守ったという。江戸時代に金泥を塗り直す修復も行われ、蓮台もその時に造られた。明治時代にはお堂も再建され、今も村人たちは、この像を大切に守り続けている。一度見たら、絶対に忘れない不思議な姿の観音様である。

 

琵琶湖の北部(湖北と呼ぶ)に位置する滋賀県長浜市周辺の地域には、古くから仏教文化が栄え、優れた仏菩薩像が今でも多数伝来している。特に慈愛に満ちた観音菩薩像が多いことが特色で、広く「観音の里」とも言われる。古いものは奈良時代末期に遡るといわれるが、優品の多くは平安時代につくられている。何故、これほど多くの観音象(なかんずく十一面観音菩薩の優品が多い)があるのか、不思議に思っていた。私は、仏像の歴史を専門に研究したことは無いが、私自身の独特の十一面観音菩薩像の広がりに対する私見を有している。まず、日本に十一面観音菩薩が請来されたのは、朝鮮半島からであると思う。従って、まず朝鮮半島に一番近い若狭(福井県)に渡来したのでは無いかと思っている。現に、若狭には沢山のお寺が残っている。また、東大寺のお水取りの行事は、若狭の神宮寺から香水を川に注ぎ、この香水が地底を通り3月12日の深夜に東大寺二月堂前の若狭井に湧き出すとされている。この香水を汲んで二月堂の本尊である十一面観音にお供えする仏事を「お水取り」と呼ぶ。若狭の芳賀寺には美しい重要文化財に指定されている十一面観音菩薩像がある。若狭一の美仏と言われる。この像は、古代日本随一の美人女帝で、この寺の開基である元正天皇のお姿をそのまま写したものであるという。この若狭から、琵琶湖の真東が湖北地区に当り、美しい十一面観音菩薩像が沢山造られている。湖北の徒岸寺(どうがんじ)には国宝の十一面観音菩薩像が立つ。更に東に進めば、奈良市の法華寺、更に東の桜井市には、日本一美しいと言われる聖林寺の十一面観音菩薩像があり、更に進めば、室生寺の十一面観音菩薩像がある。即ち、若狭ー湖北ー奈良市ー桜井市ー宇陀郡室生の「カンノン・ライン」の曲線上に、日本の十一面観音菩薩像が並ぶのである。朝鮮半島から日本の奈良市や宇陀郡室生への仏像の流れは、湖北を経由することで、カーブで結ぶことが出来るのである。井上靖は「十一面観音」という本の中で、次のように述べている。「私が観音像の中で、特に十一面観音に惹かれるのは、十一の仏面を戴いた姿が美しく、その美しさが抵抗なくこちらに伝わってくるからである。これほどすばらしい王冠はない。(渡岸寺の観音像)美しく、尊く、衆生救済の力を持っている。それからまた、その多くが悩み多き女体の姿を借りていることも、私にとっては大きい魅力がある。十一面の仏面によって超人的な大きな力と、悩み多き女体によって人間的苦悩を、十一面観音像は併せ示しているのである。女体が多いのは、制作者にとっては情勢的表現の方が自然にも思われ、主題追及にも恰好であったからであろう。それから信仰する者の立場から言っても、女体の観音さまの方が親しみやすいことは言うまでもあるまい」

 

(本稿は、図録「びわ湖・長浜のホトケたち  2016年」、図録「びわ湖・長浜のホトケたち  2014年」、吉田さらさ「近江若狭の仏像」、井上靖「十一面観音」、探訪日本の古寺「第5巻  近江・若狭」「第10巻奈良Ⅰ」、井上靖「星と祭」、白洲正子「近江山河抄」、「十一面観音巡礼」を参照した)