遊びの流儀  遊楽図の系譜(1)

遊びは人類にとって普遍的な行為である。誰でも、生活の中に遊びを取り入れものである。絵画の題材としては、古くもあり、新しくもあるテーマである。中国文化における「琴棋書画」(きんきしょが)は君子のたしなみとして尊重されて、日本文化における一つの規範となり、中世以降は襖絵や屏風の画題として好まれた。江戸時代の「邸内遊楽図」においては、琴は三味線となり、囲碁(棋)は双六に置き換わって「琴棋書画」の伝統が「遊楽図」を描く際の枠組みとして好まれた。江戸時代の「邸内遊楽図」においては、琴は三味線となり、囲碁(棋)は双六に置き換わって「琴棋書画」の伝統が「遊楽図」を描く際の枠組みとして受け継がれていたことがうかがえる。桃山時代に流行を見せた「野外遊楽図」や、遊興施設や遊離を背景とする「邸内遊楽図」は、当時の幅広く奥深い遊びの世界を丹念に再現している。本稿では、特に近世初期の貴重な「遊楽図」を中心にまとめてみた。

重文 琴棋書画図屏風 六曲一双 海北友松作 桃山時代(17世紀)京都・妙心寺

右隻

左隻

海北友松(1538~1615)は桃山画壇を代表する武人画家である。本作は友松の最晩年の優品であり、金地に濃彩と水墨を巧みに融合させた画風は、画業の完成期を示すものとして評価されている。友松は生涯に「琴棋書画図」をいくつか描いており、得意の画題であったようだ。本作では右隻に衝立(画)、琴、碁盤を、左隻に書(高士と童子が持つ掛け軸、高士が差し出す書状、机上に置かれた書物)を拝する。注目すべきは、右隻の高士らの表情である。画面中央、白い衣の高士は、碁盤の上に琴を置き、さらにその上に肘をついて眠りこけている。これと対峙する橙色の衣の高士や童子もまた熟睡している。彼らを見つめる樹下の高士たちは、あっけにとられているように見える。室町時代以来、「琴棋書画図」は中国の文人たちが営む高雅で理想的な生活の象徴として、憧憬の念を込めて数多く描かれた。そうした中にあって、友松最晩年の本作は高士の人間臭い一面を露わにしたという意味で、極めて特異な存在と位置付けらられている。

重文 遊楽図屏風(相応寺屏風)紙本金地着色  八曲一双 江戸時代(17世紀)徳川美術館

右隻

左隻

八曲一双の両隻にわたり、野外から邸内に向けて人々がありとあらゆる遊楽に打ち興じ、太平の世を満喫する様が繰り広げられる。きわめて精緻な人物描写もさることながら、様々な遊楽を破綻なくまとめた構成力、見る者を引き込む細密描写とにより、本図は近世初期に描かれた邸内遊楽図の中でも最も初発的な作品と位置付けられている。本図は、尾張徳川家初代義直が母お亀の方(相応院・家康側室)の追福のために建立した相応寺の伝来したことから、かっては相応院の遺愛品とされてきたが、記録としては三代綱誠の十九男松平通温(1696~1730)の遺愛品として寺に納められたことが判明している。このような遊楽図は、高級商人の遺愛品と思い込んでいた私には、最高級の武士階級の愛用品と知り、意外でもあり、遊楽図のような高額な屏風は、最高級の武士層でないと、購入できなかった次第も分かった。八曲一双であるが、高さは126・1センチでとどまり、やはり私的な空間での親密な鑑賞にふさわしい画面と言えよう。しかしながら遊楽の諸要素をただならぬ密度で細部もゆるがせにせず描き込む態度と、これを破綻なく画面にまとめ上げる力量は卓抜であり、しかるべき注文主の要望に応えてみせたしかるべき力量の絵師の存在が想定される。いずれにしても近世初期の遊楽図を代表する記念碑的作例と言えよう。

重文 四条河原遊楽図屏風 五巻のうち四巻 江戸時代(17世紀)阪急文化財団

右隻

左隻

近世に入って、京都四条河原は一大歓楽地となった。その往時のにぎわいを活写した名品が「四条河原遊楽図屏風」であり、本屏風の他にも、二曲一隻の屏風(個人蔵)が極めて近い関係の作例として知られる。この屏風は二曲一双の中央部分に水量豊かな鴨川の流れを描く、。左右両岸には様々な娯楽施設が臨時に立ち並び、右上と左上に描かれた遊女歌舞伎の芝居小屋が目を日引く。歌舞伎の歴史を物語る上でも貴重な絵画資料となっている。さらに右隻には「犬の曲芸」や「山嵐の見世物」、左隻には「矢場」を描くなど都市ならではの娯楽が目白押しであり、これを目当てに集まった群衆の熱気が観る者にも直に伝わる臨場感あふれる描写は圧巻である。また中央左の河原では夏の鴨川で水浴びをし、胡瓜やところてんを食べる人々も描かれており、気持ちよげな人物描写が各所に散りばめられている。多分、最初にこの屏風を買い取った人は、京都の豪商であろうと思う。武士階級も、こぞって遊楽図屏風を求めた裕福な次代が来たのであろう。

かるた遊び 紙本金地着色 一幅 江戸時代(17世紀)立命館アート・リサーチ・センター

国宝「彦根風俗図屏風」の登場人物のイメージを受け継ぎなら、別の主題への転換が図られている作例で、画面に漂うけだるい雰囲気は両者に共通するものである。後世の書入れと判断されているが、人物に書き添えられた名前のうち、「吉野」「小藤」「野風」は、いずれも六条三筋町に実在した遊女の名前という。カルタ遊びに興じる場面は、主要な遊楽図に頻出する。中でもこの作例は、手持ちのカルタで口元を隠す仕草が遊興の場にふさわしく表情がゆたかである。それぞれの視線が交錯する様子など、カルタ遊びに興じる時間の流れが臨場感をもって再現されている。この絵の持ち主は、多分高級商人層であったろう。

桜花弾玄図屏風 二曲一双 紙本金地着色 江戸時代(17世紀) 出光美術館

満開の桜の木の下に、屏風を立てめぐらせた畳の座敷が見え、三味線を奏でる女性を描く。この横には手紙を手にして読む様子の女性が描かれ、左には金色の長い煙管を手にした女性を描く。「三味線」「煙草」「文使い」という江戸前期の「遊楽図」の定番ともいうべき諸要素が、三つ巴のような構図で描かれる。傍らには墨を揃え、墨を摺る少女や、三味線箱を開ける少女が描かれる。女性たちの姿は、いわゆる又兵衛風であり、白塗りの面貌にはほのかま紅が施されている。着物の柄や桜の樹木や花弁の描写も緻密であり、細部にわたり描写に隙がない。二曲一双の画面の中で野外と邸内を金雲によって巧みに連続させており、女性たちのゆるやかに交錯する視線も、群像表現として卓抜である。やはり上流商人層の好みであろうか?

重文 舞踊図屏風 六曲一双 紙本金地着色 江戸時代(17世紀)京都市

右隻

左隻

江戸時代前期の寛永年間(1624~1644)から寛文年間(1661~1673)にかけて、総金地の屏風の各扇に、扇を携えて踊る舞妓を一人ずつ描いた作品が多数制作された。女性の舞姿や衣装の美しさに焦点を当てた一群の屏風は、遊女歌舞伎や遊郭における舞踊の人気、美人愛好の機運の高まりを拝景として誕生したもので、今日では「舞妓図屏風」あるいは「舞踊図屏風」と呼ばれている。サントリー美術館、個人蔵等の作品が知られている。六曲一双形式の京都本は、製作当初の姿を伝える勇逸の作例として貴重である。衣装美はやや控えめながら、舞妓の表情には個性的な要素が残っており、各人を描き分けとする画家の意思がうかがえる。

 

主として野外遊楽図と邸内遊楽図を中心にまとめてみたが、愛好相は、最高級の武士層から裕福な商人層が浮かびあがってきた。浮世絵が庶民の楽しみとすれば、遊楽図は高級武士層、高級商人層が想定される。江戸時代の比較的初期に、かくも大胆な遊楽図が愛好されたのかと驚く。それほど平和な次代であったのであろう。江戸時代の歴史を見直すような気分にされた。

(本稿は、図録「遊びの流儀ー遊楽図の系譜  2019年」、原色日本の美術第24巻「風俗画と浮世絵」を参照した)