遊びの流儀ー遊楽図の系譜(2)

わが国近世の「遊楽図」を見渡すと、画中びは共通して描かれる当時の特徴的な風俗がいくつも見出せる。一つは三味線という楽器の存在であり、野外や邸内を問わず、三味線が奏でるリズムの旋律が、人々の遊び楽しむ場に響いていることがうかがえる。二番目にファッションへの関心が高さが挙げられる。「遊楽図」に登場する男女の髪型や小袖の意匠の描写からは、時代の流行の最先端を意識した彼らの心映えを感じ取ることが出来る。第三に舞踊は、「遊楽図」のまさしく花形として時代を超えて描かれてきた要素であり、人々が熱中する輪舞や、扇を片手に舞う姿は、「遊楽図」のまさしく花形として時代を超えて描かれてきた要素であり、人々が熱中する輪舞や、扇を片手に舞う姿は、「遊楽図」を見応えのあるものにしている。そして当時、男女の間で交わされる手紙は、「文使い」と呼ばれる若い禿などが取り持ったが、手紙のやり取りもまた、遊楽の場には欠かせない心惹かれる場面として描かれている。これらの遊楽図に繰り返し描かれる勝訴は、お互いに絡み合い、それぞれ比重を変えながら、「遊楽図」を一層豊かなものにしていく。やがて「誰が袖図屏風」や「舞踊図」へと展開し、いわゆる「寛文美人図」の流行から、浮世絵の誕生を促す素地を形成した。

重文 舞踊図屏風 六曲一双 紙本金地着色 江戸時代(17世紀) 京都市

江戸時代前期の寛永年間(1624~1644)から寛文年間(1661~1673)にかけて屏風の各扇に、扇を携えて踊る舞妓を一人づつ描いた作品が多数制作された。女性の舞姿や衣装の美しさに焦点を当てた一群の屏風は、遊女の舞姿や衣装の美しさに焦点を当てた一群の屏風は、遊女歌舞伎のの舞台や遊郭における舞踊の人気、美人画愛好の機運の高まりを背景として誕生したもので、今日では「舞妓図屏風」と呼ばれている。

重美 舞踊図 紙本金地着色 江戸時代(17世紀) サントリー美術館

右扇

左扇

本来は屏風であったと思われるが、現在は一面ずつ額装となっている。舞妓の表情は画一的であるものの、注文主や画家の関心は衣装美の方にあったと見え、琴柱や鳳凰、孔雀、龍、蜻蛉、鶴といった吉祥紋様の描写には精緻を極めている。

誰が袖図屏風 紙本金地着色 六曲一双 江戸時代(17世紀)根津美術館

右隻

左隻

江戸時代初期の17世紀前半から半ばに」かけて、今日では「誰が袖図屏風」の名で呼ばれる一群の作品が制作された。この屏風は、畳敷きの室内を背景とした作品で、余白を金地で埋めながらも、畳や敷居、障子などの建築の細部を描くことで、この空間が室内であることを強調する。両隻あわせて三つの衣桁は、大きさや材質、文様が異なり、そのそれぞれに、小袖や袴、帯、印籠、裂などが掛けられている。文机の上に置かれた硯箱の蓋は無造作に身に被せられており、蓋を開ける途中で立ち去った主人の存在を暗示するかのようである。この屏風は、いわゆる「誰が袖図」の図様に二人の女性を組み合わせたもので、他に類例がない。

重文 本田平八郎姿絵屏風 紙本着色 二曲一双 江戸時代(17世紀)徳川美術館

左隻

右隻

年若い遊女に、恰幅のいい若々しい侍が振り向く様子が描かれる。画面の周囲の表層にも葵文があしらわれていることから、古くから右扇の葵文の美女を千姫(徳川秀忠の娘)とみなし、右扇の若衆を本田平八郎(姫路藩主本田忠正の子息)とする伝承がある。当時の男女の文のやり取りは「文使い」と呼ばれる禿が取り持っていたが、この構図はまさしく両者が出会いを表現している。この文のやり取りを描いた「文使い図」は当時の出会いを表現している。この文のやり取りを描いた「文使い図」は当時の「遊楽図」において主要なモチーフとして繰り返し描かれた。近世初期の「遊楽図」の中でも傑作として名高い。

重文 湯女図 紙本着色 一幅 江戸時代(17世紀) 大阪・寂光寺

この図はけっして原画ではあるまい。多分原画から何度目かの写しだろうと辻暢雄氏は推測している。この図の女たちの「デロリ」とした不思議な実態感、肉体の存在感はどこから来るのか。「沐」という湯女の記号が文様の意匠をつけた女の尻の張り、大きな桜の紋様をつけた小袖に懐手をし、(”空歌うたひ、うそぶひぇて」ーまるで「廻国道之記」闊歩する番長役の女)ーまるで彼女らがタイムスリップして現代の我々の眼前を通り過ぎていくようではないか。辻氏は、この画家は又氷と推測している。面白い意見であると思う。

国宝 婦女遊楽図屏風(松浦屏風) 紙本金地着色 六曲一双 江戸時代(17世紀)大和文化会館

右隻

左隻

「松浦屏風」と呼ばれるこの屏風の名称は長崎県・平戸の大名 松平家所蔵であったことによる。しかし、松浦家の記録では、この屏風はその制作年代と考えられてきた近世初期に平戸にあっちゃのではなく、松浦家34世の活(号は静山1760~1842)が京都で入手したものであり、当時は岩佐又兵衛作とされていたという。総金地を背景とする大画面に、十八人の婦女を立たせり座らせたたりなど変化をつけて配列している。こうした等身大に近い人物群像の描写は、他の日本の風俗画には類例がない。

舞妓図 一幅  紙本着色  江戸時代(17世紀) 大和文華館

島田髷をはね元結で根結わいにして、大胆な花模様の小袖を纏う女性の舞姿である。本作のように、背景を省略した画面の中に一人の女性の立姿や舞姿を描いた作品は、江戸時代初期の正保から寛文年間(1644~1673)に盛んに描かれた。こうした作品群は今日、「寛文美人図」と総称されている。左足を前に踏み出して腰をひねり、扇を内側に返しながら右手を掲げ、袖口をつまんだ左手を斜め下へ張る。扇と同じ方向へ顔を傾け、左の袖崎へと視線を落とすという、一連の流れるような動作を無駄のない輪郭線によって巧みに描写している。

扇舞図 紙本着色 一幅  江戸時代(17世紀) 千葉市美術館

唐輪髷に結った女性が舞う姿を描く。正保から寛文年間(1644~1673)頃に流行したいわゆる「寛文美人図」に中でも、舞扇をする一人立ちの美人を描いた掛け軸は、複数の女性の舞姿を各扇に一人ずつ描いた「舞踊図屏風」のような先例を母体として成立したと考えられている。こうした舞姿の「寛文美人図」には、当時の人々の舞に対する興味とともに、最新のファッションに対する関心がうかがえる。女性が舞う白地の小袖は、全体に小花模様を散らし、腰と裾に松皮菱形を、両肩と裾に大きな円模様を配し、両肩と裾に大きな円模様を配し、鹿の子絞りを多用する。こうした動きのある大胆な構図や奇抜な模様には、寛文年間(1661~1673)に女性の間で流行した「寛文小袖」の特徴が表れている。

 

本稿では、「遊楽図屏風」「舞踊図」など、17世紀の江戸時代に流行した屏風絵、扇舞図などを紹介した。非常に、繊細で、流行に敏感な江戸時代の人々の気分がよく出ている美術品であった。都市商人、庶民の間には浮世絵が、高級武士層、支配階級層には「優渥図屏風」という形で、当時の最新のファッションが採用されていった様子が良く理解できる展覧会であった。もう一歩で「浮世絵」という時代背景であった。

 

(本稿は、図録「遊びの流儀、遊楽図の系譜  2019年」、図録「寛永の雅 2018年」、辻暢雄「岩佐又兵衛 浮世絵を作った男の謎」、元色日本の美術第24巻「風俗画と浮世絵」を参照した)