運  慶  展 

興福寺中金堂再建特別展として、「運慶展」が東京国立博物館にて9月26日より11月26日まで開催されている。私は、初日に出かけたが、驚いたことに9時半のオープン前から延々長陀の列が出来て、入館までに約30分かかるという驚くべき集客力である。よほど主催者に名前を連ねる朝日新聞社が無料券を配布したのだろうと勝手な憶測をしたが、館内にも沢山の人が熱心に仏像を拝観されている様を見て、大変驚いた。日本人はかくも仏教に熱心であるのか、仏教美術に関心があるのかと驚いた。例えば、この前の「タイ~仏の国の輝き~」の初日はガラガラであった。何故、運慶という仏師の展覧会になると、かくも大勢の人が集まるのか、判らない。しかし、「仏師 運慶」に興味を抱く方が大勢いることは、私にとっては大変嬉しいことであり、是非、運慶仏の美しさ、リアル感を感じて頂ければ幸いであり、是非、奈良・京都の古仏を拝観して頂きたいと思う。さて、仏師の氏名が明らかになるのは何時頃からであろうか?仏教伝来の頃、飛鳥時代の仏師・鞍造止利(くらつくりとり)の名は有名である。飛鳥寺に今も残る重文・飛鳥仏は止利仏師の作であることは日本書記にも記されて、有名であり、日本史の教科書にも載っている。また法隆寺の金堂の「釈迦三尊」像も止利の銘があることから、止利仏師作とされ、国宝に指定されている。(但し、私は飛鳥時代に遡る仏像ではないと思っている)しかし、奈良時代の名作、薬師寺の三尊仏、新薬師寺の十二神将像、興福寺の八部衆(例えば阿修羅像)の作者名は不明である。仏師の名前が明らかになるのは平安時代の半ばの定朝(じょうちょう)からであろう。定朝様式として、日本初の和風の仏像としてもてはやされた。これが鎌倉期に入る頃になると、仏師の名は一気に広まった。治承4年(1180)12月に平重衡(しげひら)の軍勢が、奈良の東大寺と興福寺を中心にした南都焼打ちを行ったことは、史上あまりにも有名な事件である。この知らせを聞いた右大臣九条兼実(かねざね)が日記「玉葉」(ぎょくよう)治承4年12月29日の条に、「世ノタメ人ノタメ、仏法王法ハ滅尽シ了ルカ、オヨソ言語ノ及ブトコロニアラズ、筆端ノ記スベキニアラズ、天ヲ仰イデ泣キ、地ニ伏シテ哭シ数行ノ涙頬ヲ拭ウ」と書きとどめている。この平安末期、鎌倉初期の東大寺、興福寺の復興に仏師たちが活躍する場が生まれ、その仏師名が明らかになった。この時代の仏師は、定朝から別れ、院派、奈良仏師(慶派)、円派の3派に別れ、それぞれの特徴をだしていたが、奈良仏師として東大寺、興福寺の再興に力を尽くしたのが、奈良仏師派の慶派で、康慶、運慶、湛慶、康弁などであり、中でも「運慶」が一番知られている。従って、この稿では「運慶」の造仏を中心に見て行く。運慶は鎌倉時代に目覚ましい活躍を見せた仏師であり、父康慶のもとで学び、造像をともにしていた。運慶の生まれた年ははっきりしないが1145年頃と推定される。最初の作品は安元元年(1175)の銘記のある円成寺の「大日如来」とされている。奈良仏師の造る仏像の作風は、定朝の穏やかな作風ではなく、深浅のはっきりした彫り口が特徴である。

国宝 大日如来坐像 運慶作 平安時代・安元2年(1176)奈良・円成寺

本像は胸前で智拳印という印相を結ぶ、真言密教の教主・大日如来の像である。運慶最初の造像例として名高い。私は、昭和57年(1982)10月に、わざわざこの像を拝観するために奈良の円成寺まで出かけた記憶がある。現存する運慶の作品のうち、最も早い20歳代の作例であり、傑作である。台座の裏側に書かれた墨書には安元2年11月24日に像を造りはじめたこと、完成は翌年10月であること、銘の最後には、大仏師康慶の実弟子運慶という署名と花押が添えられている。父の名前も出てくるが、その完成までに1年近くかかっており、等身大の仏像の制作期間としては異例に長いことから、運慶自身の作(工房の作ではない)と見て間違いないだろう。弾力まで感じさせる瑞々しい肌の表現には、運慶の特徴が表れている。また玉冠、胸飾りなどの金物の出来具合も極めて良好である。まだ平安時代の趣きを残すが、胸を張った姿勢、胸を引き締めた側面観などに、平安時代に好まれた仏像の形とは異なる作風が打ち出されている。また奈良仏師がいち早く取り入れた玉眼を用いている。

乗用文化財 仏塔 運慶作 木造・漆箔 鎌倉時代・文治2年(1186)興福寺

興福寺西金堂に伝来した釈迦如来像の仏頭にあたる。奈良時代の天平6年(734)に創建された西金堂は、治承4年(1180)12月に、興福寺の多くの堂舎もろともに平家による南都焼討ちにより焼失した。西金堂は再建され、釈迦如来像の造像に、大仏師として起用されたのが運慶であった。この像は、江戸の大火(享保2年-1717)により現在の頭部のみとなった。この像は、豊かな肉着きと大振りな目鼻立ちが、いかにも鎌倉初期の慶派の作らしい。生気あふれる造形を持っている。この像は、円成寺の大日如来坐像に次ぐ、運慶の最も初期の作例の一つである。またこの事績から、興福寺の復興造営において、寺内では運慶が相当の立場を得ていたことがわかる。

国宝 毘沙門天立像 運慶作 木造、彩色、玉眼 鎌倉時代・文治2年(1186)願成就院

伊豆の願成就院は、北条時政が文治5年(1189)に創建した北条氏の氏寺であり、北条政子の実家の氏寺である。私は、伊豆の温泉に行く場合は、必ず願成就院にお参りすることにしている。運慶作の重要文化財(旧)であった阿弥陀如来坐像、不動明王像、毘沙門天像を拝観するのが楽しみだった。奈良仏師の運慶が、何故この伊豆の地に仏像を作成したのか不審に思ったこともあったが、鎌倉時代は武士の時代であり、まして北条家は、家臣団の中では、最も頼朝に近い存在である以上、依頼があれば駆けつけたのであろうと推察した。今回の運慶展では毘沙門天立像等が出品されていた。何時の間にか、国宝に格上げされていたのには驚いた。ここでは毘沙門天立像を解説したい。文治2年(1189)5月に、願成就院で阿弥陀三尊を中尊として、不動明王と毘沙門天立像を脇に配して造像が始まった。この願成就院の仏像は、飛躍的な変化を遂げた仏像となった。本像は大きく腰を左にひねり、高い位置に右手を上げて鉾を持つ姿は、それまでの神将形像とは異なって颯爽とした勢いを感じさせ、大きな魅力となっている。また、顔立ちにも、理想的な写実性を実現しようとした運慶の構成力が発揮されている。

重要文化財 不動明王立像 木造、彩色、玉眼 鎌倉時代・文治5年(1189)浄楽寺

浄楽寺の阿弥陀三尊像と同時に造られた不動明王立像と毘沙門天立像は、珍しい尊像構成であり、願成就院に倣っている。不動明王立像は、左目をすがめ、「へ」の字口として、口の両端から牙を上下に出す不動明王の作法にのっとった顔の形をしている。また右手に剣を持ち、左手で羂索を執るという姿勢も、一般的な不動明王の姿である。しかし、堂々たる姿は願成就院諸尊と同じく、運慶が打ち出した新しい趣向を、十分に伝えてくれている。運慶の造る像は、鎌倉幕府の御家人の間で評判にを呼んだのであろう。この後も、栃木・光得寺の大日如来像など、運慶の東国における造象は続いている。

国宝 八大童子立像 六躯(の内2躯) 木造、彩色、載金、玉眼 建久8年(1197)金剛岑寺                           衿羯羅童子          制多伽童子

 

八大童子は、もともと高野山の一心院本堂の像で、後に檀上伽藍の不動堂本尊として、平安後期の不動明王とともに祀られている。6躯が運慶作の国宝である。あとの2躯は後補作品である。不動明王の眷属は衿羯童子と制多伽童子として三尊で表わされる例が多いが一般的であり、八大童子は珍しい。特に衿伽羅童子、制多伽童子は、玉眼の効果が活きて童子の内面を表すかのような面貌表現とともに、実際の童子を見る思いがある。童子にしては豊かすぎるほどの量感的な肉親表現をとりながらも、なお野卑に陥らずに理知的に表したところに、運慶の優れた技量がみて取れる。

国宝 無着菩薩立像 世親菩薩立像 運慶作 木造、彩色、玉眼 鎌倉時代 建暦2年(1212) 興福寺北円堂                      無着菩薩立像        世親菩薩立像

 

興福寺北円堂は、藤原氏の祖先・藤原不比等の追善のために建てられたお堂であるが、治承4年(1180)の南都焼討によって焼失した。復興は遅れ、正治2年(1200)頃からようやく始動した。無着・世親菩薩立像は法印運慶が総責任者となり、末子の運賀・運助が担当したと考えられる。私は、この無着・世親像を3度拝観している。一度は北円堂の特別開扉の時であり、一度は興福寺国宝展(1997)で、三度目は今回の「運慶展」である。「無着」「世親」像の、思想家としての内面性と一般の人間の感情を備えた二人の姿は、古今東西の肖像でも、わずかに天平の「鑑真像」が匹敵出来る傑作である。無着、世親はインド人であるのに、運慶はモデルを日本人の僧を使った。無着、世親は精神性と内面性を表し聖・俗あわせ持つ写実的な現実を凝視する姿と対照的に抽象的な印象を与える像である。実在の人間の姿をありのままに再現しようとせず、むしろ、遠い過去の偉大さを、圧倒的な立体の存在感で表そうとした。ここに総監督としての運慶の意図が、十分うかがえる。私は、運慶の作品の中で、いや日本の肖像彫刻の中で、鑑真像と並ぶ最大傑作と評価したい。

国宝 四天王立像 四駆 運慶一門作 木造、彩色、鎌倉時代(13世紀)興福寺南円堂

現在、南円堂に安置されているが、果たして最初から南円堂の安置仏であつたかどうかは、疑問が呈されている。最近では北円堂説が注目を集めている。興福寺曼荼羅と図像的にほぼ一致するからである。この場合は建暦2年(1212)の運慶一門の作ということになる。現在、各像は岩座を踏んでいるが、この岩座は後補と見られるので、かっては邪鬼を踏んでいた可能性もある。運慶一門の湛慶、康運、康弁、康勝が担当したと思われるが、四天王は玉眼を採用せず、瞳を浮彫にする理由も不明である。今の所運慶作と確定は出来ないと思う。

 

運慶の造った仏像は何体あって、そのうち何体が「運慶」作かは疑問である。図録では31体説を採用しているように見えるが、実は確実なところは不明である。像内納入品や付属品に運慶の名が記されている像が17体ある。同時代の史料から確認できる像が1体で、そのほか13体は像内納入品のX写真や作風から推定されている。(これで31体となるー図録より)運慶は貞応2年(1223)に世を去ったが、鎌倉仏像の基礎を造った作家として一時代を築いた。慶派仏師として快慶、湛慶、康弁等多数の鎌倉仏師を生み出しており、鎌倉時代の武士階級の気風を良く表している。

 

 

(本稿は、「運慶  2017年」」、図録「興福寺国宝展  1997年」、原色日本の美術「第9巻  中世寺院と鎌倉彫刻」、古寺を行く「第1巻  興福寺」、田中英道「日本美術史全史」を参照した)