重要文化財  長谷川等伯障壁画展

長谷川等伯(1539~1610)は、戦国時代から桃山時代に生き、果敢に天下一の絵師への道を切り開いた男として有名である。等伯は現在の石川県七尾市に生まれ、始めは「信春」(のぶはる)と名乗り、能登地方には「信春」落款のある日蓮宗関係の仏画が多数伝えられている。信春は30代前半頃に妻子と共に上洛し、実家の奥村家の菩提寺・本延寺の本山である本法寺の塔頭・教行院に身を寄せた。町絵師として扇絵等を描いていたと伝えられるが、天正17年(1589)に千李休が寄進し、利休が秀吉より切腹を命じられた原因とも言われる大徳寺山門の内部の天井画と柱絵には「長谷川等伯五十一歳筆」の款記があり、等伯の作と言われている。等伯と利休の関係は深く、利休没後に「千利休像」(表千家不審庵蔵)を描いており、その賛者は大徳寺111世・春屋宗園(1529~1611)である.宗圓は大徳寺山門の落慶法要を担当していたのである。天正15年(1591)豊臣秀吉の嫡子・鶴松がわずか3歳で没する。等伯は、鶴松の供養のために創建された祥雲寺の障壁画を担当することになる。「楓図壁貼図」「松に秋草図屏風」は等伯の金碧壁画の代表作として、現在は智積院に伝えられている。しかし、この頃、成功を手にした等伯は様々な不幸が襲う。天正19年(1591)等伯の良き理解者であった利休が自刃し、文禄2年(1598)には、祥雲寺に「桜図襖」を描いた長男・久蔵が26歳の若さで没している。等伯はこの頃より、制作の中心を水墨画に定め、「竹林猿猴図屏風」(大徳寺蔵)など猿猴を多く描くほか、日本水墨史上の傑作である「松林図屏風」(東京国立博物館蔵)を描いている。南禅寺塔頭の天珠庵は、暦王3年(1340)に南禅寺の無閑普門の塔頭として創建された。その後、戦乱の世を経て荒廃していたが、雲岳零主が住持となったとき、雲岳の銘が細川幽斎夫人だった関係から、幽斎が天綬庵を細川家菩提寺として、復興した。現存する方丈は、棟札によって、慶長7年(1602)8月に建立されたことが分かる。障壁画もその折の制作とみなされ、等伯64歳の制作ということになる。晩年における等伯の水墨人物画の基準となる作品である。

南禅寺天綬庵   写真

南禅寺の塔頭である天授庵の写真である。

天授庵方丈の部屋割りと障壁画について

天授庵方丈には、室中(真中)に「禅宗祖師図」、上間二乃間に「商山四皓図」、下間二乃間に「松鶴図」が描かれている。いずれも長谷川等伯の制作であると考えられている。(落款は無い)今回の展覧会は、2期に別れ、第1期には「禅宗祖師図」が、第2期には「商山四皓図」が展示された。

重文  禅宗祖師図 爛瓉煨芋図(らんさんわいうず) 長谷川等伯作 桃山時代

一番左側の「爛瓉煨芋図」は、中国唐代の名僧、懶瓉和尚(らいさんおしょう)の故事を描くもの。石窟に隠れ棲む和尚の所に皇帝の勅使が参内を求めて来たが、和尚は牛の糞を燃やして暖をとりながら芋を焼いて食べている真っ最中。涙や鼻水を垂らして食おうとする和尚に勅使が、その鼻水を拭いてはどうですかと言うと、「俺は今、一大因縁のために工夫中である。鼻を拭う手間が惜しい。俗人に法を説く暇もない」と、参内を断ったという話である。

重文 禅宗祖師図 南泉斬描(なんせんざんびょう) 長谷川等伯作 桃山時代

この絵は、一匹の猫をめぐって争う僧徒を戒めるべく、その猫を切断したという中国唐代の故事の名僧、南泉普願の故事を描くもの。南泉の気迫漲る表情は迫力満点。対照的に、絶対絶命の猫には、その辺にいる猫を描き込んだかのような親しみやすさがあふれている。愛情をこめて描かれた、憐れなその姿といたいけない表情に目をこらしたい。

重文 禅宗祖師図 趙州頭戴草履図(じょうしゅうずたいあいず)長谷川等伯作桃山時代

南泉は、先ほどの出来事を弟子の趙州に話し、「汝ならばどうするか」と問いかけた。すると趙州は、何も言わずに履いていた草履を脱いで頭に乗せ、出ていった。趙州は、おどけているような態度で、猫を殺した南泉の行為を揶揄しているかのようである。この行動に対して南泉は、「お前がいたならば猫を救えたものを」と、趙州の機知を讃えたと伝えられている。ここでは鬼気迫る南泉の飄々とした表情が印象的である。この他に「船子夾山図」があり、全部で16面である。

重文 商山四皓図(しょうざんしこうず) 長谷川等伯作 桃山時代

上間二乃間に8画面で描かれている。この絵は、中国・秦末、乱世を避けて陜西商山に入った東園公(とうえんこう)、綺里季(きりき)、夏黄公(かこうこう)、用理先生(ろくりせんせい)の四人の隠士(いんし)で、皆髭(ひげ)や眉が皓伯(真っ白)の老人であったので四皓(しこう)と呼ばれた。西側四面に一人、南側四面に三人、それぞれ騎驢(きろ)姿で描かれている。天授庵方丈画において、人物のサイズはこれまでになく拡大し、必要最小限のモチーフによって、それぞれの画題を過不足なく表している。

松鶴図(しょうかくず)部分  長谷川等伯作  桃山時代

下間二乃間に描かれたのが松鶴図である。松や鶴は長寿をあらわす吉祥画題として、古来描かれている。この襖絵では五羽の鶴が描かれている。伏せている2羽の鶴は、いかにもくつろいだ表情をしている。少ない筆致で的確に鶴の体躯を表現しており、筆遣いには勢いを感じさせる。

重要文化財  等伯画説 日通作  桃山時代   本法寺蔵

日蓮宗の本山「叡昌山本法寺」は、法華宗を信仰した長谷川等伯とのゆかりの深いお寺である。30代前半頃に能登から上洛した等伯は、本法寺の塔頭・教行院に身を寄せており、本法寺には等伯の絵画だけでなく、貴重な資料が残されている。そのなかの「等伯画説」は、本法寺10世の日通が、等伯との談話のなかで聞いた絵画に関する話題を97条に亘って書き記した冊子本である。日通(1551~1608)は、堺の豪商である油屋一族の出身で、本法寺中興の祖とされている。「等伯画説」は、記された内容から成立時期は天正10年(1582)頃と考えられる。桃山時代を代表する画人である等伯の芸術観が記されている。かねてこの冊子を見たいと考えていたが、思いがけない場所で見る機会に恵まれ、特に印象に残った作品であった。

重要文化財 玉甫紹琮像  長谷川等伯作  桃山時代  高桐院蔵

沓を沓床に脱ぎ、竹箆(しっぺい)を手にして曲彔(きょくろく)に座る玉甫紹琮(ぎょくほじょうそう)(1546~1613)を描いている。簡略な筆致ながら、対象の特徴を的確に捉えている。玉甫は細川幽斎の弟で、幽斉の長子である細川忠興により慶長7年(1602)に創建された大徳寺塔頭(たっちゅう)高桐院(こうとういん)の開祖である。高桐院には等伯の襖絵があったとされる。(現在は確認されていない)尚、高桐院には数年前に訪れたことがあるので、いずれ「美」に記事を記載したいと思っている。

 

永青文庫は、肥後の細川家の美術館で、目白駅の近くにある。立地的には行きやすい場所であるが、私は今回が初めての見学であった。長谷川等伯の障壁画が何枚も並ぶと聞けば、何が何でも拝観に出かける筈である。極めて見応えのある内容であった。南禅寺の塔頭である天珠庵の等伯障壁画は2010年の「没後400年 長谷川等伯」展で観たことはあるが、あまりにも展示品が多く、深く印象に残っている訳ではない。今回の展覧会は2期に分かれ、天珠庵の襖絵全32面を公開するもので、細川家ならではの企画であった。直ぐ目の前に、桃山時代の傑作が並ぶ様は、夢のような印象であった。襖絵の墨絵は、視難くて、この「美」の写真を通してでは、残念ながら、あまり印象には残らないと思う。出来れば、是非、ご自身で拝観していただきたい。残念ながら、写真を販売しておらず、雑誌や図録からの転写であるため、非常に視にくいと思う。また、この展覧会で、重要文化財「等伯画説」を直接見る機会に恵まれ、非常に幸運であった。等伯の理解には欠かせない資料である。この点は、大変有り難い機会であった。

 

(本稿は、「永青文庫99号 重要文化財 長谷川等伯障壁画展 2017年」、図録「没後400年 長谷川等伯  2010年」、安倍龍太郎「等伯上下」、田中英道「日本美術史全史」、日経新聞 2017年9月29日号「ガイドワイド」を参照した)