銀 閣 寺   東 山 文 化 の 地

日本歴史の中で一番国民に残虐な生活を強いた時代は何時だろうか?私は、やはり先の大戦の本土空襲による焦土化、原子爆弾被爆、沖縄戦争下の日本人の死亡、更に戦後昭和23年頃までの飢餓状態を上げざるを得ないと思う。これと同等、もしくはそれ以上に苛烈な体験を強いたのは、応仁の乱と、その前後の室町時代ではなかと思う。応仁の乱は応仁元年(1467)、将軍後継者を巡って、細川勝元と山名持豊が争い、京の都を焦土と化した戦いであり、戦いが終わったのは文明9年(1477)で、実に11年に亘って京の都を焦土と化した戦いである。この時の足利将軍は八代将軍・足利義正(1436~1490)であり、もともとの原因は足利家の内紛であった。寛政6年(1465)、義政夫人の日野富子(ひのとみこ)が義尚(よしひさ)を生んだ。その1年前に、夫婦はもう男の子は生まれないとして弟の浄土寺門跡義尋(ぎじん)を無理に還俗させて義視(よしみ)と名乗らせ、養子とした。義尚(よしひさ)を将軍にしたいと願う富子と義視(よしみ)の間には、たちまち対立が生まれ、それが細川勝元と山名持豊の対立となって、応仁の乱となった。応仁の乱は、京都のみではなく、都市、農村に飢餓、悪政、党争を興し、大乱となった。将軍義政は、妻富子の間に感情のもつれが大きくなり、文明5年(1473)12月に、義政は無責任に第八代将軍を辞し、まだやっと9歳になった義尚(よしひさ)を元服させ、第九代将軍に就かせた。義政は、東山に銀閣寺(滋照寺)を造ることに専念したかったのである。

銀閣寺垣

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総門を入ると、銀閣寺垣と二重の大刈込みにはさまれた直線の導入部となる。突き当たって左に曲がる。この道は飾り気がなく、しかも計算された清らかなデザインであり、重厚であると思う。

銀沙灘(ぎんしゃだん)・向月台(こうげつだい)      江戸時代後期

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銀閣寺(滋照寺)の最大の特徴は、庭園にある。まず唐門を入ると目に付くのは銀沙灘(ぎんしゃだん)と向月台(こうげつだい)である。多分、日本の庭園を巡っても、この白砂の積み上げられた銀沙灘にお目に掛かることは無いだろう。一段と高く砂を積み上げた壇が向月台である。銀沙灘の高さは約65cm、向月台は約180cmの高さである。これが室町時代の庭園かと思ったが、実はこの白砂の庭園は江戸時代後期の作庭であり、義政好みではない。荒廃に向かっていた銀閣寺の旧観を取り戻す計画が着手されたのは元和元年(1615)6月だった。宮城丹波守豊森(みやぎたんばのかみとよもり)を奉行として大々的な修理作業が行われた。その白砂は、庭の池から組み出した白砂であったそうである。月夜の晩には白砂に月影がほのかに映えて美しいそうである。

国宝 銀閣と錦鏡池(きんきょうち)                  室町時代(15世紀)

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庭の中心が錦鏡池であり、池を正面にして銀閣が東向きに建ち、四季折々に閑静な風情を見せてくれる。「陰涼軒目録」(おんりょうけんもくろく)によれば長享3年(1489)の上棟になることがわかり、明治33年(1900)に国宝に指定されている。銀閣(観音殿)は、宝形造(ほうぎょうつくり)、杮葺(こけらぶき)。二重の殿閣(でんかく)である。一層を心空殿(しんくうでん)、二層を潮音殿(ちょうおんでん)と名付けられている。心空殿は書院造の住宅風で、軽快な構造である。潮音殿は、禅宗の仏殿風で、東に三つ、南の戸口両脇に火灯(花頭)窓を配する。四周には縁がめぐり、先端に和風の高覧を置く。内部は板敷で、中央に須弥壇を置き、木造観世音菩薩を安置しているそうである。(内部は公開していない)銀閣には、義政によって創建時に銀箔で荘厳されていたと伝わっているが、近年の研究の結果では、銀は全く検出されていないそうである。健築に当たって義政は、北山鹿苑寺(金閣)にしばしば出かけ、金閣にのぼったとされる。義政が新たな山荘を建てる殿閣ー銀閣の下見であったとする説が多い。庭の中心部を占める錦鏡池(きんきょうち)には、天下の名石が集められている。赤松正則は、庭園のために名石、名木を献上している。銀閣や錦鏡池を造営するための費用は諸国に段銭(たんせん)をかけてまかなった。朝倉氏影、土岐成頼、山名政豊、吉川経基等が段銭を徴収して協力している。

国宝  東求堂(とうぐどう)        文明18年(1486)

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境内の最も東に建つているのが、足利義政の持仏堂(じぶつどう)東求堂(とうぐどう)である。三間半四方の正方形面で、入母屋造、桧肌葺(ひはだぶき)である。文明18年(1486)の建立で、名前の由来は義政の側近の禅僧横川景三(おうせんけいさん)に諮問して、仏典「六祖壇経」(ろくそだんきょう)の一節「東方の人、念仏して西方に生ずるを求む」にちなんで名付けられた。正面に義政の筆になる「東求堂」の扁額が懸けられている。(現在架っているのは明和4年(1767)の複製)

同仁斎(どうじんさい)             室町時代(15世紀)

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東求堂(とうぐどう)の内部の東北にあるのが書斎同仁斎(どうじんさい)である。同仁斎は四畳半で北に一間の付書院(つけしょいん)と半間の違い棚(ちがいだな)を縁に張り出して設ける。書院の名は義政が横川景三に諮問し、中唐を代表する文人韓愈(かんゆ)の「原人」の一節「聖人は一視して同仁」から取ったそうである。弥陀の前では分け隔てなく皆平等であるとの意があるとされる。相阿弥(そうあみ)の「御飾記(おかざりき)」によれば、付書院の上に筆・硯などの文具や書物、違い棚に茶道具類が置かれていたそうである。この同仁斎は、四畳半の書院座敷として現在最古の遺構である。この時期、応仁、文明の乱(1467~77)前後から戦国時代初期にかけて四畳半志向とも言うべきたしかな動きがあった。四畳半は、今日の私達日本人にとっても身近な生活空間であり、その端緒はこの時期にあったと思われる。この同仁斎こそ、床の間、違い棚に示される日本の書院造りの走りであり、現在の日本間の起源と言えよう。この話をある人にしたら、今のマンションでは、床の間も違い棚も無いと言われ、この同仁斎は、現代ではなく、近代日本の書院造りの起源であると言い直さなければならないかも知れない。

銀閣寺型手水鉢(ちょうずはち)            室町時代(15世紀)

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方丈から東求堂へ渡る間に「銀閣寺型」と称される手水鉢(ちょうずばち)が置かれている。各面正方形で上面の水溜を円形とする。僧侶の袈裟の文様を連想させることから袈裟型手水鉢とも言う。後に千利休が写(うつし)を造ったと伝えられているので、創建当初のものと思われている。

唐物小丸壺茶入 足利義政所持 付属 青貝盆     南宋時代

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足利義政遺愛のいわゆる東山御物(ひがしやまごぶつ)の茶入である。中国伝来の書画や道具類は唐物と称されて武将らの好尚の対称となった。この中国伝来の茶入は全体に茶地色で正面に乳白の釉がひっそりとかかり、いかにも愛らしい風情は好感が持てる。青貝螺鈿(らでん)の黒漆角盆も同じく唐物で、茶入とよく合っている。

 

足利将軍が所蔵していた美術工芸品、いわゆる東山御物(ひがしやまごぶつ)は、室町時代に鑑賞された造形美の頂点を示している。「東山」とは、室町時代の八代将軍義政が月待山を背景とした東山の佳境を愛して、文明14年(1482)から東山殿(ひがしやまどの)(山荘)の造営に着工し、応仁の乱を経て、文明18年(1486)に東求堂が完成し、長享3年(1489)に観音堂(銀閣)の上棟が行われた。義政はその年の10月に持病が悪化し、55歳の生涯を閉じた。死の直前、義政は山荘を禅寺とするよう遺命し、翌3年(1490)3月東山殿滋照寺と改められた。相国寺の塔頭の一つとされた。ところで、足利義政は「東山御物」と呼ばれる絵画や工芸品など中国伝来の文物、いわゆる「唐物」(からもの)を収集したことでも知られる。今では、その多くは諸方に散逸している。それが根津美術館、三井記念美術館、畠山記念館、徳川美術館、五島美術館などに収集されている。2014年10~11月に、三井記念美術館で「東山御物の美」として100点余が展示され、多くの観客を集めた。この滋照寺(銀閣、東求堂、錦鏡池など)の建設や、庭園作庭、果ては東山御物の収集には、義政が特に重用した、善阿弥の存在が大きい。当時、工事に携わった身分の低い人達であってもすぐれた技能を持った技術者が現れ、義政は、こうした人々を同朋衆(どうぼうしゅう)として用いた。善阿弥、能阿弥などが知られている。いずれも時宗の信者であるのも不思議である。(勿論、反対意見もある)今日、東山文化として、日本の美意識や、今日の生活様式にまで大きな影響を残している。滋照寺は、銀閣寺という観光地のみではなく、日本文化の大きな発信地としても理解する必要がある。司馬遼太郎が「この国のかたち」第1巻で次のように述べている。東山文化の本質をついた言葉として紹介したい。「かりに北条早雲を野暮の代表とすれば、かれと同時代の将軍である足利義政はまことにいきなものであった。義政は統治者でありながら、応仁・文明の乱をよそに見、いっさい手を打とうとしなかった。この人物は、そういうわが身の無為無策にあせりなげきもしていない。どういう神経なのか、東山の山荘(銀閣寺)に超然として風流三昧のくらしをつづけたのである。かれはおそらく美的なものを鑑賞する能力においては室町時代きっての人物であったろう。文化史上の区分けである”東山文化”は、むろんこの人物の存在と感覚を外しては成り立たない。」

 

(本稿は、新版 古寺巡礼「京都 第11巻 銀閣寺」、探訪日本の古寺「第7巻 京都Ⅱ」、探訪日本の庭「京都Ⅰ」、図録「東山御物の美ー足利将軍の至宝 2014年」、司馬遼太郎「この国のかたち第1巻」を参照した)