長府藩武家屋敷小路と 国宝 仏殿

今年(2017年)の夏・7月に下関の花火を見学する機会があった。折角の機会でもあるので、下関に行く前に、長府藩毛利邸と武家屋敷跡を見学して、大きな感動を覚えた。そもそも長府藩(ちょうふはん)は江戸時代の藩の一つである。長州藩の支藩(しはん)で、長門府中藩(ながとふちゅうはん)とも言う。藩祖は毛利輝元の四男の穂井田元清の子で、毛利輝元の養子となった毛利秀元であった。秀元は、天正20年(1592)4月11日に朝鮮出兵に向かうために毛利氏の本拠であった広島城に入った秀吉によって養嗣子となることを承認された。但し、後日の紛糾を避けるために「輝元に男子が生まれた場合には分家すること」という条件の下であった。その後、輝元に嫡子秀哉が誕生したので、慶長3年(1598)8月1日に、豊臣政権は秀哉を毛利氏の後継者として承認し、事実上廃嫡される秀元には輝元から所領を分治されて大名となることが決定された。翌年の慶長4年(1599)6月には、この方針に則って秀元に長門国一国と安芸佐伯群及び周防群の合計17万石をもって、叔父である小早川隆景の例に倣って毛利家臣でありながら大名としての身分が認められることとなった。この時(慶長4年)が、長門藩の立藩である。関ヶ原の戦いの後に、毛利輝元は安芸ほか8か国で112万石から周防・長門の2か国29万8千石に減封された際に、輝元が東の守りとして岩国に吉川広家を置き、西の守りとして改めて長門国豊浦郡(元在の山口県下関市)に秀元の領地を与えられた。後に長州藩は、幕府の了解を得て36万9千石に高直しをおこなった。長府藩は、最初6万石であったが、後に1万石を分治して幕末には5万石となった。この長府藩の跡を訪ね、素晴らしい武家屋敷の小路に感激し、かつ国宝の仏殿を拝して、この上ない旅となった。

長府藩の武家屋敷の塀の連なり

長府藩は、明治維新により豊浦県を経て山口県に統合されている。従って、現在の地名は下関市長府となる。江戸時代から続いた武家屋敷の跡が整然と残っており、繕いも出来ない武家屋敷の塀は、どのような経済変化の跡を受けて、現在に残ったのであろうか?鹿児島県には、武家屋敷の跡が残っていることで有名であるが、この長門藩の跡地も素晴らしい景色である。

古江小路(ふるえこうじ)

古江小路とは、上の長府藩の武家屋敷の塀の連りのことを言う言葉であろう。この城下町長府の武家屋敷は合戦に備えて防衛的配慮がしてあり、この土塀は防壁として築かれている。そのため町筋は碁盤の目ではなく、丁字型になった部分も多く、わざと迷路のように造られている。

菅家長屋敷門・練塀

古江小路の中ほどに「菅家長門門・練塀」がある。これは長府藩初代藩主毛利秀元が、京都から招いた侍医兼侍講職を務めた格式のある家柄であった。現在は、門と練塀を残すのみであるが、江戸時代の面影を良く伝えている。

長府  毛利邸

明治維新により大名は、すべて東京に住むことになり、新政府は爵位を与えて厚遇した。長府藩も支藩とは言え大名であるので、東京に住むことになった。長府毛利藩邸は、長府毛利家14代当主の毛利元敏(もうりもととし)公が、政府の許可を受けて、東京から下関に帰住し、この土地を選んで建てた邸宅である。明治31年(1898)に起工し、明治36年(1903)6月に完成した後、大正8年(1919)まで長府毛利家の邸宅として使用された。純日本風の建築であり、庭には淵黙庵(えんもくあん)と名付けた茶室もある。武家屋敷造りの重厚な母屋と日本庭園が、見事な風情を感じさせてくれる。

母屋より庭園を望む

母屋の縁側から、庭園を写したものである。庭園は池泉回遊式である。

池泉回遊庭園より母屋を望む

逆に、庭園から母屋を写した。明治時代の建物であるから、古い家というより、むしろ立派な邸宅という感じを受けた。

国宝 功玉寺 仏殿 二重屋根入母屋造り、 鎌倉時代(嘉暦2年ー1327)

長府の毛利邸を辞する時に、功山寺(こうざんじ)というお寺が近くにあり、長府毛利家の墓所と聞いたので、少し山を登って功山寺を何の予備知識も無く、訪問した。功山寺は、明治維新の前に毛利氏の歴史の上で有名な事件を残しているが、何よりもこの国宝 仏殿には驚いた。まさか、長府の山の中に、これだけ立派な国宝 仏殿があることは全く知らなかった。まるで鎌倉円覚寺の舎利殿と同形式で、鎌倉時代の仏殿建築の代表的な建物である。なお、時間的に午後4時頃であったため、逆光でうまく写真が写せなかったので、後ろから写した写真が見易いと思う。

国宝 功山寺   仏殿  後方からの写真

二重入母屋造りの桧肌葺きである。毛利氏とは歴史的に離れているが、この寺の歴史は毛利氏以前に遡る。毛利氏以前に中国地方で権勢を振るっていたのは大内氏である。大内義孝は周防など7か国の守護職を兼ねていた。天文年間(1532~55)ザビエルを引見しキリスト教の布教を許し、西洋文明の輸入に勤めた守護大名である。しかし、天文20年(1551)、彼は家老の陶晴賢(すえはるかた)に襲われ、やがて自殺するが、その跡を継いだ大友宗麟の弟が、大内義長と名乗った。安芸国(広島)吉田庄から出た毛利氏が、かの元就の代にぐんぐん勢力を伸ばし、弘治元年(1555)元就は陶晴賢を安芸厳島に襲撃、敗死させ、ついで弘治3年(1557)4月、大内義長を長門勝山城に攻めて、功山寺(当時は長福寺といった)に、逃げ込み、毛利勢の追討が押し寄せ、この仏殿で割腹自殺した。その時、従った家来は30名と伝えられている。

国宝  功山寺 仏殿  斜め後ろより撮影

勝者毛利輝元は、中国地方から大内と尼子の勢力を駆逐し、その大部分を支配した。孫の輝元は、豊臣政権下において、安芸・周防・長門・石見・備後・出雲・隠岐・伯耆の八カ国、百十二万石の大大名であり、五大老の一人であった。しかし、関ケ原の合戦(慶長5年ー1600)で、毛利輝元は名義上とは言え西軍の総大将として大阪城に入城したから、徳川将軍によってその罪を問われ、周防・長門二国に領地を削減された。これが以後270年余にわたって続いた長州藩である。八カ国、百十二万石にふくれあがった家臣団を、二カ国36万石の規模に再編成するのは容易なことではなかったであろう。長州藩の本拠萩城では、毎年元旦に大広間に藩士一同が居並び、歴代家老がお殿様に「おそれながら統幕の儀、本年はいかが相はからいましょうや」と申し上げると、殿様が「いまだ時期熟すまい」と答える。これが毎年の行事であったそうである。(多分、後から作った話と思う)

高杉晋作銅像    功山寺内

長州藩では、元治元年(1864)12月16日、高杉晋作がわずか80名をひきいて、俗論党の支配する藩政府を打倒すべく挙兵した。いわゆる「回天義挙」であり、長州藩のその後を支配する最も重要な一つであることは間違いない。長府藩には下関も含む。ここでは、下関海峡における外国連合艦隊と交戦し、長州藩が惨敗した歴史もあるが、長州と薩摩国が連合し、徳川幕府を倒し、明治維新を切り開いた歴史の幕開けの場所でもあった。

下関海峡   ホテルのテラスより写す

遙かに下関より門司を望む景色であり、かって「壇の浦」の合戦の場であり、近くは、連合国との「下関会戦」の場でもあった。日本の歴史の転換点に、登場する下関海峡である。

 

なお、功山寺の寺の前身は、嘉暦2年(1327)虚案玄寂(こあんげんじゃく)が開山として創建された長福寺(ちょうふくじ)という臨済宗禅院であった。しかし、仏殿内陣の柱に書かれた墨書銘によると元応2年(1320)立柱とあるので、創建年代は少し遡るであろう。室町時代には守護大内氏の庇護を受けて、大いに繁栄したが、弘治2年(1556)大内義長が仏殿で自刃するなど、戦乱の余波を受けて衰微したが、長府藩初代毛利秀元は金岡用兼(きんこうようけん)を招いて再興し、功山寺と寺号を改め、菩提寺とした。               長府藩の古江小路と毛利藩邸を見学する予定であったが、思いがけず功山寺 仏殿を拝し、あまりにも豪華な国宝に接し、話が長くなった。中々行き難い場所であるが、下関の花火と共に、今年の夏の良き思い出となった。

 

(本稿は、パンフレット「長府毛利邸」、ウイキペディア「長府藩」、探訪日本の古寺「第14巻 山陽・山陰」、山岡宗八「毛利元就1・2巻」を参照した)