開館60周年記念  松方コレクション(1)

日本の芸術家、大勢の人々のために美術館を作るー神戸の川崎造船所(現川崎重工業株式会社)」は30年にわたって率いた松方幸次郎氏(1868~1950)は、大一次世界大戦によって船舶需要を背景に事業を拡大しつつ、1916年~1927年頃のパリやロンドンを中心に西洋の美術品を買い集めた。その総数は3000点を超え、フランスから買い戻した浮世絵の約8000点を加えれば、約1万点を超える規模であった。しかし、1927年、昭和金融恐慌により造船所は経営破綻に陥り、コレクションは流転の運命をたどった。日本に到着した作品群は売り立てられ、ヨーロッパに残された他の作品も流転の運命をたどった。日本に到着した作品群は売り立てられ、ヨーロッパに残された他の作品も一部はパリでフランス政府に接収された。戦後、フランスから日本へ寄贈という名目で返還された375点と共に、1959年(昭和44年)、国立西洋美術館が設立され、ようやく松方コレクションは安住の地を得た。(詳細については、図録の冒頭論文「松方コレクション百年の流転」-陳岡めぐみ・国立西洋美術館館長)に詳しく書かれている)

睡蓮  クロード・モネ作 油彩・カンヴァス 1916年 国立西洋美術館

「睡蓮」をめぐるモネの作品の中でも、パリのオランジュリー美術館に飾られている大装飾画は、モネの画業の集大成として広く知られている。ジヴェルニーに居を構えた晩年のモネは、1980年代後半から自宅の庭の睡蓮の池をモチーフとする一連の作品の制作に没頭した。1918年11月、第一次世界大戦の終結とフランスの勝利を記念してモネは、当時の首相で旧友のジョルジュ・クレマンソー(1841~1929)に作品の国家寄贈を提案した。完成に向けて努力したが、1926年12月に故人となった。作品は、その後、1927年にテュイルリー公園の一角にあるオランジュリー美術館に設置された。松方は、モネと親交があり、二度にわたって松方がジヴェルニーを訪れて多数の作品を購入した。モネは未完の作品をアトリエから外に出すことを嫌った                  松方はモネから入手した2点の「睡蓮」のうち1点が本作品である。恐らくジベルニーの作品の第一室の東の壁にある「緑の反映」に関連づけることができる。もう1点が近年発展されたが(睡蓮、柳の反映)、それは最後に紹介する。

松方幸次郎氏の肖像 フランク・ヌラグイン作 油彩・カンヴァス 1916年 国立西洋美術館

この肖像は、松方とブラグイがロンドンで出会った頃、そして美術品収集を始める1916年に制作された。松方にこの画家を紹介したのは、ロンドンに外交官として駐在していた芸術通の兄正作や、在英日本人画家の石橋和調等と言われるが、画家と石橋は親しい関係を築き、松方はブラグインに彼の作品の売却、東京に建設予定の美術館のデザイン、そして他の画家の作品の購入の代理を依頼するようになった。本作品では、カンヴァス裏面に「1時間で描く」とあるように、素早い筆さばきで生き生きと、モデルの姿を捉えている。

花野に眠る少女 ジョバンニ・セガンティー作 1884-85 水彩・カンヴァス        国立西洋美術館

牧歌的な情景を描いたパステル画(花野に眠る少女)はブリアンツ地方で描かれた。後にセガンティーニ画風は「生」や「死」と言って普遍的な概念を扱う象徴主義へと移行していくだが、松方は自然主義的な作品に限って購入した。実際、コレクション全体を見渡しても、神秘主義や観念を偏重するタイプの象徴主義的作品はほとんど含まれていない。

春(ダフニスとクロエ)ジャン・スランソワ・ミレ作 1865年 国立西洋美術館

農民画家として名高いフランソワ・ミレーはノルマンディーの海辺に生まれた。1837年にパリに出て、国立美術学校でドラロッシュに師事し、1840年にサロン初入選。当初は肖像画や物語絵を描いたが、次第に素朴な農民生活を題材とした作品に取り組んでいく。1849年にバルビゾン村に移住し、後にバルビゾン派と称された。大地に根差した農民の姿を感情豊かに描き続け、晩年は高い名声を得た。1864年、ミレーはマールの銀行家トマの注文を受け、翌年にかけて、パリの邸の食堂を装飾するため「四季」を主題に天井画と3枚のタブローを描いた。そのうち本作は、「春」を描いたものである。春の陽光が降り注ぐ森の中で少年と少女が雛に餌を与え、木立の向こうには山羊の親子と海辺の遠景が覗く。場面は二人の捨て子ダフニスとクロエがエーゲ海のレスボス島の牧歌的な自然の中で幼い愛を育み結ばれるという、古代ギリシャで書かれた恋愛物語に取材している。後ろに立つ石像は、草花や卵を捧げられた豊穣の神である。ここでは人生の春に四季が重ね合わせられている。

並木道(サン=シメオン農場の道) クロード・モネ作 1864年 油彩・カンヴァス 国立西洋美術館

貧しき農夫 ピエール・ピュヴィス・ド・シャバンヌ作 1864年 油彩・カンヴァス 国立西洋美術館

19世紀フランスを代表する壁画家ピュツヴィ・ド・シャバンヌは第二帝政期から第三共和政期にかけて、重要な公共建築物を飾る裕福な家庭に生まれるが、病気静養で訪れたイタリアで画家を志し、パリでトマ・クチュールらに師事する。古典の伝統を受け継ぐ継ぎつつ、抑えた色彩と簡潔な表現、平坦で装飾的な画面構成を特徴とする作風で、独自の象徴主義的な作品世界を築き、続く世代へ大きな影響を与えた。本作は、ピユヴィ・ド・シャパンヌの代表作の一つ「貧しき農夫(パリ・オルセー美術館)」のヴァリトンである。貧し気な漁師の一家を水辺に風景と共に横長の画面に描いた1881年の作品は、サロンに出品された当時は批判の声も多かったものの、1887年に当時の所有者エミール・ボアヴァンから国家に買い上げられ、リュクサンブール美術館に展示された。スーラーやマイヨールをはじめ、多くの若い画家たちがこの作品の影響を受けたことが知られている。本作については、1893年に画商デュラン=リュエルからポワヴァンのもとに渡った記録が残されていることから、恐らくこの愛好家のためにオリジナルに代わるものとして制作された。縦長の構図や小船のモチーフとあいまって、画面はジャポニズムの影響をより色濃く見せている。

波  ギュスタヴ・クールベ作 油彩・カンヴァス 1887年 国立西洋美術館

フランス東部、スイスと国境を接するフランシュ=コンテ地方に生まれ育ったクールベにとっては、海は長い間未知の世界だった。彼が生まれて初めて海を見たのは、ノルマンディーの地方を旅した22才の時である。1850年代のモンペリエ滞在の折に、地中海の風景をいくつか描いている。その後、1850年代のモンペリア滞在の折に、地中海の風景をいくつか描いている。しかし、クールベが海の風景に本格的取り組むのは1860年代後半のことである。この時期、彼は英仏海峡に面したル・アーブル周辺の海岸をたびたび訪れた。特に1866年はブーダンとモネを伴なって周辺の海岸をたびたび訪き、海岸の風景を25点ほど描いている。更に1869年の夏には、断崖の奇観で知られるエトルタ海岸に約2ケ月滞在し、それから翌年にかけて、嵐の海の風景を沢山制作した。1870年のサロンに出品した「嵐の海」と「嵐の後の風景とエトルタの断崖」は共に高い評価を受け、前者はクールベ歿後間もなく、彼の作品として初めてリュクサンブール美術館のためにフランス政府に買い上げられた。エトルタの嵐の海を描いた本作には、ほとんんど同一の構図による異作が数点ある。茜色に染まった雲が広がる暗い空の下で、巨大な波のうねりを頂点に達すると同時に崩れ落ち、岩礁にぶつかって白いしぶきをあげる。画面は空と海にほぼ二等分され、荒れる海面はカンヴァスの境界を越えて手前に広がり、大波が目の前に迫るかのようである。構図はごく簡潔だが、茜色の空と暗い緑色とを対比させた配色や、絵筆とペインテイングナイフを使い分けた質感表現に、優れた技量が認められる。一連の波は物語的要素や感情を一切交えずに、峻厳な自然の実相を客観的にとらえようとした点において、故郷の山岳地方に取材した1860年代中期の「ピュイ=ノワールの渓谷」や「ルー河の水源」の作品に通じる性格を持つクールベの風景画の独自性を示している。」

芍薬の花園 クロード・モネ作 油彩・カンヴァス 1887年 国立西洋美術館

ヴェトゥイユ時代を経て1883年にモネはパリの北西、ノルマンデイーも南東部に位置する小村ジヴェルニーに移り住む。」セーヌ河とエプト川が合流する自然豊かなこの水辺の土地を気に入ったモネはやがて自宅の周囲に土地を広げ、後期の制作においては重要な着想源となる庭園の造成を進めた。「芍薬の花園」は、この題材として描かれた作品の中で初期のものである。この庭に水を引いて造った睡蓮の池は、モネ晩年のライフワークとなる「睡蓮」の連作を産むことになる。「芍薬の花園」は「睡蓮」への道のりを示す作品である。

「日本婦人の肖像(黒木夫人)」 油彩・カンヴァス 1922年 エドモンド・アマン・ジャン作  国立西洋美術館

画家モネに愛され、松方とモネの出会いにも貢献した黒木竹子は、松方家長兄で十五銀行頭取の松方巌の娘であり、大蔵省の委嘱により国際金融情勢を調査する目的でパリに対在したていた夫の三次とともに1920年前後のパリに滞在していた。夫妻も美術を好み、画家と交流し、絵を集めている。当時のフランス画壇の中心的地位を占め、洋画家児島虎次郎との交流でも知られていた。和服姿の竹子を描いた「日本婦人の肖像(黒木夫人)」は、夫妻がパリを発つ1922年4月の年紀を持つことから、夫妻のパリ滞在の記念に松方が注文したようだが、1922年4月に始まったパリの国民美術協会のサロンの画家から出品されている。おそらくそのためにパリに残されたのだろう。

 

かって「国立西洋美術館名品選」を、「黒川孝雄の美」に連載したことがあり、かなり重複する記事があるので、重複を避けるようにした。「松方コレクション」は第一次世界大戦後、美術品を日本に持ち帰ろうとした時に、「関東大震災の時と合致し、政府は奢侈品に十割という関税を課すし、それれを嫌って松方が欧州に送り返した」という程度の知識は持っていた。ところがパリとロンドンに送り返した美術品は、まずロンドンでは倉庫の火災で焼失し、パリに残った美術品には敵国性美術品としてフランス政府に没収された。戦後、松方コレクションが返還された際には、その専用美術館としてフランス政府の要請で建設されたものであり、かつ「返還」ではなく「寄贈」とすることにより、歴史的意味にかんがみて若干の絵画作品を返還の対象から外すという3点が問題となったとうに記憶する。幸い、フランス政府の指名した建築家はル・コルビジュであった、              久さしぶりに国立西洋美術館に入館したが、いかにも狭い。せめて、美術品はゆったりと拝観したいものである。

 

(本稿は「図録 確率西洋美術館開館60周年記念 松方コレクション展 2019年」、図録「国立西洋美術館名作選」を参照した。)