開館60周年記念  松方コレクション(2)

1920年代の第一次世界大戦下のパリでは、松方はパリに拠点を置き、名作を次々と購入していった。この時期、パリにいた松方の部下日覆三郎、姪の黒木竹子とその夫黒木三郎夫妻、仏文学者成瀬正一夫妻のほか、美術史家矢代幸雄や洋画家和田英作ら多数の日本人が滞在していた。多分、これらの人々のアドバイスもあったのであろう。松方は次々と名作を買い集めた時代であった。

青い胴着の女 パブロ・ピカソ作 油彩・カンヴァス 1920年 国立西洋美術館

1912年8月31日に、タ・ベ通りのレヴィ画廊を見た松方、和田、矢代はボエシー通りのローザンベール画廊を訪れ、ここでポカソの作品を多数見ている。同年9月14日に、先の4人のほかに成瀬夫人を加えて5人で改めて同画廊を訪ね、ここでピカソの「青い胴着の女」を求めている。これは「新古典主義時代」のピカソ作品の特徴を良く伝えている。

ばら フィンセント・ファン・ゴッホ作 1889年  国立西洋美術館

ゴッホはフランス南部のアルル=レミから北部オーヴェルへと遍歴した生涯最後の2年間に、地に生える草花や、花の枝に咲く花々をクローズアップで捉えた作品をたびたび描いている。間近から見た小さな花の枝に咲く花々をクローズアップで捉えた作品をたびたび描いている。間近から見た小さな植物を画面いっぱい描く構図は、ゴッホ以前の西洋絵画にはほとんど例がない。そこには日本の美術の影響もみらえるが、根本には彼の宗教的な自然観がある。ゴッホはパリの2年間に浮世絵を熱心に収集し、その大胆な構図と色彩に魅了されたが、1888年創刊の「芸術の日本」に掲載されたサミェル・ピングの評論をアルル滞在中に読み、ますます日本の美術に共感を寄せるに至った。                      アルルでのゴーガンとの共同生活が1888年の暮れに破綻して以来、ゴッホは何度かてんかん性の発作に襲われ、1889年5月上旬に自分の意志でサン=レミの涼養院に移る。最初の数週間は外出を禁じられ、専ら病院の庭で写生会を行った。弟テオに当てた手紙の中に独立した「バラの茂み」を写生したと伝えている。これが本作であると考えられる。

アルルの寝室 フィンセント・ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァス 1889年オルセー美術館

1921年の9月14日に、松方ら5人がローザンベール画廊を訪れた。そこで「アルルの寝室」を発見し、購入した。「アルルの寝室」は3つのバージョンが知られている。明るい静けさに満ちた本作品は、サンレミの療養所で、母親のために描いたものである。この「アルルの寝室」は、戦後日本に返還するにあたり、フランス政府が、フランス国家に留置したもので、今回の展覧会のためにオルセー美術館から借り出した作品である。

扇のある静物  ポール・ゴーガン作 油彩・カンヴァス 1889年頃 オルセー美術館

松方がドリュエ画廊から買ったゴーガンは、1880年代のブルターニュ時代の作品に限られている。「扇のある静物」は日本美術に着想を得て画家自らが描いた扇肩作品が画中画をなす。この扇と画面右奥に置かれた陶器作品は「アレクサンドル・コーラ婦人の肖像」にも登場する。本作品は戦後もフランスに留め置かれ、現在はオルセー美術館に所蔵される。

ブルターニュ風景 ポール・ゴーガン作 油彩・カンヴァス 1888年 国立西洋美術館

大西洋に突き出たフランス北西部の半島であるブルターニュ地方は、19世紀後半にもケルト色の濃い古来の風習を残し、フランスにおける異郷といして芸術家たちの関心を引いていた。近代文明の及ばないこの素朴な世界に芸術の源泉を求めたゴーガンは、1886年夏に初めてこの地方を訪れて、この地方の村のポン=タヴェンを訪れて、この地方の村のポン=タヴェン を訪れ、独特の風土に魅せられた。彼は1888年11月末にこの村を再訪し、10月にゴッホの待つ南仏のアルルへ発つまで滞在した。次のような手紙を友人の画家に送っていたる。「私は静かに自然を眺めて暮らした。私はブルターニュが好きだ。ここには野生と原始性がある。私の木靴が花崗岩の大地に響くと、鈍く乾いた力強い音がする。それこそが私が絵画をに求めているものだ。細い筆致を並べた描写法は印象派の影響をとどめ、モチーフはピサロの農村風景を思わせるが、冬の野の侘しく荒涼とした雰囲気に独自の感性が現れている。

マネと婦人像 エドガー・ドガ作 油彩・カンヴァス 1868,9年頃 北九州美術館

1922年、コペンハーゲンの実業家ウイルヘルム・ハンセンの優れた絵画コレクsィヨンも一部購入する話が神戸の松方のもとに舞い込んだ。1923年初頭、松方は質の高い近代フランス絵画34点の入手に成功する。           妻シュザンヌがピアノに向かう姿を座って眺めていたマネを描いたドガの「マネとマネ婦人像」は、これを贈られたマネが妻の肖像を気に入らず、画面を切断したといわくを持つ作品である。のちにドガがマネ婦人の顔を描き直すために画布を付け足しが描き直されることがなかった。

積みわら クロード・モネ作 油彩・カンヴァス 1885年 大原美術館

モネはカミーユが遺したふたりの子供に、オシュデの妻のアリスとその子供たちを加えて新たな家族を形成しつつ、1883年にジヴェニールへ移住する。ノルマンディー地方南東に位置するこの小村でやがて数々のモネの代表作が生み出されることになる。「積みわら」は1885年に描かれた3点の「積みわら」のうちの1点で、モネの家の近くに広がる牧草地に積み上げられた干し草を描いたものである。単純な形と色彩を持つ積みわらに、モネは刻々と移り変わる光の効果を表すためのかっこうのモチーフを見出し、1884年から1886年にかけて8点を手掛けた。ここでは、さわやかに晴れ渡る空の下、光の効果で微妙に色を変える積みわらの影に憩うアリスと息子のミシェルが描かれている。背景にはポプラ並木が続く。この「積みわら」のモチーフが名高い連作に発展して1891年に発表され、大きな成功をもたらした。なお、本作品は松方旧蔵作品を多数所有している和田久左衛門の旧贓品の一つである。現在は、大原美術館に保存されている。松方コレクションを、やむを得ず手放した場合、多くが日本の西洋美術の美術館に保管された格好の事例である。

サン=マメス 六月の朝  アルフレッド・シスレー作 油彩・カンヴァス 1884年 ブリジストン美術館

サン=マメスはパリの南東イル・ド・フランスの村であり、セーヌ河とロワン河が合流する地点にある。シスレーは1882年9月にこの穏やかな自然に恵まれた小村に移り住みここを中心として多くの作品を制作した。青々とした緑が印象的な「サン=マメス六月の朝」は、1882年の第7回印象派展に出品されたもので、題名通り、初夏の爽やかな朝が描かれる。画面の片側へ向かって道と川が曲線を描いて遠のいていく伝統的構図だが、街路樹の茂りや対岸の植物、そしてそれらの緑が照り映える川の水面と、画面右手の建物のレンガ色が鮮やかなコントラストをなし、緊密な構図を作り出している。

収穫  カミーユ・パサロ作 テンペラ・カンヴァス 1882年 国立西洋美術館

この作品は、1882年の第7回印象派展の出品作である。オワーズ河を挟んでポントワーズの対岸にある麦畑を舞台に、収穫の後景が描かれている。地平線は画面の上の方に置かれ、横長の画面いっぱいに、麦の刈り取られた明るい緑色の畑が広がる。画面の左手前には、麦の束を腕に抱えて運ぼうとする農婦の姿がまじかに迫り、そこから画面の右上に向かって、畑に並べられた麦の束の列に沿って空間の奥行が表されている。1880年代初頭には、印象派の画家たちの多くが転換期を迎えていた。誰よりも印象派の美学に誠実であろうとしたピサロもその例外ではなく、制作活動の停滞を乗り越えるためのさまざまな試みをこの時期に行っている。この「収穫」は第7回印象派展の出品された作品の中で、唯一テンペラの技法を用いたものであり、彼のテンペラ画としては前例のない大きさをも持つことからも、この作品を通じて新たな方向を探る狙いがあったと考えられよう。この技法によって色彩の透明感を増し、油彩画とは味わいの違った、艶がなく乾いた感じのある絵肌が生まれている。

 

 

松方コレクションの中核をなす、コペンハーゲンの実業家ウイルヘルム・ハンセンの優れたフランス絵画コレクションの一部を購入するチャンスが神戸の松方のもとに舞い込んだ。スイスのオスカー・ラインハルトら各国のコレクターとの競合の中、パリのベネデットや成瀬らを通じて交渉の末、1923年初頭、松方は質の高い近代フランス絵画34点の入手に成功する。マネヤモネなど粒そろいの印象派絵画を中心とするこれらの作品は、いったんロダン美術館の旧礼拝堂で保管されたのち1930年代半ばまでほとんど日本へ送られ、」コレクション散逸期に多くが売却されていった。しかしながら現在それらの作品が、国内外、特に日本各地の美術館やコレクションの代表的な作品の数えられていることは、松方コレクションと、日本の西洋美術普及の歴史に残した足跡のひとつと言えるだろう。本編は、松方コレクションと、日本で売却され、日本の西洋美術館にかいそろえられた一部を表したものである。

 

(本稿は、図露「億立西洋美術観開館60周年記念 松方コレクション展 2019年」、図録「国立西洋美術館名作選」を参照した)