黒田清輝 生誕150年 日本近代絵画の巨匠

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黒田清輝(1865~1924)は、鹿児島市に生まれた。島津藩士であった父黒田清兼、母八重子の長男として誕生し、新太郎と命名された。(後に清光、さらに清輝と改名した)明治4年(1871)に父清兼の兄黒田清綱の養子になり、翌年実母と養母になる貞子に伴われて上京、麹町平河町の清綱邸で少年時代を送った。養父となった清綱は、同じく島津藩士であったが、維新後には、東京府参事、文部少輔、さらに元老院議官を歴任し、明治20年(1887)には、子爵をさずけられた。清輝は、10代になると、大学予備門を目指して英語を学び、ついでフランス語に転じ、17歳のとき、外国語学校フランス語科2年に編入した。フランス語を学ぶようになったのは、法律を勉強する目的からである。明治17年(1884)に義兄橋口直右衛門がフランス公使に赴任することになり、かねてフランスで本格的に法律を学ぶことを願っていた清輝も同行することになった。それから明治26年(1893)、27歳で帰国するまでの9年間にわたる留学生活は、黒田にとって、多感な青年期のなかの自己形成の時代に当たる、中でも、もっとも大きな転機は、法律の勉強から画家になることを決意したことであった。それは明治19年(1893)2月、日本公使館でパリ在住の日本人の集まりがあり、そこで出会った画家山本芳翆(1850~1906)、工部省留学生としてパリに学んでいた同じく画家の藤雅三(1853~1916)らから、しきりに画家になることをすすめられたことであった。黒田は、自分の心情を養父に書簡を送った。この書簡の翌日に、さっそくフランス人画家ラファエル・コランに入門した。黒田が師事することになったラファエル・コランと言う画家は、今日ではまったく忘れ去られて人である。久米桂一郎(画家)は、後に「黒田清輝を思うとき、ぼくは幸福な環境、幸福な才能、幸福な時代という言葉が浮かんでくる」(美術新潮)と回想している。ここで幸福な環境と言ったのは、富裕な貴族の子弟として年少にしてフランスに留学していることであり(1884~1893年、在仏)、幸福な才能と言ったのは、自然のまま絵画に近づき、才能が大きく成長し、そして彼が帰国したのは、日清戦争を経て、明治市民が「冷笑と反動」(徳富蘇峰の言葉)の長い期間を経て、ようやく彼方に夜明けを見た時であった。黒田がフランスに着いた頃は、フランスは普仏戦争の敗北とパリ・コンミューンの混乱を経て、第三共和政が成立し、ようやく安定にむかおうとしており、その中心地パリも近代的な都市に変貌しようとしていた。黒田が入門した頃のラファエル・コランはサロンに入選を重ね、アカデミズムの中の新進画家として評価が高まった時期であった。時代的には、印象派全盛の時代であったが、黒田はコランの印象派の明るい外光表現とアカデミックで堅実な描写に新しさを感じ、受け入れたのであろう。また黒田は画業の始まり頃からバルビゾン派の画家ジャン・フランソッワ・ミレーに惹かれ、ミレーに傾倒した時期があった。

編物  黒田清輝作  油彩・カンヴァス  明治23年(1890)(在仏中)

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黒田が画家として大きく成長するのは、1890年(明治23年)頃からであった。久米桂一郎(画家)とともに、パリ南東70キロほどに位置する小村グレー・シュエル・ロワンを訪れ、ここに滞在しながら制作をすすめることになった。黒田がこの地に惹かれたのは、風景の美しさだけではなく、好みのモデルと巡りあったためだったと思われる。それが、マリア・ビョーという名前のこの村の農家の娘であった。留学時代の作品であり、サロンに初めて入選した「読書」や「婦人図(厨房)」に描かれた女性であり、この編物のモデルでもあった。黒田は、この娘の一家とも親しくなり、その一隅にあった小屋ヲ借り受け、アトリエとして使って制作に励んだ。マリアとの交際が深まり、黒田はビョー家の婿のようになっていたと言う。(国民美術)この時代の一連の作品は婦人の木炭画が優れている。油彩画ではいずれも色調が青で統一されており、清傑で明澄な画面となっている。窓を通して室内に指し込んでいるやわらかな光の表現を楽しんでいるようである。

読書  黒田清輝作  油彩・カンヴァス  明治24年(1891)(在仏中)

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1891年に開催されたフランス芸術家協会のサロンに「夏の読書」のタイトルで出品、初入選した作品である。当時フランスには二つの協会が並立していた。黒田は、まず師のコランも出品する「旧の共進会」に入選し、フランス画壇へのデビューを果たした。本作品もグレーで黒田と恋仲になったマリア・ビョーをモデルに描き始められたものである。(久米桂一郎氏の記述)画面下には「明治24年 源清輝写」と日本語でサインが入れられている。これも作者が日本人であることがすぐわかるようコランから勧められたものであるそうだ。サロン出品後、この作品は日本へ送られ、1892年春の第4回明治美術会展に出品された。

風景(グレー黒田清輝作 油彩・カンヴァス 明治25年(1892)(在仏中)

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ロワン川に沿ったグレーの集落には、一本だけ橋がかけられていた。この図は、その橋の上から枯木を通して古塔を望んだ光景のスケッチで、この塔は「ガンヌの塔」と呼ばれ、12世紀のもであるが、黒田がこの作品を描いてから約10年後に、浅井忠が同じ場所の風景を描いている。黒田は在仏中に「パリー風景」等の作品もあるが、概してグレーのような農村のスケッチが多い。恐らく、ミレー等の影響を強く受けたのであろう。

赤髪の少女 黒田清輝作 油彩・カンヴァス 明治25年(1892)(在仏中)

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萌えいでた緑のなかに、背を向けて立つ少女。この人物そのものの表現よりも、赤髪のうえに映える陽光、したたるような樹葉の輝きなどに描写や表現力の力点がおかれているようである。在仏中の作品の中では、一番印象派的要素が強い作品の一つである。美術商林忠正(浮世絵の画商として知られている)の旧蔵品であり、当時のヨーロッパにおけるジャポニズム盛行に重要な役割を果たした林との交友をしのばせるものとなっている。

婦人像(厨房)黒田清輝作 油彩・カンヴァス 明治25年(1892)在仏中)

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黒田は、1891年11月に本作の制作に着手し、完成したのは1892年の3月頃であった。黒田は、秋の景を描いた油絵1枚とともにサロンに提出したが、2点とも落選した。しかし、師であるコランが本作品を評価したためか、黒田は「どこに出しても恥ずかしハないつもりです」と母宛に送っている。戸口で椅子に腰かけこちらをじっと見つめる女性は、画面左上から差し込むたやらかい逆光に照らされている。マリアの姉の家に投宿しており、この作品はその家の台所であると見られている。「読書」と違って、質素な作業衣風の衣服を着けていることからも、グレーの自然の生活の中から生まれ出た作品だろう。「編物」、「読書」、「婦人像(厨房)」は、同じモデルを使った、在仏中の傑作である。

フロレアル(花月ーはなつき)ラファエル・コラン作油彩(1886年)

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黒田のフランスでの絵画の師であった、コランの作品である。(オルセー美術館)黒田は、「コラン先生追憶」の中で、次のように回想している。「此の時代の代表作は、ルクサンブール美術館にある”フロレアル”で,花時というやうな感じで描かれたものです。それは湖水の辺りの美しい草原に、裸体の女が草の羽を咥えて臥ている図で、有名なものです。裸体の柔らかい外光の肉色を描くことは巧妙なことは、先生を以て現代の第一人者と推さねばなりません。」

重要文化財舞妓(まいこ)黒田清輝作油彩・カンヴァス 明治26年(1893)

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明治23年(1893)の夏、9年におよぶ留学より帰国した黒田は、その年の秋に久米桂一郎とともに京都に旅行した。東京育ちの黒田にとって京都は初めての地であった。長らく日本を不在にした者の眼には、京都の風俗が新規に映ったようである。そのような眼差しのもとに描かれたのが「舞妓」であり、帰朝後の傑作である。鴨川を背景にした舞妓の着物を描くに当たり、黒田は黄、朱といったさまざまな色のタッチを散らしながら、その柄を表現している。留学時代には、好んで田園風景や田園の女性を描いた黒田は、新しいモチーフを前に、堅実なアカデミズムの描法から解放された画面は、色彩豊かな輝きに満ちている。京都旅行のデッサンも3枚付けられていた。

昼寝(部分) 黒田清輝作 油彩・カンヴァス 明治27年(1894)¥img545

黒田は鎌倉の別荘に移って夏を過ごした。この作品はそのときに描かれたものである。草上に午睡する少女に真夏の強い太陽の光が樹間をとおしておちているさまを生々しい赤と黄の色の細い線で描きだしている。黒田が外光派を超えて印象派的色彩を最も濃厚にみせたのは、この夏の制作であった。印象派の筆致や光の表現が用いられている。こうした画風は従来の日本の洋画とは一線を画すほど新しく、「新派」あるいは「紫派」と称された。

重要文化財 湖畔 黒田清輝作 油彩・カンヴァス 明治30年(1897)

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箱根の芦ノ湖と彼岸の山を背景にして涼をとるこの麗人は、現在では「湖畔」の題名で広く知られているが、明治30年(1897)の第2回白馬会展では「避暑」の題で出品され、1900年のパリ万博にも出品されたものである。明治30年夏、黒田は照子夫人を伴って箱根に避暑のため滞在、そのときに描かれたものである。本作ではモデルの浴衣を湖面と同様に青色系の色でまとめて統一感をもたせ、優れて調和のとれた画面に仕上げている。この傑作も、また「紫派」の名前がぴったりの作品であろう。但し、田中英道氏は「日本では名作とされているが、世界的にいえば平凡な作品に過ぎない」という厳しい意見を述べていることも、付け加えておく。

 

黒田は、東京美術学校の洋画科の最高の指導者になり、新人画家を養成し、それらの弟子たちはまたラファエル・コランの教室に入り、文展設立とともに黒田清輝=コランの画風が、団体で言えば白馬会系の画風が文展という唯一の官設展の支配的画風となった。官尊民卑の国の官営展を支配した上に、文部省の美術政策は敗戦まで、この官設展だけを保護するという官僚統制の美術政策であったために、白馬会系の日本的アカデミズムは、長く近代日本の美術界を支配し続けた。黒田清輝は、声望を一身に集めた当代一流の巨匠として、文展(官営展)の審査員ばかりでなく、さまざまな展覧会の審査員、会長、顧問を兼ねて、大正9年(1925)には森鴎外の後を継いで第二代の帝国美術院長となり,公私とも多忙となった。当然、絵画を画く時間も少なくなり,晩年は小さなデッサンばかりという状態であった。黒田清輝の日本美術界に及ぼした功罪は極めて大きいと思う。(あくまでも私感)しかし、黒田清輝展であるから、かれの罪を唱える言葉は、図録のどこにも出て来ない。止むを得ぬことかも知れないが、あえて一言言及しておく。

 

(本稿は、図録「黒田清輝 生誕150年 日本近代絵画の巨匠 2016年」、図録「近代日本洋画の巨匠  黒田清輝  2010年」、土方定一「日本の近代美術」田中英道「日本美術全史」、河北綸明「日本美術入門」を参照した)