黒田清輝 生誕150年 日本近代洋画の巨匠 黒田記念館 

黒田がフランスに留学した1880年代は「新旧入り乱れた坩堝のような絵画状況」(三浦東京大学教授)であった。アカデミズムは依然として権威を保っ一方で、印象派以降の様々な動きも台頭してきた。黒田は「外光派」と呼ばれるが、果たしてフランス絵画のどのような要素を摂取したか、かつどのように日本に移したか、まずは、代表作である「智・感・情」から見ていこう。

重要文化財智・感・情 黒田清輝作 油彩・カンヴァス 明治32年(1899)

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この作品は、明治30年(1897)の第2回白馬会に「湖畔」などとともに出品された。等身大の日本女性が、裸体で描かれ、その大きさからも、また金地背景にあたかも実際にあるかとみまがうばかりに描写されている視覚的表現からも、裸体の体に日本画のような輪郭線を施す、という東西融合の実験的要素には、こと欠かない。大いに注目されたが、世評は必ずしも好意的ではなかった。明治28年に京都で開かれた第4回内国博覧会に黒田が出品した「朝妝(ちょうしょう)」を契機として、裸体論争がが盛んになっている中で公にされたことも一因となって話題を呼んだが,当時の評はあまり好意的ではなかった。その筆力を認める一方で、画題とポーズの意味が不可解であり,裸体画としても成功しているとは言い難いという批判もなされた。白馬会出品後、黒田自身による加筆ののち(1889年)、1900年のパリ万博に「裸婦習作」として出品され、日本の油彩画では最高賞に当たる銀賞を受賞した。同万博には「湖畔」も出品されたが、海外での評価は「智・感・情」の方が高かった。読売新聞の明治30年(1897)11月29日の記事には、次のように紹介している。(図録より引用)「中なるは感と言ひて、Impressionの意、右なるは智と言ひてIdeal、左なるは感と言ひて、Realの意なりとか」。この作品は日本の絵画史における意義としては、一つに描かれた裸体の意味するものを人々に考えさせたこと、即ち象徴としての裸体表現を広く知らしめたことにあり、二つめはそうした象徴的裸体表現を日本人の身体像によって行い、日本人の裸体像のカノンを築いたことにあるのであろう。本作が世に出てから、日本絵画に登場する人物像のプロポーションはこの作品に準じて大きく変わった。先人は何を取り入れ、どう苦闘したのか、その試行錯誤の足跡に新たな光を当てることになった。

裸体婦人像  黒田清輝作  油彩・カンヴァス 明治34年(1901)

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この作品は、1901年(明治34)秋の第6回白馬会に出品された。しかし裸体画は公序良俗に反するとして、警察の指示により下半身を布で覆って展示されるという、いわゆる「腰巻事件」をひき起こすことになった。黒田によれば、「最も困難で最も巧拙の分かる腰部の関節に力を用いた」のに「肝心の所へ幕を張られた」と述べている。フランスと日本では、社会環境や価値観が著しく異なることを目のあたりにした黒田は、フランスの精神風土を日本に根付かせることが課題になった。画家だけでなく教育者、行政官、政治家として,様々な役割を担う重要性を痛感したのであろう。黒田にとって重要なことは、現在「構想画」とも言われる、西洋美術の根幹である裸体画で構成された画面で抽象的概念を表す「理想画」を描くことであった。このように考えると、前遍のくくりで、私は「黒田の日本美術界に及ぼした功罪は大きい」と総括したが、これは私の矮小な誤解であったようである。黒田が目指したのは、絵画のみではなく、フランス絵画の前提となっている「近代化」を目指し、教育界、行政界、政治界全体の近代化を狙っていたのでは無いだろうか?黒田を絵画の世界だけで評価してはいけない。黒田は、日本文化全体の近代化を進める闘士となり、全力を傾けるために貴族院議員などになったのであろう。

昔語り(下絵 舞妓) 黒田清輝作 油彩・カンヴァス 明治29年(1896)

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フランスから帰国した明治26年(1893)の秋、黒田は初めて京都に遊び、清水寺近くの清閑寺(せいかんじ)を訪ねて、同寺の由来である平家物語の「小督(おごう)」の話にある高倉天皇と小督の悲恋にまつわる物語を岩佐恩順という僧から聞き、昔がよみがえってくるような不思議な体験をした折に得られたものである。1893年の写生帳に本作に関連する素描が複数枚描かれている。1895年の第4回内国勧業博覧会のために京都を訪れた際、西園寺公望に大作の制作を促され、本格的な制作が始まった。黒田は1895年の夏に京都の円山公園内に簡易なアトリエを建てて本作に取り掛かり、翌年4月に東京に移るまでの間には構図も決め、完成のための下絵を多く描いた。この下絵は、今回の展覧会でも36枚の多きに達していた。1部屋、まるまる「昔語り(下絵)」であった。

昔語り(下絵 構図Ⅱ)黒田清輝作 油彩・カンヴァス 明治29年(1896)

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この下絵は第1回白馬会(1896)に出展されたものである。この完制作は西園寺公望の仲介によって、製作費の実費を西園寺の実弟、住友友純(ともいと)が負担した。当然、完成時は住友家に飾られたが、先の大戦の際に空襲で焼かれた。従って、現在残っているのは、下絵のみである。私は、先に久米の言葉として「幸福な才能」という表現をしたが、この膨大な下絵を見ると、黒田は、才能も優れていたが、むしろ下絵をふんだんに描く、努力の人であると思った。スケッチは画家ならば誰でもするのであろうが、この「昔語り」ほど、素描が沢山残されている例は知らない。

ダリア 黒田清輝作 油彩・カンヴァス  大正2年(1913)

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植物や花を好んだ黒田であったが、花の静物画は少ない。数点が知られているのみである。この作品は画面左下の年記から大正2年(1913)に描かれたものであることが分かるが、1913年4月に東京美術学校での教え子で、フランスに留学していた金山平三からダリヤの球根が届き、その球根から育った花だろうと推定されている。同年111月に大阪で開催された国民美術協会第1回西部展にも「ダリア」と題した作が出品されている。(本作と同一のものであるかどうかは不明)

自画像 黒田清輝作  油彩・カンヴァス 大正4年(1915)

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黒田は、1910年頃から、多数の名士の肖像画を描いている。例えば「桂公肖像」「大熊重信肖像」「寺島宗則肖像」等である。写真ではなく、本人と面接して描いたと言われ、著名人の時間の調節が、さぞかし大変だったろうと思われる。本作は自画像であり、大正4年、49歳の自画像である。でっぷりと太った貫録を示している。

梅林  黒田清輝作  油彩・カンヴァス  大正13年(1924)

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大正12年(1923)末に黒田は宮内省に出勤中、狭心症で倒れ、翌年春小康を得て、箱根に静養、5月に帰京、7月15日没したが、春、小康をえたころは麻布の別邸の離れが病室に当てられていた。この作品はそこから庭を見て描いたものと思われる。絶筆となった作品である。

黒田記念館

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黒田清輝は、大正13年(1924)7月に58歳で没した。その際遺産の一部を美術奨励事業に役立てるようにと遺言した。それを受けて、昭和3年(1928)に建築竣工したのが、この黒田記念館である。館内には、遺族、門弟等から寄贈された黒田の油彩画、素描、写生帳、書簡等を展示するため黒田記念室が設けられた。この記念室は二階にあり「昔語り下絵」等の代表作を含む油彩画、デッサン等約50点が展示され、逐次入れ替えも行われている。2007年4月より、黒田記念館及び収蔵品は、国立東京博物館に管理が移行された。2002年には建物が国の登録有形文化財に指定された。黒田記念室に加え、2015年には、黒田の代表作である「読書」、「舞妓」、「湖畔」、「智・感・情」をそろえた特別室(新年、春、秋の各2週間公開、一階)を設けるなど、展示環境の充実が図られている。なお、2年ほど前までは、月曜休み、後は毎日開館であったが、現在は毎週木・土曜日が開館で無料拝観できる。念のため、必ず黒田記念館のHPを確認の上、見学することをお勧めする。なお、黒田記念館は、東京国立博物館の西隣りにある。

 

 

フランスで画家を志した黒田は、フランス画壇を標準として理想の画家像をつくっており、帰国後は、その理想を日本で実現できないこと、また理想に向かう試みが意図の通りに受け取られないことに苦しんだ。黒田は、画家として自由な自己表現を目指したが、黒田の構想画は理解されなかったようである。黒田が貴族院議員になったのは、日本に欠けていた「西洋の雰囲気」を、政治を通して実現しようとし、美術教育や美術にまつわる制度の確立のために尽力しようとしたと思われる。このように理解するならば、「黒田は日本洋画界に対し、功罪半ばする」と断言した前篇の言葉は、取り消さざるを得ないことになった。(無論、前篇を記載する前に、このことは理解出来ていたが、私の考えの変化の過程を理解してもらうために、あえて「前言を翻す」という記述にこだわったのである)

 

(本稿は図録「黒田清輝 生誕150年 日本近代絵画に巨匠  2016年」、図録「黒田清輝展 近代日本洋画の巨匠 2010年」、土方定一「日本の近代美術」、田中英道「日本美術史全史」、河北綸明「日本美術入門」を参照した)