2017年「黒川孝雄の美」10選

今年もまた、「黒川孝雄の美」10点を選ぶ季節が来た。昨年(2016年)から始めたこの年間の振り返りは、お蔭様で多くの読者を集めることが出来た。「黒川孝雄の美」を書くために、私は多大な時間を費やしている。「何のために?」と問われると正解は無いが、敢えて言えば、私の美術遍歴を、このような形でまとめておきたいからである。実は、この「美」を書き始めて5年になるが、何故書くか問われると返答に窮することになる。実は、この文章を書かないと、美術展の内容が殆ど記憶に残らないことが、この「美」を書き始めて、はっきり判った。折角の時間を使って、見学に行く美術展が、数年経つと殆ど記憶に残らないことは、如何にも残念である。そんなことから、この「美」を書き始めた。直接のきっかけは、名古屋大学経済学部S31年卒の喜寿記念文書の「幾山河」に出筆を勧められ、「私の大和古寺順礼の思い出」を書いたことが出発点であり、それまでは、まさか美術記事を私が書くことは夢にも思っていなかった。               古寺巡例ならば、学生時代から60年以上の経歴があり、多分書く資格はあると思うが、一般美術展を記事にする等、思いもしないことであった。決して日本、西洋の美術史に詳しい訳ではなく、ただ好きだから、美術展を見学に行くだけのことであった。幸い、30年以前から、展覧会の図録を求め、一応読んで、保管してあった。私の書斎に入った人は一様に驚く。それは過去の美術展の図録が数百冊が並んでいるからで、「貴方にはこんな趣味があったのですか?」等から話題が弾むことが間々あった。正に見かけによらない趣味と見えたのであろう。しかし、過去30年間の図録をすべて保管している人もいないであろう。美術を専門にする美術史の先生や、記事を書く学芸員ならば、当然かも知れないが、アマチュアの精々趣味程度の興味しか持たない人が、何百冊という図録を保管していることは、異様だろう。私の書斎は、ぐるりと本箱に美術展の図録が取り囲んでおり、正に異様にである。                                   さて、今年は、本稿を加えて69稿となり、その記事を書くためには、美術展を見に行く時間、図録を詠みこむ時間、過去の図録や参考図書を読む時間、それから原稿を書く時間、ブログにまとめる時間等をまとめれば、多分、一つの記事を書くために4日程度の時間を要する計算になる。年間トータルすれば、飛んでもない時間を費やしているわけだが、最近は仕事も少なくなり、この「美」のブログを書くために生きているいるようなものである。思えば不思議なことを始めたものである。  さて、今年は68回の記事があり、しかも収獲も多い年であり、10点に絞るのに1日掛った。思い切って10点にしたが、非常に残念な記事も多い。今年は、何故か、「茶の湯」関係の展覧会が多かったが、ここを「楽家一子相伝の芸術」に絞り込んだ。また、浮世絵によるジャポニズムに関する優れた展覧会が、今年は多かった。特に「北斎とジャポニズム展」は優秀であったが、どうしてもゴッホ展に惹かれ、ゴッホに絞って、何とか10点にまとめた。

第1位 「入江一子百彩記念シルクロードに魅せられて」  2017年2月5日四姑娘(しーくーにゃん)山の青いケシ」1992年100号第60回記念独立展

入江さんという作家の名前は全く知らなかった。たまたま、上野の森美術館の前を通ったら、この展覧会が開催されており、「シルクロード」に魅せられて思いがけず入館した。(予定しない入館は、今年、この1回のみであった)堂々たる100号の絵が並んでおり、とても百歳の人が描ける絵では無い。実に素晴らしい入江美術に魅入られて、その後、「入江一子シルクロード記念館」(杉並区)まで、訪ねる結果となった。この「青いケシ」の傑作は立川中央病院の受付に掛っている。「中国の成都よりチベットに向かう四姑娘(シークーニャン)山麓に青いケシの花が咲いているという話を、ずっと以前から聞いていました。青いケシを見たい一心で、遂に行く決心をしました。(中略)日隆(りーろん)の標高は3600メートル。これからベースキャンプに行って、生活をします。途中の山の斜面には、ヤギや羊の群れがみえて、村の子供が世話をしています。民族衣装を着たチベット娘たちが、花が一面に咲いている高原で「四姑娘の歌」を歌いながら、籠の中に花を採って歩いています。翌朝にはクーニャン4300メートルまで、いよいよ青いケシの花を訪ねて山登りになります。雨が降って霧が流れているのでUターンして帰ろうとすると、突然、青いケシの花が一面に咲いているのが見え始めました。はるばる訪ねてきた甲斐があったと、みんな大感激でした。息苦しい4000メートルの高地に、ようやく青いケシの群生をみることができたのです。感激を心の中にとどめながら、私は雨の降るなかを、ネースキャンプに向かって下りて行きました。(色彩自由より)

第2位 岩佐又兵衛 重文 山中常盤物語絵巻2017年4月7日 MOA美術館第四巻 侍従は常盤を抱きさめざめと泣く

盗賊たちは常盤を刺し、常盤にすがる侍従も殺して逃げる。

第3位 没後90年 萬鐡五郎展 2017年8月7日葉山美術館(神奈川県立)重文 裸体美人  1912年(明治45) 東京国立近代美術館

美術学校卒業制作の一つが、この「裸体美人」であり、主席で入学した萬の卒業成績は19人中16位であったそうである。外光派を引っ提げて、美術学校教綬となった黒田清輝にとっては、到底見逃せない作品だったのであろう。16位という卒業成績は、この「裸体美人」という、日本における後期印象派を受容した最初の作品を見逃がすことのできない作品だったのであろうと推察する。萬は後に、この作品について「ゴッホやマチスの感化のあるもの」と述べているように、画面からは炎のように揺れ動く下草の描き方にゴッホの、そして剛直な筆致で単純化された裸婦の表現にマチスを見出すことは容易だろう。(後略)

第4位 長府藩毛利邸と公山寺         2017年9月8日     国宝  公山寺  仏殿   鎌倉時代(嘉暦2年ー1327年)

長府の毛利邸を辞する時、公山寺というお寺がすぐ上にあり、長府毛利家の墓所と聞いたので、少し山を登って公山寺(こうざんじ)を何の予備知識も無く、訪問した。公山寺は、明治維新の前に毛利氏の歴史の上で有名な事件を残しているが、何よりもこの国宝 仏殿には驚いた。まさか、長府の山の中に、これだけ立派な国宝 仏殿があることは全く知らなかった。まるで、鎌倉円覚寺の舎利殿と同様式で、鎌倉時代の仏教建築の代表的な建物である。なお、時間的には午後4時頃であったとため、逆光でうまく写真が写せなかったので、後ろから写した写真が見易いと思う。資金を提供したのは、大内氏と思うが、果たして大内氏が14世紀の鎌倉時代に大をなしていたかが、確認が取れない。私の調べた範囲では、資金提供を特定する記事は無かった。専門家以外は殆ど知られない国宝では無かろうか?

第5位  運慶展                  2017年10月8日 国宝  無着菩薩立像 世親(ぜしん)菩薩立像 運慶作 建暦2年(1212)

興福寺北円堂は、藤原氏の祖先・藤原不比等の追善のために建てられたお堂であるが、治承4年(1180)の南都焼打ちによって焼失した。復興は遅れ、正冶2年(1200)頃からようやく始動した。無着、世親(ぜしん)菩薩立像は法印運慶が総責任者となり、末子の運賀・運助が担当したと考えられる。私は、この無着・世親菩薩立像は2度拝観している。一度は興福寺国宝展(1997)である。「無着」「世親」像の、思想家としての内面性と一般の人間の感情を備えた二人の姿は、古今東西の肖像でも、わずかに天平の「鑑真像」が匹敵できる傑作である。無着、世親はインド人であるのに、運慶はモデルに日本人の姿を使った。無着、世親像は精神性と内面性を表し聖・俗あわせ持つ写実的な現実を凝視する姿と対照的に抽象的な印象を与える像である。実在の人間の姿をありのままに再現しようとしている。ここに総監督としての運慶の意図が、十分ぬうかがえる。私は、運慶の作品の中で、最高の傑作と評価したい。

第6位 狩野元信 天下を納めた絵師    2017年11月8日      重文 四季花鳥図(旧大仙院方丈障壁画)     室町時代(16世紀)

大徳寺大仙院方丈では、室中に相阿弥が瀟湘八景図を描き、元信が旦那の間に「四季花鳥図」と衣鉢之間に「禅宗祖師図」を担当した。制作は永正5年(1513)頃であり、現存する元信の作では最古である。この作品では、画題の骨組みとなる松や岩、滝などを水墨で描き、一方、画面の主役である美しい花や珍しい鳥の絵は、いずれも着色で、しかもほぼ実物大に描かれている。大仙院四季花鳥図の中には、一つの作品の中に和の要素と漢の要素が併存している。これもまた、元信の「漢にして倭を兼ねる」(本朝画談)画風を表している。元信の代表作であり、最古の作品例である。(なお大仙院は2016年1月16日の「大徳寺塔頭・大仙院」の中で、「石庭の寺」として詳しく報告しているので、ご確認いただきたい)

第7位 ゴッホ展 巡りゆく日本の夢(1)    2017年12月12日  花魁(渓済英泉による)  ゴッホ作    1887年

ゴッホはパリのピングの店の熱心な顧客となり、日本美術、中でも浮世絵に熱中したようである。そして1886年5月に、「パリ・イリュストレ」誌の日本美術特集号の表紙に掲載された英泉の花魁(おいらん)の浮世絵を、ゴッホは油絵でなぞった。英泉を写しているが、花魁の額の周りには、ピングの店で見たのか、さまざまな浮世絵から借用したモチーフを自由に解釈して、ゴッホ独自の華やかな花魁姿に仕上げている。ゴッホは日本の版画の伝統が、今やフランス印象派のなかで再生すべきものと考えたのであろう。明晰な線、強烈な色彩の対照、色彩の明るさは、事実、印象派にとっても、ゴッホにとってもきわめて大きなひとつの足がかったのである。私は、ゴッホはこの作品で、印象派より一歩前身したように思う。ゴッホが模写した浮世絵は、現在のところ3点知られているが(渓済英泉”雲龍打掛の花魁”)、「歌川広重”名所江戸百景/大はしあたけの夕立”)、「歌川広重”江戸名所百景”亀戸梅屋敷”)、いずれの模写においても、ファン・ゴッホはオリジナルな版画を忠実に写し取るのではなく、原作にはない強烈な原色を用いたり、背景のモチーフを自由に組み合わせたりしている。

第8位 小田野直武と秋田蘭画(1)          2017年1月1日 重文  不忍池図  小田野直武作         江戸時代(18世紀)

この大画面作品はかって掛軸であったが、今は額装となっている。これが山形県で発見されたとき、落款があるにも関わらず、そのときの所蔵者は、司馬江漢(しばこうかん)の作品を思っていたという逸話が残っている。秋田蘭画が忘れられた存在であったことを物語っている。近景に花卉を大描写し、それにオランダ銅版画の影響を受けた遠景を配するという、もっとも秋田蘭画らしい構図を用いている。しかし、近景の芍薬の花は鉢植えとなって地面に置かれて、遠景は江戸名所の写生であるなど、現実感を強める努力が見られる。この絵は短い直武の生涯のうち、比較的晩年の円塾期に描かれたと思われる。そして最晩年の直武は東洋的な花鳥画を洋風化する段階をしだいに脱して、この絵の背景に見られるような特定の場所を写す風景画に進んでいったと考えられる。なお、図版ではみえないが、芍薬の蕾に二匹の蟻がたかっている。小虫が花や果物にたかる絵は中国の宋元画にあるが、これはそのような漢画の伝統を物語るとともに、直武の科学的な観察力を示している。

第9位  茶碗の中の宇宙  楽家一子相伝の芸術    2017年5月15日重文  赤楽茶碗  銘 無一物  初代 長次郎作  桃山時代(16世紀)

「無一物」の銘は六祖禅師慧能(えのう)禅師の偈頌(げじゅ)からとられた。高台が丸く、中に兜巾(ときん)渦巻がある。高台のまわりに竪しわがある。口縁は平に近く、見込には茶溜りがない。赤釉はかさかさした感じで、粉を吹いたような肌である。色は薄い赤茶色である。一切の装飾性を抑え、削ぎ落とした志向性は、簡素を推し進める抽象表現を感ずる。

第10位 バベルの塔展            2017年6月24日     バベルの塔  ピーテル・ブリューゲルⅠ世作   1568年

今回の展覧会は、この絵を見る為に、私は半日を費やしたのである。実に見事な絵であり、感激した。旧約聖書の冒頭に「創世記」がある。その中身は「アダムとイブの原罪」、「楽園追放」、「アベルを殺すカイン」、「ノアの洪水」、そして神話的部分の最後に当たるのが「バベルの塔」である。この物語の骨子は、思い上がった人々による「天まで届く塔」の建設を試み、その高慢さに立腹した神は「言語の混乱」により、互いの言葉を理解出来ないようにして全地に散らせたのである。「バベルの塔」は多くの画家によって描かれたが、ブリューゲルは少なくとも2作を作っている。彼はイタリア留学の際に見たローマのコロッセイムが下書きになったことは間違いあるまい。旧約が初めて印刷されたのは15世紀後半であった。以降、多くの画家がこれを描いたが、ブリューゲル以前は四角い低層の塔として描かれていた。ブリューゲルが描いた螺旋状のの巨塔を目にした当時の人々は、さぞ驚いたことであろう。バベルの塔は、人間の高慢に対する教訓としての物語である。戒めを強調するため、神々の怒りが強風となって塔を崩壊させる様子を描く画家もいた。しかし、ブリューゲルはむしろ、物語の途中である塔の建設場面を描いている。ボイスマン美術館のシャーレル・エックス館長は「神の怒りよりも、人間が挑戦する場面を選んでいる」と話す。他の追随を許さぬブリューゲルの特徴は「マクロとミクロの統合」である。すなわち巨視的な視点に基ずく大胆かつ明快な構図とディテールにおける驚くべき細密描写が無理なく両立している。「バベルの塔」に描かれた人間の数は1400人余人に及ぶという。豆粒よりも小さい人々が描き混まれている。ブリューゲルは螺旋状に塔を描くことにより、まるで無限大に、塔が拡大できるように思わせる。兎に角、16世紀の絵画とは思えない同大な「バベルの塔」である。

 

なお、望洋会へのブログの更新については、佐藤、中山の両学兄に大変お世話になりました。篤くお礼申し上げます。