RE 又造    加山又造展

加山又造は、私が最も好きな日本画家の一人である。今回奇妙なRE 又造という展覧会が恵比寿のEBIS303イベントホールで開催された。一応主催者はテレビ東京、グッドスピード、企業家俱楽部、有限会社加山が名前を連ねている。日経新聞のガイドワイド爛(2018年4月6日号)で「RE 又造」(4月11日~5月5日)、恵比寿・EBIS・303イベントホール。戦後の日本画界をリードした加山又造の華麗な屏風絵や版画を中心にした展覧会。現代作家による最新技術を使った映像演出も見どころ。入場料2000円)という記事を見付けて、僅かな時間を割いて、見学に行ってきた。主催者が誰か、絵葉書はあるか、図録はあるか等基本的知識も無しに見学に行った。私見としては、面白い「加山又造展」であり、記録に残す価値があると判断し、「美」に採録した次第である。加山氏の代表作は一応網羅していると思うが、絵画そのものではなく、映像を中心に構成した美術展であった。加山又造は、京都市生まれ。父は西陣織の衣装図案を業としていた。京都美術学校工芸科を経て、1949年に東京美術学校を卒業し、山本岳人に師事した。各種展覧会に出展し、新人賞等を多数獲得している。何時の間にか、日本画の大家となり、1966~72年には多摩美術大学教綬をつとめる。1973年日本芸術大賞を受賞した。1974年に創画会が結成され、同時に彼も会員となる。私は、加山又造は現代の琳派と位置付けている。1927年生まれ、2004年死去。享年76歳。2003年に文化勲章を受章している。なお、作品の順序は「出品目録」の番号に従って、年代順ではない。

倣北宋寒林雪山 紙本墨画  六曲一双  1992年   個人蔵

古今東西のさまざまな画業をあさりつくした加山が、晩年になって最も心を傾けたのは、古代中国の水墨山水画であった。傾倒はまず、南宋から元にかけての書家から始まったが、究極的には、北宋時代(960~1127)の画家、李成(りせい)、范寛(はんかん)、郭熙(かくき)などの作品であり、語り出すと止まらなくなる程であった。この「倣北宋水墨山水雪景」は、北宋水墨山水に倣った2作目のの作品である。タイトルの倣は「ならう」の意味である。古名画の真意をくみとり、咀嚼しようとする積極的な試みをいう。単なる模倣ではない。「その絵画性は神仙思想を帯びて怪異だが、高い精神、境地の表現となっており、実に素晴らしいというほかない」と加山は語っている。「倣北宋水墨雪景」では、画面中央奥に屹立する屏風のような堂々たる山塊を大きく配し、見る者との間に巨大な空間を設定している。中国の画論にいう、高々と見上げる「高遠形式」の画法山水画で、范寛の特色とされた。この作品について加山は、「北宋水墨山水の実験的倣作は、前年に引き続きこれが二度目である。この作では発想をより自由に延ばして雪景にしてみた。しかし、苦心を重ねながら、考えていたほどのスケールを得るに至らないたらなかった。再び試みて、苦い経験を乗り越えねばならないと思っている」と述べている。常に自信満々に見えた加山が、多少の苦渋の念をここに吐露したことは珍しい。

おぼろ 紙本彩色  四曲一双  1986年   個人蔵

「おぼろ」では染職工芸の「ろうけつ染め」の手法を使っている。加山は、この頃から自分の生まれ育った京都の文化、その優雅さや凄み、自分のルーツというものを意識し始めたような気がする。円山公園のしだれ桜を月夜に描いたものである。月に雲がかかっているのはリアルである。

狐 紙本彩色  額装   1942年    広島県立瀬戸田高等学校蔵

御子息の話によれば、加山は動物が好きで京都にいた時も動物園に通って写生をされたそうである。東京美術学校在学中は上野動物園に通いつめて動物の写生を繰り返していたそうである。しかし、この狐は、動物園に飼われた狐ではない。野性味あふれる狐で、こんな孤高の狐は見たことがない。極めて攻撃的で、誰にも馴染まない、個性あふれた孤高の狐である。これだけ魅する狐は少ない。

黒い鳥  紙本彩色  額装    1959年       個人蔵

ご家族によれば、「特にカラスは山ほど描いていました。興味をそそられた存在だったようです。カラスに対して父はシンパシーを感じていたように思います。あるいは自画像の積りで描いていたのかも知れません。父は生来、体が小さくて左利き、子供のころは喘息持ちでみんなにいじめられていたそうです。人には明かさなかったのですが、かなり強いコンプレックスを持っていました。それを払拭させたのが日本画家の横山操先生でした。それまでは内面に向かうような絵を描いていた父が、自分の想いを画面にぶっつけるようになりました」しかし、この「黒い鳥」は、私から見ると、決して内向的な絵では無い。むしろ攻撃的な激しい鳥の性格が現れているように思う。素晴らしい絵では無いだろうか。闘争心を感ずる。

冬  紙本彩色   1957年         東京国立近代美術館

辻惟雄氏は、この「冬」はブリューゲルの影響が見て取れると言われる。枯れた樹木を厳しい感じで描いているそうである。確かに、冬枯れの野原に狼が吠え、鳥が舞っている姿は厳しい冬を感じさせる。洞窟壁画やシュールレアリズムの影響を受けていると先生は言われるが、私は、そんな昔の話ではなく、現代の厳しい孤高を感じずにはいられない気がする・

火の島  絹本着色  六曲一双    1961年   今治大三島美術館

(この絵は最大の絵で各(167.6×261.0)で、3つに分割して写真を入れてみたが、どうしても2枚しか入らないので、止むを得ず、一番左の長い裾野の部分をカットして2枚に収めたので、全体像を表していないことをお断りする。)この「火の島」は、噴煙の桜島を描いたものである。海上には雄大に突き出た火山が、地球の遙か奥底から高温の溶岩と高圧のガスを天空に吹上げ、轟音を響かせている様は、非常に美しいと加山は語っている。以来加山は、火山にひかれ、数えきれないほど登り火山を描いた。ひとつことに凝ると、とことんまで突き詰めないと済まない人だった。この絵は、初めの金屏風への制作だった。画商は「しっかりしたつくりの金屏風を見つけたから、思い切って描いてみたら」と置いていってくれたものという。絹本に純金のやき箔が落ち着いた光沢を放っていた。それは凄絶な豪華さで、それを最大限に生かすには火山でなければならず、装飾様式のものでなければならないと画家は腹をかためた。折しもこの頃、加山は横浜・鶴見の自宅にアトリエを新築した。六曲一双の高さ1.6メートル、一双で幅7メートルの大画面をゆったりと広げることができるようになったのである。得意を胸に、「ともかく強引にねじ伏せるように画面を作った」と意気込みのほどを述べている。用いる色も金、赤、プラチナに限り、「どこまで轟くものの強烈さを出したかった」という。心の高ぶりが伝わってくる。加山は「私は私の絵の中にいつも生命があるようにと念じながら毎日を送っている」と述べている。彼の作品には強烈な生命感がみなぎっている。その「絵の中の生命感」とは中国の言葉を使えば「気韻生動する画面」のことではないかと思う。

月光波涛 紙本墨画  四曲一双  1979年     イセ文化基金

加山は、父の内懐(うちぶところ)に、カンガルーの子供のように鎮座して、目の前の紙を眺めて育ったといわれる。父親の懐を離れた加山は、父の仕事部屋で、図案志望のお弟子さんたちに遊んでもらいながら、一日を過ごしたという。虚弱体質に生まれた加山は、中学生になるまでは、体のどこかが痛かったと述懐している。「子供心に、このやっかいな肉体と折り合って生きていくいためにはどうしたらいいかと真剣に考えた。そして、何かをあきらめるしかないと悟った。まわりの人が望んで可能なことでも、私には無理なことがある。だから努力をしても、人なみの事は望まないことだと、そう私は開き直ったのだ」と書いている。加山はそうしたコンプレックスをバネにして、終生、不屈の闘志で生き抜いたのだと思う。この「月光波濤」について、98年の図録で次のように記している。「和紙に胡粉の上澄みを数度引き、エアガン、バイブレーター噴霧器、染色的手法、数種類の銘墨の併用、と、現在自由に出来るあらゆる手段をぶち込んでみた。私は、音にならぬ音、停止した動感、深い、しずけさを表現してみたいとおもった、」この浪のしぶきの表現は、北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」をしのぐ快挙だと思った。画面中空にふわりと浮かぶ月は、単なる点景の域を超えて、さながらスパームーンの威風堂々の姿をしのばせる見事な存在感である。

春秋波濤  絹本着色  六曲一双   1966年   東京国立近代美術館

この絵画は、国立近代美術館で何度か拝観したことがある。今回は、別に4重のガラス板で紅葉の山、満開の桜、黄色い波の山、の3種の山を4枚のガラス絵に表現して、立体的に見せる工夫をした部屋があった。こんな企画も、今回の展覧会の面白さであった。六曲一双屏風のひとつの画面の中に、満開の桜の山と紅葉の山、つまり春と秋の情景が一緒に描かれている。現実にはありえないこの表現は、大阪・金剛寺の「日月山水図屏風」(室町時代)が四季を屏風一双に現しているのに触発されたものだろう。本作では、技法的にも載金(きりがね)など伝統的な技法を駆使されている。二つの山の間でうねる波は様式化されているが、その表現には逆遠近法が駆使されている。加山は、1960年代に入ると、やまと絵や琳派の伝統に基づきつつ、それを現代的に捉え直し、自然を装飾的に再構成する方向へと進んだ。晩年には水墨の世界に取り組んだ。

身延山久遠寺天井画 墨龍  紙本墨色    1984年  身延山久遠寺

法華宗の本山、久遠寺には、天井画の墨龍と、襖絵がある。10年ほど前に私は、家内と久遠寺を訪れたことがある。残念ながら、加山又造の作品があるとは知らず、展望のみを楽しんできた。今回初めて天井画の墨龍を拝観することができた。日本画家として、最後には山水画にたどり着き、お寺の天井龍と襖絵を描いたのであろう。縦9M、横9Mの大きさは、天龍寺に比較すると、やや小さめである。日本画家は大成すると、不思議にお寺に作品を遺すものである。色はやや黄身がかかっているのが特徴かも知れない。

天龍寺 法堂天井画 雲龍図  白土墨画  1997年  臨済宗総本山天龍寺

加山は、次のように述べている。「水墨画。それは中国五千年の歴史に輝く、全人類的意味で最高の絵画表現である」(加山又造全集第4巻)この言葉通り、晩年になって「倣北宋水墨山水風景画」等を描いている。最晩年の作が、この天龍寺 法堂(はっとう)の雲龍図である。畢生の大作である。天井は縦10.6M、横12.6M、厚さ3センチのヒノキの板159枚を張り合わせ、全面に黒の漆を施し、白土を塗った上に龍を描いた。この絵の制作のため、加山は、神奈川県藤沢市鵠沼に、小ぶりの体育館ほどもあるアトリエを提供してもらった。加山は「私の履歴書」(日経紙)の中で、次のように述べている。「私は生まれつき体の小さいせいもあって、大きな絵を描くことにかぎりないあこがれを抱いてきた。大きな絵を描いてみたい。それは幼い頃からの素朴なねがいであり、生きがいのようなものだった」と述べている。最晩年になり天龍寺の雲龍図を描いたことは、加山の画家としての最後を飾るに相応しい絵であった。天龍寺は渡月橋から近いのため、非常に行きやすいお寺であり、雲龍図は公開しているので、京都へ行く機会がある方には拝観をお勧めする。

黒い薔薇の裸婦 紙本彩色  四曲一双   1976年  東京国立近代美術館

加山の子息の加山哲也氏(画家)は、次のように回想している。「黒い薔薇の裸婦」という裸体像では、シルクスクリーンを使用したのですが、そのことも大論争を巻き起こしました。しかし、父は(これほど使いやすい技法が光琳や宗達の時代にあったら必ず使っていたはずだ。現在に生きる私たちだからこそ使える技法なのだから、大いに使うべきだ)と言っていた。そういう父でしたが、筆遣いの名手でありました。私が父に最初に言われたのは、(日本画は線一本であらゆるものを表現できる。細くて強い線、細くて柔らかい線、太くて弱い線など、様々な線を使い分けられるように練習をしなさい。祈りのこもった線を画けるようにならないと絵描きにはだめだ。たとえ一本の線でも祈りを込めて描けば、観者はそれが地平線なのか水平線なのか、たちどころに理解する)と言われました。線に関する一家言を持った画家でした。」

 

加山又造は、私が最も好きな日本画家の一人である。しかし、残念ながら、今日まで「加山又造展」を見たことが無かった。今回「RE又造」と題する変わった加山又造展を見学した。図録は写真のみで解説はない。展覧会場でも、各々の絵画にはコメントは一切無い。光線を使って加山の世界を再現することは珍しく長けている絵画展であり、「RE又造」という名称も変わっている。何か前衛芸術の世界に招かれた感覚であった。しかし、永年望んだ加山又造展には違いない。展示された作品には満足した。出来れば、国立近代美術館等が開催する「加山又造展」を見てみたい。

 

(本稿は、図録「RE 又造展   2018年」、「ONBEAT 2018年12月号」、日本経済新聞社2018年2月4日、2月11日「美の粋」、「名品選」東京国立近代美術館、を参照した)