始皇帝と大兵馬俑ー天下統一 

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紀元前247年、西の大国秦(しん)に始皇帝が登場し、法家の思想を政治の場で実践した。黄土高原に生まれた秦は,周代に馬の飼育に長けた一族として頭角を現した。戦国時代半ばには、身分制度や刑罰に法家の思想を取り入れて、強力な中央集権国家に成長した。富国強兵に成功した秦は、始皇帝の時代には、全国の富の半ばを占めるまでになった。統一後、始皇帝は、焚書興坑儒(ふんしょうこうじゅ)と呼ばれる思想の弾圧を行い、さまざまな思想が噴出した百家争鳴と呼ばれる時代は終わった。皇帝は天の神に代わって天下を治める「天子」と同義語であるが、造語した本人はこれとは異なる意味を持たせたようである。始皇帝にとっての「皇帝」は、「天子」を超えた概念であり、「天子」を超越すること、そこにはもはや神秘の領域となる。始皇帝は、この神秘の領域に誰よりも近づこうとしたのである。秦は天下を統一(前221年)すると同時に、それまで国によって異なっていた度量衡、漢字の形、貨幣の統一し、全国に浸透させよとした。また、有力な貴族や功臣に王が一定の領地を与えて統治を委ねる統治方法を改め、地方に中央から官僚を派遣して、皇帝の意志を法令によって隅々にまで実現させるようにした。始皇帝は全国を五度も巡行してその威光を示した。その他、巨大な宮殿や長城の構築など統一後に始皇帝が行った事業は枚挙にいとまがない。

両詔権(りょうしょうけん) 青銅 秦時代(紀元前3世紀) 秦始皇帝陵博物院

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始皇帝は天下を統一すると,秦の重量制度を全国各地に普及させるため、重量の基準となる権(分銅)を多数製造させている。本品はその一つである。この分銅には側面に始皇帝とその子二世皇帝の詔(しょうー皇帝の命令)に関する銘文が刻まれている。この分銅は、当時の単位でⅠ鈞(きん)という重さの権であったと考えられている。

両詔両(りょうしょうりょう) 青銅 秦時代(前3世紀)陜西歴史博物館

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青銅製の升で、側面には両詔権と同じ銘文を刻んだものである。また底には二世皇帝元年の銘文を刻んでいる。この升の容量は当時の2升半に当たると考えられ、当時の平士に配給するひとり1日分の穀物を計るのに用いられたと思われる。

半両銭母范(はんりょうせんぼはん) 青銅 秦時代(前3世紀)陜西歴史博物館

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范は鋳型、母范は鋳型を作るのに用いられる型である。青銅製で14枚の銭の形や青銅で流れる経路(湯道)が浮彫で表されている。これで半両銭が造られた。これにより鋳型の大量生産が可能になった。こうした母范(ぼはん)が作られるようになったということは、大量の半両銭が必要になったのであろう。正に、通貨の統一である。「両」は古代中国の重量の単位で、秦漢時代の1両は15グラム強で、半量は約8グラムとなる。当時、貨幣経済が発達していたのであろうか。「前221年の天下統一後、中国全土で広く用いられるようになった」と図録では解説しているが、果たして本当かどうかは不明である。

瓦当(がとう) 陶製 戦国時代(前5~4世紀) 陜西省考古研究所

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この鹿文、虎雁文、狩猟文の瓦当は,前5世紀から前4世紀にかけて,秦の中心地が陜西省西部あった頃の瓦当である。いずれも戦国時代の他の国でが類例がない、秦国独自の文様であった。当時、瓦はまだk王朝の重要な建物にしか用いることができない特別な資材であったと考えられる。瓦当文様には、建物の安全や国家の繁栄を祈る気持ちが込められていたと想像できるが、本当の意味は今後の研究課題である。

水道の取水口 L字型水道管、水道管 陶製戦国~秦時代(前3世紀)秦咸陽宮遺跡博物館

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組み合わせ式の陶製の水道管である。漏斗状の大きな受け皿とL字型連結し、さらに円筒上状の菅を横方向に連続させて地下に水を流したものである。これらは咸陽宮出土である。この導水施設は始皇帝の地下世界を水害から守る治水対策に用いられたものであろう。この高度に発達した陶器製造の技術が、兵馬俑を作る技術に転用されているのであろう。

水鳥  青銅  彩色  秦時代(前3世紀) 陜西省考古博物館

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青銅製の水鳥で、鋳造後に表面全体をやすりがけして肌理(きめ)を粗くし、そこに下地となる漆を塗ったものである。鶴、白鳥、鵞鳥などもあり、皇帝祭祀に供されるために飼育していた水禽を表現したものであろう。

始皇帝陵

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始皇帝陵の周囲には、内外2重に巡らされた牆壁も発見されており、内城の周囲は3,807m、外城の周囲は6,210mである。牆壁は版築によって作られており、現在はその基礎が残っているだけである。内外の牆壁の4面には門があり、門の上には望楼があった。陵内の地上建築物は火を受けて、現存しておらず、磚(せん)や瓦の破片などが僅かに残っているに過ぎない。始皇帝陵はあたかも豊かな文化財を納めた地下の宝庫のようである。始皇帝陵を中心とする2キロメートルの中心区内には、地上、地下ともに様々な珍しい遺構や遺物が密集して分布している。中心区の外の周辺56.25キロ平方メートルの範囲内では、長年にわたって始皇帝の時代の遺跡、遺物の発見が続いている。始皇帝の建造物の配置や副葬物はいずれも生前に倣ったものであり、地下の王国は地上の王国の再現であった。あの大きな陵墓や地下宮殿は生前に住んでいた咸陽宮のようである。始皇帝陵は、中国の歴代皇帝陵の中でも最大規模を誇り、埋蔵物が最も豊富な大型陵墓である。現在、考古学的調査を経て知られている遺構、遺跡はその一部に過ぎないと思う。今後,更に多くの珍しく、貴重な遺物が発見されるであろう。

始皇帝兵馬俑抗  第1号抗   一部の写真

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私は1994年(平成6年)に,始めて私用で中国の観光旅行をした。万里の長城や故宮博物院等初めて観るものが多かったが、一番大きな衝撃を受けたのは、この始皇帝の兵馬俑抗であった。まるで、巨大な体育館のような建物の中で、兵馬俑を見学した思い出は、忘れることが出来ない。紀元前3世紀と言えば、日本では弥生前期であり、文字も無い時代であり、中国との歴史の差が余りにも大きいので,驚愕したことが記憶に強く残っている。それ以来、兵馬俑が展示される展覧会には必ず見学するようにしている。考古学的研究も進み、20年前には不明であったことが色々判ってきた。もう一度現場に臨むことは無いだろうが、兵馬俑を見る度に感激を新たにする。

日本に与えた始皇帝の影響は多岐に亘が、私はまず第一に徐福の話である。不老長寿の仙薬を求めて、徐福に3千人の童男、童女や技術者をひきつれ五穀の種子をたずさえて、東海の中の三神山に向かわせた。しかし、徐福は仙薬を入手できず、始皇帝の下へは戻らないで、平原、廣澤の地に住むつき、その子孫が繁栄したという。その徐福の辿りついた所が日本であるとして、和歌山県新宮や佐賀県諸冨町をはじめ全国各地(80ケ所以上ある)に徐福伝説が残っている。私自身も、三重県の太平洋岸の徐福上陸地点の碑を見たことがある。徐福の日本渡来は伝説として受け止められているが、時期は弥生時代の初めに当たっており、稲作文化の渡来を暗示する話にも思える。

弥生時代を特徴づける墳丘墓、方形周溝墓は、その祖形が咸陽時代の秦東陵園にみられることから、徐福の一行に加わった秦人が日本へ伝えたのではないかという説もある。応神朝に来日したと言われる弓月君は、始皇帝の長子、扶蘇(ふそ)の子孫と言われており、帰化人の中の有力勢力である秦氏(はたし)の存在にもあるいは影響が及んでいるかも知れない。

 

(本稿は図録「始皇帝と大兵馬俑 2016年」、図録「中国王朝の至宝 2012年」、図録「中国・美の粋 1996年」、図録「秦の始皇帝とその時代展 1994年」、陳舜臣著中国の歴史「第2巻大統一時代」,NHK取材班「故宮第1巻 至宝が語る中華5千年・1」を参照した)

 

大徳寺の塔頭   龍源院・興臨院

京の西北に聳える七堂伽藍とそれを取り巻く二十三の塔頭寺院、これこそ中世以来700年間、日本文化の中枢として禅文化を創造し育成してきた紫野(むらさきの)の大徳寺である。塔頭(たっちゅう)という単語を、日本美術辞典で調べたら、次のように定義している。「祖師の塔の有る所と言う意味で、一寺院の地域内に建てられた本坊に付属した寺院を言う。主に禅宗寺院で用いられ、子院(しいん)とも呼ぶ。支院は本坊即ち本寺と別の地にあって、従属関係にある寺院である。」即ち、禅宗の寺院ならば、どこでも塔頭があるが、特に大徳寺の塔頭が有名である。江戸時代には50ケ寺を超えたそうであるが、御多分にもれず明治の廃仏稀釈令で、減少し、現在は23ケ寺であるそうだ。大徳寺塔頭の中には、拝観を拒絶しているところが多い。そんな中で季節を限って、拝観を許す寺院もある。今回は龍源院と興臨院を訪ねてみた。

重要文化財  龍源院方丈            室町時代(16世紀)

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大徳寺の塔頭の中では一番古い寺であるそうだ。今から500年前、文亀2年(1520)大徳寺の開祖・大燈国師より第八代の法孫である東渓宗牧禅師を開祖として、能登(石川県)の領主であった畠山義元公、九州の都総督であった大友義長公により創建された。方丈は、室町時代の禅宗方丈建築としては、その遺構を完全に止める唯一の建物であるそうだ。一重入母屋造,檜皮葺きである。

方丈前石庭  一枝担(いっしたん)     室町時代(16世紀)

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方丈前石庭を一枝担(いっしたん)という。これは、開祖の東渓禅師(1454~1518)が、釈尊の粘華微笑(ねんげみしょう)という一則の因縁によって大悟され、その師、実伝和尚より賜った室号の霊山一枝之軒(りょうざんいっしのけん)より銘名されたものである。庭の中央右よりの石組が蓬莱山(ほうらいさん)を表し、仙人の住む不老長寿の吉祥の島である。右隅の石組が鶴島であり、中央の丸い苔に覆われたものが亀島であり、白砂は大海原を現わしている。作庭は室町時代のものであるが、作庭家の名前は伝わっていない。その時代の作庭者は阿弥号を名乗る時衆であろう。

方丈東側庭園  東滴壺(とうてきつぼ)     室町時代(16世紀)

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方丈の東にある有名な坪庭で、わが国では最も小さく、底知れぬ深淵に吸い込まれる感じのする,格調高い石庭である。

方丈北側の石庭  竜吟庭(りゅうぎんてい)    室町時代(16世紀)

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簡素な中に力強さを秘めた庭である。方丈書院の後庭(北庭)にあたり、東北西の三方は土塀で囲まれ、広さが約80坪である。全面に敷き詰めた苔が美しく、その緑が石組をグンと引き立てている。とりわけ中央部の石組は力強い表現となっている。この、一種の三尊石組は枯滝石組とも、須弥山(しゅみせん)石組とも考えられている。手前の一石は水分石であろうか。全体に比類の無い枯山水である。開祖の東渓和尚は、大仙院の開山古岳和尚の法兄にあたる。この兄弟は共に作庭に熱心であった。

開祖堂                      昭和時代(20世紀)

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開祖東渓禅師の塔所で、昭和の唐様式木造建築物の代表作である。一重入母屋造。桧皮葺き。

重要文化財  興臨院   本堂       室町時代(16世紀)

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この塔頭は、室町時代の大永年中(1520年代)能登の守護畠山左衛門佐義総によって建立され、以後畠山家の菩提寺となっている。畠山氏は足利幕府官領の畠山基国を中興とする後裔で、武門の名門である。義総の法号興臨院殿翁徳胤居士から寺名が付けられた。開祖は大徳寺八十六世の小渓和尚である。ここの本堂は、創建直後に焼失し直ぐ再建されたため、現本堂は天文2年(1533)頃のものである。又、畠山家没落後、天正9年(1581)前田利家公により本堂屋根の修複が行われ、以後前田家の菩提寺となった。

重要文化財  興臨院  唐門        室町時代(16世紀)

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唐破風、桧皮葺きで室町時代の特徴を良く表し、波型の連子窓、客待ちの花頭窓等は禅宗の建築様式をよく表している。

興臨院  庭園(方丈前)         江戸時代(17世紀)

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方丈前庭は、方丈の解体修理完了に際して、資料を基に復元されたものである。この庭は中国の寒山・拾得が生活していた天台山の国清寺の石橋を模し、大石、松をあしらって理想的な蓬莱の世界を表現している。

塔頭は数が多く、かつ非公開の寺院が多い。毎度同じことを述べるが、国宝、重要文化財には、われわれ庶民の税金が当てられているのであり、もし、僧門を閉じて一切公開しないならば、国の補助金は断り、檀家からの謝礼のみで、運営すべきである。この子供のような意見をあらゆる場所、機会に述べてきたが、長年拝観謝絶を続けた聚光院(じゅこういん)が、来年3月から概ね1年間開扉するそうである。狩野永徳の国宝3図があり、一度是非拝観したいと思っていたが、念願かない1年間とは言え、開扉するそうなので、是非紅葉の時期に訪れてみたい。馬鹿馬鹿しい子供のような意見でも、言い続ければ、どこかで人の目に触れるものであると感じた。

 

(本稿は古寺巡礼京都「17巻 大徳寺」、原色日本の美術「第17巻障壁画」、探訪日本の古寺「第6巻京都 比叡・洛北」、探訪「日本の庭第六巻 洛中・洛北」、各寺のパンフレットを参照した)

大徳寺と塔頭・大仙院

紫野(むらさきの)の大徳寺は、臨済宗大徳寺派の大本山であり、洛陽十刹(らくようじゅさつ)の筆頭に相応しい堂々たる風格を持つ寺院であり、三門,仏殿、法堂(ほっとう)、庫裏(くり)が一直線上に並ぶすっきりとした伽藍配置であり、禅寺らしい落ち着きが漲っているお寺である。大徳寺の創建は正和4年(1315)の鎌倉時代に遡り、開祖は大燈国師(1282~1337)である。13世紀に日本は大変革を来した。武家の封建国家樹立と共に禅宗国家を理想とし、一は道元の曹同宗と臨済宗が中国・南宋より将来され、曹同宗は主に地方に伝播し宗勢は極めて強かった。一方の臨済宗は北条時頼・時宗が蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)と無学祖源(むがくそげん)を招聘(しょうへい)して、建長寺と円覚寺を創めて開山に請じ、自ら参禅して武士を鍛えた。丁度,元が日本を襲った蒙古来襲の時代であり、一遍が全国の寺社仏閣を遊行した時代であった。それから50年、鎌倉禅が漸く京都に浸透した。南禅寺、東福寺、建仁寺、大徳寺が創建されたのである。ことに、江戸時代寛文年間の再建ながら、重要文化財に指定されている仏殿、法堂のたたずまいは、荘重で森厳である。また23寺の塔頭(たつちゅう)と呼ばれる戦国大名の寺院には、優れた茶室、美術品を所蔵している。

重要文化財  三門(金毛閣)         桃山時代(16世紀)

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三門は山門とも書く。左右には山廊(さんろう)を伸ばした重層・入母屋造りの、立派な楼門である。この門は大永年中(1521~28)に連歌師の宗長(そうちょう)が創建しかけて、工事なかばで投げ出したという、いわくが付いている。資金が続かなかったのであろう。本来、重層であるべき三門が、初層だけ出来上がったまま放置されているのは、いかにも見苦しい。中途半端である。そこで天正17年(1589),天下一の茶人の千利休(1522~1591)が私財を投じて、二階の部分を造らせ、重層の楼門として完成させた。落慶を祝い、利休はこの門の楼上に釈迦三尊など定めの仏像の他、等伯の壁画、自らの肖像を彫らせて安置した。これが、時の天下人、豊臣秀吉の怒りに触れ、利休の失脚、賜死へと繋がったと言われている。私は、この俗説には組しない。これは単なる言いがかりであり、本質的には「美の世界の王者」と「権力世界の王者」の反発であり、もっと言えば、国内統一を成し遂げた秀吉には、この時点では海の向うの異国に向けられ、堺衆の軍需商人としての役目は終わったのである。代わって、福岡の新興商人が、海外との取引に精通ししていたのである。かって焦茶色であった三門は何時の間にか緋色(ひいろ)に塗り替えられ、今では丹塗りに見えて,秋には映える色となった。

重要文化財  仏殿       寛文5年(1665) 江戸時代

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三門の北に並んで建つのが仏殿である。一重裳階(もこし)付き入母屋造、本瓦建築である。文明11年(1479)に堺の豪商尾和宗臨が一休禅師の請いを受け寄進し、さらに寛文5年(1665)169世の天佑紹杲(てんゆうしょうこう)の時、京都の豪商難波屋常佑(じょうゆう)によって再建されたもので、典型的な禅宗様(唐様)である。

重要文化財  法堂(はっとう)   寛永13年(1636)江戸時代

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仏殿の後ろに続いて建つのが、修行者に法を説くための法堂で、寛永13年(1636)開山大燈国師参百年遠忌に際して再建されたものである。一重裳階付き入母屋造り。本瓦葺で仏殿と同様に禅宗様建築であるが、裳階部分は7間6間となり、大徳寺伽藍の中で最もおおきな建造物である。大徳寺の仏殿や法堂・本坊本丈への立ち入りが禁止されている。塔頭の中にも、例えば黄梅院,真珠庵、聚光院、総見院、弧篷庵など門を閉ざして、拝観を拒絶しているところが少なくない。国宝、重要文化財は国民の税金で保護されているのだから、季節を限って拝観を許可する等の配慮があっても良いだろう。単に宗教のための寺院なら、その宗教を信ずる人だけの寄進の上で成り立つようにするべきであろう。すばらしい茶室や寺宝を持ち、それぞれに歴史的な由緒もありながら、全面禁止は如何なものかと思う。

国宝  大仙院  本堂    永承6年(1509)室町時代

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開祖大聖国師(だいしょうこくし)が、創建された当時のままの姿を残す室町時代の代表的方丈建築である。この本堂は禅生活が日本人の日常に浸透する過程を如実に伝える最古の貴重な遺構でもある。玄関も同時期の建築であり、国宝に指定されている。

大仙院  「礼の間」前の小庭         室町時代(16世紀)

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大仙院を創建したのは大聖国師古嶽宗亘(こがくそうこう)であるが、作庭は宗阿弥とする説があるが、これは信用できない。京の庭では「伝宗阿弥作庭」というものが、昔から数が多い。私は、阿弥号を持つ、時衆の作庭家で、室町時代の作家であると考えている.先ず眼を引くのは舟石である。縦に縞目の見える舟石は、実にしっかりとした形を見せていて、重量感にあふれた堂々たる姿である。小石を敷き詰めて広い水を表現したこの矩形の庭の、左手奥に位置していて、その先、白い築地塀の下にはいくつかの石が点在する。石はほとんど阿波の青石であり、緑色の華麗な石には多くの縦の縞がある。

大仙院 「書院の間」前の庭     室町時代(16世紀)

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この庭の石は非常に多い。庭の東方隅は、小さな台地になっていて、植込みが深い。椿の花が、赤い斑を散らしていた。右奥、石組の間から、枯滝が三段になって流れ落ちている。この石組を、多くの歴史学者、庭園研究家が、豪気、壮大、華麗、巧緻と賛辞を呈するが、私には、やや「狭い庭に石を詰め込み過ぎた庭」という感じがする。立原正秋氏は「北宋画のような絵画的な構成だが、龍安寺のよう庭のように美しくもない」と評している。もっともである。

大仙院 方丈東庭全景(前の二つの庭をまとめた写真)  室町時代(16世紀)

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二つの庭を方丈東庭の全景として眺めてみると、この写真のようになる。真中渡り廊下は、後から付けたものではないかと思う。水は左手から右手に流れると感ずると、これはこれで、充分満足できる作庭である。奈良本達也氏は、この大仙院の庭から宋元風の墨絵の山水を連想すると言われ、中でも雪舟の「慧可断碑図」(えかだんぴのず)を考えさせるという。「慧可断碑図」というは、慧可という男が入門の意志の強さを表すために、自分の腕を斬り落し、それを捧げて達磨を訪ねていく場面を描いた図である。険しい洞窟の中で座禅を組んでいる禅宗始祖の姿と、その後方に歩み寄る慧可の,凄まじいばかりの求道の心を示す墨絵である。確かに、大仙院の庭は、その石組は、「慧可断碑」の厳しさを見せているかも知れない。ここの庭の石には、すべて名前が付いているそうだ。

大仙院  方丈前の庭        室町時代(16世紀)

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方丈の前庭を目にすると、思わず「ほう」という声が出る。塀に囲まれた砂礫の庭に一木一石もないのである。全体的に清浄感がただよっている。見渡す限りは、砂紋の描かれた白砂の海である。左手に二つの砂盛りが美しい。石の多い枯山水の庭を見てきた目には、言いようもない清々しい。「無の美しさ」を感ずる。

大仙院 書院の間の西側の庭          室町時代(16世紀)

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眼の前に古い井戸があり、そこから南へ小石が続く。椿の花が美しく咲いている。枯山水の庭から、突然華やかな椿の花には驚かされる。

大仙院庫裏の入口には、「何妨」という二字の記された扁額が掲げられている。これは「なんぞさまたげん」と読まれて、いわば来たる者は拒まずという意味であろう。つまり禅の世界が門を開いて誰をも受け入れようとする姿勢であろう。考えてみれば、僧侶はお経を読み座禅を組む時は、決して庭の方に面して座ることはない。禅僧にとって、庭はそれ自体を眺め、それ自体を鑑賞するものではないのである。だからかれらにとって庭というものは、現実には見えていない遥かな世界であり、彼らの祈りや信仰を背後から支えるための一つの想像の世界ーあるいは想像や空想をひき起こすための、一つの媒体ということになるのではないか。このように考えると、庭は、その寺の住職がさほど情熱をもって作り上げる必要はなくなるであろう。つまり、人手に委ねてもいいと、私には考えられる。大仙院のチラシには作庭は「大聖国師」と書かれているが、私は無名の作庭家(時衆)が造ったとしか映らない。さて、文学者で大徳寺を訪れた人は多い。島崎藤村は昭和7年(1932)6月11日に和辻哲郎の案内で大徳寺の塔頭真珠庵を訪ねている。(「京都日記」より)丁度、藤村文学の集大成となる「夜明け前」と向き合っていた頃であった。大徳寺は茶の湯と縁の深い寺である。司馬遼太郎は「街道を行く」の中で次のように述べている。「大徳寺の特徴は、大燈国師以来のきびしい禅風をまもるべく、できるだけ世塵から超越しているところにある。ただ、東山・桃山時代以来、俗権とのかかわりをもったのは、茶を通じてであった。村田珠江(しゅこう)・千利休以来、茶道の本山として知られてきたために、「大徳寺の茶づら」と呼ばれた。禅僧でありながらしきりに茶の話をする、というところから付いた綽名だろうが、このことが大徳寺のえがたい個性をも作ったようである」

 

(本稿は古寺巡礼京都「第17巻大徳寺」、探訪日本の寺「6巻京都二」、立原正秋「日本の庭」、吉河功「京に庭」、島崎藤村「桃の雫」を参照した)

 

 

「肉筆浮世絵ー美の饗宴」展 

アメリカ・シカゴの日本美術蒐集家として知られる、ロジャース・ウェストン氏所蔵の肉筆浮世絵コレクションの展覧会が2016年1月17日まで、「上野の森美術館」で開催されている。浮世絵の誕生は、私は永年「岩佐又兵衛」(1578~1650)と考えていたが、この展覧会の図録の冒頭論文「浮世絵の誕生と展開」(永田生慈氏)によれば、菱川師宣(?~1694-ひしかわもろのぶ)と考えるべきであると論じている。

それによれば、浮世絵は、古くは浄土信仰思想から憂世と記され、憂い(苦しい、つらい、無情等)世の中と捉えられいた。それが16世紀前半頃の近世初期に入り、浮世の字に置き換えられる風潮があったとしている。その浮世の主だった意味するところは、男女間の恋愛、好色。また当世風、社会的な現実生活といった点が挙げられるが、人生は深刻に考えないで浮き浮きと享楽的に過ごすべき世の中といった点が大要であろう、と述べている。浮世絵と言えば、まずイメージするのが多色刷木版画、いわゆる錦絵で、葛飾北斎や歌川広重の大量に刷れる木版画である。版画の一方で多くの浮世絵師たちは、一点ものの肉筆画も描いていた。今回出展される作品は、いずれも肉筆画の貴重なものである。豪華な肉筆浮世絵に魅せられた日本美術コレクター、ウエストン氏は1990年代(日本のバブルが弾けた時代)から、このジャンルの収集を始め,約150点の作品を集めたそうである。大きな特徴は美人画に特化していることである。しかも、17世紀から明治期に至るまで各時代の美人画を集めている。

扇舞美人図  無款   寛文年間(1661~73)頃

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扇を片手に舞う妓女(ぎじょ)は、あでやかな小袖姿である。扇には武蔵野の秋草が描かれている。上部の画賛(がさん)には三十六歌仙の一人斎宮女御(さいぐうにょうご)の「ことのねに峯の松風かようらし いつれのおりししらへめくむ」という歌が添えられている。右手後方に、歌にちなんだ筝(そうー琴)がのぞいている。

やつし琴高(きんこう)仙人図   奥村正信作  宝暦年間(1751~64)

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琴高仙人(きんこうせんにん)は「列仙傳」に出てくる中国の仙人で琴をうまく弾いた。200年ほど放浪した後、江蘇省碭山県(とうさんけん)の磴水(とうすい)に潜って龍の子を取ってくると言い残し、弟子たちは潔斎して水辺で待つように伝えた。果たして仙人は赤い鯉に乗って現れたという。この琴高仙人を、当世風の美人にやつして描いたのが本図である。女性は豪華な着物に身を固め、前で帯の太鼓を結んでいるので、どこかの遊女であろう。そうとすれば、読んでいる手紙は、なじみの客からの恋文であろうか?鯉に乗っているということは、恋文であろう。肥痩(ひそう)の強い線が特徴である。

西王母図(せいおうぼず)  喜多川歌麿作  寛政年間(1780~1801)

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中国で古代から信仰されていた「西王母」の立ち姿を色彩豊かに描いた作品で,漢画風の肥痩(ひそう)の強い描線が印象的である。中国の美人を描いた歌麿の肉筆画は例がなく、学術的にも貴重な発見となった。

遊女と禿図(かむろず)  鳥文斎栄之作  寛政年間(1789~1801)

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中央に立ち姿の道中の遊女、その陰から禿(かむろ)一人がのぞいている。大きく描かれた美人の内掛の白が印象的な作品である。豪華な細い頸の八頭身美人で、清楚で繊細な印象を醸し出している。遠くに視線を向けた遊女には、気品が漂う。英之は特に肉筆画を多く描き、独自の清麗な美人は、歌麿の美人画と拮抗したと言われる。

時世装百姿図(じせいひゃくしず) 初代歌川豊国作 文化13年(1816)

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さまざまな階層の女性たちを描き集めた画集としては、菱川師宣や西川裕信が有名であるが、豊国自身の「絵本時世装」の存在も知られている。この「百姿図」は豪華絢爛な肉筆画帖である。裕福な注文主から制作依頼を受けたものと想像される。上は官女や御殿女中から、下は最下級の遊女である夜鷹(よたか)、舟饅頭まで描かれている。この絵では、女全員が、一番憧れていた鼈甲製の簪をしており、それを手鑑に映しているところから、遊女とも思われるが、子供が一人いることから、裕福な商家に集まった女性たちとも取れる。立ち姿の女性を除いては、服装も地味である。

絵巻を見る男女  二代歌川豊国作  文政9~12年(1826~29)頃

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二代豊国は文政7年に浮世絵界に登場し、翌年にはもう二代目を襲名して、それほど時間の経っていない時期での肉筆画である。円窓らしき背景に梅が咲き、男女が逢瀬でともに画巻を眺めている様が描かれている。画巻の左端には草花が描かれているが、果たして二人が見ている箇所には何が描かれているのであろうか。開かれた画巻の下で握り合う手が二人の親密さをあらわしている。

美人愛猫図(部分) 葛飾北斎作  享和~文化年間(1801~18)

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江戸後期の巨匠、葛飾北斎(1760~1849)の作品は3図出品されている。中でも「美人愛猫図」が美しい。長身の女性が猫をかかえて立っている。宗理形美人の完成形と言っても過言ではない。町屋の娘であろうか。全体的には灰色系の抑えた色調ながら、襦袢や口紅、鈴のついた猫の首輪の赤が映える。美術史家の永田生慈氏は「猫を描くことで画面に動きが出ている。猫は獲物を狙っているような鋭い目をしている」と話す。確かに女性のおっとりとした表情とは対照的である。落款に「画境老人北斎」の署名は摺物「盆踊り図」に見られる。印章の「亀毛蛇足」から享和・文化年間に描かれた作品と見られる。(落款部分は省略されている)

橋上美人図  岸駒(がんく)作   寛政年間(1789~1801)

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岸駒(がんく)は花鳥画、動植物、特に虎を描くことに優れた画家として知られる。円山派に連なる岸派の祖であり、応挙の画法などに学び、様々な絵を描いた。本図では、動きのある動物を描くことに秀でた絵師らしく、ほとんど描かない美人表現においても、日常の一瞬を捉えた描写を成立させている。橋の上で美人が緩んだ帯を締め直している。着物は特に上等のものではなく、岸駒の主な活動拠点であった京都に日常的にみられる女性を描いた。浮世絵以外の絵師が描いた風俗をあらわす美人図としても貴重な作例である。

一休禅師地獄太夫図  河鍋暁斎作    明治18~22年(1885~89)

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河鍋暁斎(かわなべきょうさい)は、「ジャポニズムの画家」として知られている。何故「ジャポニズムの画家」と呼ぶかというと、幕末の「狂斎」時代からそのユニークな作風で外国人の目にとまる存在であった。維新後は万国博覧会への出品で名声を得るほか、フランス人やイギリス人らと接していた。特にイギリス人建築家ジョサイヤ・コンドルは、暁斎に入門して「堯英」の号も授かっている。地獄太夫とは、室町時代に堺の高須町の遊郭にいた遊女のことで、現世の不幸は前世での行いが悪かったからだとして自ら地獄と称した。ある時,堺に立寄った一休禅師が遊女の美貌に驚き「聞きしより見て美しき地獄かな」と詠むと、大夫は「生き来る人の落ちざらめやも」と返句したという。圧倒的な密度で書きこまれた着物の柄、生き生きとした(?)骸骨たちの狂態、いずれも暁斎の画境の高さを物語っている。暁斎人気が活躍当時から今日まで西洋人の間で高い証拠であろう。

 

この「肉筆浮世絵ー美の饗宴」を見学して、まず驚いたことは、肉筆浮世絵の保管状態が極めて良好であることである。肉筆浮世絵は、当然一点物であるから貴重かつ高価であり、それらの主な享受層は裕福な商人や上流階級であった。しかし、愛好するだけに掛軸として掛けたり、親しんだりしたため、かなり保管状態が悪化しがちである。例えば、三鷹市美術ギャラリーの「写楽と豊国」展に、豊国らの肉筆画10点が展示されていた。美しい掛軸であったが、保管状態は良くなかった。肉筆画の掛軸の運命と思っていたが、このウエストンコレクションの保管状態は抜群に良好であった。しかも、蒐集は1990年頃からと言われると,余程のコレクションをまとめて入手したものであろうか。是非、日本の富豪の方々も、日本の美術品の蒐集に力を入れて頂きたい。確かに、東京国立博物館が所蔵する「見返り美人図」は、肉筆画の掛軸装であるが、保管状態は極めて良い。日本でも、所蔵する機関によって保管の状態が変わるのであろう。改めて美術品の保管状態の良好であることが、美術品の生命を左右することを強く感じた。

また浮世絵と言えば、江戸でもてはやされた錦絵を中心に考えていたが、今回の展示会で、浮世絵の誕生(16世紀前半)から17世紀半ば頃までは、上方京都で新たな題材が絵画化されていったのである。当初は「彦根屏風」等、大名などの権力者の依頼によって、大画面の屏風絵が制作されたが、寛永年間(1624~44)から寛文年間(1661~44)頃に入ると、富裕な商人層からの注文に移り、歌舞伎や遊里も描かれるようになり、作品も小型化して掛軸装の一人美人図を生み出すようになった。17世紀中頃、上方の風俗絵画の展開は終盤に入り、江戸では菱川師宣が登場し、肉筆画とともに一枚絵や版本などを精力的に発表し、浮世絵を専業とする浮世絵師という職業が確立した。これまでは、上方の動きを「浮世絵前夜」と理解していたが、やはり浮世絵の早い段階の確立と見た方が妥当と感じた。初期浮世絵が京都を中心とする上方であったことも、新しい知識となった。

 

(本稿は図録「肉筆浮世絵ー美の饗宴」、図録「写楽と豊国 2015年」、図録「大浮世絵 2014年」、図録「ダブルインパクトー明治日本の美 2015年」辻惟雄「奇想の系譜」、岩切友利子「国芳」、日経新聞「特集」2015年11月14日、日経2015年11月20日「文化事業」を参照した)

智積院  等伯一門の障壁画と名庭園

 京都で3時間程度余裕が出来ると、私は必ず市バスの三十三間堂前で降りて、智積院、妙法寺、養源院、三十三間堂、更に京都国立博物館を周ることにしている。
わずか、3時間程度で700年前の仏像や、寺院を幾つも拝観することが出来、かつ京博も見物できれば、極めて効率的に京のお寺や文化財を見る機会となる。
振り返ると、何十回と拝観したような気がする。中でも智積院(ちしゃくいん)には、私の好きな長谷川等伯(1538~1610)と弟子たちによる国宝障壁画が常時拝観できる。長谷川等伯は、能登出身の田舎絵師であり、かつ桃山時代を代表する画家である。
この時代の絵画の世界の頂点であった狩野永徳(1543~1590)と鋭く対立し、その模様は安倍竜太郎氏の描く「等伯」(2巻)に詳しい。
空海が密教を日本へ伝えてからおよそ300年後、空海の開いた高野山は次第に活力を失いつつあった。その頃、高野山に登った興教大師(こうきょうだいし)覚鑁(かくばんー1095~1143)は、教学振興のため尽力して、高野山は活気を取り戻した。
覚鑁は自らは紀州(和歌山県)根来寺(ねごろじ)に移り、教学の振興を図り、後に「新義」といわれる真言教学を確立し、真言宗智山派はこの「新義」に属する。
やがて天正13年(1585)巨大な伽藍と力を持っていた根来寺(ねごろじ)は、その力を恐れた豊臣秀吉によって攻められ、全山灰燼に帰した。その時の学頭の一人、玄宥(げんゆう)は京都地積院に逃れ、智山派(ちざんは)の基礎を築いた。
慶長3年(1598)に豊臣秀吉が亡くなると、玄宥が申し入れていた寺領下賜の許しが徳川家康により出て、豊国神社の土地と建物の一部が与えられ、遂に「根来寺智積院」(ねごろじちしゃくいん)が再興されたのである。元和元年(1615)、大阪城落城とともに、豊臣時代が終り、3歳で亡くなった息子鶴丸(つるまる)の菩提を弔うため、秀吉が建立した祥雲禅寺(しょうんぜんじ)が智積院に与えられ、その寺にあった等伯一門の障壁画が智積院に移ったのである。
智積院朱印所を入ると、拝観受付と収蔵庫が見える。

国宝 松に立葵図     長谷川等伯作           桃山時代(16世紀)
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 斜めに伸びる実物大以上の松樹のかたわらに芙蓉(ふよう)、すすき、菊などの秋草が配されるが、とりわけ芙蓉は闊達な筆致で描かれ、やや様式化された松に対して新鮮な表現となっている。錯綜する諸題材を明快にさばく筆力は画技の高さを予想させ、動きのある均整のとれた構図もすぐれている。表現や画格の高さから、私は等伯の手になるものと思う。

 国宝  楓図(かえでず)  四面の内   長谷川等伯作            桃山時代(16世紀)
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 狩野永徳は天正15年(1691)9月に突然死亡し、狩野派が動揺している時に、祥雲寺障壁画制作の機会を長谷川等伯が握ったことは、桃山時代の日本絵画の大きなチャンスであった。
 楓(かえで)の大木は永徳様式の「檜図屏風」を彷彿とさせるダイナミックな形態であるが、本作品の空間には永徳風の吹く抜けていくような風のイメージはなく、静かに立ち込める空気を感じさせる繊細さがある。木犀(もくせい)と楓のカラフルな色の対比はナイーブで、いかにも幼児の死を悼むような胸が詰まる思いを抱かせる。当時の狩野派の画にはない豊かな情感を湛えた名品である。

 国宝  松に秋草図  四曲一双  長谷川等伯作    桃山時代(16世紀)
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巨大な松を画面の対角線に沿って大胆に描き、その下に白い花をつけた立葵を配している。雄大な松の生き生きとした姿もさることながら、驚くべき均整を無視して大きく描いた立葵である。この思い切った筆力は画技の高さを予想させ、動きのある均整のとれた構図もすぐれている。表現技巧や画格の高さから、私はまぎれもなく等伯の手になるものと断じたい。

 国宝  桜図  四面  長谷川久蔵作         桃山時代(16世紀)
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  楓図に隣接する桜図はまた春爛漫の風情をたたえている。
  桜樹は二株あり、背後の一つはしだれ桜となっていて、あたかも二重映像の如く、満開の桜表現に深さと変化を与えている。桜花は一つ一つ丹念に胡粉の盛上げを行って、やまと絵風の花文に仕立て上げ、それらが繊細な枝ぶりや若葉の素直な描写と釣合いをみせている。桜花の背地をなす金雲は、下辺においてわずかに水辺をふくめた大地のひろがりをのぞかせる。
 作者については、長谷川久蔵とする意向が定説化されつつある。

名勝庭園   大書院の奥(築山部分)           桃山時代(16~17世紀)
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 大書院の東に高い築山を配した名勝庭園がある。庭には利休好みの庭園と言われ、中国の廬山(ろざん)を形どって造られたと伝えられている。この築山は、当初は池を掘り上げた土で、小山を築いただけであったが、桃山から江戸時代にかけて築山技術が発達し、築山自体の美を楽しむようになったようである。

 名勝庭園  大書院の奥(庭園全体)           桃山時代(16~17世紀)
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 庭園全体の写真である。土地の高低を利用して築山を造り、庭木を刈り込み、その前面に池を掘って、山の中服や山裾に石組を配し石塔・鉢・垣などを組み合わせて変化をつけている。李休好みの庭園と言われる。
 この庭は築山・泉水庭の先駆をなしたものとして、貴重な遺産となっている。

 長谷川等伯と言えば、東京国立博物館の所蔵する「松林図屏風」を代表作とするのが定説であり、これにいささかの異論もない。しかし、私の好みからすれば、長谷川等伯及び一門の絵画は、ここ智積院の松、桜、秋草などの障壁画を頂点とする。
 理由は、等伯の美しさに接した最初の絵画であること、何時でも見られること、一番回数多く見ている事、そして如何にも桃山時代を表現する大胆な障壁画であるからである。
 美しさ、剛毅さ、繊細さを見事に表現している、智積院の障壁画は私が最も愛する長谷川等伯の絵画の頂点であると思う。 比較的観光客の少ない智積院の収蔵庫の中で、時には1時間も2時間もかけてゆったりと桃山時代を代表する長谷川一門の名画と接することが出来るのは、私にとって至福の時間であり、場合によっては床に腰を下ろし、対面する歓び、酔う時間は
最高の時間であり、何物にも替えがたい贅沢である。 

(本稿は図録「総本山智積院」、新潮日本美術文庫「長谷川等伯」、原色日本の美術「第13巻障壁画」、安倍竜太郎「等伯上下」、図録「長谷川等伯 2010年」、探訪日本の古寺「第7巻 洛東」を参照した。