東寺   講堂と立体曼荼羅(2)

彫像・塑像などの立体物で構成する曼荼羅は、普通、羯磨曼荼羅(かつままんだら)と呼ばれる。密教では、そこに真理が存在する以上、それはかならず形をとって表現されなければならない、というのを基本理念としている。空海の代表的な営みが講堂内に密教彫像をもって形成した立体曼荼羅である。中でも特異な仏像類は、一番奥(向かって左側)の五大明王(ごだいみょうおう)像で、これらは密教伝来による新しい仏像類である。天平物仏に慣れ親しんだ私にとって、特に違和感を強く感じたのは、この五大明王像であり、中々理解できず、何回もお詣りし、少しでも近づけるように努力したものだが、未だに、その意義が十分理解出来ていない。五大明王はすべて平安仏であり、国宝指定を受けている。

国宝  不動明王坐像  木造  承和6年(839) 平安時代(9世紀)

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五大明王の中心に位置し、保存状態は一番良い。両眼をかっと開け、上下歯牙(しが)で下唇(したくちびる)を噛みしめた表情はいかにも力強い。「大師様」(だいしよう)とも呼ばれる不動明王のスタイルであり、その後の規範となっている。頭髪を総髪に、左耳の辦髪を垂らすのは、初期不動明王の特徴である。躍動的な行動の群像のなにあって、静かな憤怒(ふんぬ)の表情を浮かべて座すその姿は、主尊としての威厳に満ちている。不動明王像の特徴は「高雄曼荼羅」(たかおまんだら)(神護寺蔵)の胎蔵界の不動と一致している。「高雄曼荼羅」は、空海が師の恵果(けいか)から与えられた両界曼荼羅(現図曼荼羅)を在世中に映させたもの。原図曼荼羅は失われてしまったが、それを立体的に表現したこの像によって、後世まで不動明王の手本とされた。

国宝 金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)木造承和6年(839)平安時代(9世紀)

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明王は密教固有の尊像で、密教の教えを聞こうとしないものを教化するために、その妨げとなる煩悩や欲望などを力づくで調伏する憤怒の仏である。五大明王のひとつで、東北方に配される北方尊である。三面六臂と、密教特有の多面多臂仏である。しかも、中央の面は眼が5つ、左右の面は3つと、顔が異様である。六臂にはそれぞれ独鈷(とっこ)や矢など法具・武器を持っており、今にも飛び掛かってきそうな躍動感が感じられる。これらの明王像はみな針葉樹の一木(いちぼく)造りで、衣の一部や臂釧(ひせん)・腕釧(わんせん)などの装身具は、乾漆(かんしつ)を盛り上げて成形されている。奈良時代の伝統的技法である乾漆を用いて、新来の密教尊像の特異な姿を表したものである。

国宝 大威徳明王騎像(きぞう)木造 承和6年(839)平安時代(9世紀)

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大威徳明王は、頭上の3つを含め6つの面、六本の腕、六本の足を有する異形の姿である。六本足から六足尊とも呼ばれる。六面とも額にも目がある。左右の第一手は胸前で両手の指を組み各第三指を立てる。やはり密教独特の複雑な形である。他の手には剣や法棒などの武器を執る。水牛を座とするが、その水牛はヒンドュー教の死の神のヤマを表し、その上に大威徳明王が座るということは調伏を意味する。

国宝 降三世明王立像(ごうさんせいみょうおうりつぞう)木造 承和6年(839)平安時代(9世紀)

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降三世明王は、正・左・右・背面のそれぞれ顔がある。眼は四面とも、目頭部弧状の縁のある瞋目(しんもく)と呼ばれる形式が採用され、見開いて吊り上り、上の歯列と牙を剥き出しにする憤怒の相である。焔髪(えんぱつ)と呼ばれる逆立つ髪も怒りを表している。腕は八本で、胸前で左右手の小指を組む参世印は、この尊像を強く印象付ける。他の指には三鼓杵(さんこしょ)や弓、矢などの武器を執る。ヒンドゥー教の神の姿を取りいれたものである。

国宝  梵天(ぼんてん)坐像 木造 承和6年(839) 平安時代(9世紀)

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須弥壇に向かって右端に梵天、左端に帝釈天が安置される。梵天は左右にも面があり、四本の腕という異形で、上半身には条帛(じょうはく)という帯状の衣しか着けない。胸部は広く、厚く表され、腹部に向かって細く括られる。たくましく、また肉感的な体型である。脚は崩して蓮華上に座る。これらの表現は、高雄曼荼羅の身体表現に近似している。蓮華座は、四羽のガチョウに支えられる。

国宝 帝釈天(たいしゃくてん)半跏像 木造 承和6年(839) 平安時代(9世紀)

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帝釈天は、上半身を甲で被い、その上に丈帛を着ける。下半身には裙(くん)を着け、象の上に左脚を垂加して座る。頭部は後世に造り直されているが、端正な顔立ちである。2011年の密教美術展で、東寺の立体曼荼羅が多数並んだ時に、「一番のイケメン像」として、女性の人気N0.1であった。45度前の角度から朝10時頃の太陽光で見ると、一番美しいそうである。梵天と帝釈天は奈良時代以来の尊像であるが、奈良時代のものは立像で、鳥獣を台座にするものはない。伝統的な尊像でありながら、姿や表現は新しいものに変わっている。その姿の原型は空海が将来したと言われる京都・醍醐寺の「十天形像」中の梵天と帝釈天と酷似すると言われる。

国宝  四天王 持国天立像  木造 承和6年(839)平安時代(9世紀)

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持国天は右手を振り上げ、右足を上げて邪鬼を踏み付ける。顔は斜めに下方に向け、目を見開く。その、目は瞋目で、口は大きく開けて威嚇する。面部は怒りで筋が隆起する。法隆寺の日本最古の四天王像は直立して、顔に怒りを表さないが、奈良時代を通じて四天王の怒りの度合いは増していき、この像でそれが頂点に達した感がある。本像は日本でも最も恐ろしい四天王と言って良いだろう。

国宝 四天王 増長天立像  木造 承和6年(839) 平安時代(9世紀)

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増長天は頭部を左方に向け、面部の筋はやはり怒りで隆起している。目は瞋目(しんもく)で持国天よりも大きく見開き、開口はしないが上歯列をむき出しにする。右手はあげて戟(げき)、左手は腰の辺りで剣を執る。右手は挙げ面部を左方に向ける姿勢は、それまでに造られてきた姿勢である。本像のように、台座に正対すると頭部はほぼ右側面をみせる大胆な表現には、目を見張るものがある。瞋目という形式は、奈良時代には四体のうち最も強い怒りを示す1体、もしくはそれに準じるものも含め二体に採用されているが、この時期以降、全像に瞋目を採用するのが一般的となった。

 

空海がもたらした新着の密教の神髄は、この東寺の講堂に収まっている。私は、空海の密教を少しでも理解したいと思い、昭和55年から57年(1980~82)まで毎日曜日に、この講堂に通った。結論から言えば、密教は満足に理解できていない。その中で、不思議な体験をした。昭和56年(1981)秋(9月頃か)に、東寺講堂で、この仏像群に詣でた時に、一番奥の五大明王の後ろ(その当時は、仏像の裏側まで公開していたが、現在は、管理の都合であろうが、前面のみを公開している。仏像はすべて前面を向いているので、この状態でも特別に不都合なことはない)で、若い女性(27歳位の美人)が、涙を流し、さめざめと泣いていた。幼い子供を失ったのか、恋する男性との別れがあったのか、理由は分からないが、長い時間涙していた。何とも言えない不思議な体験である。仏像の前で、涙を流す人はいる。確かに感激して、私自身も涙を流したことはある。しかし、あの憤怒の五大明王の後ろで、涙を流すだろうか?理解は出来なかったが、よくよくの深い事情があったのであろう。以来、東寺の講堂の仏像群は、私に取っては、その思い出と共に甦る。

 

(本稿は、小学館「古寺を行く 第3巻東寺」、図録「空海と密教美術 2011年」、図録「弘法大師と密教美術 1983年」、司馬遼太郎「空海の風景上下」、司馬遼太郎「この国のかたち1,2巻」を参照した)

東寺  講堂の立体曼荼羅(1)

空海は御請来目録の中で「密教は奥深く、文章で表すことは困難である。かわりに図画をかりて悟らない者に開き示す」と述べている。密教における造形の重要性を説くもので、東寺講堂の立体曼荼羅は、このような考えに基づいて造られたものである。講堂はおよそ幅34メートル、奥行15メートルの堂で、中央に幅24メートル、奥行6.8メートル、高0.9メートルの壇が築かれている。壇上には中央に大日如来を中心に五体の如来グループ(5仏)、その向かって右に金剛波羅密(こんごうはらみ)を中心に5体の菩薩グループ、その向かって左に不動を中心に5体の明王グループ(五大明王)、壇の右側左縁右縁にそれぞれ梵天と帝釈天、そして壇四隅に四天王の合計21体が安置される。各グループの尊像の間には密切な関係がある。その様子はまさに立体で表された曼荼羅で、堂内に入ると他では経験できない雰囲気に包まれる。

東寺講堂内部の諸尊像の配置

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中央に五智如来(5体)、右側(東側)に五菩薩(5体)、左側(西側)に五大明王が並び、東西の両端に梵天(ぼんてん)、帝釈天(たいしゃくてん)、四隅に四天王が配されている。文明の土一揆(1486)で、講堂は焼失し、尊像は、僧侶達の必死の運びだしで助かったが、扉が東西(右、左)二方向にしかなかったため、中央の五智如来の5仏と五菩薩の中応仏である金剛波羅密菩薩は焼失し、後世の補作である。

重要文化財  五智如来像(ごちにょらいぞう)  室町時代、江戸時代

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中央に位置する五智如来とは、密教の中心仏である大日如来の智(総徳)を5つに分け、それぞれの智を「金剛頂経」(こんごうちょうきょう)に説かれる大日、阿閦(あしゅく)、宝生(ほうしょう)、阿弥陀、不空成就(ふくうじょうじゅ)の五如来、すなわち金剛界(こんごうかい)の5仏を配したものを言う、大日如来を中心とする最重要の尊像である。五智如来は後世のものである。阿弥陀如来だけは、平安末頃の制作になるもので、その他の諸像も、この寺が京都の市中にあるため火災や地震などにより損傷を受け、補修の部分も極めて多い。にも拘わらずこれらの諸尊像中には、制作当初の様式を持ち続けたものが何体かあることはまことに貴重である。

国宝  五菩薩像   承和6年(839)   平安時代(9世紀)

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五菩薩(五大菩薩)は、これを一組として説く経典はないが、教化(きょうけ)を重視した空海の密教的解釈から工夫された一群の仏とされる。仏法そのものを備える五智如来の示す正法(しょうぼう)を衆生に説く菩薩のことで、実際に衆生を教え導く姿を取る。東寺では、五菩薩の名を金剛波羅密多(こんごうはらみた)・金剛薩埵(さった)・金剛宝(ほう)・金剛業(ごう)と伝えている。補作の中尊・金剛波羅密多を除く4体が国宝に指定されている。

国宝五大明王像(ごだいみょうおうぞう)承和6年(839)平安時代(9世紀)

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不動明王と、それを中心に東西南北に配された四明王を指す。四明王は多面多臂(ためんたひ)。加持祈祷(かじきとう)に験力(げんりき)を発揮すべく、それまでの仏像に較べ著しく怪奇な容貌と姿をしている。私が、馴染めない仏像と言うのは、主としてこの明王像である。五仏ともすべて国宝である。

重要文化財  大日如来坐像    室町時代

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大日如来は「大日経」「金剛頂経」の本尊となり、十方諸仏を包括し、仏法そのものを示す「法身仏」(ほっしんぶつ)の地位を得た仏で、太陽にもたとえられ、万物を慈悲と知恵の光であまねく照らすとされる。像容は、如来であるが、宝冠・瓔珞など各種装身具で身を飾り、一種の王者の姿を取る。金剛界の大日如来は、左手の人差し指を右手で包む智拳印(ちけんいん)を結ぶ。

国宝  金剛法菩薩坐像  承和6年(839)  平安時代(9世紀)

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創建当時からの4体は、一木造り、漆箔(しっぱく)仕上げの像で、天平彫刻の均整のとれた作風を示している。金剛法菩薩を除いて、坐像にも関わらず、膝前から台座の蓮肉(れんにく)まで共木(ともき)で彫りだし、頭髪や碗釧(わんせん)などの細かい部分は、木心乾漆の技法で補足している。全体として女性的なやさしい顔貌(がんぼう)としなやかな体つきが強調されている。この印象は五菩薩すべてに共通しており、仏の慈悲を示そうとする構想に相応しい。天平彫刻の伸びやかで官能的な姿態表現を追求したものであろう。

国宝  金剛業菩薩坐像  承和6年(839)  平安時代(9世紀)

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金剛業菩薩は、左手は全指を伸ばして掌を上に向け、右手は全指を伸ばして掌を前に向ける、天平時代までの尊像にはない密教独特の印である。髻(けい)を高く結い、髪筋が丁寧に表される。面長で、頬が締まって精悍な顔立ちである。蓮華座に座るが、脚は左右に大きく張って、膝が台座から飛び出す。以上の表現は、空海が将来した図像の表現を取り入れたものと考えられる。この筋肉質の身体表現の起源はインドの仏像に求められる。

 

 

 

司馬遼太郎は「この国のかたち」第二巻で、次のように述べている。「空海が展開した真言密教は、紀元5,6世紀ごろにインドで成立したもので、教主を釈尊ではな大日如来という非実在者としている点でいえば、仏教とはいいにくい。が、密教もまた空の思想をもち、解脱を目的としている点からみると、濃密に仏教といえる。」言い得て妙であると思った。「続日本後紀」承和6年(839)6月15日条に「公卿が皆東寺に集まった。天皇発願の諸仏の開眼のためである」という記述があり、それが講堂諸像の開眼のことと考えられている。空海は承和2年(835)に高野山で入定するので完成を見ることは無かった。なお5体の如来と金剛波羅密菩薩は、文明18年(1486)にあった土一揆で堂とともに焼失し、その後に造像されたものである。(だから重要文化財に留まっているのであろう)講堂の尊像は昭和40年(1965)まで秘仏であったので、色彩が鮮やかに残っている。

 

 

 

(本稿は小学館「古寺を行く第3巻東寺」、図録「空海と密教美術展 2011年」、図録「弘法大師と密教美術  1983年」、探訪日本の古寺「第8巻京都Ⅲ」、司馬遼太郎「空海の風景上下」、司馬遼太郎「この国のかたち第二巻」を参照した)

 

東寺   お堂と塔

私は、昭和55年(1980)から2年半京都に住んだ経験がある。東寺の五重塔を新幹線から見ると、京都に帰ってきたという思いが何時もする。京都と言えば東寺である。毎日曜日には,東寺の講堂を拝みに毎日のように行っていた。京都で一番懐かしいお寺が東寺である。この五重塔が最初に竣工したのは元慶7年(883)で、現在の塔は五代目で江戸時代の再建である。京都のシンボルである五重塔は、もともと平安京の都市計画の一環として建てられた官寺であった。延暦13年(794)に桓武天皇により平城京遷都。その2年後から東寺と西寺の造営が始まった。平城京の表玄関は、都の南・九条大路に建つ羅城門である。そこをくぐると道幅84メートルの朱雀(すざく)大路が北へ延び、その右手に東寺、左手に西寺が建っていた。東寺はこの平城京の寺域をそのまま引き継いでいる。京都は、その後多くの戦乱や災害に遭い、京都御所ですら何度も動いたが、東寺は全く寺域を動かなかった。東寺の正面は九条通りの南大門である。五重塔が東に、西に灌頂院(かんじょういん)が並ぶ。南大門を入ると正面に金堂、その中心線上に講堂、食堂(じきどう)が並んでいる。これらの建物はすべて後世の再建によるものであるが、位置や規模は創建時とほとんど変わらない。東寺は平城京の威風を伝える唯一の空間である。だからこそ、世界文化遺産に登録されているのである。

重要文化財  南大門  九条通りから南大門を望む  桃山時代(16世紀)

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正面の門であり、創建時の位置のままである。この門は蓮華王院から移築された桃山時代の建物である。この門から望む東寺の景観は、平安初期の雰囲気を唯一残すものであり、私は好きである。

国宝  五重塔    寛永2年(1644)再建    江戸時代(17世紀)

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五重塔は、境内の東南偶にあり、伽藍配置から見ると、東塔の位置に聳え建つ。西塔の位置には塔ではなく、灌頂院(かんじょういん)が建っている。塔の高さは約55メートル、木造の塔としてはわが国最高の塔である。空海は天長3年(826)に塔の造立を願い出るが、創建は平安初期の原慶7年(883)ころとみられる。その後、落雷などにより何回も焼失と復興を繰り返し、現在の塔は寛永21年(1644)に徳川家光の寄進により再建された五代目の塔である。京都は、50年前には高い建物が無く、市中は元より、遠く洛南の農村地帯から、この五重塔を望むことができた。桃山時代から江戸時代にかけて、しばしば描かれた「洛中洛外図」は、この東寺五重塔からの眺めと言われる。

国宝  金堂   慶長8年(1603)再建    江戸時代(17世紀)

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金堂は、空海が東寺を勅賜されたときには、すでに完成していた。現在の金堂は、大きさは5間×3間の母屋(もや)に裳階(もこし)をめぐらせた堂々とした大建築である。講堂とともに文明の土一揆(どいっき)(1486)で炎上し、創建当初のものは失われた。講堂は室町時代に再建されたが、金堂は工事が進まず、豊臣家の援助により慶長8年(1603)に復興された。薬師三尊が広い金堂の内部に安置されている。

重要文化財  講堂  延徳3年(1491)再建    室町時代(15世紀)

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金堂の北に位置する講堂は、文明18年(1486)の土一揆で焼失し、延徳3年(1491)に再建される。入母屋造り、創建当初の基壇、礎石の上に建てられた。東寺は、はじめ鎮護国家を祈る諸宗兼学の官寺であった。東寺を勅賜され、造東寺別当(べっとう)に就任した空海は真言密教の根本道場にしたい旨、嵯峨天皇に要請して、50人の定額僧(じょうがくそう)を置いて真言密教専修の寺とした。空海は密教の曼荼羅世界を講堂に実現しようとしたのである。

国宝  御影堂(みえどう) 康暦2年(1380)再建 室町時代(14世紀)

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御影堂は域内の西北偶に建ち、屋根は入母屋造り桧皮葺(ひはだふき)と、諸堂の中でも和風で優美である。桁行7間、梁間8間、前堂、後堂、中門からなり、極めて洗練された建物である。御影堂のある西院は、東寺造営にあたって空海が住んだ建物であり、はじめ空海の念持仏の不動明王が安置され、ついで鎌倉期に、仏師康正(こうしょう)の彫った空海の木造が祀られるようになり、以後、御影堂あるいは大師堂と呼ばれている。現在の建物は、室町幕府3代将軍足利義満と公家の援助により,康暦2年(1380)に再建されたもので、さらに明徳元年(1390)に一部改造して、北面に前堂と中門を付加している。

重要文化財  灌頂院  寛永11年(1634)江戸時代(17世紀)

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南大門を入って左手にある灌頂院(かんじょういん)は、密教の修法や伝法灌頂の儀式が行われる、真言密教において、もっとも重要とされる堂舎である。建物は瓦葺きの正堂(しょうどう)と板敷の礼堂(らいどう)からなり、その間を1間の相の間で繋いでいる。正面の身舎(もや)の板壁には両界曼荼羅(りょうかいまんだら)を掛けるようになっている。また三方の壁には真言八祖像が描かれている。他の仏堂には無い独特の雰囲気を持つお堂である。また毎年、正月の八日から一四日にかけての七日間後七日御修法(ごしちにちみしほ)が行われる。これは、出仕する一五人の僧と承仕(じょうじ)以外,堂内に入ることが許されない秘法である。御修法(みしほ)の目的は、国家安穏、五穀豊穣、玉体(天皇)安穏などを祈ることにあり、現在でも皇室から勅使が派遣されている。「冬の京都」の催しとして、三月八日まで、灌頂院が公開されている。

重要文化財  北総門   鎌倉時代(14世紀)

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平城京条坊の八条大路の南側に建ち、外郭築地塀(ついじべい)に開く唯一の四脚門である。板扉は平安時代、鎌倉時代初期のものを転用しており、修理にあたって再利用された。

 

東寺は、京都のお寺の中で一番平安の趣を備えたお寺であり、常に歴史の中で、大きな役割を果たしてきた。私は、長年慣れ親しんだ天平仏からあまりかけ離れた東寺の仏像類に強い違和感を持ち、京都在住の2年半(昭和55年から昭和57年9月まで)の間、毎日曜日に、この東寺にお参りにきた。講堂の立体曼荼羅には、なかなか馴染めなかったが、2年半も通うと、その異様な仏像にも慣れ親しむようになった。仏像類については,次回以降に丁寧に説明したいが、天平仏とはまるで違う密教仏である。今でも違和感は残るが、密教の底の深い教理には興味も湧く。いずれにしても,兎に角、東寺を拝観しないと多分理解出来ないと思う。

 

 

(本稿は小学館「古寺をゆく 3巻 東寺」、図録「空海と密教美術展 2011年」、図録「弘法大師と密教美術  1983年」、図録「高野山の名宝 2014年」司馬遼太郎「空海の風景上下」を参照した)

始皇帝と大兵馬俑ー「永遠」を守る軍団

兵馬俑は始皇帝の墳丘から東へ1.5キロ離れた「兵馬俑抗」から出土したものである。極めて写実的に表現されており、約8,000体ありながら、1体ずつ違う顔の造形には、実在の将兵をモデルにしたものと考えられている。1974年3月に、この地の農民が井戸を掘っていて、偶然一山の粉々になった陶俑の破片を発見したことから、井戸を掘る工事は直ちに中止され、中央および陜西省の文物部門の指導者と考古学の専門家が現地に駆け付けて調査をした。1年余の調査・発掘を経て、ここが始皇帝陵墓の大型の兵馬俑抗であり(1号俑抗)、周囲は14,260平方メートル、中には陶俑と陶製に馬が約6,000体、木製戦車40輌あまり、各種青銅武器数万点が埋まっていることが判った。更に、1976年には2号兵馬俑が発見され、発掘の結果、面積は6,000平方メートル、中には陶俑、陶製の馬1,300体あまり、それに大量の青銅器武器が収められていた。それは1号兵馬俑抗の内容に比べても、さらに精彩を放ち、多数の騎兵、80輌あまりの木製戦車,跪車(きしゃ)、立射「(りつしゃ)など各様のポーズをとった歩兵俑が発見された。

2号兵馬俑に続き、1976年5月には3号兵馬俑が発見された。面積は約520平方メートル、中には木製戦車1輌、陶窯と陶製の馬72体が納められていた。3号俑抗の形態は複雑であり、一目でこれが警備の厳重な兵馬俑の指揮部であることがわかった。極めて注目に値することは、この地下に埋もれた8,000体の兵馬軍団については、関連の史書の中に全く記載を探し出すことができないことである。このため、兵馬俑軍団は一層神秘的な色合いを増している。兵馬俑抗以外にも「馬厩抗」(ばきゅうこう)、雑技俑を埋めた「K9908」など200基近い大小の陪葬抗(ばいそうこう)が配されていた。1980年には「銅車馬抗」が発掘された。形状と出土位置から,生前の始皇帝が実際に乗った馬車をかたどったものと考えられる。始皇帝を永遠に守る軍団を階層別に説明するが、いずれも「秦始皇帝陵墓博物院」に帰属するものなので、いちいち説明しない。

将軍俑(しょうぐんよう) 秦時代(前3世紀) Ⅰ号兵馬俑出土

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冠をかぶり、鎧を見につけた武将の俑である。顔立ちは面長で四角く、額は広い。顎はがっちりしており、髭が長く口は大きく、唇は厚い。重ねた両手の下に剣を立てていたとされる。湘軍俑の左肘内側に空いた楕円形の隙間がある。ここに鞘ごと剣を指しこみ、両手は指揮用馬車の側板に添え置いた可能性も考えられる。兵馬俑の兵種としては最も数が少なく、戦闘指揮用の馬車付近で出土した例が複数ある。

軍史俑(ぐんりよう)  秦時代(前3世紀)   1号兵馬俑で出土

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高く結い上げた髷の根元に帯をつけている。鎧はまとわず、右前合わせの上着を着用している。布製の腰帯を結ぶ代わりに革帯と金具を使って留めるなど、動きやすく工夫されている。膝丈のズボンを履き、箙(えびら)を背負っていたと推定される。左手は革製の盾を持っていたことも推測されている。

立射俑(りっしゃよう)  秦時代(前3世紀)  2号兵馬俑抗

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手には弩級を持ち、矢をつがえて攻撃命令を待つ兵士の姿である。元来、矢入れを背負っていたものと思われる。半身に構え、上からみた時に足をL字型に開く姿勢は、命中精度を高めるのに適したものである。装備はすね当てをつけ,革製の靴を履いている点を除けば、歩兵俑と同じ服装である。

騎射俑(きしゃよう)  秦時代(前3世紀) 2号兵馬俑出土

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体には長い上着を着て、外側に肩当ての付いた鎧を着けている。下にはズボンを履き、足には口の部分が四角い履物を履いている。右肘を地面に付けており、左の脚を曲げて立てている。、右腕は後ろに引いて曲げており、手は拳を半ば握っており、親指を立てている。左手は胸の前に当てており、指をわずかに曲げている。両手を体の右側に置いており、弓を手にして、矢を放つ準備をしているようである。

御者俑(ぎょしゃよう)  秦時代(前3世紀)   Ⅰ号兵馬俑出土

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体には膝丈の長い上着を着ており、外側に鎧を着け、下に膝当てを着け、足には口の部分が四角く、爪先が真直ぐな履物を履いている。背筋を真直ぐにして立ち、両腕を前に伸ばし、両手は拳を半ば握り、拳の中心を上に向け、親指をわずかに立てている。両目は真直ぐ前方を見ており、全神経を集中させ,手綱を引き御している。

馬丁俑(ばていよう)  秦時代(前3世紀)   馬厩抗出土

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秦始皇帝陵の東側で、死後の世界における厩舎のような竪穴列が見つかった。場骨とともに置かれていたことから、馬の世話をする馬丁と判断される。兵馬俑抗の俑がほぼ実物大と考えられるのに対し、馬丁俑は、実物より小ぶりに作られている。

雑技俑(ざつぎよう)  秦時代(前3世紀)  K9901抗出土

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K9901抗から併せて11体の陶俑が出土した。本作ではでっぷちとした体格の男子で、上半身は裸、下半身には短い袴(はかま)のようなものを身につけている。雑技俑と名付けられるが、実のところ、不明な点が多い。

兵馬俑(へいばよう)5体   秦時代(前3世紀)

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向かって左から立射俑、歩兵俑、軍利俑、将軍俑、騎射俑の5体を並べたものである。最後の会場の後ろに、この五体の人物像が数多く並んでいる。(但し、会場に並べられているのは複製であった。自由に写真が撮影できるコーナーも用意されていた)

1号銅馬車   秦時代(前3世紀)展示品は複製    銅馬車抗出土

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1980年、始皇帝の墳丘すぐ西側で「銅馬車抗」が発掘された。中には、御者の像とともに二輌の銅馬車が西向きに配置されていた。生前に始皇帝が実際に乗った馬車をかたどったものと思われる。実物の1/2のサイズの模型であった。始皇帝は生前、5回の全国巡行をしている。最後に,巡遊先の砂丘で50歳の生涯を終えている。この銅馬車は、四頭立て馬車をほぼ半分の大きさにかたどった精巧な模型である。1号馬車には車與には車蓋を立てている。御者は直立して手綱を引いている。将軍俑と同じような冠をつけ、腰帯に儀剣を差し、単なる1兵卒ではなく相応の身分であることを示している。この馬車が軽装で美麗であることから、軍事用ではなく、特定の儀礼の先導の役割を果たしたと思わせる。

2号馬車  秦時代(前3世紀)  展示品は模型    銅馬車出土抗

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御者は輿の前面に坐して手綱を操り、腰には儀剣を差す。輿には前面と両側面に窓があり、後方に扉がある。紗丘で崩じた始皇帝の亡骸は轀輬車(おんりょうしゃ)に載せたとの記録がある。これが始皇帝の御用車であることを推定させる。なお、「轀輬車」とは、窓を閉じれば暖かく、開ければ涼しいことに由来するものである。私は、1984年に始皇帝の大兵馬俑を見学した時、記念品としてこの2号銅馬車を4,000円程度で購入したが、今回の展示会場では、1.2万円で売っていた。元が強くなったのか,円が弱くなったのか、時代の差を感じた。

将兵の背の高さは、概ね180~190cmである。果たして、こんなに大きな人物が8千人もいたのであろうか?疑問に思う。兵馬俑は高い規格性を持っており、かつそれは「等身大」であると考えられている。秦は確かに全国から体格の良い兵士を徴用したのであろうが、これが現実の軍団とは思い難い。また、俑の生産効率を考えると、一人が1体づつ作っていくよりも,各部位の単位で規格を設け、分業体制で専従にして作る方が効率的であり、かつ正確である。研究者によれば、兵馬俑の破片から、脚、胴体、腕、頭部などを別作りとなって、それらを合せて焼成しているそうである。始皇帝は、不老長寿の仙薬を求めて徐福を東海の山神山に向かわせたと伝えられている。思うに、始皇帝は仙人に出会うことを求めていたのでは無いだろうか?即ち、始皇帝は神秘の世界に住む、永久不滅の存在である仙人と出会い、自らも永久不滅の存在になりたいと考え、この兵馬俑抗などを、生前に造らせたのではないだろうか。

 

(本稿は図録「始皇帝と大兵馬俑 2015年」、図録「秦の始皇帝とその時代 1994年」、図録「美の粋 1996年」、図録「中国王朝の至宝 2012年」陳舜臣著中国の歴史「第2巻 大統一時代」、NHK取材班 故宮ー至宝が語る中華5千年「第1巻 皇帝天下を制す他」参照した)