出光美術館開館50周年記念  美の祝典  Ⅰ

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出光美術館は、今年で開館50周年を迎える。その記念企画として「美の祝典」と題して、出光美術館所蔵の絵画作品から、選び出した屈指の名品を一挙公開する。展覧会は3部構成として、第一部は日本絵画の伝統美を象徴する「やまと絵」と仏画の世界を展示する。第二部ではこれと対照的に、東洋ならではの自然美に着目し、「水墨画」や「文人画」を中心に展示する。第三部は江戸絵画を代表する狩野派、琳派、浮世絵などの多彩な美を展開する。なお、同館が所蔵する国宝「伴大納言絵巻」三巻は、各会ごとに1巻ずつ公開する。この絵巻の公開は10年ぶりであり、貴重な展示会となる。「黒川孝雄の美」では、この「美の祝典」を四回に分けて書くことにした。国宝「伴大納言絵巻」は、3回に分けずに、最後の第四回にまとめて掲載した方が、ストーリーの理解に役に立つと思う。なお、「美の祝典」は連続して掲載することは、困難なので、他のブログを中に挟みながら連載することになる事をご了解願いたい。さて、やまと絵とは、日本で生まれ発展した伝統絵画である。中国の模倣に始まったわが国の絵画が、身近な自然や風俗を積極的の取り込むことによって、やまと絵を誕生させたのは、平安時代の前期、9世紀のことであった。それ以来、われわれの祖先は、つねに中国絵画の影響を受けながらも、日本の風土やみずからの感覚に合った絵画様式を創り上げてきたのである。其の様相は時代によって多様に変化するが、一貫して日本人の自然に対する深い愛着と、物語への強い関心などが画面に反映されている。王朝時代の優美な装飾絵画、物語や説話を描いた各種の絵巻、風俗画、四季の自然を描く山水、花鳥の屏風など、日本人の感性が生み出した美しい造形の歴史が展望できる。

重要文化財 扇面法華経冊子断簡(せんめんほっけきょうさっしだんかん)平安時代(12世紀)

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「法華経」八巻と「無量壽経」「観普賢経」の解結(かいけち)二巻の計十巻扇面に写したもので、大阪・四天王寺に伝来した。各巻をそれぞれ一帖にあて、計十帖からなっていたものと考えられる。現在は四天王寺に五帖、一帖が東京国立博物館(いずれも国宝)に所蔵されるほか、断簡が諸家に分蔵されている。この断簡はその一つである。絵は貴族や女房たちの営みや市井の庶民の生活、草花や花鳥、どこかの名所風景など、多様なやまと絵に主題を描くもので、「法華経」の経意を表したものはない。こうした扇面に経文を記す作例は他に見当たらず、世俗的な画題に経文を重ねるという趣向そのものがきわめて個性的である。

重要文化財西行物語絵巻 第一集(部分)三巻の内俵谷宗達作 寛永7年(1630)

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本作品は、放浪の歌人として知られる西行(1118~90)が、発心して僧となり、諸国行脚の修行の末に往生するまでの行状を描き出したものである。この絵巻は俵谷宗達(生没年不詳)によって描かれたもので、巻四末尾の烏丸光弘が記した奥書により、その制作背景が判明した。それによると、寛永7年(1630)、光弘は越前松平家の家老・本田富正の依頼によって、禁裏が所蔵する「西行法師行状之絵詞四巻」を借り出し、その摸本の制作を「宗達法橋」に命じたという。本絵巻は本田富正より主君・松平忠昌へと移り、その後毛利家に伝来したため「毛利家本」とも呼ばれる。この絵巻が日本美術史において重要な意味を持つのは、殆ど人生が謎に包まれている俵谷宗達の画作中、制作年が明示される唯一の作品のためである。

重要文化財 日月四季花鳥屏風(左隻) 六曲二双   室町時代(15世紀)

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一画面中に四季の移ろいを描く花鳥図屏風は、平安時代よりやまと絵の好画題として数多く制作されており、本作もその伝統に則ったものである。左隻は、緑の葉を茂らす松と紅葉を中央に配し、その左には白菊、右には水辺に生える秋草の茂みの中にたたずむつがいの鹿が描かれる。左右上方には金属板によって日月が配され、特に左隻の三日月のシャープな形状が印象的である。稚拙な表現であるが、このダイナミミックな構成には迫力を感じる。こうした伝統モチーフの組合せによる作品の完成された姿を、次の「四季花木図屏風」に見ることができる。私は、日本絵画の中どぇ、やまと絵が一番好きである。

重要文化財 四季花木図屏風 六曲二双  室町時代(15世紀)       右隻

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右隻には紅梅と松、左隻には紅葉と秋草と竹を大きく配し、夏は毛鞠花、姫百合、冬は遠山の松林の雪を指標に描く。古来馴染のある四季の自然景物が画の主題である。池か流れか水景が大きく描き出され、当初はその流水の澱みない描線の美しさに見所の一つがあったと考えられる。画面全体には雲母(きら)が引かれ、金箔が明るく輝き、濃彩の花木が引き締まった美しさを見せる。画中には狩野探幽(1602~74)による紙中極が認められ、それにより探幽は本作品を、室町中期の繪所預として活躍した土佐光信の手によるものだと見なしていたことがわかる。実際は、筆者が誰であるかはいまだ特定できていない。

宇治橋柴舟(うじばししばふね)図屏風六曲一双の内右隻 桃山時代(16世紀)

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右隻には、左右から右上かけて対角線状にゆるい弧を描きながら、金色に輝く橋が架かる。橋の下を流れる川面には、柴を積んだ舟が二艘浮かぶ。画面全景には水車が配され、水流を受けて回っている。水車よりこぼれ落ちる水は経年のため黒くなっている。本来は銀色に輝き、清涼感演出していたことだろう。橋と水車というモチーフより、本作品の主題が宇治の情景であることは明らかである。宇治は古来より文学作品に取り上げられたことにより、多様なイメージがあるが、中でも「源氏物語」の掉尾を飾る「宇治十帖」の印象が特に強い。このような「柳橋水車図」と称されるこうした画題の屏風絵は、桃山時代より長谷川等伯(1539~1610)と、その後を承継する長谷川一派によって数多く描かれた。

月に秋草図屏風(部分) 伝俵谷宗達作 六曲一双  江戸時代(17世紀)

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宵闇に浮かぶ半月の下、可憐に咲く萩や薄、桔梗や撫子などの秋の草花を描き出した屏風である。本作品には俵谷宗達(生没年不詳)の工房で制作されたことを示す「伊年印」印が捺される。「伊年印草花図」と通称さ草花図屏風は多数現存している。(府中美術館の「四季草花図屏風」その一例)しかし、その多くが四季」草花を華麗な色彩をもって描くのに対して、本作はそうした作品群とは異なり、秋草のみを繊細な筆致で描きだした、稀な作品である。本作を宗達自身の作とする説、あるいは宗達在世中に有力な弟子によって描かれたとする説などがある。現在その制作期について確証は得られない。図録では「琳派がその後数多く制作した草花図屏風の中でも最も初発的な作例であり、かつ一群の草花図屏風の中でも群を抜いた傑作である」と述べている。私は、特に月を示す、銀板が見事であると考えている。やまと絵は、この作例でおわりであり、続いて仏画となる。

化財 絵因果経(えいんがきょう)一巻  奈良時代(8世紀)

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「絵因果経」とは、求那跋陀羅(ぐなばつだら)訳「過去現在因果経」を絵画化した絵巻物のこと。この経典は釈迦の前世においてなしえた善行を説くことから始まり、さらに現世における釈迦の生涯から、舎利仏・目連・大迦葉ら弟子たちの出家に到るまでを記す。現存する絵因果経の中でも、制作時期が奈良時代まで遡る伝本を「古因果経」と称し、現在五種が知られている。その中の一種が本作品である。絵因果経は経文を下に書写し、それに相当する挿絵を上段に描くと言う形式をとる。本作品は第五巻にあたる。絵巻に描かれた内容は、釈迦の出家から、苦行を経て、菩提樹下での瞑想、魔王の妨害の場面である。本作品の巻頭には、興福寺伝法院の伝来を示す「興福伝法」印の押印が認められる。

山越阿弥陀図(やまこしあみだず)託磨栄賀(たくまえいが)作 一幅 南北時代

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険しい山をはさんで向こう側には、金色の雲がわきたち、そのさらに向こうには、山よりもさらに巨大な阿弥陀如来が、まるで日の出のように光り輝きながら姿を表している。一方山のこちら側には、雲に乗った二菩薩が描かれる。向かって右の蓮台を持つ観音菩薩、左の合掌するのが勢至菩薩である。本作品のように、山並みの向うから阿弥陀如来が姿を現すタイプの来迎図を山越阿弥陀図という。平安時代以降、浄土信仰の発展とともに阿弥陀来迎図はさかんに描かれたが、この山超阿弥陀の形態を持つ来迎図は、鎌倉時代以降に登場・普及した。仏の姿は金泥と截金でもって皆金色身であらわされ、また画面はほぼ完全な左右対称の構図を取るため、装飾性と象徴性が高められている。

重要文化財 十王地獄図 双幅(一部) 鎌倉時代末期~南北朝時代(14世紀)

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十王とは冥界で死者を裁く十人の王のことである。初七日から七七日(四十九日)までは泰江王、初江王、宗帝王、五官王、閻魔王、変成王、泰山王の七人の王が七日ごとに百個日には平等王、一周忌には都市王等の十王信仰が中国で晩唐期に発生し、日本には平安時代末期より普及しはじめ、鎌倉時代以降は、「仏説地蔵菩薩発心因縁十王経」に基づく信仰が盛んになった。

 

 

「やまと絵」は「唐絵(からえ)」に対する言葉である。平安時代には、倭絵・倭画・やまとゑ・大和画などと表記され、近世においては、更に和画・日本絵・日本画などの文字があてられている。最近では、文字違いに付随する時代のイメージを避けるため、「やまと絵」の表記が一般化したそうである。やまと絵を広義に解釈し、それらを「王朝絵画の伝統を受け継ぐもの」という観点からまとめると、正に「雅(みやび)の系譜」ということになり、江戸時代の琳派まで含むことが可能である。「やまと絵」や「琳派」を愛好する私の好みから言えば、一番適した定義である。

(本稿は、図録「開館50周年記念 美の祝典 2016年」、図録「特別展 やまと絵 1993年」、図録「物語絵  2015年」、田中英道「日本美術史全史」を参照した)

フアンタスティック  江戸絵画の夢と空想   後期

「江戸絵画の魅力を再発見する」ことが、この展覧会の目的であると「図録」は述べている。確かに江戸絵画については、一部の琳派や文人画については良く展覧会も開催されるが、それ以外の江戸絵画については、殆ど知識がないし、知ろうとする努力もしない。江戸時代と言えば、反射的に「浮世絵」と答える人が多いだろう。今回の展覧会は、その常識を覆す試みであり、その面白さに惹かれて後期も引き続いて拝観した。一言で言えば、その魅力に惹きつけられてしまった。なお、浮世絵の展示もあったが、今回は浮世絵を抜きにして、「江戸絵画の夢と空想」に浸りたい。

四季花草図屏風 伊年印 六曲二双屏風   江戸時代初期(17世紀初期)

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この四季草花屏風は、根津美術館で見た覚えがあり、同館の図録を調べたら、かなり草花の種類が違い、別物であることを確認した。伊年とは、俵谷宗達の一門が印章として使用していたものであり、宗達の指導の可能性もある。江戸時代前期に、宗達の工房で描かれた作品であり、数は多い。画面の全てに金箔を貼って、その上に絵具で四季の草花を描き込んでいる。花々はいくつかの種類でひとかたまりをなし、それが上に配置されている。画面の下辺には頭だけが見えるかたまりもあって、画面の中に納まりきらない広がりを感じさせる。厚く塗られた絵具は、金箔に対抗するように華やかに色を発している。そもそも四季の花を同時に目の前に咲かせようという「四季花草」の題目自体が、ファンタスティックな体験装置である。

夏山霽靉(かざんせいあい)図 谷分晁(ぶんちょう)作 寛政7年(1795)

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谷文晁(1763~1840)は江戸時代初期の大画家であり、寛政期には、南宋画と北宋画を融合させた独自の漢画風を展開し、関東の絵画界の大御所として活躍し、門人を多数輩出した。題の「夏山霽靉」とは、寛政7年(1795)、33歳の時に「写山楼」つまり、江戸の自身の画室で描いた作品だと分かる。墨と茶色の淡彩だけで描いているが、何より山の形や描き方が目を引く。全体を見ると、画面中ほど上へk向かって突き出す岩場や、下の方の山へ続く地形など、立体感や奥行きを相当意識しているのが理解できる。さすがに、谷文晁の絵画の素晴らしさが理解できる。

菊滋童図(きくじどうず)狩野惟信(これのぶ)作   江戸時代(18世紀)

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狩野惟信は奥絵師四家の一つである木挽町狩野家、狩野典信の子として生まれる。12歳で早くも奥御用をつとめ、29歳で法眼、42歳で法印に叙された。狩野派の伝統的筆致を守りつつ、大胆さを見せる作品でも知られている。菊滋童は王の寵愛を受けていたが、ある事件で山深くに流された。王は滋童を憐み、お経の一部を与え、滋童は山の中でそれを唱えて暮らしていたが、忘れてはいけないとお経を菊の葉に書いておいた。そして、その葉の滴りを口にした滋童は不老不死の命を得た、という話である。惟信の作品の美しさ、立ち込める神聖な空気は、この物語のイメージを見事に造形化している。若くして法眼、法印に叙せられるだけあって、狩野派の伝統の画力の真骨頂とも言える作品である。

亀図  伊藤若冲作     江戸時代中期(18世紀後半)

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この図は、長い毛のような藻(も)が付いた、いわゆる「藻亀」である。「毛」は、太い筆に濃い墨をつけて、うねらせながら思い切り描いている。しつこいほど重ねられたその激しい描写で画面の大半が満たされているが、亀の甲羅の模様は、「筋目描き」と呼ばれる手法で巧みに表している。水を多く含んだ墨で塗り、それが乾かないうちにその隣にも塗ると、外へ広がる水分が互いにはじき合って、墨の色のない線となって現れるのである。中でも、注目は、亀の前足と目、それに鼻である。絵の全体には力強くいかつい雰囲気もあるが、黒く小さな目と、同じように表された鼻が、可愛くて、心を和ませてくれる。豪快さと愛嬌が味わえる一幅である。、その頃は「米斗翁」(べいとおう)と名乗り、米一斗で絵を描いてあげたと言われるが、そのような絵の一枚ではなかろうか?

乗興舟(じょうきょゆしゅう)1巻  伊藤若冲作  明和4年(1767)

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親しく交わった相国寺の大典顕常と共に、京都の伏見から大阪まで淀川を舟で下った旅から生まれた作品である。幅は20cm、長さは110cmの紙に刷られたものがつなぎ合わされて、全長1150cmの巻物となっている。この作品は木版画だが、版木に墨をつける普通のそれではない。版木には墨をつけず、紙をその上から圧着する。すると、紙に版木と同じような凹凸ができるわけだが、その上から、墨をつけた道具で叩いて着色するのである。石碑に刻まれた文字を写し取る時に使う「拓本」に似た方法である。色は単純ではなく、淡い部分やグラデーションの部分もある。まるで夜景のようであるが、二人は夜間に船に乗ったわけではない。大典の言葉には、次のような文がある。「船はしばらくすると晴れた空に逢い、春の日が清らかに照らす」。この巻物は昼と夜とかではなく、そういった現実を超えた美しさに浸るための「黒の世界」なのである。

白狐図  吉川一渓(いっけい)作  江戸時代中期~後期(18世紀後半~19世紀前半)

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吉川一渓(1763~1837)は名古屋の画家、通称は小右衛、名は義信、号は養元、自寛斎。吉川家は、尾張藩御用絵師に学んだ知信に始まるいわゆる町狩野の家だが、藩に関わる仕事にも従事した。一渓も、天保6年、名古屋城本丸御殿障壁画鑑定を命じられている。この絵は、暗闇に現れた白い狐。筋肉の様子を表にしながらも、長くて先が膨らんだ尻尾を含めた全体の姿は、写生的というよりも、流れる形そのものである。狐火も、妖しさを示すだけでなく、その非現実的な形が見る者の心を別世界へ誘うようである。狐は怪異を起す動物として恐れられてきた。それに「お稲荷様」である。花の咲く野辺にいる白狐は、ありがたい。

月夜山水図  曽我蕭白(しょうはく)作  江戸時代中期(18世紀後半)

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曽我蕭白(1730~1781)は、辻惟雄氏の「奇想の系譜」で、奇想の画家として紹介され、昭和40年代に一躍有名になった。辻氏は「古美術通をもって任ずる人でも、曽我蕭白について知ることは多くあるまい」と記している。また、解説を書いた服部幸雄氏も「-岩佐又兵衛、狩野山楽、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪、歌川国芳ーは、今日でこそ多くの人々の熱い注目を浴びるようになっているが、本書の初版が出版された1970年代の時点では、ほとんど知られない画家たちであった。日本絵画史の専門家でもあまり知られていない」と述べている。正に現代は「江戸ブーム」、「奇想の画家」の時代である。蕭白の人物図は仙人など、奇想と言われる絵も多いが、この月夜山水図を見て、私は驚いた。この風景画は完璧であり、見事に構築された作品である。絹に墨で描いた中国風の風景画である。豊かに水の流れる川のそばに、侍者を連れた人の姿がある。よく見れば崖の上に門があり、更に高い所には建物がある。建物の背後には、険しい山々が聳え立つ。この地上の景観を照らし出し、作品全体を一つのファンタスチックな空間へ変えているのが、月の光である。私は「奇想の画家」ではなく、極めて正統的な素晴らしい画家であることを見出した。

月下山水図 黒江武禅(1734~1806)作 江戸時代中期(18世紀後半)

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大阪の人。名は道寛、号心月、蒙斎など多数。黒江は本来は号で、画姓として用いていたと考えられる。絵は月岡雪鼎に学び、宗元画を研究した。この作品の、描き方がすこぶる変わっている。一見して不思議な画面である。大きな湖なのか海なのか、広がる水面に点々と陸地が浮かんでいるようだ。山水画としては珍しい風景である。狭くて長い陸地に松の木が生える様子も、奇観である。この作品を強烈に印象づけるのが、光と影の表現である。月夜によって生じる陰を陸地の起伏に沿って表しているが、面白いことに、陰の濃さは何段階かにはっきり分けられている。江戸中期、西洋絵画からの影響もあって、光や陰の表現に興味を持つ画家が登場した。この不思議な月夜の光景は、画家の強い興味から生まれた、現実とも非現実ともつかない世界なのである。

朧月(おぼろつき)図 長沢芦雪(1754~1799)作寛政6年(1794)

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長沢芦雪も又、辻惟雄氏の「奇想の系譜」に書かれた作家である。丹波篠山藩士、上杉彦右衛門の子として生まれ、長沢氏を継ぐ。京に出て円山応挙の弟子となり、天明6年(1786)からは、応挙の代理として紀南の無量寺、草堂寺、成就寺の障壁画を制作。寛政2年(1790)の新造内裏や寛政7年(1795)の大乗寺など、数々の障壁画を制作した。「奇想の画家」では無量寺の虎図襖、薔薇に鶏図襖、山姥図(厳島神社)等が掲載されている。この朧月図には「於厳島写」とあるので、厳島で描いたものである。江戸中期、丸山応挙による研究に端を発した日本絵画の精密化は、それまで画家も、絵を観る者も意識していなかったレベルで、ものの様子を捉えることを促した。そして、個々の人が心の中だけで感じていたものや、歌人や詩人、俳人によって言葉に表してきたものが、「絵に表せる」ようになったのである。見上げれば、天空に月が浮かび、鳥たちが飛び交う世界がある。霞の中にほんわりと見える、人の世界から切り離されたような世界である。前衛的、かつ多くの人が味わえる趣きを湛えた作品である。

重要美術品 蓬莱山水図  長沢芦雪作   寛永6年(1794)

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蓬莱山は遠くに小さく、しかし細部まで変化に富んだ様子が表されていて、その中歩いてみたくなるほどである。絵を見る者は、自分が上空から接近しているような気分になる。また遠くには、仙人が立ったまま乗る鶴が、列をなして飛んできている。見る者が感じる空中と、描かれた空中、その両方が功を奏して、リアルで爽快な空間を体感できるのだろう。上陸する亀も、やはり目指すのは蓬莱山である。色もまたファンタスティックである。海の青、蓬莱山に架かる橋の赤、桃の花の色、砂州の白、芦雪は、応挙風の静謐で細やかな作品を描いた前半から、奇抜な構図や自由な筆使いを押出した作風に転じた作家である。この絵は、広島で描いた作品である。画家としての完成度は極めて高い作家と思う。天明2年(1782)29歳の時には、既に応挙の高弟として一家をなしていたようである。同年発行の「平安人物志」の画家の項には、応挙、若冲、蕪村からだいぶ離れてはいるが、芦雪の名前がある。辻氏は「種々奇想を凝らしてそれらからの脱出を終生心がけながら、師(応挙)の画風をあまりにも完璧に見に付け過ぎた器用さが仇となって、結局のところ、応挙という(水)を離れることはできなかったようであるし、晩年のグロテスクへの傾倒も、蕭白というその道の天才の後とあっては、しょせん2番煎じを免れなかった」と酷評している。私から見て、本作の出来具合は、極めて完成度が高い。応挙の代理が務まるほどの高弟であれば当然かも知れない。

馬入川富士遠望図 司馬江漢(1747~1818)作 江戸時代中期(18世紀後半)

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画題は日本の風景である。景色から見て馬入川、つまり、相模川ではないかと推測される。遠くの川岸には舟が並び、人の姿もちらほら見える。青空にはうっすらと雲がたなびき、雪を戴いた富士山もくっきり見える。しかし、この絵の主役は、美しい風景を独り占めしている一羽の鶺鴒である。尾羽をぴんと上げ、頭も上に向けその視線は、画面の対角線と重なっている。この絵の最大の特徴は「空」を描いている。人が見たままの空を描いた絵は、これまで殆ど存在しなかったのである。宇宙に興味を持った江漢は、日々、地平線の上に広がる青空を眺めつつ、想像を膨らませていたのであろう。

富士超竜図 葛飾北斎(1760~1849)作 江戸時代後期(19世紀後半)

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縦が174cmに及ぶ大作である。「画狂老人卍筆」という晩年の署名がある。富士山の稜線が長く、山頂が小さい。やや奇異に感じられるが、形の面白さに加えて、山の巨大さ、高さが演出できる独特の描き方だろう。この作品のもう一つの主役が竜である。山麓に立ち込める黒雲は、富士山をぐるりと回って向こう側で初めて立ち上り、そしてその先に竜がいる。雲は竜の動きの軌跡なのだろ。つまり、龍は富士山の手前から現れ、体をうねらせばがら山の周りをめぐり、ようやく勢いよく真上に向かって上昇したのである。江戸時代、富士山を竜が超えるところを描いた作品は多いそうだ。定番になった理由は、山頂に竜が住むと考えられていたことだそうだ。画面の左上に、佐久間象山が漢詩の賛を着けている。その内容は「海から現れた竜」である。北斎の潤いに満ちた墨の表現からも「沛然として」降る雨が想像できる。

 

さて何名の作家をご存じでしたか?私は「奇想の画家」伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪に加え、伊年印、谷文晁、司馬江漢、葛飾北斎の合計7名でした。またファンタステチックと思う絵は①は葛飾北斎 富士超竜図でした。富士山に登り竜の取り合わせは、私にはファンタスチックでした。②は吉川一渓 白狐図でした。狐火で明かりを執る発想と、流線形の形でした。③は伊藤若冲 亀図でした。亀がまるで尻尾のように引きずる藻亀は異常な図でした。一人一人のファンタスチックな絵画を探して下さい。しかし、遠い存在であった江戸絵画が、随分近くに見えるようになりました。

 

(本稿は、図録「ファンタスチック 江戸絵画の夢と空想」、辻惟雄「奇想の系譜」、府中市美術館「かわいい江戸絵画」、府中市美術館「江戸絵画の19世紀」、安村敏信「江戸絵画の非常識」を参照した)

ファンタスチック  江戸絵画の夢と空想  前期

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「ファンタスチック」と言う言葉は、「「素晴らしい」というような意味に用いられる。府中市美術館では、あえて、この単語を用いて、江戸絵画の展覧会を開催している。(5月8日まで)同美術館では、図録の冒頭に「本展の目的は、この現代の日本において、あえてこの片仮名の言葉を通して江戸絵画の魅力を再発見することにある」と述べている。この「再発見とは,一旦見失ってしまったということであり、いつ、どうして見失ったのだろうか」と問いかけている。その理由として、近代以降の人々が、江戸時代の絵画は「芸術以前のもと考えるようになったことが挙げられるのではないだろうか」とし、明治時代に日本に入ってきた西洋の美術こそ芸術であり、それ以外のものは「芸術ではない」と、思い込んだ結果であると考えた。この考えには、私は疑問を感ずる。江戸時代の260年の間に、浮世絵は別格としても、琳派と呼ばれる俵谷宗達、尾形光琳,酒井抱一、鈴木其一、文人画と呼ばれる大雅と蕪村、同時代の円山応挙や伊藤若冲、やや下って浦上玉堂、青木木米、田能村竹田など多士済々であり、むしろ江戸時代こそ日本画が最も輝いた時代ではないかと思っている。しかし、府中市美術館が提起した問題点は、確かに言い当てて妙を得ている。上記以外の作家で、「ファンタスチック」と呼べる画家がどれほどいるだろうか?実は知識がないだけで、江戸絵画には「夢と空想」が一杯つまっていることを、明らかにしたい。なお、「黒田清輝展」の後に、この江戸絵画を書いたのは、みんなに近代絵画を考えてもらいたいからである。

元旦図 丸山応挙(1733~1795)作     江戸時代(18世紀)

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裃で正装した男性が太陽に向かって立っている図である。箱書きには「元旦」と記されており、応挙自身の個人的な心境を描いたのか、誰かの注文なのかは分からない。ここに表現されているものは、正装で太陽を正面に拝しているところで、初日の出のういういしさが表現されている。光や陰を描写することへの意識があったからこそ、こんなに斬新な感情表現ができたのであろう。

四条河原夕涼図屏風  山口素侚(1759~1818) 江戸時代(18世紀)

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京都の画家で円山応挙に学んだ。四条河原の夕涼みの様子を描いた図である。露店ではスイカや白酒などさまざまな物が売られている。見世物も多い。中でも目を引くのが人魚の見世物である。そんな賑わいとは別に、遠くの建物の中の宴の様子や行き交う人々のシルエットが見える。まるで夢の世界のようである。楽しげな人々の描写には、思わず引き込まれてしまう。良い絵である。私は京都に2年半暮らしたけれども、夏は暑く、眠れない夜が続いた。この四条河原の夕涼みができたら、どれほど楽しかったであろう。

観桜・紅葉に鹿図屏風  作者不明     江戸時代前期(17世紀?)

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二曲一双の屏風である。江戸時代前期、作者は不明であるが17世紀の作と思われる。一方には花見の図で、武士たちの宴。被毛氈や華美な敷物の上で,舞を楽しんでいる。金箔で雲の形があしらわれ、銀箔を細かく切った砂子も蒔かれ、華やかな屏風である。下図は紅葉と鹿の情景である。この鹿図には、人は現れず、山中の秋である。日本では,秋に聞こえる鹿の声にことのほか風情を感じる。どちらの図も力強く、堂々とした描写である。

気球図 原鵬雲(ほううん)作 (1835~1879年)作 江戸・明治時代(19世紀)

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鵬雲(ほううん)は嘉永3年(1850)に描いた徳島藩の御鉄砲組、喜根井善種の肖像画が初期の作例として知られている。徳島藩の銃率として、安政元年(1854)、藩が大森・羽田の警備についた時に出陣。文久2年(1862)、幕府の遣欧使節団に随行した。約1年間西欧を旅して、各地の風物を写生した。だから本当に気球を目撃した日本人の絵画である。どこで目撃したかは分からない。恐らく帰国後に描いたものであろう。広々とした画面を使っておおらかに仕上げている。まるで童話の絵本を見ているかのようである。

飛竜図(ひりゅうず)原在中(1750~1837)作江戸時代後期(19世紀)

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この場面は,鯉が竜に変わるところである。中国では,鯉は竜文の滝を登ると竜に変わると言われ、鯉の滝登りの図は立身出世を表す画題として、江戸時代に大変多く描かれた。飛竜とは、この絵の箱書きにあったので、この命名となったそうである。この絵はまだ登り切っていない。その途中の変身中である。頭だけが竜、それより下はまだ鯉という姿で、非常に珍しい絵姿である。墨と金泥だけで描かれ、モノクロームの落ち着きと深さがある。

地獄図 河鍋暁斎(かわなべきょうさい)・薫玉作(1831~1889)江戸・明治時代(19世紀)

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閻魔王が女性を抱いて鏡を見ている。署名の入れ方からみて、後姿を暁斎、鏡に写る姿を薫玉が描いたのであろう。閻魔が見ているのは「浄玻璃の鏡」である。地獄で亡者が裁かれる時に、生前の行いが映し出される鏡である。ところが映っているのは女性を抱く閻魔自身である。この閻魔の顔をどのように見ますか?

八尾狐図 狩野探幽(1602~1674)作  江戸時代前期(17世紀)

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江戸時代初期を代表する有名な御用絵師である。徳川家康が、江戸に幕府を設けると、幕府の奥絵師の地位を得て活躍した。この図は三代将軍家光が見た夢の光景である。寛永14年(1637)のこと、この頃家光は病気がちであったが、不思議な霊夢を見た。八本の尻尾のある狐が、御宮の方から家光の所へやって来て、家光に向かって奉り、御患いは、回復されるでしょうと告げて去っていった。夢から覚めて本当に元気になった家光は、八尾の狐を、夢に見た通り描くよう仰せになった、というのである。いかにも夢らしいファンタスチックな世界である。

蛙の大名行列 河鍋暁斎作   明治時代(19世紀)

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彼は擬人化した蛙の絵の名手であった。まるで平安時代の鳥獣戯画のようである。この「蛙の大名行列」も「鳥獣戯画」の後編と言っても良いほどの作品である。構図が巧みである。大名行列を大きくカーブを描き、蛙たちも、同じ方向から説明的に図示されることなく、色々な角度から捉えられている。お殿様はかなり幼いようだが、藩の事情だろうか。こんな絵が江戸時代には好まれたのであろう。面白さと描写の妙技が、現代の我々を魅了する。

円窓唐美人図 司馬江漢(1747~1818)作 江戸時代後期(19世紀)

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西洋の技法を使って中国の女性を描いたもので、江漢の油彩画としては早い頃の作品であろう。遠くの山の立体感の表し方や女性の着衣の襞など、念入りである。画面全体としても力強い。当時の人は、この絵を見て、異国を目の当たりにする思いだったであろう。

虎図(部分)与謝蕪村(よさぶそん)(1716~1783)江戸時代(19世紀)

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俳画で有名な与謝蕪村の46歳の時の作品である。うねりながら近づいてきたような虎動き、頭を斜めにしてこちらに向ける視線、そして交叉させた前足や、画面の最上部まで伸びた尻尾まで、まさに「生きている」という感じである。江戸時代、虎の絵は人気があったそうである。しかし、本物の虎を見る機会が無かった。そこで海外からもたらされた絵が、参考とされたのであろう。

 

さて、どの絵が一番ファンタスチックだったでしょうか。私の好みから言えば①四条河原夕涼み図です。京都の夏は蒸し暑い。とても満足に眠れるものではない。そんな夏の夕暮れに、四条河原で夕涼みが出来たら、どんに京都の夏が過ごしやすかったでしょうか。因みに、向こう側に描かれた建物は、料亭の床と呼ばれる、川原に出された屋根の無い座敷である。ここの夕涼みは、京の贅沢の極みであり、私も何度も楽しんだ。この絵にあるように床の反対側は、現在は鴨川が流れており、立ち入ることは出来ない。②は気球図です。これを見た江戸時代の人はさぞかし驚いたことでしょう。③は蛙の大名行列です。なんともユーモラスで、まさに鳥獣戯画の延長線上です。しかし河鍋暁斎の絵は上手ですね。改めて感心しました。是非、一人一人が、「私のファンタスチックな絵」を選んで楽しんで下さい。

 

 

(本稿は、図録「ファンタスチック 江戸絵画の夢と空想」、府中市美術館「かわいい江戸絵画」、府中市美術館「江戸絵画の19世紀」、安村敏信「江戸絵画の非常識」を参照した)

黒田清輝 生誕150年 日本近代洋画の巨匠 黒田記念館 

黒田がフランスに留学した1880年代は「新旧入り乱れた坩堝のような絵画状況」(三浦東京大学教授)であった。アカデミズムは依然として権威を保っ一方で、印象派以降の様々な動きも台頭してきた。黒田は「外光派」と呼ばれるが、果たしてフランス絵画のどのような要素を摂取したか、かつどのように日本に移したか、まずは、代表作である「智・感・情」から見ていこう。

重要文化財智・感・情 黒田清輝作 油彩・カンヴァス 明治32年(1899)

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この作品は、明治30年(1897)の第2回白馬会に「湖畔」などとともに出品された。等身大の日本女性が、裸体で描かれ、その大きさからも、また金地背景にあたかも実際にあるかとみまがうばかりに描写されている視覚的表現からも、裸体の体に日本画のような輪郭線を施す、という東西融合の実験的要素には、こと欠かない。大いに注目されたが、世評は必ずしも好意的ではなかった。明治28年に京都で開かれた第4回内国博覧会に黒田が出品した「朝妝(ちょうしょう)」を契機として、裸体論争がが盛んになっている中で公にされたことも一因となって話題を呼んだが,当時の評はあまり好意的ではなかった。その筆力を認める一方で、画題とポーズの意味が不可解であり,裸体画としても成功しているとは言い難いという批判もなされた。白馬会出品後、黒田自身による加筆ののち(1889年)、1900年のパリ万博に「裸婦習作」として出品され、日本の油彩画では最高賞に当たる銀賞を受賞した。同万博には「湖畔」も出品されたが、海外での評価は「智・感・情」の方が高かった。読売新聞の明治30年(1897)11月29日の記事には、次のように紹介している。(図録より引用)「中なるは感と言ひて、Impressionの意、右なるは智と言ひてIdeal、左なるは感と言ひて、Realの意なりとか」。この作品は日本の絵画史における意義としては、一つに描かれた裸体の意味するものを人々に考えさせたこと、即ち象徴としての裸体表現を広く知らしめたことにあり、二つめはそうした象徴的裸体表現を日本人の身体像によって行い、日本人の裸体像のカノンを築いたことにあるのであろう。本作が世に出てから、日本絵画に登場する人物像のプロポーションはこの作品に準じて大きく変わった。先人は何を取り入れ、どう苦闘したのか、その試行錯誤の足跡に新たな光を当てることになった。

裸体婦人像  黒田清輝作  油彩・カンヴァス 明治34年(1901)

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この作品は、1901年(明治34)秋の第6回白馬会に出品された。しかし裸体画は公序良俗に反するとして、警察の指示により下半身を布で覆って展示されるという、いわゆる「腰巻事件」をひき起こすことになった。黒田によれば、「最も困難で最も巧拙の分かる腰部の関節に力を用いた」のに「肝心の所へ幕を張られた」と述べている。フランスと日本では、社会環境や価値観が著しく異なることを目のあたりにした黒田は、フランスの精神風土を日本に根付かせることが課題になった。画家だけでなく教育者、行政官、政治家として,様々な役割を担う重要性を痛感したのであろう。黒田にとって重要なことは、現在「構想画」とも言われる、西洋美術の根幹である裸体画で構成された画面で抽象的概念を表す「理想画」を描くことであった。このように考えると、前遍のくくりで、私は「黒田の日本美術界に及ぼした功罪は大きい」と総括したが、これは私の矮小な誤解であったようである。黒田が目指したのは、絵画のみではなく、フランス絵画の前提となっている「近代化」を目指し、教育界、行政界、政治界全体の近代化を狙っていたのでは無いだろうか?黒田を絵画の世界だけで評価してはいけない。黒田は、日本文化全体の近代化を進める闘士となり、全力を傾けるために貴族院議員などになったのであろう。

昔語り(下絵 舞妓) 黒田清輝作 油彩・カンヴァス 明治29年(1896)

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フランスから帰国した明治26年(1893)の秋、黒田は初めて京都に遊び、清水寺近くの清閑寺(せいかんじ)を訪ねて、同寺の由来である平家物語の「小督(おごう)」の話にある高倉天皇と小督の悲恋にまつわる物語を岩佐恩順という僧から聞き、昔がよみがえってくるような不思議な体験をした折に得られたものである。1893年の写生帳に本作に関連する素描が複数枚描かれている。1895年の第4回内国勧業博覧会のために京都を訪れた際、西園寺公望に大作の制作を促され、本格的な制作が始まった。黒田は1895年の夏に京都の円山公園内に簡易なアトリエを建てて本作に取り掛かり、翌年4月に東京に移るまでの間には構図も決め、完成のための下絵を多く描いた。この下絵は、今回の展覧会でも36枚の多きに達していた。1部屋、まるまる「昔語り(下絵)」であった。

昔語り(下絵 構図Ⅱ)黒田清輝作 油彩・カンヴァス 明治29年(1896)

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この下絵は第1回白馬会(1896)に出展されたものである。この完制作は西園寺公望の仲介によって、製作費の実費を西園寺の実弟、住友友純(ともいと)が負担した。当然、完成時は住友家に飾られたが、先の大戦の際に空襲で焼かれた。従って、現在残っているのは、下絵のみである。私は、先に久米の言葉として「幸福な才能」という表現をしたが、この膨大な下絵を見ると、黒田は、才能も優れていたが、むしろ下絵をふんだんに描く、努力の人であると思った。スケッチは画家ならば誰でもするのであろうが、この「昔語り」ほど、素描が沢山残されている例は知らない。

ダリア 黒田清輝作 油彩・カンヴァス  大正2年(1913)

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植物や花を好んだ黒田であったが、花の静物画は少ない。数点が知られているのみである。この作品は画面左下の年記から大正2年(1913)に描かれたものであることが分かるが、1913年4月に東京美術学校での教え子で、フランスに留学していた金山平三からダリヤの球根が届き、その球根から育った花だろうと推定されている。同年111月に大阪で開催された国民美術協会第1回西部展にも「ダリア」と題した作が出品されている。(本作と同一のものであるかどうかは不明)

自画像 黒田清輝作  油彩・カンヴァス 大正4年(1915)

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黒田は、1910年頃から、多数の名士の肖像画を描いている。例えば「桂公肖像」「大熊重信肖像」「寺島宗則肖像」等である。写真ではなく、本人と面接して描いたと言われ、著名人の時間の調節が、さぞかし大変だったろうと思われる。本作は自画像であり、大正4年、49歳の自画像である。でっぷりと太った貫録を示している。

梅林  黒田清輝作  油彩・カンヴァス  大正13年(1924)

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大正12年(1923)末に黒田は宮内省に出勤中、狭心症で倒れ、翌年春小康を得て、箱根に静養、5月に帰京、7月15日没したが、春、小康をえたころは麻布の別邸の離れが病室に当てられていた。この作品はそこから庭を見て描いたものと思われる。絶筆となった作品である。

黒田記念館

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黒田清輝は、大正13年(1924)7月に58歳で没した。その際遺産の一部を美術奨励事業に役立てるようにと遺言した。それを受けて、昭和3年(1928)に建築竣工したのが、この黒田記念館である。館内には、遺族、門弟等から寄贈された黒田の油彩画、素描、写生帳、書簡等を展示するため黒田記念室が設けられた。この記念室は二階にあり「昔語り下絵」等の代表作を含む油彩画、デッサン等約50点が展示され、逐次入れ替えも行われている。2007年4月より、黒田記念館及び収蔵品は、国立東京博物館に管理が移行された。2002年には建物が国の登録有形文化財に指定された。黒田記念室に加え、2015年には、黒田の代表作である「読書」、「舞妓」、「湖畔」、「智・感・情」をそろえた特別室(新年、春、秋の各2週間公開、一階)を設けるなど、展示環境の充実が図られている。なお、2年ほど前までは、月曜休み、後は毎日開館であったが、現在は毎週木・土曜日が開館で無料拝観できる。念のため、必ず黒田記念館のHPを確認の上、見学することをお勧めする。なお、黒田記念館は、東京国立博物館の西隣りにある。

 

 

フランスで画家を志した黒田は、フランス画壇を標準として理想の画家像をつくっており、帰国後は、その理想を日本で実現できないこと、また理想に向かう試みが意図の通りに受け取られないことに苦しんだ。黒田は、画家として自由な自己表現を目指したが、黒田の構想画は理解されなかったようである。黒田が貴族院議員になったのは、日本に欠けていた「西洋の雰囲気」を、政治を通して実現しようとし、美術教育や美術にまつわる制度の確立のために尽力しようとしたと思われる。このように理解するならば、「黒田は日本洋画界に対し、功罪半ばする」と断言した前篇の言葉は、取り消さざるを得ないことになった。(無論、前篇を記載する前に、このことは理解出来ていたが、私の考えの変化の過程を理解してもらうために、あえて「前言を翻す」という記述にこだわったのである)

 

(本稿は図録「黒田清輝 生誕150年 日本近代絵画に巨匠  2016年」、図録「黒田清輝展 近代日本洋画の巨匠 2010年」、土方定一「日本の近代美術」、田中英道「日本美術史全史」、河北綸明「日本美術入門」を参照した)

黒田清輝 生誕150年 日本近代絵画の巨匠

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黒田清輝(1865~1924)は、鹿児島市に生まれた。島津藩士であった父黒田清兼、母八重子の長男として誕生し、新太郎と命名された。(後に清光、さらに清輝と改名した)明治4年(1871)に父清兼の兄黒田清綱の養子になり、翌年実母と養母になる貞子に伴われて上京、麹町平河町の清綱邸で少年時代を送った。養父となった清綱は、同じく島津藩士であったが、維新後には、東京府参事、文部少輔、さらに元老院議官を歴任し、明治20年(1887)には、子爵をさずけられた。清輝は、10代になると、大学予備門を目指して英語を学び、ついでフランス語に転じ、17歳のとき、外国語学校フランス語科2年に編入した。フランス語を学ぶようになったのは、法律を勉強する目的からである。明治17年(1884)に義兄橋口直右衛門がフランス公使に赴任することになり、かねてフランスで本格的に法律を学ぶことを願っていた清輝も同行することになった。それから明治26年(1893)、27歳で帰国するまでの9年間にわたる留学生活は、黒田にとって、多感な青年期のなかの自己形成の時代に当たる、中でも、もっとも大きな転機は、法律の勉強から画家になることを決意したことであった。それは明治19年(1893)2月、日本公使館でパリ在住の日本人の集まりがあり、そこで出会った画家山本芳翆(1850~1906)、工部省留学生としてパリに学んでいた同じく画家の藤雅三(1853~1916)らから、しきりに画家になることをすすめられたことであった。黒田は、自分の心情を養父に書簡を送った。この書簡の翌日に、さっそくフランス人画家ラファエル・コランに入門した。黒田が師事することになったラファエル・コランと言う画家は、今日ではまったく忘れ去られて人である。久米桂一郎(画家)は、後に「黒田清輝を思うとき、ぼくは幸福な環境、幸福な才能、幸福な時代という言葉が浮かんでくる」(美術新潮)と回想している。ここで幸福な環境と言ったのは、富裕な貴族の子弟として年少にしてフランスに留学していることであり(1884~1893年、在仏)、幸福な才能と言ったのは、自然のまま絵画に近づき、才能が大きく成長し、そして彼が帰国したのは、日清戦争を経て、明治市民が「冷笑と反動」(徳富蘇峰の言葉)の長い期間を経て、ようやく彼方に夜明けを見た時であった。黒田がフランスに着いた頃は、フランスは普仏戦争の敗北とパリ・コンミューンの混乱を経て、第三共和政が成立し、ようやく安定にむかおうとしており、その中心地パリも近代的な都市に変貌しようとしていた。黒田が入門した頃のラファエル・コランはサロンに入選を重ね、アカデミズムの中の新進画家として評価が高まった時期であった。時代的には、印象派全盛の時代であったが、黒田はコランの印象派の明るい外光表現とアカデミックで堅実な描写に新しさを感じ、受け入れたのであろう。また黒田は画業の始まり頃からバルビゾン派の画家ジャン・フランソッワ・ミレーに惹かれ、ミレーに傾倒した時期があった。

編物  黒田清輝作  油彩・カンヴァス  明治23年(1890)(在仏中)

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黒田が画家として大きく成長するのは、1890年(明治23年)頃からであった。久米桂一郎(画家)とともに、パリ南東70キロほどに位置する小村グレー・シュエル・ロワンを訪れ、ここに滞在しながら制作をすすめることになった。黒田がこの地に惹かれたのは、風景の美しさだけではなく、好みのモデルと巡りあったためだったと思われる。それが、マリア・ビョーという名前のこの村の農家の娘であった。留学時代の作品であり、サロンに初めて入選した「読書」や「婦人図(厨房)」に描かれた女性であり、この編物のモデルでもあった。黒田は、この娘の一家とも親しくなり、その一隅にあった小屋ヲ借り受け、アトリエとして使って制作に励んだ。マリアとの交際が深まり、黒田はビョー家の婿のようになっていたと言う。(国民美術)この時代の一連の作品は婦人の木炭画が優れている。油彩画ではいずれも色調が青で統一されており、清傑で明澄な画面となっている。窓を通して室内に指し込んでいるやわらかな光の表現を楽しんでいるようである。

読書  黒田清輝作  油彩・カンヴァス  明治24年(1891)(在仏中)

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1891年に開催されたフランス芸術家協会のサロンに「夏の読書」のタイトルで出品、初入選した作品である。当時フランスには二つの協会が並立していた。黒田は、まず師のコランも出品する「旧の共進会」に入選し、フランス画壇へのデビューを果たした。本作品もグレーで黒田と恋仲になったマリア・ビョーをモデルに描き始められたものである。(久米桂一郎氏の記述)画面下には「明治24年 源清輝写」と日本語でサインが入れられている。これも作者が日本人であることがすぐわかるようコランから勧められたものであるそうだ。サロン出品後、この作品は日本へ送られ、1892年春の第4回明治美術会展に出品された。

風景(グレー黒田清輝作 油彩・カンヴァス 明治25年(1892)(在仏中)

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ロワン川に沿ったグレーの集落には、一本だけ橋がかけられていた。この図は、その橋の上から枯木を通して古塔を望んだ光景のスケッチで、この塔は「ガンヌの塔」と呼ばれ、12世紀のもであるが、黒田がこの作品を描いてから約10年後に、浅井忠が同じ場所の風景を描いている。黒田は在仏中に「パリー風景」等の作品もあるが、概してグレーのような農村のスケッチが多い。恐らく、ミレー等の影響を強く受けたのであろう。

赤髪の少女 黒田清輝作 油彩・カンヴァス 明治25年(1892)(在仏中)

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萌えいでた緑のなかに、背を向けて立つ少女。この人物そのものの表現よりも、赤髪のうえに映える陽光、したたるような樹葉の輝きなどに描写や表現力の力点がおかれているようである。在仏中の作品の中では、一番印象派的要素が強い作品の一つである。美術商林忠正(浮世絵の画商として知られている)の旧蔵品であり、当時のヨーロッパにおけるジャポニズム盛行に重要な役割を果たした林との交友をしのばせるものとなっている。

婦人像(厨房)黒田清輝作 油彩・カンヴァス 明治25年(1892)在仏中)

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黒田は、1891年11月に本作の制作に着手し、完成したのは1892年の3月頃であった。黒田は、秋の景を描いた油絵1枚とともにサロンに提出したが、2点とも落選した。しかし、師であるコランが本作品を評価したためか、黒田は「どこに出しても恥ずかしハないつもりです」と母宛に送っている。戸口で椅子に腰かけこちらをじっと見つめる女性は、画面左上から差し込むたやらかい逆光に照らされている。マリアの姉の家に投宿しており、この作品はその家の台所であると見られている。「読書」と違って、質素な作業衣風の衣服を着けていることからも、グレーの自然の生活の中から生まれ出た作品だろう。「編物」、「読書」、「婦人像(厨房)」は、同じモデルを使った、在仏中の傑作である。

フロレアル(花月ーはなつき)ラファエル・コラン作油彩(1886年)

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黒田のフランスでの絵画の師であった、コランの作品である。(オルセー美術館)黒田は、「コラン先生追憶」の中で、次のように回想している。「此の時代の代表作は、ルクサンブール美術館にある”フロレアル”で,花時というやうな感じで描かれたものです。それは湖水の辺りの美しい草原に、裸体の女が草の羽を咥えて臥ている図で、有名なものです。裸体の柔らかい外光の肉色を描くことは巧妙なことは、先生を以て現代の第一人者と推さねばなりません。」

重要文化財舞妓(まいこ)黒田清輝作油彩・カンヴァス 明治26年(1893)

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明治23年(1893)の夏、9年におよぶ留学より帰国した黒田は、その年の秋に久米桂一郎とともに京都に旅行した。東京育ちの黒田にとって京都は初めての地であった。長らく日本を不在にした者の眼には、京都の風俗が新規に映ったようである。そのような眼差しのもとに描かれたのが「舞妓」であり、帰朝後の傑作である。鴨川を背景にした舞妓の着物を描くに当たり、黒田は黄、朱といったさまざまな色のタッチを散らしながら、その柄を表現している。留学時代には、好んで田園風景や田園の女性を描いた黒田は、新しいモチーフを前に、堅実なアカデミズムの描法から解放された画面は、色彩豊かな輝きに満ちている。京都旅行のデッサンも3枚付けられていた。

昼寝(部分) 黒田清輝作 油彩・カンヴァス 明治27年(1894)¥img545

黒田は鎌倉の別荘に移って夏を過ごした。この作品はそのときに描かれたものである。草上に午睡する少女に真夏の強い太陽の光が樹間をとおしておちているさまを生々しい赤と黄の色の細い線で描きだしている。黒田が外光派を超えて印象派的色彩を最も濃厚にみせたのは、この夏の制作であった。印象派の筆致や光の表現が用いられている。こうした画風は従来の日本の洋画とは一線を画すほど新しく、「新派」あるいは「紫派」と称された。

重要文化財 湖畔 黒田清輝作 油彩・カンヴァス 明治30年(1897)

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箱根の芦ノ湖と彼岸の山を背景にして涼をとるこの麗人は、現在では「湖畔」の題名で広く知られているが、明治30年(1897)の第2回白馬会展では「避暑」の題で出品され、1900年のパリ万博にも出品されたものである。明治30年夏、黒田は照子夫人を伴って箱根に避暑のため滞在、そのときに描かれたものである。本作ではモデルの浴衣を湖面と同様に青色系の色でまとめて統一感をもたせ、優れて調和のとれた画面に仕上げている。この傑作も、また「紫派」の名前がぴったりの作品であろう。但し、田中英道氏は「日本では名作とされているが、世界的にいえば平凡な作品に過ぎない」という厳しい意見を述べていることも、付け加えておく。

 

黒田は、東京美術学校の洋画科の最高の指導者になり、新人画家を養成し、それらの弟子たちはまたラファエル・コランの教室に入り、文展設立とともに黒田清輝=コランの画風が、団体で言えば白馬会系の画風が文展という唯一の官設展の支配的画風となった。官尊民卑の国の官営展を支配した上に、文部省の美術政策は敗戦まで、この官設展だけを保護するという官僚統制の美術政策であったために、白馬会系の日本的アカデミズムは、長く近代日本の美術界を支配し続けた。黒田清輝は、声望を一身に集めた当代一流の巨匠として、文展(官営展)の審査員ばかりでなく、さまざまな展覧会の審査員、会長、顧問を兼ねて、大正9年(1925)には森鴎外の後を継いで第二代の帝国美術院長となり,公私とも多忙となった。当然、絵画を画く時間も少なくなり,晩年は小さなデッサンばかりという状態であった。黒田清輝の日本美術界に及ぼした功罪は極めて大きいと思う。(あくまでも私感)しかし、黒田清輝展であるから、かれの罪を唱える言葉は、図録のどこにも出て来ない。止むを得ぬことかも知れないが、あえて一言言及しておく。

 

(本稿は、図録「黒田清輝 生誕150年 日本近代絵画の巨匠 2016年」、図録「近代日本洋画の巨匠  黒田清輝  2010年」、土方定一「日本の近代美術」田中英道「日本美術全史」、河北綸明「日本美術入門」を参照した)

 

 

大宰府  観世音寺  宝蔵のみ仏たち

私は、前篇の「大宰府 観世音寺 お堂と塔跡」で、観世音寺とは観世音菩薩を本尊としたために「観世音寺」という名前が付いたのであろうと推定し、広く「観音信仰の寺」と判断したのである。境内にある宝蔵庫に入ると、極めて大きな木造仏が並び、非常に驚いた。これは何度訪れても、驚きは変わらない。これの仏像類は、本堂に当たる講堂、金堂に安置されていたのであろうが、すべ初期の仏像はなく、平安時代、鎌倉時代の仏像類である。大火、災害等によって焼失したり、毀損したりして、残っているのは梵鐘のみである。従って、どの仏像がどこのお堂に安置されていたかも不明であるが、いずれにせよ観世音寺に伝来したことは間違い無い、「観音信仰の寺」と言う前提で、まず「観世音菩薩」と言われる仏像から紹介したい。

重要文化財不空羂索観音菩薩立像(ふくうけんじゃくかんのんぼさつりゅうぞう)鎌倉時代(13世紀) 像高517cm  寄木造

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この観音像は、手に持つ不空の羂索によって罪業の溺れ、悪業に沈む衆生の救済を悲願とする観音である。日本では東大寺三月堂本尊(奈良時代)、興福寺南円堂像(鎌倉時代)が知られている。私は、この像こそ、観世音寺講堂の本尊であり、寺院名の由来像であると確信している。この像は、大正3年(1914)修理のため解体したとき、胎内から塑像の顔面破片、塑像の木心(写真左に写る),経巻などと共に、この像の由来を記した胎内銘が発見された。これによると観世音寺講堂には奈良時代の不空羂索観音の塑像が講堂本尊として安置されており、康平7年(1064)の火災にも焼けず尊容を保っていたが、承久3年(1221)7月12日夜、俄かに倒れて砕けてしまった。この像の傍に立つ心木が奈良時代の塑像の心木であるという。再建にあたっては、鎌倉前期の貞応元年(1222)8月14日に滋済阿闍梨(じさいあじゃり)を勧進上人とし、良慶法橋を行事検校として、仏師琳厳が長尊を助手にして造ったもので、その頃における地方作としては極めて出来の良いものであり、また仏としてまことに本格的なものであった。三目八臂を持つその容姿は成熟した女性の美しさを表す。頂上仏の如来形は,平安初期の優秀作である。

重要文化財 十一面観世音菩薩立像  像高 498cm 寄木造り平安時代後期

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十一面観世音菩薩は六観音の一つで、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)のうちでは修羅道にあって衆生を済度すると言われている。この像の胎内に多くの銘と共に延久元年(1069)7月という平安後期の墨書銘があって、この像の像立期を実証している。この時代は、日本的ないわゆる藤原文化の華が咲き、法成寺、法勝寺など寺院の建立が盛んで、その中に安置する丈六の巨像の像立も多いが、現在まで残っていて、しかも製作期の銘のある例は非常に少ない。その点で、本像は極めて貴重な仏像である。

重要文化財 馬頭観世音菩薩像  像高 503cm 木彫寄木 平安時代初期

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馬頭観世音菩薩は六道の中では畜生道にあって、頭上に戴く馬が草を多く食う様に衆生の悩みを執り尽くして救済するという。もともと馬はインドでは四聖獣(獅子、象、牛、馬)の一つとして、アーリヤ的に神聖視されている。仏教以前のバラモン的要素を多分に持つ馬頭観世音は、怒りと悲しみの複雑な顔でなければならないが、その表現は困難である。それをこの像はよく表現しているので、世に馬頭観音像の傑作と言われている。寺伝によると、この像は大治年間(1126~1130)大宰府大弐藤原経忠の寄進とされているが、像の胎内に当時、観世音寺の責任者として活躍した上座威儀師の銘があって,寺伝が正しいことを証明している。従って、この像は遺例の少ないわが国の馬頭観世音菩薩中最古のものであり、文字通り日本一の馬頭観音像と言えよう。

重要文化財  兜跋毘沙門天像(とばつびしゃもんてんぞう)像高 221cm 平安時代初期

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毘沙門天は梵語で、仏法守護の神である。仏法を多く聞き帰依したので四天王では多聞天という。北方を守る独尊では毘沙門天として信仰されている。観世音寺の毘沙門天は、観世音寺の仏像の中で最も古く優秀な像である。踏まえている地天から像頭まで樟の一木彫りになり、その力強い彫方は平安時代前期いわゆる弘仁期の姿を残すものである。地天を踏まえている毘沙門天を兜跋毘沙門天と言う。兜跋毘沙門天は兜跋国王(今のチベット辺り)を表すものと言われ、その姿は寒い国の服装をしているのが本来の姿である。この形をしたものは平安初期作(但し唐代)の京都東寺にあるが、観世音寺像はそれより少し時代が下がる。この像は静的な観世音寺像の中にあって、あくまで動的な逞しさを持った像である。

重要文化財 地蔵菩薩像 像高123.6cm寄木造 平安時代後期(12世紀)

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数多い仏像の中で一番庶民に親しまれている姿である。地蔵菩薩像は釈迦入滅後、次の弥勒が生まれるまでの末法界の六道にあって一切衆生を済度するという。その姿は一般の菩薩と異なり僧形で衆生の親しみを感ずる姿である。この岩座に半跏像は平安時代後期の作である。この岩座の半跏像は錫杖をもついわゆる延命地蔵である。延命地蔵は、平安時代に当時流行した延命経によってなされた像である。この像はその童顔が美しい。拝する者に如何にも地蔵さんらしい親しみを感じさせる。

重要文化財 大黒天像  像高171.8cm 木彫 平安時代中期(11世紀)

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大黒天は元来仏法を守る武神であり、また寺院の食堂に祀ると自然の栄があると信じられていた。それが日本人の習慣や生活に同化し、民信仰なども加わって、現在では槌を持ち米俵の上に立つ福徳の神になっている。この観世音寺の大黒天像は大黒天神法にある姿とよく似ている。日本人の信仰に同化したものであるが、そ顔に憤怒の感じがあるのは、古式の武神のおもかげを残している。この像は平安時代中期(11世紀)の作で、この様式の大黒天の中、最も古く優秀な像である。なお、この像は現在くつを履いているが、これは大正3年(1914)の修理によるもので、それ以前はわらじであったそうである。

重要文化財阿弥陀如来坐像 像高219.7cm寄木造平安時代中期(12世紀)重要文化財 四天王像 像高236cm 一木造 平安時代中期(12世紀)

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この像は鳥羽院の時(12世紀初)大宰府大弐長実の寄進と伝えられるが、それに相応しい平安時代の定朝様式を持った如来像である。この時代は菅原道真の進言によって遣唐使が廃され、それまでの唐文化の流入に変わって日本文化が盛んになっ時代であり、仏教もまた自己内証によって悟りを開く密教から、ただ仏にすがって現世に浄土を具現しようとする他力的な浄土思想に心を傾けた時代である。定朝様式の阿弥陀仏の美しさが見られる。四天王は仏法の守護神で本尊の四方に立つ。その配置は本尊に対し、東から右回りに置かれる。東ー持国天、南ー増長天、西ー広目天、北ー多聞天の順である。武神であるから甲冑に身をかため、武器を持ち、邪鬼を踏んで威力を示している。この四天王は平安時代中期の作で、穏健で力に溢れた作である。私は、個人的には、この阿弥陀如来坐像等は、今は無い金堂に納められていたのではないかと推測している。

 

観世音寺の仏像は、概して巨大であり、圧倒される思いがする。木彫では、日本でも珍しい大きさである。何故、圧倒する巨大さが必要であったのだろうか?その理由を自分なりに考えてみた。一つは、この大宰府の土地が、古代日本の大陸(支那、朝鮮)に対する窓口であり、大陸文化に対して虚勢を張る必要があったからではないだろうか。支那、朝鮮の進歩した文化に対し、日本も負けるものでは無いという、一種の気負いを感じるのである。もう一つは、日本国内で京都(みやこ)文化に対し、西海道の文化は聊かも劣るものでは無いという,これも一種の虚勢であったろう。しかし、そんな虚勢を張らなくても、太宰府は、日本(京都、鎌倉)の外交、軍事、文化の先進的な場所であり、江戸時代の長崎、明治時代の横浜のような外国文化や外交情報をいちばん最初に吸収する場所だった。ここで、古代日本の大陸に対する歴史を述べて、仏像の巨大さの原因を考えてみたい。最明6年(660)7月、百済は唐によって滅ぼされ、百済から復興の援軍の要請があった。これをうけた最明天皇は、最明7年(661)の冬に、百済から復興の援軍の要請があった。これをうけた最明天皇は、最明7年(661)の冬に難波を出て筑紫へと向かった。そして3月には那大津に上陸して、盤瀬行宮に入る。さらに5月には朝倉橘広庭宮へ遷り、朝鮮半島への派兵の準備を進めるが7月に死去した。そして663年8月、百済復興を目的とした倭軍は、朝鮮半島南部の錦江河口で、唐・新羅の連合軍と戦った。世にいう,白村江(はくそんこう)の戦いである。倭軍は大敗し、この年の9月、百済は完全に滅亡した、この敗戦によって唐・新羅軍の海路を超えた侵攻は現実的なものとなった。「日本書記」によれば、天智3年(664)に、「白村江の敗戦によって唐・新羅の脅威にさらされた倭は、有事に備えた伝達手段として烟(けむり)や火をあげる烽火(のろし)を整備し、また西海防備のための防人を置いて外敵の侵攻に備えた。そして百済の亡命官人の指揮のもと、水城(みずき)、大野城など、太宰府の防衛施設」を造営している。まさに「大宰府羅城」と呼ばれた、西方の防備施設であった。観世音寺が完成する746年に対し、83年前の事件であったが、この唐・新羅連合軍に対する恐怖心は、癒されるものではなく、単なる虚勢のみではなく、「大宰府羅城」の一環であった可能性も高い。大野城や水城をを見ると、1350年前の、倭の防備の姿が見える。それほどまでに,支那大陸や朝鮮半島に対する、備えが必要であったのである。かかる国際的な危機の後で作られた観世音寺は、日本にはかって存在しなかったような巨大な仏像群が必要だったのであろう。そうすると、虚勢ではなく、倭の「偉大さ」を示す、「実力の存在」を表すモニュメントであったのであろう。

 

(本稿は、図録「観世音寺」、杉原敏之「遠の朝廷」、五木博之百寺巡礼「第10巻四国・九州」、五味文彦他「山川日本史」、原色日本の美術「第9巻中世寺院と鎌倉彫刻」「日本書記」を参照した)

大宰府  観世音寺  お堂と塔跡

西海道における文化の中心地であった大宰府には、拠点となる多くの寺院が建立された。このうち、観世音寺、筑前国分寺、同尼寺などは、太宰府を支える護国の寺であった。中でも観世音寺は、府の大寺と呼ばれた西海道随一の寺であった。「続日本紀」の和同2年(709)2月に元明天皇が「天智天皇が斉明天皇のために、誓願した筑前観世音寺の造営が開始されたが、その後、年を重ねながら、今に至るまで造営されていないので、速やかに造営を遂げよ」という詔を出された。この記録から、観世音寺は、斉明天皇7年(661)に朝倉橘広庭宮で急逝した斉明天皇の追福のため、息子である天智天皇によって発願されたことがわかる。しかし、発願から建立までには、じつに80年以上かかっており、実際には伽藍の造営が完了したのは天平18年(746)であった。さらに天平宝字5年(761)には、西海道諸国の僧尼に戒律を授ける戒壇が設置された。東大寺、下野薬師寺とともに天下の三戒壇の一つとなった観世音寺は、名実ともに、西海道随一の権威を誇る府の大寺となった。だが、観世音寺はその後、幾度もの火災や様々な災難によって焼失してしまう。創建時の伽藍はすべて失われ、現在は、日本最古と言われる梵鐘と、江戸の初めに再建された講堂と戒壇を残すのみである。

観世音寺の石碑

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観世音寺の石碑が右側に立つ、何時の時代かは知れない。

南大門跡

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観世音寺の南大門の跡に碑が立っている。1360年前の南大門跡である。

観世音寺伽藍絵図        室町時代 大永6年(1526) 観世音寺蔵

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観世音寺の伽藍は、東に五重塔、西に東面する金堂、中央北の講堂に中門から伸びる回廊がとりついている。そして、その背後に大房を配している。戒壇院は廻廊の外側の寺院であろう。(この絵図には記載が無い)観世音寺伽藍の大きな特徴は、金堂が東を向いている点である。この正面に講堂、東に塔、西に東面する金堂からなる伽藍配置を”観世音式”と呼ぶ人がいる。この伽藍配置は、飛鳥の川原寺、近江崇福寺、陸奥多賀城廃寺などにある。斉明天皇にゆかりのある寺院や朝廷が関与した国家的な寺院に採用されることがわかる。長い僧坊は,僧の宿泊施設であり、往時の研修僧が多かったことを偲ばせる。

講堂                    江戸時代前期

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一時は廃絶状態にあったこの寺を甦らせたのは、黒田藩の力だったそうである。代々の藩主と、博多の豪商である天王寺屋らの支援で、伽藍の整備が行われて、観世音寺はかろうじて復興したのである。講堂は、観世音寺の本堂に当たるお堂である。創建時の講堂は、現在の2倍以上の広さを持つ巨大な建物だったという。現在の観世音寺は天台宗になっているが、当初は戒壇があった関係で、「八相兼学(はっしゅうけんがく)の寺」と称されていた。天台宗の寺になったのは、明治以降のようである。もともと観世音寺は観世音菩薩を本尊としたために「観世音寺」という寺名がついたのであろう。むしろ「観音信仰の寺」といった方が分かり易いだろう。

鐘楼(しょうろう)      江戸時代初期

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黒田藩の援助によって造営された建物であるが、この鐘は、現存する日本最古の銅鐘(どうしょう)として名高い。創建時の唯一の遺品である。

国宝  梵鐘(ぼんしょう)     白鳳時代

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観世音寺のながい歴史の間に創建時代の寺宝のことごとくが失われた中にあって、この鐘だけが1300年以上の歴史を誇り、挽歌を奏している。この鐘には文武2年(698)の銘を持つ、日本最古の有銘鐘である京都妙心寺の鐘とその大きさ、様式が最もよく似ており、同じ時代に製作されたものと言われている。しかも妙心寺の鐘は「粕谷」の銘があり、これが九州福岡県粕屋の地にあたる。観世音寺の鐘は無名鐘と言われていたが、この鐘に「上三毛」の銘が発見され、これが豊前の国にある地名であることがわかった。又、この鐘の音響については荘重な音で昔から親しまれている。今でも、年末の百八の鐘は、この鐘がつかれ、テレビでも放映されることがある。

五重塔心礎

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鐘楼の手前に、五重塔の心礎(しんそ)がある。これは、かってここに立っていた五重塔の中心の柱(心柱)を支えていた「心礎」と呼ばれる礎石である。その大きさには驚かされる。当時の五重塔の壮大なすがたが偲ばれる。

戒壇院             江戸時代

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戒壇院は、江戸時代まで観世音寺の堂宇の一つであったが、明治以降独立して臨済宗妙心寺派の寺になった。鑑真が、天平勝宝6年(754)に東大寺に戒壇をもうけた。それ以来、国家公認の僧侶となるためには、東大寺の戒壇まで行くのはあまりにも遠くて大変であった。そのため天平宝字5年(761)には、この大宰府の観世音寺と、下野(しもつけ)の薬師寺にも戒壇院を設けられた。これが「天下の三戒壇」である。九州や四国、中国地方にいて仏門に入ろうと若者たちは、みなこの大宰府の戒壇に集まったのである。一遍上人が、四国からわざわざ大宰府に来た理由が分かったような気がする。戒壇に登壇するまでの過程は大変なものであったらしい。誰でも戒壇を受けられる訳ではなく、いくつもの難関を突破して、戒壇院に授戒を申し込むことが出来た。1年のうちで授戒がおこなわれるのはわずかに八日間のみで、中国の科挙の試験のように、大変競争率の高い難関だったようである。その代り、ここで合格すると正式に官僧となり、将来の仏教界での栄達が期待できることになる。天下の三戒壇の中では、現在、ここが一番奈良時代の面影を伝えていると言われる。

宝蔵(収蔵庫)          昭和時代

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講堂等に仏像を配置すれば、保存状態が悪く傷みが激しくなるので、境内の一角に宝蔵が新設され、重要文化財に指定されている巨大な仏像類は、ここに保存されている。

大宰府政庁跡の礎石と碑        奈良時代

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正殿跡の礎石は平安時代の再建時のままで、柱座の経は60cmを超える。その上に建つ3基の碑、背後の大野城とともに大宰府政庁を象徴する景観である。近年の研究で大宰府に条坊があり、観世音寺は(縦)左郭七房、八房、(横)二条,三条に位置することが明らかになった。大宰府政庁の真中を走る道は、朱雀大路と言われていた。

 

観世音寺の歴史は古く、奈良時代まで遡ることができる。古さという点では、九州だけでなく日本全国の寺の中でも指折りの寺である。かって、この地には大宰府政庁があり、勉学の施設があり、外交、軍事の拠点として重要な役割を果たしていた土地である。大宰府は、後世の長崎や横浜のような東アジア全体の文物の交流の渦の中にあり、日本でも最も支那大陸や朝鮮半島に近い場所であり、最新の情報が流れる地であったのである。

 

(本稿は杉原敏之「遠の朝廷」、探訪日本の古寺「第15巻九州・四国・沖縄」、五木博之「百寺巡礼第10巻四国・九州」「続日本紀」を参照した)