山種美術館  江戸絵画への視線

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江戸時代は公家や武家だけではなく、町民、庶民に至るまで文化・芸術を享受する層が拡大した時代である。このような社会になると個性豊かな芸術家たちが次々と登場して、豊かな文化が生み出され、厚みを増してきた。本展は山種美術館のコレクションの中から江戸絵画の歴史を概観する催しである。実は、私は山種美術館へは、今回が初めての拝観である。現代の日本画を含めて、数々の名品が揃っていることは承知していたが、JR駅からも地下鉄駅からも、徒歩10分の距離が気になり、中々出かけ辛かったというのが本音である。ネットで調べてみたら、恵比寿駅西口からバスで二つ目と知り、初めて拝観した次第である。一度、行ってみると、予想以上に近く便利であることが判り、今後は足しげく通う美術館に加えたい。案外小さい美術館で、展示も41点(江戸絵画のみ)で、丁度手頃な規模である。時代順に並べるのが妥当だろうが、琳派を最後にまとめる形にしたい。なお、琳派の中でも酒井抱一の優品が多いのに驚いた。山下裕二氏(明治学院大学教授)による図録の解説では、思いがけない「山種美術館コレクション収集」のこぼれ話が冒頭に出てくる。山下氏は、図録の冒頭に次のような秘話からスタートする。「もっぱら近代日本画のコレクションが著名な山種美術館。だが設立者である山崎種二(1893~1983)にとって、実は丁稚奉公をしていた頃目にした江戸琳派の画家、酒井抱一(1762~1828)の掛軸との出逢いが、後にコレクターとして邁進していくきっかけとなる原体験だったことはあまり知られていない。」以下「山種証券五十年史話」の聞き書きが引かれている。

重要文化財  官女観菊図  岩佐又兵衛作    江戸時代(17世紀前半)

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岩佐又兵衛が1枚だけ、掛けてあったことに驚いた。「まさか、まさか」である。岩佐又兵衛は「浮世絵又兵衛」として知る人ぞ知る画家である。辻惟雄氏「奇想の系譜」は、この岩佐又兵衛から始まる。図録から岩佐又兵衛の人物史を眺めてみる。「江戸時代前期の画家、名を勝以(かつもつ)という。伝説的な絵師として不明な点が多いが、伊丹城主・荒木村重の末子とされる。父が信長に反旗を翻したために一族郎党皆殺しとなるが、乳飲児だった又兵衛は奇跡的に生き延びて、母方の岩佐姓を名乗った。京都で狩野派、土佐派の画法を学び、両派融合した画風を確立した。50歳の頃福井に移り住み、福井藩主松平忠昌の御用絵師となった。その後、徳川家光の招きにより江戸に出て、三十六歌仙奉納画などを手がける。しかし、福井に残した妻子の元には戻れず江戸で没した。没後彼の存在は「浮世絵又兵衛」として伝説化されていく。」私自身は、岩佐又兵衛の絵は、浮世絵元祖と称する怪しげな絵以外見たことがなく、果たして実在の人物かどうかも疑問視していた。この絵を見れば、御所車のすだれをそっと上げて菊を愛でる王朝の貴婦人二人を、繊細な白描やまと絵の手法で描いたものである。ふっくらとした頬と頤(おとがい)の「豊頬長頤」(ほうきょうちょうい)と言われる又兵衛作品に典型的な顔の三人が描かれている。元は「旧金谷屏風」と通称される六曲一双の押絵屏風のなかの一つである。(いずれ岩佐又兵衛についてはMOA美術館の所蔵する「山中常盤」(やまなかときわ)で詳細に説明したい)

伏見人形図  伊藤若冲作  紙本着色   江戸時代(18世紀)

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全国の稲荷神社の総本社である伏見稲荷大社界隈では、現在でも本作に見られるような独特の土産物「伏見人形」が販売されている。この地域から豊富に産出される粘土を用いて様々な形を作り、焼き上げて粗末な泥絵具で着彩したこの素朴な玩具の持つ、ほのぼのとした情趣を若冲は愛したのか、縦・横の作品を多数残している。先の伊藤若冲展でも、ジョー・プライス・コレクション(縦)と国立歴史民俗博物館(横)の2種が出展されていた。最近は、江戸絵画展と言えば、必ず若冲作品が展示されるようになった。いささか鼻に付く。

指頭山水図(しとうさんすいず)池 大雅作紙本墨色淡彩 延慶3年(1745)

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池大雅(1721~1776)は江戸時代中期の画家である。京都に生まれ、独学した南宋画に日本の伝統的絵画や西洋絵画の手法を加え、個性的で新鮮な画風を確立し、蕪村と共に「日本南画の祖」と言われる。「指墨」「指画」とも称され、筆を使わず手の指先や爪、掌(てのひら)などを使う描法で描かれている。本作は大雅22歳の初期の作例である。画面左上に東皐壽(とうこうじゅ)による七言節句の賛が描き込まれている。柳の曲線や指の腹で押したような樹木群の描写は、筆線にはない大雅独自の自由闊達なのびやかさが感じられる。

槇楓図(まきかえでず)屏風  俵谷宗達作 紙本金地彩色 六曲一双 江戸時代

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無背景の金地画面に、老木から若木までさまざまな形の六株の槇と、一株の楓が密生する。構図の要は、幹が大きく湾曲する右端の槇である。それに呼応するのは、右から3扇目、株の全体を画面に納めつつ、より大きく身をくねらせる槇の木であり、さらにその動きを槇の樹林の背後に紅葉する楓が継承し、画面左斜め上に解き放っている。途中に挟み込まれる立木は曲面にリズムを与えると同時に、空間に厚みを加える効果をもつ。鬱蒼と重なり合う槇の枝や葉、重々しい筆致がやや渋滞した印象を画面に与えている。その重厚な画面に、桔梗や女郎花、刈茅(かりかや)といった秋草が可憐な趣を添える。琳派を代表する力作である。似た意匠の尾形光琳作「槇楓図屏風」(東京芸術大学蔵)は、重要文化財に指定されている。

新古今和歌集鹿下絵和歌巻断簡 俵谷宗達絵 本阿弥光悦書 紙本金泥彩色江戸時代初期

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金銀泥で鹿の群れが描かれた、全長20メートルの及ぶ巻物の断簡である。三井財閥を支えた増田鈍翁が所蔵していた巻物が、増田家を離れ、断簡として諸家のもとに散らばったうちの一つである。宗達が下絵を描き、その周囲に光琳が書をバランス良く配している。巻物は、この鹿から始まっていたと伝えられている。西行法師の和歌が添えられている。

四季草花和歌短冊帖 俵谷宗達絵 本阿弥光悦書 紙本金銀泥短冊画帳 江戸時代初期

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宗達・光琳画による共同制作をした和歌巻、色紙帖などが多数残っているが、短冊で、しかも18面も残っているものは希少である。本作品は短冊という小さな画面からはみ出しそうな宗達の図柄と、のびのびと墨書された光悦の書から、彼らの自由な発想と情熱が窺われる。歌は「新古今和歌集」から選ばれている。短冊は右から躑躅(女御微小女王)、月に松山(西行法師)、薄に桔梗(藤原定家長臣)の3枚である。琳派の代表作である。

重要美術品 秋草鶉図 酒井抱一作 紙本金地彩色屏風二曲江戸時代(19世記)

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二曲一双の屏風には穂の出た薄の原と銀の半月(現在は黒く変色)、五羽の鶉の群れ、そこに女郎花、露草、そして紅葉した楓葉を散らして描き、深まり行く秋の武蔵野をイメージしている。大変緻密な描写で、光琳の華やかな雅趣を思い起こさせる。優品である。

宇津の山図 酒井抱一作  紙本金地彩   軸一幅   江戸時代(19世紀)

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「伊勢物語」の第九段「東下り」に取材した作品である。在原業平が宇津の山で京に残してきた女への思いにふけり、歌を詠んで、出会った知り合いの修行僧に手紙を託したという内容である。「伊勢物語」は宗達以来、琳派の作品の主題として頻繁に取り上げられている。

四季花鳥図 鈴木其一作 紙本金地彩色、屏風二曲一双 江戸時代(19世紀)

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二曲一双の金屏風に四季の草花と鳥を描いている。右隻には春と夏ー菜の花、スミレ、タンポポ、向日葵、朝顔などと雄鶏、雌鶏。左隻には秋と冬ー菊、吾亦紅、薄、女郎花、水仙などと鴛鴦が描かれている。一つの画面に二つの季節が混在しているが、違和感はなく、見事に調和している。如何にも琳派らしい派手な意匠である。

 

山種美術館のイメージは現代絵画(日本画、洋画)のコレクションとして広く知られているが、これだけの琳派の名品を有していることは全く知らなかった。過去の図録を丁寧に調べてみると、確かに「大琳派展」や、根津美術館の「燕子花と紅白梅」に山種美術館の蔵品が出展されていた。改めて、琳派の名品の素晴らしさに酔った「江戸絵画への視線」であった。創業者が、酒井抱一の柿の朱色を見て、コレクションを思い至ったという話題からして当然のことかも知れない。

 

(本稿は、図録「山種コレクション 浮世絵 江戸絵画」、図録「大琳派展 2008年」、図録 根津美術館「燕子花と紅白梅 2015年」を参照した)

 

観音の里の祈りとくらし  Ⅱ

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国宝や重要文化財の多い地域は、東京(東京国立博物館があるため)、奈良、京都の順に多いが、4番目となると知る人は少ない。実は滋賀県である。近江・滋賀は政治の中心になった時期は、短い。殆ど古代のことであり、都の跡も明確ではない。しかし、近江国は京都から東国への交通の要衝に位置しており、歴史上幾多の戦乱に見舞われて、多くの寺社仏閣は、その災禍に巻き込まれて、失われてしまった。堂宇は失われたが、村の人達は大切な仏様を救いだし、自分たちの手で護り通してきた。「湖北」と呼ばれる、長浜市の北部地域には、百を超える観音像が伝わり、村々のお堂には観音菩薩像、薬師如来像、大日如来像が、村人の手によって守り継がれてきた。長浜市は「観音の里」として有名である。この「観音の里」を一躍有名にしたのは、昭和40,50年代に発表された文学に拠る所が多い。特に井上靖の「星と祭」、白洲正子の随筆「十一面観音巡礼」、「近江山河抄」などではないかと、私は思っている。近江国は大変行き難い場所であり、特に観音の里では、お寺ではなく地域住民(「惣村」と呼ばれる自治組織)に守られ、秘仏が多く簡単には拝めないということもあり、今までも生きたいけれども、行き難い場所であった。今回、東京芸大が、長年湖北に伝わる観音様の修理・保存を通して、地域の皆さんと協力して43体の仏像、光明本尊1と重要文化財の文書を5文書・合計49点が展示された。これは、東京芸大と地域の住民の信頼関係の上で実現した展覧会であり、2度と見ることが出来ない仏像も多い。是非、拝観されることをお勧めする。

重要文化財  伝千手観音菩薩像  長浜市 観音寺蔵   平安時代

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観音寺本堂の厨子内に安置されている伝(でん)千手観音立像である。十八臂(ぴ)は珍しい。針葉樹材製で頭体幹部は一木造りである。たくましい上半身には胸と腹の括れを大きく彫り込み、足首にかけて絞り込んだ下半身には太い衣文線や渦巻を深く彫り込む。顔の墨描、朱彩は後から補修したものであろう。卓越した技量で木彫で彫り込んでいる。平安時代前期(9世紀半ば)の作と見られる。観音寺は、軍師官兵衛の黒田家発祥の地として知られる長浜市木之本町黒田にある。無住で住職は兼務のため、日常の維持管理と参拝者対応は、世話方(せわかた)が行っている。世話方は定員3名、任期3年、集落のうち17軒から毎年1人づつ選出されて、入れ替わり2年目の世話方が代表者となる。この度、厨子をでることすら稀であった本尊が初めて展覧会に出陳されることとなった。

重要文化財 十一面観音菩薩立像  長浜市 医王寺蔵    平安時代

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湖北の観音様は、どなたも美しい。医王寺の十一面観音も、息をのむほど端正である。この観音様は、明治20年に、当時のご住職が長浜の骨董店で見つけ、購入したものだと伝わる。巳高山(こみたかやま)にあったどこかのお寺から流失したものであろう。明治初期の神仏分離、廃仏稀釈の際に流出したものであろう。優品である。

重要文化財  聖観音立像  長浜市 来現寺蔵     平安時代

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弓削(ゆげ)町(旧びわ町)の観音堂に安置される。堂々としたボリュームあふれる等身大の聖観音立像である。弓削(ゆげ)の地名は、古代この地に、弓を制作する弓削部(ゆげべ)が居住したことによると言われる。湖北長浜市には、石作・玉作・田部・物部など古代の部民(べみん)制を連想させる地名が多く残っている。かっては村の西方、小字「万願寺」あったと言われる。萬願寺は、聖徳太子の建立した寺院であった跡と伝える。萬願寺は火災で消失したが、本像は村人が池に沈めて難を逃れたという。弓削部落で火事がないのは「観音さんのおかげ」と、代々語り継がれている。

重要文化財  十一面観音立像  長浜市 浅井町  善隆寺蔵  平安時代

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この寺は、山門(やまかど)という名の里にある。文字通り山に囲まれた集落は、まさに日本文化の原風景である。この観音様は、湖北を代表する美人観音である。井上靖は「飾り気というものの全くない質素な美しい女体」と評している。確かに、装飾が少なくシンプルである。しかし、お顔は鼻筋がくっきりと通り、しこぶる秀麗である。湖北には十一面観音立像が多い。その理由は、最後にまとめたい。

重要文化財  伝薬師如来立像  長浜市 高月町 充萬寺蔵  平安時代

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この寺には、十一面観音菩薩立像(重文)と伝薬師如来立像(重文)と、驚くべき仏像が2体残されている。(十一面観音菩薩立像は出展していない)寺の創建は奈良時代末期。伝教大師最澄が、ここでその2体の像及び薬師如来の眷属である十二神将を彫って祀ったのが始まりと伝わっている。ほぼ等身大の堂々たるものである。胸や腹は量感たっぷりである。お顔も肉厚で男性的である。正に、寺の名称通り、充分に活力に満ちた、頼りがいがある仏像である。薬師如来像と伝えられているが、現在は薬師の標識である薬壷を持たず、阿弥陀如来来迎印を結んでいるが、この両手先は後補であるため、当初の名称は確かめることは出来ない。制作は平安時代、10世紀と推測される。

重要文化財  大日如来坐像  長浜市 太田町 光信寺蔵  平安時代

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意外であるが、浄土真宗寺院光信寺の文化財収蔵庫に安置される金剛界の大日如来坐像である。ケヤキ材製で、頭部幹部は髪から地付まで一木造として、後頭部と背面から内刳(うちぐり)する。低く抑えた髷、丸顔の穏やかな表情、薄い衣に浅く刻まれた衣文線など定朝様(じょうちょうよう)の特徴を備えるが、目の見開は強く、正面から絞り込まれた腰の側面観は意外に奥行がある。平安時代後期(11世紀)の作と思われる。この大日如来像は、もとは隣接する中山神社境内の大日堂に安置され、かっては天台宗寺院・寂静山(じゃくじょうざん)大福寺の本尊であったと言われている。実際の管理は太田自治区で結成する太田大日保存会が行っている。町内20軒ほどがすべて光信寺の門徒であり、町全体で守るということから、保存会の会長・副会長は正副自治会長が務める。以前は50年に一度開帳する秘仏であったが、現在は1月の中神社の新年祭とオコナイ、大日堂のオコナイ、9月の放生会(ほうしょうえ)の際に開帳される。(秘仏だから現色が残っている。)

重要文化財  阿弥陀如来仏頭   長浜市 浅井街 善隆寺蔵 平安時代img831

図録では、単に仏頭とのみ記されているが、私は阿弥陀如来像の頭部と思う。長縁寺旧蔵で、現在は善隆寺の文化財収蔵庫の安置される如来形の仏頭である。はじめから頭だけを造ったとも言われるが、来歴は不明である。タイのアユタヤ遺跡には、木の根に抱かれた謎の仏頭もある。日本では、興福寺の国宝館にある旧山田寺の仏頭が有名である。伏せた目や鼻、口を丸い顔の中央に集めるさまは定朝様(じょうちょうよう)を踏襲する。収蔵庫に安置される十一面観音菩薩像と仏頭は、観音講である「和蔵講」が異時・管理している。山門区内77軒のうち4軒が4軒が講員で、全隆寺もその中に含まれる。講の役員は「当番」と呼ばれ、1年毎に持ち回りで交代し、収蔵庫の鍵と仏器を引き継ぐ。毎年8月9日の千日参りでは、この十一面観音像を本尊として収蔵庫内で法要が営まれる。現代まで宗教は生きている。

重要文化財  愛染明王坐像  長浜市 宮前町 遮那院蔵  鎌倉時代

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遮那院の秘仏本尊である。炎髪(えんぱつ)を逆立て獅子冠(ししかん)を戴き、三目で牙を剥き出しにした憤怒相(ふんぬそう)を表す。鎌倉時代の作である愛染明王は、躍動感あふれる像である。頭上に獅子頭をいただき、額には第三の目。尖った上向きの牙も印象的である。このような激しい姿であるにもかかわあらず、愛染明王は愛の仏様である。愛欲は人間の本能であり、否定できないため、そのエネルギーを転換して悟りへの道へとつなげるというのが、この仏の功徳である。愛染明王の像は比較的珍しく、特に近江では数が少ないと思われる。

千手千足観音立像  長浜町 高月町  正妙寺蔵    江戸時代

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琵琶湖のほとりの田圃の真中の小高い丘の上に立つ小さいお堂の中に、日本で多分一つだけと思われる不思議な観音様が祀られている。何しろこの観音様に十一の顔と千本の手と足がある。少なくとも国内では千足という名のついた仏様は知らない。顔も独得である。馬頭観音によく見られる憤怒相だが、怒っているというより威張っている子供のようにも見える。この寺は11世紀の建立され、その当時から、千手千足観音が祀られていたという。元和3年(1617)には兵火にかかり、お堂は消失。しかし村人は必死でこの像を守ったという。江戸時代に金泥を塗り直す修復も行われ、蓮台もその時に造られた。明治時代にはお堂も再建され、今も村人たちは、この像を大切に守り続けている。一度見たら、絶対に忘れない不思議な姿の観音様である。

 

琵琶湖の北部(湖北と呼ぶ)に位置する滋賀県長浜市周辺の地域には、古くから仏教文化が栄え、優れた仏菩薩像が今でも多数伝来している。特に慈愛に満ちた観音菩薩像が多いことが特色で、広く「観音の里」とも言われる。古いものは奈良時代末期に遡るといわれるが、優品の多くは平安時代につくられている。何故、これほど多くの観音象(なかんずく十一面観音菩薩の優品が多い)があるのか、不思議に思っていた。私は、仏像の歴史を専門に研究したことは無いが、私自身の独特の十一面観音菩薩像の広がりに対する私見を有している。まず、日本に十一面観音菩薩が請来されたのは、朝鮮半島からであると思う。従って、まず朝鮮半島に一番近い若狭(福井県)に渡来したのでは無いかと思っている。現に、若狭には沢山のお寺が残っている。また、東大寺のお水取りの行事は、若狭の神宮寺から香水を川に注ぎ、この香水が地底を通り3月12日の深夜に東大寺二月堂前の若狭井に湧き出すとされている。この香水を汲んで二月堂の本尊である十一面観音にお供えする仏事を「お水取り」と呼ぶ。若狭の芳賀寺には美しい重要文化財に指定されている十一面観音菩薩像がある。若狭一の美仏と言われる。この像は、古代日本随一の美人女帝で、この寺の開基である元正天皇のお姿をそのまま写したものであるという。この若狭から、琵琶湖の真東が湖北地区に当り、美しい十一面観音菩薩像が沢山造られている。湖北の徒岸寺(どうがんじ)には国宝の十一面観音菩薩像が立つ。更に東に進めば、奈良市の法華寺、更に東の桜井市には、日本一美しいと言われる聖林寺の十一面観音菩薩像があり、更に進めば、室生寺の十一面観音菩薩像がある。即ち、若狭ー湖北ー奈良市ー桜井市ー宇陀郡室生の「カンノン・ライン」の曲線上に、日本の十一面観音菩薩像が並ぶのである。朝鮮半島から日本の奈良市や宇陀郡室生への仏像の流れは、湖北を経由することで、カーブで結ぶことが出来るのである。井上靖は「十一面観音」という本の中で、次のように述べている。「私が観音像の中で、特に十一面観音に惹かれるのは、十一の仏面を戴いた姿が美しく、その美しさが抵抗なくこちらに伝わってくるからである。これほどすばらしい王冠はない。(渡岸寺の観音像)美しく、尊く、衆生救済の力を持っている。それからまた、その多くが悩み多き女体の姿を借りていることも、私にとっては大きい魅力がある。十一面の仏面によって超人的な大きな力と、悩み多き女体によって人間的苦悩を、十一面観音像は併せ示しているのである。女体が多いのは、制作者にとっては情勢的表現の方が自然にも思われ、主題追及にも恰好であったからであろう。それから信仰する者の立場から言っても、女体の観音さまの方が親しみやすいことは言うまでもあるまい」

 

(本稿は、図録「びわ湖・長浜のホトケたち  2016年」、図録「びわ湖・長浜のホトケたち  2014年」、吉田さらさ「近江若狭の仏像」、井上靖「十一面観音」、探訪日本の古寺「第5巻  近江・若狭」「第10巻奈良Ⅰ」、井上靖「星と祭」、白洲正子「近江山河抄」、「十一面観音巡礼」を参照した)

石峰寺  若冲終焉の地

 

話題の多かった「生誕300年記念 若冲展」も44万人の見学者を集め、5月24日に終わった。最終の頃は、入場まで4時間待ち、入場後2時間、かつグッズ類は大半が売り切れたとのことであった。異常なブームということもあったが、辻惟雄氏の「奇想の系譜」の中の「この本に登場する六人の画家たちは、当時はみな美術史の脇役だったが、今やかれらの江戸時代絵画史上のスターであり、とりわけ伊籐若冲の人気上昇は異常なほどだ。知らない間に現代の美的好みの方が、どんどんこちらへと接近して来たようなものである」(文庫本あとがき)という記述が、正しい認識かも知れない。さて、今回は6月に京都に行く機会があったため(聚光院創建450年記念公開を見学することが主目的であった)ついでに若冲終焉の地である石峰寺を訪ね、若冲のお墓に詣でる気持ちで、京阪線「深草駅」下車、徒歩5分の場所を訪ねた。朝9時からの石仏開扉であるが、私が8時半に着いた所、お寺の奥様が、気を使って入門を許可されたので、まず若冲の墓前に参詣し、その後、石峰寺の五百羅漢に詣でた。世に五百羅漢と呼ばれているが、釈迦の一生を石仏群で造ったものであった。私が、東京の「椿山荘の美」(2013年11月11日)で取り上げた羅漢石(伊東若冲の下絵による)20体は、この石峰寺から流出したものであった。裕福な家庭に生まれ、凡そ絵画を売却することも無かった若冲に、大変な危機が訪れた。天明8年(1788)1月30日の夜明け前から翌2月1日夕刻にかけて、京都の街は応仁の乱以来と言われる大火事に見舞われた。猛火は洛中全体に燃え広がり、後世まで「天明の大火」として記憶される江戸時代最大の京都の火災となった。若冲73歳の老境であった。市内4ケ所に持っていたアトリエと多数の作品も失った。錦街の2軒の住居も失った。この不慮の災厄により、若冲の生活環境は激変した。生活のために描くという、これまでに全く配慮の必要がなかったことに、彼は初めて直面した。これ以後、西福寺襖絵をはじめ、多くの傑作が生まれることになった。西福寺における制作のあと、若冲は京都へ戻り、石像の制作以来縁の深い石峰寺に偶居したようである。

石峰寺の赤門

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石段を登りつめると赤壁の竜宮造りの門が見える。このお寺は、若冲のお墓があり、かつ五百羅漢像のあるお寺である。9時開門であったが、8時半に着いた所、奥様の計らいで、お墓と五百羅漢像を拝観させて頂いた。

石峰寺の本堂

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卍くずしの勾欄に囲まれた禅風のお寺である。正式には黄檗宗のお寺である。お寺の建築は昭和に入ってからの建築である。

若冲のお墓(石峰寺)                 江戸時代

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若冲は、寛政12年(1800)9月10日に亡くなった。葬儀は石峰寺で行われたと思われ、遺体は同寺に土葬された。「三暇寮日記」10月27日の条には、没後尽七日(四十九日)に当たるこの日、相国寺一山の仮方丈となった鹿苑院で、若冲生前の同寺に対する篤志に報いるべく法要が行われたことが記録されている。若冲のお墓は、相国寺の寿蔵のほか石峰寺にも残る。ここの墓地には、墓石と、筆形の石碑が並んでいる。この墓は、石峰寺の石蔵が文政13年(1830)の大地震によって崩れたので、当主の伊籐清房が、天保4年(1833)修復した。お墓には、相国寺の寿像と同じ「斗米庵若冲居士墓」とあった。

筆塚(石峰寺)          天保4年(1883)  江戸時代

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伊藤家の当主であった清房が、天保4年(1833)に墓の修復と併せて、若冲の遺言により筆形の墓を傍らに造った。所謂、筆塚である。この筆型の石碑の軸の部分には、貫名海屋(ぬきなかいおく)の撰文が刻まれている。海屋に評伝を依頼したものである。伊藤家は、この清房の代あたりまではなお資産を残していたようであるが、その頃から、急速に没落し、慶応3年(1867)遂に家屋敷を町中に売渡して大阪へ去った。その際、伊藤家に伝わった下絵など長持一杯分の若冲関係の資料が、大阪へ運ぶべく委託した運送屋の火災で消失してしまったと伝えられる。

五百羅漢像(釈迦誕生)             江戸時代(18世紀)

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五百羅漢と称しているが、現実には、釈迦の一代記である。この写真は、雨の中で撮ったため、暗いが、釈迦誕生の場面である。

五百羅漢図(托鉢修行)              江戸時代(18世紀)

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この写真は、石峰寺で購入した専門家の写した写真である。全部、専門家の写真を使った方が分かり易いが、五百羅漢という言葉に釣られて、仏殿図の意味が理解されていないようである。

五百羅漢像(涅槃像)               江戸時代(18世紀)

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釈迦涅槃の場面である。一番奥に眠る(横たわる)のが、釈迦の涅槃像である。

虎図  伊藤若冲作   紙本墨色  一幅 石峰寺   江戸時代(18世紀)

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江戸時代に生きた虎を見ることは出来ないため、絵師たちは舶載された毛皮や古画に基づいて虎図を作成した。尾形光琳「竹虎図」に通じるとされるが、似た粉本に基づいて虎図を作成した可能性が高い。若冲が晩年を過ごした石峰寺に伝わった作品で、印の状態より最晩年の作ではないが、深草隠棲後の作例と見られる。

五百羅漢図  伊藤若冲作  紙本墨色  一幅   寛政3年(1791)

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画面を見下ろし遠くを眺めるように構図が工夫されており、画面中央の対角線で空間は区切られ、下半分は羅漢が群れをなして左下方向に波の上を徒水する様子を描いている。画面に署名はなく、右側に「籐汝鈞印」(白文方寸)、「若冲居士」(朱文円印)を押す。実際の五百羅漢像とは、まるで違う図である。構想であろう。

石峰寺  伊藤若冲作  紙本墨色  一幅       寛政3年(1791)

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若冲は遅くとも寛政5年(1793)までに石峰寺門前に移り住み、この地で没した。石峰寺の裏山には、若冲が下絵を描き、制作にかかわった羅漢の石像が残っており、同寺院とは非常に縁が深かった。本図の景色は石峰寺の実景とは異なるが、若冲が思い描いていた石像群の最終予定図とも言われている。裏山には中国西湖のイメージを重ね合せているとも思える。

 

石峰寺は深草にある黄檗宗の寺院で、この裏山には五百羅漢と呼ばれる石像群がある。天明7年(1787)刊の「拾遺都名所図会」に「石像五百羅漢像」が紹介されている。辻惟雄氏の推計によれば、石像群は安永の中頃(1776年頃)から天明の初め(1782年頃)にかけて、すなわち還暦に当たる60歳から66,7歳の頃にかけて、若冲の指揮下に制作されたものである。「図会」では釈迦説法のみを紹介しているが、実は釈迦の、所謂「本生譚」(釈迦一生の物語)を石像を使用して展開したものであるが、全体の構想は天明の大火以後のことらしい。現在、石峰寺で見られる石像は、釈迦の仏伝(釈尊の一代記)の諸場面である。寛政3年(1791)76歳の若冲は、大火後の困窮につき、町内及び相国寺と交わした永代供養の契約を解除している。寛政5年頃(1793)78歳の若冲については、平賀白山が「焦斎筆記」の中で次のように述べている。「今は稲荷街道(伏見街道)に隠居して五百羅漢を建立し、絵一枚を米一斗と定め、後ろの山の中へ自身の下絵の思ひつきにて、羅漢一体づつを建立しぬ。」若冲は妹とその子供と、石峰寺の門前に偶居していたと伝えられるが、最近の研究では、妹ではなく、末弟の荘厳の妻と、その子と同居し、仲睦まじい老夫婦と見られていたようである。

 

(本稿は、図録「生誕300年記念 若冲 2016年」、図録「生誕300年 若冲と蕪村   2015年」、辻惟雄「奇想の系譜」、「若冲」を参照した)

出光美術館開館50周年記念  美の祝典 Ⅳ  伴大納言絵巻

平安時代末期は、日本絵画史上では”絵巻の時代”と呼ばれている。後白河法皇院政期当時には数多くの絵巻が制作されているが、この国宝「伴大納言絵巻」も、その一つである。国宝の「鳥獣戯画」、「源氏物語絵巻」、「信貴山縁起」と共に四大絵巻と称され、現存する絵巻の中では第一級の優品である。史実によれば、貞観8年(866)3月10日の夜、応天門が炎上した。原因は放火とされたが、放火の真犯人は不明のままであった。大宅鷹取(おおやたかとり)という者の告発をきっかけに、事件は時の大納言(だいなごん)・伴善男(とものよしお)らの放火事件という驚くべき決末で一応の落着をみた。しかし、伴大納言の犯行動機が不明であることなど、この事件はいまだに謎に包まれている。当時の資料から、天皇を取り巻く太政大臣、右大臣、左大臣、大納言の政治的対立の構図が事件の背後にあったことが浮かび上がり、今にいたるまで様々に解釈されている。「伴大納言絵巻」は、この事件から約300年経った平安時代末期に制作された絵巻物である。現在「伴大納言絵巻」には、上巻だけ詞書(ことばがき)がなく、何らかの事情で消失してしまったと思われる。しかし、中巻、下巻の詞書とほぼ同じ文章が、説話集「宇治拾遺物語」巻十の最初にある「伴大納言焼応天門事」にあるので、それに従って復元することができる。それによると、絵巻物のストーリーは史実通りではなく、むしろ、人々に語り継がれてきた説話をもとに、面白い脚色が加えられていることが判る。研究者によって、絵巻の筆者は12世紀の宮廷絵師の常盤光永(ときわみつなが)、詞書の筆者は能筆家・藤原教長(のりなが)(1109~1180)とする考えが一部に定着している。

国宝 伴大納言絵巻 上巻 「事の川下でパニック状態の人々」 平安時代

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検非違使の一行が太刀を手にして劇的に始まる。騒ぎを聞きつけた野次馬たちが疾走している。直衣姿で脇目もふらずに馬を走らせる公卿、草履を手に疾走する僧侶。僧侶の前には火の粉が見える。どうやら前方が火事らしいと逆走する男もいる。

国宝 伴大納言絵巻 上巻  「応天門炎上」       平安時代

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今まさに焼け落ちる寸前の応天門であり、日本の絵画における三大火焔表現と呼ばれる。朱、丹、橙を巧みに使い分けて、炎の温度の違いまで見事に表している。

国宝 伴大納言絵巻 上巻 「風上の会昌門に集まる人々」  平安時代

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壮絶な火事場を挟んで、こちら側は川上側である。大内裏の内側に集まるのは、官人(貴族)たちである。応天門から離れた会昌門では、火事場の緊張感はそれほどはない。笑いながら手をかざす者や、火事場に完全に背を向けて談義にふける高位の官人。いずれも会昌門に立っている。波打つ風下の群集との対立的な表現に、絵師の優れた構成力が感じられる。

国宝  伴大納言絵巻  中巻  「無罪を訴える源信」    平安時代

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木立の間に荒筵を敷いて座り、天道に自らの無実を一心不乱に訴える源信。突然に降りかかった冤罪に、怒り、恐怖、むなしさのすべてが一緒くたになって、ただ祈ることしかできないでいる。その姿には左大臣としての自信はない。わなないているようなその両肩には切実な気持ちが滲み出ている。

国宝  伴大納言絵巻  中巻  「家人たち」      平安時代

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駆けこんできた家人たちを見て、いよいよ逮捕の時が来たと騒ぐ源信家の女房たち。手を摺り合わせて嗚咽をこらえる者。しかし、使者は放免を知らせに来たことが伝わると、一転喜びに包まれる。画面の左方に視点が移るに従って、女房たちの表情が嬉し泣きに変わってゆく。奥の部屋にいるのは奥方とこどもであろう。年端もいかない子を抱き寄せながら安堵の涙に暮れている。

国宝  伴大納言絵巻 中巻  「子供のけんか」     平安時代

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七条通りで始まった子供同士のとっくみあいの喧嘩。その左側から片方の子供の父親が血相を変えて走り寄っている。同じ画面の手前では、相手の子どもを殺さんばかりに蹴飛ばす父親と、父親を楯ににしながら喧嘩でむしり取った髪の毛を掲げて勝ち誇る子ども。その斜め上は子どもをたしなめながら家に連れて帰る出納の妻。異時同図法を用いて円環状に時間をすすめながら、その周囲に喧嘩に足を止めた貴顕さまざまな人々の感情をリアルに描く。

国宝  伴大納言絵巻  中巻 「喧嘩の内容」       平安時代

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この隣に住む子ども同士のありふれた喧嘩が、まさかの事態を引き起こす。蹴飛ばした父親は伴大納言に仕える出納(しゅつのう)。蹴飛ばされた子どもの親は、放火事件の目撃者の舎人(とねり)だったのだ。あまりの悔しさに、舎人は目撃したことを暴露してしまう。大声で叫ぶ舎人夫婦の周囲には霞がたなびき、その先には両手を組みながら自慢げに話す男。またたく間にうわさは広がってゆく様子が視覚的に工夫されている。

国宝  伴大納言絵巻  下巻 「逮捕に向かう検非違使」   平安時代

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この噂が広がり、ついに伴大納言に逮捕状が下された。この逮捕のため、伴邸に向かう検非違使の一行。この一行の物々しさは、事件の重大さを物語っている。

国宝  伴大納言絵巻  下巻 「悲しみに暮れる伴邸の女房たち」 平安時代

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主人のいなくなった伴邸。二つの枕だけが残された夫妻の寝所では、衾を引き被る夫人の黒髪が覗く。ひっくり返って天に手を差し伸べる者、涙をぬぐうことも忘れて号泣する者。用意された朝食にも箸をつけようとする者はいない。御簾にすがって泣くまだ幼そうな女房。その横では年配の女房が茫然と座り込む。残された彼女たちの究極の悲しみと絶望感の描写に、鑑賞者は伴大納言が逮捕されたことを知るのである。

国宝  伴大納言絵巻  下巻 「見送る家人たち」    平安時代

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主人が連れ去られてゆくのを門のところで見送る家人たち。門の扉に手をかけて体を支える者、力なく座り込む者など、家人たちの悲しみは想像を絶する。重い現場とは対極的にただひたすら美しい木立の描写は、伴大納言への同情を誘っているかのようである。

国宝  伴唾納言絵巻  下巻 「伴大納言を連行する検非違使」  平安時代

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伴大納言を連行する検非違使の一行。逮捕された伴大納言は、八葉車に後ろ向きに座らされている。肩から下の左半身だけ覗き、その表情はうかがい知ることは出来ない。楕円形に描かれた車輪は、車輪が回転し、車が確実に前進していることを表している。事件は一気に収束し、伴大納言の野望はここについえてしまったのである。

 

国宝「伴大納言絵巻」が公開されたのは10年前であった。随分混雑した記憶があるが、今回は3回に分けて公開したため、さほど混雑はしなかった。国宝絵巻を3回に分けて公開する事例は少ない。お蔭で、この物語を3回読むことになり、伴大納言絵巻が、1千年前の物語ではなく、ごく最近の出来事のように感じるようになった。この絵巻の伝承は、次のような経緯である。絵巻は後崇光院(1372~1456)の「看聞御記」(かんもんぎょき)という日記にもっとも早く登場する。そこには、嘉吉元年(1441)4月26日の条に、当時絵巻は若狭国松永荘(まつながのしょう)の新八幡神社に「彦火々出見尊絵巻(ひこははでのみことえまき)」二巻と「吉備大臣入唐絵巻(きびのおとどにっとうえまき)(ボストン美術館)一巻と共にあり、なかなか見事な出来であることから、これら四巻を後花園天皇にご覧に入れたと記されている。これ以来の伝来は、小浜藩主酒井忠勝に関する記事の中に、松永荘から忠勝に献上したのち、酒井家の家臣の所蔵となり場外持出を禁じたことが出てくる。その後、寛政の内裏造営にあたって設計の参考として提出して以来、再び酒井家の所有となり、「吉備大臣入唐絵巻」とともに伝来してきた。昭和56年(1981)に出光美術館の所蔵となってからは、度々の公開と研究が進められてきた。

 

(本稿は、図録「出光美術館開館50周年記念 美の祝典」、図録「国宝 伴大納言絵巻」を参照した)

 

出光美術館開館50周年記念 美の祝典 Ⅲ 江戸絵画の華やぎ

日本絵画史上、大きな飛躍を遂げたのは江戸時代である。多彩な表現が確立し、公家と武家が拠点を東西に分かっ中、画家たちの世界はその双方を往来することによって互いに目覚ましい発展を遂げた。この時代を牽引したのは狩野派、琳派、そして浮世絵といった諸派の画家たちであった。桃山時代から江戸後期にいたるまで、社会的な階層を超えて、さまざまな輝かしい活躍をみせた名立たる画家たちの優品が、それぞれの美しさを見せてくれた。なお、写真の入手できるものが琳派に偏ってきらいがあるが、それは筆者の好みと理解して頂いて結構である。(7月18日まで)

南蛮屏風 六曲一双(左隻の一部)  紙本着色   桃山時代(16世紀)

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南蛮船、すなわちポルトガルやスペインからの船が日本の港に来航した情景を描くものである。本図は、左隻の沖合に停泊した南蛮船よりさまざまな積荷が陸へと運ばれる様が描き出されている。およそ、南蛮屏風は、日本に百点程存在すると言われるが、実際にどのような出来事が主題とするかは不明である。天正19年(1592)にポルトガル使節一行が京都をパレーどを行い、豊臣秀吉の歓待を受けたことが知られるほか、文禄元年(1592)の秀吉の肥前名護屋城築城に当たった、襖絵制作のために狩野光信一門の者が長崎で南蛮船入港を見て、その光景を描いたのが最初であるかも知れない。正に大航海時代の幕開けの時代であった。現存の南蛮屏風は、後の京都や名護屋で起こった南蛮ブームの高まりのなかで制作されたものと考えるのが適当であろう。また、数々の珍しい品々をもたらしす南蛮船は宝船にも見立てられ、招福趣味のなかで考案されたとも推測される。金雲で画面の上下を分断して二画面を構成する手法は、狩野派の絵師によるものと推測される。

重要文化財 更衣美人図  喜多川歌麿作 絹本着色  江戸時代(18世紀)

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寛政4年(1792)に、勝川春章(1723~92)が世を去ったのち、まさにこれと入れ替わるようにして浮世絵美人画界に登場したのが喜多川歌麿だった。寛政4,5年頃、いわゆる大首絵の形式を美人画にはじめて導入したことに象徴されるように、歌麿の功績は、描かれた人物の生々しいばかりの実在感を、鮮烈に訴えかけることである。この作品が歌麿の中で、最も成功した事例であろう。

伊勢物語 武蔵野図色紙  俵谷宗達作  紙本着色  江戸時代(17世紀)

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「伊勢物語」は、在原業平と目される男を主人公とする歌物語である。主人公の男は、ある人の娘とともに武蔵野へ逃げるが、追手が真近に迫ってくる。男は草むらに女を隠して逃げるが、追手は男女が潜む野に火をつけようとする。宗達(生没年不詳、17世紀活躍した画家)は、自らが主宰する工房の絵師たちを動員し「伊勢物語」に取材する絵画の制作を行った。本図は、現在59面が伝わる色紙型の作品群の1枚である。

蓮華絵百人一首和歌断簡 書 本阿弥光悦 下絵俵谷宗達 江戸時代(17世紀)

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俵谷宗達が下絵を描き、そこに本阿弥光悦(1558~1637)が和歌をしたためた巻子装の作品は、「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」をはじめ多数が知られている。この作品もこうした作例と同様、もともとは全長25メートルに及ぶ長巻であったが、関東大震災によってその半分以上が焼失したため、残りの部分が断簡として軸装に改められ、各所に分蔵されることとなった。本作品では、金泥でもって蓮の葉を真上からとらえた斬新な構図で描き、そこに三首の歌が書かれている。輪郭線を用いず、水気をたっぷり含んだ金泥に滲ませながら描かれた蓮の葉の描写は、宗達の水墨画の代表作「蓮池水禽図」にも通じる表現を見せている。

八橋図屏風(部分)絹本金地着色 六曲一双 酒井抱一作 江戸時代(19世紀)

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「伊勢物語」第九段東下りの場面を主題として、燕小花と八橋を描いたものである。絹地に貼った金箔に明るい絵具で表した燕小花が、ほがらかに画面を作りだしている。尾形光琳の描いた「八橋図屏風」(メトロポリタン美術館蔵)を忠実に倣って描いている。しかし、橋杭や橋桁の向きを変えたり、光琳画の燕小花の花群を減らし整理し空間を広げ、花の色も明るくして画面全体を柔らかな光に満ちたものへと変奏している。姫路藩主酒井忠以(ただざね)の弟として江戸に生まれた酒井抱一(1761~1828)は、能や茶のほか俳諧、狂歌に親しみ,さらには遊里での遊びにも長けていた。さまざまな文芸のなかで、絵については狩野派をはじめ、浮世絵や京都で興隆した写生画など、多くの流派を学び手中にした。出家した後、自ら光琳の百年忌法要を営み、「光琳百図」を出版するなど、光琳顕彰に力を注いだ。さらに抱一は、光琳の「風神雷神図」の裏面に「夏秋草図屏風」を描くなど、光琳への深い敬慕が込められた作品を数多く描いている。しかし、抱一は光琳の画風をそのまま継承したわけではなく、俳味や機知に富んだ、光琳が創りだした京都のものとは一風違った琳派の画風を江戸の地において、造り上げたのである。

紅梅図屏風 酒井抱一作 紙本銀地着色 六曲一双  江戸時代(19世紀)

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紅白の梅を対として左右の銀屏風に描いた。もともとこの屏風は、裏絵の屏風であった。つまり表となる作品の裏に描かれた銀屏風であったのである。光琳の「風神雷神図」と抱一の「夏秋草図屏風」の関係がすぐに想起されるが、表絵が誰の作品であったかは分からない。やはり光琳の金屏風であったのではなかろうか。紅梅はごつごつした樹皮に包まれ、強く曲がった幹が老木を、白梅のしなやかに伸びてしなう枝先が若樹を想起させるとも言われる。色と老若の対比を意図した抱一の個性を主張する大作である。銀色の屏風は珍しいが、燦然たる絵であり、琳派を代表する傑作であると思う。

四季花木図屏風 鈴木其一作 絹本金地着色  六曲一双 江戸時代(19世紀)

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画面全体を埋めた金箔地に根元を強調した楓の下部分が置かれ、満開の桜を色鮮やかに捉えている。左の楓の木が右に描かれた上部分だけの桜へと迫ってくるかのように配置されている。たらしこみによる滲みの効果を生かして描かれた楓の幹に青々とした葉をつけた春の景色である。本来、秋の景色に登場する楓であるが、青葉として描かれたために、型で描いたように正面を向いて密集する桜花の季節がいっおう強調されている。絵は春の盛りであるが、桜の葉が枯れる頃、左方の楓葉は色付き、鮮やかな朱の葉となることを見る人に思い起こさせることを、作者其一が想定しているという魅力的な意見がある。これも江戸琳派を代表する傑作である。

風神雷神図屏風 酒井抱一作  紙本金地着色 二曲一双 江戸時代(19世紀)

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右隻には、風袋を両手に持ち、天上より舞い降りる風神。大きく見えを切って今まさに雷を落とそうとする雷神。kのユニークな図様が、宗達の代表作「国宝 風神雷神図屏風」(建仁寺)を源としていることは広く知られている。風神・雷神は古くからそのイメージが見られ、三十三間堂の彫像や、「北野天神縁起絵巻」(弘安本系)の清涼殿落雷の場面における雷神、また「長谷寺縁起絵巻」にも風神・雷神の姿が描かれ、その造形は人々になじみ深いものである。あまつさえ金地の空間に描くなどという前例は見当たらず、この点に宗達のずば抜けたオリジナリティーを見て取ることが出来る。本図は、光琳が宗達本を模写した「風神雷神図屏風」(東京国立博物館蔵)を抱一が転写したものである。抱一が出版した「光琳百図後編」の最終頁には、抱一が実見した光琳本「風神雷神図」が掲載されている。先行する宗達本・光琳本と比較すると、描線は簡略化され、色彩も明るいものになっている。また風神・雷神の面貌もこころなしか滑稽さが増しており、全体的に軽みのある平明な表現が抱一本の特徴と言えよう。琳派の「風神雷神図」は軸装や、扇面など様々な作品がある。

 

予想通り大半の記事が琳派の絵画になった。これは必ずしも私個人の好みだけでは無いと思うことが間々ある。例えば、先に開かれた伊勢・志摩サミットの昼飯の会場では、向って左側のガラス面は、この八ッ橋図屏風(実際は、酒井抱一画ではなく、多分尾形光琳の八ッ橋図屏風{メトロポリタン美術館蔵}だと思う)が大きく描かれた画面が写っていた。また、国宝 迎賓館 赤坂離宮でも「朝日の間」には尾形光琳のカキツバタの模写が展示されていた。「彩鸞の間」では、尾形光琳のキリシマツツジ絵の模写、酒井抱一の桜・山鳥の絵の模写が展示されていた。明治の昔から、今日まで、日本の美の代表選手は、琳派であったのである。今回の展示は酒井抱一、鈴木其一が多かったが、酒井抱一の金地の「風神雷神図屏風」と鈴木其一の銀地の「紅梅梅図屏風」の対比は、正にこの展覧会の最大の見所であった。

 

(本稿は、図録「出光美術館開館50周年記念 美の祝典」、図録「物語絵 2015年」、図録「大琳派展 2008年」、日経大人のOFF2016年1月号)を参照した)

天正遣欧少年使節   伊東マンショの肖像

今年は日伊国交樹立150周年に当たる記念すべき年である。日本とイタリアを結ぶ最初の架け橋であった天正遣欧少年使節のひとり、伊東マンショ(1569頃~1612)を描いた肖像画が世界で初めて、東京国立博物館で公開されることになった。歴史書の上で、天正遣欧少年使節の存在は知っていたが、まさかこのような素晴らしい肖像画が、イタリアに伝わっていたことは、初めて知った。天正10年(1582)、九州の3人のキリシタン大名の名代として、伊東マンショら4人の少年を中心とする天正遣欧使節が長崎を出航した。彼らは中国、インド、ポルトガル、スペインを経て、ルネサンス期のイタリアの地を踏んだ。フィレンツェ、ローマ、ヴェネツィアなどの主要都市で歓迎を受け、ローマ教皇グレゴリウス13世との謁見式や華やかな舞踏会に参列し、天正18年(1590)4人揃って帰国した。それから400年以上を経た平成26年(2014)3月、ミラノのトリヴルツィオ財団が発表したドメニコ・ティントレット(1560~1635)筆「伊東マンショの肖像」の存在は、使節団が16世紀のヴェネツィアで公式に歓待された事実と、これまで文献でのみ確認されていたティントレットによる油彩肖像画の存在とを裏付ける、歴史的な発見となった。この展覧会では、使節団の動向を速報するために出版された「天正遣欧使節記」(重要文化財)や、博物館が保有するキリシタン資料からイタリアに関連する作品を併せて展示し、16~18世紀にキリスト教を通して交流した日本とイタリアの姿を見ることが出来る。尚、展覧会は7月10日までで、この機会を逃がすと、この肖像画には2度と見られない恐れもある。

伊東マンショの肖像  ドメニコ・ティンレッド作 カンヴァス・油彩 1585年

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1585年、使節団がヴェネツィア共和国を訪問した際、歓待した共和国元老院がルネサンス期ヴェネツィアの大画家ヤコボ・テンントレット(1519~94)に使節の肖像画を発注したことは、これまでも同時代の文献から知られていた。今回、発見された「伊東マンショの肖像」は、その記録を裏付けるものである。ヤコボは当初、より大きな集団肖像画として本作品の制作を始め、没後、工房に残された絵を息子ドメニコが切り詰めて単独の肖像画として完成させた、あるいは個別に制作した肖像画のうち唯一ほぼ仕上がっていた「伊東マンショの肖像」をさらに切り詰めて完成させたとみられる。この絵はイタリアのミラノ、トリヴルツィオ財団の所蔵に関わるもので、展覧会後返却されるものである。大きさは54.0×43.0cmと小作であるが、色、形は極めて明細である。

天正遣欧少年使節の行程図

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1582年10月5日、グレゴリオ13世新暦交付により、10月15日に定められる。使節団はゴア以降、新暦を採用。長崎ーマカオーゴアーリスボンを経由していることが、上の図で判る。

重要文化財  天正遣欧使節記  1冊活字本  イタリア、レッジオ刊行

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イタリア現地での歓待振りを刊行した冊子で、イタリア語で書かれている。東京国立博物館蔵。

重要文化財  三聖人像   外国人宣教師による舶来品

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ロザリオを持つ聖母子が描かれる破風付きの古代的な建物の中に、三聖人が描かれている。その持物から、中央が聖ラウレンティウス、右がシェナの聖カタリナ、左がドミニカあるいはパドヴァの聖アントニウスと判る。当時日本には無い麻製で絵画技術が高いことから、外国人宣教師による舶来品と見られる。

重要文化財  三聖人   日本人による模写

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セミナリョで西洋絵画技法を学んだ日本人による模写と考えられる。九州各地のセミナリョでは、天正11年(1583)に来日したイタリア、ナポリ出身の修道士ジョヴァンニ・ニコラオ(1560~1626)が日本人の少年たちに絵画、銅版画を教えていた。キリスト教禁制前の日本では、ルネサンス期の絵画技法が学ばれていたのである。

重要文化財 聖母像(親指のマリア) 1面 銅板・油彩 イタリア17世紀後半

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この聖母像は、江戸時代のキリスト教禁制下に、イタリア人宣教師ジョバンニ・バチィスタ・シドッチ(1667~1714)が携行したものである。青のマントに身を包む憂いに満ちた聖母の姿は、17世紀にフィレンツェで活躍した宗教画家カルロ・ドルチ(1616~87)が描いた聖母像に酷似している。シドッチを訊問した幕府高官で学者の新井白石(1657~1725)の記録によれば、シドッチはシチリア島バレルモ出身である。日本の風俗、言語を学んで、宝永5年(1798)、和服で屋久島に潜入したところを捕えられた。日本での布教を再開する使命を負って来日したが、江戸・小石川の切支丹屋敷に幽閉され、正徳4年(1714)に47歳で没した。平成26年(2014)、その屋敷跡からシドッチと見られる手厚く葬られた遺骨が出土している。「市塵」という小説の中で、新井白石がシドッチを訊問する箇所が出てくる。それによれば、長崎奉行所からの目録には「ビイドロ鏡」とされた物は、「ビイドロを嵌めた木の枠にいれた画像で、鏡のような物というのはビイドロの外見に気を取られた見方だろう。画像は頭に衣をかぶった西洋の女人像だった。白石は持って来た目録と照らし合わせた。サンタマリアと申す宗門の本尊の由、申し候と書いてある。」「白石はサンタマリアの像の前に戻った。若くはない、齢のころ四十近いかと思われるほどの女子の横顔だった。白石の気持ちを惹きつけたのは、鼻の高いその顔に現れているいかにもうれわしげな表情である。着けているものは白で、頭にかぶった布は藍色だった。」(藤沢周平「市塵」)この聖母像を巧みに表現している。シドッチと白石の問答からも、文化的背景や立場の異なるふたりが言葉の壁を越えてお互いを尊敬しあう姿が浮かび上がってくる。だから白石は、シドッチを死刑にしないで、小石川の切支丹屋敷に幽閉という形で、生かしたのであろう。

 

この「天正遣欧少年使節 伊東マンショの肖像」は、私に取っては思いがけない収獲であった。このような展示会が行われていることは全く知らず、「ほほえみの御仏」と「法隆寺宝物館」を見学する目的で、上野博物館で行ったところ、垂れ幕で、この「伊東マンショ」の展示会を知った次第である。かねがね興味のある話題であったので、絶好のチャンスと思って見学した。思いがけないイタリアに関する重要文化財4点と、シドッチ関連の解説を読んで、藤沢周平の「市塵」を懐かしく思い出した次第である。天正遣欧少年使節については、日本歴史の上で、ある程度承知していたが、改めて読み直してみた。天正10年(1582)、有馬(長崎県島原地区)のセミナリオ(初唐教育機関)の少年4人が九州のキリシタン大名の名代として長崎からヨーロッパへ向かったのである。正使は豊後の大友宗麟(1530~87)の名代・伊東マンショ(主席)、肥前の大村純忠(1533~87)、有馬晴信(1567~1612)の名代・千々石ミゲロ、福使は肥前から原マルチノ、中浦ジュリアンで、いずれも13歳前後であったという。この壮大な計画を立てたのは、イタリア・キェーティ出身のイエズス会巡察師のアレッサドロ・ヴァリニャーノであった。目的は日本での布教の状況を教皇や君主たちへ知らせ、日本の教会への資金援助を求めることと、帰国後に使節らがヨーロッパでの見聞を普及させることが大きな目的であった。ところが天正15年(1587)の豊臣秀吉による伴天連追放令、慶長9年(1614)の徳川家康によるキリスト教禁止命令によって日本におけるキリシタンの状況は一変した、4人は天正18年(1590)にそろって帰国したが、その後の人生はさまざまであった。肖像画の像主・伊東マンショ(1569頃~1612)は、天正8年(1580)洗礼を受け、「マンショ」を名乗ると、有馬に設立したイエズス会のセミナリョに入会した。秀吉と聚楽第(じゅらくだい)で謁見し、秀吉の覚えも良く、仕官を進められたことが知られている。

 

(本稿は、図録「伊東マンショの肖像」、藤沢周平「市塵」、日本の歴史・林屋辰三郎「第12巻天下統一」を参照した)

 

ほほえみの御仏展  二つの半跏思惟像

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東京国立博物館で「ほほえみの御仏」展が7月10日まで開催されている。今年は、日韓国交正常化50周年に当たり、両国の友好関係を構築していく上で、貴重な年に当たり、日韓両国の文化交流の一層の発展を図るために企画されたものである。この展覧会は日韓両国の代表的な半跏思惟像(はんかしゆいぞう)を1体ずつ選び、それらを両国において一緒に展示することにより、互いの文化を広く両国民に観覧してもらい、両国の友好と絆を更に深める一つの契機になればとの思いからである。朝鮮国立中央博物館が所蔵する「国宝78号像」は、韓国の至宝として広く親しまれたものである。日本からは、奈良中宮寺門跡に伝わる国宝の半跏思惟像ーまさに日本を代表する御仏であるーを展示するものである。すでに韓国の国立中央博物館で5月24日から6月12日まで展示され、期間中に4万5千人の観客があったそうである。2つの半跏思惟像が並ぶのは、初めての試みである。中宮寺の半跏思惟像が、海外で展示されるのは初めてである。韓国文化体育観光省は「古代韓日文化交流の産物である半跏思惟像の出会いが両国関係の新たな未来につながることを期待する」と表明している。」私も、日韓関係の正常化に繋がる試みとして、大いに期待したい。

国宝  半跏思惟像   木造、彩色  奈良・中宮寺  飛鳥時代(7世紀)

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左足を踏み下げ、右足をその膝の上に組んで丸椅子状の座具に座り、右手を頬に添えて思惟(思案)している。厳密には片足をもう一方の足の上に組んで座ることを半跏と言うが、半跏思惟像と言う場合には、このように片足を踏み下げる姿をいうのが普通である。頭頂の二つの球形は結った髪で、両肩から腕に垂れているのも髪である。やや面長で頬はふっくらとし、伏し目で微笑(ほほえ)みを浮かべる優しい表情をしている。現在、像の表面は黒光りしているが、肉身部の一部に肌色が残っていて、本来はより肌の柔らかさが強調された表現であったことがわかる。飛鳥時代の木彫仏に一般的なクスノキが使われているが、材を複雑に組み合わせるのは、この像の特徴である。和辻哲郎や亀井勝一郎が、実に美しい言葉で語った中宮寺の半跏思惟像(お寺では如意輪観音像と呼ぶ)は、日本の至宝である。

韓国国宝78号  半跏思惟像  銅像・鍍金    三国時代(6世紀)

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右手の指先を頬に添え、右脚を組んで座る半跏思惟像である。その名称には諸説があるが、朝鮮半島では特に信仰が盛んであった弥勒菩薩(みろくぼさつ)としてくくられたものが多いと見られる。目元を伏せつつうつむいた姿は、人々の救済を願いながら瞑想する様子を表すものであろう。頭と手足が大きく、なめらかにすっきりとした体躯の表現、線刻による波紋状の衣の襞(ひだ)といった特徴は、三国時代(高句麗、百済、新羅)の6世紀後半に流行するスタイルであるが、日本では飛鳥時代、7世紀の金銅仏に承継される特色であり、超越者である仏の気品にあふれる姿で表現することに成功している。銅造に鍍金(金メッキ)を施した金銅仏としては大型に属するが、近年、韓国国立中央博物館が実施した科学分析によって、頭と体、左足の小蓮華と三分割して原型をつくることで、5mm前後という均一な銅厚を維持できる慶尚北道出土との伝承があるものの、製作地の確定には至っていない。洗練された造形や高度な鋳造技術から、王室の関与する造佛であったと推測される。最新の研究では、高句麗(こうくり)の仏像とする意見が出ている。(展示されたのは、この2体のみである)

重要文化財 菩薩半跏像 銅像鍍金(法隆寺小金銅佛)   飛鳥時代(7世紀)

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法隆寺宝物館(東京国立博物館内)に納められた小金銅仏の一つである。現在は、すべての小金銅仏が重要文化財に指定されているが、本像は1990年代には重要文化財に指定されていた。指先を頬に添えて、物思いにふけった姿で表される像を、半跏思惟像と呼び、法隆寺宝物館の四十八体佛の中に9体含まれている。内1体は朝鮮伝来の菩薩半跏像で、三国時代の6~7世紀作とされる。後の8体は日本国内制作である。この姿は、インドや中国でも、釈迦の出家前の姿である悉達太子(しつたるたいし)や、釈迦あるいは弥勒の脇侍などとして造られている。三国時代の朝鮮半島では、弥勒菩薩がこの姿で表されるが、それには貴族の間で盛行した弥勒信仰の象徴的意味合いがあったものと思われる。日本における半跏思惟像の造像は、朝鮮半島の影響が大きかったと考えられている。

重要文化財  菩薩半跏像 銅像鍍金(法隆寺小金銅仏) 飛鳥時代(7世紀)

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私は、1996年に開催された「特別展 法隆寺献納宝物」で見た物であり、現在は東京国立博物館の「法隆寺宝物館」に常時展示されている。何時もは殆ど見学する人もいないが、流石に「ほほえみの御仏」展の後だけに、多数の人達が見学に来ていた。小金銅佛はすべて重要文化財に指定され、この仏像は、前は「白鳳仏」と記されていたが、現在はすべて飛鳥時代と表記されている。(私は、この表記の変更を見て、東博の仏像鑑定眼を疑っている。私自身は、すべて飛鳥佛とみていたが、権威が白鳳仏と言い張るので、やむを得ず、「東博は白鳳仏とするが、私見では飛鳥佛」などと書いていた)今回の展覧会に合わせて、これら半跏思惟像は、一番奥の部屋にまとめて9体陳列されていた。多分、半跏思惟像を求めて来られる来館者のために特別陳列したものであろう。

韓国国宝83号  半跏思惟像  三国時代(7世紀?) 朝鮮国立中央博物館

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国宝78号と双璧をなす、三国時代に制作された韓国を代表する半跏思惟像である。二つの像には、造形的な面で明確な差がある。最も大きな差は、頭に戴く宝冠の形状である。国宝83号像のそれは低く、三つの山型を持つことから三山冠または蓮華冠と呼ばれる。国宝78号と異なり、上半身にはまったく衣服をまとわず、シンプルな胸飾りのみを着けている。簡潔ながらバランスの取れた身体、立体的で、自然に表現される衣の襞(ひだ)、はっきりとした目鼻立ちから6世紀後半に制作された78号像よりも少し遅れて7世紀前半に制作されたものと考えられる。また、国宝83号像は大きさが93.5cmと、金銅の半跏思惟像のなかで最も大きいもので、かつ京都の広隆寺の木造半跏思惟像と非常に似ており、韓国仏像の古代日本への伝来と関連して注目される重要な作品である。制作地は不明である。(広隆寺の木造半跏思惟像は日本で造られたが、作者は、渡来人であると私は考えている)

金銅弥勒菩薩半跏像 銅像・鍍金 統一新羅時代(668年以降)国立中央博物館

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この像は明確に弥勒菩薩像として伝わっている。弥勒菩薩(みろくぼさつ)は、インド語で「マイトリア」という。滋氏(じし)と訳し滋氏菩薩という。この菩薩は釈迦の補処(ほしょう)の菩薩とされ、釈尊没後56億7千万年後この世に下生(げしょう)し、第二の釈迦として竜崋樹下で説法し群集をして仏道を成さしむと言う。しかし、今兜率天(とそつてん)上にあって修行の最中であるという。よってその尊像は菩薩の形姿ではあるが思惟の姿勢をなし、却は左足を下げて半跏につくる。朝鮮半島では広く信仰を集めたが、日本では観音菩薩と並んで仏教渡来当初の飛鳥時代より信仰されたが、奈良時代以降その信仰が衰え、従って造像も少なくなった。

 

日本に仏教が伝わったのは欽明天皇13年(552)(日本書記説)で、金銅の釈迦如来像や経典などが朝鮮半島の百済(くだら)よりもたらされたと「日本書記」に書かれている。(異説あり)その時、欽明天皇は、仏の姿は今まで見たことがないほど厳かであると語っている。(書記によれば、次のような天皇の言葉を伝えている。「西蛮(にしのくに)の献(たてまつれ)る仏の相貌(みかお)端厳(きらきらし)く、全(あわ)ら未だにかって看(み)ず。禮(いやま)ふべきか以不(いな)や」。現在その像は伝わっていないが、奈良・法隆寺伝来の四十八体佛の中にある、同時代に朝鮮半島でつくられた作品が参考になるだろう。金銅仏を初めて見た人は、鍍金(金メッキ)されて光り輝き、厳かで神々しいと感じたことであろう。この半跏思惟像の姿はインドで生まれて、中国、朝鮮半島を経て、日本に伝わった。中国では半跏思惟像はおもに出家前の釈迦を現わすことが多かったようであるが、朝鮮半島では6,7世紀頃に盛んであった弥勒信仰と結びついて弥勒菩薩として造られたものである。日本の半跏思惟像は、朝鮮半島の影響を受けて造られ、作品に記された銘や資料から多くは弥勒菩薩と考えられる。中宮寺の半跏思惟像も、いま如意輪観音像としてまつられているが、弥勒菩薩として造られた可能性がある。日本では半跏思惟像は決して多くないが、京都の広隆寺にも、国宝に指定される2体がある。半跏思惟像に日本を代表する名品があるのは、高い技術力を持った仏師が選ばれたせいではないかと思われる。半跏思惟像が流行したのは、仏像の表現を人々が真剣に求めた時代であったということも理由の一つであったはずである。

 

(本稿は、図録「ほほえみの御仏」、図録「韓国古代文化展  1983年」、図録「特別展 法隆寺献納宝物展  1996年」、石田茂作「仏教美術の基本」、ハンリム出版社「韓国の歴史」、日本経済新聞 「2016年5月24日号」を参照した)