畠山記念館  茶の湯のことはじめ

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畠山記念館は、お茶道具の優れた所蔵品を有する個人博物館である。何時もの常客は、お茶を嗜むご婦人方が多い。今回も、常連客が多いが、その中に混じって中学生、高校生がいたのが目立った。チラシには「これからお茶の湯に触れたい方 茶の湯は少し敷居が高そうと感じていらっしゃる方におすすめ」と書いている。そういう意味では、あまり行く気がしない展覧会であったが、思いがけない名品の数々が展示されており、満足感の高い展覧会であった。中学生や高校生は、夏休みの自由研究のテーマに「お茶の湯研究」を取り上げたのであろう。熱心にメモを執る風景が何時もの展覧会とは異なっていた。(7月30日より9月11日まで)

赤楽茶碗 銘 早船  楽長次郎作         桃山時代(16世紀)

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初代長次郎の赤楽茶碗である。長次郎七種に数えられる赤楽茶碗では、これが現存する唯一である。この茶碗は薄造りで、口縁はやや内に抱え込み、胴はまっすぐで、腰のあたりは丸みを帯び、小さな高台が付いている。口縁から腰回りまで長い貫入があり、黒漆の繕いを施している。赤土の素地に黄身を帯びた赭釉が掛り、潤いのある艶を見せる一方、高台際は直接火を受けたかのように見える。胴から高台に向かって、山形に青鼠色の釉が流れて独特の景色をなしている。「早船」の銘は添状に見えるように、利休が茶会で細川三斎らに質問を受けた際、高麗から早船で取り寄せた、と答えたとされることに因む。内箱蓋表貼紙「者やふ年」(はやふね)利休、内箱蓋裏貼紙「此書付利休自筆」、中箱蓋表貼紙「早舟」(竹倉竹翁)付属文書として、利休書状が有る。利休が、最も愛した茶碗として名高い。赤楽茶碗として、一度見てみたい作品であり、感激した。

禾目天目茶碗(のぎめてんもくちゃわん)    南宋時代(12~13世紀)

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禾目天目は、窯変によって黒釉地に銀色が発色し細長い線が走っているのを、稲の禾に見立てたことから言う。この茶碗は、「ゆてきてんもく」と箱書きにあるように、油滴天目として伝来する茶碗であるが、油滴班は流下して禾目状の斑文が現れており、むしろ禾目と分類するのが妥当であろう。おそらく禾目より格の高いものとされた油滴に見立てられたものと考えられる。口縁下をわずかに締め、口縁を端反りにした天目形であるが、胴から腰にかけてやや丸みがある。口にかけられた覆輪は金である。これも優品であり、一度是非拝見したい作品であった。

雨漏手堅手茶碗(あまもりかたでちゃわん)       李朝時代(16世紀)

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雨漏は、使用する間に釉肌に生じた雨漏りに似た滲みのある景色を特色とするが、雨漏堅手は特に磁胎のものを指している。たっぷりとした碗型の茶碗で、竹節状に削り込まれた高台は褐土の土味を見せ、高台内にくっきりと兜巾が目立つ。見込みは深く、目跡が四つ見られる。全体に失透性の卵殻色の釉が厚くかかり、粗い貫入を生じている。請来された高麗茶碗が雨漏の特徴を持つに至る年月と伝来の現れであり、これを尊んだ茶人たちの審美眼が想起される。鴻池家に伝来したものである。

黒楽茶碗  馬(ば)たらい  楽一入作    江戸時代(17世紀)

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楽焼の天形的な型の一つである平茶碗で、その形を馬の餌桶にたとえて「馬たらい」と呼ばれるものである。胴部を少し絞り、口縁は僅かに内側に寄せている。見込は鏡をつけ、高台と高台脇は一部黒釉が掛るが土見で、削り出した箆目がはっきりと残る。高台内にはよく削り込まれ、渦巻状の兜巾を付けている。一入の特徴とされる朱釉が内にも外にも見られる。全体に釉腐に巣穴が生じており、光沢の少ない侘びた趣をもつ茶碗となった。楽一入は、楽家四代一入(1640~1696)で、父の道入(ノンコウ)が光悦の影響を受けて作為の強い個性的な茶碗を造ったのに対し、初代長次郎の作風に似た、端正な形の茶碗を多く制作している。黒楽茶碗の銘曙がある。

呉須山水沓形茶碗(ごすさんすいくつがたちゃわん)   明時代(17世紀)

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口部が端反り、楕円に歪み、大振りな高台を持つ茶碗である。不透明性の白釉が器全体と高台内まで厚く掛り、高台内に数か所火割れが生じている。畳付は箆削りにより白い素地を見せている。胴と高台周囲には渋い色調の染付による絵付けが施され、胴には山水、楼閣、樹木と人物、高台には流水、橋や土坡の文様が簡略化され、軽快な線描で描かれている。こうした山水楼閣の略画は、禅林で尊ばれた山水軸と同じ構成であること、また古染付が鮮やかな発色と異なる趣きを持つことなどから、日本より中国に注文されたものの一つと考えられる。松平不昧公に伝来したものである。

瀬戸茶入  銘滝浪(たきなみ)        室町時代(15世紀)

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瀬戸金華山窯、滝浪手本歌の茶入である。口は丸みを帯び、甑は撫肩で、胴は少しくびれて全体に轆轤目が巡っている。渋い茶褐色の肌に、黒釉が上方から肩を覆うように掛けられ、そこから一条のなだれが裾のあたりまで至っている。この景色に因んで小堀遠州が「滝浪」と命銘した。寛政の頃、相模屋儀兵衛の取次にて千両で不昧公のもとに収まった。不昧公は「雲州蔵帳」の中で、この茶入を「中興名物之部」に入れている。不昧は、所持する茶道具を「宝物之部」、「大名物之部」、「中興名物之部」、「名物並之部」、「上之部」の五段階に分けて、道具を格付けしていた。その後、更に「中之部」、「下之部」、まで七段階に分けている。

芙蓉に鶉(うずら)図  酒井抱一作  12幅の内(8月) 江戸時代

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抱一の作品の中に、十二ケ月花鳥図と呼ばれる十二図一組の作品群がある。現在、十二福揃いのものが、宮内庁三の丸尚蔵館本、米国プライス氏蔵本、米国ファインバーグ氏所蔵本、畠山記念館の四組と、十二図を六曲一双の押絵屏風に仕立てたものが二例知られている。各月にちなんだ花と鳥とを十二図に描く十二カ月花鳥図のテーマは「定家詠十二か月花鳥歌絵」として伝統的な画題であり、狩野派や土佐派を中心に、光琳、乾山らも手掛けている。しかし抱一は、その伝統を基本としながらも、自由な十二ケ月花鳥の取り合わせを行い、自身の画風を生かした情緒豊かな作品を作り上げている。本作は8月を表す軸である。

真夏の本館  畠山記念館の四季(夏)

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畠山記念館は3階館ての建物であり、展示室は2階、1階は受付、事務所で、地下1階は講堂、保管収蔵庫等である。それほど広い庭では無いが、春は桜、秋は紅葉の美しい庭であり、茶室も多い。この写真は、夏の本館を庭から写したものである。

 

「これまで茶の湯に触れたことがない方はもちろん、日々嗜んでおられ方にも、茶の湯の魅力を発見する機会になれば幸いです。”茶の湯の世界は堅苦しくて難しい”と敬遠することはありません。たくさんの驚きと感動にあふれることうけあいです。」これが、今回の「茶の湯ことはじめ」の紹介文であった。あまり肩もこらず、気分も軽やかに出かけたが、思いがけない名器に巡り合い、長年是非身近に見たいと念願していた茶椀や茶入や茶杓が並んでおり、長年の思いを達することが出来た。興味の順番で言えば、黒楽茶碗 銘早船 楽長次郎作、禾目天目茶碗 南宋時代、黒楽茶碗 馬たらい 楽一入作等であるし、総じて名器が多かった。中学生や高校生が「床の間」「伝来」「名物」など茶の湯に関するキーワードを、丁寧に筆写している様を見て、良い「自由学習になっただろう。少し難しいかな」等と思った。一人一人の感動であろう。

 

(本稿は、図録「與衆愛玩  壱」、図録「與衆愛玩 畠山即翁の美の世界」、図録「與衆愛玩  琳派」、図録「大名茶人 松平不昧の数寄 雲集蔵帳の名茶器」、千宗屋「茶 利休と今をつなぐ」、を参照した)

九州国立博物館  平常展

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九州国立博物館は、日本の国立博物館として4番目(東京、京都、奈良に続く)に開設された博物館である。開館は2005年(平成17年)であった。私は、新しい国立博物館の誕生を心から喜び、これで九州の人々も等しく日本文化、世界文化に接することが出来、文化国家を国是とした戦後日本の快挙であると思った。しかし、内情を知るに及び、果たして第四の国立博物館として機能するかどうか不安になったものである。まず、出発に当たり、この博物館は収蔵品ゼロからの出発であり、特に国宝が1点も無い状態であった。しかし、開館の年に当たる2005年には、東京国立博物館から3件の国宝が贈られた。借用品だけでオープンするのは、余りにも気の毒である。学芸員の皆さんが肩身も狭いだろうと勝手に思っていた。しかし、心配することなく平成12年度(2000)には文化庁から「鍋島大皿」や対馬の「宗家文書」1万点をはじめとする、重要文化財を含む32件の美術工芸品や歴史資料が、九博に管理替えがなされた。また糸国歴史博物館から平原王墓(2~3世紀頃の糸国王墓)から出土した世界最大級の内行花文鏡が1面九博に寄託(あるいは分譲かも知れない)された。これらの事で、やっと「国宝を持たない国立博物館」から抜け出すことが出来た。私は九博の「その後」を知りたくて、ここ数年毎年、九博を訪問している。稀有壮大な建物を見ると、私の胸がワクワクする。九博の存在価値は、私はアジア諸国との文化交流であろうと思う。その意味で年々、所蔵品が増え、内容が充実し、アジア諸国との文化交流が盛んに行われている現状を見て、心から喜んでいる。なお、今回は特別展ではなく、平常展を見た。どれほど収蔵品が増え、アジア諸国との交流が進んでいるかを点検するためである。

九州国立博物館の外観

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九博は、九州大宰府天満宮の奥地にある。立地場所は「天満宮の隣り」と言えば、分かり易い。九博では「大宰府と言えば九州国立博物館と言われるようになりたい」と述べているが、それはまだまだのことである。2016年7月31日に訪ねたが、その時は「東山魁夷美術展」を開催し、大変な人気であった。2015年の同時期は「大英博物館展」であったが、それほどの入場者数では無いように見えたが、今年の企画は大きく当たったようであり、少なくとも九州(乃至は福岡では)知名度も上がり、企画さえ良ければ、大勢の見物客が集まることが証明されたのは、誠に喜ばしいことである。九博のために、心から喜びたい。建物は4階建で、特別展は3階、平常展は4階である。グッズ売り場は1階である。図録の順序に、写真が入手できたものについて解説する。

北野天神絵巻(「天拝山」の部分) 第2巻    南北朝時代(14世紀)

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「天神縁起絵巻伝」は、全国各地の天神神社にある。京都の北野天満宮には国宝の縁起絵巻が現存する。この「天神縁起絵巻」は、南北朝時代のものであり、九州では一番古い縁起絵巻だそうである。天神縁起は、菅原道真の一生、怨霊となった道真の祟り(たたり)、天神を侵攻する者に与えられる御利益、天満宮建設の由来などからなっている。本巻は全6巻のうち第2巻に当たるもので、道真の一生のうち時平の讒言に合う場面、紅梅との別れを惜しむ姿、九州へ下っていく海路の旅路、太宰府で涙する場面、天拝山に登って無実を訴える場面までの、最も充実した劇的なシーンである。悲劇的内容とは異なり、見る者の心をなごませるものがある。これが南北朝という時代を示す。南北朝時代は日本文化の大きな変わり目であった。鎌倉時代までなんとか命脈を保ってきた貴族文化が落日の時を迎え、新たに伝統の束縛から解き放たれた華々しい活気ある婆沙羅(ばさら)文化、すなわち武士の文化が誕生した。この絵巻はそうした潮目の変わるさなかに制作されたものであるが、伝統的技法が十分に維持されている。

奈良三彩壺                  奈良時代(8世紀)

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中国の「唐三彩」に倣って日本で作りだされた陶器で、唐三彩と区別するため奈良三彩と呼ばれる。唐三彩は7世紀末には遣唐使などにより日本にもたらされており、九州でも福岡県沖ノ島祭祀遺跡から発見されており、国宝に指定されている。奈良三菜の多くは、この緑・褐または黄・白の三色を用いているので、三彩と呼ばれる。奈良三彩は緑釉が中心となり、それに黄・白が配色されるが、奈良時代後半には多くが緑・白の二彩となる。朝鮮では、新羅三彩が作り出された。奈良時代には中国を中心として朝鮮半島から日本に三彩陶器の文化が広がっていたのである。

三角神獣鏡               古墳時代(4世紀)

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この三角神獣鏡は、明治18年(1885)、福岡県早良群姪浜(現・福岡市西区姪浜)在住の帆足可楽氏が、自分の所有する通称「城の辻山」を発掘して発見したもので、この鏡以外にも鉄剣1本発見されていた。この「卯内尺古墳」(うないじゃくこふん)は現在消滅している。これが発見された時代には、日本は日清戦争に向けて軍靴の音が高まる時代であったため、霊鏡として祭り挙げられた。明治26年(1893)、宮内省の監査会議でも多くの称賛を浴びて、8月に全国宝物参考簿に登録された。この鏡は現在の考古学では三角神獣鏡と呼ばれるものである。三角神獣鏡とは、古墳時代の始め(3~4世紀)に、近畿地区の古墳から集中して出土する、銅鏡である。この鏡が重要であるのは、同じ型で製造された鏡が南九州から東北南部にわたって500面ほど出土した点である。大和の政権が中国から入手した貴重な鏡を地方支配の承認として下賜したものと考えるのが考古学界では通説となっている。(一説では考古学者の90%が、そのような考えているそうである)実は、この三角神獣鏡は耶馬台国畿内説の根拠となっている。しからば、何故福岡市内の古墳から出土したのか?「耶馬台国は九州にあった」のではないかと私は考えている。

突線鈕袈裟文銅鐸(とっせんちゅうけさもんどうたく) 弥生後期(2~3世紀)

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九州国立博物館には現在2点の銅鐸を所有している。この2点は、弥生時代の終わりに近い2~3世紀頃のもので、その一つがこの銅鐸である。銅鐸のルーツは、中国中原地域の殷周青銅文化で使われた鈴・鐘にあたると考えられる。日本最古の銅鐸がどこで作られたかは、九州説、畿内説に別れている。しかし2004年12月に名古屋市内で最古級の銅鐸鋳型が発見され、最初の銅鐸生産地について新たな謎が生まれた。銅鐸は元来「音を聞く銅鐸」であった。事実、中国の銅鐸は、内部に舌が有り、音を出す楽器であったと私は認識している。しかし、日本では大型化し「見る銅鐸」へ変化している。九博の2基の銅鐸は最末期のものであり、それに凹帯が見えるのは、従来の通説に一石を投ずるものである。

重要文化財 浄土曼荼羅図(じょうどまんだらず)   鎌倉時代(14世紀)

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西方浄土は、蓮池を前に華麗な楼閣宮殿が並び、常に妙なる音楽が響き、馥郁たる香りに包まれ、光あふれる所として経典には描写される。中国では初唐から盛唐にかけて(7~8世紀)この浄土図が盛んに制作された。敦煌莫高窟には、今でも素晴らしい浄土曼荼羅図が描かれている。日本では、その図柄をもとに綴織(つづれおり)という技法で織った巨大な浄土図が、奈良の当麻寺(たいまでら)に伝来している。(8世紀)これを別名「当麻曼荼羅」と呼ぶ国宝である。ところが、この当麻曼荼羅は、平安時代にはなぜか世間には知られることは少なかった。一挙に広まるのは、鎌倉時代の浄土宗西山派の祖、証空上人の時からである。仏教では、釈迦亡き後、長い時間が経過すると、正しい教え(法)が失われる法滅期が来るとされた。いわゆる末法の世である。日本では永承7年(1052)に、それが訪れると信じられ、末法における救済策が焦眉の急となった。そこでクローズアップされたのが、阿弥陀如来である。浄瑠璃寺の九体仏が信仰された時代である。この九博の所蔵となった、この作品は重要文化財に指定されており、鎌倉時代半ばから後半にかけて制作されたと思われる当麻曼荼羅図である。類品の中では、きわめて丁寧に仕上げられた綴織である。

銅製瓔珞付鏡筒(ようらくつききょうづつ)    平安時代(12世紀)

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平安時代の終わりごろから人々は、仏教の経典を書写し、経巻という巻物にして容器に納めて、地面に埋葬することが流行した。この埋葬した場所を経塚と呼ぶ。最も有名な例が、寛弘4年(1007)銘の藤原道長の金銅経筒(国宝)である。経塚築造の流行には、この世の終わりを説く末法思想が結びついていた。仏教の歴史観では釈迦が亡くなると、釈迦の教えである仏法が段階的に滅んでいき、平安時代の1052年が末法1年に当たると考えられた。この時期は自然災害や飢饉、動乱などが続き、この末法思想は現実味を増して受け入れられた。この経筒は岩手県から鹿児島県まで全国に及んでいるが、近畿と並んで北部九州が多い。特に福岡県太宰府の四王寺周辺に集中している。この経筒は、青銅製の鋳物瓔珞付経筒である。瓔珞という飾りを垂らしているのが大きな特徴である。出土は四王寺で、観世音寺に隣接した地域での出土であることから、観世音寺の僧がその製造と埋納に深くかかわったと考えられている。土中に埋める共筒であるが、見るからに美しい形状である。

重要文化財  浮彫三尊仏龕(さんそんぶつがん)   唐時代(8世紀)

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石灰岩に浮彫で、如来と二菩薩の三尊像が表された二面の石仏が九博に伝わる。かって唐の都であった長安の法慶寺にあったもので、早くに中国から流出し、現存する三十面のうち二十一面が重要文化財に指定されている。九博の石仏龕二面は、中尊がともに左手を膝に伏せた印相であるから、いずれも弥勒仏の三尊龕である。この仏龕には玄宗皇帝の開元12年(724)の刻銘がある。玄宗時代に制作されたこれら二面の銘文には、一字の即天文字も使用されていない。そこには即天武后の統治を否定した、玄宗時代の政治と文化の姿勢を反映している。

重要文化財  鬼瓦  都府楼跡       奈良時代(8世紀)

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福岡県太宰府には、現在都府楼跡(とふろうあと)の名で市民に親しまれている。都府楼跡から、その栄華を物語る遺物が多数出土している。瓦類が一番多い。そんな瓦の一つに鬼面模様の鬼瓦がある。文字通り、太宰府を象徴する顔である。鬼瓦が登場するのは7世紀前半の法隆寺若草伽藍である。(焼けた法隆寺)鬼面の鬼瓦が成立するのは8世紀の奈良時代になってからである。平城京やこの大宰府など、主要な官衙(かんが)の建物に瓦葺きが採用され始めたことと軌を一にしている。中国風の瓦葺きを普及させることで、新しい国づくりのための威勢と権力を、仰ぎ見る者に示したかったのであろう。

 

関東の人が九州国立博物館に行くことは稀であろう。私は、その稀な例の一人であるが、かねて九州国立博物館の開館については知っていた。「国宝を1点も持たない国立博物館」と言われ、その館蔵品の充実を期待したが、年をふるごとに重要文化財の展示品も多くなり、安心していた。博物館の建物は、異形であり、驚かされる。平常展示物を見れば、その博物館の実力が判るが、九博は着々と実力を付けて来ている。また、本来の役割は「アジア諸国との文化交流」と思っていたが、それも概ね出来ている。第四の国立博物館として信用できるものになってきた。心から喜んでいる。

 

 

(本稿は、図録「いにしえの旅  2009年版」、図録「いにしえの旅 2005年版」、石田茂作「仏教美術の基本」を参照した)

ルノワール展  古典への回帰と成熟

おおよそ12年にわたる印象派の時代、年齢でいえば21歳頃から39歳までの期間だけ見ても、ルノワールの画家としての生活は充実したものであった。それほど、ルノワールの印象派時代の仕事は鮮烈な効果を上げている。ルノワールの天賦の感性が芽生え、育ち、自然に咲き出した第Ⅰ期の活動だった。このまま進めば、おそらく外光一筋の道を歩み、モネ等と同じく印象派画家の態勢をくずさなかったのであろう。しかし、1879年頃から多少とも印象派の自然描写の中にとどまり切れぬ自分を感じていたと思う。ただ外光の中に輝く自然の追及だけではルノワールは満足できなかった。ルノワールの前には人間があり、幼児があり、女がおり、そして裸婦があった。そしてその中に豊かな色の世界があった。すこしずつルノワールは印象派の歩みから離れていくようだった。この年の印象派展覧会に出品しないで、サロンの方へ作品を送っているところを見ると、このあたりからルノワールは、自らの歩みをどこか別の方向へ向けてゆく気持ちになってきた感じがする。1881年、ブージバル近くのセーヌ川で、舟遊びをする人たちの昼飯の大作(本展には出品していない)を最後として、ルノアールは印象派時代に別れを告げることになる。しかし、1882年の第7回印象派展覧会には25点の作品を出品している。この時期に大きな転機が訪れた。1881年の3月から4月にかけて、フランスを去って旅に出かけた。アルジェの町に行き、秋になるとイタリアに渡り、ヴェネツィア、フィレンツェ、ローマ、ナポリ、ポンペイを訪ねた。このイタリア旅行は、ルノワールに深い感動と新しい視野を与えることになった。それぞれの町のルネサンスの画家たちの芸術もさることながら、ルノワールはとりわけ、ポンペイの古代ローマの壁画を見て感動した。単にこの壁画に対して尊敬を捧げるにとどまらず、ルノワールは古典一般に対する関心を高めることになったのである。イタリアの16世紀の画家チェーンニーノ・チェンニーニの絵画論をひもどき、ルネサンス時代の技術を調べ始めた。ルノワールはこうしてこれまでの手法から抜け出て、古典の持つ手堅い「形式」にも心をひかれた。色調の単純化と形体の定着へと進む。その結果、これまであまり目立たなかった線が働きだし、線によって形体が定着するという形式が見られるようになった。(8月22日まで)

猫を抱く小ども ルノアール作  油彩・カンヴァス  1887年

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1887年、ベルト・モリゾ(1841~1895)と、その夫で、画家のエドゥアール・マネの弟でジェーヌ・マネ(1883~1892)は、当時9歳だった一人娘ジュリー・マネ(1878~1966)の肖像画を友人のルノワールに注文した。彼は、一旦この注文を断りながら、結局引き受けた。この肖像画は、ルノワールが作品においてより安定した形態や、より正確なデッサンを追求するようなった転換期に描かれた。この作品はジュリーが亡くなるまでずっと手元に置かれていたそうである。斉藤勝利氏(第一生命会長)は、「印象派の女性画家であるベルト・モリゾと画家マネの弟ウジェーヌの一人娘である。モリゾは溺愛していたジュリーを度々、絵にしている。その彼女がなぜルノワールに娘の肖像画を依頼したのであろうか?抑制の効いた画面、輪郭がはっきりした筆づかいは印象派というより伝統的絵画を思わせる。印象派を経て古典に回帰したルノワールへの評価を誰もためらっている時に、モリゾはいち早くその挑戦の価値を認めた。最愛の娘の肖像を託すことで、友人の背中を、そっと押したのかもしれない」と評されている、誠に的を得た評論だと思う。

ガブリアルとジャン  ルノアール作 油彩・カンヴァス    1895年

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ルノワールは妻アリーヌとの間に3人の息子をもうける。二人目の息子ジャン(1894~1979)が生まれる頃から、アリーヌの従妹ブリエル・ルナール(1878~1959)が、出産の世話をするため家族に加わった。1894年の夏、16歳でシャンパーニュ地方のエッソワからやってきた彼女は、その後20年以上にわたって一家に留まり、子どもたちとともに画家のお気に入りのモデルとなった。赤ん坊を後ろから抱き、牛のおもちゃを動かす10代のガブリエルの垢抜けない雰囲気が、かえって優しい雰囲気を際立たせている。白のベビー服をまとったジャンの生え立ての毛の柔らかさ、甘えた表情。画面のすみずみまで父の愛情に満ち、思わずほほえんでしまう。

道化師(ココの肖像) ルノアール作  油彩・カンヴァス   1909年

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ココの愛称で知られるクロードは、ルノワールの末子となる三男で、1901年に生まれ、兄のピェールやジャンと同様に父のお気に入りのモデルでああった。クロードの肖像画は90点以上を数える。あどけなさの残る表情がかわいらしい。画家は華やかな衣装を好んで着せた。

静物  ルノアール作  油彩・カンヴァス     1885年

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この頃、ルノアールは印象派を乗り越え、デッサンによる古典的な形態把握を目指していた。テーブルクロスの背景に寒色系の色彩を配置し、果物や花の色を引き立たせると同時に、全体として落ち着いた雰囲気にまとめている。ルノワールの作品は知的で厳格なセザンヌとの絵画とは、確かに何もかもちがう。しかし、印象派を経て、再び古典に回帰することで花開いた画風は力強く新しい。まっさきに気づき、絶賛したのはマチスであり、ピカソだった。

モスローズ  ルノワール作  油彩・カンヴァス   1890年頃

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自由なタッチが画面全体を覆うこの絵は、印象派時代の作風に近づいており、バラの形態を把握するよりも、花弁のニュアンスを色彩に置き換えることに関心が向けられているようだ。本作は、外科医で印象派のコレクターであったジョルジュ・ヴィオが1907年まで手元に置いていた。

ピアノを弾く娘たち  ルノワール作  油彩・カンヴァス  1892年

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ルノワールの最も有名な作品である。この主題は、ルノワールは6点描いている。二人の娘たちが寄り添ってピアノを弾きながら、一つのメロディーの中にとけあっている。二人の心持が結んできたさわやかな音調そのものになっている。こういう和らぎの空間をルノワールは愛していた。色と色との調和もこのように和らぎの中に充実することを願っていた。主題は別にとりたてることもない日常の生活の一片であるが、この肌さわりのよい和らぎの感覚をルノワールはどのような色調の中にとらえるかに苦心するのである。赤や青や黄や緑という元色を基調として、これと対比しつつ融合の色感に包むのである。この作品の国家買上げに際して重要な役割を果たした、画家の友人であり詩人であったマラルメは「決定的な絵画、非常にのびやかで自由な、円熟した作品」と評している。

バラを持つガブリエル  ルノアール作  油彩・カンヴァス   1911年

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子供たちの世話役として1894年にルノワール家の一員となったガブリエル・ルナールは、その後も画家のお気に入りのモデルとして約200点の作品に登場する。特に晩年のルノワールは、このガブリエルをたびたび描いていた。ふくよかな肉体が、まさしくルノワールの求める感覚的充実感にぴったりしていたのであろう。上半身だけれども、この肉体はあらわにされた胸のあたりだけでも十分にみずみずしく豊麗であることをうかがわせる。晩年期の作品になると、こういう肉体感を強いて主張するすることなく、自然につぶらかに表現する。この豊かさをさらに一層華麗なバラの花びらによって勢いづけている。きわまりない豪華な官能に向かってルノワールは老齢にもかかわらず、ひたすら没入してゆき、最晩期になってもその作品に新鮮な若さをもっている。

カーニュの風景  ルノアール作  油彩・カンヴァス    1915年頃

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1890年代になると、次第に激しく頻繁に起こるようになった関節炎の発作に苦しんだルノワールは痛みの緩和のために南フランスに滞在した。南仏の陽光に魅了されたルノワールは、とりわけニース近辺のカーニュとその丘の上にある古い町に夢中になった。1898年ないし1899年から何度もそこに滞在したのち、樹齢100年のオリーブが植わった広大な場所をレ・コレットに求めた。ルノワールの描く風景は、色調の調和の中に自然が包まれている。樹木が一つ一つ存在しているのではなく、どの木も、またどの葉も、みな互いに一つの調和の中に溶け込んでいる。そういう調和が微妙な色の関係から生まれている。明るい光と暗い木陰との対称も画面全体の色のリズムをなし、暗い面も色として大きく働いている。印象派以後、陰は決して黒や褐色ではなく、紫とか青とかの色として働き、画面のアクセントとして効果をあげているのである。

浴女たち  ルノワール作  油彩・カンヴァス   1918~1919年

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病に立ち向かっていたルノワールは、プロヴァンス地方のカーニャのレ・コレットの邸宅で、亡くなるまでの数か月を費やして「浴女たち」を描き上げた。78歳で亡くなる直前に仕上げた傑作が「浴女たち」である。豊満な女性が、大地と一つになって微笑みを浮かべた夢のような光景である。画家は最後に何を描きたかったのだろうか。ルノワールのひ孫、ジャックさんは次のように述べている。「オーギュスト(画家のファーストネーム)は、裸婦に美を見出した。それは女性を生命の源と考えていたから。裸婦と大地が一体になった作品は、いわば、生きとし生けるものへの賛歌である。生命や宇宙といった、大きなエネルギーを表現したかったんじゃないのかな」最後は50キロを切るほどやせこけていく画家とは対照的に、カンヴァスの女性はますます豊かに、鮮やかになった。そして最後に描いたのが生命賛歌であったのだ。」

 

ヨーロッパの画家の中で、日本で一番人気の高い画家は、ルノワールだと思う。どこの美術館へ行っても、ルノワールの絵画の無い美術館は無いと言っても過言ではない。大原美術館、岡山県立美術館、ブリジストン美術館、ポーラ美術館など、その所蔵する絵まで思い出すことが出来る。また、どこの家庭でも、ルノワールのポスターやカレンダーはあるに違いない。日本には、雑誌「白樺」等の出版物を通してその名と画風を知り、影響を受けた画家たちが沢山いる。それは岸田劉生、中村彜、赤松麟作、さらには日本画土田麦僊などにまでおよぶ。なかでも梅原龍三郎がカーニュのレ・コレットを訪ねたときの様子は、画家の次男のジャン・ルノワールの回想録の最後に近いページに記している。1908年にパリに着いた梅原はリュクサンブール美術館で見たルノワールの作品に感激し、翌09年2月にレ・コレットのルノワールに会いに行くのである。その年に梅原は、山下新太郎や有島生馬を連れて再度レ・コレットを訪れた。彼らはルノワールの作品を譲り受け日本に請来した。100年以上昔の話である。東京近辺には「ルノワール」と名付けた喫茶店が100店以上ある。落ち着いた雰囲気で、ルノワールの名画の複製を展示している。この落ち着いた雰囲気を好む人が多いのも、店名に由来するのであろう。なおルノワール展の入場者数は50万人を突破した。これも日本人のルノワール好きの結果であろう。

 

(本稿は、図録「ルノワール展 オルセー美術館・オランジュリー美術館 2016年」、島田紀夫「ルノワール」、現代世界美術展「第4巻ルノワール」、日経新聞「美の美、2016年2月14日、2月21日、2月28日」、日経新聞「ルノワール展特集、2016年4月24日、4月30日、5月2日、5月4日、6月4日、6月26日、7月28日、日経新聞「生命のよろこび、2016年5月16日から5月24日まで」、を参照した。

ルノワール展    印象派時代

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ピエール・オーギュスト・ルノワール(1841~1919)は、フランス中部の都市リモージュに生まれた。この街は陶器の生産で名高い所であり、父は仕立て職人、母はお針子であった。リモージユは、島崎藤村の「新生」の中に出てくる街で、パリの下宿先であったシモネーの姉を頼って、第一次世界大戦をさけるため、約3ケ月を過ごしたことで、日本人にも馴染みのある街である。ここで生産される陶器は世界でも屈指のものであり、私は2枚の皿を大切に持っている。3歳の時に、一家はパりに移り、ルノワールは父親の意向で陶磁器工房に見習工として入る。絵付けの仕事に従事するが、その腕前は周囲の人を驚かせた。この間に、装飾美術を教える素描学校に通っている。ルノワールのその時代の絵付け燭台がパリ装飾美術館に残っている。工房を辞めたのは、機会化によって手書きの職人が不要になったからである。1861年(20歳)にシャルル・グレールの画塾に学び、そこで後に印象派と呼ばれるシスレー、バジール、モネらと交友を深めた。グレールはサロン(官展)入選を目指すような指導を行ったそうである。1862年(21歳)で国立美術学校に入学し、本格的に絵画を学んだ。ルノワールの職人から芸術家への道を歩み始めるのは20歳頃、1860年頃である。グレールの画塾で学ぶルノワールやシスレー、バジールはモネを介してピサロやセザンヌと親しくなり、彼らはフォンテンブローの森やセーヌ川周辺で一緒に風景画を描いた。もう一人の師は、1863年の落選展でスキャンダルを惹き起こした都会派のマネである。マネはアトリエと住まいをバティニョール地区にもっていたから、その近くの「カフェ・ガルボア」が彼らの集会場所になった。1860年代の印象派予備軍をパティニョール派と呼ぶ。1870年に普仏戦争が勃発し、ルノワールは騎兵隊に入った。モネやピサロは徴兵を逃れるためロンドンに渡った。普仏戦争とパリ・コミューンの動乱の時期が過ぎると、パティニョール派の中で、少なくとも画商デュラン=リュエルの支持を得た画家たちは「僕たちの時代が来た」と感じたかも知れない。主にモネとピサロの尽力で、パティニョール派を中心とした最初のグループ展は1874年に開催された。後に第1回印象派展と呼ばれた展覧会である。ルノワールは、そこに7点出品した。この印象派展は1886年までのあいだに8回開催されたが、ルノワールは最初の3回までは熱心に参加したが、後半は1882年の第7回のみに参加した。第4回展からグループ展に参加しなくなった理由は、出版業者シヤルパンティエn保護と援助を得て、再びサロン出品を始めたからである。しかし、この間にも昔の仲間との友情は続き、作品制作でも戸外風景や近代的な都市風俗など、他の印象派画家たちと共通のテーマの追及を行っていた。

陽光のなかの裸婦 ルノアール作 油彩・カンヴァス1876年 第2回印象派展

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1876年の第2回印象派展に「習作”エチュド”」の題名で出品された。緑の木立のあいだから、少女の上半身に陽光がふりそそぐ。花ひらいたばかりの新鮮な肉体は、むせかえる若葉のなかで,彼女自身まだ意識しない生命の輝きを示す。この神秘を生み出したのは明るい太陽の光である。当時の雑誌「ル・フィガロ」に、批評家のアルベール・ヴォルフが次のような文章を発表している。「さて、ルノワール氏に次のことを説明してほしい。女性のトルソ(胴体)は、死体の完全な腐敗状態を示す、紫色の斑点をともなう分解中の肉の塊ではないことを。」これは旧世代の無理解を示す言葉として有名である。彼は少女の上半身に施された光と影の効果の表現を、彼女自身の肌の固有色だと誤解しているのである。

クロード・モネ ルノアール作 油彩・カンヴァス 1875年 第2回印象派展

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「クロード・モネ(1840~1926)」はアトリエ内で制作する親友の姿をとらえた1枚である。モネのパレットには鮮やかな赤や黄色の絵具が並んでいる。これから草原に咲く花々を描くところなのだろうか。真っ黒な服を着た画家の表情は穏やかで、信愛の情に満ちている。その後の二人の交流は絶えることなく、それぞれの場所でモネの風景画の、ルノワールの人物画の巨匠として大成していく。この絵は、第2回印象派展に出品された。

読書する少女ルノアール作 油彩・カンヴァス1874~76年頃第3回印象派展

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画面の左側からそそぐ光が少女の頭部と顔の右側に当たっている。開かれた本のページからの照り返しも、少女の鼻や口元に反映している。光と影の効果を少女の顔で確認する作業を、画家は小さな筆触や併置(へいち)することによって達成した。エドモンド・ドュランティの言う現代の「生き生きとしたフランスの女性」の好例である。

草原の坂道 ルノアール作 油彩・カンヴァス 1874~77年

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坂の一番上に糸杉かモミの大木が立っている。視線を自然と引き付ける。強い日差しを浴びて、2組の母子が下りてくる。母親がさす日傘は、彼らが都市の住民であることを示唆する。この2組は1組の親子の距離の移動と時間の経過を暗示しているかもしれない。ほぼ全面が草原である。やわらかい独特の筆触で土から生え出る草花が描かれている。モネの「ひなげし」(1873年)と似ている。いずれも印象派らしい作品である。私が最も好きな絵の一つである。

ぶらんこ ルノアール作 油彩・カンヴァス  1876年 第3回印象派展

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モンマルトルの象徴であるサクレ=クレール寺院から西に少し下がったあたりに位置するこのコルトー街に、ルノワールがアトリエを借りたのは1875年4月のことであった。「ぶらんこ」はこのアトリエで描かれたが、そこにはモンマルトルの有名なダンス・ホール、ムーラン・ド・ギャレットからも近く、このダンス・ホールを描いたルノワールの畢生の大作も同じアトリエで描かれている。画面中央で楽しげにぶらんこに揺れているモデルはジャンヌ。ジャンヌは「大きな黒い瞳、赤い唇、明るい栗色の巻き毛」を持った16歳の娘で、ムーラン・ド・ギャレットで彼女を見かけたルノワールは一目で気に入り、渋る彼女とその母親をあの手この手でかきくどき、なんとかモデルになることを了解させたという。このジャンヌは「ぶらんこ」だけではなく、「ムーラン・ド。ラ・ギャレット」でも主要なモデルを務めている。傍らの二人の男性は、ルノワールの弟のエドモンドと画家仲間のノルベール・グヌットではないかとされている。降り注ぐ木漏れ日を浴びながら、楽しげに語り合う男女の姿は、まさに印象派の世界そのものである。だがそれゆえにこの作品が1877年の第3回印象派展に出品された時の観客の反応は、芳しいものではなかった。「レヴェヌマン」紙に掲載された批評は「この作品では太陽の光が非常に奇妙なやり方で処理されており、まさしく人物の衣装に油じみのような効果をもたらしている」と述べている。また、「パリ=ジュナル」紙は「ルノワールはこの会場では多産かつ大胆不敵な画家の一人である。私は彼の”ぶらんこ”を推薦するが、これほどグロテスクで恥知らずな作品もないだろう」とこき下ろしている。しかし、リヴィエールは用語の筆を採っている。モンマルトルの片隅のありふれた庭の情景が、ルノワールの手にかかるとまるで別世界の喜びに満ちたユートピアへと変貌してしまう。そこには安酒場や見世物小屋が立ち並び、あやしげな女たちが街頭にたむろするモンマルトルの猥雑な空気は全く見当たらない。同時代のパリに、そして庶民の生活に取材しながらも、マネやドガとは全く異なる世界を描き出してみせる、もう一人の印象派の画家の姿がここにはある。

アルフォンシーヌ・フルネーズ ルノワール作 油彩・カンヴァス 1879年

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19世紀後半、パリでは郊外へのピクニックが流行した。若きルノアールもセーヌ河畔の行楽地に足しげく通い、新しい絵画を生み出していった。この絵は、シャトーのレストランが舞台で、貸ボート屋を営むフルネーズ氏が1860年に開いた店で、ルノワールは常連であった。麦藁帽子と涼しげなブルーのドレスをまとったモデルは店主の娘である。川をのぞむ2階のバルコニー席でほおづえをつき、優しくほほえんでいる。大陽の光を受けたドレスと、背景の木々、川の色が響き合い、幻想的な雰囲気が漂う。レストランは現存し、バルコニー席も健在で、往時をしのばせる。

ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会 ルノワール作 油彩・カンヴァス 1876年第3回印象派展

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ルノワールの最高傑作とされ、日本では初めての展示である。この舞踏会場の名称は、ムーラン(風車)を建物の目玉にして、入場者にギャレットというクレープのようなお菓子を配ったことに由来する。ルノワールは、この舞踏場の庶民的な雰囲気が気に入り、モンマルトルの丘の中腹にアトリエを借りてこの作品を描いた。現場で制作するために友人たちがカンヴァスを運ぶのを手伝い、モデルの役もつとめてくれた。この舞踏場は庭園でもダンスを楽しむことができた。大きな樹木が木陰をつくり、シァンデリアが輝いていた。世紀末になると、ロートレックやピカソが、この舞踏場の室内の退廃的な雰囲気を描くようになった。男性と踊っているピンクのドレスの女性はマルゴ(ぶらんこのモデル)である。ルノワールはこの絵の制作に1876年春から秋にかけての数ケ月を費やしている。本作品の準備段階にあたる全体図のデッサンがある。ルノワールは完全な現地制作と言っているが、実のところは戸外制作ののち、明らかにアトリエで手直しが加えられている。展覧会場では、この作品の参考のために、沢山の画家の絵画を展覧している。例えばゴッホの「アルルのダンス・ホール」や、同時代の「夜会」、「舞踏会」などの作品である。この作品を際立たせるために、精一杯の努力をしているように感じた。また、十分、その気持ちが伝わる演出であった。兎に角「楽しい」絵画である。

シァトゥーの鉄道橋 ルノアール作 油彩・カンヴァス   1881年

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この絵では、花を付けたマロニエの木々が画面の中心的役割を果たしている。女性も子どももここには見当たらない。植物に覆われた中景に目をやると、麦藁帽子を被った男性がいるのが分かる。ルノワールは、19世紀中ごろからフランスの風景を変えていった工業化に厳しい批判を浴びせようとする当時の風潮のなかにありながら、この作品においてはそのような批判的態度は取っていない。橋は正確に描写されてはいるが、周りを取り囲む植物のなかに埋もれ、調和を乱すこともない。ルノアールは1880年代初期には印象派的な作風を捨てたとしばしば指摘されるが、この作品は、画家の変化の過程が、一般に想像されるよりも複雑で、豊かなものであったことを示している。

田舎のダンス ルノワール作  油彩・カンヴァス   1883年

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「田舎のダンス」と「都会のダンス」は対の作品で、いずれも1883年の制作である。日本で、両作品が揃って展示されるのは45年振りだそうである。実は、今回展示されていないが、「プーシヴァルのダンス」という作品もあり、「ダンス3部作」と呼ぶそうである。この「田舎のダンス」の女性モデルはアリーヌ・シアリゴ(画家の後の妻)、男性のモデルはアンドレ・ロート(友人で小説家)である。画面の左上に女性が持つ扇があり、右下に男性が被っていたであろう麦わら帽子が落ちている。19世紀後半のパリの庶民の間でダンスが流行しており、美術作品でもしばしば取り上げられた。ルノワールは周囲の雰囲気を変えながら、二人の夢の楽園を求めていたのかも知れない。この2点の「ダンス」は、1891年に画商デュラン=リュエルが画廊を飾るために買い入れた。画商は、このルノワールの傑作を展示することはあっても、決して手放すことはなかった。ヨーロッパやアメリカで両作品を展示することはあった。

都会のダンス  ルノワール作  油彩・カンヴァス   1882~3年

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女性のモデル、シュザンヌ・ヴァラドンはまだ17歳、怪我でサーカスを止め、モデルになった。画家ユトリロの母親だが、ルノワールが父親に擬(ぎ)せられたこともある。「田舎のダンス」のモデルの衣装は木綿であるが、「都会のダンス」はタフカスである。前者の場所はラ・グルヌイエール近くのガンケット(居酒屋)、後者は都会のダンス・ホールである。この絵を描いた当時、ルノアールはアリーヌ・シアルゴとラ・グルヌイエールの双方に好意を抱いていたと言われる。さて、両者を較べて、どちらがお好きですか?私は無条件に「田舎のダンス」が好きである。一緒に展覧会を観た家内は、「都会のダンス」の写真を買いました。

 

19世紀後半、産業革命が進んだパリは、地方の労働力を集めて人口が一気に増えた。その時代、庶民の憩いの場として栄えたのが、安い酒を出すガンケット(安酒場)だった。手頃な酒や料理に加えて、ダンス場をそなえた店が流行した。特に多かったのがモンマルトルである。1860年にパリ市に編入されて、家賃は安いので、労働者や画学生が住みついた。ルノワールにとっても、ガンゲットは仲間と過ごす格好の場所だった。1876年、丘の中腹にある人気店「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」を舞台にした大作をてがけた。ムーラン(風車)がトレードマークのこの店は、戸外のダンス場が最大の売り物だった。この「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」は、若いルノワールの最高の傑作と言われた。19世紀後半に活躍した印象派の画家は、神話などの伝統的な画題ではなく、同時代の日常生活を描いた点が斬新であった。その筆頭がルノワールである。

 

(本稿は、図録「ルノワール展 オルセー美術館・オランジュリー美術館2016年」、島田紀夫「ルノワール」、現代世界美術全集「第4巻 ルノワール」、日本経済新聞社「美の美」2016年2月14日、21日、28日、日本経済新聞社2016年4月24日、30日、5月2日、4日、6月4日、26日、7月18日「ルノワール展特集」、日本経済新聞社2016年5月16日~24日「ルノワール展から 生命のよろこび1~8」を参照した)

東京国立近代美術館 2016年度第1回館蔵名品展  (昭和)

2016年第1期館蔵名品(MOMATコレクション)展の昭和時代の名品を紹介する。

ガス燈と広告  佐伯祐三作  油彩・キャンパス   昭和2年(1927)

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壁に貼られたポスター、しかもそこに書かれた文字が、絵の重要な要素になっている。はねるような文字の書き方=描き方と、画面左下に見える女性と子供の靴の描き方はほとんど同じ、ガス燈の根元も同じである。全体にみなぎるリズムは、そうしたところかtら生まれると言ってよいだろう。佐伯祐三は、パリの街、裏町風景を描かせれば、一流の画家であった。ヴラマンクやユトリロの影響が大きい。ポスターが一杯貼られている壁の街の、沈鬱な哀愁に翳る画面を描かせれば大一級の画家である。この絵では、暗褐色の家並のうえに淡く青い空がわずかに見え、家並の壁には一杯に白、赤、黄、緑に彩られたポスターが張付けられている。佐伯を継ぐ画家は荻須高徳(たかのり)である。

モランの寺  佐伯祐三作  油彩、麻布      昭和3年(1928)

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彼は1927年に再びパリに留学し、6ケ月で145枚の絵を描いたとされている。この白熱的な制作が、決局その寿命を縮めた。彼の最後の制作の高揚期となったのは、1928年2月の約1ケ月のパリ近郊の村モランへの写生旅行であった。この時に描かれた作品の中で、特に村の教会堂をさまざまな視点から描いた連作がある。この作品は、その連作の中でも、まず第一に挙げられるべき作品である。形は単純化され肉太の強い描線で描かれたこの「モランの寺」は、「ガス燈と広告」とはまた別の魅力を持っている。

金蓉(きんよう)安井曽太郎作 油彩、キャンパス   昭和9年(1934)

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モデルは小田切峰子という女性である。5ケ国語に通じた才人で、普段からチャイナドレスを着ていたため、「金蓉」という中国風の愛称で呼ばれていた。その名を与えた父親は、上海総領事を務めた外交官の小田切寿之助だという。安井は肖像を描く場合、さまざまな角度からモデルをスケッチした。ここではおそらく複数のスケッチを合成し、わざと身体の各部分を不釣り合いにしている。そのことが今にも人物が動き出すかのような印象を生み出している。本作は、発表直後からチャイナドレスの部分の多数のひび割れが入ってしまっている。その状態で長らく知られていたが、2005年の修復により、ひび割れの部分の補填・補彩することで、現状となった。肖像画を得意とした安井曽太郎の代表作である。傑作と思う。

空港  北脇 昇作  油彩、キャンパス   昭和12年(1937)

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1937年頃からシュルレアリスムの影響を示している。シュルレアリスム(超現実主義)とは、人間の夢や無意識を探究するフランス発祥の芸術動向である。北脇は、しばしば身近なものを別の何かに見立てる手法で異世界を描き出した。この作品ではカエデの種は飛行機に、ヒマワリの種のようなものは管制塔風の建物に見える。上空に浮かぶ木片はまるで宇宙ステーsィヨンのようだ。ごく小さなものが巨大なものになり、広大な世界が出現したのである。静かなのにどこか不安を掻きたてる作品である。阪神淡路大震災を機に書かれた村上春樹著「神の子どもたちは踊る」(2008年)の表紙に使われたそうである。

北京秋天  梅原龍三郎作 油絵、岩絵具、紙  昭和17年(1942)

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梅原の絵の中で、私が一番見たかった絵画である。この絵を前に快哉を叫んだ。1日を割いて、近代美術館へ来たかいがあった。1939年に初めて北京を訪れた梅原は、色彩感豊かで量感のある街並みに魅せられた。その夜彼は、戦時にも拘わらず、43年までに合計6回も同地を訪れ、数多くの名品を描いた。本作に描かれているのは紫禁城で、明・清時代の王宮で、現在は「故宮」の名で知られている。定宿のホテルの窓から見える紫禁城を描いた本作について、梅原は「秋の高い空に興味をもった。何だか音楽をきいているような空だった」と述べている。その言葉通り、空がとても印象的である。しかも、どこか透き通って見えはしないだろうか。実は本作は、日本画で使われる岩絵具が、油絵具とともに使用されている。しかも支持母体は紙である。西洋と日本双方の技術を用いつつ紫禁城を描いた時期が戦中であったことから、梅原のなみなみならぬ意欲を推し量れるだろう。しかし、今の北京の空はPM2.5で真っ暗である。梅原がみたら、さぞかし残念に思うだろう。

Y市の橋  松本俊介作  油彩・キャンバス   昭和18年(1943)

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岩手県で幼少期に聴力を失った。1929年に上京し、太平洋画会研究所に学ぶ。35年二科会に初入選。43年靉光(あいみつ)、麻生三郎らと新人画会を結成した。戦後の46年に日本美術協会、47年に自由美術家協会の設立に参加するが、48年に急逝した。Y市とは横浜市のこと。俊介は横浜駅近くを流れる新田間川の風景を、角度を変えて何度も描いている。月見橋とその奥に見える跨線橋、そして右手に見える国鉄の工場が織りなす景色の造形的な面白さを発見したのである。若くして亡くなった松本に対する評価は高い。

道  東山魁夷作  紙本彩色、額     昭和25年(1950)

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東山魁夷は1947年(昭和22)に第3回日展に「残照」を出品して、それまでの低迷を抜け出し以後の自分の方向をつかんだ。1950年第6回日展に出品した「道」は「残照」の延長線上にあり、温雅で平明な自然のとらえ方や単純化された構図などは、魁夷の作風のの特徴をよく示している。これは青森県八戸の種差海岸にある牧場で写生した道だが、画家が初めて八戸を訪れたのは十数年前も前のことだった。その時は灯台や放牧馬も描き込まれていたがスケッチからヒントを得て、道ひとつに構図を絞り、他の説明をすべて省いて画面を構成したものである。画家自身がこの絵について「遍歴の果てでもあり、また新しく始まる道でもあり、絶望と希望をおりまぜてはるかに遠く一筋の道であったーそして遠くの丘の上の空をすこし明るくして、遠くの道がやや右上がりに画面の外に消えていくようにすることによって、これから歩もうとする道という感じが強くなった」と語っている。作者にとっても、忘れえぬ作品である。なお、2016年7月31日に九州国立博物館を訪れた際に、「東山魁夷」展が行われており、そのポスターの写真が、この「道」であった。代表作なのだろう。

雨  福田平八郎作  紙本彩色、額     昭和22年(1953)

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写実から出て装飾的な美の世界を構築することを目指した福田平八郎の芸術の特徴をよく示しており、ほとんど単色に近い色彩と極端に単純化された形で、自然の情景をじつにこまやかにとらえている。素描を重ねながら、次第に説明的な要素を省き、究極的には瓦を主体に凝縮した形に要約するのである。京橋の近代美術館で見た時から、忘れ得ぬ1枚になった。久しぶりの再会が楽しかった。

 

流石に、東京国立近代美術館には、優品が多い。中でも梅原龍三郎の「北京秋天」には感激した。「道」や「雨」は再会ではあるが、懐かしく何十年前の感激を思い出した。古典絵画も良いけれども、現代絵画にも素晴らしい絵画があることを痛感した。

 

(本稿は、図録「「国立近代美術館 名品選」、図録「近代日本の美術  1984年」、図録「日展 100年  2007年」、土方定一「日本の近代美術」、岸田麗子「父 岸田劉生」を参照した)

東京国立近代美術館 2016年第1回館蔵品名品展(明治・大正)

東京国立近代美術館は、1952(昭和27)年、日本初の国立近代美術館として東京の京橋に開館した。たまたま私の勤務先に近い場所であったため、良く出かけたけれども収蔵品も少なく、ブリジストン美術館と比較すれば、魅力ある存在では無かった。その後、現在の竹橋に移転して、収蔵品を増やし、現在では12,500点に及んでいる。これらの収蔵品を通して、1900年頃から今日に至る、日本とそれを取り巻く世界の美術の流れを展示するのが、この美術館の役割である。一時は展示品が多すぎて、絞り切れない時期が続いたが、今では、年間4回程度に分けて、有名作品、美しい作品を展示して、喜ばせてくれる。今回は、2016年度第1回の館蔵品名品展で、息を飲むような名品に出会うことが出来て、本当に楽しい時間を過ごすことができた。この展示会では、作品が多いため、日本人の絵画で、明治・大正と昭和の2回に分けて連載する。なお作品の選定については、私の好みで、かつ写真が入手できたものに限定した。

重要文化財 湯女(ゆな) 槌田麦僊作 紙本彩色 屏風(2曲1双)大正7年(1918)

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土田麦僊は、ヨーロッパ美術に対する強い憧憬を持ちつつ自己の芸術の方向を模索した。「油絵具でなければ自分の心情は表現できない。何度か日本画を呪い、捨てようと思った」という意味のことをのちに書いている。究極的には西洋近代絵画へ開かれた目を日本の古典的絵画に向けて、そこに近代絵画を成り立たたしめる要素を再発見し、この経緯のうちに自己の画風を築くのでだが、「湯女」は後期印象派への強い共鳴を示していた時期の作品である。麦僊が意図したのは、どちらが主でも従でもない風景画と人物画の融合であった。好色本や黒表紙本、さらに鳥居派の作例なども広く学び、江戸風俗画の官能やルノワールの情感、大和絵や桃山障壁画の雄渾な装飾感など、さまざまな要素を渾然と画面の中に取り込んでいる。国画創作協会第1回展に出品し、注目された。

夏  中沢弘光作  油彩・麻布         明治40年(1907)

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はじめ大野幸彦や堀江正章から、基礎洪として工部美術学校流のコンテと擦筆による厳格な素描を学び、ことにコバルト先生と称された堀江からは色彩の意味を伝えられた。次いで色彩の開眼は、黒田のもたらした外光描写への接近を容易にし、その手法によって自らの画風を形成した。この作品の特徴は平明な色調である。夏の陽光の激しい輝きは抑制される一方、陰影もほとんど除かれ、ニュアンスはあるが強いコントラストは見られない。未成熟ながら明治市民意識の台頭を背景に、中沢は、均質化された光と色彩によって穏やかなではあるが感覚的な喜びと感情を表現しようとしている。

うつつ 藤島武二作  油彩・麻布      大正12年(1913)

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藤島武二の画風は、黒田清輝のもたらした外光派絵画を基礎としながらも、その平明な自然観照をこえ、黒田になかった豊かな叙情性を特色としていた。それは明治30年代の浪漫主義文学の隆盛と新たな世紀末美術の紹介に呼応して描かれた「天平の面影」に代表され、耽美的で情趣と優美な装飾性が強く示されていた。その後4年間にわたるフランス、イタリア留学によって、繊細で優美なものから強直で重厚なものへと一変した。この「うつつ」は、そうした変貌をとげた藤島が帰国後にはじめて日本で描いた作品である。しどけない女性の姿とまどろむような眼差しは甘美でさえあり、それはかっての耽美的な情趣と共通するが、一方で留学中の剛直な筆致はやわらかく平明なものとなり、その後の藤島の作品を特徴づけるものとなっている。記憶すべき逸品である。

重要文化財 道路と土手の切通し岸田劉生作 油彩、麻布 大正4年(1915)

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これは、代々木当たりの土手と道路である。彼の代々木時代(1914~1917)に描いた風景画の代表作であり、第2回草土社(1916)に出展した作品である。劉生はこれを「クラッシックの感化」すなわち西洋の古典的絵画の影響を脱し、再び「じかに自然の質量そのものにぶつかってみたい要求が目覚め」として生まれた風景画の一つに挙げている。劉生がその独自の写実様式を確立した作品で、彼の風景画の代表作であり、近代日本洋画の傑作の一つであると思う。

麗子五歳之像  岸田劉生作 油彩、麻布     大正7年(1918)

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最初の油絵による麗子像である。1918年の8月下旬に着手され途中中断もあったが、実質20日間ほどかけて10月8日に描き上げている。言うまでもないが5歳は数え年で、萬では4歳である。この絵は、額縁に入った形で描かれている。ここで得た自信こそが、以後麗子像やお松像を描くスプリンターボードとなったのであろう。岸田麗子さんには「父岸田劉生」という本がある。この5歳像について、次のように述べている。「数え年5歳になった私ははじめての油絵のモデルになって、モデル台の上に座った。藍の色の美しいちじみの浴衣を着て、赤まんまの花を手に持った「五歳麗子之像」がそれである。この絵が最初でこれから数多くの油絵、水彩、素描のモデルになり、たくさんの麗子像ができたが、この最初の五歳之像には父の気持ちにやはり何か特別なものがあった気がする。画面の上の方はアーチで飾られ、その下に中心から左右に分けて装飾風に描き込まれた文字を読んでみると、”千九百十八年、十月八日擱筆 画家之娘麗子・五歳・娘の父写す”とある。」

バラと少女 村山槐多作 油絵、麻布      大正6年(1917)

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この作品は「奈良美智がえらぶMOMAT」というブースに飾られていた。一番奥に見えたが、最も強く引き付けられ、食い付くように見込んだ絵である。作者は22歳で夭折した村山槐多で、20歳の時の絵であるそうだ。10代の頃からボードレールやランボーに読み耽り、自分でも詩を書いていたという。奈良美知恵さんは「当時の美術学校の優等生には絶対に描けない絵だろう。技量を超える強い力を持った絵なのだ」と評している。これ以上の解説は不要だろう。今回の展示品の中で一番記憶に残る作品である。

三星  関根正二作  油彩・キャンパス    大正8年(1919)

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3人人物が並ぶ、不思議な絵である。中央は関根本人、両脇の女性は彼の姉と、失恋した恋人だと伝えられる。(ただし、中央の人物も、赤外線写真で見ると乳房が確認でき、当初は女性として構想されていたようである)。題目の「三星」とはオリオン座の中央の三ツ星のことだというから、関根は闇の中に浮かぶ自身と近しい女性たちを、夜空の星になぞらえることで、神話化しようとしたのであろうか。中央の人物、すなわち関根の頭部に巻かれた包帯も、ファン・ゴッホの「耳を切った自画像」を連想させ、強い時代意識と切迫した想いを感じさせる。(「大原美術館」の「信仰の悲しみ」を参照ねがいたい。)

重要文化財 エロシェンコ氏像  中村彜作 油彩、麻布 大正9年(1920)

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モデルは一時新宿中村屋に身を寄せていたエスペランティストで詩人の盲目のロシア青年である。彜(つね)の友人・鶴田吾郎がたまたま目白駅で一人立っているエロシェンコを見かけてモデルを頼み、当時借家住まいで画室のなかった鶴田が彜にこの話をすると、彼も描きたいというので、9月6日から彜の画室で描き出した。8日午前いっぱい描き続け、もう1日やりたいという彜を鶴田はとどめて筆をおかせた。彜は、この絵をごく少なく限り、薄く溶いた絵具を含んだ絵筆をやわらかく使って、モデルを的確に写すと同時に画面に微かなしかし生気ある韻律を与えている。近代日本の肖像画の傑作である。因みに、鶴田の「エロシェンコ氏像」は、新宿中村屋美術館が所蔵している。これも優品である。

 

日本の近代絵画(洋画、日本画)は、西洋の強い影響を受けつつ、日本らしい美しさや貧しさを表現している。私は、西洋絵画よりも、同時代の日本人画家の作品を多く見る機会が多いし、かつ、そこに楽しみを求めている。ここでは3点の重要文化財が含まれるが、私に一番強い印象を与えたのは、村山槐多の「バラと少女」である。

 

(本稿は、図録「東京国立近代美術館 名品選」、図録「近代日本の美術 1984年」、図録「日展100年  2007年、土方定一「日本の近代美術」を参照した)