銀 閣 寺   東 山 文 化 の 地

日本歴史の中で一番国民に残虐な生活を強いた時代は何時だろうか?私は、やはり先の大戦の本土空襲による焦土化、原子爆弾被爆、沖縄戦争下の日本人の死亡、更に戦後昭和23年頃までの飢餓状態を上げざるを得ないと思う。これと同等、もしくはそれ以上に苛烈な体験を強いたのは、応仁の乱と、その前後の室町時代ではなかと思う。応仁の乱は応仁元年(1467)、将軍後継者を巡って、細川勝元と山名持豊が争い、京の都を焦土と化した戦いであり、戦いが終わったのは文明9年(1477)で、実に11年に亘って京の都を焦土と化した戦いである。この時の足利将軍は八代将軍・足利義正(1436~1490)であり、もともとの原因は足利家の内紛であった。寛政6年(1465)、義政夫人の日野富子(ひのとみこ)が義尚(よしひさ)を生んだ。その1年前に、夫婦はもう男の子は生まれないとして弟の浄土寺門跡義尋(ぎじん)を無理に還俗させて義視(よしみ)と名乗らせ、養子とした。義尚(よしひさ)を将軍にしたいと願う富子と義視(よしみ)の間には、たちまち対立が生まれ、それが細川勝元と山名持豊の対立となって、応仁の乱となった。応仁の乱は、京都のみではなく、都市、農村に飢餓、悪政、党争を興し、大乱となった。将軍義政は、妻富子の間に感情のもつれが大きくなり、文明5年(1473)12月に、義政は無責任に第八代将軍を辞し、まだやっと9歳になった義尚(よしひさ)を元服させ、第九代将軍に就かせた。義政は、東山に銀閣寺(滋照寺)を造ることに専念したかったのである。

銀閣寺垣

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総門を入ると、銀閣寺垣と二重の大刈込みにはさまれた直線の導入部となる。突き当たって左に曲がる。この道は飾り気がなく、しかも計算された清らかなデザインであり、重厚であると思う。

銀沙灘(ぎんしゃだん)・向月台(こうげつだい)      江戸時代後期

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銀閣寺(滋照寺)の最大の特徴は、庭園にある。まず唐門を入ると目に付くのは銀沙灘(ぎんしゃだん)と向月台(こうげつだい)である。多分、日本の庭園を巡っても、この白砂の積み上げられた銀沙灘にお目に掛かることは無いだろう。一段と高く砂を積み上げた壇が向月台である。銀沙灘の高さは約65cm、向月台は約180cmの高さである。これが室町時代の庭園かと思ったが、実はこの白砂の庭園は江戸時代後期の作庭であり、義政好みではない。荒廃に向かっていた銀閣寺の旧観を取り戻す計画が着手されたのは元和元年(1615)6月だった。宮城丹波守豊森(みやぎたんばのかみとよもり)を奉行として大々的な修理作業が行われた。その白砂は、庭の池から組み出した白砂であったそうである。月夜の晩には白砂に月影がほのかに映えて美しいそうである。

国宝 銀閣と錦鏡池(きんきょうち)                  室町時代(15世紀)

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庭の中心が錦鏡池であり、池を正面にして銀閣が東向きに建ち、四季折々に閑静な風情を見せてくれる。「陰涼軒目録」(おんりょうけんもくろく)によれば長享3年(1489)の上棟になることがわかり、明治33年(1900)に国宝に指定されている。銀閣(観音殿)は、宝形造(ほうぎょうつくり)、杮葺(こけらぶき)。二重の殿閣(でんかく)である。一層を心空殿(しんくうでん)、二層を潮音殿(ちょうおんでん)と名付けられている。心空殿は書院造の住宅風で、軽快な構造である。潮音殿は、禅宗の仏殿風で、東に三つ、南の戸口両脇に火灯(花頭)窓を配する。四周には縁がめぐり、先端に和風の高覧を置く。内部は板敷で、中央に須弥壇を置き、木造観世音菩薩を安置しているそうである。(内部は公開していない)銀閣には、義政によって創建時に銀箔で荘厳されていたと伝わっているが、近年の研究の結果では、銀は全く検出されていないそうである。健築に当たって義政は、北山鹿苑寺(金閣)にしばしば出かけ、金閣にのぼったとされる。義政が新たな山荘を建てる殿閣ー銀閣の下見であったとする説が多い。庭の中心部を占める錦鏡池(きんきょうち)には、天下の名石が集められている。赤松正則は、庭園のために名石、名木を献上している。銀閣や錦鏡池を造営するための費用は諸国に段銭(たんせん)をかけてまかなった。朝倉氏影、土岐成頼、山名政豊、吉川経基等が段銭を徴収して協力している。

国宝  東求堂(とうぐどう)        文明18年(1486)

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境内の最も東に建つているのが、足利義政の持仏堂(じぶつどう)東求堂(とうぐどう)である。三間半四方の正方形面で、入母屋造、桧肌葺(ひはだぶき)である。文明18年(1486)の建立で、名前の由来は義政の側近の禅僧横川景三(おうせんけいさん)に諮問して、仏典「六祖壇経」(ろくそだんきょう)の一節「東方の人、念仏して西方に生ずるを求む」にちなんで名付けられた。正面に義政の筆になる「東求堂」の扁額が懸けられている。(現在架っているのは明和4年(1767)の複製)

同仁斎(どうじんさい)             室町時代(15世紀)

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東求堂(とうぐどう)の内部の東北にあるのが書斎同仁斎(どうじんさい)である。同仁斎は四畳半で北に一間の付書院(つけしょいん)と半間の違い棚(ちがいだな)を縁に張り出して設ける。書院の名は義政が横川景三に諮問し、中唐を代表する文人韓愈(かんゆ)の「原人」の一節「聖人は一視して同仁」から取ったそうである。弥陀の前では分け隔てなく皆平等であるとの意があるとされる。相阿弥(そうあみ)の「御飾記(おかざりき)」によれば、付書院の上に筆・硯などの文具や書物、違い棚に茶道具類が置かれていたそうである。この同仁斎は、四畳半の書院座敷として現在最古の遺構である。この時期、応仁、文明の乱(1467~77)前後から戦国時代初期にかけて四畳半志向とも言うべきたしかな動きがあった。四畳半は、今日の私達日本人にとっても身近な生活空間であり、その端緒はこの時期にあったと思われる。この同仁斎こそ、床の間、違い棚に示される日本の書院造りの走りであり、現在の日本間の起源と言えよう。この話をある人にしたら、今のマンションでは、床の間も違い棚も無いと言われ、この同仁斎は、現代ではなく、近代日本の書院造りの起源であると言い直さなければならないかも知れない。

銀閣寺型手水鉢(ちょうずはち)            室町時代(15世紀)

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方丈から東求堂へ渡る間に「銀閣寺型」と称される手水鉢(ちょうずばち)が置かれている。各面正方形で上面の水溜を円形とする。僧侶の袈裟の文様を連想させることから袈裟型手水鉢とも言う。後に千利休が写(うつし)を造ったと伝えられているので、創建当初のものと思われている。

唐物小丸壺茶入 足利義政所持 付属 青貝盆     南宋時代

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足利義政遺愛のいわゆる東山御物(ひがしやまごぶつ)の茶入である。中国伝来の書画や道具類は唐物と称されて武将らの好尚の対称となった。この中国伝来の茶入は全体に茶地色で正面に乳白の釉がひっそりとかかり、いかにも愛らしい風情は好感が持てる。青貝螺鈿(らでん)の黒漆角盆も同じく唐物で、茶入とよく合っている。

 

足利将軍が所蔵していた美術工芸品、いわゆる東山御物(ひがしやまごぶつ)は、室町時代に鑑賞された造形美の頂点を示している。「東山」とは、室町時代の八代将軍義政が月待山を背景とした東山の佳境を愛して、文明14年(1482)から東山殿(ひがしやまどの)(山荘)の造営に着工し、応仁の乱を経て、文明18年(1486)に東求堂が完成し、長享3年(1489)に観音堂(銀閣)の上棟が行われた。義政はその年の10月に持病が悪化し、55歳の生涯を閉じた。死の直前、義政は山荘を禅寺とするよう遺命し、翌3年(1490)3月東山殿滋照寺と改められた。相国寺の塔頭の一つとされた。ところで、足利義政は「東山御物」と呼ばれる絵画や工芸品など中国伝来の文物、いわゆる「唐物」(からもの)を収集したことでも知られる。今では、その多くは諸方に散逸している。それが根津美術館、三井記念美術館、畠山記念館、徳川美術館、五島美術館などに収集されている。2014年10~11月に、三井記念美術館で「東山御物の美」として100点余が展示され、多くの観客を集めた。この滋照寺(銀閣、東求堂、錦鏡池など)の建設や、庭園作庭、果ては東山御物の収集には、義政が特に重用した、善阿弥の存在が大きい。当時、工事に携わった身分の低い人達であってもすぐれた技能を持った技術者が現れ、義政は、こうした人々を同朋衆(どうぼうしゅう)として用いた。善阿弥、能阿弥などが知られている。いずれも時宗の信者であるのも不思議である。(勿論、反対意見もある)今日、東山文化として、日本の美意識や、今日の生活様式にまで大きな影響を残している。滋照寺は、銀閣寺という観光地のみではなく、日本文化の大きな発信地としても理解する必要がある。司馬遼太郎が「この国のかたち」第1巻で次のように述べている。東山文化の本質をついた言葉として紹介したい。「かりに北条早雲を野暮の代表とすれば、かれと同時代の将軍である足利義政はまことにいきなものであった。義政は統治者でありながら、応仁・文明の乱をよそに見、いっさい手を打とうとしなかった。この人物は、そういうわが身の無為無策にあせりなげきもしていない。どういう神経なのか、東山の山荘(銀閣寺)に超然として風流三昧のくらしをつづけたのである。かれはおそらく美的なものを鑑賞する能力においては室町時代きっての人物であったろう。文化史上の区分けである”東山文化”は、むろんこの人物の存在と感覚を外しては成り立たない。」

 

(本稿は、新版 古寺巡礼「京都 第11巻 銀閣寺」、探訪日本の古寺「第7巻 京都Ⅱ」、探訪日本の庭「京都Ⅰ」、図録「東山御物の美ー足利将軍の至宝 2014年」、司馬遼太郎「この国のかたち第1巻」を参照した)

相国寺  伊藤若冲の生前墓

京都の真中を縦貫する大通り、京都駅の真ん前の烏丸通りを北上するとほぼ京都の中心あたりに京都御所がある。その御所の北約300メートルほどのところに位置するのが相国寺(しょうこくじ)である。正式には「萬年山相国承天禅寺」といい、京都の有名寺院のほとんどが観光寺院として賑わっているのに対し、相国寺は独り、広い境内に人影はなく、静寂な寺院であり、京都では数少ない貴重な存在である。相国寺は、足利三代将軍義満(よしみつ)によって建立された禅宗寺院であり、永禄2年(1382)から10年の歳月をかけて建立された。明徳3年(1392)に完成し、京都五山の第二位となり、勧請開山夢想礎石、第二世である事実上の開山春屋妙葩(しゅんおくみょうは)禅師とし、京都の叢林の中枢として隆盛を極めた禅寺である。創建時の総面積は140万坪と伝わるが、天明の大火や明治維新後の廃絶した寺院跡が同志社大学等になり、現在の面積は4万5千坪と言われる。末寺として鹿苑寺(金閣寺)、滋照院(銀閣寺)、真如堂など全国百ケ寺を擁し、臨済宗相国寺派の大本山である。しかし、戦火により幾度も焼失し、今日に至っている。相国寺の中心寺院である法堂(はっとう)も4度焼失し、桃山時代に豊臣秀頼の寄進により完成し、今は仏殿の役目も果たしている。京都五山制度の確立とともに、僧録司(そうろくし)が設けられた。春屋が初代僧録司に任命された。僧録は、臨済宗五山派寺院を支配統括する機関であるばかりでなく、平安時代の遣唐使派遣途絶以来、途絶えていた中国との国交が義満によって回復されりとともに外交業務、外交文書の作成を行い、まさしく外務官僚の役割を果たし、春屋以来230年余りにわたって、相国寺がこの僧録司を独占してきたのである。また明徳4年(1392)には、画期的な七重塔の着工がはじまり、百九メートルという天下の大塔、七重塔の建立である。しかし、京の街の中心地に位置する相国寺は、大小17回の火災に遭い、再建に次ぐ再建の歴史であった。

重要文化財  法堂 単層切妻      慶長10年(1605)桃山時代

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法堂(はっとう)は桃山時代に再建された禅宗様建築では、最大最優作と呼べる堂である。豊臣秀頼の寄進で、慶長10年(1605)建立の建物である。現在は仏殿がないため仏殿も兼ね「本堂」と言っている。中心部の桁行五間、梁間四間で、これに一間通りの裳階(もこし)がめぐっているので、外観は正面七間、側面六間を数える。相国寺法堂は仏殿や法堂など禅宗様仏殿のうち、現在最大のものである。無為堂(むいどう)とも称し、本来畏れることなく法を説く行動的役割を果たしている。

法堂内部 蟠龍図(約9M経)  狩野光信作    桃山時代

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法堂の内部は、禅宗寺院ならではの荘厳な佇まいである。鏡天井一面には巨大な蟠龍図が描かれている。龍は仏法を守る守護神であり水を司る神でもある。火事から護るという意味から、禅宗の法堂の天井には龍がよく描かれている。慶長10年(1605)相国寺の法堂が再建なった際に、狩野光信によって描かれた。光信は狩野永徳の長男として生まれ、父とともに信長、秀吉に仕えた。光信はこれを描き上げた3年後に没しており、本図は光信にとって最後の大きな仕事となった。天井は中央が少し盛り上がった「むくり天井」になっている。そのため、蟠龍図の下で手を叩くと反響して音がかえってくる。このことから「鳴き龍」とも呼ばれる。

方丈   単層入母屋造り             文化4年(1807)再建

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禅宗建築の配置は、三門、仏殿、法堂、方丈が南北に真直ぐに並んで建てられるのが特徴である。相国寺も同様に法堂の北に法丈がある。現在の建物は文化4年(1807)に開山堂、庫裏とともに再建された。中国宋代の名筆家・帳即子(ちょうそくし)の扁額が掲げられている。構造は単層入母屋造りの桟瓦葺である。

開山堂  単層入母屋造り       文化4年(1807)再建

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開山夢想国師像を安置するため、開山塔(開山堂)と呼ばれる。法堂の東に位置し境内で最も大切な場所である。開山塔の庭は白砂が敷き詰めた真の庭に石を、奥に奇石を配して樹木が植えられている。創建当時、上加茂から水を引き、丁度この庭の中を通して御所に流して御用水としていたため、裏庭の無い変則的な造りになったと言う。

庫裏(くり)「香積院」 切妻入        文化4年(1807)再建

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大きな禅宗の本山でも塔頭(たつちゅう)でも、現在では方丈に続いて庫裏があるのが一般であり、これは事務所であり、台所でもある。大きい本山ではごく大規模の庫裏があり、当山もそうした一つである。禅宗寺院の庫裏は大小にかかわらず型が決まっていて、切妻妻入(屋根の三角形の見える方が正面で出入口のあるもの)で、大きい破風や壁面が印象的である。入口を入れば広い土間で、大きな竈(かまど)などもあり、見上げる天井は高く、複座に組まれた巨材が縦横に通っていて遥か上に煙り出しを仰ぐ。香積院(こうしゃくいん)とも呼ぶ。

鐘楼(しぉゆろう)「洪音楼」         寛永6年(1629)再建

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開山堂の南、法堂の東南に大きい鐘楼がある。この鐘楼は「洪音楼」(こうおんろう)と号し、裳階付のものでは大型のもので、裳階の下に花崗岩の壇を持ち、内部は階段により鐘を吊った上の重(かみのじゅう)へ上るようになった型通りのものである。寛永6年は法堂のできた慶長10年から24年後であるから、その後の災害をすべて免れてきたものである。

経蔵                      創建 万延元年(1860)

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経蔵は安政6年(1859)第百二十世和尚の寄進により、万延元年(1860)に創建されたもので、高麗版一切経(一部宋版を含む)650巻余が納められている。幕末争乱の時期に、よくぞ経典を入手し、経蔵を創ったものだと感心する。日本の文化の逞しさを痛感した。

承天閣美術館 鉄筋コンクリート造平屋建て(一部二階)昭和59年(1984)

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収蔵庫、展示室、講堂の3棟からなる。同寺に伝わる国宝、重要文化財に指定される相国寺の数千点の文書、墨跡、茶器、絵画の名品などの什器を展示し、調査研究することを目的としている。応永3年(1398)建造の金閣寺の古材でしつらえた茶室夢中庵は見逃がせない。すべて同寺に伝わる文化財を展示している。伊藤若冲「釈迦如来三尊像」、長谷川等伯「竹林猿猴図」なども含まれる。

斗米庵若冲居士の墓(左)と大典の碑文(右3面)    明和3年(1766)

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相国寺の墓地に残る若冲のお墓は、生前の明和3年(1766)51歳の時に造ったお墓であり、寿蔵(生前墓)である。この寿蔵の側面(2面)と背面(1面)に大典禅師の碑文が刻み込まれている。これは51歳の若冲が、妻子も無く、跡を継がせようとした末弟にも先立たれたいう事情から、生前に自分の墓を建てておくことを思い立ち、親交のあった大典禅師に碑文を依頼したものである。若冲の人生、人柄や制作態度などについて貴重な証言がそこに残されている。よほど良い石材が使ってあるのだろうか、この刻文は、250年後の今でも読み取れる。大典の碑文については、石碑の3面に刻文を写真として写した。全文は大典の詩文集「小雲棲稿」に乗せられている。また、「若冲展」の図録に全文、読み下し文、訳文が掲載されている。

釈迦如来三尊像  伊藤若冲作        明和2年(1765)

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釈迦如来三尊像3幅と「動稙綵絵」24幅を、明和3年に相国寺に寄進した。「動稙綵絵」は明和7年(1770)に全30幅が寄進された。明治22年に「動稙綵絵」は、金1万円の下賜金の謝礼として皇室に献納され、今日に至っている。相国寺に残る三尊像は、いずれも正面を向いているのが特徴である。驚くべき綿密さで、精魂を傾けた力作である。明和2年(1765)の寄進状(相国寺蔵)によると「かって張思恭画の参尊像参幅を観てその巧妙無比なのに感動して、その心要を募倣(ぼほう)し、ついに三尊三幅を完成したのだ」と述べている。張思恭は中国の著名な仏画師であり、ラマ教的なところを取り入れた異色のものであるが、若冲はむしろそれを完全に超越した独自のものを作り上げたのである。毎年6月17日に相国寺で行われた法要、観音繊法(せんぽう)(観音に懺悔する法要)では、「釈迦如来三尊像」3幅を正面中央に掲げ、その東西左右に15幅ずつ対になるように掛け並べられた。三十三幅という観音繊法に使用するための掛幅画の総数は、観音菩薩が「三十三応身」して衆生を救うという教えが意識されたのかも知れない。先の「若冲展」の展示の仕方は、この観音繊法に倣ったものであったのである。

重要文化財竹林猿猴図屏風(右隻)長谷川等伯作 紙本墨色六曲一双 桃山時代

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等伯は、能登から京都に進出後、中国・南宋時代の著名な牧谿(もっけい)筆「観音・猿鶴図」三幅対(大徳寺)と出会う。薄明にただよう微妙な光、湿潤な大気の表現という、牧谿画の持つ優れた稀有の表現を直接学習する機会を得たのであった。その成果として生まれたのが一連の猿猴図、竹鶴図などである。本作は、左隻に竹林、右隻に猿猴を描いた屏風であるが、「観音・猿鶴図」学習が端的に表れている。優品である。

 

人気(ひとけ)のまるでない相国寺を訪れたのは正直言って、伊籐若冲が「動稙綵絵」30巻、「釈迦如来三尊像」3巻を納め、平安人物史にゆるぎない地位を確保した場所を確認するというのが目的であった。しかし、壮大な敷地と伽藍を有し、金閣寺、銀閣寺を塔頭として持つ、足利時代を代表する足利義満公が開祖となった相国寺は、予想以上に大きな力を政治に発揮した寺院であった。僧録司という、僧侶の人事権や、対明貿易(朝貢貿易)の外務官僚のような仕事をして、義満の頭脳の部分を果たしていたことが明らかになってきた。しかし、目的の若冲の生前墓(寿蔵)と、大典の碑文を拝読できたことは、「若冲の旅」を志した私に取っては、大きな収穫であった。承天閣美術館で、相国寺の宝物を拝観する機会には恵まれなかったが、せめて2点の美術品(若冲展と長谷川等伯展で観た物)を参考として紹介することができた。尚、同寺には若き日の雪舟や作家水上勉の話があるが、今回は見送ったので、ご了承頂きたい。

 

(本稿は、新版古寺巡礼 京都8「相国寺」、古寺巡礼「相国寺」、図録「長谷川等伯展  2010年」、新潮日本美術文庫「長谷川等伯」、図録「若冲展 2016年」を参照した)

大徳寺の塔頭      聚光院

大徳寺の塔頭に聚光院(じゅこういん)というお寺がある。永年、非公開のお寺であったが、今年の3月から約1年間の予定で、一般公開されることになった。これは聚光院創建450年を記念した特別公開である。聚光院は永禄9年(1566)、戦国武将三好義継(みよしよしつぐ)が、義父長慶(ながとし)の菩提を弔うために創建した塔頭(たっちゅう)である。簡単に言えば、大徳寺(本坊)に付属した寺院のことである。付属と言うと、何やら小さい感じがするが、この隣が総見院と言って、織田信長の塔頭である。大徳寺の塔頭は格が高いのである。開祖は大徳寺第百七世住職笑嶺宗斳(しょうれいそうきん)である。聚光院の名は三好長慶の戒名によるものである。笑嶺和尚が千利休の参禅の師であったことから、利休は聚光院を自らの菩提所とした。千利休は多額の浄財を喜捨し、またここを一族の菩提寺とした。現在、利休が書いた寄進状が残っている。また、利休の流れを汲む茶道三家(表千家、裏千家、武者小路千家)歴代の墓所ともなっている。方丈(本堂)は、創建時(1566年、戦国時代)の姿が残る建物であるが、そこには狩野松栄(1519~92)、狩野永徳(1543~90)による障壁画四十六面が納められ、その全てが国宝指定されている。この国宝障壁画は、長年に亘って私が是非拝見したい絵画であったため、今年6月の梅雨時にも関わらず、拝観した次第である。

国宝 花鳥図(全図)方丈室中 狩野永徳筆 室町時代、永禄9年頃(1566)

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室町時代の最末期ではあるが、この聚光院の障壁画は、むしろ桃山時代の到来を端的に示す作品である。狩野元信によってうちだされた大画面構成の障壁画様式が、ここにゆるぎない確実な姿で提示されることになった。しかも、その原動力は、主として図に見るような、若年期の永徳の手腕によるところが大きい。この襖絵制作では、父松栄は仏事などが行われるもっとも重要な中央の部屋(室中)の揮毫を弱冠24歳の長男永徳に譲り、みずからは衣鉢の間や礼の間を担当して脇役にまわっている。息子の実力と名声が父に勝ることを承知の上での対処であったのだろう。部屋の東、北、西の3面を囲むコの字形に配置された襖絵は、梅の老木が広げた枝の下を早春の雪解け水が生きよいよく流れる東の4面に始まり、松の枝越しには遠く雪を戴いた峰、枝の下には優美に羽を休める鶴、そして鳴き交わす落鴈(らくがん)と季節の移ろいが水流とともに、ぐるりと部屋をひと巡りしている。正に「桃山の光景」である。

国宝花鳥図(右側面4図)方丈室中狩野永徳筆 室町時代永禄9年頃(1566)

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そして永徳は父の期待にみごとに応えて、新しい時代の到来を告げるような、ダイナミックで生命感あふれる花鳥図を描いたのであった。実際、この四季花鳥図襖絵には、巨大性、開放性、躍動感、覇気といった、のちに桃山の「大画」として結実する永徳芸術の特質がすべて、初々しいかたちで姿をみせている。まさに”出発点は聚光院にありき”なのである。室中の三方襖16面にわたって繰り広げられる一大パノラマは、東側「梅に水禽」に始まるが、もっとも見応えあるのが、この梅である。激しく身をよじりながら伸展していく梅の巨木は、自己の内面に抑えきれないほどの表現意欲を潜めた永徳その人の姿である。鋭く跳ねだした枝先や咲き誇る梅の小花に春のめぐりの歓びがあふれ、金泥の霞が画面に明るい光を与えている。昭和54年(1979)にパリのルーブル美術館から「モナリザ」が来日したが、その返礼としてフランスで展示されたのが、この聚光院の本堂の障壁画であった。正に日本美術の粋として選ばれたのである。

国宝 琴棋書画図 壇那(だんな)の間 狩野永徳筆 室町時代永禄9年頃(1566)

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琴棋書画図(きんきしよがず)は画題的には人物図の範疇に入るが、画面の構成はむしろ山水的要素が濃厚である。左方では琴にあたる場景、右方には図のごとく水亭における囲碁人物と背後の衝立画によって棋と画がしめされ、読書する人物も描かれている。山水花鳥とは区別される真体(しんたい)をもって描かれているのと、濃い墨調に濃淡を加えた結果、背景の余白に金泥引きを行っている。的確ではあるが、やや硬さが見られる。士君子たちが琴・棋・書・画に興ずる姿を描いている。水墨のみの「四季花鳥図襖絵」と違い、こちらでは花木や人物の着衣に、朱や緑青、代赭(たいしゃ)などの色彩が加えられている。このように部屋ごとに筆法や画題、手法をかえるのは、室町時代の障壁画制作の約束ごとであり、絵師がどのような画題や画体でも臨機応変に描きこさなければならなかった。室中でさっそうとした自由な筆さばきを見せた永徳が、この「琴棋書画襖絵」では硬質の息の短い線を使うのも、真体画の制約ゆえである。それにしてもなんと力のこもった筆線と運筆であろうか、紙が破れんばかりである。

国宝 遊猿図 方丈裏側の間 狩野松栄作 室町時代永禄9年頃(1566)

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父の松栄作の遊猿図である。筆致はおだやかで、この種の画題にありがちな威圧的印象はあたえない。ことに遊猿図は、水辺の岩上や樹幹にたわむれる親子連れの一群をとらえ、温かみのあるなごやかな雰囲気をあらわしている。筆写である松栄の人間的な円熟を物語るものかも知れない。

国宝 虎図  方丈裏側の間 狩野松栄作 室町時代 永禄9年頃(1566)

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竹林と虎図である。典型的な様式であるが、この時代にしては、良く虎の威風を表している。傑作と言えよう。松栄の描く広々とした奥行きのあっ作風は、狩野元伸が確立した大画面構成を継承したものと言われ、部屋を落ち着いた雰囲気にしている。永徳の若画きと言える山水花鳥図などとは対照的である。

花頭窓より庭園を望む

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花頭窓の付いた唐門から、庭園を望むと聚光院方丈の前庭が見える。花頭窓に区切られた不思議な庭園に見える。

聚光院の庭園              室町時代 永禄9年頃(1566)

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作庭は、この方丈の造られたのと同時期と判断するのが妥当だろう。この方丈前庭には別名「百積庭」(ひゃくせきのにわ)とも呼ばれる。広さは約53坪であり、南部の生垣に沿って直線状に石が並んでいる。中央の石橋をはさんで両側に集団石組があったと考えられているが、いずれもかなり荒廃している。向かって右手前の石組がやや完全な形で元の姿を残している。しかし、この庭は、いまの形でも他の庭に見られない厳しさと優しさを備えている。解説者は、この庭園の、本堂室中の襖絵「花鳥図」と相対する関係にあると説明された。私が、この庭の持つ厳しさと優しさを指摘したが、方丈の狩野永徳、松栄の親子の障壁画が影響しているのかも知れない。また、庭園西側には千利休が沙羅の木を植えたと伝わる。現在の木は3代目とのことであった。平家物語の巻一の冒頭に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(せいじゃひっすい)のことわりをあらわす。」とある。正に、沙羅の樹が、この沙羅双樹である。

沙羅の花

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沙羅の花は白色で、6月の朝に開花し、午後になると落花する。沙羅の木の植わる庭は、京都では少ない。薄明の意味があるのだろうか?ハラハラと落ちる沙羅の花は美しく、儚い人生を意味するのであろう。枯山水の庭にには不向きと思うが、千利休の手植えと伝えられている。

重要文化財 茶室 閑陰席(かんいんせき)外観と路地  江戸時代(1741)

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千利休は、秀吉の不興をかい、天正19年(1591)に切腹させられた。没後150年を記念して、この閑陰席と枡床席が建設された。聚光院と茶道三家との関わり合いを最も如実に伝えるものが、閑陰席、枡床席の二つの茶室である。

重要文化財  茶室  閑陰席(内部)     江戸時代(1741)

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茶室・閑陰席は千利休百五十回忌の際に、表千家七代如心斎の寄進によって建てられたもので、ここで朝茶を開いたことが記録に残っている。利休の精神を汲み、明かりが極度に制限され、簡素で緊張感のある設えがほどこされている。水処を挟んで、枡床席が設けられたのは、その約70年後と伝えられる。閑陰席の三畳に対して四畳半で作られており、その半畳は踏込み式の床の間となっている。この正方形の床の間を「枡床」と呼ぶが、これは表千家六代覚々斎が考案したと伝わっている。天井も閑陰席よりやや高く、貴人口を設けるなど、明るくのびやかな設えがされている。

千利休(左)と三好長慶の墓

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前庭の生垣の外に(総見院の鐘楼横)、千利休と三好長慶の墓が並んで立っている。このお寺の持つ歴史や文化を物語るものである。

書院と千住博画伯の襖絵               平成25年

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平成25年(2013年)秋に建て替えを行った書院は、千住博画伯による障壁画が奉納された。納められた「瀧」、「春夏崖図」、「秋冬崖図」のうち、今公開では「瀧」が初の一般公開となった。構想から完成まで16年間を費やした大作で、鮮やかな群青から真っ白な瀧が浮かび上がる姿は壮観である。千住博はお寺から大書院の襖絵を10年以上前から以来されていた。千住は語る。「南米アマゾンに何ケ月も滞在して素描を重ね、多様なモチーフで描くも、得心がいかず幾度も破棄し、4度目でついに辿りついた。戦国時代に永徳は、花と鳥で儚い時の流れを描いた。現代を生きる僕は宇宙的な時の流れ、地球という奇跡の宝石で描こう」と。地球の奇跡。それは水と重力。これを端的に表すのが瀧だ。「瀧が表すのは時間。猛スピードで流れ去り、二度と戻らない。これまで数々の瀧を描いてきたけれど、時の流れを象徴するモチーフとして再発見できた」と振り返る。宇宙の宝石とは、吸い込まれるような群青の岩絵具のこと。「岩絵具は46億年前に原始惑星が衝突して地球が誕生したときのかけらそのもの。あの青は星の色」。

狩野松栄、狩野永徳の襖絵は、全42枚が全て国宝に指定され、通常は京都国立博物館に寄託されている。しかし、創建450年記念として、今年の3月から約1年間公開されることとなった。襖絵をすべて国宝に切り替えて、松栄、永徳の襖絵が公開されたのである。この聚光院は、千利休の墓所でもあり、茶を嗜む人にとっては、大切なお寺である。室町時代末期から桃山時代にかけて、政治と同様文化にも大きな変動が起こった時代であった。地方に多くの英雄が出現すると共に、華やかな地方文化が花開いたのである。伝統を尊重する京の文化も、やはりその影響を受けつつあった。この頃から大徳寺にも戦国武将の創立する塔頭小院が増え、それに茶趣味というものが加わってくる。(私は、この時代を「日本のルネサンス」と呼んでいる。)聚光院は、戦国武将として名高い三好長慶の養子義継が、父の菩提を弔うために創立したもので、永禄9年(1566)大徳寺第百七世笑嶺宗訴(しぉゆれいそうきん)禅師が開祖である。この笑訴は千利休の参禅の師でもあって、そのようなところから、この寺は利休との関係深く、墓地には立派な利休墓の宝塔があることは良く知られている。狩野永徳(1543~1590)は桃山時代を代表する画家である。例えば、雪舟の水墨画が室町文化を代表する画家であるとすると、正に狩野永徳は、桃山時代を代表する画家であり、唐獅子図(宮内庁、それまでは毛利家所蔵)、檜図屏風(東京国立博物館)等が代表作であろう。狩野永徳は、時の権力と結びつき、信長の安土城、秀吉の大阪城等の障壁画を沢山描いたが、いずれも戦火に焼かれ、残る作品数は少ない。この数少ない永徳の作品がまとまっているのが聚光院である。今回、この聚光院が1年に亘り公開されることは、私に取って大変な朗報であり、幸いにも六月の梅雨の中でも、拝観する機会に恵まれた。今後、この作品に逢うことは無いだろうと思い、熱心に説明を聞き、襖絵を丁寧に見学し、たいへん満足した。今年、一番の収穫であった。(ここまで書いて、11月に京都へ行く機会があるので、もう一回拝観したいとという思いが強くなった。)現在JR東海のPRとして、聚光院の狩野永徳の「花鳥図襖」が頻繁に放映されている。多分、日本中で見られる映像であろうと思う。(なお、拝観を希望する方は、聚光院のHPから「拝観願い」を申し込んで、希望の日、希望の時間を確定しておくと、並ばずに入館できる。7月、8月の日曜日は、予約で満杯のようであるが、当日いけば、うまくすれば入館できることもある。)

(本稿は、パンフレット「創建450年記念特別公開 大徳寺聚光院」、新潮美術文庫「狩野永徳」、吉川功「京の庭」、立原正明「日本の庭」、探訪日本の庭「第6巻 京都Ⅱ 洛中・洛北」、探訪日本の古寺「第6巻 京都Ⅰ 比叡・拓北」、現色日本の美術「第13巻 障壁画」、日経新聞2016年9月3日「プロムナード」を参照した)

山種美術館  浮世絵の競演

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山種美術館には約100枚の浮世絵コレクションがある。決して多い数では無いが、優品が多い。今回は六大絵師として晴信・清永など6名の絵師の秀作が並んだが、私の好みで、写楽と北斎、広重の保永堂版東海道五十三次の3種に絞らせて頂いた。あくまでも私の好みの話で、他意はない。山種美術館の浮世絵コレクションは、摺りの早いものが多い。かつ保管状態が極めて良い。正に「粒より」と呼んでも差し支えないと思う。また浮世絵の初期から末期まで、まんべんなく系統的に集められたものではない。役者絵で注目したいのは、東洲斎写楽の大判大首絵が三図所蔵されていることである。残存枚数が少なく、わずか百枚のコレクションの中で3枚の写楽が含まれていることには驚いた。風景画(名所絵)では、葛飾北斎と歌川広重というこの分野での両巨頭の作品が蒐集されている。北斎のコレクションは、彼の代表作の「赤富士」の通称を持つ「凱風快晴」1枚のみである。このコレクションの選択の鋭さを感じる。広重作品は極めて多い。保永堂版「東海道五十三次」は完全なセットで揃っている。その他「近江八景」、「木曽街道六十九次」からは「洗馬」、「江戸名所百景」からは「大はしけあたけの夕立」が1枚含まれている。(9月29日まで)

二代目嵐龍蔵の金貸石部金吉  東洲斎写楽筆  寛政6年(1794)

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東洲斎写楽(生没年不詳)は、江戸後期の浮世絵師で寛政6年(1794)5月の江戸三座の舞台に取材した大判雲母摺(きらもずり)の役者大首絵二十八図でデビューを飾り、翌年正月の舞台に取材した作品を最後にわずか十ケ月で画壇から姿を消した。特に寛政6年5月の作品(28図)は戯画性を示し、役者似顔絵の歴史の中で異彩を放つ存在である。その正体に関しては諸説あるが、北斎の儀名説、阿波候の能楽師斉藤十郎兵衛(1763~1820)であるとの説が最近有力視されている。この絵は寛政6年5月都座「花菖蒲文禄曽我」の舞台に取材したものである。石部金吉は金貸し役で、描かれたのは主君の仇討を助けるために浪人して貧苦にあえぐ田辺文蔵のもとに、借金を取り立てに来た場面である。借り手の事情にお構いなく返済を迫る強欲さが、良く表れている。

三代目坂田半五郎の藤川水右衛門 東洲斎写楽筆  寛政6年(1794)

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「花菖蒲永禄曽我」第三幕の坂東三津五郎の石井源蔵とその妻千束を返り討ちにする場面だとされている。水右衛門は敵役である。親の敵を討ちに彼に挑む石井源蔵を返り討ちにする場面で、不敵な表情の水右衛門のどこか頼りなさ気な源蔵が向かい合う構成となる。悪党の憎々しさを描き出す写楽の腕は冴える。

富嶽三十六景 凱風快晴  葛飾北斎筆   文政13年頃(1830)

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この「赤富士」については、何度も触れている。ここではプルシアン・ブルーについて述べたい。この空を彩る青色は「プルシアン(プロイセン)・ブルー」略称「ベロ」である。この青色は1704年に、遠くプロイセン王国の都市ベルリンで偶然合成に成功し、長崎経由で輸入された人工顔料「プルシアン(プロイセンの)・ブルー」だったのである。これが日本国内に持ち込まれたのは宝暦2年(1752)頃だと考えられる。ベロを実際に使った作品は、伊籐若冲、平賀源内、小野田直武、佐野曙山ら、洋風画の分野中心に表れ、次いでより安価な、木版の浮世絵に広がっていった。この舶来の顔料は、水に良く溶け、光や酸素に対して安定し、青の発色が鮮やかで、グラデーションが容易にできる、といいことずくめであった。ベルリンがなまって「ベロ」と通称されたプルシアン・ブルーを生かし、北斎「富嶽三十六景」シリーズの刊行が始まった。このシリーズで北斎は、輪郭線には従来の藍を、鮮やかな青色のぼかしにベロを用いて、濃く、明るく、透明感の強い青に彩られた風景の魅力を見せつけた。これが浮世絵ではマイナーな存在だった「風景画」というジャンルの起爆剤となり、やはりベロを効果的に使った歌川広重の「東海道五十三次」という傑作を得て、役者絵、美人画に続く浮世絵の主要ジャンルへ、一気に成長していったのである。

東海道五十三次扉  歌川広重作       江戸時代(19世紀)

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山種美術館のコレクションには題字を記した扉が付属することから、もともと画帳仕立のものがまとまって残った数少ないものと考えられている。この揃いには、初摺りとされる摺りの特徴を持つ図が数多く含まれ、保永堂版の美的特質を考える上で重要な揃いとして注目されている。

東海道五十三次 原  歌川広重筆    天保4年~7年頃(1833~36)

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五十三次のうちでも最も富士山を近くに見、その美しい姿をまのあたりにするのが原宿である。枠外へ飛び出した富士の頂を描いている。この特殊な構成は、富士の美しさと大きさを強調したものであろう。保永堂版は3人の人物と満目蕭條(まんもくしょうじょう)たる枯野原の2羽の鳥を配し、風景と人物の渾然と調和した画面をなしている。

東海道五十三次 蒲原  歌川広重筆   天保4年~7年(1833~36)

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私は、この絵を見る度に、温暖な駿河国に大雪が降るのは事実とは違うのでは無いかと感ずる。しかし、保永堂版ではこのシリーズの圧巻と言われる名作とされる。雪が小振りとなったのを見計らって家路を辿る人々を描いたものであろう。傘や蓑に雪を積もらせ、ひっそりと静まり返った宿場の道を、足元も危なげに歩みを進めている。積雪の山や家々のふっくらとした姿に、静寂な姿を描き、濃墨と淡墨のみごとな調和によって深々と更け行く夜の、無音の空間を絶妙に表している。

東海道五十三次丸子(鞠子)茶店 歌川広重筆天保4年~6年(1833~36)

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丸子は鞠子とも書かれた。名物は「とろろ汁」で、江戸時代から麦飯に青のりととろろをかけたものであったらしい。芭蕉に「うめ若菜 丸子の宿の とろろ汁」の一首があり、また十返舎一九の「東海道膝栗毛」の弥次と喜多の道中にも、この宿での「とろろ汁」が出てくる。作中の2名は、弥次、喜多の2名をモデルにしているのではないかと思う。保永堂版は静かな田舎の雰囲気をよく表した作品で、去りゆく農民が画中に生き続けている。現在も同じ場所に「とろろ汁」を名物とする茶店があり、私は静岡に行く度に、そこで「とろろ汁」を食べることにしている。なお、初版は「丸子」となっているが、その後の版では「鞠子」に改められている。

東海道五十三次四日市・三重川 歌川広重筆 天保4年~6年(1833~36)

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山種の図録では、「四日市は伊勢参宮の旅人も行き来して栄えた宿場であり、また港町でもあった。本図に描かれた鄙びた風景は、いささか賦に落ちない」と解説している。私も現地を見ているので、何故こんなに田舎じみた光景にしたのか、不思議である。しかし、この絵はクロード。モネの「トルーヴィールの海岸」(1881年)の、構図の取り方に堅著な影響を与えていると思う。モネは遠近法と陰影法の使用を遠ざけ、表情豊かに烈しく描写された1本の木を、中央に配し、鮮やかな色彩を帯状に配して、1本の木の激しい揺れを表現している。これは、モネが広重の「四日市・三重川」から構図を借用したものと見ている。モネは西洋の風景画に新しい概念を持ち込んだ作品であると、私は評価している。全く関係ない話であるが、四日市の名物に「なが餅」という商品があり、私の好物である。そこの「なが餅笹井屋」の商品の上に、この広重の作品が印刷されている。

東海道五十三次 庄野・白雨 歌川広重筆 天保4年~6年(1833~36)

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このシリーズの中で3本の指に入る不朽の名作である。白雨はにわか雨のこと。強風に大揺れする竹やぶを3段にわけて描き、横なぐりの雨はこまかな斜線にその激しさを表している。この吹きすさぶ豪雨の中に描かれる人物は駕籠を担ぐ2人は平然と他の3人は体をよじ曲げて必死に風雨を防ぎ駆け散じている。この自然と人物の描写が一体になって効果を高めている。雨しぶきに煙る竹林の遠近感が薄墨の巧みな使用法によって見事に表されている。

東海道五十三次大津・走井茶店 歌川広重筆 天保4年~6年(1833~36)

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大津は北越や近江国の産物魚類を船で運び込んでくるところで、毎日市が立ち、その多くの荷が人馬や牛車に積まれて京都へ運送されていた。走井とは、大津と山科の境の峠道である。ここに描かれた走井茶店は、この名を取って餅屋を営む店である。この逢坂峠の茶店に憩を求める人は多かっただろう。現在は、茶店は存在しないが、ここで作られた名物「走井餅」は現在でも大津の名物であり、京都駅でも買える。私の京都土産の定番である。

 

100種類ほどある浮世絵の中で、選び出した10枚は、写楽2枚、北斎1枚、広重の東海道五十三次の7枚となった。北斎と言うよりは、西洋から伝来した「ベロ」の使用例と、特に赤富士の雲の色を述べることに尽きる。正直言って、「ベロ」の使用例は、北斎の「神奈川沖浪浦」を説明する際に、最も説得性が高い。しかし、山種には「神奈川沖浪浦」が無いため、「赤富士」の雲の色を説明するのに「ベロ」の効用を延々と述べたのである。また、東海道五十三次は、必ずしも名画は選ばない、むしろ個人的思い出の強い作品を選びたかったが、「庄野・白雨」は、どうしても外せない1品となった。浮世絵における風景画のジャンルが確立された背景として「ベロ」の使用を述べたが、これは日経2016年8月13日の「プロムナード」から、引用させていただいた。目を開く思いをして読んだこの記事に厚くお礼申し上げたい。また、書いている中に、食べ物の記事になった事例が多いが、私の故郷の思い出に繋がるので、ご容赦いただきたい。

 

(翻稿は、図録「山種コレクション 浮世絵 江戸絵画」、図録「山種コレクショイン浮世絵名品集」、図録「大浮世絵展  2014年」、図録「ボシトン美術館 華麗なるジャポニズム2014年」、図録「写楽 2011年」、図録「大写楽展 2011年」 1995年」、日経新聞2016年8月13日「プロムナード」を参照」した)

等 持 院   足利一族の菩提寺

室町時代は、南北朝が対立し、日本史上でも判り難い時代である。足利尊氏は、自分の屋敷内に幕府の政庁を開き、かつ、そこに「等持寺」という寺院も在ったというからややこしい。尊氏は足利家の菩提寺として、まず「二条高倉」の京屋敷に、寺院の役割を兼ねさせ、「等持寺」と名付けた。その後、北朝の応暦4年(1341)、足利尊氏が無窓礎石を開基として、衣笠山(きにがさやま)のふもとに「等持院」を創建した。衣笠山は標高200メートルに過ぎないが、古くから多くの人が称賛してやまない美しい山である。等持院は、この衣笠山の眺望の美をひとり占めする、贅沢なロケーションである。等持院の規模は、かって壮大であった。伽藍の建物は、仏殿・大方丈・御殿・大庫裏・鐘楼・宝蔵など26の建物が威容を誇ったという。格としては天龍寺の末寺ということになる。延文3年(1358)4月29日に足利尊氏が亡くなり、等持院に葬られ、芙蓉池と心字池との間に尊氏の墓がたてられた。尊氏の葬儀を行ったあと、歴代将軍の葬儀は等持院でおこなわれるしきたりとなった。三代将軍義満によって、五山に続く十刹(じゅっせつ)の首位となった。26の伽藍を誇った等持院は、火災で大半を失い、長禄元年(1457)の尊氏没後百年祭までは粗末な伽藍のまま耐えることを余儀なくされた。尊氏百年祭を挙行したのは八代将軍足利義政である。義政は尊氏百年祭を盛大に行うことで等持院の復興を実現した。その後、再建、火災を繰り返し、文化5年(1808)4月に、等持院は3度目の火災をうけ、すべてを失った。10年の歳月を費やし、文政元年(1818)に復興事業がおわった。この時、妙心寺の塔頭・海福院の法丈が等持院に移され、本堂となった。海福院の方丈は福島正則が造営・寄進したもので、現存する建物のうちの最古のものだと言われる。

表門  切妻造、本瓦葺                江戸時代

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山門から入って進むと庫裏(くり)の玄関に入る表門がある。一門一戸の薬医門で、切妻造り、保瓦葺きで、文化5年(1808)の火災後に再建された建物である。「等持院」の名称が記憶に残る、大きな文字である。

庫裏(くり)  切妻造 本瓦葺           江戸時代

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表門をくぐると、庫裏の玄関になる。左手が住職の住まいとなり、庫裏は御勝手、住居、事務所である。文化5年(1808)の火災後に再建された建物である。後ろに衣笠山の美しい姿が見える。棟に煙出し盧を乗せている。拝観の受付場所であり、ここで入山料500円を支払う。他の寺に比較して、何時も安いと思う。それだけ、知名度が低く、観光客が少ない寺院である。しかし、私は、この等持院の持つ雰囲気が好きで、毎年のように訪ねている。「庫裏が玄関」という構造も好きである。如何にも禅寺らしい。この寺には、国宝、重要文化財の建物がない。檀家もない。入山料も高く取れない。そんな事情があったのか、映画の撮影場として珍重されていた。小さな禅寺の運営はさぞかし大変だろうと思う。しかし、室町時代230年間は、相国寺、等持院、等持寺の三ケ寺は別格であった。それは相国寺は教団統括の僧録司を抱えており、等持院と等持寺は将軍墓所、葬礼の寺であったからである。等持院の室町盛期の収入は千石を超えたと言われる。(大名クラス)諸国にまたがる膨大な寺領は”東班衆”(とうばんしゅう)と呼ばれた会計専門の禅僧がこれを管理していた。東班(とうばん)衆はお経よりも算盤が出来なければ務まらなかった。ともかく、東班衆と言えば室町時代では有能な管理者として引っ張り凧で、ただ単に禅宗寺院に留まらず、あらゆる造営事業に広く活躍していた。”不立文字”(ふりゅうもんじ)の禅僧が、計数に明るく、算盤に強かったというのは信じがたい話であるが、室町時代の禅僧の半数は、実はこの東班衆だったのである。近世の日本では数学が相当普及していたが(和算のたぐい)、それも実は室町時代の東班衆という基礎があっての事かも知れない。

方丈と庭園                  元和2年(1616頃)

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方丈前には庭園があり、勅使門がある。

霊光殿内部                 江戸時代

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方丈の東にある霊光殿は、足利将軍家歴代の肖像彫刻を安置している。その奥の内陣には、中央に利運地蔵(りうんじぞう)と呼ばれる地蔵菩薩立像を本尊として祀り、向って左側には禅宗の始祖である達磨大師像、右側には開山の無窓礎石像を祀っている。霊光殿脇壇には、室町幕府初代将軍足利尊氏像など歴代将軍像が祀られている。但し、五代義量(よしかず)像、14代義栄(よしひで)像を欠いている。等持院の足利将軍木像は、幕末に盗まれている。文久3年(1863)2月22日の夜、尊王攘夷派の志士が等持院に侵入して、尊氏、義詮、義満の木造の首をひきぬき、三条大橋の下で曝した。首にはそれぞれ位牌を掛け、「逆賊」と題した宣告分の立札がそえられていたという。

芙蓉池と本堂                 江戸時代

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庫裏から書院に廻ると、芙蓉池(ふよういけ)が見える。この庭園(西の庭園)は、私は好きである。おとなしくて控えめな庭園であり、庭園として強く主張しない点が好きである。室町幕府を開き、日本文化史上に極めて大きな役割を果たした十五代に及ぶ足利将軍家の文化史上の事績を思えば、その菩提寺の庭園は、もっと注目を浴びるべきであると、専門家は指摘する。西の芙蓉池については、銀閣寺を建てた足利義政が尊氏の百年忌のため、長禄元年(1457)等持院を再興した際に、かなり手を加えたのではないかという説がある。しかし、庭園は手の入れようで大きく変わることがある。私自身は、江戸時代に現在の庭園が完成したと思っている。池の真中に島があり、島と庭園をつながりは、一本の石の橋があるのみである。躑躅の低い樹に覆われている。正面右手に見えるのが本堂である。この本堂は、桃山・江戸初期の武将福島正則によって創建された妙心寺塔頭である海福院(かいふくいん)の客殿として、元和2年頃(1616頃)に建てられた。その後、文化5年(1808)の火災によって等持院方丈が焼失したため、同9年(1809)に移築され、文政元年(1818)に竣工したものである。等持院では一番古い建物である。

芙蓉池(ふようち)と清蓮亭(せいれんてい)      江戸時代

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芙蓉池に、一面に躑躅が咲いた景色であり、あれほど平凡に見えた庭に活気が着く。遥かに庭を隔てて、清蓮亭(茶室)が見える。これが等持院の、私の好きなお庭である。こうやって茶亭を眺めると、庭全体が茶の湯の空間である。書院から見た茶室と築山の配合の妙、数多く配置されたとび石、回遊の心地よい園路などを備えた茶庭と見えるのである。この庭園では茶室建築としての数寄屋建物の役割が大きい。これによって庭園全体の雰囲気が生まれる。利休の侘び茶以前の大らかさ、明るさが、私は好きである。出来れば、この茶室でお茶を飲んでみたい。

池から眺めた清蓮亭                  江戸時代

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現在の庭園は江戸時代中期に整備されたものとされている。小高い丘に茅葺屋根と桟瓦葺の二棟続きのお洒落な茶室・清蓮亭がある、寺伝では、長禄2年(1458)に足利義政が等持院を復興した際に茶室清蓮亭を造営したとされるが、現在は江戸時代中期に庭園が整備された頃の様式であるとされる。

「清蓮亭」上段一畳貴人床           明治時代

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明治時代に付け加えられた上段一畳貴人床である。果たして、こんな床が必要だったのであろうか。私から見ると、余分な建物のような気がする。

心字池と半夏生(下は半夏生に囲まれた池)         江戸時代

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東の心字池(しんじいけ)を中心とする庭園は、庭園関係者の間では夢窓国師が創った池の面影が残るとされる。等持寺の西に真如寺という名の寺があった。真如寺は足利尊氏の側近である高諸直(こうのもろなお)が康営元年(1342)開山を無窓国師の請うて開いた寺である。この真如寺の庭園が、何時か、等持院の東側の庭園に組み込まれたとされる。確かに西の芙蓉池と、東の庭園とは違う雰囲気がある。寺伝の通り、別の庭園を付け加え、東の庭園にしたのかも知れない。芙蓉池に比較すると、やや暗い印象は免れない。池の周りは、夏になると白い葉を付ける半夏生(はんげしょう)で囲まれる。(半夏生とはドクダミ科の多年草で、水辺に生ずる。夏、茎の頂きに白色の葉を生じ、その䈎腋に白色の穂状花を綴る)

足利尊氏公の墓                    室町時代

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芙蓉池と心字池の真中辺りに、足利尊氏公の墓がある。延文3年(1358)の銘がある。足利将軍の墓にしては、小さいような気もする。確かに足利尊氏は延文3年(1358)に、亡くなった。太平記によれば、背の「廱痩」(ようそう)が悪化し、本道・外科の医師が手を尽くし治療にあたったが及ばず、54歳で亡くなったとされている。

 

島崎藤村の大作「夜明け前」の第1部上巻第6章(和宮御降下の下り)に、この等持院・霊光院の尊氏他3人の首を抜き、三条河原に晒した事件が出てくる。第1巻の山場である。文久3年(1863)2月末に、青山半蔵の自宅に一人の訪問者がひっそりと訪ねてくる。平田門人の先輩、「暮田正香」であった。半蔵は、暮田が幕府の探偵につけられていることを察し、土蔵の中へ隠す。そこで、暮田は「平田門人ら9人が、等持院に安置してある足利尊氏以下、二将軍の木造の首を抜き取って、23日の夜にそれを三条河原に晒しものにしたという。暮田に言わせると、徳川将軍の上洛の日も近い。三条河原の光景は、これに対する一つの示威である、尊王の意志の表示である」。島崎藤村は、足利将軍の木造の首を抜いて三条河原に晒した歴史上の事実を、国学者の仕業にしたものであろう。

 

(本稿は、パンフレット「等持院」、古寺巡礼 京都「第34巻 等持院」、日本の歴史 佐藤進一「第9巻 南北朝の動乱」、永井路子「太平記ー古典を読む」、島崎藤村全集「夜明け前 第2巻」を参照した)