お江戸散歩  小伝馬町より京橋まで

昔の勤務先(明治乳業)の管理職OBグループ有志で、毎年秋に行う「お江戸散歩」を10月24日に愉しんだ。参加者は約30人、1時間半をかけて約4キロの道程を歩いた。東京は世界の都市で3番目に魅力ある都市に数えられ、ロンドン、ニューヨークに続く都市だそうである。しかし、毎回の「お江戸散歩」に参加して、400年の歴史が残り、丁寧に道標等が残されて、地域住民に愛され、親しまれている様子を見るにつけ、むしろ東京が世界一の魅力を発揮する時代がすぐ目の前に近づいていると思った。

石町(こくちょう)時の鐘         日比谷線小伝馬町駅上十思公園内

img_3332

江戸ではじめて千代田城で太鼓をたたいて時刻を知らせていたが、のちに江戸の町内の各方面につぎつぎと鐘撞堂が建てられた。江戸には9ケ所の鐘があったと伝えられている。現在残っているのは4ケ所とされる。「石町(こくちょう)の時の鐘」は本石町(ほんこくちょう))(日本橋室町四丁目)に二代将軍秀忠のときに建てられた。「石町時の鐘」は、鐘撞きであった辻玄七の書上によると、寛永3年(1626)に本石町三丁目へ鐘撞堂を建てて鐘を撞いたことがしるされており、鐘の音が聞こえる範囲の町からは「鐘楼銭」を集めて維持・運営が図られていたそうである。本石町に設置された時の鐘は、何度かの火災で破損したために修理や改鋳が行われた。現在の銅鐘には寛永8年(1711)に鋳造された銘文が刻まれている。「石町は江戸を寝せたり起したり」と川柳にも詠まれたが、この鐘は、明治を迎え廃止されたが、昭和5年(1930)に本石町から十思公園内に完成した鉄筋コンクリート造の鐘楼へ移設されて現在に至っている。

伝馬町牢屋敷跡             日比谷線小伝馬町駅上十思公園内

img_3330

十思(じっし)公園あたりは、伝馬町牢屋敷があったところである。牢屋敷は明治8年(1875)に市ヶ谷刑務所にうつされて廃止になり、ながい間荒れていたが、寺や小学校敷地に整備された。牢屋敷であるから、罪人を留置する場所であった。この牢屋敷跡を掘り出した所、このような石が多数発見された。牢屋敷を取り巻く、石塀の一部であった。幕末の安政大獄に連座した吉田松陰・梅田雲品ら多くの志士が収容され獄死した。ここには「松陰先生終焉の地」と辞世の句碑がある。句碑には「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも 留置(とどめおか)まし大和魂」とある。小伝馬町、伝馬町とは荷物運送のお伝馬役人や馬が配置された所である。

椙の森神社        小伝馬町駅から水天宮に向かって徒歩5分の場所

img_3337

この椙森(すぎのもり)神社は、1千年の昔、まだ江戸が武蔵野の原と言われた時代の創建と伝える。江戸時代は江戸三森の一つであり、また、江戸商人の発祥の地としても栄えて来た。神社が街の中心にあるため、江戸三富の一つに数えられる程多くの富籤が興業された事が記録に残されている。この富籤興業は、江戸庶民の楽しみの一つであり、庶民の泣き笑いが今に思い浮かべることができる。この冨塚は庶民の心の記念として大正9年に建立されたが、関東大震災によって、倒壊した。その後、冨塚の話を知った氏子の人々は有志を募って、昭和28年11月に再建されたのがこの冨塚である。この冨塚は他に類を見ないと言われ、日本で唯一の物である。今日では、宝くじの元祖として多くの人々が、心中祈願をしている程である。なお、神社には「正月恵方詣 日本橋七福神 恵比寿神 椙森神社」というお目出度い札が下がっていた。

人形町通り       小伝馬町駅より水天宮に向かって約10分歩いた所

img_3340

地下鉄人形町駅の交差点近くには、芝居の切られ与三(よさ)「与話情(よはなさけ)浮名横櫛(うきなよこぐし)」の玄治店(げんやだな)がある。江戸初期の幕府はお抱えの名医岡本玄治が拝領した屋敷地で、一体の町家を後に玄治店と呼ぶようになった。甘酒横丁は水天宮の手前の下町情緒漂う場所である。この「人形町通り」の櫓も美しい。

谷崎潤一郎生誕の地         水天宮駅下車1分 甘酒横丁の入口

img_3342

人形町東南側(浪速町)一帯は元吉原跡地で、アシ・ヨシのおいしげる沼地二町四方をかこって郭町(くるわ)とし、明暦の大火のあと日本堤の新吉原に移るまで遊女町としてにぎわった。吉原の名は現在、芳町に残っており、芳町一丁目四に「谷崎潤一郎生誕地」の碑があるが、その作品では少年時代はさびしい場所だったと書かれている。細雪(ささめゆき)という羊羹を売っていたが、買うと遅れるので、見送った。残念であった。因みに、谷崎潤一郎は明治29年(1896)に生まれ、春琴抄、細雪、少将滋幹の母、等の作品を表し、昭和40年(1965)に没している。戦争中には「細雪」の執筆を軍部に止められ、戦後全巻を発表した芯のある作家として有名である。私は昭和26年、高校2年の時に学校の図書館で発見して、息もつかず3巻を読破した記憶がある。正に、昭和の王朝文学である。

小網神社                 甘酒横丁を抜けて1分             img_3343

稲荷大神を主祭とし、約550年前に鎮座した強運厄除けの古社である。総檜造りの重厚な彫刻が施された社殿と神楽殿を備える。都内の神社で、総檜の社殿は珍しい。中央区指定文化財になっている。福禄寿は福徳長寿の神、弁財天は商売繁盛、学芸成就の神で、庶民の篤い信仰を得ている。

鎧の渡し跡    小網神社から歩いて1分  日本橋川の渡し場(現在は橋)

img_3344

鎧の渡しは、日本橋川に通されていた小網町と茅場町との間の船渡しである。古くは延宝7年(1679)の絵図にその名が見られ、その後の地誌にも多く記載されている。伝説によると、かってこの付近には大河があり、平安時代の永承年間(1046~53)に源義家が奥州平定の途中、ここで暴風・激浪にあい、その船が沈まんとしたため鎧一領を海中に投じて竜神に祈りを捧げたところ、無事に渡ることができたため、以来ここを「鎧が淵」と呼んだと言われている。また、平将門が兜と鎧を納めたところとも伝えられている。この渡しは、明治5年(1872)に鎧橋が架けられたことにより無くなったが、江戸時代に通されていた渡しの風景は「江戸名所図絵」などにも描かれており、また俳句や狂歌などにも詠まれている。縁日に 買うてぞ帰る おもだかも 逆さにうつる 鎧のわたし 話朝亭国盛

銀行発祥の地                 日本橋川に架かる江戸橋南詰め

img_3348

昭和通りが日本橋川に掛る前に「銀行発祥の地」がある。ここは明治6年(1873)に三井組・小野組が創立したわが国最初の第一国立銀行があった「銀行発祥の地」である。初代総監役(後の頭取)は渋沢栄一である。この銀行は第一国立銀行ー第一銀行ー第一勧業銀行ーみずほ銀行の歴史となる。現在は「みずほ銀行」の支店として営業している。

「熙代勝覧(きだいしょうらん)絵巻」 日本橋三越本店の地下街(三越前駅) 日本橋の眺め(富士山が大きい)  日本橋北詰の様子(日本橋魚河岸)

img004  img006

今から200年前、文化2年(1805)の江戸の、日本橋から神田今側橋までの大通り(現在の中央通り)を東側から俯瞰描写した作品である。肉筆の錦絵と思ってもらえば、判り易い。世界に一つしかない絵画である。現在はベルリン国立美術館に所蔵されている。絵師は不明であるが、温かみを感じさせる作品である。作品には88軒の問屋や店、1671人の身分も職もさまざまな人々や、犬20匹、牛4頭、猿1匹、鷹2羽など生き生きと描かれている。絵巻のタイトル「熙代勝覧」は「熙(かがや)ける御代の勝れたる大江戸の景観」という意味であろう。江戸東京博物館の全体監修のもと約17メートルの複製絵巻を制作・設置したものである。絵巻の絵画部分は原画を約1.4倍に拡大してあり、非常に見易い。これは、三越の地下1階の外側(地下鉄三越前)にあるので、何時でも拝観できる。

日本橋と国道元標                 日本橋南詰

img_3372

img_3363

日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長3年(1603)と伝えられている。幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交叉する点として江戸経済の中心となっている。橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名である。幕末の様子は安藤広重の錦絵で描かれている。現在の日本橋は東京市により石造二連アーチの道路橋として明治44年に完成した。道路原票は、昭和42年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを機に、昭和47年に柱からプレートに変更された。平成11年に、橋は国の重要文化財に指定された。

ヤン・ヨーステン記念碑        八重洲通りのグリーンベルト内

img_3374

東京駅八重洲口が、現在は丸の内をしのぐ表口となっている。この地名はオランダ人ヤン・ヨーステンに由来する。ヤン・ヨーステンは、オランダ東印度商会所属のリーフデ号の航海士であった。ヤン・ヨーステンは家康に用いられ、日本に永住した。ヤン・ヨーステンの記念碑である。VOCはオランダ東印度商会の商標である。

 

東京の旧跡を歩くと、実に整備され、名所には詳しい解説が施されている。大半が江戸時代以降のものであるが、それ以前のものもあり、日本人の「物持ちの良さ」を再発見した。特に「熙代勝覧絵巻」は、全く知らないものであったので、非常に勉強になった。この「お江戸散歩」に参加して、企画を立てた方の事前の綿密な調査と、豊富な資料には感心した。今回が5回目の「お江戸散歩」であり、今後も続くと思うが、来年も是非参加したいと思う。

 

(本稿は、「中央区ふれあい街歩きマップ 4,1」、東京都歴史教育研究会「東京都の歴史散歩・上」、図録「熙代勝覧絵巻」、各名所の案内板を参照した)

鳥獣戯画  京都高山寺の至宝  乙、丙、丁巻

乙巻は甲巻から一転して、動物図鑑のような様相を呈する。16種の動物が描かれているが、擬人化された動物は一切登場しない。巻頭の馬にはじまり、前半は牛、鷹、犬、鶏、鷲、隼といった日本にも生息している動物が描かれている。後半は犀、麒麟、豹、山羊といった日本には生息しない、あるいは空想上の霊獣を描いている。単なる動物図鑑とは異なり、背景が描き込まれている。親子連れの動物たちが多く描かれており、「鑑賞画」の様相を示している。丙巻は前半に「人物戯画」、後半には「動物戯画」という、まったく異なる論理の画面が配されている。「平成の修理」により、この謎を解くヒントが見えてきた。「人物戯画」と「動物戯画」は、もともと料紙の表裏に描かれており、「相剥ぎ(あいへぎ)」という技術により一枚の紙の表裏を二枚に分け、つなぎ合わせたというのである。つまり建長の頃には十四紙あったものが、伝来の過程で四紙が抜け落ち十紙となり、「相剥ぎ」により最終的に現状の二十紙となったということである。丁巻は、人物主体の巻である。侏儒、験競べ、法会、流鏑馬などが描かれている。甲巻及び乙巻に描かれているさまざまなモチーフを踏まえて描いており、動物たちが演じていた儀礼や遊戯を、人間が演じるというその逆説性がこの巻の真骨頂ということができる。

国宝  鳥獣戯画 乙巻  紙本墨画   平安時代(12世紀) 高山寺

img111

霊獣の麒麟である。徳の高い君主の治世に現れるという。中国の「礼記」という書物に説かれる瑞獣(ずいじゅう)である。

国宝  鳥獣戯画  乙巻  紙本墨画   平安時代(12世紀) 高山寺

img117

二つの図で、愛らしにあふれる虎の親子を表す。こちらも日本には生息しておらず、白描図像などをもとに描かれたとみられる。

国宝  鳥獣戯画 乙巻  紙本墨画   平安時代(12世紀) 高山寺

img116

今度は空想上の動物である獅子が登場。蝶を威嚇したり、伸びをしたり、その姿は犬のようである。

国宝  鳥獣戯画 丙巻  紙本墨画  鎌倉時代(13世紀)  高山寺

img118

猿の乗る鹿の蹄をのぞきこむ蛙。甲巻同様に丙巻でも、鹿は擬人化されないままである。

国宝  鳥獣戯画  丁巻  紙本墨画    鎌倉時代(13世紀)  高山寺

img119

山車に見立てた荷車を引く行列、祭りの熱気が伝わってくるかのようである。牛もまた擬人化されていない。

国宝  鳥獣戯画   丁巻  紙本墨画   鎌倉時代(13世紀) 高山寺

img121

甲巻に描かれている猿の法会のさらなるパロディー。こちらの本尊は蛙とも、何等かの虫にもみえる。

国宝 鳥獣戯画  丁巻  紙本墨画   鎌倉時代(13世紀) 高山寺

img120

甲巻でも蛙が編木(びんぎさら)を手にしている田楽の場面である。太鼓、鼓、笛などを手にした楽人が拍子を合せて演奏している。

 

鳥獣戯画の制作された意図や目的は何であったのであろうか。この時代(平安時代から鎌倉時代初期)の最高レベルの技術を持った絵師が、この「鳥獣戯画」を手がけている。絵仏師あるいは、宮廷繪所の絵師という高い階層に属したものが、高い地位にある人物から注文を受けて「鳥獣戯画」を描いたのであって、絵師のただの筆遊び(すさび)ではなく、何等かの目的をもって制作されたと考えるのが妥当だろう。描かれた背景は謎が多い。平安時代末期に仏教が乱れるなか、僧や公家を風刺したとの説もあるが、誰がどんな目的で描いたのかは、はっきりしない。ただ、「墨だけでこれほどの躍動感いっぱいに描くことは、相当な力量の持ち主が、楽しんで描いたのでしょう。」(東京大学・坂倉聖哲教授)一方、図録の中に「鳥獣戯画がマンガを生んだのか?」を執筆された松島雅人氏(東京国立博物館教育講座室長)の「源平の戦乱の中で非業の死を遂げた高貴な人物として、幼くして死んだ安徳天皇の慰霊」という説は捨てがたい魅力がある。今日のアニメの原型と考えれば、安徳帝の慰霊こそ、安心できる仮設である。今後の研究をまちたい。

 

(本稿は図録「鳥獣戯画 京都 高山寺の至宝 2015年」、田中英道「日本美術全史」、原色日本の美術「第8巻 絵巻物」、日経「おとなのOFF2014年10月号」を参照した)

鳥獣戯画  京都高山寺の至宝 甲巻

九州国立博物館の外観

IMG_2990

高山寺に伝わる平安、鎌倉時代の絵巻「鳥獣戯画」全四巻と、国内外に流失した断簡五紙が、すべて揃って出展される鳥獣戯画展は、2016年10月4日から、九州国立博物館で開催される。昨年、東京国立博物館で開催されたものと、同じであるがあえて、九州博物館まで見学に行き、再現した。鳥獣戯画と聞けば遊びに動物たちを描いた甲巻を思い浮かべるが、専門家たちがこれを「国宝中の国宝」とする理由も、甲巻の魅力に凝縮される。動物を擬人化し、彼らがさまざまな遊戯や儀礼に興ずる様子を描いている。物語は右から左へ進む。絵巻物に付きものの「詞書き」は無い。「日本美術が大陸文化を模倣し、発展してきたことは間違いないが、この見事な擬人化と融通無碍(ゆうづうむげ)な面白さは中国にはまねの出来ないもの。建前重視の中国美術ではこうした戯画は少ないし、あっても価値はないとされます」(東京大学東洋文化研究所教授板倉聖哲氏)。戯画の名を冠しているが、これは単に「戯れ描いた」と理解するのは大きな誤解である。各巻の画風もだいぶ異なる。丙、丁巻などはラフなスケッチ風にも見えるが、よくよく画面を観察してみると確かな技量を持った人物によって描かれたことが窺える。この絵巻は少なくとも「戯れ」に描かれたものではない。鳥獣戯画は、平成20年(2009)から4年かけて解体修理が行われ、その過程でさまざまな新事実も確認された。成立から八百年近くたつた鳥獣戯画の新たな謎解きへの一歩を踏み出す展覧会である。まずは、甲巻から見ていきたい。

国宝 鳥獣戯画  甲巻  紙本墨画  平安時代(12世紀) 高山寺

img100

鹿に乗る兎に水をかける猿。鹿は、甲巻のなかで擬人化されていない、数少ない動物の一つである。

国宝  鳥獣戯画 甲巻  紙本墨画  平安時代(12世紀) 高山寺

img101

弓をつがえる兎の表情は真剣そのもの。弓の調子を整える蛙の姿も見える。

国宝 鳥獣戯画 甲巻  紙本墨画    平安時代(12世紀) 高山寺

img102

扇を振り、なにやら差し招いている兎。その先には、次の会が続く。

国宝  鳥獣戯画  甲巻  紙本墨画  平安時代(12世紀)  高山寺

img103

兎が差し招く先(先の図)。その先には、荷物を運ぶ両陣営の動物たち。これは賭弓(とゆみ)の勝者に与えられる品だろう。

国宝  鳥獣戯画  甲巻  紙本墨画   平安時代(12世紀) 高山寺

img104

逃げる猿を追いかける兎と蛙。鳥獣戯画でも著名なシーンの一つである。

国宝  鳥獣戯画  甲巻  紙本墨画  平安時代(12世紀)  高山寺

img105

ひっくり返っている蛙。兎や蛙が取り囲むが、そこには緊迫感は感じられないように見える。

国宝  鳥獣戯画  甲巻  紙本墨画   平安時代(12世紀)  高山寺

img108

場面は一転、相撲のシーンへ。相撲はもともと秋に行われる神事だった。兎の耳に噛みつく蛙。禁じ手である。

国宝  鳥獣戯画  甲巻  紙本墨画  平安時代(12世紀) 高山寺

img109

甲巻の山場。蛙の本尊を前にした猿の法会。袈裟を掛けた兎や狐も読経している。涙を拭う老齢と思われる猿はまだしも、狐や兎、鼬は遊んでいるこのようだ。

img110

法会も終わり、猿にさまざまな供物が捧げられる。兎の持つ虎皮は貴重な舶来の品。

 

甲巻は四巻のうち最も知名度の高い巻である。甲巻には、兎、蛙、猿といった主要登場動物を含め、実に11種の動物が登場する。この三巻のほか、鹿、狐、猪、猫、鼠、雉、鼬(いたち)梟(ふくろう)で、いずれも、平安時代に日本で目にすることのできた動物たちである。これらの中で、鹿と猪、梟は擬人化されておらず、動物のままの姿で描かれている。その違いは二足歩行が可能か、あるいは二足歩行で描くことに違和感のない動物か否かという点に求められるかも知れないが、作画の論理の真意は不明である。「まず墨で描かれた素描による風刺画として、時代の新しい自由な雰囲気を感じさせるものがる。甲巻の内容は、猿、兎、蛙の中で一番負けた猿が、最も勝った蛙を殺し、その供養を猿僧正の下で行うという、ひとつの風刺が、画面に一貫した緊張感を与えているからだろう。詞書きもないままこれだけの風刺絵画を描けるのは相当な知的人物に違いないだろう。」(日本美術史全史)「甲巻は特に優れ、動物の姿態と、背景をなす風景や草木の配置がぴったりと調和し、なんら矛盾するところはない。濃淡の墨色の使い分け、細かく太くアクセントを変化させる線描のはたらきも、画家の統一的な意図になるものと思われる。」(絵巻物)甲巻の作者は、永らく、平安時代後期の天台僧、鳥羽僧正覚猷(かくゆう)(1053~1140)筆と伝えられてきた。鳥羽僧正は「古今著聞集」では「近き世にならびなき絵描き」と評されるなど、画技にも長けていたとみられている。ただ鳥羽僧正筆という説は近世以降に作られたものと解することができる。鳥獣戯画の制作圏に関しては、これまで二つの有力な説が提出されている。一つが、白線図像や仏画を描く、寺院に属する絵仏師だったとする説である。いま一つが主に世俗画を描いた宮廷繪所(えどころ)絵師だったとする説である。図録の中で土屋貴裕氏(東京国立博物館研究員)は、面白い仮設を述べている。それによれば「平安時代後期、絵画の制作と享受において、寺院と世俗が交叉するような場。そのような場こそ、鳥獣戯画が生まれた環境に相応しい」として、「一つの推測として”仁和寺”を一つの可能性として提示したい。仁和寺の門跡は天皇の子弟から選ばれ、世俗と寺院が交わるような場であった。」と述べている。出所の可能性としては面白い意見であるが、具体的な仁和寺にいた絵仏師ということであろうか。今後の研究が待たれる。私は、「黒川孝雄の美」で、仁和寺を近く取り上げてみたい。

(本稿は図録「鳥獣戯画 京都高山寺の至宝 2015年」、日経「おとなのOFF2014年10月号」、田中英道「日本美術史全史」、原色日本の美術「第8巻  絵巻物」を参照した)

平安の秘仏 櫟野寺の大観音とみほとけたち

滋賀県甲賀市に存在する櫟野寺(らくやじ)は、延暦11年(792)に最澄(さいちょう)が延暦寺の建立に必要な良材を求めて櫟野(いちの)の地を訪れ、櫟(いちい)の霊木に仏像を刻んだことが、そのはじまりと伝わる天台宗の古刹(こさつ)である。日本仏教の母山と仰がれる比叡山延暦寺の末寺であり、地元では「いちいの観音さん」と呼ばれ親しまれている。このお寺には巨大な本尊を含めて20躯の平安仏が祀られていることで有名である。この櫟野寺を、最初に広く紹介したのが白洲正子氏の「かくれ里」であった。「かくれ里」は、昭和44年(1969)から芸術新潮に2年間に亘り連載された。このため、京都を拠点にして、畿内の村落をくまなく歩いた。「かくれ里」は昭和46年(1971)に新潮社より刊行され、多くの読者を得た。白洲氏は、最初から櫟野寺を知って出かけた訳ではなく、博物館で見た能の面を所有する「油日神社」を訪れた時に、宮司さんから「ここまで来たなら、櫟野寺も見ていらっしゃい。立派な仏像が沢山あります」と教えられて、櫟野寺へ来たのである。以下「かくれ里」から引用してみる。「櫟野寺はイチイノテラともラクヤジともいう。その名に背かず、境内には、樹齢千年と称する櫟がそびえ、そのかたわらに、見たこともないような大木の槇も立っている。いかにもこういう寺にふさわしい朴訥なお坊さんが現れ、宝物殿(大悲閣)の扉を開いて下さった。最近まで大きな本堂があったらしいが、火災のため失われ、さいわい仏像は新しい宝物殿の方に移してあったので助かりました。申し訳ないことです、と坊さんはしきりに恐縮されるが。」いずれにしても、天台宗の寺院であり、最盛期の櫟野寺には七つの坊があったというから、大変な大寺であったと思う。(東京国立博物館で12月11日まで公開)

櫟野寺の本堂(火災の後に再建された本堂)

img970

立派な仁王門のある古刹であり、甲賀市の中心的な寺院であったことは間違いない。重要文化財に指定される平安時代の仏像が、20躯も残っているのは、長浜のお寺とは格の違うお寺であったであろう。この20躯の仏像のうち実に12躯が観音像(聖観音が8躯、十一面観音が4躯)である。この櫟野寺とその周辺の塔頭は、観音の聖地と呼ぶにふさわしい場所である。寺伝によれば、延暦11年(792)に伝教大師最澄(766~822)が、延暦寺を建立するために良材を求めてこの地を訪れ、櫟(いちい)の霊木に観音像を刻んだことが当寺の始まりと伝えている。何故観音が選ばれたのかということについては、残念ながら明確ではない。最澄が良材を求めてこの地を訪れたという伝承からも、このあたりは奈良の寺院や延暦寺の造営にあたっては、良質な材木の供給地(杣山ーそまやま)であったと思われる。観音信仰と山岳や樹木へ結びつきやすく、当時この地が観音の聖地であると認識される可能性は十分あったのであろう。

重要文化財 十一面観音菩薩坐像 木造、漆箔・彩色 像高312cm平安時代(10世紀)

img971

櫟野寺の本尊である。重要文化財に指定された像の中では日本最大の十一面観音菩薩坐像である。平安時代後期、洛中を中心に藤原摂関家や天皇、上皇の発願によって巨像が多数造られたが、この像はそれをさかのぼる時期に都から少し離れた甲賀に造られたことが注目される。巨像を造るには人手と資金が必要であり、それを供給する力がこの地に注がれたのである。甲賀は、日本の仏像史上の重要な出来事があった場所である。やや離れるが、奈良時代の天平14年(742)に造営が始まった紫香楽宮(しがらきのみや)が群内にあり、聖武天皇は天平15年(743)に、そこにあった甲賀寺で「大仏建立の詔」を出して大仏の建立を始めたのである。事業は、奈良の東大寺に引き継がれたが、大仏はもともと甲賀でつくり始められたのである。この坐像仏は、秘仏であり、何時も厨子の中に納められている。白洲氏も拝観できていない。この大仏が寺外に出るのは、今回が初めてであり、次回の公開は2018年(平成30年)秋で、33年ぶりの公開だそうである。巨大仏で、台から光背までの高さは531cmであり、日本でも有数の巨大仏である。像高は471cmである。これでも大きい。像の高さを示す、座から髪際までの高さは、239cmである。一般に「丈六仏」(じょうろくぶつ)は4.8m(坐像で2.4M)であり、正にこの秘仏は丈六仏として造られたものである。一木造で、頭部から体幹まで、すべてヒノキの一木で造られている。寺伝ではイチイの木の一木造とされているが、イチイの木と言う言葉は、広く用いられ、実際はヒノキの一木造である。

重要文化財 薬師如来坐像 木造、漆箔 像高 222.0cm 平安時代(12世紀)

img972

左手に薬壷を持つ薬師如来であり、病気平癒や延命長寿をつかさどる如来である。この仏像は寄木造の技法を用いており、平等院の定朝(じょうちょう)様式に似ている。正面の髪際の高さが約1.9Mであることから、中国・周時代に用いられた周尺で一丈六尺に該当する「丈六仏」である。丈六は、経典に説かれる仏像の理想的な大きさと考えられており、仏像は本来その大きさにつくられるべきであるとされている。光背は像と同時期に造られたものである。本尊とは異なり、ふっくらとした頬に丸みのある顔、なだらかな肉体表現で、まさに定朝様式である。本像は、櫟野寺の奥院とされる詮住寺(せんじゅうじ)の本尊であったと伝えられている。

重要文化財 地蔵菩薩坐像 木造、漆箔 像高 110.8cm 平安時代(12世紀)

img973

地蔵菩薩は通常青年の僧侶の姿をし、右手に錫杖、左手に宝珠を持つのが基本形である。しかし、この地蔵尊は、もっと年若い少年のように見える。頭部から体幹まで一材で彫り出している。台座は後補であるが、光背は制作当時の姿を保っている。この像で注目されるのは、内刳り(うちぐり)の施された像内に墨書で銘文が記されていることである。それによると、文治3年(1187)に勧進上人(かんじんしょうにん)の蓮生(れんしょう)という僧侶が「現世安穏後生菩提」(げんせあんのんごしょうぼだい)を祈願し、数千人の人々に協力を請い造像されたと言う。浄財を募り、仏への結縁を望む人々の協力を求める「勧進」による造仏は、中世以降に一般化するが、この像はその早い例である。なお、本像はもと櫟野寺の末寺とされる寛沢寺(かんたくじ)に伝わったとされる。像に金箔が残るが、これは明治期の修理の際に施されたものである。

重要文化財 毘沙門天立像 木造 像高 163.0cm 平安時代(10~11世紀)

img974

寺伝によれば、延暦21年(802)、征夷大将軍坂上田村麻呂(たむろまろ)が、この地にやってきて、櫟野観音のご加護によって鈴鹿の賊を討伐した。その戦勝を祝い、ここに七堂伽藍を建て、自ら像を彫って本尊の傍らに祀ったとされる。「田村毘者門天」とも呼ばれている。胸板が厚くどっしりとしたその姿は、数々の戦いで勝利を挙げた武将にふさわしい堂々たるものである。甲冑を身に付け、左手に宝塔を捧げ持ち、右手に宝棒を構えるのは、日本では四天王のうち北方を守る多聞天(たもんてん)とされる。四天王のなかでも特に人気が高く、単独で信仰されることが多い。その場合は毘沙門天と呼ばれる。護法神としての性格から、日本では武家による信仰が篤い。

重要文化財 地蔵菩薩立像 木造、漆箔・彩色 像高 97.1cm 平安時代(10世紀)

img977

頭を剃髪し、袈裟を身につけることから地蔵菩薩として信仰されているが、衣の襟(えり)を立てるところが珍しく、注目されている。これは僧襟と呼ばれる着衣であり、地蔵ではなく僧侶の姿に表した神像とみる見解もある。出家修行する神の姿を、僧侶のかたちを借りて表現したものを僧形神像と呼ぶが、本像については確証はないが、可能性はある。一つの木材から全身を彫り出し、内刳りを施さないところは、櫟野寺の仏像に共通する。

重要文化財 観音菩薩立像 木造、彩色 像高 170.3cm 平安時代(10~11世紀)

img976

等身の大きさの観音立像である。目尻を吊り上げた険しい顔つきに、細身で長身のプロポーションの美しい観音である。一つの木材から左手の肘までと右手の手首までを含む全身を彫り出し、内刳りを施していない。本像で注目すべきは、耳のかたちである。耳の中央を三弁の花形にしているが、これは本尊の頭上面の耳も同じ形であることから、耳についても本尊坐像を参考にしているのであろう。

 

 

本寺の来歴については、最澄と坂上田村麻呂の2名が挙げられている。これについて、白洲正子氏は「かくれ里」の中で、次のようにまとめている。卓見と思うので、紹介したい。「延暦11年3月、田村麻呂は木工頭(こだくのかみ)に任ぜられた。造営にたずさわる官職で、大工を統率したり、用材を集めたりする役目である。当時は長岡京につづいて平安京の建設に忙しく、これは重要な仕事だったに相違ない。材木を求めに甲賀地方へも出張したであろう。延暦11年と言えば、最澄もこの辺にいた筈で、二人が出会わない方が不自然だ。櫟野寺の創建にまつわる数々の伝説は、暗にそういうことを物語っているのではあるまいか。寺は最澄が創立したとしても、田村麻呂が後援したことは確かである。土山の近くには、田村神社もあり、甲賀の周辺にその遺跡が多いのは、当然のことと言えよう。職掌がら、ここには長い間滞在し、村人たちの尊敬と信頼を集めたに違いない。彼が睨みを利かせているだけで、鈴鹿山の山賊共はちじみ上がったことであろう。」

 

(本稿は,図録「平安の秘仏 櫟野寺の大観音とみほとけたち 2016年」、古寺巡礼「近江若狭の仏像」、白洲正子「かくれ里」を参照した)

鈴木其一(きいつ)  江戸琳派の旗手(掛軸)

いわゆる琳派の装飾的な絵画は、日本美術の持つ本来の特色をいちばん純粋に、鮮明に発揮したものとして、高い評価を受けている。このような形の美術が出てくるには、その美術を生み出す適切な母胎が必要であった。その母胎となったものは、日本の近世を生み出した根本の勢力と言っても良い京都を中心とする新興の商業ブルジョアジーであった。これらの富商階層は、当時は町衆と呼ばれたが、町衆は応仁、文明の乱以降、急速に富力を増し、実力を失った足利幕府に代わって自治能力をもそなえてきた自由な階層であり、彼らは没落した宮廷貴族を保護することによって、富力という現実の地盤の上にさらに日本の古典文化の教養を移し入れ、独自の町衆文化を作り出したていった。時代の主勢力が桃山から江戸にうつり、徳川政権がしだいに堅固な藩制をしいて封建的支配体制をつようめるようになると、これら上方の町衆は、江戸幕府に対抗するに至った。琳派は江戸時代中頃から、酒井抱一、その弟子の鈴木其一などいわゆる江戸琳派に移行することになった。ここでは、江戸琳派の旗手としての鈴木其一の作品(掛軸)を解説する。

蔬菜群虫図  鈴木其一筆  一幅  江戸時代後期   出光美術館

img950

茄子と胡瓜が実り、添木とされた竹に雀が止まり、蜻蛉や蛾や蜂が群がる。不思議な秋の菜園を描くこの作品は、植物の下方に穴のあいた病巣が描かれるなど、伊藤若冲の作品との関連が指摘されている。人工的なモチーフの形と色彩は、まるで造り物の植物や昆虫が生き物のようにみえるという倒錯した感覚を与える。独特の造形感覚を色濃く示して、同時代絵画のなかで異彩を放つ。

群禽図  鈴木其一筆  二幅  江戸時代後期   個人蔵

img952

左右幅にそれぞれ13種・13羽、合計26羽の鳥が描かれる。興味深いのは、ほとんどの鳥が、博物学的正確さこそところどころ欠けるものの、ほぼ種が同定できるほどリアルに描かれていることである。左幅はミミズクを中心に猛禽類などを描いている。そのような光景を実際に見て興味をひかれたのか、あるいはそのような鳥の行動を知っていて何らかの意味を込めたのか。ただし、鳥そのものは前に厳密に写生したものとはいいがたく、屋久島以南の南方の鳥も含んでいることから、先行する何等かの写生図譜、粉本のようなものを参考にしたものと考えられる。其一がのびのびと画風を展開していく40歳代後半の作品と見られる。

白椿に楽茶碗図  鈴木其一筆  一幅  江戸時代後期  個人蔵

img953

黒楽茶碗に白椿の折枝を取り合わせた小品で、江戸時代後期に活躍した日本各地の漢詩人、書家、画家らの作品83筆を貼り込んだ画帳の一葉である。本作は黒楽茶碗の表現が秀逸で、光を含んだ胴のぬらりとした肌合いを、墨の滲みを利かせたうるおいある筆で表されている。黒楽茶碗の右脇に、隠し落款のように「噲々其一」と金泥で記すところなど心憎い仕掛けである。

紫陽花四季草花図  鈴木其一筆  一幅  江戸時代後期  細見美術館

img954

紫陽花、撫子、薄、朝顔、水仙などを一図に描く四季花草図である。中でも江戸琳派が好んで描いた紫陽花はことさら大きく、中央に堂々と描かれ、水色の花弁もさまざまに彩色して色代わりする紫陽花の美しさを表している。

藤花図(とうかづ) 鈴木其一筆  一幅  江戸時代後期 細見美術館

img955

青い花房をひたすら連ねた藤図である。本図では其一は真直ぐに下がる三本の花房に、細い蔓でS字を描いて画面に動きを与えている。さらに花弁の一枚一枚を付立による微妙な色使いで繊細に描き、清新で優美な印象をもたらしている。

向日葵(ひまわり)図  鈴木其一筆 一幅  江戸時代後期  畠山記念館

img956

本作は抱一の作と比べると、其一の独自性がよくあらわれている。太陽に向かって真直ぐに伸びた茎と、その頂に陽光を浴びた黄金色の花が咲く。花は真正面を向いて開花したものを中央に、横向きに咲きかけのものを蕾に合わせ、葉もバランス良く配置する。画面いっぱいに大きく描くこの大胆な画面構成と明快な描写からは、装飾的な印象を受け、近代絵画に通じる要素が窺われる。

雪中竹梅小禽図(ちくばいしょうきん)鈴木其一筆双幅江戸時代後期 細見美術館

img957

紅梅と竹が雪化粧するなかで、雀が戯れている。花鳥図に小禽が飛ぶ作品を抱一は十二ケ月花鳥図としてしばしば描いたが、其一はそこに雨や風を取り入れる。さらに対幅とした作品で、各々に時候の花鳥を取り込んで、雨風といった気象は共通させながら、季節を対比させるように描く。ここでは雪に注目した季節感を一層先鋭に表現している。

白椿に鶯図  鈴木其一筆  一幅 江戸時代後期  細見美術館

img959

白椿に留まる鶯は、花の蜜を吸おうと身を乗り出している。椿の葉の濃い緑の陰影による艶々とした質感、黄色い芯も鮮やかな白い花が対照的である。

四季歌意 在原業平(部分) 鈴木其一筆 江戸時代後期  細見美術館

img960

在原業平、柿本人麻呂、西行、藤原定家の4人がそれぞれ詠んだ和歌の風景の中に描くものである。縦横比例が一対十四にもなる異例の横長画面に収めた機知と工夫に富んだ作品である。本作は、在原業平の歌をモチーフにしたものである。その歌は下記の歌である。(春・在原業平 世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし)

 

「蔬菜群虫図」で、伊藤若冲作品との関連を述べたが、果たして19世紀の江戸画壇に伊藤若冲の作品は知られていたのであろうか?詳細は不詳であるが、図録で其一の経歴を調べて見ると、「天保4年(1833)の2月から11月まで、表向きは京都の土佐家へ修行という名目で酒井家に暇を願い出て、京都・奈良・滋賀はもとより国元の姫路、さらには讃岐や厳島、太宰府や九州各所をめぐっての大旅行を行っている。その道中を記した記録(西遊日記)によれば、各地で写生や古画の鑑賞を行い、其一の生涯のなかでも最も心涌きたつ日々であったと思われる」と記されている。京都で古画の鑑賞を行ったということは、「平安人物志」の中で、京都で2番目の人気画家であった伊藤若冲の作品を鑑賞したことは当然考えらる。鈴木其一は、伊藤若冲の作品に学び、「蔬菜群虫図」を描いたというのは、必ずしも空想では無い気がするが如何であろうか。

 

(本稿は、図録「鈴木其一 2016年」、図録「大琳派展 2008年」、図録「美の祝典  2016年」、図録「琳派コレクション 2013年」、図録「與衆愛玩 琳派 2007年」、原色日本の美術「第14巻 宗達と光琳」、河北綸明「日本美術史入門」、田中英道「日本美術全史」、安村敏信「江戸絵画の非常識」を参照した)

鈴木其一(きいつ)江戸琳派の旗手(屏風・襖絵)

琳派という名称が用いられた背景には、この流派が直接的な子弟関係を持たない時代を隔てた私淑の関係によって形づくられているという特殊性という意識が反映してように思う。琳派は、江戸時代初期の本阿弥光悦や俵谷宗達(17世紀前期に活躍した)、江戸時代中期の尾形光琳(1658~1716)、尾形乾山らにより京都で確立された。酒井抱一(1761~1828)は姫路藩主酒井忠以(ただまさ)の弟として江戸に生まれ、能や茶のほか俳諧、狂歌に親しみ、さまざまな文芸のなかで、絵については狩野派をはじめ、浮世絵や京都で隆盛した写生画など多くの流派を学び手中にした。出家した後、自ら光琳の百年忌法要を営み「光琳百図」を出版するなど、光琳顕彰に力を注いだ。しかし、抱一は光琳の画風をそのまま継承したわけでは無く、俳味や機知に富んだ、光琳が創りだした京都のものとは一風違った琳派の画風を江戸の地において、つくり上げたのである。抱一門下から優れた弟子が数多く輩出したが、そのなかの一人・鈴木其一(1796~1858)は、ほかの絵師とは一線を画している。抱一の内弟子として学び、藩士の鈴木家に婿入りし酒井家家臣となった。抱一の代筆を務めるほど師風を我がものとしたが、文政11年(1828)抱一没後、その個性を開花させ、独特の作品を描き出した。京都画壇の円山四条派の画風も吸収し、其一の作品に見られるモチーフの形態の面白さ、大胆な画面構成や鋭敏な色彩感覚に見られる多面的な美的特質が今日ますます評価を高めている。さらに其一は、息子の鈴木守一(しゅいつ)や多くの弟子たちを育成し、現代まで続く琳派の様式の継承を促し、正に江戸琳派の旗手として目覚ましい活躍をした。(サントリー美術館9月10日=10月30日)

群鶴図屏風  鈴木其一筆 二曲一双 江戸時代後期 ファインバーグ・コレクション

img934

真鶴の図案化した姿態を横一列に並べる作品は、光琳が生み出したものとしてフリア美術館に所蔵される作品に見られる。師の抱一の作品にはウースター美術館所蔵の作品に見られる。琳派の絵師たちが継承してきた画題である。しかし、これらの図と比べれば、この作品は行儀よく同じ方向に顔を向けて進む鶴ではなく、さまざまな姿であちらこちらに首を向ける姿となっている。水流の形も一部変えて、其一独自の自由な解釈によって描かれた群鶴図と言えよう。

三十六歌仙・檜図屏風  鈴木其一筆 八曲一双 天保6年(1835) 個人蔵

img935

img936

三十六歌仙とは、平安時代の藤原公任が選出した優れた三十六人の歌人のことで、古来「歌聖」として尊敬を集めたものである。三十六歌仙図は尾形光琳以降、琳派において継承された画題の一つである。其一が光琳の「三十六歌仙屏風」を、ほぼそのまま踏襲しながら、八曲一双屏風という横長のゆったりと歌仙を配している。歌仙らの品格や優美さを際立たせている。これと対になる「檜図屏風」には金地に墨一色で檜が描かれるが、これは「噲々」(かいかい)落款時代に開化した琳派学習の成果を物語る作品と言えよう。なお、本作には付属品として「金地三十六歌仙之図 金地墨絵檜図 鈴木其一元長筆」と蓋表に記されている。私は、「三十六歌仙図」と「檜図屏風」とは、制作の意図も絵の調子も違うことから、この二つの小型屏風がセットで出展されることには違和感があったが、この付属品の其一の箱書きを読んで、個人からの制作依頼が、二つの画題であったことが判り、これがセットで陳列される意味が分かった。

夏秋渓流図屏風  鈴木其一筆 六曲一双 江戸時代後期 根津美術館

img937img938

私が、初めて本作品を見たのは根津美術館で平成25年の5月に恒例の琳派展を拝観した時である。勿論、尾形光琳の国宝「燕子花屏風図」を拝観する目的であったが、併せてこの「夏秋渓流図屏風」を拝観し、驚いた。これだけの作品を描く琳派画家がいたことを改めて認識した。その時の記録では、昭和50年代にこの作品が広く知られるようになり、其一の評価を決定的になったそうである。檜の森と、そこを流れる渓流が主題であり、地面は一続きであるが、右隻は白い山百合の花が咲く夏、左隻は桜の葉が紅葉に染まる秋に、それぞれ設定されている。両隻とも左右両方の奥から渓流が流れ来て、絵のこちら側に流れ落ちるかのように描かれている。光景それ自体にはなんの変哲もないが、鮮やかに群青を平塗りしたうえに粘るような筆使いで金泥を引いた渓流の、軟体動物めいた表現にまずおどろかされた。左隻の中ほどの檜には真横向きに蝉が一匹とまるが、これもまた奇妙な静寂感を画面に与えている。現代感覚に近い色彩を感じた。

萩月図襖  鈴木其一筆 四面  江戸時代後期   東京富士美術館

img939

この襖絵は2008年の「大琳派展」でお目に掛かっている。画面右から伸びる薄紅色の花房を付けた萩の枝は、ゆるやかな夜風に揺れるようにカーブを描いている。その枝に呼応するように左側の白萩は配置されている。絹地の画面全体に銀泥を刷いて、鈍く柔らかい月光に満たされた空間をつくりだしている。萩の花房と葉を、繊細に色調を変えながら綿密に描き別けて秋の夜の儚さを感じさせる。白い月が、強く印象に残る。

風神雷神図襖  鈴木其一筆  八面  江戸時代後期  東京富士美術館

img940img941

この襖絵は2014年6月に、東京富士美術館の「江戸絵画の神髄」で初めて見た。宗達、光琳、抱一という琳派の先達によって受け継がれてきた風神雷神と言う画題を、其一は屏風ではなく襖の大画面に移し替えた。元は二曲一双の屏風から、それぞれ左右に余白を加えた襖八面に画面が拡張されている。絹地の上に、滲みを利かせた黒雲を描くが、風神を載せる雲は下から勢いよく噴き上げる風を感じさせ、対する雷神を取り囲む黒雲は、いかにも稲妻が走りそうな雨をはらんだ雲に見える。其一40代前半の作と推定される。

水辺家鴨図(あひるず)屏風 鈴木其一筆 六曲一双 江戸時代後期 細見美術館

img942

丸みのある愛嬌のあるしぐさの家鴨を描く。其一は琳派の絵師が描き繼いだ鶴図を「群鶴図屏風」のように独自の解釈で変奏したが、さらにここでは鶴を家鴨に転生させている。画面左端に群青の水流を描くことが残った金箔地が不思議な形の地面(州浜)となった。その地面はあたかも左へ向かう矢印のような形となって、その方向へ家鴨が進んでいき、左にいる二羽が後姿でその動きを受け止めている。家鴨の群れはそれぞれ勝手きままな仕種をとっており、餌をついばむような姿のものもいる。ユーモラスな作品であるが其一の形態感覚がいかんなく発揮されている作品である。

芒野(すすきの)図屏風 鈴木其一筆 二曲一双 江戸時代後期 千葉市美術館

img944

二曲一双の画面に芒の生い茂る野原が広がる。芒の穂先が形作る線は単調でありながら、しなやかで心地よいリズムを奏でる。中央にたなびく霞は、銀白地の上に銀泥と墨を使い分けることによって表現されており、月光と霞によって幽暗な光がたちこめる芒野の静けさを醸し出している。其一の理知的なデザイン感覚を雄弁に物語る、印象的な屏風である。因みに、千葉市美術館は江戸絵画(含む浮世絵)の名品を多数保有する美術館である。

朝顔図屏風  鈴木其一筆  六曲一双 江戸時代後期 メトロポリタン美術館

img945img946

夏から秋にかけて咲く朝顔のみを取り上げて、六曲一双の大画面に描いた屏風である。うねるような朝顔の緑色の蔓や葉と、胡粉を巧みに用いて光を発するかのよう描かれた青い朝顔の花を眺めると時が経つのを忘れてしまうかのようだ。金地を背景に、群青による朝顔の花と群青による羽を全面に描いたこの屏風は、光琳が描いた「燕子花図屏風」や「八橋図屏風」の題材と色彩の取り合わせを明らかに意識したものと推測されている。この其一が選んだ朝顔という植物には文学的背景は稀薄であり、むしろ江戸後期における園芸熱がこの画題を選ばせた動機ではないかと推測されている。本来、朝顔という蔓性の植物は、棹や垣根にからませて栽培し鑑賞するものである。しかし、其一は朝顔の根元を一切明かにせず、あたかも空中に浮遊させるがごとく、それぞれの蔓を融通無碍に四方に伸びるに任せ、大輪の朝顔をたわわに咲かせた。そこには植物の持つ自然の生命力を感じさせもするが、右隻、左隻を一望に収め、六曲一双の屏風として見たときには、それぞれの花房の示す勢いや方向が、左右で拮抗しあうように慎重に制御されている様子がうかがわれる。それは自らの絵師としての根幹をなす琳派という流派の様式をたえず新たに問い直す作画活動の中で生まれた琳派ならではの屏風であったと思われる。

富士千鳥筑波白鷺図屏風 鈴木其一筆 二曲一双 江戸時代後期 個人蔵

img948img947

富士に千鳥を金箔地に、筑波に白鷺を銀白地のそれぞれ二曲屏風に描き、一双とする作品である。富士と筑波は江戸の東西に臨む山として人々の信仰を集めた。光琳にも富士山を描く作例があるが、江戸琳派でさらに筑波と組み合わせた図様も多い。この屏風は、晩年の規一が多様な試みを行ったことを示す意欲作である。雪を頂く富士には緑豊かな松を配し、千鳥の群れが羽を連ねて旋回するさまを描く。其一は堂々たる富士に、小さな千鳥を数多く描き、画面に躍動感を与えた。千鳥は同じように見えるが、一羽一羽表情も足先も微妙に違え、類型化を回避している。筑波の山は、銀地に青々とした山の姿を描き、麓には水墨で立木を配す。三羽の白鷺は風に身を任せるかのように同様のポーズで描かれ、画面は静寂である。其一は金と銀、濃彩と水墨、大小の鳥とを巧みに対比させた。二曲屏風ながら堂々たる「江戸」の琳派を象徴する制作である。

 

私は琳派の作品は、屏風、襖絵等の大作が特に好きである。光琳、抱一、其一もそれぞれ屏風、襖絵の大作を残している。本来なら、其一の年齢順に並べるべきであろうが、今回は敢えて屏風・襖絵をまず取り上げ、その解説を試みた。次回は、掛軸など一枚物を取り上げたい。琳派については、いろんなところで意見を述べているので、今回は鈴木其一について述べてみたい。其一は抱一の弟子として修行を積んだが、師の築いた江戸琳派の画風を守るにとどまらず、さまざまな画風・画題に挑んでいる。同時代の江戸の画壇には、同世代の広重や歌川邦芳がおり、少し年上に歌川豊国もいた。抱一と同世代ながら長壽であった葛飾北斎(1706~1849)、谷文晁(1763~1840)の存在も大きかった。そうした江戸画壇の中で、其一はどのような位置にいたのであろうか。其一の画風の特徴として、第一に挙げられるのは光琳画からの引用と応用である。例えば「夏秋渓流図屏風」は、金箔の背景に群青、群緑、墨などさまざまな形を成して迫って来る迫力に富む作品である。この力強い画風を支えているのが檜の樹林である。其一はまず「三十六歌仙・檜図屏風」において、金箔地に水墨でこれを試した。その試みが爆発的に展開したのが「夏秋渓流図屏風」である。琳派で描き継がれてきた画題を選択しながら、その枠組みには全くとらわれず、むしろ北斎や円山派など同時代の傾向も取り入れて、新たな其一画風を構築している。第二は、抱一様式への共感と洗練である、「風神雷神図」も琳派の象徴ともいえる「風神・雷神」を主題としながら、其一は正に、雨雲に乗り、風雲を操る二神を描いている。絹の地にたっぷりと水墨を滲ませ湿潤な大気の中を駆け巡る姿は、宗達、光琳、抱一と描かれたどの風神雷神よりも軽やかに空を駆けている。其一は敢えて抱一の風神雷神図を模すことなく、むしろ二神の拠りどころである風や雨の表出に心を砕いた。自然の風趣に関心を抱き、それを実像より瀟洒に描くのは、江戸琳派様式を確立した師・抱一の開いた道である。其一はそれをさらに洗練させ、淡雅な画風を其一流に創り込んだのである。

 

 

(本稿は、図録「鈴木其一  2016年」、図録「大琳派展 2008年」、図録「美の祝典 2016年」、図録「琳派コレクション 2013年」、原色日本の美術「第14巻 宗達と光琳」、河北綸明「日本美術入門」、田中英道「日本美術全史」、安村敏信「江戸絵画の非常識」を参照した)