ゴッホとゴーギヤン展

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ゴッホ(1884~1890)の父はプロテスタントの牧師で、オランダの中産階級であった。母は宮廷の装飾師であった人物の娘であった。この牧師と職人の血という父母からだけではなく、ゴッホは遠い家系から連綿として職人と牧師の血をうけついでいた。ファン・ゴッホ家は、ブラババントにおいて、17世紀以来、聖職と芸術家の家系として著名であったのである。伯父が美術商であったため、彼は1896年、16歳でグービル商会ハーグ支店の画廊に勤め、美術館や展覧会を訪れることで芸術に関する幅広い知識を身につけていった。彼が好んだのはミレー等バルビゾン派等写実的な様式で制作する画家であった。また17世紀のオランダ絵画も好み、とりわけレンブランドを高く評価していた。正規の美術学校には学んだことは無かったが、画家となる決意をしたのは1880年8月、27歳の時であった。ポール・ゴーギヤン(1848~1903)はパリに生まれ、1歳のときに一家でペルーに移住した。その途次父を失っている。彼は、1885年初頭に母とフランス(オルレアン)に帰国した。1865年後半から1871年まで、彼は商船や海軍の船に乗り組み、海へ出ていた。パリに落ち着くと、1872年に株式仲買人となり、翌年結婚した。株式証券業界の仕事は順調だったこともあり、絵画や彫刻に興味を持ち始め、芸術家と付き合うようになった。彼は、才能を現し、エドガー・ドガやカミューユ・ピサロに誘われて1879年には第4回印象派展に参加し、最後の第8回展(1886)まで、印象派展への出品を続けた。ゴーギャンも、正規の美術学校に学んだことはない。現在、ゴッホもゴーギヤンも印象派画家と呼ぶことは殆ど無く、セザンヌとともに、ポスト印象派と呼ばれる。(東京都美術館で10月8日より12月18日まで公開)

自画像 ポール・ゴーギヤン作 油彩・カンヴァス 1885年 キンベル美術館

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アマチュアとして絵画を描き始めたゴーギャンは、最初はバルビゾン派を称していた。しかし、1880年代には印象派の制作方法を採用し、特にポール・セザンヌを尊敬していた。この36歳頃の自画像は描いた時期に、ゴーギャンは妻の実家のあるコペンハーゲンに暮らしていた。1882年に金融市場が崩壊するまで、パリで成功した株式仲買人であった頃とは対照的な暮らしであった。本作を描いたのち、ゴーギャンは画家に専念する決断をして1885年6月にフランスへ戻った。ゴーギャンもファン・ゴッホと同様に多くの自画像を描いた。アマチュア画家としてパリで学んだ印象派の表現を用いたこの自画像は、その最初のものである。

自画像 フィンセント・ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァス 1887年 クレラーミューラー美術館

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1886年2月頃、ファン・ゴッホはパリに着いた。そこで間もなく、彼は暗い色調による描き方を変える必要があることに気付いた。明快な色と大胆な構成を持つ浮世絵版画を収集し始め、後々までその影響を受けることとなった。画廊に勤務していた関係で、印象派の色調で描いていたが、興味を惹く多数の素朴なモチーフを発見したが、人物像は極めて重要な要素となった。この自画像は、色彩は豊かで明るく、より動きのある筆触が認められる。鏡に映る自分自身を凝視する瞳には、背景と呼応するように緑色が置かれ、表情の印象を和らげている。また、新印象派の点描技法や色彩理論を参照した表現の影響が見られる。ファン・ゴッホがパリに住み始めた1886年は、新印象派の作品が展覧会に登場し始めた頃である。青緑色の背景に、ピンクの肌の色と金色に近い赤毛を配した本作は、彼が色彩理論に熟達し実践した好例と言えよう。パリで制作された作品には、安価な厚紙に描いた作品もあるが、本作もその1点で、経済的理由からやむを得ず厚紙を用いたと考えられる。

パイプと麦わら帽子の自画像 ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァス 1887年 ファン・ゴッホ美術館

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仕事着に麦わら帽子をかぶり、パイプをふかすファン・ゴッホ34歳の自画像である。夏らしい服装と、白い背景から、アルルに移ったのちに描かれた自画像とされた時期もあったが、今日では1887年の9月から10月の間に、パリで制作されたことが明らかになっている。黄色、オレンジ、茶、ピンク、青緑、灰色がかった緑の限られた色彩のみで描かれ、チューブ絵具から混色せずにそのまま用いられている色も見られる。

グラスに生けた花咲くアーモンドの小枝 ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァス 1888年 ファン・ゴッホ美術館

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1882年2月パリを出発したファン・ゴッホは、翌日南仏のアルルに到着した。ホテルへの途中、花をつけたアーモンドの木を見つけ、その枝をホテルに持ち帰ってグラスに生けると、2点の小作品を制作した。そのうちの1点が本作である。本作では、1本の素朴な小枝を主題として画面の中央に据え、枝分かれの複雑な構造をクローズアップした構図に、浮世絵の影響を見ることが出来るだろう。1886年から2年間のパリ滞在中、ファン・ゴッホは日本美術と出会い、浮世絵を蒐集し始めた。それのコレクションを通して、日本美術の特徴を学び、そして遠い国日本をユートピアとして憧れを抱くようになる。

ミリエ少尉の肖像 ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァス 1888年 クレラー=ミュー美術館

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アルジェリアの歩兵連隊の旗手ミリエ少尉とゴッホは親交を結び、デッサンを教えたりしていた。夏に、パリにミリエが旅行したとき、弟テオ(画商)にデッサンをとどけることまでしてやる仲であった。ミリエは、11月にアフリカに出発するが、その前に、ゴッホがこの肖像画を描き、ゴーギヤンもデッサンを1点残している。物にせよ、人にせよ、風景にせよ、ゴッホは、自己の生活に結びつくもの、彼の心のなかになんらかの軌跡を残すものしか描かなかったのである。ミリエの制服もゴッホの興味を倍加したことは想像しうる。(ゴッホとゴーギヤンはアルルで共同生活をしていた頃である)

ゴーギヤンの椅子 ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァス 1888年 ファン・ゴッホ美術館

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ゴーギヤンがアルルに到着してから5週目の11月下旬にファン・ゴッホは椅子を主題にした2点の作品に着手した。この椅子は、ファン・ゴッホが「黄色い家」に備える家具として揃えたもので、立派な肘掛け椅子のほうをゴーギャンに差し出し、自身は簡素な藁座面の椅子を使用した。ゴーギャンの椅子には2冊の本と蝋燭が置かれており、ガス燈に照らされた本は、ファン・ゴッホがゴーギヤンを「詩人」と称したように、思考や想像から絵画世界を広げるゴーギヤンの制作アプローチを象徴したのであろう。

ジョゼフ・ルーランの肖像 ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァス 1889年 クレラー=ミュラー美術館

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ファン・ゴッホはルーランを「郵便配達夫」と呼んでいるが、実際には駅で郵便物を管理する業務に携わっていた。アルルで親しくなったルーランとその家族をモデルにして、ファン・ゴッホは20点以上の肖像画を描いている。ルーランの肖像は1888年7月から1889年4月までの間に6点描かれており、そのうち背景に装飾的な花のモチーフが配されているのは3点である。本作は、ケシやヤグルマギク、デイジーといった夏の花々が配された背景が目を引く。ジョゼフ・ルーランはファン・ゴッホの住んでいた「黄色い家」の近く、ラ・モン・ド・コロド通り10番に住んでいた。

ブルターニュの農場 ポール・ゴーギヤン作 油彩・カンヴァス 1894年 メトロポリタン美術館

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1891年、ゴーギャンは自然のままの真に原始的な社会を求め、タヒチへ旅立つた。ゴーギャンは1891年から1893年までタヒチに滞在した後、1984年末から11月中頃にかけてブルターニュに滞在した。本作には、なだらかに傾斜する丘が見える、ブルターニュ地方の素朴な美しさが示されている。この土地の人々が住む家屋のつつましい様子は、この場所が近代文明の干渉からは手付かずのまま、まだ田舎の生活が残されていることを物語っている。タヒチで見出したものが、ここブルターニュにも似たものを認めたのであった。この作品の中には印象派からの影響を感じさせるものではあるが、力強く明るい色彩の使用は、彼が最初のタヒチ滞在時に身に付けた特徴を感じさせるものである。

タヒチの女 ポール・ゴーギヤン作 油彩・カンヴァス 1898年 オードロップゴー美術館

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手前には、沐浴した後にしばらく休息をとっている様子の女性が、そして奥には、別の女性が小さくまだ沐浴している様子が描かれている。この前景と後景とがはっきりとした距離感をもって描かれることによって、此岸と彼岸とでも言うべき、現実の世界と想像の世界とを対比させて描いているようにも見えてくる。ゴーギャンは1897年から1898年にかけて、色彩についての理論を考察していたようである。この作品の、画面の下半分と手前の女性は類似したオレンジと赤と茶色の陰影で描かれている。画面の上半分では別の色が使われ、手前の女性の顔が背景の紫や緑との明確な対称をなしている。ゴーギャンの絵画の市場評価は極めて高く、オークションでは数百億円の値段が付き、現在の最高値だそうである。

タヒチの3人 ポール・ゴーギヤン作 油彩・カンヴァス 1899年 スコットランド国立美術館

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タヒチで描かれたゴーギヤンの絵画に登場するポリネシアの男性と女性たち。ゴーギャンは彼らの壮健な肉体と力強い表情の中に美を見出し、それを彫刻的な量感をもった姿でカンヴァスに描きとめ、古典的ともいえる安定した構図の中で捉えていった。この「タヒチの3人」は、タヒチ時代を代表する作品の一つである。向かって右側の女性は花を手にして、それを男性に渡そうとしているのだろうか、彼のほうに視線を向けている。こちら側に視線を向けるもう一人の女性はリンゴらしき果実を持っているが、リンゴは南国の果実では無い。ここでゴーギヤンは画面の中で異文化を融合させようとしているようだと図録では説明している。彼はタヒチで経験したこの土地の伝統と、西洋のキリスト教的な伝統のふたつが流れ込んでいるのである。リンゴを持つ女性は男性に禁じられた行為へと誘惑する人物として、花を持つ女性は男性を美徳の道に引き戻そうとする人物として描かれている。

肘掛け椅子のひまわり ポール・ゴーギヤン作 油彩・カンヴァス 1901年 ビューレル・コレクション財団

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ひまわりは、ゴッホとゴーギャンを結び付ける重要なモチーフであった。彼らがパリで出合った時に、ゴーギヤンはゴッホが描いたひまわりのある静物画を称賛し、その小品2点と自身の作品とを交換した。またゴーギャンがアルルにやってくることになった時、ゴッホは共同生活を送る「黄色い家」を「ひまわり」の連作で飾り、迎えた。また、このひまわりの置かれた椅子も、ゴーギャンにとってゴッホの思い出に欠かせないものであった。ゴッホはゴーギャンとの共同生活を送るために「黄色い家」に用意した豪華な肘掛椅子の方をゴーギャンに差し出し、自らは簡素な藁座面の椅子を使用した。タヒチにひまわりの花は無かった。ゴーギャンは友人に依頼してひまわりの種をフランスから送ってもらい、それをタヒチの自宅の庭に植えて、ひまわりを咲かせた。この作品は当然ながら、こうした経緯が含まれており、ゴーギャンは椅子に自分のサインを入れて自分の分身のように扱い、まるで肘掛椅子(ゴーギャン)がひまわり(ゴッホ)を抱くかたちで描いている。ゴッホとゴーギヤンは悲劇的な別れ方をしているが、ゴーギヤンは晩年に懐かしい友人に思いを馳せて、この作品を描いたのであろう。二人は、事件を起こしながらも、生涯の友人であったのだ。

 

1882年2月に、ファン・ゴッホは南仏のアルルに到着した。アルルの時代は、ゴッホの短い画家としての経歴(約10年間)の中で、真の塾盛期と呼ぶべき時期で、それは1882年2月から1889年5月までのわずかな年月であった。この間におよそ190点の油絵を完成させている。この数はパリ時代の制作量にくらべても驚くべき点数であった。この間に「収獲」、「ルーラン一家の肖像」等多数の秀作を制作した。アルルの公園前に「黄色い家」を借りて、ゴーギャンの到着を待った。1888年10月に、ゴーギャンが到着し、ゴッホは南仏に芸術家の共同体を形成するという希望の第一歩であった。ゴッホは「芸術家たちの楽園」、「詩人に庭」を空想したのである。ゴーギャンは、彼の強い影響力をゴッホに及ぼそうとした。終局的に、この二人の性格なり画法が一致するはずはなかった。ゴーギヤンの想像力、画面の装飾的体系への熾烈な意志、そして尊大な態度は、ゴッホにおけるレアリスム、細やかな内面的表現への執着、そして献身的であればあるほど結局排他的にならざるを得ない性格は、11月になるとたちまち衝突を始めていた。ゴーギヤンはゴッホの弟テオ(画商)に12月12日に次のような手紙を送っている、「フィンセントとわたしは、性格の不一致のために、問題なく一緒に暮らすことはできない。彼も私も、制作するためには平穏が必要だ。」ゴーギャンがゴッホの肖像を描いたとき、ゴッホは「まさしくぼく自身の肖像だ、だが気の狂ったぼくだ、」と叫んだクリスマスの夜、二人の口論は激しくなり、ゴツホは、ゴーギヤンを殺そうととし、あげくの果てに自分の耳を切り落した。ゴッホは病院に収容され、ゴーギャンは逃げ帰った。翌1889年1月7日まで入院し、2月からふたたび入院。「ぼくは、熱情に、狂気に、あるいは床几にすわる巫女の神託のような予言にうちまかされてしまう時があるのです。」この耳の切落した絵は2点ある。2月21日に退院したゴッホは、数日後、近所の住民によって告訴され、みたび強制監禁されている。監禁はほどなく解かれたが、ゴッホは自信を喪失した。1889年5月、ゴッホはサン・レミの病院に入院した。サン・レミ時代、さらに明確な方向性、曲線、渦巻、螺旋紋の体系をとって、より直接的にゴッホの心象を表現し始めている。1890年5月、サン・レミを出たゴッホは弟テオ(画商)のはからいによってオーベル・シュル・オワーズ医師が紹介されたのである。土地の医師ガッシェは、熱心な好事家として有名であり、この土地になかば引退生活を送りながら、ピサロやギョーマンやセザンヌのよき理解者となった。しかし、ゴッホは誰よりも早く、性急に、消耗し、貪りつくし、終局へと向かっていったのである。7月20日、ル・シヤトレー・ドーベルにのぼりピストル自殺を企てた。しかし弾は心臓をはずれ、ゴッホは村に帰り、カフェ・ラヴォーの部屋に倒れた。翌日の深夜過ぎ、弟テオ(画商)に看取られながら、静かに息をひきとった。画家としての活動期間は約10年であるが、その間に描いた絵画は1700点に上る(2日に1作のわり)多作の作家であった。このような別れ方をしたゴーギャンは、しかし決してゴッホを嫌っていたわけでは無い。それは1190年に作成されたゴーギヤンの「肘掛椅子のひまわり」を見れば、誰でも理解できる筈である。

 

(本稿は、図録「ゴッホとゴーギャン展  2016年」、現代世界美術全集「第8巻 ゴッホ」、図録「ポーラ美術館名作選  2010年」、福島繁太郎「近代絵画」を参照した)

禅   心をかたちに

およそ千五百年前、達磨(だるま)大師によってインドから中国へ伝えられたとされる禅宗は、唐時代の中国において臨済義玄(りんzないぎげん)禅師によって広がり、日本には鎌倉時代にもたらされた。禅は武家のみならず、天皇家や公家にまで広く支持され、日本の社会と文化に大きな影響を与えた。江戸時代に入ると、臨済の流れをくむ黄檗宗が伝わると共に白隠慧鶴禅師らの高僧により民衆への普及が進み、現代においても禅は多くの人の心の支えとなっている。また最近では欧米の人々の間にも「ZEN」の思想が浸透し始めている。臨済宗、黄檗宗の源流に位置する高僧、臨済義玄禅師の1150年遠忌(おんき)、ならびに白隠慧鶴禅師の250年遠忌を記念する本展は、臨済、黄檗宗十五派の協力のもとに開催された。国宝、重要文化財を含む約300件の多彩な名宝を通じて、禅の真相に触れ、かつ日本文化に果たしてきた役割をも紹介する企画である。(東京国立博物館にて11月27日まで)

国宝 達磨図  蘭渓道隆筆  鎌倉時代(13世紀)  山梨・向嶽寺

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本図には、中国から渡来して建長寺の開山となり、宋朝禅の日本導入に大きな役割を果たした禅僧、蘭渓道隆(1213~78)の賛がある。そのためこの達磨図は禅宗導入期の禅宗絵画の最初期の遺品と思われる。賛の末尾に「建長の蘭渓道隆、朗然(ろうねん)居士のため拝賛す」とあり、朗然居士は北条時宗にあたることがほぼ確実視されている。時期は文永3年(1264)頃と推定され、時宗は14歳にして連署となった年である。達磨の顔の描写は精細で優れており、身体を包む襞を表す衣文線は流麗でありながら立体感に富み、堂々たる体躯である。一方、彩色は抑制され、達磨は光と空気に包まれ、現実の空間に存在するように感じられる。これらの特色を持つ本図は、得宗家の若き棟梁、北条時宗のための達磨図たるに相応しい。禅宗導入期の日本における導入の中心地、鎌倉で、将来の最高権力者のために作られたとみられる記念碑的な大作であり、その歴史的な重要性は比類ないものがある。

国宝 慧可断碑図 雪舟等楊筆 明応5年(1513)室町時代 愛知・済年寺

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この絵は、私にとって思い出深い絵である。大学3年の秋(1954年)に、雪舟の画論を読んでいて、この「慧可断碑図」(えかだんぴず)が愛知県知多半島の済年寺の所蔵であることを知り、是非観たくて、済年寺まで出かけた。当時、この絵は重要文化財であり、寺宝として保管されていた。1時間以上の時間をかけて済年寺に着いた私に対して、住職は「拝観させる訳にはいかない。一般公開していない。」と断った。私は、腹を立てて、「重要文化財は国民の財産である。所有するお寺の私物ではない。税金で保管費用を賄っている筈だ。もし、拝観がお寺の保存状態を考えて無理ならば、博物館に寄託して、お寺ではその写しを拝観させることが理にかなっている筈だ」とまくしたてた。しかし、住職はたかが一人の大学生の意見を取り入れることもなく、「出来ないものは、出来ない」と冷たく追い返された。しかし、この図は、後年重要文化財から国宝に指定替えされ、お寺では京都国立博物館に寄託し、写しをお寺で拝観できるようにした。正しく一大学生が提案した通りになったのである。今回の「禅 心とかたち」は、この「慧可断碑図」を拝観すれば、それで終わりという位、思い出が詰まった作品である。さて、本論に戻る。インドから中国へ禅を伝えた達磨が、少林寺で面壁九年(岸壁に向かって九年間座禅し続ける)の修行を行っていたとき、神光という僧が入門したいといってやってきた。その時の逸話が慧可断碑である。弟子にしてほしいという神光の希望に達磨は見向きもしない。神光は決意を示すために自分の左腕を切って達磨に差し出した。それを見て達磨は入門を許し慧可という名を与えた。この慧可が達磨の跡を継いで、禅宗の祖の2代目となった。主題からすれば禅の宗教画である。縦180センチという大きさも、禅宗寺院で公的に使われるのに相応しい。しかし、表現は、とても仏画とは思えない。慧可の切り落とした左手の付け根は、血で汚れている。こんな仏画がある筈がない。達磨と神光との間の火花を散らす精神の交流を描いたものが本図である。研ぎ澄まされた厳しさを、右から上におおいかぶさる焦墨によって表された岩によって表現しており、画僧雪舟の、禅に主題をとった最後の作品である。画面左端の落款は入明して天童山景徳寺の禅班第一座になったことを誇るものであり、明応5年(1496)77歳の筆になることが知られる。本図の裏幅には、天文元年(1532)尾張知多藩の城主佐治為貞(さじためさだ)が寺に寄進されたことを記している。なお昭和52年版の原色日本の美術第10巻では、まだ重要文化財のままである。作者も制作年も特定出来ているのに、国宝に長く指定されなかったのは、血のしたたる絵画を国宝に指定することに、躊躇する気持ちがあったのではないだろうか。私にとっては、本展覧会一番の見物であった。

国宝 無順師範像 自賛 中国・南宋時代  嘉熙2年(1238)京都・東福寺

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東福寺の開山である聖一国師円爾(えんに)(1202~80)が入宗時に参禅した、臨済宗楊岐派の巨匠、無準師範(1178~1249)の頂相(ちんぞう)である。中国の法脈が日本に受け継がれたことを象徴するのは勿論のこと、精緻を極めた南宋時代の肖像画の水準を示す作例である。

国宝 蘭渓道隆像  自賛 文久8年(1271)鎌倉時代  神奈川・建長寺

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寛元4年(1246)34歳で来日し、ほどなく北条時頼の帰依を受けて建長寺の開山に招かれた蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)の現存最古の肖像画である。賛は文永8年(1271)、蘭渓が59歳のとき、朗然居士(北条時頼)のために建長寺の観瀾閣(かんらんかく)で書いたものである。蘭渓は、袈裟を着け、右手に竹箆を持ち、法被を掛けた椅子に坐す。斜め左向きの姿に表されて、椅子の前の履床の上に履(くつ)が置かれており、宋代禅僧肖像画の基本パターンに則って描かれている。宋代禅僧肖像画に劣らない出来映えである。

国宝 宗峰妙超墨跡「開山」道号 1幅 嘉暦4年(1329)鎌倉時代 妙心寺

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紫野・大徳寺の開山宗峰妙超(大塔国師)が開山慧玄に雲門関(うんもんかん)の公案を示したところ、2年後の嘉暦4年(1329)2月「関」字を悟った慧玄に意を得て認めた宗峰が、道号「開山」二字を大書し、一偈(いちげ)を書いて与えた墨跡である。宗峰妙超48歳の時の筆で、当時、開山慧玄は53歳であった。道号の由来は「碧巌録」(へきがんろく)の第八則に載せる雲門文偃(うんもんぶんえん)の「関」という公案を透過したことによる。

半身達磨図  白隠慧鶴筆 紙本着色 江戸時代(18世紀) 大分・萬寿寺

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背景の深い深い黒。衣の鮮やかな朱、顔面のほのかな朱。そして、眼球、胸と「直指人心、見性成仏」という賛文の白。数千点も現存する白隠の作の中で、これほど鮮やかな色彩のコントラストを示すものは他にない。しかも縦2メートル近い。渾身の力が漲った大幅。ゆえに、白隠の代表作として多くの書物等で繰り返し紹介されてきた、もっとも有名な作品である。白隠は、臨済宗中興の祖、五百年に一人の英傑として讃えられ、現在の臨済宗の僧侶たちの系譜をさかのぼれば、すべて白隠に行き着くほどの重要な存在である。白隠慧鶴(1685~1768)は江戸時代中期の名僧である。

重要文化財宝冠釈迦如来坐像院吉・院広・院遵作南北朝時代・観応3(1352)

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禅宗では頂相(師の像)が重要視され、造仏は比較的少ない。文殊と普賢両菩薩を従えた釈迦如来坐像の背面に、この像がかって常州茨城郡の清音寺に安置され、元禄年間に徳川光圀が修理させたことが記されている。清音寺は南禅寺派の禅宗寺院。源氏一族で常陸に住んだ佐竹氏の菩提寺である。この三尊像は明治時代に方広寺へ遷された。この三尊像は失われた天龍寺本尊の作風をしのばせるもので、鎌倉時代の彫刻とは一線を画している。印派仏師の作り上げた宋風(中国風)の完成形を見ることが出来る。当時の禅宗寺院の本尊の典型的な作例として貴重である。

国宝 玳帔天目(たいひてんもく)吉州窯 陶製 南宋時代(12世紀)相国寺・京都

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玳瑁(たいまい)と呼ばれる亀の甲羅、つまり鼈甲(べっこう)を意味する。黄褐色の地に黒色文様が現れた様子を指して、この名が付いたのであろう。室町将軍家が所蔵した唐物である。天目茶碗呼称は、中国宋・元時代に浙江省天目山に留学した日本の禅僧たちが、そこから持ち帰ったことから、この名がついたとされる。松平不昧公が大名物と区分して、愛した逸品である。日本と中国を行き来した禅僧たちは、思想だけではなく、様々な文物(唐物)や風習をもたらした。その代表例が喫茶・水墨画・誌画軸などで、日本の中世文化に影響を与えた。日本人は唐物をアレンジして、室内を装飾する等新たな美意識を創りだし、日本人の感性に磨きをかけた。

国宝 秋冬山水図 雪舟等楊筆 紙本墨色 室町時代(15~16世紀)東京国立博物館

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雪舟が行きついたところの一つがこの絵であろう。現在は秋と冬だけが残っているが、もとは四幅の四季山水図だったようである。作成の時期は山水長巻を描いた後、はっきりと自分の画風を意識し、画師としての地位を確立してからであろう。左隻(冬)でまず目を惹くのは画面の中央部分の上である。これが大きな岩であることが判る。しかしこの絵を見ていると、「岩だ」という理解が皮相なものに思えてくる。こんな風景が実にあるわけではないし、そもそも山水画だと言うことも忘れてしまうほどだ。具象と抽象との狭間のような表現になっている。勿論、雪舟が抽象画を知るはずはないし、室町時代の人々にこのような理解が出来たわけではないだろう。この絵は南宋の画院画家夏珪に倣った風景山水図なのだが、完全に手本の世界を衝きぬけてしまっている。あるいは、こんな考え方は近代人の勝手な思い入れかも知れない。

国宝 瓢鯰図大巧如拙筆、大岳宗宗等三十一僧賛 室町時代(15世紀)退蔵院・京都

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日本における禅画の起源と言えるのが、この「瓢鯰図」(ひょうねんず)である。作者の如拙(じょせつ)は、水墨画を確立した雪舟の師匠・周文の師匠に当たることから、美術史では「瓢鯰図」が水墨画の起源の一つとして重要視されてきたが、絵画として見たときには奇妙な点が多い。まず「ナマズと男」という不思議な画題である。「これは、つるつるとした瓢箪でぬるぬるしたナマズを押さえられるか」という公案(禅の問い)を絵にしたものである。花園大学国際禅学研究所・吉沢勝弘氏は次のように述べている。「4代将軍・足利義持は、自ら新しい公案を考えてこれを描かせたのである。義持はそれほど深く禅を勉強していたのである。では、絵の上部にぎっしり書かれた文字は何を意味するのか。これは”賛”。絵で描かれたことに賛同した人による、いわば解説や感想である。同じテーマによる絵と文学の究極のコラボと言える。この賛があることで、飛躍的に絵の持つ意味が広がる。賛を書いたのは31人の高僧たちである。当時、寺は高等教育機関や役所のような役割だから、今でいう有名大学の学長クラスである。そんな知識人たちが競ってコメントを寄せたのだ。多くは、瓢箪でナマズを捉える行為を不可能だと書いている。しかし、その真意は次のようなものである。禅のテーマは「心とは何か?」一人一人の胸にあるのが心かというと、そうではない。それは時間と空間を超えて一貫する何かー真理である。我々は頭で考え、葛藤するものだが、決局は、とらえられない、のである。背景に何気なく描かれている山水画も、実は禅の思想を体現しているという。空と川の境目がなく一体化している。どちらが空で、どちらが水かは分からない。これが禅の世界観である。このことが意味するものもやはり「心」である。山水とは、ある種日本精神の風景画ではないでしょうか」

 

長い長い解説になったので、これ以上付け加えることはない。私に取って「慧可断碑図」をまじかに観ることで十分満足した。300点余の展示物を観るのは疲れる。自分の見たいものを定めて観覧することが、大切であろう。図録は非常に役に立つ。日本の中世と近世(桃山から江戸時代まで)を理解する鍵が、ふんだんに含まれている。

 

(本稿は、図録「禅 心をかたちに  2016年」、図録「白隠展  2012年」、原色日本の美術「第10巻  禅寺と石庭」、古寺巡礼「 第8巻 相国寺」、「第31巻 妙心寺」、新潮日本美術全集「1巻 雪舟」、日経大人のOFF2016年1月号、日経新聞2016年11月2、4、5日夕刊」を参照した)

畠山記念館   天下人の愛した茶道具

チラシ

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450年前、財力も軍事力も失い、台頭する武士たちに実権を渡さざるを得なかった京都の天皇家、それを取り巻く公家や寺社に唯一残された「武器」は、八百年来培ってきた文化であった。王朝時代から守り伝えられてきた和歌、管弦、有職故実のような優美艶麗な教養は、刀一本でのしあがってきた武士群には眩しく、手の届かないものに見えたに違いない。しかし、茶の湯という新しい文化の体系は、その中に旧世代の公卿たちを招き入れ、文化の力で対等に戦うことのできる、武士のための「土俵」であった。茶の湯は新しい文化であると同時に、古い文化にも敬意を払っていることを示すものでもあった。天下人と呼ばれた信長、秀吉、家康はいずれも茶の湯に没頭し、彼らは「黄金と侘び」の世界を出現させた。今回の展示は、「天下人の愛した茶道具」を展示する試みである。

重要美術品 井戸茶碗 銘 信長           朝鮮時代(16世紀)

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織田信長の所有によって、「信長」の銘を持つこの茶碗は大井戸に属し、李朝の早い時期の作と思われる。細やかな貫入、大小の気泡も存在し、口から胴腰にかけて薄造りで手取は軽い。高台はやや小さいが、端正な姿、高台脇から内にかけて梅花皮(かいらぎ)が廻って景色となっている。口には黒漆で修複した跡が残っており、長い間大切に使われてきたことが知られている。             伝来 織田信長ー京極高次ー豊臣秀吉ー古田織部ー淀屋茶庵ー招甫ー丸亀京極氏   伝来は華やかな歴史を持っている。

ととや茶碗  銘  隼(はやぶさ)        朝鮮時代(16世紀)

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「ととや」は斗々屋・魚屋などと書き、その名の由来は、利休が魚屋から見出したものとも、堺の豪商魚屋に伝来した茶碗であったからとも言い、諸説があるが、定かではない。一般にととや茶碗は、椀形に近い深めの本手ととやと、平茶碗形の平ととやに大別される。この茶碗は、小振りの朝顔形で轆轤目が細かく廻っている。口縁は少し反り気味になっており、一部に土切れが生じている。高台脇から腰にかけて幅広く削り出し、ととやの見所である縮緬皺(ちりめんじわ)が出ている。「隼」の銘はきりりと引き締まった俊敏な姿からの連想であろう。小堀政体の書付によると、かっては茶箱に仕組まれていたが、箱を取り捨てたことが窺える。

古瀬戸肩衝茶入  銘 円乗坊(えんじょうぼう)   室町時代(15世紀)

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京都本能寺の僧で、利休の女婿である円乗坊宗円が所持していたことから「円乗坊」の銘が付いた。織田信長は、天正10年(1582)に起こった本能寺の変において落命するが、その際にこの茶入も罹災、宗円が焼け跡から拾った後、肌身離さず携行したと言われる。この逸話を物語るかのように、挽家をおさめるふすべの革の袋には長緒が付いており、茶入には疵や貫入などの痕跡が認められる。安永元年(1772)五百両で松平不昧(出雲国七代藩主)の蔵に収まった。なお、不昧公は、これを「大名物之部」に収めている。(「宝物之部」に次ぐ名品)

書状  千利休筆                桃山時代(16世紀)

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「今朝の雪に私方へお尋ねくださらないのは、大ぬる山ではありませんか。それとも例の方がおられるなら致し方ありませんが」と、それとなく嫌味をいいながら是非来てほしいと誘っている。おそらく茶会への招待であろう。文中「大ぬる山」は懶惰の意味で、当時の流行語であったのであろう。宛名の牧村兵部は桃山時代の武将で名は利貞。織田信長や豊臣秀吉に仕え、秀吉の馬廻衆を勤めた。文禄の役には舟奉行に任ぜられ活躍したが、朝鮮で病没した。キリシタン大名として著名な一方、茶の湯をよくし、利休七哲の一人に数える。本品は古来より「大ぬる山の文」と称された著名な利休書状である。                     伝来  加賀前田家ー亀田是庵ー菅池家ー畠山即応

国宝遠寺晩鐘図(えんじばんしょうず)伝牧谿(もっけい)南宋時代(13世紀)

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遠寺晩鐘は中国山水画の画題として北宋の頃成立したと考えられる瀟湘八景の一つである。中国湖南省・洞庭湖の南、瀟水と湘水の二水が合流する辺りの勝景を描くもので、わが国では牧谿・玉澗の二者が瀟湘八景図の双璧と言われ高く評価されてきた。本作は横になびく二条の光の中、厚い煙霧に包まれた寺院の甍と木立がわずかに姿を見せる。全面に淡い墨を刷き、わずかな墨調の変化によって光と湿潤な大気とを観る者に感じさせる傑作である。牧谿の作品は、多く日本に伝わり、足利将軍家などのコレクションに収められた。本作は画面左隅に「道有」の鑑蔵印を有し、足利義満の愛贓品として知られる。所謂、「東山御物(ひがしやまごぶつ)」である。                                 伝来 義満ー松永久秀ー織田信長ー徳川家康ー紀州徳川家ー前田家

天命責紐窯(てんみょうせめひもかま)       室町時代(16世紀)

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天明釜は、下野国阿蘇郡天明(現栃木県佐野市)から産出した釜を指す。その特徴として、肌が無肌で、無文・肩衝・面取・段などの複雑な形状に、線や筋が入っているという形姿の面白さが挙げられる。責紐とは、貴人に茶を献上する際、蓋と鐶付を紐で結んで封印するために、鐶付が口際に付けられた名称である。蓋の摘みが笠松の形をしている。                           伝来  足利義教ー豊臣秀津次ー徳川家康ー紀州徳川家

重要文化財 竹林山水図 伝 夏珪(かけい)筆   南宋時代(13世紀)

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足利義教が所蔵した山水の名品である。いわゆる東山御物(ひがしやまごぶつ)である。画面右下では、驢馬に乗った高士がお供を従えながら水辺をゆっくり歩いている。しなやかな夏珪の「夏」の文字、右上に義教の鑑蔵印「雑華室印」がある。

梅に山鳥図屏風(部分)  伝狩野山楽筆       江戸時代(17世紀)

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狩野山楽(1559~1635)は豊臣秀吉に仕えた武士木村永光の子で光頼といい、永徳に学んで狩野姓を許された。山楽と号し、常に狩野家を援け、桃山時代の代表的画家である。狩野宗家の光信が江戸に移ったので、京都を代表する狩野家の祖となった画家である。画面を飛び出すような勢いのある巨木表現や、切り立った荒々しさに狩野派らしい筆致がうかがえる。絵の背景は豪華な金箔で、金雲がもこもこと漂う様を表現している。秀作である。

唐物茶壺  銘  十五夜           明時代(15世紀)

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茶壺とは文字通り、お茶を保管する壺である。家康が大阪夏の陣の際に忠臣に与えた茶壺である。胴の釉薬の色合いやなだれが微妙で、下部の土肌には轆轤目(ろくろめ)が見える。口に被せている口被(くちおおい)の裂地(きれじ)は花菱文金襴である。

色づき始める苑路

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畠山記念館の秋の苑内の写真である。紅葉が色付き始めた頃であった。

 

天下人に愛された茶器類を展示した企画であり、流石に見事な展示物であった。旧い友人と、久方振りに畠山記念館を訪れ、美味しいお茶を喫する機会となった。畠山記念館は、お抹茶に特化した美術館であり、入場者も限定される。年配のご婦人が多いことも特徴である。しかし、お抹茶は、年配のご婦人の独占物ではない。来年4月~6月に、東京国立博物館で、室町時代から近世までの茶の湯の歴史の特別展「茶の湯」が予定されている。これは1980年の「茶の美術展」から37年振り、また400年忌を期して開催された「千利休展」以来27年振りとなる。更に東京国立近代美術館では、千利休の意を体して楽茶碗(らくちゃわん)を生み出した、楽家歴代の名碗を紹介する「茶碗の中の宇宙 楽家一子相伝の芸術」が3月~5月に開催される。ここまで来ると、「老婦人の趣味」とは言っておられない。すべての美術愛好家が、来年は「お抹茶と関連する美術」に興味を集中する年となる予定である。私も、楽茶椀を2ケ所有し、毎日妻とお抹茶を戴くことを楽しみにしている。来年の3月~6月には、お抹茶の芸術を堪能したい。今から期待で胸が膨らむ。

 

(本稿は、図録、「与衆愛玩 壱」、図録「与衆愛玩 畠山即翁の美の世界」、図録「大名茶人 松平不昧公の数寄」、日経新聞2016年11月12日「プロムナード 歴史の地図をつくる 橋本麻里」を参照した)

藤田嗣冶展  フランス国籍取得と祈りの世界

藤田は戦争画の制作と国家への忠誠に自らを捧げ、戦争という国家的事業に加わることにより自らの存在価値を国家に認めさせることが出来たと思った。「アッツ島玉砕」の前にひざまずき手を合わせながら涙を流す老若男女の姿は、それまでにない充実した喜びを藤田に与えた。「この世に生まれた甲斐のある仕事をしました」という言葉には嘘はない。誰もが認める戦争画の第一人者として、藤田は制作に没頭した。そして、それが戦後の悲劇をもたらした。日本画壇は、敗戦と同時に藤田の戦争責任を追及し始めた。日本人画家には、藤田を戦争犯罪人であると決めつける人もいた。結果的に見れば、1947年2月の連合軍総司令部(GHQ)が発表した戦争犯罪人リストに藤田の名前はなく、彼の戦犯容疑は晴れた。戦犯としての容疑は晴れたが、それまでに彼が受けた傷は深かった。美術家の戦争責任を一人ですべて負うように画家仲間に迫られたり、強い人間不信に陥つたと思われる。藤田は「絵描きは絵だけ描いてください」「仲間げんかはしないでください」「日本画壇は早く世界水準になってください」といった有名な言葉を残して日本を去った。フランスからの査証がなかなか下りなかった藤田は、とりあえずアメリカを目指し、10か月ほどをニューヨークで過ごした。翌1950年2月、藤田は妻君代と共にフランスのパリに戻った。出迎えに来たマスコミに発せられた最初の質問もやはり戦争にからむものだった。フランスにおいても、ナチに関わった人々への責任追及が激しく行われていたのである。藤田はパリ郊外の田舎町、ヴィリエル=バクルの農家を買い取り改築した家に移り住んで、ここで6年余りを過ごすことになった。

猫を抱く少女  布・油彩   1949年      個人蔵

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1949年11月にニュヨークのマシアス・コモール画廊で開催された個展の出品作と考えられている。背景の建物が、作者が滞在していたニユーヨークの街並みではなく、パリないし古いヨーロッパの街並みであることから、人物は日本で描かれたものと推定されている。1949年3月のニューヨーク到着後、当地の美術館を訪れて久しぶりに西洋美術の巨匠の作品に触れることで、藤田が受けた刺激を感じる。個展出品作であれば、満を持して制作されたものであり、自身のこれまでの技量と経験を注ぎこんで、しかし新鮮味も備えるという課題にに取り組んだ藤田の再出発の緊張感をたたえた作品である。この少女は、生きたモデルによる肖像ではなく、これ以後多数制作される、作者の中で理想化された少女の姿を描く、ごく初めのものと解することができる。その意味では、最も注目すべき絵画である。

藤田君代の肖像   紙・鉛筆  1950年      ランス美術館

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1936年(昭和11)に堀内君代と生活を始めた藤田は、1949年(昭和24)に単身でニューヨークに出発し、君代は2月21日に到着した。この絵は1950年にニューヨークで描かれたデッサンである。この絵が描かれた頃の夫人は40歳くらいのはずだが、固い頬はまるで少女のようで、藤田が抱いていた夫人のイメージがよく理解できる。

ノートル=ダム・ド・ベルヴゼ=レ=ザヴィニヨン 厚紙に貼った布・油彩 1951年                   ランス美術館

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前年の夏をブルターヌで過ごした藤田は、1951年の夏を、教皇庁で有名なアヴィニヨンのローヌ川にあるヴィルヌーヴ=ザヴィニヨンで過ごした。藤田は1918年の夏にも同地で過ごしたことがあり、この街に色濃いキリスト教文化を手掛かりに宗教主題の作品を描いた。本作品で描かれているのは、この街のサン・タンドレ要塞の中にある礼拝堂である。かって要塞内に住む人々のためのものだった中世の礼拝堂の質素さと、要塞の端にあって小道を登っていくと忽然と現れるこの建物の弧絶した雰囲気が藤田を惹きつけたのではないだろうか。

二人の祈り   布・油彩   1952年        個人蔵

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藤田がキリスト教を主要な画題として本格的に取り上げるのは敗戦の後、1年に満たないアメリカ滞在を経てパリに渡った以降のことである。1952年の年記を持つ本作はそうした中でも最初期の例で、画家と君代夫人が生涯身近に置いた思い入れ深いものである。ここに描かれるのは聖母子に向かいひざまずき、祈りを捧げる藤田夫妻の姿である。傍らの画架には、ゴルゴダの丘へ向かうキリストの相貌が写し取られたという聖顔布を思わせる素描を描いたキャンパスが置かれている。藤田が祈ったのは画業に対する祈りのみではなく、それによって代表される西洋文明社会のことではなかっただろうか。聖母子と絵画芸術とが象徴する清い世界へのあこがれが、画家のルサンチマンと表裏一体であったことを示している。

小さな主婦   布・油彩   1956年       いずみ画廊

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バケットと牛乳を手に、パリの歩道に立ってこちらを向く少女を描いたもので、これよく似た作品が他にもいくつかある。身近に置いて眺めたいお気に入りの画題だったのである。ポーラ美術館は、多数の類似コレクションを所蔵している。少女のいでたちと、石畳、ペンキのはげやフランス窓の描出などをみれば、ノスタルジーとシックさが主眼となっているのが分かる。

教会の内部  布・油彩     1956年      ランス美術館

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画家お手製の模型を描いた作品である。1953年の夏、藤田が友人のジョルジュ・グロジャンのビの所領に滞在したおりに聖堂の模型を制作したと伝えられている。おそらくその時の模型が本作に描かれたものであろう。ビラの夏、画家には友人にいつかは聖堂の建設を実現したいと語ったという。この頃には君代夫人のうちにもカトリックに対する宗教的感覚が芽生えたようで、彼女は聖地ルルドの訪問を希望し、グロジャン一家は彼女の願いを叶えるために運転手付の車を用意したという。グロジャンは後に、藤田のフランス国籍取得に際しても力を尽くすことになる。藤田が3年の時をおいて、この模型を絵画に取り上げたのは、1955年2月のフランス国籍取得がきっかけになったかも知れない。「教会」内には、南米で手に入れたという豪華な衣装で全身を覆った聖母マリア像が立つ。

聖母子 布・インク、金箔、油彩 1959年ノートルダム大聖堂(ランス美術館寄託)

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縦長の画面に聖母子と4人の天使を描いた「聖母子」の完成画には1959年10月14日、すなわち画家夫妻がカトリックの洗礼を受けた記念すべき日付と、レオナール・フジタとして生まれ変わった画家の初々しいサインが記されておる。本作は受洗後最初の作品であり、完成まもなくランス大聖堂に献納された。藤田の洗礼名はルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチにあやかるレオナール(藤田自身はイタリア語風に、あるいは日本でそう呼ばれたようにレオナルドと発音していたようである)、アッシジの聖フランチェスコからいただいたフンソワ、そして代夫にして晩年の画家を支えたパトロンのルネ・ラルーへの敬意を込めてルネ、以上三つを得た。藤田のカトリック信仰に対する傾倒は1950年代の早いうちからうかがわれるが、自身の二度の離婚が改宗の妨げとなることを心配し、躊躇する期間が長くなったようである。1959年10月、歴代のフランス王が戴冠式を行ったランス大聖堂において洗礼にあずかることになる。その模様は世界各地からやってきたテレビ、ラジオ、新聞に取り上げられ、メディアの寵児としての健在ぶりを示したことにもなった。

キリスト  ガラス・油彩、鉛  1965年      ランス美術館

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ノートル=ダム=ド=べ礼拝堂の装飾計画に際して、フジタはおびただしい量の素描やフレスコ習作などの準備作を残した。その中でも、まぶたを閉じ悲痛な表情を見せるキリストの頭部は特に集中的に取り組まれた画題である。多くは息絶えたキリストを描いたもので瞳は描かれず、眉間やまぶた、口元の表情、かすかな顔の向きなどの組み合わせによって威厳、苦痛、諦念、赦しといった様々な感情を見る者に感じさせる。

聖母子   ガラス・油彩・鉛  1965年頃    ランス美術館

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「平和の聖母」の名を持つノートル=ダム=ド=ラ=ベ礼拝堂がフジタの生涯の最後を飾る畢生の大作であることは疑うまでもない。自らの作品として礼拝堂を立てたいという画家の望みが、敗戦後にパリに渡って間もなく芽生えたのである。これが現実のものとして計画に移されるのは1965年頃のことと考えられている。ルネ・ラルーの勧めにより彼の経営するG・Hマム社の敷地内に置かれることに決定した。画家は建物の壁面をフレスコ画で飾ることに決めるが、この技法は80歳になろうとする彼にとっても初めてのものであった。堂内はフレスコ画だけではなく17枚のステンドグラスによっても彩られた。フジタはステンドグラスについても、入念な下絵を描き、ステンドグラスの職人の協力を得ながらグリザイユ技法による仕上げを行った。本習作は「平和の聖母」の名にふさわしい穏やかな聖母子の姿を描いたものであり、フジタの到達した祈りの世界を描いたもである。

 

藤田は美術学校卒業後、文展に3回連続落選し、渡仏の翌年に第一次世界大戦が勃発して、日本からの送金も絶えて苦しい生活を余儀なくされた。しかし、1917年の初個展以降着実に実績を積み上げ、独自の乳白色の世界を作り上げ、渡仏から10年を超えた1920年代には、パリ画壇の寵児(土方定一 日本の近代美術)とも言うべき高い地位に上り詰めた。藤田の作品は、ピカソやマチスに匹敵する高値を呼び、高級住宅に住み、社交界の花形として夜ごとパーティーに繰り出したものであった。しかし、1929年を境として、藤田の人生は全く違う様相を帯び始める。世界各地を転々とし、確立した筈の様式からも時には大きく逸脱し、試行錯誤の連続となった。その迷いを振り切って没頭した戦争画の制作は、戦後、藤田と祖国の間に癒しがたい深い傷を負わせ、画家仲間から戦犯の汚名を着せられ、ここで祖国と決定的な離別をもたらした。日本を離れた藤田は、再びフランスに腰を落ち着け、小どもやパリの街角や女性の姿を描き始めた。日本国籍を捨て、フランス国籍を取得し、カトリックに改宗し、礼拝堂の建設によって人生を締めくくることにより、身も心も西欧の一員となった証を立てようとした。君代夫人は、「藤田は日本を捨てたのではなく、捨てられたのだ」と語ったというが、日本は藤田を忘れることが出来ず、藤田も日本に別れを告げられなかったのではないだろうか。フランスへの帰化、カトリックへの改宗は、むしろ自らと日本のつながりの強さを改めて藤田に感じさせたのではないだろうか。今回の府中市美術館での「藤田嗣冶展」には、実に大勢の観客で賑わっていた。私たちは、藤田の作品に、日本的なもの、例えばー細い墨の線を入れる技法は(浮世絵の技法から学んだのではないだろうか)を見出し、日本離れをした藤田の芸術に魅了され、藤田を日本の誇りと思うからこそ、こんなに沢山の観客が見学に来るのであろう。尚フランス政府から1957年(昭和32年)にオフィシェ・ド・ラ・レジョン・ドヌール勲章を受章した。日本政府は、1968年(昭和43)4月(没後)に、勲一等瑞宝章を授与した。正に、東と西の政府から、名誉ある勲章を贈られたのである。レオナルド・フジタは、見事に日本と西洋の架け橋になったのである。

 

(本稿は、図録「藤田嗣治展ー東と西を結ぶ絵画 2016年」、図録「特集:藤田嗣治全所蔵作品展示 2015年」、図録「レオナール・フジターポーラコレクションを中心に 2013年」、図録「コレクター鈴木常司ー美へのまなざし 2012年」、福島繁太郎「近代絵画」を参照した)

藤田嗣冶展  美術学校から戦争絵画まで

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藤田嗣冶は、1886年(明治19)に東京府牛込区(現新宿区)に生まれた。藤田家は房州長男藩本田家の家老職の家柄であった。父藤田嗣章は医師で、後に森鴎外の後を受けて陸軍中将軍医総監を務めた人であり、国を担う見識と格調を備えた明治人であった。母藤田政は、旧幕臣小栗信の次女である。嗣治はこの両親の次男であった。画家への道へ進みたいという嗣冶の希望が許されたのは、彼が次男であったからであろう。藤田が格式を備えたブルジョアの家庭に育ったということには意味がある。かれの生涯を見る上で重要である。藤田は晩年に日本を捨てフランス国籍を取得し、カトリックに帰依する際、洗礼名に「レオナルド」という一般には少ない名前を選んでいるが、このイタリア・ルネサンスの偉大な人物を意識してものと私は思う。藤田は暁星中学の夜学でフランス語を学び、1905年には東京美術学校西洋画科に入学した。美術学校の主任教授は黒田清輝のいわゆるフランス帰りの「外光派」理論とはそりが合わなかったと自ら記している。藤田は1910年、23歳で美術学校を卒業、1912年、26歳の年に鴇田登美子と結婚したが、これは恋愛結婚であった。そして藤田は1913年(100年以上前)にパリへ単身で、私費留学生として渡仏したが、彼が妻に送った179通に及ぶ書簡が1980年頃に鴇田家から発見され、逐次刊行された。パリのモンパルナスに住んだ藤田は、モディリアーニとスーチンに合った。間もなくピカソを家に訪れ、そこでアンリ・ルソーの傑作を見ている。藤田は稀な日本人画家である。彼は、第一次世界大戦と第二次世界大戦をともにフランスで体験した希少な芸術家である。(府中市美術館にて10月1日より12月11日まで)

自画像  布・油彩   1910年       東京芸術大学

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やや斜めに構えたポーズや、見下ろす視線は、自画像の典型の一つであるが、画家として身を立てていこうとする若者らしい気負いも感じられる絵である。東京美術学校の卒業制作として提出される3点のうちの一つで、自画像は必修課題であった。後に藤田は、西洋画科の主任教授であった黒田から、自分の卒業制作を「悪い例」として示された、と回想している。色彩がやや暗いと言う点が、黒田の眼鏡にかなわなかったかもしれない。しかし、全体的に落ち着いた色調で、酷評されるような作品ではない。私は、むしろ後年の藤田に較べれば、むしろ「極めてまともな」基礎的技術をきちんと積み上げた作品ではないかと思う。卒業時の成績は30人中16番くらいという平凡なもので、卒業後も若手画家の登竜門とされた文展への落選が続いた。日本では全く芽が出なかったのである。

パリ風景  布・油彩   1918年     東京国立近代美術館

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パリの南のはずれ、地下鉄13号線に「ヴァンヴ門」という駅がある。ここはかってパリを囲んでいた市壁に設けられた門の一つで、第一次世界大戦が終わる頃までは税官吏が立ち、市内に入る物資に税金を徴収していたそうである。この作品が描かれたのは1月のことである。空も樹も道も人影も色を失って灰色である。奇妙な静けさに包まれている。アンリ・ルソー(1844~1910)の影響を受けているそうだ。正当な美術教育を受けず日曜画家として描き始めたルソーは、朴訥な表現を大真面目に描いた人物である。彼の作品をいち早く注目したのが、ピカソや詩人アポリネールだった。藤田はピカソのアトリエを訪ねた時、そこで目にしたルソーの人物画に衝撃を受けたというが、より直接的な影響が見られるのは風景画である。アカデミックな規範から外れたルソーの作品に、強い感銘を受けた藤田が目指したのが、素朴な味わいの表現であった。後に本人も「パリの城壁には、自分が少年時代に親しんだ東京の「見附」(つまり江戸城の城門跡)にも通じるものがあった」と述べているが、「異邦人の目で捉えたノスタルジックなパリの風景」として新鮮に映ったのであろう。「ルソーの後継者」という好評にもつながったのである。こうした風景画は、一部の美術愛好家の間で、藤田の名が知られるようになるきっかけを作ったのである。この時代の絵画は殆ど残っていない。藤田は500枚にも上る、自分の作品を焼却処分していたのである。

バラ   布・油彩   1922年     ユニマットグループ

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私は、この「バラ」を見て、まず乳白色のバックに引き付けられた.1920年代の藤田は、まさに画壇の寵児と言う言葉がふさわしい活躍ぶりであった。まばらに「生けた花」というモチーフは、乳白色の下地に流麗な線で描く技法を生み出しつつあった時期に、「線」の表現を追求する中で興味を持ったモチーフだったと考えられる。水指の下に敷かれた花柄の布も、特徴的である。やがて布は人物の肌を引き立てさせる役割を意識して描かれるようになるが、それ以前の貴重な作例であると思う。

アントワープ港の眺め  布・油彩  1923年    島根県立石見術館

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ベルギー、アントワープの銀行家ポール・フィーランの注文で、彼の自宅を飾る7点の装飾画として描かれた作品の一つである。藤田は、既に乳白色の下地のスタイルで人気が出始めた頃だったが、隣国ベルギーの評価も高かったため、こうした依頼にもつながったのであろう。この作品にえがかれているのは、アントワープの黄金時代であった16世紀から17世紀頃の様子である。つまり、中央の川は貿易港の繁栄を支えたスヘルデ川、中央の高い建物はノートル=ダムの大聖堂の塔である。大型の帆船は大航海時代を象徴しているのである。藤田は取材のため現地を訪れたが、昔日の隆盛を表すために、当時の景観図や文献、銅版の風景画などを参照したらしい。予定通り7枚すべて描かれたらしいが、現在知られているのは、この1点のみである。注文主のフィーランが破産したため、画料もほとんど払われないうちに、7点がばらばらばらに人手に渡ってしまつたようである。

五人の裸婦  布・油彩    1923年     東京国立近代美術館

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藤田は1920年代のパリで大成功を収めた。人気の秘密は、まるで日本画のようなしっとりとした白い下地と美しい墨色の描線で、この作品にもその特徴がよくうかがわれる。この白い下地の秘密は、下地の最表層から「タルク」と呼ばれる物質が検出されたことにより、藤田の絵画技法の解明が急速に進んだ。藤田がこのタルクを、油性地の上に墨で線をひくための画材として使用していることが確認されたのである。タルクは「滑石粉」とも呼ばれ、ベビーパウダーの主な成分として、乳幼児の湿疹などを防止する効果があることで知られている。土門拳氏(1909~1990)が1941年夏から1949年3月までのおよそ8年間、藤田のアトリエを撮影していた。そこには画家ばかりでなく、その制作過程に使用した画材、旧作、日用品などをはっきり映し出していた。その中に和光堂の「シッカロール」という文字が写っていたのである。(図録「レオナール・フジタ 2013年」)五人の女性はそれぞれ、布を持つ=蝕角、耳を触る=聴覚、口を指す=味覚、犬を伴う=嗅覚と、人間の五感を表すとも言われる。中央を占める女性は、絵画にとって一番重要な視覚を表すというわけである。藤田が西洋絵画の神髄に真っ向から挑んだ作品は、彼のそれまでのサロン出品作の最高額となる25,000フランの値をつけたのであった。それはピカソやマチスに匹敵する価格であったと言われている。

坐る女性と猫  布・油彩   1923年    鹿児島県立美術館

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この頃の藤田は、パリ画壇の寵児と言われ、裸婦の絵画が多い。1924年の渡仏以来住み慣れたモンパルナスを離れ、高級住宅街の16区に移り、糟糠の妻とも言うべき2番目の妻フェルナンデスと別れて21歳のリュシー・パドウ(ユキ)と暮らし始めた。運転手付の高級車を乗り回し、社交界の花形として夜毎にパーティーに繰りだたのもこの頃からである。おかっぱ頭のロイド眼鏡、ちょび髭にイヤリングといった強烈な自己演出によって様々な場所に出没し、画家の枠を超えたパリのアイドルとして認識されたのである。この絵は、薄青色のワンピースの女性が、左手を上げて髪を整えるような仕種をしている。上目遣いにこちらを見るキジトラ模様の猫のそろえた前足がかわいらしい。同じ時期に制作された「タピスリーの裸婦」(京都国立近代美術館)と良く似たポーズで、モデルも猫も同じである。本作ではワンピースの青色以外はほぼモノトーンで色調を抑えている。女性の表情も寂しげで物憂げな表情が印象的である。藤田の絵具も独得の技法で用いられている。ワンピースの薄青色を通して、下地の色がはっきりと感じられるのである。

自画像  布・油彩   1929年     東京国立近代美術館

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藤田の最も得意とする白地の女性像(額入り)と猫と共に描いた自画像である。藤田の宣伝用の像とも言えよう。1919年にサロン・ドートンヌに6点全点が入選し、かつサロンの会員となり、成功の鍵を掴んだ。1921年、35歳にして、サロン・ドートンヌの出品作品が高額で売れて、その後1928年まで、各種サロンに出品しながら、ヨーロッパ各地で個展を開いた絶頂期であった。彼の画家の枠を超えた活動には、逆に彼の画家としての評価に疑問を投げかける結果を一部にもたらした。派手な私生活をとらえて、宣伝屋、ハッタリヤ、お調子者のレッテルを貼り、作品の評価もろともに引きずり降ろそうとする人々が日本人の中に登場した。藤田と日本の間の亀裂が次第に大きくなっていった。第一次世界大戦の束の間の平和と繁栄を謳歌した1920年代は終わり、ニューヨークの株価暴落から世界恐慌、そして戦争へと向かう激動の時代を迎えて、藤田の生活と創作も大きく揺れ動いた。

青いドレスの女  布・油彩   1939年    島根県立美術館

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西洋の女性をモデルに描いた1939年の作品であり、本作は東京で描かれたものである。この絵のモデルは、2番目の妻マドレーヌ・ユキの面差しに似ている。マドレーヌは1936年に急逝しているので、描きためたスケッチを元にして描いたのであろう。

猫  布・油彩   1940年        東京国立近代美術館

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14匹の様々な種類の猫が組んずほぐれつの喧嘩をしているように見える。1940年の制作ということもあって、時局を反映した殺伐とした空気を表現しているという解釈もある。背景を黒く塗りつぶす手法は、画題に関係なく若い頃から何度も使われているが、ここでも極めて効果的である。飛び上がる猫の姿をくっきりと浮かび上がらせ、なおかつ下辺がやや斜めになっていることによって、画面の感動を一層強めている。14匹の猫は8の字を描くように配置され、これも画面のスピード感と動きの連続性を増している。

アッツ島玉砕  布・油彩  1943年(昭和18)  東京国立近代美術館

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1943年(昭和18)5月29日、アリューシャン島で、アメリカ軍の攻撃により日本の守備隊が全滅した事件を描いた絵画である。レオナルド・ダヴィンチ等泰西の戦争名画から学んだ技法を駆使し、三角形を積み重ねた技法である。昭和18年5月と言えば、私は小学校4年生であり、ハッキリこの玉砕事件は記憶している。何故、アリューシャン島という孤島で全員玉砕したのだろうかと不思議に思った。要するに戦略的重要性について、まるで理解できていなかったからである。それは、今でも不思議に思っている。玉砕という全員死亡事件には、前途に不安を感じた記憶がある。この絵画の暗い色は、一体何を描きたかったのだろうか?2006年に国立近代美術館で「藤田嗣冶展覧会」が開催され、それを高校時代の同窓生と観覧したことがある。その時に、藤田の戦争画を初めて見て、強烈な印象が残っている。この絵が、戦意高揚に繋がるとは、到底思えない。厭戦思想が涌くものの、戦意高揚には程遠い絵画であると感じたし、今回も同じ印象を持った。藤田は陸軍や海軍の依頼を受けて何点もの作戦記録画を描いているが、この作品は依頼によるものではなく藤田が自発的に描いてその後陸軍に献納され、9月の国民総力決戦美術展に出品されるという経過をたどっている。調べてみると、陸軍は当初、この作品を公開することに躊躇していたという話がある。(図録より)北の孤島における日本軍全滅の悲劇を生々しく伝える画面が、国民の戦争に対する士気を低下させるのではないかという危惧は当然のことである。しかし国民の反応は全く逆だった。玉砕し軍神となった兵隊たちの最後の瞬間に直面することにより、敵である鬼畜米英に対する怒りや憎しみはさらに増したのである。展示された作品の横には「脱帽」の二文字が大書され、賽銭箱が置かれ、絵に向かって手を合わせて拝む人が後を絶たなかったという。藤田自身がそれらの老若男女の姿を目にして「生まれて初めて自分の絵がこれほどまでに感銘を与え拝まれたことはいまだかってない異例さに驚き」「この絵だけは、数多くかいた絵の中の尤も快心の作だった」と後に記している。

 

今回展示された藤田の絵画は158点に及び、日本全国の地方美術館を含め、ほぼ日本中にある藤田作品を網羅したばかりでなく、フランスのランス美術館からも多数出展された素晴らしい展覧会であった。府中市美術館の総力を挙げた展覧会であり、図録の内容も、従来の図録を上回る内容であった。未公開作品も多数含まれた本展が、藤田芸術の新たな解釈と理解につながることを強く期待する。

 

(本稿は、図録「藤田嗣冶展ー東と西を結ぶ絵画 2016年」、図録「特集:藤田嗣治、全所蔵作品展示 2015年」、図録「レオナール・フジターポーラ美術館コレクションを中心に 2013年」、図録「コレクター鈴木常司ー美へのまなざし 2012年」を参照した)