2016年「黒川孝雄の美」10選

 

「黒川孝雄の美」を書きはじめて丸4年が経過する。その出発点は望洋会の「幾山河」への寄稿で「おほてら の まろき はしら」と題する原稿である。「幾山河」に寄稿するということは、名古屋大学の4年間で、私は何を一番学び、何が記憶に残ったかを書いたのである。実際、執筆に当たって大学4年間の記憶は、殆ど消え失せており、大して役に立つものは無かったという印象である。唯一、有るとすれば大和の古寺への散策であった。それを書いてから、この美術体験を何か記録に残せないかと考え、ブログ「黒川孝雄の美」となったのである。書き始めて4年間が過ぎた。この4年間のうち3年間は会社経営、1年間はある会社の社外監査役以外は一切仕事の無い身となった。従って4年間のうち、3年間は開業した会社の社長、1年間はほぼ無職に近い状態であった。この4年間を総括すれば、非常に充実した日々であった。それは「美」を書くために多大なエネルギーを費やし、それがまるで私の人生の目的であるように動き回ったからである。そこで、今回は、2016年の記事を振り返り、その中で特に思い出の深い記事を10篇上げて、振り返ってみたい。因みに、この1年間で書いた記事は60編となり、6日に1回の割で書き上げたことになる。これは、前3年と比較すると約2倍のスピードになっている。どの程度の時間を費やしたかは、正確な記憶は無いが、取材(美術館の場合は、自宅を出てから)に要する時間は一般的に5時間を要する。1日に2つの美術館へ行くこともあるが、出来るだけ避けている。印象が希薄化するからである。購入した図録や関連図書を読み込む時間数は5時間程度である。粗筋を頭の中で整理し、選択する写真を選び、パソコンに入力するのに1時間は掛かる。原稿を書く時が、一番頭を使う。図録、参考図書、新聞記事、雑誌記事などを確認しながら、およそ5時間を要する。その原稿を、ブログに写すのに4時間程度の時間が掛る。取材から、ブログの入力まで、トータルで実に20時間を要する。私の空いている時間は1日5時間である。従って、1つのブログを完成するのに、合計4日間を要することになる。60編を書くためには、実に240日を要した計算になる。年間トータルすれば、必要金額はかなりの金額に成るかも知れないが、それで得た楽しみと、費用を比較すれば、効用の方が遥かに高いと思っている。さて、満足した順位の番について、簡単にまとめたい。なお、この記事を1点と計算すれば、今年は61点を執筆したことになる。

第1位 大徳寺の塔頭 聚光院 狩野永徳筆 四季花鳥図 2016年9月13日

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聚光院は千国武将の三好義嗣が、養父長慶の菩提を弔うために創建した塔頭(たっちゅう)であり、ここには狩野永徳(子)と狩野頌栄(父 16世紀)による障壁画46面が納められている。すべて国宝であり、通常は京都国立博物館に寄託されているが、創建450年を記念して、今年の3月から、来年の3月26日まで一般公開されたものである。特に方丈室中の花鳥図が素晴らしい障壁画であった。また庭園は「百積庭」と言われる名園であり、私が訪れた6月には沙羅双樹の花が、開花、落花していた。この聚光院は、今年の京都観光の目玉となり,JR東海の宣伝や、各種美術番組、京都特集では何度も取り上げられた。是非、他の寺院でも聚光院に見習い、長期(できれば1年間)開館をして、毎年の観光の目玉になってほしいと思う。なお、この寺院には千利休の墓もあり、三千家の菩提寺でもあるので、茶道関係者も大勢参観された。

第2位生誕300年記念若冲展 棕櫚雄鶏図2016年5月4、7、11、17日

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1716年に生まれた伊藤若冲は、今年生誕300年となり、それを記念して開催された展覧会であり、1ケ月間に40万人以上が訪れるという記録づくめの展覧会であった。宮内庁に残る「動稙彩絵」や相国寺の「釈迦」三尊像」をはじめ、鹿苑寺大書院障壁画、西福寺の金碧障壁画、プライス・コレクション等、現存する若冲の名作を揃えた展覧会であり、多分今後50年間は開催されないだろうと思われる豪華な記念展であった。

第3位 ルノワール展            2016年8月9日、16日

ルーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会   1876年

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日本で最も人気の高い外国人絵画と言えば、無条件にルノワールの名前が上がるだろう。印象派時代から古典主義への回帰、成熟期と大きな転換を遂げながら、78歳の生涯を絵画に捧げた画家であり、東京には「ルノワール」と名付けた喫茶店が100店以上あり、日本人に親しまれている。初来日という作品もあり、大変な人気であった。

第4位 黒田清輝展            2016年4月10日、16日

重要文化財 智・感・情      明治32年(1989)

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同時代の画家、久米桂一郎は「黒田清輝を思うとき、ぼくは幸福な環境、幸福な才能、幸福な時代と言う言葉が浮かんでくる」とまで言わせた、黒田清輝の全時代に渡る作品類を展示したもので、「外光派」と呼ばれる作風で、一世を風靡した。東京美術学校の洋画科の最高峰に上り詰め、唯一の官展であった白馬会を支配し、貴族議員になり、第二代帝国美術院長まで登りつめた。珍しく、デッサンも多数展示された。

第5位 鈴木帰一展   江戸琳派の旗手    2016年10月3日、9日

夏秋渓流図  6曲1双   江戸時代後期

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本阿弥光悦、俵谷宗達らが生み出した琳派は、江戸時代に酒井抱一、鈴木其一に引き継がれ、発展した。鈴木其一は江戸琳派の旗手として活躍した。恐らく、其一の作品をこれだけ集めた展覧会は、初めてであろう。其一の色の鮮やかさは、素晴らしい。いずれ若冲を上回る人気が出るだろう。

第6位  藤田嗣治展  府中市美術館   2016年11月2日、7日

5人の裸婦  布・油彩  1923年   東京国立近代美術館

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藤田の戦前の作品(特に戦争絵画まで)と、戦後の「フランス国籍取得と祈りの世界」と二分しないと、その本質は理解できないと思う。1920年代のフランスにおける大成功(絵画の値段はピカソ、マチスと並んだと言われている)と1940年代の戦争画の成功、戦後の戦犯扱いと、フランスへの脱出、フランス国籍の取得、祈りの世界への到達は、一人の画家としては理解できない程複雑な世界である。府中市美術館の今年一番の話題展覧会であった。

第7位  原安三郎コレクション 広重ビビッド  2016年6月2日、7日

六十余州名所図会 尾張 津嶋 天王祭り   嘉永6年(1853)

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原安三郎氏の浮世絵コレクションは世界的なコレクションであり、あまり公開されないもので、今回、サントリー美術館にて広重「六十余州図絵」、「江戸名所百景」、北斎「富嶽百景」、「千絵の海」、国芳「東都」、「東都名所」、「近江の国の勇婦お兼」が出展された。日本にこんな素晴らしい浮世絵コレクションがあったのかと感じいった展覧会であった。

第8位 すみだ北斎美術館 北斎の帰還       2016年12月8日

隅田川両岸景色図巻(最終場面)      江戸時代後期

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すみだ北斎美術館が11月22日に開館した。その場所は、北斎が約90年の生涯の大半を過ごした墨田区の一画、北斎通りに面した場所である。この隅田川両岸景色図巻は約100年余り行方不明であった北斎の肉筆浮世絵であり、その全部が開館に合わせて披露された。北斎専門の美術館として、墨田区が集めたコレクションや、各美術館が保有する北斎の名画が、逐次披露される予定であり、楽しみにしている。

第9位  東寺       2016年2月15日、20日、28日、3月3日

国宝 不動明王  木造  承和6年(839) 平安時代(9世紀)img444

平安時代に空海によって真言密教の寺院として生まれ変わった。東寺は、新幹線が京都駅を出て、大阪に向かう時に一番最初に目に入る五重塔で有名である。特に講堂に並べられた立体曼荼羅は、空海が日本にもたらした真言密教を立体的に表現した密教の世界である。長い間、秘仏として守られてきたため、平安時代の色を今に伝えている。

第10位  丸山応挙 「写生を超えて」     2016年12月16日

国宝  雪松図屏風 6曲1双  天明6年(1786) 江戸時代(18世紀)

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円山応挙は、狩野派の粉本主義を打破し、対称を徹底的に観察し、その形を完璧に写すことができれば、対称の生命感を生き生きとして表現できるとと考えた。応挙の「写生図巻」2巻は、重要文化財に指定されている。

 

(本稿は、2016年の間に書いた「黒川孝雄の美」60点から、私の主観で好きな10点を選んだものである。甲乙付けがたい作品が多いが、敢えて10選として見た。時間のある方は是非読んで戴きたい)

デトロイト美術館展~大西洋を渡ったヨーロッパの名画たち

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デトロイト美術館は1885年に創立されて以来、自動車産業をはじめ有力者からの資金援助を受けて世界の名品を収集してきた。ここのコレクションは約65,000点にものぼる。2013年、デトロイト市の深刻な財政難により、財源の確保策として、同館の美術品の売却の可能性も検討された時期があったが、国内外の資金援助やデトロイト市民の声により、そのコレクションは1点たりとも失われことなく、今日もデトロイト市民の憩いの場となっている。今回の展覧会では、選び抜かれた52点の名品から構成されており、それらを「印象派」、「ポスト印象派」、「20世紀のドイツ絵画」、「20世紀のフランス絵画」の4部に分けて構成されている。こにお展覧会の「20世紀のドイツ絵画」を除いた3章から、代表的名画を選んで解説したい。ドイツ絵画を除いた理由は、私にドイツ絵画の知識が無いためである。また、この展覧会の大きな特徴は、月、火曜日に限って、全ての展示作品の写真撮影を許可していることである。「フラッシュ禁止」であるが、どんなカメラでも撮影が許可されていた。私は、人数が少ないと思われる月曜日に訪れたが、大半の人が撮影していた。圧倒的に多いのはスマホであるが、次にタブレットが多かった。私は、キャノンのカメラであったが、カメラ派は圧倒的に少数派であった。私がみたところ、タブレットが一番綺麗に映っていたように思う。私のカメラは、残念ながら殆ど写真としては使い物にならなかった。発光禁止のため、手ブレが多く、鮮明な写真は写っていなかった。参考までに、ゴッホの肖像画の写真を入れておいた。また展示コーナーの最後に、模写した絵画を手でなぞることが出来る絵画が、4点並んでいた、弱視の人に対する、思いやりであろう。定型的な展覧会が多い中で、デトロイト美術館のイキなはからいに感謝したい。因みに、現在発光禁止付でカメラ撮影を許可しているのは、東京国立博物館の常設展(一部禁止がある)と東洋館である。また、52点という展示作品が少ないことも有り難たかった。150点、200点の及ぶ展覧会は疲れて満足に鑑賞できない。デトロイト美術館だから、点数を増やすことはどうにでも出来ただろうが、あえて名画に絞って、何回も廻って楽しめる美術展も、思いやりの深い展覧会である。(上野の森美術館にて、2017年1月21日まで開催)

 

グラジオラス  クロード・モネ作 油彩・カンヴァス  1876年

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印象派以前の画家達は多かれ少なかれ細部の真実にこだわったが、印象派がこだわったのは細部よりも全体の真実であり、「自然はいかにあるべきか」よりも「自然はいかに見えるか」であった。そういう意味でも、今回出品の印象派関係の作品で主題、様式両面で最も印象派らしい絵画を描き続け、モネは印象派の代表者だと思っている。画中に描かれている女性は、モネの妻カミーユである。モネはイーゼルを屋外に持ち出して直接カンヴァスに描くことで、光が花や葉に当たってはじめる瞬間や、強い日差しに揺れる空気の効果を生き生きと伝えている。画面上のグラジオラスの存在は大きい。

坐る浴女 ピエール・オーギュスト・ルノワール作 油彩・カンヴァス 1903~06年頃

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裸婦はルノワールが生涯にわたって取り組んだテーマであるが、その大半は1881年のイタリア旅行から帰ってからの作品である。その意味で、この作品が描かれた1900年代は、ルノワールは印象派に距離を置き、古典絵画の巨匠に学んだ時代であった。印象派が描いてきた同時代の女性像から、ルノワールが求める永遠の女性像へ向かう過渡的な存在である。

サント=ヴィクトワール山 ポール・セザンヌ作 油彩・カンヴァス 1904~06年頃

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ポスト印象派という言葉には、歴史がある。1910年11月から翌年の1月にかけてロンドンのグラフトン・ギャラリーで開催された「マネとポスト印象派展」がそれである。美術史家のロジャー・フライが展覧会名を「だったらポスト印象派にしたらどうか。どちらにしても、彼らは印象派の後から来たのだから」と提案したのである。彼らとはセザンヌ、ゴッホ、ゴーギヤンに加え、点描派のスーラ、シニャック、ナビ派のドニ、ヴァロットン、象徴派のルドン、フォービズムのマチス、ドラン、ヴラマンク、それにピカソなどを指し、総数30名近い作家が名を連ねた。ポスト印象派の画家は不明であるが、私はより限定してセザンヌ、ゴッホ、ゴーギヤンの「御三家」を指す言葉にしたい。セザンヌにとって風景画は生涯に渡る主要なテーマであった。なかでもサント=ヴィクトワール山の連作は、油彩、水彩、デッサンを含めて60点を超える。サン・ヴィクトワール山は後年になるほどその存在感を増していって、独特の形状を持つ岩山がそびえる雄大な眺望を描いたものが多い。本作は、再後期に属する連作である。

自画像 ポール・ゴーギヤン作 油彩・カンヴァス  1893年

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ゴーギヤンは1888年にアルルでゴッホと短い共同生活を送り、その悲劇的な結末を経験している。ゴーギャンは1893年に楽園と言われた南太平洋のタヒチへ向かった。1893年に一度帰国して個展も開いたが、彼の作品はなかなか周囲に理解されなかった。本作はこのフランスへの一時帰国の時期の作品である。右手を顎に当ててこちらを見るゴーギャンの顔は挑戦的にも見えるが、その表情は周囲の無理解に対する不安や疲労を宿しているように見える。背景に壁にはドラクロワのデッサンが掛っている。ゴーギヤンは1895年に再びタヒチに向かい、二度と故国の土を踏むことはなかった。現在のゴーギヤンに対する市場の評価は高い。オークションでは数百億円の最高値が付いたそうである。

自画像 フィンセント・ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァス 1887年頃

ゴッホの作品        ゴッホの作品を無光で写した私の写真

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ゴッホは自画像の多い画家である。モデル代にも困った困窮も大きな理由では無いかと思う。麦藁帽子をかぶり、青い画家用のスモックを着た自分自身の姿を描いている。力強く強烈な色彩と筆触が特徴的である。ゴッホにとって色彩は、内面感情を現す手段であったのだろう。スモックの下方には指先が目立っており、指で塗った部分であることが判る。ゴッホも生前は、殆ど売れなくて弟のテオの世話に成りぱなしであったが、現在の市場価格は極めて高価であるそうだ。(なお、無発光で撮った写真は、これが一番鮮明であったので、参考までにお見せする)

オワーズ川の岸辺、オーヴィエールにて フィンセント・ゴッホ作 油彩・カンヴァス 1890年

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アルルでのゴーギヤンとの共同生活にピリオッドを打った耳切り事件と、精神障害の発症を経て、1890年5月21日この地にゴッホはやってきたのは、ガシェ博士から治療を受けるためであった。画面はオワーズ川の岸辺の夏の風景である。川面には画面左奥から手前にかけて10艘を超える色鮮やかなボートが並び、左上奥に張られた白い帆も見える。画面一番手前の黄銅色のボートが強い色彩で画面を左右に跨いでいて目を引く。この絵を描いてしばらくした1890年7月29日、ゴッホは自らの体にピストルの弾を撃ち込み、それがもとで37年の生涯を閉じることになる。

窓 アンリ・マチス作  油彩・カンヴァス  1916年

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20世紀初頭の西欧やアメリカは、資本主義が発展し、科学技術や通信・交通手段が飛躍的に進歩を遂げ、都市化や国際化が進む、まさに「進歩」のまっただなかの時代にあった。20世紀前半の最も傑出した二人の巨人、マチスとピカソをはじめとする画家たちが1905年以降フランスを舞台として制作した絵画があるが、そのどれもがフォービズム、キュビズム、プリミティヴィズム、抽象など、古典的規範を打ち破る新しい表現を志向するものであった。ヨーロッパが第一時世界大戦で混乱していた最中に、マチスはイシー=レ=ムリノーにある田舎の家の部屋から見た、此の平和で美しい傑作を描いた。一見何げない室内画にもさまざまな幾何学的要素が組み込まれている。マチィスお気に入りの題材である。全体を美しく調和させているものは、マチスの手紙に綴られている、絶妙の色の対比とハーモニーだろう。

コーヒータイム アンリ・マティス作 油彩・カンヴァス 1916年

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マティスは1906年からアルジェリア、1911年と1912年から13年にかけてモロッコと、北アフリカに3度旅行している。「東洋風の昼食」(オリエンタルランチ)とも呼ばれるこの絵には、モロッコ滞在の経験がそのまま、衣装や小道具などのセッティングに投影されている。壁の青と床の赤の2つの大きな色面を背景に、黒の輪郭線が人物を浮かび上がらせ、すべての色とかたちがシンプルに響き合い、この絵にきわめてモダンな感覚を与えている。

読書する女 パブロ・ピカソ作 油彩・カンヴァス  1938年

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モデルは当時ピカソの恋人だった、シュルレアリストの写真家、画家のドラ・マールである。ピカソとドラはシュルレアリスムの仲間を介して1936年に知り合った。ドラは知的で自立した女性で、さらにスペイン語を話せる強みもあり、ピカソと対等に芸術や社会的なことがらについて語り合える相手であった。この絵が描かれる1年前の1937年の夏、ピカソはパリ万国博覧会のために大作「ゲルニカ」を描いたが、その間はずっと傍らに付き添って制作過程を撮影しており、その写真は現在まで貴重な記録となっている。黒い長い髪をうしろにやっておでこを出し、読書に没頭するドラの姿。形式張ってポーズをとるのではなく、日常の姿を素早く写し取った親密な表現である。この絵は、わが国初公開だそうである。

女の肖像 アメデォ・モディリアーニ作 油彩・カンヴァス 1917~20年

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1916年末にモディリアーニは18歳の学生ジャンヌ・エピュルヌと出会い、翌年から一緒に暮らすようになる。一方で、以前から結核を抱えていた身体の状態が悪化し、画商のレオポルド・スボロフスキーの手配により、1918年4月にジャンヌ、そしてジャンヌの母とともにパリを離れ南仏のカーニュ=シュル=メールに移り住む。その年の11月、ジャンヌは長女を出産した。この時期、彼の絵は次第に彫刻的な量感から絵画的なデッサン性へと重心が移り、人物像も形態が伸びて優美になっていく。母国イタリアで慣れ親しんだ穏やかな古典主義やマニエリスムの優雅さを自分の絵に取り戻していった。この女性像も、彼独特の引き伸ばされた楕円形の顔と長い首を持つ女性である。モデルは同定されていない。

 

デトロイトは自動車生産の街である。アメリカの自動車産業は、長引く不景気で、業績が著しく悪化し、各企業は大幅なコストカット、人員削減に乗り出していた。解雇の嵐が吹き荒れた。2013年の3月にデトロイト市は財政破綻に陥った。「デトロイト・フリー・プレス」は次のような記事を掲載した。「去る3月1日、デトロイト市が債務超過状態にあることから、同市の財政破綻危機宣告をしたミシガン州知事は、緊急財務管理者を任命した。このまま同市が財政破綻したら、破産自治体としての負債総額は180億ドルに上ると見込まれ、全米で過去最大になる。デトロイト市はデトロイト美術館ノコレクションを売却して返済に充てることも検討せざるを得ない状況に追い込まれている。」この新聞記事にいち早く注目したのは年金生活者であった。デトロト市は警察、消防署員年金と一般職員年金の二つの年金制度を有していたが、多額の積立金不足により、年金基金がデトロイト市に対して有する債権総額は31億ドルを超えていた。これが圧縮されれば、年金受給者への支給額が大幅に減らされかねない。しかし、デトロイト美術館を救うために「”売る”のではなく、”募る”ことにしょう」と募金活動が始まった。遂に2015年1月に寄付金目標額を達成し、最後にアンドリュー・メロン財団やゲティ財団が巨額な寄付を表明したのである。これと引き換えに、美術館は市の管理下を離れて独立行政法人になった。これで市の経済状態に左右されることなく、存続して行くことが出来るようになった。こう言った活動がなければ、この企画は無くなったであろう。この文章を書きながら、職を失った白人労働者の多くがトランプ氏を大統領に押し上げたのだろうと思った。

 

(本稿は、図録「デトロイト美術展 2016年」、福島繁太郎「近代絵画」、吉川節子「印象派の誕生」、原田マハ「デトロイト美術館の奇跡」を参照した)

円山応挙展   「写生」を超えて

円山応挙(享保18年~寛政7年=1733~95)は、丹波国穴太村(現在の京都府亀岡市)の農家の子として生まれる。京の呉服商に奉公し、絵は、はじめ石田幽汀について狩野派を学んだ。27歳の頃、玩具商の尾張屋勘兵衛の店で眼鏡絵を描き、遠近法など西洋画法を習得した。33歳の頃大津三井寺の円満院の裕常(1723~73)と関わりを持ち、その蔵画を模写し、中国の古画や清画の写実技法を学んだ。対称の観察に基づく精密感のある描写、室内にまるで本物の光景が出現したかのようなイリュージョンをもたらす画風は、多大な人気を得た。「平安人物志」の明和5年版(1768)、安永4年版(1775)、天明2年版(1782)に名が掲載され、安永、天明版では筆頭であった。応挙は、対称を徹底的に観察し、その形を完璧に写すことができれば、対称の生き生きとした生命感を表現できると考えていた。勢いやニュアンスを重視する伝統的な筆使いや、一見写実とは相容れない華やかな装飾性を作品に導入し、さらにそれまでになかった表現法の創出にまで至った。すなわち「気韻生動」への渇望が、応挙の写生画を再出し続けることになったと思われる。(根津美術館 12月18日まで)

牡丹孔雀図 絹本着色 1幅    安永5年(1776) 宮内庁三の丸尚蔵館

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応挙の花鳥画の典型ともいえる作品である。安永5年9月の作で、同じ年には「雨竹風竹屏風」が6月に、「藤花図屏風」が7月に制作されており、いずれも応挙の画業におけるひとつのピークを形成する作品に位置付けられる。本作品は、江戸時代に公家の久我家から宮中に献上されたものであるという。

雪中水禽図  絹本着色 1幅   安永6年(1776)  個人蔵

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冬の水辺に遊ぶ七羽の水禽を描く大幅である。白い雪の積もった岸に並んでいるのは番の鴛鴦。水面の手前側は凍っており、氷の上には雌雄の真鴨がいる。その先のまだ凍っていない水面には子鴨の雄が浮かび、さらにその背後には水中の餌をあさる一羽がいる。松のかげから飛来するのは軽鴨かとされる。ところで雪景色に鴛鴦を描く作例が伊藤若冲に3点ある。「動稙綵絵」の中の「雪中鴛鴦図」が3点のうちでもっとも時代が新しいものであるが、それでも応挙よりは随分早い。果たして応挙は、若冲の絵を見知っていたのだろうか。私は、二人の鴛鴦図はかなり違うと思う。若冲の絵が幻想的であるのに対し、応挙の作品は自然らしい、二人の画家の資質の違いが明らかに見れる。

雪中残柿猿図 絹本着色  1幅  安永5年(1774)   個人蔵

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二匹の猿が、雪の積もった冬のある日に、枝に残った一つの柿を争うという状況を描いたものである。この猿は、「写生雑記録」(後掲)のスケッチや、「写生図鑑」(後掲)の写生を浄書したものらを参考にしたであろうと思われる。それに比べると、この絵の猿には生気が戻ってきているように感ずる。写生の浄書である写生図は恐らく、生気表現を考えず、思う存分形の類似を求めたフォーマットだったのであろう。そこから更に本画を造る際には生命感を表出することが問題であったのであろう。この猿は実に生き生きと描かれている。

重要文化財 雨竹風竹図屏風 6曲1双絹本着色 安永5年(1776)圓光寺蔵

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安永5年(1776)、応挙44歳の年に次々と大作を生み出している。まず6月月に、この「雨竹風竹図屏風」。7月の「藤花図屏風」、そして9月には先に上げた「牡丹孔雀図」を生み出し、安永期の堂々たる巨匠振りを示している。応挙は早くから強い墨への愛着を示しており、それが天明期の代表作「雪松図屏風」を生み出す原動力になったと思われる。この「左隻」は風竹図であり、右端の数本をはじめとする竹が幹をわずかに揺らすだけである。しかし、連なる竹、そこに施された墨の濃淡の変化に空気の存在を感じることが出来る。絵の中に微かな風が吹いていることを感ずる。軽い乾いた葉音さえ聞こえてきそうである。

重要文化財藤花図屏風6曲1双 紙本金地着色 安永5年(1776)根津美術館           左隻                  右隻

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画面上端を藤棚に見立てたかのような構成で、総金地に藤の木と花を描いている。幹や枝、蔓(つる)は、刷毛の一筆描きで対称を表現する付立(つけたち)よ呼ばれる技法であらわされている。濃度の異なる墨を筆にふくませることで描線に濃淡が生じ、それによって幹や枝の陰影、ひいては立体感が表現される。また、力をこめた筆さばきが生む墨のムラがゴツゴツした藤の幹の表面を再現し、また奔放に走る描線が伸びやかに蔓を描き出す。印象派を思わせるような、きわめて斬新な技法、表現である。応挙の安永期の傑作の一つであろう。

国宝雪松図屏風 6曲1双絹本金地着色天明6年(1786)頃 三井記念美術館    左隻                   右隻

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一面の雪の中にきらめく光を照り返して屹立する松の姿を墨と金泥と紙の白色のみで情感豊かに描いた絵である。松は輪郭線を用いないで没骨法(もっこつほう)をもってし、右隻には直線的で柔らかい若木を配する。画面中央に出現した余白が、空間の広がりを感じさせる。写生を基礎に、これを伝統的な装飾画風と合せた平明で清新な応挙様式の代表作である。雪の部分は、紙を塗らずに、白い感じを見事に出している。応挙一代の傑作と言えよう。

筍図  1幅 絹本着色    天明4年(1784)   個人蔵

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3本の筍が描かれている。一番手前が赤みを帯びたなめらかな竹の皮を持つ淡竹の筍、その奥にあるのは剛毛に覆われた竹に黒い細やかな斑模様のある孟宗竹の筍、更に一番後ろに添えられているのが真竹の筍である。之を見ると、まさにスケッチして描いたように見える。しかし、実は3本のうち孟宗竹と眞竹は、「写生図鑑」や「写生図録」などに含まれる筍の図に基づいている。単に、モチーフが共通しているのではなく、皮の枚数や模様、そして孟宗竹の根の付近の土の付き方を見れば、これら写生図を使って描かれていることが確認できる。「写生帳」とは、対称をまさに目の前にして行った写生(一次写生)に対し、それらの写生を浄書したものを指す。「筍図」は、応挙が確かに写生を出発点にして本画を描いたことを明らかに示す。写生と本画を直接に結び付けることこそ応挙の達成の一つと言える。十数年前の筍図を本図に用いているのである。それは、ある時期の写生図が依拠すべき「典型」にまで高められているということが推測できる。「筍図」は、応挙の絵画制作において、写生という段階が極めて重大な事柄であったのである。

四条河原夕涼図(眼鏡絵) 紙本着色 宝暦年間(1751~64) 個人蔵

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眼鏡絵とは、西洋風の遠近法を用いて描かれ、それをレンズの付いた覗き眼鏡を使って見ることで強調された遠近感、さらには臨場感を楽しむ絵である。西洋が発祥で、オランダや中国を経由して日本にもたらされた。若い時に奉公していた尾張屋中島勘兵衛が覗き眼鏡を販売していたが、付属していた絵だけでは目先が変わらないので応挙に新たに眼鏡絵を描かせたところ、それが人気を得たという。需要に応えるため、後には木版でも制作されたのである。この絵は四条河原の夕暮れ時を描いている。季節は夏である。川の両岸には見世物小屋が並ぶ。岸の近くには川床が作られ、浮かれ踊る人々を提灯が照らし出している。

写生雑記帳 1帖 紙本墨画ほか 明和7年~安永元年(1771~72)個人蔵

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応挙が、図と文字で、絵画制作に関わる様々な事柄を書き留めた帳面で、本来の表紙には「写応挙」とあり、「圓山氏図書記」という印が捺されたものが二図ある。大部分は袋綴じになっているが一部厚手の一枚紙の頁もある。基本は図や文字の直書きであるが、中には写生図の切り抜きを貼ったり、逆に図の輪郭に沿ってまわりを切除したりしている。内容でもっとも多いのは、動植物や山水風景、自然現象の写生、スケッチで、全体の半数近くに及ぶ。鳥や動物や魚、あるいは草花や木々を全体や部分、ときには様々な角度で描き別け、優れた観察力とデッサンを示す。次いで注目されのは中国の絵画や版元挿絵の縮図である。また、中国以外に、日本の古画を写したものもある。蘇我蛇足や宗旦などの中世の画家の名前と作品の縮図が見える。昭和30年代に本作品が登場したことにより、それまで知られていた応挙の多くの写生図が、ここに含まれる一次写生の浄書、すなわち二次写生や模写として認識されるようになった。応挙の制作の秘密に迫るために必須の作品であり今後の研究が期待される。

重要文化財写生図巻二巻紙本着色明和7年~安永元年(1770~72)(株)千総    甲巻               乙巻

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紙を横づかいした九枚の写生図を、それぞれ甲乙二巻の巻子に仕立てている。もとは「写生図」のような画帳形式であったものを、巻物に改めたようである。甲巻は巻頭から、第一図に金柑や霊芝、椎や栗、櫟などの実、稲、蜜柑などが描かれている。乙巻は、第一図に笹の露、青松傘、蜘蛛、蛍、第二図に猿が描かれている乙巻第一図が「筍図」である。乙巻第二図に「写応挙」の署名がある。乙第一図が「筍図」に応用されている。

写生図帖  一帖  明和7年~安永元年(1770~72) 東京国立博物館

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横使いと縦使いが混在した形で二十枚の写生図を貼り込んだ帖形式の写生図である。東京国立博物館には、現在応挙筆とされる複数の写生帳があり、便宜的に名付けられた甲乙丙丁四帖のうち、本作品は乙帖に当たる。「写生図鑑」と共通する写生図が十図ある。写真は「桜」の部分である。近年、本作品は弟子の筆になるるのではないかという観測がなされている。浄書された写生図の更なる転写本が存在することは、それらが写し、学ぶべき粉本と化していることを示しているようだ。

重要文化財 七難七福図巻 3巻  紙本着色 明和5年(1768) 相国寺蔵

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明和5年(1768)、36歳の応挙は、3巻からなる絵巻を完成させた。大津に位置する門跡寺院・円満院の裕常(ゆうじょう)門主が、若き応挙の才能を見込んで描かせたものである。主題は「仁王経」に説かれる七難と七福である。応挙は、この作品の制作に3年の歳月を費やした。そこには人間と、人間を取り巻く自然の諸相が緊張感に満ちた筆致で描かれている。応挙の絵画理論が深まったのも、この作品を契機とすえ裕常との対話を通じてであった。

 

 

当時の狩野派を中心とする絵画制作は、「粉本」によるものであった。江戸狩野探幽以来の絵手本、下図、古画の模写等を「粉本」(ふんぽん)と称しており、新たに絵を描く時は、それらの「粉本」を参考にし、あるいは組み合わせて制作する。そこには新しい創造性、芸術性はなかなか求められないのである。そういう中で、応挙は様々なものを実際に見て写生をし、あるいは古い中国や日本の画家の絵を写したりして自身の画嚢(がのう)を肥やしている。応挙の写生図といわれる作品も今日多く伝えられている。これらをもとに応挙は自分の作品を描き上げたのである。応挙は、時間をおいてよく似た作品をいくつも制作する一方で、ある時には一見全く異なる画風を共存させ、また時として突出した新奇な技法を披露する。段階的な画風展開でとらえることが難しい画家である。これは「気韻生動」への渇望、それこそが応挙の写生画を更新し続けたのではないだろうか。

 

(本稿は、図録「円山応挙ー「写生」を超えてー 2016年」、「図録「美の伝統 三井家 伝来の名宝 2005年」、図録「琳派コレクション 根津美術館 2014年」、を参照した)

 養源院  俵谷宗達の襖絵

養源院は京都・三十三間堂の左隣りにある江戸時代初期の寺院である。本来、豊臣秀吉の側室淀殿が、父浅井長政の菩提を弔うため、文禄3年(1594)に建立した寺である。しかし健築後程なく火災にあい焼室した。元和7年(1621)に、二代将軍徳川秀忠の夫人崇源院殿(長政の三女・お江の方)の願いにより伏見城の遺構を用いて再建したのが現在の養源院の本堂である。以来、徳川家の菩提所となり、歴代将軍の位牌を祀っている。養源院本堂の大きな空間を占める襖絵「松図」の作者は俵谷宗達(生没年不詳)として知られている。宗達は桃山時代から江戸時代初期にかけた活躍した絵師で、当時「俵谷」と呼ばれた扇制作工房の主人であると思われる。宗達は、扇絵や色紙の下絵などに桃山の大胆な時代精神と斬新なデザイン性を表現し名声を高めていた。本阿弥光悦と組んで、俵谷宗達下絵、本阿弥光悦書の国宝が多数残されている。その他交友には千少庵(千利休の次男)など、富裕な町衆との交際で知られ、富裕な町衆として、この時代の清新な文化を担った一人である。宗達の経歴は不詳な点が多いが、この頃(1600年から1645年頃)装飾画の制作にたずさわり、次第に絵師としての地歩を固めるに至った。宮廷より「法橋」という絵師として最高の地位を与えられたことは、ある意味で新しい社会の動向を示していると言えよう。狩野派という権力に結びついた流派ではなく、このような町絵師が社会的地位を得たことは、その力量によるもので、この点では「近代」社会の傾向を示したと言って良いであろう。俵谷とは、元来京都の唐織屋の屋号であり、宗達は、この俵谷の当主でありった。活躍時期は1602年から42年にかけてであり、約40年間の活躍が確認されている。本阿弥光悦(1558~1637)と俵谷宗達(生没年不詳、1602~42年活躍)の二人は、琳派の創始者であると考えている。私は、桃山時代を日本の「ルネサンス」時代と呼んでいるが、正にこの二人がルネサンスの最初の担い手であったと思う。

養源院入口                   江戸時代初期(17世紀)img_3102

大きな寺では無いが、ここには宗達の杉戸絵や襖絵松図等の景品が揃っている。琳派を研究するには、必見のお寺である。楓の紅葉が美しい時期に訪れた。

門から寺までの紅葉

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楓の紅葉の美しさは、京都一と評しても良い。門から本堂までの間に素晴らしい紅葉が見られる。養源院を訪ねる時期は、11月~12月上旬がお勧めである。

養源院の本堂                江戸時代初期(17世紀)

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桃山城の旧材で再建された養源院の本堂である。本堂の屋根の尖りが激しい。信長に滅ぼされた浅井長政の無念を強く感じた。本堂の左右と正面三方の廊下の血天井は、関ケ原役直前、徳川方の鳥居元忠(とりいもとただ)ら384人の将士が石田三成の攻めにあって自刃した怨念の血痕と言われる。

重要文化財   白象(2枚) 俵谷宗達筆 杉戸 江戸時代初期(17世紀)

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現代感覚に通じるモダンな筆致と溢れんばかりの量感に満ちたこの作品は、通路の杉戸いっぱいに描かれ今にも飛び出してきそうである。若い宗達の才能が踊る作品である。本堂の前の通路の戸襖であり、これだけの名画を惜しげもなく拝観させてくれる。

重要文化財 唐獅子(2枚)俵谷宗達筆 杉戸絵 江戸時代初期(17世紀)

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空中から舞い降り、また天空へ駆け上がる唐獅子2枚である。次の見開きと共に躍動感に溢れた作品である。三方正面八方にらみ図となっており、どこから見ても獅子と眼が合うことで有名である。

波と麒麟図(2枚)  俵谷宗達筆  杉戸絵  江戸時代初期(17世紀)

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麒麟(もしくは水犀)を描いたものと思われるが、一般的には麒麟図と呼ばれる。杉戸絵は、紙が貴重品であったため、人の出入りの激しい箇所は戸襖を使用したものである。

重要文化財  松図(2面) 俵谷宗達筆 襖絵  江戸時代初期(17世紀)

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本堂襖絵12面のうち、東側の2面である。本来20面であったが、北側8面が亡失している。「松図」は松と岩という単一主題を反復することで独特のリズムを作り出し、襖からはみ出るような大胆な構図で、松と岩の量感を表現している。これこそ琳派の作品である。装飾的な松と岩を鑑賞して頂きたい。

養源院池庭     小堀遠州作         江戸時代初期(17世紀)

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「都林泉名勝図会」に書かれているように、多くの珍しい岩石を配している。小堀遠州作庭の幽遠な池泉庭園である。

 

この時代は織田信長や豊臣秀吉らが天下を取り、大きな変化と活気に満ちた時代であった。美術の世界でもそれまでの常識をうち破り、金箔や金泥・銀泥を大胆に使い襖いっぱいに大きく描く豪華絢爛な様式が花開いた時代である。これらの作品は以前の大和絵や水墨画の様式を超え、力強く華麗な色彩や構図で見る人を圧倒した。正に、日本のルネサンスとも呼ばれる桃山美術の開花である。当時、徳川家の御用絵師は狩野派であったが、狩野永徳(聚光院の室中の花鳥図を描いた)の急死による混乱のため、十分な対応が出来なくなり、そのことに危機感を持った養源院の開山・成伯は、浅井家ゆかりの尾形光琳の父や桃山時代の大文化人であった本阿弥光悦を動かし、絵師として評価の高まってきた俵谷宗達に残りの障壁画を依頼したものと思われる。それまで大きな障壁画を制作したことのなかった宗達とその工房の人々は、狩野派とは異なる大胆な試みをし、「松図」や「白象図」「唐獅子図」「波と麒麟図」などを完成させた。これらの作品以降、宗達は俵谷工房の主としての立場から独立し、絵師・俵屋宗達として高い評価を受け、多くの労作を描いた。また「法橋」という絵師として最高の地位を得て、宮中や江戸幕府の後ろ盾を得ることになった。その意味でも養源院障壁画は、宗達の絵師としての人生に画期となる重要な仕事であった。養源院には、狩野山楽、松花堂昭乗等の名品も残っている。これだけの桃山、江戸初期の名品を有する寺院であるが、訪れる人は少ない。琳派愛好者の必見の寺院である。京都博物館、三十三間堂に最も近い寺院であるので、機会があれば、是非拝観して頂きたい。

 

(本稿は図録「養源院と障壁画」、図録「大琳派展  2008年」、探訪日本の古寺「第7巻 京都Ⅱ」、田中英道「日本美術全史」を参照した)

すみだ北斎美術館   北斎の帰還

すみだ北斎美術館は2016年11月22日に開館した。この美術館の建設については、平成元年(1983)3月に、墨田区基本計画において「北斎館」(仮称)の建設が計画されたことを皮切りとする。私は、たまたま墨田区に本社のある「丸源飲料(株)」の社長より、この計画を聞いており、その実現の日を待ち望んだものである。世界的な芸術家として評価の高い葛飾北斎(1760~1849)は、本所割下水(ほんじょわりげすい)(現在の墨田区北斎通り沿い)付近で生まれ、約90年の生涯のほとんどを区内で過ごし、優れた作品を多数残した。平成元年4月には、北斎館資料取得基金が設置され、作品の収集も始まった。その後、平成5年(1993)11月にピーター・モースコレクションを取得し、同7年(1995)10月に楢崎宗重(ならざきむねしげ)博士所蔵美術品を受贈している。こうして集められてきた収蔵作品は、現在1500点を超える。墨田区が平成元年以降、独自に収集し続けているコレクション(以下、墨田区コレクションと呼ぶ)、ピーター・モースコレクション、楢崎宗重コレクション、以上の3本柱によって、すみだ北斎美術館は成り立っている。「北斎の帰還」に展示されている作品はすべて、墨田区コレクションであって、ピーター・モースコレクション、楢崎コレクションは2回目以降に展示される予定である。さて、開館記念の「北斎の帰還」は二つの意味がある。一つは、10年余りも行方知れずとなっていた幻の絵巻「隅田川両岸景色図巻」が平成27年(2015)に再発見され、海外から日本へ里帰りしたことを意味する。二つ目は、世界に散逸した北斎の名画が、生誕の地すみだに再び集められ、それが北斎専門の美術館で展示される、つまり北斎が名品とともにすみだに帰ってきたことを意味する。以上二つの意味での「北斎の帰還」を祝ったものが、この展覧会である。個人的には、両国は明治乳業の牛乳製造工場発祥の土地(昭和5年)であり、その跡地に明治乳業東京支社が建設され、私はそこに6年近く勤務し、墨田区両国は、私に取って忘れがたい土地であり、そこに北斎美術館が建設が建設されたことは、個人的にも大変奇遇を感じた。会場は大変な賑わいであった。(2017年1月15日まで)

すみだ北斎美術館  写真

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メタリックな感じのする近代的美術館であり、北斎通りに面する公園の一部を区切った美術館である。公園の一部を活用し、北斎通りに面した交通の便も良い。待ちに待った開館であった。

新浮世絵 両国橋夕涼花火見物之図 大判錦絵  享和年間(1781~89)頃

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北斎は約90年に亘る生涯の大半を墨田区内で過ごした。隅田川左岸の地「すみだ」は、文人墨客に愛される風光明媚な土地であった。「すみだ川」と隅田川流域は、浮世絵の題材としてよく取り上げられており、北斎も数多くの作品を残している。本図は夏の両国の賑わいを描いた春朗時代の浮世絵の佳作として知られる。白抜きで表現される月の光のなかで、画面斜めに両岸を描き、花火が舟から打ち上げられ、川岸の盛り場、橋の上にも人々が群れている。斜めに俯瞰しながら隅田川をとらえ、花火を月の浮かぶ空の余白へ上げたところが利いている。描かれた両国橋付近は、頻繁に転居していたとはいえ北斎の居住した地域に近く、庶民の娯楽が集中する繁華な江戸の名所であった。

両国夕涼み  大判錦絵 画境老人(印)  享和年間(1801~04)

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本図は墨田区の対岸、現在の東日本橋辺りから両国橋を望んだ情景で、手前に花火を眺める母と子がカラーで、画面の左奥に両国橋、中央に一之橋(いちのはし)がシルエットで表わされている。ほっそりとした女性たちは宗理時代の北斎の特徴を示している。「摺物風名所絵」と呼ばれて、北斎壮年期の摺物及び狂歌絵本の分野での人気から企画されたものであろう。

すみだかわ 大判錦絵 北(印)済(印) 享和元年(1801)頃

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紡錘系の枠のタイトルに「すみだかハ」とあり、雪景色の隅田川沿いの船着き場を描いた図である。この船着き場は、御囲(みかこい)神社(墨田区向島二丁目)とその対岸を結ぶ竹屋の渡しと言われる。「両国夕涼」と同じシリーズと考えられている。隅田川周辺で暮らした、北斎の好んだ画題であったようである。

隅田川両岸景色図巻  紙本着色 画狂老人(印)  文化2年(1805)              両国橋の近く

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新吉原遊興の図

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本絵巻は高く評価されながら約100余年行方が知られなかった。近年再発見され、日本への里帰りを果たした。北斎の落款には「於談州楼」とあり、談州楼と名付けられた本所相生町(墨田区両国、緑辺り)の自宅で制作されたことが記されており、制作の地かつ北斎の誕生の地にある「すみだ北斎美術館」に納められていることは意義深い。両国橋から大川橋(現在の吾妻橋)、山谷堀、木母寺辺りまでの隅田川両岸の風景と、新吉原における遊興の様子を描いた639,9cmに及ぶ北斎の肉筆画である。最初の風景は、両国橋の近くに立つ男女数名をリアルに描いている。最後の2枚の絵は、新吉原を愉しむ遊興の様子を描いたものである。吉原楼上の人物像は、宗理様式の楚々とした上品な雰囲気を残しながら、次の葛飾北斎期のボリュームのある人物像も感じさせる。北斎の肉筆画の傑作である。

吉原妓楼の新年(部分) 大判錦絵5枚続き(署名)なつかしか北斎 文化8年(1811)頃  5枚続きの最左端の図

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大籬(おおまがき)という吉原で最も格式の高い遊女屋のうちの一つ、扇屋(おおぎや)を描いたと言われる作品である。北斎は、肉筆画や摺物では吉原の遊女や他の江戸美人を描いているが、錦絵には美人やその情景を題材としたものはあまりない。その上、北斎は続絵をほとんど作っておらず、わずかな二枚続と三枚続が知られるのみである。本図は北斎唯一の五枚続の作品であるが、念入りに描かれた室内構造とさまざまな写実的なポーズの多くの人物とその複雑な組み合わせによって、北斎の代表的な傑作と位置づけられる。上掲の左端の図には階段の下に酒樽が積まれ、一つには版元の伊勢屋利兵衛の印があり、他の樽には「風流新板 五枚続」と書かれている。

富嶽三十六景遠江山中 大判錦絵 署名 前北斎為一筆 天保2年(1831)頃

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「富嶽三十六景」は、19世紀の浮世絵版画の中でも最も高く評価されて素晴らしい風景画シリーズである。この絵の場所の特定は難しいが、現在の静岡県西部にあたる遠江山中のどこかで、材木職人が仕事に励んでいる。赤ん坊をおんぶした女のいつことから家族の仕事であることがわかり、近景の日常生活の忙しい情景と、堂々とした富士山の峰との対照が強調されている。巨大な材木の上下からのこぎりを使う職人の姿と材木の高い支柱の間から富士を見せるという巧妙なアイデアは北斎自身の創案によるものである。

富嶽三十六景五百らかん寺さざゐどう大判錦絵署名前北斎為一筆 天保2年(1831)頃

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本所の五百羅漢寺は、二つの名物で知られていた。一つは五百羅漢の寺(300体以上を現在は目黒に移転した寺で見ることができる)、もう一つは三匝堂(さんそうどう)、さざい堂、さざえ堂、あるいは百観音と称された三層の堂である。お堂の内部で参詣者は西国、坂東、秩父の百の観音を巡礼することを表すかたつむりの殻のようにらせん状になった回廊を上がり下りする。三階には見晴台がある。北斎の絵では、堂の最上部で富士の眺めと涼しい風を愉しんでいる。左端の小僧さんは版元永寿堂の印のついた包みを背負っている。近くに見える材木場の高い坂は、富士の形に呼応している。

諸国瀧廻り美濃ノ国養老の滝 大判錦絵 署名 前北斎為一筆 天保4年(1833)頃

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岐阜県養老郡養老町にある養老の滝は、今日でも名水として知られている。元正天皇がこの滝を訪れた時、たいそう感銘を受けて、その霊泉を讃えるため年号を養老(717~724)と改元したほどである。実際には、滝は北斎の絵に表されているものより、もっと大きく見事である。おそらく北斎は実際に滝をみていなかったのだろう。この滝の色にはベロ(輸入化学染料)が用いられている。藍の色が極めて濃く出ている。

芥子 大判錦絵 署名 前北斎為一筆 天保4~5年(1833~34)

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この印象的な図は、大判花鳥シリーズの内でも最高の構図とされる。強い風に吹かれてしなる芥子の曲線は、「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」の波を描く曲線と比較されてきた。日本美術では、イメージの横の流れが通常は右から左に読まれるのに対し、この作品は左から右へという曲線が、見る者に驚きと劇的な感覚をもたらすからである。

百物語さらやしき中版錦絵 署名 前北斎筆 天保2~3年(1831~32)頃

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「さらやしき」とは、皿屋敷のお菊のこと。皿屋敷伝説は全国にあり、主家の家宝の皿を割ったために惨殺された下女のお菊が、幽霊となり、夜な夜な井戸から現れ、皿を数えるという共通する筋立てを持つ。皿屋敷に取材した作品は数あるが、本図のように、首から下を蛇体のように皿を重ねて表した姿を他に見られない。

桜に鷹 長大版錦絵 署名 前北斎為一筆 天保5年(1834)頃

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すばらしい装飾を施された架木に繋がれた鷹狩の鷹は、中国、朝鮮、日本の絵画において、風雅な上流階級の生活を表すシンボルとして好まれた。掛軸の絵の版画バージョンである北斎の本図ではさまざまな象徴が一体化されている。日本の鷹狩は上流階級に限られており、戦時ではなく平時に行われたために、鷹は高貴な生まれと武勇の双方を表すものであった。庶民にとっては、鷹は、「ふじなすたか」の語呂合わせによって、富士と茄子に組み合わされた初夢の3つの縁起物の一つであった。鷹と桜花のはかなさは、人生は短い、それゆえに、武士の掟によってであれ、それとは異なる浮世の価値観によってであれ、できるだけ人生をよく生きるべきであるということを思い出させるものである。なお、ボストン美術館で全く同じ浮世絵を見たが、まるで色が変わり、藍色の濃い感じに見え、まるで別の浮世絵のようであった。今回の「墨田コレクション」の方が、遥かに良い感じがする。

 

「すみだ北斎美術館」は、平成元年(1989)頃から聞いており、その完成を待つこと約20年であった。待ちに待った開館の中で、一番感激したのは「隅田川両岸景色図巻」を思う存分鑑賞できたことである。多分、この肉筆画は、そう見ることは無いだろう。そういう意味でも、意義深い開館であった。北斎の90年に及ぶ生涯の大半を過ごした隅田区内の「北斎通り」沿いの公園内の一画に、北斎専門の美術館が出来たことは、浮世絵ファンとして心から感謝したい。美術館には、北斎に関する図書室があり、1万8千点の資料を所蔵しているそうである。また、聞いた話では、北斎画の版木も多数保管しているそうであり、出来れば、それを使った現代版の「北斎浮世絵」を販売して頂きたい。ショップに額に入った「富嶽三十六景 神奈川沖浦波」を販売していたが、あるいは、それが版木から印刷したものであったかも知れない。次回は17年2月4日から、「ピーター・モースと楢崎宗重 二大コレクション」を展示する予定だそうである。次回を愉しみにして、墨田コレクションと、お二人のコレクションの差を探して楽しみたい。また12月8日付けの日経新聞では、首都圏経済のページで、”北斎「幻のの肉筆画」切手に”の見出しで、日本郵便東京支社が「すみだ北斎美術館」の開館記念切手の販売を始めたと報じた。記事によれば、幻の肉筆画「隅田川両岸景色図巻」や、富嶽三十六景の「神奈川沖浪裏」「凱風快晴」などが82円切手10枚1組で、価格は1300円、1550セットを用意し、美術館や地元の墨田区等で販売するそうである。美術館を生かした地域の盛り上げに一役買いたいと、区と協力して企画したもののようである。

 

(本稿は、図録「北斎の帰還 2016年」、図録「大浮世絵展 2014年」、図録「ボストン美術館 浮世絵名品展 北斎  2013年」、田中英道「日本美術史全史」、日本経済新聞 「2016年12月8日」を参照した)

大阪市立 東洋陶磁美術館  平常展

大阪は水の都である。土佐堀川と安治川に挟まれた中島公園には、世界に誇る大阪市立東洋陶磁美術館がある。この美術館は、世界的に有名な「安宅コレクション」を住友グループ21社から寄贈を受け、大阪市が設立した美術館である。開館は昭和57年(1982)11月である。開館以来30年以上を経過し、「安宅コレクション」以外に「「李乗昌(イ・ビョンチャン)コレクション」、浜田庄司作品などの寄贈、更に鼻煙壷やペリシャ陶器などのコレクションの寄贈を受け、中国、韓国、日本の陶磁などを独自の構成と方法により体系的に招介している。東洋陶磁コレクションとしては世界で第一級の質と量を誇るものである。この中には2点の国宝と13点の重要文化財を含んでいる。今回の特別展は「朝鮮時代の水滴」であったが、必ずしも私の好みには合わなかったので、平常展を重点的に見学し、その中から特に私の好みに合った陶磁器を選んで、解説する。

大阪市立東洋陶磁美術館の写真

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大阪証券取引所の中のオフィスに行く要件があり、2時間程早めに自宅を出て、2年振りに東洋陶磁美術館を訪れた。開館以来35年を経過したため、やや建物に年代が付いた感じで、ついこの間までの初々しい美術館の感じが、貫録の出来た美術館に変わったような感じを受けた。

重要美術品 唐三彩貼花 宝相華文 壺    唐時代(618~907)

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胴の中央に勲章のような豪華な文様が見られるが、胴とは別に型で作って貼り付けたもので、胴のまわりに3箇所、大きくあしらわれている。唐三彩ではこの器形は少なく、中でも豪華な趣きのある壺である。

重要文化財 緑釉黒花 牡丹文 瓶(へい)  北宋時代(960~1127)

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灰色の胎土(たいど)で成形して、一旦白化粧する。その上から鉄絵具を塗り詰め、文様が浮き出るようにそのまわりを掻き落してから、透明釉をかけて焼き上げる。この瓶は、牡丹文に北宋特有の厳しさが見られ、極めて大きい。貴重な作例である。中国人古美術商から買ったものと言われる。

重要文化財白磁刻花 蓮華文 洗(あらい)定窯 北宋時代(960~1127)

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底部を広く取り、安定した器形で、洗(あらい)と呼ばれている。器壁は非常に薄く作られ、その内側と外側に流麗な片切彫りで、蓮花文が表されている。伏焼きのため、口縁部には銀の覆輪が嵌められている。定窯最盛期の代表作であろう。

白磁 水仙盆 汝官窯          北宋時代(960~1127)

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宋代の五大名窯の一つと言われる汝窯(じょよう)は、宮中の御用品を焼いた窯でありながら、長い間釜跡が明らかでなかった。現在では河南省宝県清凉寺において汝官窯とみなされる青磁片が採集された。そこが汝窯であろうとされている。本器は、水仙のような球根植物を栽培する水盤と考えられる。釉色には青く神秘感が漂い、気品がある。

青磁 八角瓶  官窯     南宋時代(1127~1279)

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青銅礼器を模した器形である。黒く薄い胎土に厚い釉薬がかかり、玉(ぎょく)のような深みのある粉青緑色に発色している。神秘的な美しさである。北京故宮博物院の伝世品との見解もある。19世紀末に、何等かの事情で国外に出て、1903年には英国の取集家の手元にあったとされる。器底には「第百五十一号」という番号を持つ故宮の蔵品票が貼られているという。

重要文化財 青磁 鳳凰耳花生(ほうおうみみはないけ)龍泉窯 北宋時代(12~13世紀)

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砧型の器形に、鳳凰をかたどった耳がついている青磁で、俗に鳳凰耳の花生と呼ばれている。鎌倉・室町時代以降、中国陶磁は日本にさかんに運び込まれ、「唐物」として珍重されてきた。この瓶も何時からか、丹波青山家に伝えられたものという。浙江省龍泉窯の最盛期の制作になるもとの思われる。

国宝 飛青磁 花生(はないけ) 龍泉窯 元時代(1271~1368)

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飛青磁(とびせいじ)とは素地の上に鉄絵具による斑点を置き、その上に青磁釉を施したものである。元時代には青磁や青白磁に鉄斑文を置く装飾が流行した。この花生の器形は玉壺形と呼ばれて親しまれた酒瓶である。中国陶磁で国宝に指定されているものは8点に過ぎない。(平成18年現在)その中に天目茶碗が5碗含まれているため、袋ものとしては三点あるのみである。この花生は鴻池家伝来で、九州の炭鉱王が所有していたが、昭和41年頃に安宅産業が入手したものである。安宅コレクションとしては最初の国宝指定物件を迎えることになったそうである。

重要文化財 木葉天目 茶碗 吉州窯   南宋時代(1127~1279)

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吉州窯の天目茶碗は胎土(たいど)が白く、土が緻密(ちみつ)であるため、薄作りで、碗形も直線的に広がっている。高台が小さいのも特徴である。この天目茶碗は実際の木の葉を使用して、その葉脈まで残して焼き上げる技法については、まだ定説をみない。加賀前田家に伝来したものである。昭和47年に安宅産業が入手している。

重要文化財 法花 花鳥文 壺  明時代初期(15世紀)

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法花の”花”とは文様、”法”とは決まりつける意味である。素地に直接三彩釉をかけて焼き上がるが、低火度で溶けるため色がまじり合う。法花では、色がまじり合わないように文様の輪郭をあらかじめ盛上げた線であらわし、時には文様を浮彫りにする。此の壺は、胴の中央前後に叭々鳥(ははとり)や鸚哥(いんこ)を浮彫であらわしている。その文様の卓抜さ、大きさ、色彩の鮮やかさなどから、法花の最高傑作と言われるものである。

 

中国の陶磁は、青磁、白滋に尽きると私は思う。青磁、白磁は神秘的な色合いを感ずる。数年振りに、中国陶磁の名品に接し、心洗われる思いがした。私の好みは、北宋、南宋時代の青磁、白磁であり、せめて年1回は接したいと思う。

 

(本稿は、図録「東洋陶磁の展開  1994年版」、図録「美の求道者 安宅英二の眼  2007年、小杉一雄「中国の美術」を参照した)