東大寺    大仏開眼供養

大仏造立は大仏の原型となる土の像が天平18年(746)10月に完成、鋳造自体は翌年(747)9月に開始され、天平勝宝元年(749)10月までの3年、8度の鋳継ぎを経て完成した。大仏の鋳造が終わった年の2月、残念ながら勧進の役を担った行基は大仏の完成を見ることなく、82歳の生涯を閉じている。大仏の鋳造が終わると螺髪(らはつ)や脇侍の如意輪観音、虚空蔵菩薩の造像、さらに大仏殿の造営も行われ、天平勝宝3年(751)中には主だった作業が終了した。完成した大仏の開眼供養については「日本書記」に言う仏教の日本への渡来の年、欽明天皇13年(552)から200年という節目の年である天平勝宝4年(752)、釈迦の誕生日に当たる4月8日に執り行われることが決定された。しかし、実際には翌9日に開眼供養が行われている。この日程の変更理由の記述はどの記録、古文書にも触れられておらず、判然としない。雨天のためとかの理由かも知れない。天平勝宝4年(752)4月9日(続日本紀による)、東大寺大仏殿(廬舎那仏)の開眼供養が盛大に行われた。大仏殿の前の中庭には東西に五色の幡と宝樹が立てられ、購読師の座る高座が東西に設けられた。中央には舞台が設けられている。大仏殿の内部には裏に至るまで造花と刺繍の蟠が飾られ、大仏の前には玉壁がしつらえられた。そこには聖務太政天皇、光明皇太后、孝謙天皇が着席した。周りには多くの官人がとり囲んでいる。南門から僧侶千二十六名、東から大仏開眼導師であるインドから渡来した菩提僧正(菩提僊那)が参入。続いて西から「華厳経」を説く講師の隆尊律師が、同じく東からは同経を読む読師の延福法師が入場した。

大仏殿(現在の大仏殿)               江戸時代(17世紀)

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完成した大仏殿は、2度の兵火で焼かれ、復興され、現在の大仏殿は江戸時代の元禄5年(1692)に開眼供養が行われた。寺は創建当時より、かなり縮小している。

天平宝物筆ハチクの仮斑竹 鹿毛・羊毛・狸毛・一枝・奈良時代(8世紀)正倉院  天平宝物墨 一挺               奈良時代(8世紀)  正倉院

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大仏の瞳に墨を入れる開眼の作法は、聖務太政天皇が行うところであったが体調がすぐれないためインドから渡来した菩提僧正が代行することになった。菩提僧正は大階段を登り、大きな筆に墨をつけて大仏の瞳を描き込んだ。この筆と墨は、正倉院に伝わっている。

縹縷(はなだのる)(開眼縷)  絹製、藍染   奈良時代(8世紀)正倉院

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開眼の筆を執ったのは、天平8年(736)5月に請われて来日をしていたインドの僧、菩提僊那(ぼだいせんな)であった。開眼筆に長大な縹(はなだ)色の縷(る)が結び付けられ、それを既に天皇の位を譲っていた聖務太政天皇や光明皇后、娘の孝謙天皇、文武百官、一万人の僧など参列者も持ち、ともに開眼した。開眼に用いた筆、墨、縹縷(はなだる)は、共に正倉院に保管されている。筆は長さが56.6cm、墨は長さが52.5cm、縷の長さが190メートルを超える長大なものである。私は2010年の光明皇后1250年遠忌「東大寺大仏」で拝観している。(写真は2010年に行われた「東大寺大仏」の図録から写した)

伎楽面 獅子児 捨目師作           奈良時代(8世紀)     伎楽面 獅子児 捨目師作           奈良時代(8世紀)

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開眼に続いて「華厳経」の請説や唐楽、高麗楽、林邑(ベトナム周辺)楽など国際色豊かな舞楽が奉納された。この時に用いられた伎楽面は正倉院に伝わっている。作者名の判明した2面の写真を載せたが、他に多数の伎楽面が残されている。この時の様子を「続日本紀」は「仏法東帰してより齋会の儀、未だ寡て此のごとくの盛なることあらず」と記しており、非常に盛大なものであったことがうかがえる。大仏開眼供養会が終わると5月1日には良弁が東大寺の初代別当に任命された。

 

続日本紀の天平勝宝4年(752)夏4月9日の項には、次のように記している。(現代語訳 続日本紀 中巻)「東大寺の縷舎那仏の像が完成して、開眼供養した。この日、天皇は東大寺に行幸し、天皇みずから文武の官人たちを引き連れて、供養の食事を設け、盛大な法会を行った。その儀式はまったく元旦のそれと同じであった。五位以上の官人は礼服を着用し、六位以下の官人は位階に相当した長服を着た。僧一万人を招請した。それまでに雅楽寮(うたりょう)および緒寺のさまざまな楽人が集められた。またすべての皇族・官人・諸氏族による五節(ごせち)の舞・久米舞・竪伏(たてふし)(楯・刀などをもって舞う)踏歌(あられしばり)・袍袴(袍や袴をつけた舞)などの歌舞が行われた。東西にわかれて歌い、庭にはそれぞれ分かれて演奏した。その状況のすばらしさは、一々書き尽くせない程であった。仏法が東法に伝わって以来、斎会(食事を供養する法会)としていまだかってこのような盛大なものはなかった」続日本紀の中でも一番生き生きと描かれた状であった。

 

(本稿は、図録「東大寺大仏  2010年」、小学館ビジュアル文庫「東大寺」、入江泰吉「大和古寺巡礼」全六巻のうち「第一巻 平城京」、入江泰吉「写真 大和路」、探訪日本の古寺「第三巻 奈良Ⅲ」続日本紀三巻の内「中巻」を参参照した)

 

 

東大寺   大仏殿

東大寺建立に先立ち、金鐘寺(きんしょうじ)、金光明寺(こんこうみょうじ)等の建立があるが、それは他日法華堂の項で触れることにして、まずは東大寺大仏殿の建立から述べたい。天平15年(743)10月15日、聖務天皇は盧舎那仏造立の詔を発している(続日本紀)。近江国紫香楽(しがらき)の離宮においてであった。盧舎那仏は紫香楽宮近くの甲賀寺で造像が始められた。この大仏建立事業は民間僧(私度僧)であった行基が率いる集団が中心となって進められた。その功績により行基は大僧正(だいそうじょう)となった。しかし、大仏建立は中座し、天平17年(744)5月11日に紫香楽宮から平城京に都が戻るとともに、都の東の春日山麓の現在の地に造立の場を変えられた。その造営は大和国の国分寺に位置付けられた金光明寺で行われ、天平19年(746)9月に鋳造は始まった。銅は山口県の長登鉱山からもたらされたものである。天平20年(747)には造東大寺司が設けられ、金光明寺は東大寺と改称された。大仏の場所は甲賀寺から東大寺に変更となったが、盧舎那仏造立の詔にみられる聖務天皇の国家的理想はそのまま引き継がれた。東大寺の寺域は、丸山、若草山、春日奥山から南の山に至る広範囲を占めている。その中心となるのが天平勝宝4年(752)に開眼供養された大仏を本尊とする大仏殿(金堂)である。東大寺は二度の兵火により伽藍の大半が焼失した。治承4年(1180)、源平抗争のさなか12月には平重衡(しげひら)の軍勢が奈良を攻め、東大寺の大半の伽藍を焼失させた。この時の様子を「平家物語」は「御頭は焼落ちて大地に有り。御身は溶合いて山の如し」と書いている。また九条兼実は、その日記「玉葉」(ぎょくよう)に「仏法王法滅尽し了るか。凡そ言葉の及ぶところにあらず。筆端の記すべきにあらず。余このことを聞き、心身厝く(さく)がごとし」と綴って嘆き悲しんでいる。現在の仏像と大仏殿は公慶による勧進によって元禄4年(1691)、大仏の修復が完了、翌5年(1692)に盛大に改元供養が行われた。公慶の願いを聞き入れ幕府と諸大名からそれぞれ金五万両が拠出され、大仏殿も再興された。大仏殿の規模は七間四方に縮小された。大仏殿は宝永5年(1708)6月に完成し、翌6年3月に落慶供養が行われた。現在の大仏殿が完成した。

重要文化財 中門  木造  本瓦葺き   江戸時代(18世紀)

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大仏殿が完成したのは宝永5年(1708)であるが、それ以後、中門や廻廊が次々と建てられ、元文2年(1737)6月に現在の大仏殿が完成した。(現在修理中である)

国宝 大仏殿 一重裳階付き 寄棟造 本瓦葺 江戸時代(18世紀)

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宝永5年(1708)に大仏殿は寛政したが、明治維新の廃仏稀釈の流れは、巨大な堂舎があるが、一方で檀徒を持たない東大寺にとって、その維持管理に深刻な影響を与えた。大仏殿は江戸時代の再建から百数十年が経過しており、大規模な修理が必要であったが、明治政府には援助する余裕がなく、東大寺も大分会(だいぶつかい)という勧進組織を結成し勧進に勤めたが思うに任せなかった。この時期の本格的修理の着手は明治36年(1903)まで待たなくてはならなかった。明治の大修理は屋根の重さで湾曲してしまった虹梁の下にイギリスから輸入した鋼材を用いて支え、屋根の一部をセメント補強するなど当時の最新技術の導入によって成し遂げられた。大正4年(1915)5月に大仏殿落慶供養が行われた。また昭和49年(1974)から55年(1980)にわたって国の補助と有縁者の寄付によって修理が行われ、これも昭和55年に落慶供養が行われた。私は、この昭和の落慶供養には、たまたま明治乳業京都支店長に赴任した時であったので、出席して、当日の盛儀を拝観した。

国宝 大仏殿と八角灯籠(但し、灯籠は現代のものである)江戸時代(18世紀)

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現在の大仏殿は、奈良一番の人気スポットであり、観光客であふれている。奈良市内で一番観光客が多いのは、間違いなく大仏殿である。逆に、奈良時代建立の法華堂、正倉院、転外門(てがいもん)等を訪ねる観光客は、殆どいない。無知と言えばそれまでであるが、大仏殿だけが、東大寺で無いことは、この後、ゆっくり解説したい。

国宝 八角灯籠  銅製鍍金              奈良時代(8世紀)

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東大寺大仏殿(金堂)の正面に立つ巨大な金堂製(銅製、鍍金)の燈籠で、総高は実に464.4cm、総重量は3327.5キログラムをはかる。昭和20年代は、この国宝が大仏殿の前に立っていたが、風化の恐れがあり、現在は昭和製に置き換えられている。大まかな構成としては上から宝珠・笠・火袋・中台・竿・基台の組み合わせである。各部材は銅鋳造で、現在は緑青のため緑色を呈しているが、多くの材料に鍍金の跡が認められて、金銅であることがわかる。制作当初は全体が金色に輝いていたのである。八角形の火袋の四面には、斜め格子の透かしをバックに、天衣をなびかせながら楽器を奏する、あでやかな姿態の音声菩薩(おんじょうぼさつ)がレリーフ状に鋳出された羽目板が嵌匠されている。その作風からしばしば天平彫刻の代表的イメージともなってきた。根津美術館の中庭に、模造の八角灯籠が置かれている。

国宝 大廬舎那仏(所謂大仏さん) 金堂製・鍍金   江戸時代(17世紀)

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廬舎那仏(るしゃなぶつ)は智慧と慈悲の光明をあまねく照らし出す大仏である。天平15年(743)、聖務天皇の詔によって造像が発願され、天平勝宝4年(752)に完成し、開眼供養が行われたのである。使われた銅は500トンに及ぶという。聖務天皇の「国中の銅を使い果たしてでも」という言葉通りの大事業であった。現在われわれが見る大仏は元禄年間(1688~1704)になって公慶上人の勧進によって再興されたもの。当初の姿は腹部から台座の蓮弁にかけて、わずかにとどめている。観光客の大半は、この大仏さんを見学して満足して帰る。

国宝 廬舎那仏台座連弁(大仏周囲を取り囲む連弁)の一部 奈良時代(8世紀)

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大仏の台座連弁には、蓮華蔵世界が描かれている。蓮華蔵世界は、とてつもなく広大無辺な世界で、蓮華の上に無数の世界が様々な形で積み重なっている。「華厳経」には、廬舎那仏がこの蓮華蔵世界にあって、大光明を放って世界をあまねく照らし、無数の毛穴から化身の雲を出して一切の衆生(しゅうじょう)に説法しているところが説かれている。

廬舎那仏台座連弁の復元模写図

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台座連弁は度重なる被災ににも関わらず、幸い天平の連弁がかなり現存し、各仰蓮には線刻で蓮華世界が表現されている。この模写図は、その連弁から写し取った図である。まず、上段には蓮肉に座る説法相の如来像が中央に大きく、その周囲に22体の菩薩坐像が描かれている。図で興味深いのは右胸の乳首からも光線が放たれていることで、これは如来の全身から光が輝き出ることの象徴的な表現である。中段は26本の横線が真をおいて水平に引かれ、25段の区画を作る。この区画には頭光を付けた菩薩の頭部と楼閣などを描いているが、上の3段には何もなく空白である。下段には7つの大きな連弁からなる蓮華座があり、その左右に海が広がって、さらに山脈が蓮華座を囲むように聳えている。七つの仰蓮にはそれぞれの須弥山の世界が表現されている。

本尊右脇仏  虚空蔵菩薩像  木造         江戸時代(18世紀)

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虚空蔵とは広大無辺の功徳が虚空のように大きくてまた請われることがないという意味である。この菩薩は念じれば記憶が増すと考えられ、特に智慧を授ける仏として信仰されるようになった。ここの造像されたものが日本で最初の虚空蔵菩薩の作例となった。(現在のものは後作)大仏と反対に右手院、左手に施無為印を結ぶ。(この仏像について触れている本は一冊もない)

東北偶  多聞天像   木造          江戸時代(18世紀)

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本尊の脇侍と言うより、東北偶を守る四天王の一像と見られる。(但し、他の3天王像は見られない)古代インドより信仰された護世神、四天王像のうちの一つ。北方を、守り、左手に鉾を取って地に支え、右手は仏塔を捧げると言われる。毘沙門天とも呼ばれる。

重要文化財 東大寺回廊  木造           江戸時代(18世紀)

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東大寺大仏殿を取り囲む回廊であり、現在の建物は元文2年(1737)完成である。その中門と同じ時期に完成している。

東大寺遠景   二月堂より写す

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東大寺大仏殿の鴟尾が輝いている。東大寺はまじかに見るより、遠方から眺めたほうが美しい。これは二月堂から眺めた大仏殿の写真である。

晩秋大仏殿遠望                入江泰吉氏撮影

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入江泰吉氏は、戦後大和路をカメラを持って数十年に亘り歩き続けた、懐かしい人である。大阪で、終戦の年に戦災にあい、ふるさとの奈良へ引き上げた経緯がある。入江氏は、戦後の厳しい生活の中で、大和路を訪ね廻る人であった。「ちょうど、そのころ、意外な噂が街に流れた。わが国の古美術品を賠償の一部として、国外に持ち去られる、というのである。京都や奈良を爆撃しなかったのも、そのためだったのだ、と聞かされると、噂とはいえ、あるいは事実なのかもしれないと、思われるのであった。そうだとすれば、大変なことである。せっかく恵まれた、私にとって一番大切な、心の糧を奪い去られてしまうのである。私は暗然とした。あきらめきれないことだが、せめて写真に、のこそうと、考えついた。とにかくまがりなりにも機械のそろいしだい、撮影に着手した。」(かっこ内は入江泰吉「写真大和路」の「大和とともに」から引用)。私の大和古寺巡礼は、常に入江氏の写真に導かれて、始まった。この「晩秋大仏殿」は、入江泰吉 奈良写真美術館で購入した写真である。私が撮った写真とは比較にならない美しい写真である。

東大寺 萬灯会(まんとぅえ)の大仏殿         入江泰吉氏撮影

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「大晦日の夜、大仏殿内に燈がともり、殿前正面の八角灯籠(国宝)には火が入り、松明が焚かれる。情緒ある古都の新年である。」(かっこ内は入江泰吉氏の文承である)この景色は、大仏殿の新年の姿でもある。

 

東大寺大仏殿は、奈良観光の目玉であり、何時行っても満員の盛況である。最近は特に外国人(欧米系は昔から多かったが、ここ数年、アジア系外人が特に増えた。東京ー京都ー奈良はゴールデンルートなのだろう。しかし、観光客は、大仏さんを見るだけで満足し、東大寺のその他の社殿や仏像には興味を示さない。私は、今年は、まず東大寺全体をご招介したいと思う。古い歴史や、行事を通して東大寺全体を示せるような記事にしたい。

(本稿は、図録「東大寺大仏  2010年」、小学館ビジュアル文庫「東大寺」、入江泰吉「大和古寺巡礼全六巻の内「第1巻 平城京」、入江泰吉「写真 大和路」、探訪日本の古寺全15巻の内「第3巻 奈良 Ⅲ」、続日本紀全3巻の内「中」を参照した)

東大寺   南大門

東大寺を約10回程度に分けて、歴史と仏像についてまとめたい。歴史の上からは、法華堂(金鐘寺)から語るのが妥当であろうが、まず大仏殿の中の南大門から入りたい。近鉄奈良駅から登大路(のぼりおおじ)を東へ徒歩15分歩くと、東大寺の正門である南大門に至る。途中、鹿の歩く奈良公園を抜け、奈良国立博物館、興福寺を横に見て、参道を歩く。門を通してはるか向こうに中門と大仏殿が望まれる。南大門を仰ぎ見ると、その巨大さに圧倒される。高さ約25.5メートル、日本の寺院の中で最大、最高の南大門である。

国宝  南大門 5間3戸二重門 木造入母屋造 本瓦葺 正治元年(1199)鎌倉時代

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昭和の修理時(1930年完成)の調査によって、天平時代の創建時の門も、位置や平面の大きさは今と変わらないことが判明した。しかし、その構造や意匠は、現在の建物とは大きく違っていた。この門は応和2年(962)の台風で倒壊し、その後再建したか、あるいは治承の兵火(1180)で焼けたのか不明である。現在の門は正冶元年(1199)に上棟し、建仁3年(1203)の東大寺供養には、門内に安置される金剛力士(仁王)像と共に竣工していた。鎌倉時代初期、重源(ちょうげん)が大勧進(だいかんじん)となって進めた東大寺修復事業の一環として再建されたのである。「大仏様」(だいぶつよう)と呼ばれる中国・宋の建築様式を取り入れた技術で造られたこの門は、特別な構造を持っている。

国宝 南大門を横から写す 木造入母屋造 本瓦 正治元年(1199)鎌倉時代

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高く延びる柱を上層まで一本で通し、下の屋根は柱のすぐ内側で止まっていて、中は、上部の化粧屋根裏まで見える。長く突き出した軒を支える挿肘木(さしひじき)の重なり、扇形に配された軒の垂木(たるき)。どこから見ても力強さと量感に満ちており、見る者を圧倒する。

国宝 南大門の内部を写す 木造入母屋造 本瓦 正治元年(1199)鎌倉時代

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両端に板壁を設けるほかは、金剛力士後壁の上方もすべて葺き放しとしているため、はるか上の化粧屋根裏まで構造材を見通すことができる。柱には、貫(ぬき)が何段にも十文字に差し通されている。この建築様式が「大仏様」であり、「天竺様」(てんじくよう)とも称された。

国宝 金剛力士像(阿形)木造 運慶・快慶作 建仁3年(1203)鎌倉時代

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南大門の両側に立つ金剛力士(仁王)像で、むかって左が阿形像、右が吽形像(うんぎょうぞう)である。両者が向き合うのも他に例がない。当寺独得である。建仁3年(1203)、運慶・快慶ら4人の大仏師と多数の小仏師によって69日間という短期間に造られたという。まさに建造物のような組立である。一体当たり3000ケという。大仏の脇侍(きょうじ)(1567年に大仏殿とともに焼失)をはじめ、巨像の制作を行ってきた慶派一門の組織力と技術力の高さがうかがえる。施主は、重源上人である。阿形は金剛杵(こんごうしょう)を右手に持っている。

国宝 金剛力士像(吽形) 木造 運慶・快慶作 建仁3年(1203)鎌倉時代

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吽形は左手を大きく前に突き出す。風になびく天衣(てんね)と裳(も)の曲線、眼光鋭い憤怒(ふんぬ)の表情はいまにも動き出しそうな迫力で、鎌倉彫刻のリアリズムを代表する大作である。昭和63年(1988)から5年がかりで解体修理が行われ、その際、納入品や銘記が発見された。その結果、阿形から運慶・快慶の墨書銘が、吽形から上覚(じょうかく)・湛慶(たんけい)の墨書銘が確認された。吽形は内から湧き上がるような力を感じさせる表現力が見事である。

国宝 金剛力士像内納入品 如来面・菩薩頭部・比丘尼頭部 木造 平安~鎌倉時代(12~13世紀)

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東大寺南大門に立つ像高8メートルを超す阿吽一対の金剛力士像の像内に納められた木造の小仏像である。一部は昭和48年(1973)に取り出されたが、ほかは昭和63年から平成4年(1988~1992)に実施された解体修理の際に発見された。いずれも国宝指定を受けている。(納入品については図録「東大寺大仏展」から引用した。お経についても同じ)

国宝 法筐印陀羅尼経 紙本墨色  平安~鎌倉時代(12~13世紀)

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阿吽の像に各一巻が納められていた。巻末には阿形には建仁3年(1203)8月7日の年紀に続いて、光明真言「勧進東大寺大和和尚南無阿弥陀仏」、阿弥陀仏縁者名が記されている。阿形像は同様の重源の阿弥陀仏号の後に「大仏師運慶・アン阿弥陀仏・小仏師十三人、番匠十人/造東大寺大勧進大和尚/南無阿弥陀仏」と墨書されている。別当次第により、重源上人の指示で大仏師である運慶、湛慶、快慶、定角が造像に当たったことが、この納入品からも分る。

 

南大門に懸けられた額には「大華厳寺」と記されている。今まで何十回と見ているが、注意深く見て来なかったため、多分「東大寺」の額が掛けられていると思い込んでいたが、華厳経の世界を現す、大仏の南大門であるから「大華厳寺」は、当然の額かも知れない。治承3年(1180)、平重衡(しげひら)の兵火によって大仏殿や伽藍の多くを焼かれた東大寺では、その修復と復興に当たって勧進(かんじん)に抜擢(ばってき)された重源(ちょうげん)は、既に61歳を迎えていた。今ならば、総責任者として妥当な年齢であるが、奈良時代の60歳代は、多分現在の90歳代に当たるのではないだろうか。重源は、何回も宋に渡り、寺院造りに深い経験を持ち、まず大仏修理・鋳造を果たした。続いて大仏殿の再建に着手し、巨材は周防(山口県)の山中で得たと伝わる。ここでも、重源は、宋から連れてきた工人を登用し、日本と宋の技術を折衷改善して導入した新技法を採用した。この建築様式が「大仏様」、「天竺様」とも称されるものである。この「大仏様」が一番残っているのが、この南大門であり、今では貴重な遺構であり、兵庫県小野市の浄土寺(国宝)と二例が現存するものである。この直線美を生かした豪放な建築様式も、その斬新な意匠のゆえか、重源の死後は次第にすたれていった。

(本稿は、図録「東大寺大仏殿 天平の至宝  2010年」、小学館ビジュアル文庫「東大寺」を参照した)

小田野直武と秋田蘭画(2)

小田野直武を中心として、西洋美術と東洋美術が結びつた秋田蘭画が生み出され、佐竹曙山(しよくざん)、佐竹義躬(よしみ)、田代忠国など秋田藩士を中心にその画法が波及したと思われる。直武の江戸滞在中、曙山は参勤交代で2度、義躬は1度江戸を訪れている。義躬が帰国する際、直武は病の身ながら面会に行き、深夜まで話をした上、オランダ文物を贈ったことが「佐竹北家日記」に記されている。江戸に出てから4年後の安永6年(1777)12月に、直武は角館に帰国して、佐竹北家に出仕した。佐竹義躬とは、しばしば面会し、その機会に蘭画法を伝授したものと思われる。安永7年(1778)、直武は、佐竹北家の上役から江戸の仕事振りを詰問されたという。また「銅山方産物吟味役」も役名は消え、直武の江戸行は、暇ごいで唐絵の修行に行ったとされ、久保田(秋田市)へ引越しを命ぜられた。そして9月には「御側御小姓並」という身分で秋田藩に召し抱えられ、佐竹北家から抜け、藩主佐竹曙山の側近くに仕えることになったのである。欄画を描く直武を絵の相手として近くに置きという曙山の強い意志が働き、家臣の反対を押し切って直武の移動が決まったようである。そしてこの年の10月に直武は曙山の参勤交代に伴って、再び江戸へ向かった。佐竹北組から藩主の側仕えと異例の出世であったが、直武の生涯は終わりを迎えようとしていた。安永8年(1779)11月21日、秋田蘭画の理論的指導者であった平賀間源内が人を殺めた咎で捕まり、12月18日に獄中で死んでしまった。所謂「源内事件」である。直武は源内が入牢する以前の11月上旬頃、秋田藩から突然に遠慮(謹慎)を命じられていた。遠慮の理由については明らかではない。12月に角館に帰郷した直武は、翌年の安永9年(1780)5月17日に没した。死因について語る資料はない。数え年32歳のことであった。直武の死後、曙山はあまり絵筆をとらなかったようで、天明5年(1785)に江戸藩邸で生涯を閉じた。源内・直武・曙山という秋田蘭画誕生に関わった人物が相次いで世を去り、その後佐竹義躬や田代忠国らも亡くなり、秋田蘭画が画派として存続することはなかった。(サントリー美術館2017年1月9日まで)

要文化財 唐太宗・花鳥山水図 小野田直武作 絹本着色三幅江戸時代(18世紀)秋田県立近代美術館

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本図は中幅に人物を置き、左右にそれに対比する供花をそえる東洋的洋画の形式にもとづいている。しかし、中幅の唐太宗に陰影を加え、しかも西洋画的な室内空間の表現もこころみていることは注目される。左右両幅の花鳥山水は、秋田蘭画としてもっとも普通のかたちのものである。秋田蘭画が江戸時代後期の洋風画の先駆であるとともに、戦国時代以来の武人画の伝統にもとずいていることを、本図はもっともよく示している。

富嶽図小野田直武作 絹本着色 一福 江戸時代(18世紀)秋田県立近代美術館

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前景に人物や川、橋、松などを配し、画面の左から叢林が次第に淡くなりながらリズミカルに反復され、富士山へと収斂してゆく。俯瞰図が多い伝統的な富士図に対し、本作では絵を見る者の視点が低く設定され、三次元空間が再現されている。本作は黄瀬川(静岡県)から富士を見た図という説が有力である。三峰型の富士ではなく、実際の山容に近く、富士の形を損ねるために省略されがちな宝永山も描いており、実際に目にした光景に基づいていることを感じさせる。高い完成度の作品で、直武の真価が発揮された作品である。なお、本作は秋田県指定文化財になっている。私は、宋紫石の「富嶽図」の影響が大きいと思う。

日本風景図 小野田直武作 絹本着色 二幅 江戸時代(18世紀)三重・照現寺

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縦長の画面に奥行きのある風景が描かれている。実際の場所がモチーフと考えられている。右幅が江の島、左幅が金沢八景(横浜市)とされる。絵の島図は、切り立った断崖が手前に極端に大きく描かれる。奥に向かうにつれて崖の色彩は3段階ほど淡くなり、画面下の水平線に向かって遠近感のある構図となっている。驚くべき細部の緻密さがあらわされている。笠をかぶる男や杖をつき水面を除き込む人物などが細やかに活写されている。一方の金沢八景は、前景に波打ち際の値上がりの松を表し、画面中央やや上には5羽の鳥が描かれている。その姿は雁だと思われる・実際の場所をモチーフとした晩年の制作と考えられる。三重の照源寺は松平定信の菩提寺である。定信は曙山の息子佐竹義和と親交が深く、佐竹家との交流を通して本図は、松平家に渡ったと考えられる。本作は桑名市指定文化財となっている。

燕子花にナイフ図 佐竹曙山作 絹本着色 一福 江戸時代(18世紀)秋田市立千秋美術館

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作者の佐竹曙山(1748~85)は、秋田藩の第八代の藩主であり、直武に蘭画を習ったとされる。秋田蘭画の作家たちは燕小花(かきつばた)を好んで描いているが、本図はそのうちの代表作である。基本的には在来の漢画の花卉図にもとづいているが、花や葉をオランダ銅版画から学んだ細い線によって精密に写し、花器の中の水も青く描いていることに、西洋的な写実の精神がうかがわれる。ことに輸入品の西洋ナイフを配して、従来の伝統的絵画には見られなかった静物画として構成している。本作は秋田県指定文化財である。

重要文化財松に唐鳥図 佐竹曙山作 絹本着色一幅 江戸時代(18世紀)個人蔵

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佐竹曙山と小田野直武は秋田蘭画の代表的作家であるが、ともに短命であった。確実な落款印章を持つ遺作は直武よりはるかに少ない。本図は曙山の代表的大作である。近景に伝統駅な狩野派の大画面装飾画の構図を用いて、巨大な根上がりの松が拡大描写されているが、絵には陰影は施され、西洋画的な立体表現がこころみられている。この日本の松にとまっている赤い異国の鳥、インコは曙山の写生帳にまったく同じものがみえるが、たまたま輸入されたものを写生したか、あるいはオランダの動植物の挿絵を写したのであろう。インコのとまっている枝は屈曲して極端に遠方にのびているが、奥行きが十分にあらわされていない。

松に椿に文鳥図 佐竹曙山作 絹本着色 一福 江戸時代(18世紀) 個人蔵

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この絵は、画面右下から左上にむかって松の太い幹が大胆に配されている。背後には薄紅色の花を咲かせる椿が描かれ、文鳥が2羽とまっている。松・文鳥・椿のいずれも曙山が好んで用いたモチーフで、画面を横切る松の構図も得意としたものである。

岩に牡丹図 佐竹義躬作 絹本着色 一福 江戸時代(18世紀)個人像

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佐竹義躬(よしみ)(1749~1800)は、秋田角館の城主であり、直武から蘭画法を江戸滞在時に習ったとされる。秋田蘭画を担う一人であった。岩と牡丹の取り合わせは南蘋派の作品や秋田蘭画によく見られるもので、直武や曙山も類似の作品を残している。幹や葉は丁寧に陰影が描かれ、立体感が現れている。描写の技法や表現には直武の牡丹図との類似が認められ、直武に教授受けながら描いた作品と思われる。

松にこぶし図 佐竹義躬作 絹本着色 一福 江戸時代(18世紀)帰空庵

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佐竹義躬は、秋田蘭画の作家のなかでは比較的長命で、遺作もかなり多い。秋田蘭画には前景に花木などを拡大して描き、それに湖沼などの遠景を配した構図がはなはだ多い。義躬の作品は写生図をのぞくほとんどこの方式によっており、いささか変化に乏しい傾向がある。しかし、本図は彼の社会的地位の高さに基ずく品格が、画面ににじみ出た佳作である。

紅毛童子図 田代忠国作絹本着色一福 江戸時代(18世紀)秋田県立近代美術館

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田代忠国(1757~1830)は秋田藩の俳人森田顕忠の子として生まれたが、秋田藩士田代綱記の養子となり、産物方として曙山、義和の2代に仕えた。忠国の名を曙山より賜ったとされる。安永2年(1773)に直武と共に、源内から洋画法を直接伝授されたと伝えられるが、詳細は分からない。洋画から受ける印象をそのまま取り入れたような、濃彩によるあくの強い表現が作風の特徴と言える。大きな角柱の前にたたずむ西洋人物を前景に大きく描いた作品で、忠国特有の濃厚な色彩とあくの強い人物表現である。人物が左手に持つ朱塗りで金彩のほどこされた杖は、ギリシャ神ヘルメスの持物であるケーリュケイオンのようである。曙山の写生帳や直武の遺品に神話図が納められているように、ギリシャ神話の図像はすでに江戸時代にも伝わっていた。

七里ガ浜 司馬江漢作 絹本着色 一福 江戸時代(18~19世紀)大和文華館

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司馬江漢(1738~1818)は、直武が江戸にいた時に、直武に学んだ絵師であり、洋風画家として活躍した。土方定一「日本の近代美術」の中では、司馬江漢を日本美術における洋画の創始者のように扱っている。源内周辺の絵師や蘭学者と交流した司馬江漢は、堂版画と油彩画という新たなジャンルを切り開いた。例えば、神奈川近代美術館の蔵品のうち、近代洋画は司馬江漢が圧倒的に多い。司馬江漢を日本における洋画の先駆者と位置付けてもよいであろう。おそらく江漢は、富士山を眺望する場所として七里ガ浜に特別な想いを寄せていたのであろう。この七里ガ浜図は富士眺望図としての性格を有しているが、本図では富士山が江の島の左側に描かれているが、これは実景とは異なる配置であり、遠近感を強調するためにあえて行ったものと思われる。

 

昭和5年(1930)に、日本画家・平福百穂が「日本洋画の曙光」という本を出版し、秋田蘭画を世に喧伝した。その「日本洋画の曙光」は、現在岩波文庫に納められ、誰でも読める。その巻末の言葉を紹介したい。「近世洋画の鼻祖と言えば、常に司馬江漢の名が挙げられているが、直武、曙山公等が早くも安政期に於いて、かかる業績を遺して居りながら、全く世に埋もれて居る事を遺憾とし、不敏も顧みずこれが闡明(せんめい)を期して此刊行を志した。一つには又郷国を同じうする故人に対して、私の為すべき務めとの考えたのである。只文中誤聞、憶測の多々あるを怖れているが、これ等に関しては大方諸賢の御示教を仰ぎ度いと思う。尚本書の書名に就いては、「江戸洋画」とするは当たらず、また「秋田洋画」となすのも妥当を欠き、かれこれ迷って居たが、偶々(たまたま)黒板勝美博士(当時・東大教授)の御教示に依って「日本洋画の曙光」と命名する事にした。(現代仮名使いに変更)

壮(わか)くして逝きし人の阿蘭陀絵は世に稀なりやくりかえし見つ 平福百穂

 

(本稿は、図録「小野田直武と秋田蘭画 2016年」、図録「栄光のオランダ絵画と日本」、安村敏信「江戸絵画の非常識」、平福百穂「日本洋画の曙光」、原色日本の美術第25巻「南蛮美術と洋風画」、土方定一「日本の近代美術」を参照した)

小田野直武と秋田蘭画(1)

小田野直武は寛永2年(1749)12月に秋田藩角館城代の槍術指南役であった小田野直賢の第四子として生まれた。字は私有、通称武助と呼ばれていた。角館は秋田藩を治める佐竹一門の佐竹北家が統治し、直武は「角館給人・佐竹北家組下」という身分だった。角館給人とは秋田藩から禄を受ける角館在住の武士のことである。直武は若い頃から画才を示し、秋田藩のお抱え絵師・竹田円碩に狩野派を学んだ。安永2年(1722)産出量が減少していた阿仁銅山の開発のため、平賀源内と石見国の山師・吉田利兵衛を招聘した。当時、長崎におけるオランダとの貿易では銅が用いられており、その半分あまりを秋田藩が担っていたという。江戸時代は、長崎・対馬・松前・薩摩を通じて中国やオランダをはじめとする世界各国と交流を行っていたのである。秋田蘭画誕生を促す源内の秋田来訪は、このようなグローバルな動静と無縁ではなかった。角館滞在中に源内が直武に西洋絵画を教授したと画家平福百穂は述べている。確かなことは、源内が江戸に戻るため久保田(現秋田市)を発った翌日の10月30日に、直武が秋田藩から江戸行きを命じられ、役名は「元内手、産物他所取次役」で、期限は3年であった。角館に戻った直武は、佐竹義躬(よしみ)に江戸詰めの挨拶をし、12月1日に江戸へと向かった。数え年25歳の時である。江戸での直武は、源内のもとで活躍していたと考えられる。工房のような雰囲気を持っていた源内の家には、貴重な洋書類があり、蘭学者も周囲にいた。また源内の知人には江戸に南蘋派(なんぴんは)を広めた宋紫石(そうしせき)がおり、宋紫石からも大きな影響を受けたとされる。

解体新書 杉田玄白ら訳小野田直武画五冊安永3年(1774)早稲田大学図書館

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日本で初めて刊行された本格的な西洋医学書の翻訳として名高い「解体新書」である。その図を担当したのが小田野直武であり、江戸でのデビュー作となった。江戸に出たばかりの直武が、早くも歴史に残る大事業の一翼を担うことになったのは、この安永3年(1774)8月に刊行された杉田玄白らによる日本初の西洋医学書の本格的な翻訳である「解体新書」だったのである。何故、玄白らは江戸に出て間もない青年武士を抜擢したのか。源内が友人の玄白に直武を紹介したといわれるが、近年、秋田藩医稲見家に伝わるワルエルダの解剖書が注目されたのではないかという意見が出ている。むしろ、直武の江戸行きと解体新書の制作に関連が有ったかも知れない。

ファン・ロイエン筆花鳥図模写 石川大浪・孟高作 寛政8年(1796)秋田県立近代美術館

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享和7年(1722)、第8代将軍・徳川吉宗はオランダ商館に5点の油彩画を発注し、享和11年(1726)に日本へもたらされた。5点のうち2点は江戸本所の五百羅漢寺に下賜された。この絵は、その2点のうちの1点を写した作品で、原画は堂内に懸けられていたが、風雨にさらされ、やがて失われしまったと推測される。本図には大槻玄沢による賛が付されている。原画がファン・ロイエンなる画家によって1725年に描かれたことが判明する。寛政8年(1796)、石川大浪、孟高兄弟が五百羅漢寺に通い、模写を行った。2人は日本の伝統的な画材を用いながら、西洋画の立体感を再現しようと試みている。原画の制作者であるファン・ロイエンについては諸説があり、明らかではない。

富嶽図 宋紫石作 一幅  安永5年(1776) 大和文華館

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宋紫石は江戸に南蘋(なんぴん)風花鳥画を広めた絵師で、本名は楠本幸八郎という。平賀元内と交流があり、江戸に出た直武も宋紫石から南蘋派(なんぴんは)を学んだようである。後に洋風画家として活躍する司馬江漢もはじめ宋紫石に習っている。雪を冠した富士を横長の画面いっぱいに配した作品である。たなびく雲が富士の周りを取り囲み、山の立体感を強調する。画中の款記によれば、安永5年(1776)、当時62歳だった紫石が伊豆国田子浦からの眺望を描いたことが判明する。本図の富士の描写には、直武の富士図に通じる要素がある。南蘋派の影響を受けて言われる由縁である。

写生帳 小田野直武作 紙本着色 一帖江戸時代(18世紀)秋田県立近代美術館

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小田野直武筆とされる写生帳は、3帖知られている。この写生帳は、秋田県文化財であり(秋田近美本)、日本画家の平福百穂によって大正年間にひとつの帖にまとめられたものである。この部分は蓮の花の咲く前の蕾である。上野・不忍池(しのばずいけ)は蓮の名所として知られ、おそらく直武も何度も池を訪れて蓮の花が咲く光景を目にしたのであろう。江戸時代の写生帳は、丸山応挙が良く知られているが、一種のデッサンであろう。

笹に白兎図小田野直武作 絹本着色一福江戸時代(18世紀)秋田県立千秋美術館

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宋元体画以来の東洋の花卉図の伝統にもとずいた作品である。しかし、兎は陰影をつけて立体的に写され、地面の線や兎の影も加えるなど、西洋的な表現も認められる。一般に秋田蘭画は時代の限界をよく意識して、無理な飛躍は試みず、東洋画の基礎の上に節度をもって西洋画法を加味しているが、これはそのような長所のもっともよく出た愛すべき作品である。

鷹図 小野田直武作 絹本着色 一福 壊疽時代(18世紀) 個人蔵

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海辺の巨木の枝に1羽の鷹がとまっている図である。画面下部には大きな岩が配され、左上方から切り立った崖が奥へと導き、広々とした空が著されている。波はしぶきを上げ、紅葉した木の葉が強風に揺れている。鷹という画題は、狩野派にしばしば取り上げられ、初期の直武の作品にも見出すことができる。権威の象徴として武家に好まれたモチーフで、威厳のある鷹の姿を描いた本図も直武周辺の武家の間で受容されたものと思われる。本図の細部には、木の枝に鷹の糞がついていることにきづき、やや意表を突かれる感じがする。「不忍池図」のアリにも共通する見る者に驚きを与える表現は、狂歌や俳諧といった文芸との関わりも指摘される。直武や曙山(しょくざん)らの近くには、当時を代表する狂歌師で秋田藩江戸留守居役の手柄岡持がいたのである。

芍薬花籠図 小野田直武作絹本着色一幅江戸時代(18世紀)秋田県立近代美術館

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秋田蘭画においては、前景の花卉や樹木などをまるで部分拡大写真のように近接描写しているため、その一部が本図のように画面外にされていることが甚だ多い。秋田蘭画の作家たちはすべて高級武士、ないしはその周囲に仕える人々であったから、書院装飾絵画は常に生活の周囲にあったし、彼らの基礎とした狩野派の画技である。そこで、このような構図法は近世障壁画の部分拡大描写にもとずき、それに西洋画的な奥行きの表現を加えるために着想されたものと考えられる。竹籠もオランダ銅版画から学んだ細線で精密に写している。また、花や蝶や虫を配することも、東洋画では古くからおこなわれたが、本図の場合にはオランダ静物画の影響も認められる。

重要文化財 不忍池図 小田野直武作 絹本着色 一面 江戸時代(18世紀)秋田県立近代美術館

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この大画面作品はかって掛幅であったが、いまは額装となっている。これが山形県で発見されたとき、落款があるにもかかわらず、その時の所蔵者は、司馬江漢(しばこうかん)の作品と思っていたという逸話が残っている。秋田蘭画が忘れた存在であったことを物語っている。近景に花卉を拡大描写し、それにオランダ銅版画の影響を受けた遠景を配するという、もっとも秋田蘭画らしい構図を用いている。しかし、近景の芍薬の花は鉢植となって地面に置かれていて、遠景は江戸名所の写生であるなど、現実感を強める努力が見られる。この絵は短い直武の生涯のうち、比較的晩年の円熟期に描かれたと思われる。そして最晩年の直武は東洋的な花鳥画を洋風化する段階をしだいに脱して、この絵の背景に見られるような特定の場所を写す風景画に進んでいったと考えられる。なお、図版では見えないが、芍薬の蕾に二匹の蟻がたかっている。小虫が花や果物にたかる絵は中国の宋元画にあるが、これはそのような漢画の伝統を物語るとともに、直武の科学的な観察力を示している。

 

小野田直武の名前は高校2年生の時に日本史で教わった。それは杉田玄白らによる日本初の西洋医学書の本格的な翻訳「解体新書」の図を担当したからである。しかし、秋田蘭画という言葉に接したのは、昭和41年(1966)の土方定一先生の「日本の近代美術」の中の「近代美術の黎明期」の項に秋田洋風画として、小野田直武、佐竹曙山の名前が名記されて知った。同じく昭和41年(1966)に「栄光のオランダ絵画と日本」という展覧会(たばこと塩の博物館)を見学して、レンプラントやゴッホの絵画を見て、更にオランダ洋画を日本に導入したのは司馬江漢であること等を確認した記憶がある。昨年、府中市美術館で見学した「ファンタスチック 江戸絵画の夢と空想」には、全く小野田直武とか秋田蘭画の名前は出て来なかった。多分、秋田の一洋画として軽視されたのであろうと思っていたが、今回の「小野田直武と秋田蘭画」を見て、180度見方が変わった。秋田蘭画こそ、日本における近代洋画の黎明期であったと考えるべきでは無いかと思っている。もし、これ言い過ぎならば、秋田蘭画とは西洋画法と共に南蘋派(なんぴんは)に代表される東洋絵画の精神を引き継いだ画法を始めた画派であると、言い換えても良い.

 

(本稿は、図録「小野田直武と秋田蘭画  2016年」、図録「栄光のオランダ絵画と日本」、安村敏信「江戸絵画の非常識」、平福百穂「日本洋画の曙光」、現色日本の美術「第25巻南蛮美術と洋風画」、土方定一「日本の近代美術」を参照した)