東大寺  二月堂 お水取り

東大寺境内の東側ーかって上院と呼ばれた地区にあり、若草山の麓に経つ国宝二月堂の創建は天平時代までさかのぼる。現存の建物は寛文2年(1669)の再建であり、西正面からは大仏殿の鴟尾(しび)や奈良市街が見下ろせる。本尊は2体の十一面観音菩薩像であるが、秘仏のため、私は拝観したことが無い。二月堂では天平勝宝4年(752)以来1250年以上にわたり守り継がれたきた「修二会」(しゅにえ)の行(ぎょう)が旧暦2月に行われる。お水取り行事は、毎年テレビで放映され、観光書にも書かれて、一般に良く知られている。しかし、お水取りというのは、3月1日(新暦)から14日にかけて行われる修二会(しゅにえ)の一部で、必ずしも東大寺にかぎるわけではない。例えば、笠置の正月堂でも、奈良の秋篠寺でも、その他多くの神社仏閣で、古代からおこなわれてきていた「霊水を汲む」神事なのである。人間にとって、水は欠くことのできない生命の源である。ことに農耕を営む民族には、田畑を耕す水ほど大切なものはない。そこに仏教が渡来するよりはるか以前のことで、縄文・弥生の遺跡を見ても、泉が生活の中心をなしていることがわかる。太陰暦の正月、二月は早春の時期であり、草も木も人間も溌剌とした生命感にあふれる季節である。太古から民衆の間で行われた春の祭りに、仏教が結びついてできたのが、正月に行う修正会(しゅしぉうえ)であり、二月に行う修二会(しゅにえ)である。

国宝  二月堂  寄棟造 本瓦           江戸時代(17世紀)

正面7間、側面10間の寄棟造り(よせむねつくり)で、山の斜面に建ち、寺内では最も高い所にある。舞台造り(懸崖造り)とも言われる建築様式である。修二会の会期中は、独特の大きな円い提灯が飾られる。

国宝  二月堂  上段の様子           江戸時代(17世紀

二月堂の上に上がると、通常、人は少ない。大仏殿を見て帰る観光客が多いせいだろう。しかし、折角東大寺まで来たら、是非、法華堂、二月堂くらいは見学してほしい。この二月堂からの奈良市街の眺めは素晴らしい。東大寺大仏殿の鴟尾(しび)が金色に輝く。修二会を始めたのは東大寺の開山、良弁(ろうべん)僧正の高弟であった実忠(じつちゅう)和尚である、彼はインドから渡来した僧だったとも言われ、東大寺建立にあたっては、さまざまな功績があった人である。

良弁杉   二月堂の舞台造りの下に生える杉の樹

東大寺の開山良弁(689~773)は「良弁さん」の名で親しまれ、文楽や歌舞伎の「二月堂良弁杉由来」の題材となった良弁杉の故事は良く知られている。観音に祈願してやっと子を授かった母は、ある日、愛児を大鷲にさらわれる。母は、その行方を追って30年余り諸国流浪の旅に出る。一方、子はたまたま春日神社に参詣に来た義淵(法相宗を広めた高僧)によって杉の木にぶらさがっているところを助けられ、長じて名僧良弁となった。母は見つからぬ子をあきらめて帰る舟の中で、良弁の話を聞く。「東大寺の良弁法師は、かって鷲に弄ばれているところを助けられた」と。母は早速、東大寺に良弁を訪ねる。名僧の誉れ高い良弁には会えず、寺僧の教えるままに大杉に張り紙をして待った。これが良弁の目にとまって母と子は対面した。良弁は仏の加護に感謝し老母を東大寺に迎え、終生孝養を尽くしたのだった。この故事を伝えて、いまも二月堂の舞台造りの下に「良弁杉」の樹が残る。もとの良弁杉が昭和36年(1961)の台風で倒れ、その枝木を挿し木したものという。なお、私は昭和28年3月13日のお水取りに参列したことがあるが、古い良弁杉が茂っていた。

重要文化財  閼伽井屋(あかいや)若狭井戸  お水取りの井戸

お水取りの井戸を「若狭井」(わさい)と呼ぶ。実忠和尚が修二会をはじめた時、毎日初夜(7時~8時)の終わりに「神明帳」(しんみょうちょう)を読むならわしであった。行法を守護するために、諸国の神々を勧請(かんじょう)した。ところが若狭の遠敷(おにゅう)明神は、釣りがすきだったので、時間に間に合わず、お詫びのしるしに、本尊にささげる閼伽水(あかみず)を献じることを誓った。その時、黒白二羽の鵜が、盤石をうがった地中から飛び立ち、その跡から香水(こうずい)が勢いよく湧出した、よって「若狭井」と名付け、その水を本尊へささげる風習が起こったというのである。今でも若狭では、奈良のお水取りがはじまる前日の3月2日には遠敷川で「お水送り」という祭りを行っており、神主が「これから奈良へ水を送ります」という意味の願文を読み、それを川へ流す儀式がある。12日の夜半過ぎに、この香水を汲んで観音様にお供えするようになった。したがって本来修二会の付加儀礼だが、いまやお水取りは修二会全体を表すまでになっている。

お水取りの階段

3月12日夜半過ぎ、この香水を汲んで修二会全体を表すまでになっている。奏楽の中、一行は二月堂南側の石段を降り、若狭井へ向かう。閼伽井へ入るのは3人だけ。深夜の秘儀で誰も見ることはできない。本来おお水取りのために造られた階段であるが、参詣者は、お水取りの儀式以外の日は、昇降に使っている。

燃えさかる籠松明と過去帳

3月12日、この日は一段と大きな籠松明が焚かれるため、参列者がひときわ多くなる。19時半ごろ、いつものように松明を先導に連行衆(れんぎょうしゅう)が上堂する。そのたびに籠松明は舞台から付き出され、参拝者の間から感嘆の声が大浪のように湧き上がる。修二会には、まるで演劇を見るような行がいくつもある。その一つが走りの行と五体投地(ごたいとうち)である。走りの行は、天界の1日が人間界の400年に当たることに由来する。連行衆は、その大きな時の差を埋めるために、内陣の須弥壇の周りを沓音高く走りながら行を進める。これを「走りの行法」とも呼ぶ。修二会は罪を洗い清める悔過の法会であることを改めて強く印象づける。また5日と12日には、過去帳を読み上げる。聖務天皇以下、光明皇后、良弁僧正など東大寺のゆかりの人々の名を標した過去帳を読み上げる。中々音楽的で、聞いていても面白い。鎌倉時代の中ほどで、「青衣の女人」と、陰にこもった節をつけて読む。承元の頃(1207~11)、東大寺に集慶という僧がいた。この人が「過去帳」を読んだ時、夢と現(うつつ)ともなく、青い衣を着た女人が現れて、「何故私の名を飛んで下さらぬのか」と恨めしそうに呟いたので、驚いた集慶は、思わず「青衣(しょうえ)の女人(にょにん)」と叫んでしまった。以後、名も知れぬ女の幽霊が、「過去帳」に加えられるようになったというわけである。井上靖の初期の短編小説に、同名の本がある。

達陀(だったん) 不思議な火の行法

修二会の最後の3日間、「達陀」(だったん)という不思議な行がある。「だったん」の語源はよくわからないが、タタラを踏む言葉から出た様で(白洲正子氏の説)、燃えさかる松明を持った火天と麗水器をささげた水天が、これまたおそろしい勢いで堂内を駆け巡る。伴奏には、法螺貝と鈴と錫杖でさわがしい音を立て、静かな修二会の道場は、一瞬華やかな祭の場に変わる。「だったん」とか「走りの行法」は、仏教の行法としてみごとに演出されているが、元を正せば地下に眠っている魂を呼び覚ますための、春の祭典であろう。原始的神事が、仏教の中に生かされているのであろう。興奮さめやらぬなか、達陀の行は終わり、萬行へと向かう。連行衆の萬行下堂は14日目の早朝4時30分ころ、二月堂は閉扉され、次の修二会を迎えるまで再び静寂に包まれる。

お水取りお松明   1980年頃             入江泰吉氏撮影

戦後、半世紀近くの間、奈良・大和路を撮り続けた入江泰吉氏(1905~92)の住まいは、東大寺の戒壇院の望まれる場所だった。戦後、アメリカが戦争の代償として日本の古美術を持ち帰るという噂を耳にして、せめて写真に残そうと思い立った。3月に入ると、夜更けにはお水取り(修二会)の行法の鐘の音がかすかに入江邸にも流れてくる。入江氏は鐘の響きに誘われるように昭和21年(1946)から毎年カメラを持って参籠を続けた。1ケ月にもわたるお水取りの行事。お水取りは練行衆と呼ばれる11人の僧によって行われるが、入江氏は「12人目の練行衆」と呼ばれるようになった。入江氏のライフワークの全作品が、「入江泰吉記念奈良写真美術館」に納められている。

二月堂裏参道

二月堂裏参道とは、大仏殿の北方、食堂跡と大湯屋を経て、緩やかな石畳の坂道を指す。瓦屋根を載せて古い古瓦を埋め込んだ、しっとりとした土塀に見入りながら、二月堂の舞台が見えてくる所まで近づいてゆくと、期待感に胸がはずむ。

 

 

お水取りの行事には、何回も訪れているが一番記憶に残るのは最初に訪ねた昭和28年3月12日の記憶である。高校の同級生であったK君(故人)と最初に大和古寺巡礼を始めた時である。まだ食料事情が悪かった時期で、斉藤旅館に米2合を持参して泊まった。お水取りの記憶は鮮明で、「走りの行法」、「だったん」、「五体投地」、「お水取り」最後に「過去帳」で深夜の「青衣の女人」を聞いて満足して宿へ帰った記憶が闡明である。その後、何回かお水取りの行事を拝観したが、最初の記憶が鮮明であり、観客もまだ少ない観光化されない時期であったので、なおさら記憶に残るのであろう。青春の記憶として、未だに懐かしく思い出す。翌日は「西の京」へ行き、「唐招提寺」、「薬師寺」を廻った。

 

(本稿は、図録「東大寺大仏 天平の至宝 2010年」、ビジュアル文庫「東大寺」、探訪日本の古寺全15巻のうち「第12巻 奈良Ⅲ」、田中英道「日本美術史全史」を参照した)

東大寺  法華堂(2)

法華堂の仏像配置は、不空羂索観音の両脇に日光・月光菩薩が立つという配置が、私が見慣れた法華堂の景色であった。平成8年(1996)から平成11年度(1999)にかけての法華堂諸像の剥落修理の際、仏像を移動、調査して意外な事実が明らかにしたのは、文化庁の主任文化財調査官、奥健夫氏であった。2009年9月の「仏教美術」に寄せた「東大寺法華堂八角二重基壇小考」と題する論文である。この論文は、「小考」どころか、学会に大きな反響を巻き起こした。

八角二重基壇の写真         日経新聞2012年3月4日記事より引用

真中の一番小さい八角形は本尊の台座跡である。その左右が修理前の日光、月光菩薩の立ち位置である。その下の、下段の上に残る、円に近いぼんやりとした痕跡が、かっての日光、月光と四天王像(戒壇院)の置かれていた跡だというのである。奥論文は「ここで注意されるのは、これらの八角台座の痕跡が日光月光像並びに現戒壇院四天王像の台座底辺輪郭と一致することである」と記している。「これらの台座は一辺長さが34cmほど、向かい合う二辺の距離がおよそ82~84cm前後で、須弥壇下段の床面には内外にそれぞれ3~5cmを残して納まる」という。「6体の保存状態の良好さは、安置されていた堂が火災に遭ったり倒れたりした場合にあり得ず、それが安置される堂宇とともに相当長い間伝えられてきたことによると見るのが自然である。東大寺で奈良時代の建立になる唯一の仏堂である法華堂の八角二重基壇の下段に、大きさと形が一致する台座痕跡がある以上、塑像6体はかってここに安置されていた可能性を積極的に考えてよいのではないか」と述べている。台座の痕跡という「事実」が、1200年余ぶりに「史実」に一撃を与えたのである。

台座上の配列図

これはある新聞の記事から引用したものであるが、創建時の仏像の配列と、2010年の配列を示したものである。この配列記事は奥論文を基にして作成したものであろうが、私は、現在やや異論を持っている。2010年の「東大寺大仏 天平の至宝」という展覧会の図録で、(当時慶応大学教授の)金子啓明氏が「東大寺大仏と天平彫刻」と題する論文を寄せている。その中で、金子氏は「創建時の仏像」として、「七体の塑像群は九体の脱活乾漆像とは制作工房が異なり、作風と文様が脱活乾漆像群より塑像群が先行するとする説を肯定し、本尊を執金剛神とする考えである。造像の発願者はもちろん良弁」である。上段に設けられた宝殿部に執金剛神が安置されたと考えれば、像高が170cmの等身像であっても違和感はない。八角二重基壇の大きさに較べれば執金剛神はやや小ぶりであることは確かだが、むしろゆったりとした空間に、本尊としての違和感は際立つ筈である。伝日光、月光菩薩像は像高が2mをやや超えて本尊より高いが、当初は八角二重基壇の下段か、そこから外れた須弥壇上に安置されたと見れば、像の高さの相違は特に問題ない。」このように法華堂の最初期の本尊は執金剛神であったことを積極的に肯定している。私は、現時点では、金子説が一番あり得る配置であると考えている。

国宝 執金剛神立像  塑像 彩色 像高 170.4cm 奈良時代(8世紀)

 

現在は法華堂本尊の不空羂索観音像の背後の厨子内に北面して立つ。「日本霊異記」(822年頃成立)に記述があり、既に北向きであったと言う。慶応大学の金子教授の意見によれば、最初は、法華堂の本尊であり、現在不空羂索観音立像の立つ位置に立っていたことになる。後に不空羂索観音菩薩像が法華堂に本尊として新たに安置されることになるが、執金剛神像は、厨子に入って八角基壇下段に移されたことになるだろう。執金剛神の名は手にした金剛杵から付けられた。長く秘仏とされたため、彩色が良く残る。平将門の乱(939)に際し、この像の髪の元結紐の端が蜂となり、平将門を刺殺したという説話が残るように、古来、霊像として良く知られていた。開扉は毎年12月16日で、良弁僧正像と同日である。

国宝 日光菩薩立像 塑像、彩色、載金、像高206.3cm奈良時代(8世紀)日光菩薩立像          月光菩薩立像

 

法華堂本尊の左右に立っていた。須弥壇中央の八角二重基壇の上段に安置されていた。当初は極彩色だったという。日光、月光菩薩の呼び方は江戸以前の文献には出て来ず、仏教の守護神として採り入れられたインドの梵天・帝釈天の像ではないかとされる。後世に他の堂から法華堂に移された「客仏」と考えられてきたが、最近の調査では、もともと不空羂索観音の眷属として立っていた可能性が強まった。しかし、東大寺では、この説を取らず、現在は新設された「東大寺ミュージアム」に常時展示されている。この研究によって日光・月光両菩薩像に投げかけられてきた「客仏」というレッテルが、理由の無いものになった。(「客仏」とは後世になって、他の堂から持ち込まれた仏像のことである)日本美術史家のみならず、「「古寺巡礼」の和辻哲郎も、日光・月光菩薩像など法華堂の塑像をさして、「しかしこれらは本来この堂に属じたものではあるまい」と記している。町田甲一は、日光・月光は「客仏」と前置きをして、「この像は、もともと本尊に随侍する脇物だと主張したもいるが、多くの人はこの考えに否定的で、材も本尊の乾漆とは異なる塑であり、像高もはるかに小さい。それよりも作風が全く異なり、表出する感情が完全に異質である。後世、同じ東大寺の他の堂より伊座されたものであろう」(大和古寺巡礼)と言い切っている。

国宝 四天王像 増長天像 塑像彩色 像高163.6cm 奈良時代(8世紀)

西南隅の増長天は、右手に鉾をつき、左手を腰にあて、大喝しながら激しく相手に迫ろうととする姿で、このように侍国天と増長天には、仏敵破摧(ぶってきはさい)の積極的なはたらきが示されている。

重要文化財  法華堂経蔵              鎌倉時代(?)

重要文化財であることは確かであるが、何時建設されたものかを示すものは、私の持っている図書では明確にできなかった。法華堂の正面から、手向山八幡宮に寄った所に建つ経蔵である。良弁時代の経蔵は、平氏の戦火で焼けたのであろうか。重源によって再建された鎌倉時代ではないかと思う。HPで確認のため「法華堂 経蔵」で羂索したところ、次のような文章が見つかった。「もとは東大寺油倉の上司倉でした。東大寺食堂跡の北東に位置する油倉の地に並んで建っていました。正徳4年(1714)現在地に移したと伝えられ、天平時代の創建と見られます。」かつ、この経蔵は「手向山神社宝庫」としている。また一方、東大寺法華堂経蔵とも書いている。ネットの記事なので、あまり信用できないが、一つの意見としてお知らせする。

 

2010年に開催された「東大寺大仏  天平の至宝 2010年」展の図録で、慶応大学教授の金子啓明氏が「東大寺大仏と天平彫刻」という論文を発表している。それによれば、初期の法華堂の本尊は、執金剛神であり、その下段を6体の塑像が取り巻いていたとしている。金子論文は、次のように締めくくっている。「今、法華堂、三月堂と呼ばれる羂索堂は等初は不空羂索観音像の堂ではなく、堂の名称も異なっていた。それ以前のこの堂では、良弁が大切にしていた執金剛神を当初の本尊とし、伝日光、月光菩薩像と現戒壇院の四天王像の7体の塑像による群像構成であった可能性のあることを指摘しておきたい。」東大寺は、これらの指摘とは反対の意見のようで、新設した東大寺ミュージアムに伝日光、月光菩薩像を常に安置している。どちらが史実かは、いずれ歴史が証明するであろう。

 

(本稿は、図録「東大寺大仏 天平の至宝  2010年」、ビジュアル文庫「第5巻 東大寺」、田中英道「日本美術全史」、原色日本の美術「第3巻 奈良の寺院と天平彫刻」、日経新聞2012年2月26日、3月4日、3月11日「美の美」「東大寺法華堂の秘密」を参照した)

東大寺  法華堂(1)

和銅3年(710)に藤原京から遷された都・平城京は聖務天皇が即位した神亀元年(724)ころには、「青丹よし寧楽の京師は咲く花の勲ふがごとく今盛りなり」(小野老 萬葉集巻三 三一八)と詠まれたように、大陸より遣唐使によってもたらされたさまざまな文物を取り入れた若々しい息吹が感じられる国際的な都市となっていた。そのような社会状況の中、神亀5年(728)、前年に誕生した聖務天皇待望の皇太子・基親王が夭折した。聖務天皇は親王の菩提を弔うために平城宮の東の山中に山房を建て、9名の僧を住ませた。その中に、後に東大寺の初代別当になる良弁(ろうべん)が含まれていたとされる。この山房が後に金鐘寺(きんしょうじ)と呼ばれるようになった。東大寺にはこの山房(寺院)にその源流を求めているのである。山房が建てられた場所は、大仏殿の東側の一段と高くなった二月堂や法華堂がある上院と呼ばれる地区内のさまざまな場所が研究者の推定されてきたが、最近、二月堂北側の山中にある人工的に造られた平坦地から創建時の東大寺で多数使用されている型式より先行する興福寺型の瓦片など遺物が多数発見され(丸山遺跡)、金鐘寺の堂宇がこの場所にあった蓋然性が大きくなった。ところで、上院地区にはもう一つの寺院があったとされる。光明皇后と関係の深い福寿寺と呼ばれる寺院である。福寿寺はその後、天平13年(741)頃までには寺観も整えられていたようである。また平安時代に成立した東大寺の寺誌「東大寺要録」には東大寺に先行する寺院として天地院の名も見られる。和銅元年(708)大仏建立の際に勧進の役を担った行基によって造営されたものとされる。さて、この頃の政治社会情勢は天然痘が各地で流行し、政治の中枢にいた光明皇后の兄弟である藤原四兄弟が相次いで病死、九州・大宰府では藤原広嗣が反乱を起こすなど、華やかで色鮮やかな情景を謳った萬葉集とは違い、政治的社会的に不安定な状態が続いていた。聖務天皇はこの状況を打破するために平城京を出て、伊賀、伊勢、美濃、近江の国々を次々と廻り、山城国恭仁(京都府木津川市)に都を遷すことにした。天平13年(741)、新都・恭仁京(くにきょう)において国家の災害、困難などを消去することを説く「金光明最勝王経」を具現化した国分寺の建立の詔を発した。各国に国分寺が建てられることになり、大和国では金鐘寺を中心とした上院に存在していた寺々が一つの寺院として統合されて国分寺となり、金光明寺となった。

国宝  法華堂  寄棟造(正堂)、入母屋造(礼堂)   奈良時代、鎌倉時代

平安後期に編纂された「東大寺要録」には、東大寺の前身である金鐘寺(金鐘山房)は天平5年(733)に聖務天皇が良弁のために羂索院(法華堂)を創建したとある。しかし、これまでは、この「東大寺要録」の記述は疑問視されてきた。しかし、平成8年(1996)から11年度(1999)にかけての法華堂諸像の剥落止め修理の際、年輪年代法を用いて八角二重基壇の構成部材を測定したところ、西暦729年と言う値を得た。神亀6年(天平元年)で基親王の亡くなった翌年である。さらに法華堂須弥壇上方の用材から731年、須弥壇後方の用材から730年、あるいは731年の伐採年を得た。天平3年に当たり、「東大寺要録」の記述に近く、その信憑性がにわかに高まったのである。これまでは法華堂は、屋根瓦の文様や本尊光背に関するとされる天平19年(747)正月付の文書が存在することから、天平18,19年頃の創建とする見方が強かった。年輪年代法という科学的な手法が20年近く年代を遡らせたことは、大きな衝撃であった。「東大寺要録」に法華堂建立年次として見える天平5年(733)は、かなり近い年次であることを示すと思われる。法華堂が始めから不空羂索観音菩薩像を本尊として安置することを目的として建立されたものではないらしい。観音像が法華堂(羂索堂と呼ばれたこともある)の本尊となるのは建物完成後しばらく間をおいての時期と考えられ、天平14年(742)より後と考えるのが自然であろう。法華堂は、向って左側が天平時代の建物(正室)、右側が鎌倉時代の建物(礼堂)である。旨くマッチしている。

国宝  法華堂内の仏像群             奈良時代(8世紀)

法華堂の仏像群は、2013年の修理により、展示仏ががらりと変わった。脱乾漆像の巨像のみが残り、美しい塑像類の展示が無くなった。昔を知る私に取っては、非常に寂しい展示であるが、東大寺としては法華堂の建設当初の仏像に統一した積りであろう。仏像展示は、ある意味ですっきりとし、何も知らなければ、これが法華堂建立時の姿と思うだろう。確かに、ここは、天平彫刻の宝庫である。しかし、和辻哲郎「古寺巡礼」や亀井勝一郎「大和古寺風物詩」を読んで、大和古寺巡りを始めた人には、違和感が大きいだろう。日本で最も美しい日光、月光像が無い法華堂には魅力を感じないのではないだろうか。そんな風に考えると、堂内の人数が減ったようにも思う。

国宝 不空羂索観音立像 脱活乾漆造 像高362.0cm 奈良時代(8世紀)

法華堂の本尊として、須弥壇中央に安置されている。額には縦に三眼(天眼)があり、合掌した手以外に6本の太い腕を持つ。中心の合掌する両手に注目すると、その掌の間に小さな水晶玉がみえる。水晶玉は如意宝珠を意味する。如意宝珠とは、すべてを意の如く自由に成し遂げる魔法の玉である。その神呪を唱えると一切の災いや諸悪は忽ち消え去るという。不空羂索観音菩薩像の表現には、この観音の呪的な救済力が現動することが意図されている。羂索は、古代インドの狩猟具でひもを縒(よ)って索(網)にしたもので、これで獲物を捕るように、衆生の悩みを救済するという意である。

国宝 不空羂索観音立像の宝冠 銀製鍍金 総高88.2cm奈良時代(8世紀)

中心に銀製鍍金の阿弥陀如来の化仏を配し、翡翠(ひすい)・琥珀(こはく)・真珠・瑠璃(るり)などの珠玉をちりばめ、周囲を銀製透かし彫りの宝相華で飾って荘厳する。天平時代の工芸技術の最高峰を示す作品である。

国宝 梵天・帝釈天立像 脱活乾漆造          奈良時代(8世紀)

梵天・帝釈天は、もともと古代インド神話中の代表的な神格で、梵天は創造神とされるプラフマー、帝釈天はインドラという最強の武勇神であった。仏教に早く取り入れられ、仏法を守護する神として一対で表されるようになった。両像は、いずれも4Mを超える堂内最大の尊像で、本尊不空羂索観音の左右に侍立する。衣の下に甲(よろい)を着けた武装形の方(向って右)は梵天としている。ゆったりと唐風の衣をまとい、すっくと立つ姿は、内省的なその表情とと相まって威厳が感じられる。手の指は長くしなやかに造形されている。

国宝 金剛力士立像 阿形脱活乾漆造 総高326.0cm 奈良時代(8世紀)

法華堂の須弥壇前面左右に安置され、梵天・帝釈天・四天王像とともに一具をなし、ほぼ同時期に同じ工房で制作されたものと推定されている。通例の金剛力士(仁王)像と違って、向って左に阿形(あぎょう)、右に吽形(うんぎょう)を安置している。また、一般的には上半身を裸形とするのに対し、これは甲冑姿に表されているのが特徴である。像の表面には、金箔地に朱・緑青・群青などの彩色が施され、甲(よろい)の縁に乾漆を盛り上げて菱に十字繋ぎ文や花文を配するなど、華やかに装飾されている。阿形は、髪を逆立て、表情も怒りをきわめて露わに表現している。

国宝  四天王立像 自国天立像 脱活乾漆造     奈良時代(8世紀)

四天王はもともと古代インド神話中の神々で、仏教に取り入れられ、仏法を守護する尊格として四方を守る。法華堂でも、高さ約3Mの脱活乾漆の大きな像が須弥壇の四隅に安置されている。怒りの直截(ちょくさい)な表現は抑え、ゆったりとした相貌に造られている。侍国天・増長天・広目天・多聞天のそれぞれの肉親を、白緑(びゃくろく)・朱・肉色・白群(びやくぐん)の4色に塗り、各々文様も変化をつけて描かれている。東南にある自国天像は、眉を吊り上げ、両目を大きく見開き、腰をわずかにひねっている。甲兜の背面には宝相華と鳳凰文がえがかれている。

 

東大寺は、この法華堂を中心として作られたお寺である。古くは金鐘寺(きんしょうじ)と呼ばれ、また光明皇后と関係の深い福寿寺とも関係があった。聖務天皇が天平14年(742)8月に紫香楽宮で大仏建立の詔を発し、「自ら念を有し、廬遮那仏を造るべし」、「人有て一枝の草、一把の土を持ちて像を助け造らんと情(こころ)に願はば、恣に(ほしいままに)聴せ(ゆるせ)」と述べ、皆のための大仏として、造立に広く民衆の協力を求めたのである。聖務天皇は天平13年(741)に、新都・恭仁宮(くにきょう)において国分寺建立の詔を発して、各国に国分寺が建てられることとなり、大和国では金鐘寺を中心として上院に存在していた寺々が一つの寺院として統合されて国分寺となり、金光明寺(金光明四天王護国之寺)となったのである。現在の法華堂こそ、東大寺の始まりであった。

 

(本稿は、図録「東大寺大仏  天平の至宝  2010年」、ビジュアル文庫「東大寺」、探訪日本の古寺 第12巻「奈良Ⅲ」、和辻哲郎「古寺巡礼」、亀井勝一郎「大和古寺風物詩」、日経新聞2012年2月22日、3月4日、3月11日「東大寺法華堂の秘密」を参照した)

入江一子  100歳記念展ーシルクロードに魅せられて

上野の森美術館の前を通ったところ、この表題の展覧会を開催していた。不勉強ばがら、入江一子という女流画家については全く知らず、普通ならそのまま見過ごす処だが、100歳記念展という珍しい長寿と、シルクロードの魅力に惹かれて、思いがけず入館し、思いがけない感動を得ることができた。近来稀にみる、感動であった。そこで、この感想を「美」で取り上げてみたい。入江和子先生は、大正5年(1916)5月に、韓国天邱(テグ)で生まれた。入江家は毛利藩士の家系で父は貿易商を営んでいたが、早く亡くなった。しかし、十分な資産があり生活に困ることはなく、母親フミノは芸術的天文の豊かな人で、特に手芸に堪能だった。この血を受け継ぎ、入江先生は幼少から異様なまでに描くことが好きだった。1929年、大邱公立高等女学校に進学し5年生のとき、第12回朝鮮美術展に2点入作した。昭和9年(1934)、女子美術専門学校師範西洋画部に入学した。当寺は、ここ以外に女子が学べる美術学校は無かったそうである。上京して、美校に学んだが、「日本の風景が箱庭のようで驚きました。本当に美しい国だと思いました」と語っている。しかし、彼女の色彩は、不器用なまでに大陸的であったと言う。私が、この全く知らない画家の100歳展を見て、思わず引き込まれてのが、色彩の異常なまでの美しさであった。女子美を卒業後一旦朝鮮に帰国し、丸善のソウル支店に勤務し、ショーウインドーを担当し、生涯の師となる林武氏を知った。昭和16年(1941)8月に入江先生は一人で汽車に乗ってハルピンやチチハルに出かけ、ホテルの会場で自分の描いた絵を売りさばいていた。そこで、彼女は次のような言葉を述べている。「満州の空は、抜けるような青色です。ノンコウという川に行ってみると、川面は血を流したように夕日で真っ赤に染まり、そこにジャンクのような舟が一隻浮かんでいます。その風景は生涯、忘れることができないほど、たいへん感動的なものでした」。この原始的な青と赤。これが入江一子と色の出会い、色彩の発見であり、これが後に画家をシルクロードへ駆り立てる原動力となったのである。(本江邦夫氏筆)私が、シルクロードを描かれた入江一子氏の絵を見て感激したのは、まさに本江先生のご指摘通り、シルクロードを描く、色彩の素晴らしさに強く惹かれたのである。入江先生のシルクロード巡りは50歳代になってからであるが、力作は、その絵を100号、200号というとてつもない大きさで描いたことである。まず、シルクロードの絵を招介したい。

イスタンブールの朝焼け  1975年  100号F 第29回女流画家協会展

作者の言葉より、引用して説明に替えたい。(以下このスタイルによる)「中国の西安をシルクロードの起点とするならば、トルコのイスタンブールは、東方のシルクロードの終点ともいえるところです。6本のミレット(祈りの塔)のあるブルーモスクやアヤソフィア、ハギヤソフィアとトプカプ宮殿などがあります。人々の服装もかなりヨーロッパ的な感じになってきて、東洋と西洋を結ぶシルクロードの接点としてエキゾチックな魅力にあふれた街です。長年、チチハルのノンコウに血潮を流したような景色がずっと目に焼き付いていたのですが、この時、ノンコウの面影とボスボラス湾の朝焼けを重ね合せることができたのです。ボスボラス湾の刻々と変わりゆく自然の美しさを作品にしょうと、スケッチブックに色を重ねていきました。この絵を描くことで、シルクロードへの憧れをより深くすることができると思ったのです。そこには、いつも心の中に焼き付いていたノンコウの美しさと同じ色彩がありました。ノンコウは夕陽でしたが、この朝焼けの真っ赤な色彩に運命的に出会ったことで、この作品を描くことができました。思えば私にとってシルクロードの旅は、このノンコウの色彩を追い求めることから始まったともいえるのです。」(色彩自在ーシルクロードを描きつづけてーより)

敦煌飛天 1979年  200号F    第47回独立展

「私は320窟(くつ)の飛天の魅力にすっかり魅せられて、なんとしても画き留めたいと思いました。ここは撮影が許可されていないので、男性の通訳が外で見張りをしています。しかも中は真っ暗で、本来は、外国人には、模写はさせてもらえないのですが、懐中電灯を明かりとして、2時間かけて飛天を模写させてもらいました。3階もある莫高窟(ばっこうくつ)の壊れかけた木の階段をリュツクサックに画材やカメラ、テープレコーダー、懐中電灯などを持って、大変な思いをして登った私の熱心さに感激してくれたのか、女性の通訳の好意により特別に模写することができました。そうした死闘の結果、200号の「敦煌飛天」が出来上がったのです。」(色彩自在ースルクロードを描きつづけてーより)敦煌320窟は、「阿弥陀浄土変相図」と呼ばれる窟で、一番上の飛天が美しいことで有名な窟です。私も感激して観た記憶があります。(黒川)

トルファン祭りの日  1981年  200号F

「ウルムチやトルファンはシルクロードとともに歴史を刻んだ場所です。葡萄棚の下のウイグルの人々の踊りを、どうしても絵にしたいと思っていましたので、訪ねるならば葡萄の実が成る時と決めていました。その機会に恵まれて、1980(昭和55)年8月7日に訪れることができたのです。スケッチは翌日ほとんど完成しました。そうして個展に出品する作品に仕上げるために、日本に帰ってからもアトリエで200号のキャンパスに描きつづけました。」(色彩自在ーシルクロードを描きつづけてーより)

パミール高原  1990年  150号F   第58回独立展

この高原は天山、カラコルム、ヒンズークッシュの3つの大山脈が集まって形成された巨大な高原地帯です。高原と言っても平均海抜5000メートルにも達する場所で、6000,7000メートル級の山々がそり立っています。パミールは珍しく快晴で、砂ぼこりがおさまり、これらの白い山々を遠望できました。古代中国の人は、これを「惣嶺」(そうれい)と呼んでいますが、この場所から、ブルンクリンまで訪ねました。高原で絵を描いていると、集落の家々から人がたくさん出てきました。ウイグル、タジク、その他多くの少数民族の人々で、モチーフとしては格好の題材でした。(「色彩自在ーシルクロードを描き続けて」ーより)

四姑娘(しーくーにゃん)山の青いケシ 1992年 200号P 第60回記念独立展

中国の成都よりチベットに向かう四姑娘(シークーニヤン)山麓に青いケシの花が咲いているという話を、ずっと以前から聞いていました。青いケシを見たい一心で、遂に行く決心をしました。ガイド役に植物にくわしい先生がつき、現地では、もし落ちそうだったら添乗員が私を馬に乗せていってあげるというので、その言葉を頼りにしての決心でした。1992年7月、まずは中国大陸に渡り、上海からの出発です。上海からは空路で成都へ向かいました。成都に行くのは、山岳地帯に向かっているわけですから、かなり気候は涼しくなってきています。翌朝、専用車で臥龍(がりゅう)まで向かい、臥龍の招待所で泊まる予定です。その予定で出発したのですが、7月は雨が多い季節で長雨のために土砂崩れでバスが通れません。仕方なくバスを捨てて耕運機に乗って1時間ほど進むことになりました。臥龍に近づいていくと、今度は橋が落ちていて、耕運機も通行できない状態です。もう歩くよりひかに方法がなくなり、泥んこ道を1時間ほど歩きつづけました。みんな山登りの人たちですから装備は完璧です。山崩れで道が悪くても、臥龍まで歩く予定でしたが、途中、臥龍からバスが出迎えに来てくれました。今度はバスで日隆(リーロン)に向かうことになりました。途中は、やはり多くの花が咲いていました。この辺は中国といっても、完全にチベット文化圏に入っている地域です。招待所はひどい状態でした。翌日は、いよいよ山登りの旅であり、四姑娘山麓のお花畑に向かっていきました。日隆の標高は3600メートル。これからベースキャンプに行って、テント生活をします。途中の山の斜面には、ヤギや羊の群れがみえて、村の子どもが世話をしています。民族衣装を着たチベット娘たちが、花が一面に咲いている高原で「四姑娘の娘」を歌いながら、籠の中に草を採って歩いています。翌朝はタークーニャン4300メートルまで、いよいよ青いケシの花を訪ねて山登りになります。雨が降って霧が流れているのでUターンして帰ろうとすると、突然、青いケシの花が一面に咲いているのがみえはじめました。はるばる訪ねてきた甲斐があったと、みんな大感激でした。息苦しい4000メートルの高地に、ようやく美しいケシの群生をみることができたのです。感激を心の中にとどめながら、私は雨の降るなかを、ベースキャンプに向かって下りて行きました。(「色彩自在ーシルクロードを描きつづけて「-より)この絵は、私が見た入江さんの絵の中で一番美しい絵でした。(黒川)

敦煌飛天  2005年  150号F    第73回独立展

前に見た1979年の「敦煌飛天」と同じ320窟の「敦煌飛天」の色を変えた絵ですが、私の好みから言えば、前作の色の方が、敦煌の壁の色に似ていると思います。しかし、色を変えた、この新しい「敦煌飛天」も魅力的です。なお、「敦煌飛天」は同じスケッチを基にして描かれた作品と思いますが、ここまで変わり得るものかと思いました。(黒川)

雲南ジンボー族まつりの日  2015年  200号P  第83回独立展

残念ながら、この絵について、入江さんの説明はない。多分、雲南地区の少数民族(ジンボー族)の祭りの様子を描いたものです。ややキュビズム的な感じがしますが、色の美しさ、衣装の美しさを鑑賞してください。民族ののぼり旗が3本たち、沢山の旗がきらめいています。多分、チベット仏教のお経を書いた旗では無いかと思います。祭りの儀礼だろうと思います。99歳の老人の描く絵かと思います。勢いを感じます。(黒川)

ホータンのまちかど  1986~2015年  200号P 第84回独立展

「この作品は、ロシヤとの境にある、並木の美しい、土塀のつづく小さなモスクのある中国の町です。外人は入れないのですが、特別に入らせて頂きました。10号のスケッチブックを開いて20号にしてがんばりました。カセットテープで録音をとり、当時の臨場感をだして、がんばりました。中々思い通りに進まない時、今でも大切に保存している林武先生のはげましの言葉を思い出します。「君が中途で止めておく手腕があれば、君が近々絵を描ける様になったと思います」。当時はあまり分からなかったのですが、現在では苦労の末に分かる様になりました。今年も「シルバーカー」を押しながら、200号をがんばります。」2016年と言えば、正に100歳の時です。こんな素晴らしい絵を描き続ける入江先生の「がんばり」に驚き、感激しました。(黒川)

あだし野  1970年  100号F   第38回独立展

「最近、石仏に興味をもち、京都・深草の五百羅漢、奈良の浄瑠璃寺周辺の磨崖仏、兵庫県北条の五百羅漢、或いは九州の装飾古墳、などをテーマに描いております。私の石仏は、宗教につながるものではなく、石の肌合い、表情の面白さにひかれているのです。」残念ながら出典はあきらかではありませんが、入江先生の文章です。私が思うに、これは京都・化野の念仏像と思います。1970年と言えば54歳の一番力の籠った時期と思いますが、面白いことに100歳の絵(「ホータンのまちかど」)の方に、力を感じます。それがシルクロードの絵のせいでしょうか。(黒川)

 

 

入江先生の絵は、若い時ほど色彩が暗く、いかにも専門の画家が描いた絵という感じがします。お年をめす程、色彩が明るくなり、素晴らしい「シルクロード」の案内となりました。特に「敦煌飛天」は2図ありますが、最初の(1979年)方が、はるかに現実に近く、私が見た第320窟の思い出に近い色になっていますが、後年(2005年ー入江先生89歳)の方は、思い切って明るく、写実を離れて、色合いも変えて、自由自在に描かれた絵のように思います。全く偶然に「シルクロードの魅力」の言葉に惹かれて拝見し、思いがけない美しさに酔いました。大村智先生(ノーベル生理学賞受賞者、女子美大理事長、韮崎大村美術館館長)は、図録の招介で「入江一子先生の生き方」と題して、次のような文章を寄せられています。「女流画家の大御所の一人である、入江一子先生が、2016年5月に100歳を迎えられました。私は女流画家協会展のオープニングパーティーに毎年招かれて行きます。女子美術大学は、2013年11月に、最初の”女子美栄誉賞”を入江先生に授与させていただきました。(途中略)入江先生の精力的な制作発表はまだまだ続きます。この度の上野の森美術館で開催される”百彩自在”と題した展覧会会場にて、またその美しい色彩が織りなす大作を拝見するのを楽しみにしたいと思います。」

 

(本稿は、図録「入江一子100歳記念展ーシルクロードに魅せられて」をほぼ原文のまま引用させて頂きました。なお、入江一子作の「色彩自在」を改めて読んでみたいとおもいます。もし、先生の展覧会を観る機会がありましたら、今度は自分の言葉で、感想を述べます。また「砂漠の美術館ー永遠なる敦煌  1996」は第320窟を確認するために参照しました)

岩佐又兵衛と源氏絵ー古典への挑戦

岩佐又兵衛(1578~1650)の生い立ちは数奇である。父荒木村重(1535~1586)は摂津国伊丹(現兵庫県)の有岡城主であった。父村重は、織田信長の配下に属して信認あつい戦国武将である。しかし、村重は毛利輝元、石山本願寺の連合に組し信長に反旗をひるがえす。又兵衛が生まれた天正6年の10月のことである。11月、信長は自ら有岡城を攻めを決断し、1年がかりでやっとこれを落とした。だが落城の直前、村重は意外なことに、わずか5,6人を連れて、かれの子・村次がたてこもる尼崎城、次いで花隈城に逃げ込んだ。信長は、村重への残酷な見せしめを行う。天正17年(1587)12月、まず郎党の男女500人あまりが尼崎近くで四つの家に閉じ込められて焼き殺された。ついで荒木一族の者三十余人が、京都へ護送され、六条河原で処刑された。又兵衛はわずか2歳(以下数え)で乳母の手で城から救い出され、京都の本願寺のもとにかくまわれたと後世の「岩佐家譜」は伝える。又兵衛がどのように育ったかは不明であるが、姓も荒木から母方の姓と言われる岩佐に改め、自らの絵の才能を世渡りの術として生きようとした。彼は絵画だけでなく和漢の幅広い教養を身に付けていた。さまざまな絵画の技法を身に付け、和漢のあらゆる主題に貪欲に取り組んだ又兵衛の画域は、実に広い範囲に及んでいる。又兵衛は、京都から北の庄(福井)に移り、約20年間にわたる絵筆を振るい、その後活動の拠点を江戸に移している。今年(2017年)は、又兵衛が江戸へ拠点を移してから380年の記念の年に当たる。今回は、出光美術館で、又兵衛の源氏絵を中心に、広く又兵衛の画業を招介する企画である。(出光美術館 2月5日まで)

重要美術品 四季耕作図屏風 岩佐又兵衛作 紙本墨画淡彩 江戸時代(17世紀)出光美術館

山あいに展開されるのは、移ろう四季に応じた農作業の風景である。右隻の「浸種」にはじまり、「耕」や「灌漑」等をへて、左隻に移る。このひと続きの行程は、室町時代に輸入され、南宋の画家・梁楷(りょうかい)の作と信じられてきた「農耕図巻」の内容を踏襲して描かれている。この屏風絵全体を見ると、当時の又兵衛が操ることができる狩野派の技法と図様のすべてを動員することで出来上がっている。又兵衛晩年の作と考えられている。

重要美術品 職人尽図巻 一巻 岩佐又兵衛作 紙本着色 江戸時代(17世紀)出光美術館

この図巻に収録される場面は、巻頭が童子と戯れる布袋、酒杯を持っている大国、大原女、医師、仏師などさまざまな職人を描いている。背景は殆ど無い。29の場面があるが、それぞれに有機的なつながりがあるわけではない。それぞれに独立した図採集の趣が強い。職人尽の図は広く描かれている。非常に淡白な仕上がりである。この絵の制作は晩年期であると推測される。

重要美術品 在原業平図 一幅 岩佐又兵衛作 紙本淡彩 江戸時代(17世紀)出光美術館

上部に記された「古今和歌集」に収録される在原業平の和歌は「伊勢物語」第八十八段に採用されていることで知られる。左手に弓を握り、緌(おいかけ)と細桜(さいえい)のついた冠に狩衣(かりぎぬ)をまとって立つ業平の図である。本図も歌仙図であるが、いかにも斬新である。この絵は、元和年間(1615~23)から寛永年間(1624~43)のはじめにかけて制作されたと推察されている。福井時代の画業の円熟期を迎えた又兵衛の、秀抜な技量を示す一図である。同時期の作品の中でも秀逸である。

伊勢物語 くたかけ図 一幅 岩佐又兵衛作 紙本着色 江戸時代(17世紀)出光美術館

伊勢物語第14段「くたかけ」の図と見られる。名残惜しそうに女を振り返る男の様子がやや気になるところであるが、女の風采がいあかにも鄙びた様子で捉えられることも物語本文の内容に忠実な描写と言えよう。辻惟雄氏は第53段「遭ひがたき女」の情景を描いたものと説き、「むかし、おとこ、遭ひがたき女にあひて、物がたりするなどするほどに、鶏の鳴きければ{いかでか鶏の鳴覧人知れず思ふ心はまだ夜深きに}の内容を察知」したとする。かって「樽屋屏風」と呼ばれる押絵貼屏風の大六扇目に貼られていた一図である。池田家を離れ屏風装を解かれたあと、大正8年(1919)に日本画家・下村関山が落札したのち、「観山会」で分譲されたものである。

三十六歌仙図 柿本人麻呂 一幅 岩佐又兵衛作 紙本着色 江戸時代(17世紀)出光美術館

大正時代末期には28名の歌仙の姿をおさめた巻子装であったらしい。その後、分断され掛軸に改装された。現在、国内外で20幅ほどが確認されている。各図には歌仙の名とともにそれぞれの代表的な和歌が一首ずつ記されており、書きぶりが一手であると思われる。寛永7年(1640)に仙波東照宮に奉納された扁額と同一の姿を示す。扁額に残された和歌もまた、本図と同じ青連院尊純の揮毫と伝わる。寛永17年(1640)からそれほど隔たらない時期の制作と考えられる。

和漢古事説話図 浮舟岩佐又兵衛作 紙本墨色 江戸時代(17世紀)出光美術館

旧岡山藩主の池田公爵家に伝来した時点では、全十二図からなる巻子装であったが、現在は1図ずつ掛軸に改装されている。12枚の主題のうち、「源氏物語」に取材するものが3図である。須磨巻(第十二帖)、夕霧巻(第三十九帖)、浮舟巻(第五十一帖)の情景をとらえている。浮舟巻においても「これなむ橘の小島」と告げて舟をとめる船頭や、付き従う女房の侍従などの姿をとらえず、説明的な描写を避けながら主役の二人に焦点を絞るあたりに、又兵衛の独自の解釈が光る。

重要美術品 源氏物語 野々宮図 岩佐又兵衛作 紙本墨彩淡彩 江戸時代(17世紀)出光美術館

福井の商家・金屋家に伝わった押絵貼屏風(通称、金谷屏風)には、あらゆる画題をとらえて絵画が納められていたが、明治42年(1909)に展示されたのち、屏風から掛軸に姿を変えて、それぞれの所有者に渡った。中国と日本の主題が無秩序に混在した配列であったらしい。源冶物語は、この野々宮図と官女観菊図(山種美術館)の2図である。源氏物語の賢木(さかき)巻(第十帖)の一場面を、水墨を主体にして描いたものである。源氏絵を細い線のみで描くことは、古くは鎌倉時代にさかのぼるが、その多くは「小絵」である。これほど大きな画面へと転換させたのは、日本絵画史上で又兵衛がはじめてである。周囲に秋草が繁茂する黒木の鳥居の下、たたずんで前方に視線を送る光源氏。晩秋のころ、伊勢下向をひかえたかっての恋人・六条御息所を嵯峨野・野宮に訪ね、これから榊のように変わらない恋募の情を伝えようとするところである。時期を少し前にずらしながら、源氏のみを近接してとらえるという劇的な手法は、まるで見るものがこの場面に立ち会っているかのような、鮮烈な臨場感を生み出している。この絵画の特徴を一言で言えば、漢画すなわち水墨画の画題をそのなかに自在にはさんで、和漢混交の画面を展開させていることである。又兵衛の特徴である「豊頬長顎」(ほうきょうちぉゆい)が、はっきり認められる絵である。又兵衛の北の庄(福井)時代を代表する名作である。

重要文化財 官女観菊図 紙本墨画淡彩 岩佐又兵衛作 江戸時代(17世紀)山種美術館

この絵は、今回の展覧会に出展されていない。図録に参考作品として写真が写っているのみである。しかし、山種美術館で私が見ているので、あえて取り上げてみた。これは福井時代を代表する金谷屏風の一部であり、上掲の野々宮図とともに、金谷屏風に貼られていたものである。牛車から、侍女に御簾を上げさせて菊を観る二人の宮廷女性が描かれている。描線を主体にした緻密なモノクロの画面にふっくらとした頬と頤(おとがい)の「豊頬長頤」(ほうきょうちょうい)と呼ばれる、又兵衛作品に典型的な顔の3人である。もと「金谷屏風」と呼ばれた六曲一双の押絵貼屏風のなかの一つである。福井藩主・結城秀康の二男直正が生まれた時に、豪商・金屋家が「御養育方仰せ被」り、大切に養育したので成長後、金屋家感謝の意を込め、屏風が贈られたという。本作品の箱の中に納められている「勝以画口述伝来書」という書付けが含まれていた。

源氏物語 桐壷・貨狄造船図屏風 伝岩佐又兵衛作 江戸時代(17世紀)出光美術館

中国と日本の古事が、左右の画面に描き別けられる。左隻にとらえられるものは、紀貫之にまつわる伝説とされたが、現在は「源氏物語桐壷巻」が絵画化されたものであるとの解釈されている。階下に立つ束帯姿の男性は貫之ではなく、12歳となった光源氏の元服に際して、加冠の役を務めた左大臣と解される。画面の左側から引き立てられる馬は、かたわらの鷹などとともに桐壷帝から下賜された禄である。この絵を描いたのは、おそらく又兵衛工房絵師が主体となり、寛永年間頃に制作したものだろう。

源氏物語 伝岩佐又兵衛作 紙本金地着色 江戸時代(17世紀)泉屋博古館

金雲によって各画面を六つずつの空間に区切り、「源氏物語」の十二の情景を展開させる。左隻には桐壷(第一帖)、若菜(第五帖)、空蝉(第三帖)、紅葉賀(第七帖)、帚木(第二帖)、末摘花(第六帖)を描いている。物語の叙述に沿うように場面が配置されているわけではないものの、右隻に元服以降の源氏の青年期を描こうとする意識は強い。又兵衛工房の源氏絵の図様に熟知した画家が筆をとったことは疑いない。

 

岩佐又兵衛は、辻惟雄氏の「奇想の系譜」(1970年初版出版)の一番先に紹介された江戸時代の画家である。岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪、歌川国芳の6名の画家が「奇想の系譜」の中で紹介された。初版出版以来約半世紀が経つが、伊藤若冲や曽我蕭白は、今や江戸絵画師のスターの座に上り詰めているが、岩佐又兵衛の知名度は高くない。何故、岩佐又兵衛の評判が高く無いのだろうか?私は、又兵衛の個人展覧会が、東京や京都で開催されないことが大きな原因では無いかと思っている。2016年の夏、福井県立美術館で開催された「岩佐又兵衛展」は、福井藩移住400年に合せて開催されたもので、又兵衛の代表作が的確に選ばれ、記念の年に相応しい展覧会であったそうである。(私は、福井ということもあり、見ていない)新しく国宝に指定された「舟木本・洛中洛外図」や「豊国祭礼図屏風」、「山中常盤物語絵巻」、「上瑠璃物語絵巻」など多彩に渡ったそうである。是非、そうした絵画を揃え、東京か京都で「大岩佐又兵衛展」を開催してもらいたい。恐らく、伊藤若冲に劣らない人気を博する筈である。しかし、今回出光美術館で「岩佐又兵衛と源氏絵ー古典への挑戦」が開催されたことは、大きな出来事であり、岩佐又兵衛の知名度を上げることに大いに貢献するものと思う。「舟木本・洛中洛外図」は、2013年の「京都 洛中洛外図と障壁画の美」で見ているので、「舟木本・洛中洛外図」については、近い内にこのブログで書いてみたいと思う。肝心の「山中常盤物語巻」と「上瑠璃物語絵巻」は熱海のMOA美術館の所蔵品であり、現在MOA美術館は大修理中のため、拝観はかなわないが、今年の2月には開館する予定であるので、展覧次第見学して、御招介したいと思う。また、又兵衛は、かねて「浮世絵又兵衛」とも呼ばれ、浮世絵の元祖とする説もある。例えば「大浮世絵展  2014」の図録の冒頭の「浮世絵前夜」で、次のように記されている。「こうした近世初期風俗画の世界で、豊頬長顎(ほうきょうちょうい)の面貌を反らした容姿の人物像を描いた絵師・岩佐又兵衛の存在を忘れてはならないだろう。近世初期風俗画に登場するモチーフ、最新流行のファッション、新しい演劇の歌舞伎、現世にある楽土の遊里などの描写に「浮世」の思想がうかがえ、浮世絵成立への先駆をなしたと考えられる」。これだけ話題豊富な岩佐又兵衛に美術愛好家の眼が届かない訳がない。是非、大々的な「岩佐又兵衛展」を、東京で実行して頂きたい。

 

(本稿は、図録「岩佐又兵衛と源氏絵  2017年をサンシxy王」、辻惟雄「奇想の系譜」、辻惟雄「岩佐又兵衛 浮世絵をつくった男の謎」、図録「大浮世絵展 2014年」を参照した)