東大寺   お堂(1)

東大寺には、今まで上げた南大門、大仏殿、法華堂、二月堂以外に多数のお堂が有り、中には国宝や重要文化財に指定されているお堂、仏像、彫刻も多い。ここでは御堂の名称で、出来る限り数多くの堂宇と、その中に収められた仏像、彫刻等を記録しておきたい。案外、専門書にも書かれない御堂がある。

重要文化財 四月堂(三昧堂) 寄棟造 本瓦葺  江戸時代(17世紀)

法華堂の西に、東面して建つ3間四方の堂である。現在の堂は延宝9年(1681)の建立であり、延宝再建時は宝形造りであったが、その後元禄16年(1703)に改造されて、現在のような寄棟造になった。「法華経」を読誦(どくじゅ)して犯した罪障を懺悔して、諸仏の前で赦しを乞う「法華三昧」という法会を行ったことから、三昧堂と呼ばれ、古くは普賢堂とも呼ばれたそうである。千手観音像を本尊とし、須弥壇の両脇に阿弥陀仏と薬師如来像を祀る。北側(裏側)に旧本尊の普賢菩薩像を安置している。

重要文化財  千手観音菩薩立像  木造  彩色       平安時代(9世紀)

正しくは十一面千手千眼観音と呼ぶ。この観音には千の手があり、しかも千手の一つ一つに目が付いていることによって一切の衆生の苦しみをその目で見、その手で救って下さるという。一番多いのは、千手を絞って四十二臂としたものである。この像も、四十二臂と四十二目と見られる。(現在、東大寺ミュージアムに安置されている)

重要文化財 普賢菩薩騎象像  木造  彩色     平安時代(9世紀)

四月堂(三昧堂)の旧本尊であり、現在は北側(裏側)に安置されている。普賢菩薩は、文殊の知恵に対し普賢の行願といい、法華の行者あれば常にこれを護念するといい、普賢菩薩はそれを表している。象に載り合掌する姿が多いが、この像は合掌していない。法華三昧の本尊として祀られることが多い。制作は平安時代と考える。

国宝  開山堂 宝形造 本瓦葺  慶長2年(1250)鎌倉時代(13世紀)

二月堂の西にある開山堂は、元来は重源の造営したお堂で、四方に回縁(まわりえん)を備えた1間の小堂であったが、移築し拡張したものである。開山良弁僧正坐像(秘仏)を安置することから良弁堂とも呼ばれる。開山堂は、重源没後の建長2年(1250)に現在地に移された際に外陣を付加して、方3間の堂となった。小堂ではあるが、純大仏様式の建築として、東大寺再建時の数少ない貴重な遺構である。

国宝  良弁僧正坐像  木造 像高92.4cm  平安時代

等身大の堂々とした檜の一木造りの坐像である。開山堂内陣の六角の厨子に祀られている。右手に生前愛用と伝える如意を構える。壮年期の良弁の風貌を写したと言われる。開山堂に安置され、秘仏であるが、12月16日の良弁忌に特別開扉される。なお同じ日に、法華堂の秘仏「執金剛神立像」も開扉されるので、覚えておくと2つの秘仏を拝める。

手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)入母屋造 本瓦 江戸時代(17世紀)

法華堂の南に建つ建物である。もとは東大寺鎮守八幡宮といい、宇佐神宮(大分県)の宇左八幡宮大上(おおかみ)を勧請(かんじょう)して建てられた。八幡宮は、東大寺大仏の建立について託宣を下したことで、天平勝宝元年(749)東大寺に勧請され、それとともに神仏習合によって八幡大菩薩となり、仏教寺院の鎮護神として広まった。興福寺が、神仏習合で、非難され、五重塔が焼かれるような運命に遭ったが、さすがに東大寺には、時代の荒波も押し寄せなかったようである。現在の本殿は、公慶上人により元禄4年(1692)に再建された。

重要文化財 大湯屋 正面入母屋造 背面切妻造 本瓦葺 室町時代(15世紀)

大仏殿の北に当たり、鐘楼のある岡の北の谷間に建つ。当初の建物は治承4年(1180)の兵火で焼け、重源により再建された。以後、幾度かの建て替えや修理を経て、昭和の解体により、15世紀初めの応永年間修理の時の姿に復元された。大仏様と禅宗様を混用し、東大寺の伝統と斬新なデザイン感覚を見せる建物で、中世の沐浴の様子を伝える貴重な遺構である。

 

東大寺には、正倉院とか転害門(てがいもん)とか、様々な御堂が建っている。今回は四月堂、開山堂、手向山八幡宮、大湯屋など法華堂に近いお堂を招介したが、次回以降は、お堂(2)や遺跡などについて稿を改めて紹介したい。

 

(本稿は、ビジュアル文庫「東大寺」、図録「東大寺大仏 天平の至宝 2010年」、原色日本の美術全30巻のうち「第3巻 奈良の寺院と天平彫刻」、「第9巻中世寺院と鎌倉彫刻」、探訪日本の古寺第12巻「奈良Ⅲ」を参照した)

東大寺   戒壇院

栄耀(えいよう)と普照(ふしょう)、二人の僧が、授戒の師を求めて入唐(にっとう)したのが、天平5年(733)である。その9年後、二人は慶州大明寺(だいみょうじ)に鑑真を訪ねて授戒師の渡航を懇願した。鑑真は日本への渡航を志して12年、5度にわたる挫折を経験して、天平勝宝5年(753)に日本の土を踏んだ。翌年(754)2月に平城京に入り、4月には大仏殿前に戒壇を築き、聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇らに正式な綬戒を行った。後に建立された下野国薬師寺、筑紫国観世音寺の戒壇とともに「三戒壇」と呼ばれ、東大寺の戒壇院は、官僚の養成所として重きをなした。戒壇院の建立は東大寺要録によれば、天平勝宝7歳(755)である。この戒壇院は、東大寺境内の西方に建てられているが、大仏殿前に築いた戒壇との関係について不審に思っていたが、今回精査することにより、全く別途のものであることが判明した。大仏殿前には、灯籠があったので、多分、大仏殿前の右か左の広場(現在の回廊の中)であったと思う。戒壇院の創建は、天平勝宝7歳(755)であるが、兵火などにより3回も焼失した。現在の戒壇院は、江戸中期の享保17年(1732)に再建されたものである。

戒壇院の入口                    江戸時代(18世紀)

戒壇院には、東大寺要録によれば、講堂、三面僧坊などがあったことが知られているが、現在は千手堂が付属するのみである。現在の戒壇院は、やや丘のように盛り上がった地であり、階段を上がると四脚門がある。大仏殿には、年間数百万人の観光客が来るが、戒壇院まで来る人はその5%にも満たないそうである。確かに、私が戒壇院を訪れても、殆ど見物客を見ない。

戒壇院建物                   江戸時代(18世紀)

四脚門を入った戒壇院は本瓦葺きで、正面に広い光背が付いている。

戒壇院建物を取り囲む白い庭

戒壇院を取り囲む庭は、白く清められている。とても気分が爽快になり、改まった気持ちになる。

戒壇院内部

中央に多宝塔、2段目に四天王像を安置している。戒壇院内には、多宝塔を中心に、剣を握る持国天、戟を持つ増長天、右手で宝塔を捧げる多聞天、筆と巻子を両の手にした広目天が安置され、四周を守護している。この四天王像は、私は天平彫刻の最高傑作であると思う。全身に彩色紋の痕があって、造立当時の華麗さをしのばせる。創建当初の戒壇院には銅像の四天王像が祀られていたが、平家の戦火で焼かれ、現在の塑の像は、江戸時代の享保17年(1732)に戒壇院が再興された時、中門堂にあった四天王の古像をここへ移したものであるとされる。(私は、一番昔は法華堂内に安置されていたと考えている)

国宝  持国天像  塑像彩色  像高 163.6cm  奈良時代(8世紀)

東南に位置し、かれのみが兜をかむり、手には剣をとって、足はしっかりと邪鬼を踏む。また、目はしっかりとみひらき、口はぎゅっとへの字に結んで、像身全体に断固たる意志力がこめられている。

国宝  増長天像  塑像彩色  像高 163.6cm  奈良時代(8世紀)

西南隅に立ち、右手に矛をつき、左手を腰にあて、大喝しながら厳しく相手に迫ろうとする姿である。このように持国天と増長天には、ともに仏敵破㳃の積極的なはたらきが示されている。

国宝  広目天像  塑像彩色  像高 163.3cm  奈良時代(8世紀)

広目天は筆と経巻を持ち、よく儀軌に従っている。私は、高校2年生の時に、京都大学を出た若い英語の教師に、この写真を示され「どうです。いいでしょう。怒りが内にこもっているところが素晴らしいでしょう」と説明されたことがあった。ひょっとしたら、この先生の影響で、大学時代に大和古寺巡礼の旅を思い立ったかも知れない。17歳の高校生に与えた影響は実に大きいと思う。そのせいか、四天王像の中では、この広目天が一番好きである。

国宝  多聞天像  塑像彩色  像高 162.4cm  奈良時代(8世紀)

東北隅に立つ。宝塔を捧げるところは儀軌にしたがっている。この広目天、多聞天の二像の形状は非常に静的であり、顔の表情もほとんど怒りをおもてに表さず、細くあけられた目の奥で、視線はなにか永遠なものへ向かってじっと見据えられている。しかしその知的な瞳は、前に立ついかなる者の心中を鋭く見通してあやまりなく、もしも邪悪な心の者があれば、この像の喝破を受けておのずから悔いあらためざるをえないものであろう。広目・多門の二天に現されているものは、仏の静かな叡智がうちに秘める偉大な力である。

 

様々な思い出を持つ四天王像は、私に何時も大きな喜びを与えてくれる。これほど、激しくて、静かな四天王像は見たことがない。仏敵の降伏をちかう四天王の姿勢にも、内面的なものと外面的なものとの二態があることは、この戒壇院の像によく具現化されているわけである。この四天王の制作者は、これが群像表現の上に動と静のみごとな対称として芸術化したものである。

 

(本稿は、図録「東大寺大仏ー天平の至宝  2010年」、ビジュアル文庫「東大寺」、探訪日本ンお古寺全15巻の内「奈良Ⅲ」、田中英道「日本美術史全史」、原色日本の美術全30巻の内「第3巻 奈良の寺院と天平彫刻」を参照した)

江戸と北京  18世紀の都市と暮らし

18世紀には江戸の人口は100万人を超え、都市として発達を遂げていたが、北京も清朝の首都として最も繁栄を極めた時代であった。日本と中国には文化交流の長い歴史があり、江戸時代の「鎖国下」においても中国貿易は公認され、長崎を窓口として、文物の交流は続いていた。この展覧会は、18世紀を中心にしたそれぞれの都市の成り立ちや人々の暮らしを比較展観する企画である。私の興味は、ベルリン国立博物館から出品された「熙代勝覧」(きだいしょうらん)を観ることである。この作品は、このブログで書いた「お江戸散歩」の中で、摸作品が三越日本橋店の地下1階の地下鉄沿いに展覧していることに発する。どうしても本物を見たい、しかし、今更この作品だけを見るためにドイツまで出かける体力が無い、時間はあるが経済力が乏しいと考えていたところ、江戸東京博物館で、この「熙代勝覧」と、併せて故宮博物院から乾隆帝80歳の式典を色鮮やかに描いた「乾隆八旬万寿経典図巻」が国外において初公開となり、北京の賑わいと華やかさを伝えると、同時に康熙帝60歳を祝う「万寿盛典」も同時公開されると聞いて何が何でも拝観したと思ったのである。従って、この3図については、出来る限り詳しく調べるが、他の項については、手抜きすることにして1回で書き終わるようにした。なお、日本の美術品は江戸東京博物館の、北京は首都博物館(在北京)の所蔵品であり、例外として故宮博物院とベルリン国立アジア美術館の所蔵品が各1点あるのみである。

乾隆八旬万寿経典図巻(けんりゅうはちじゅんまんじゆきょうてんずかん)清時代故宮博物院

皇帝の誕生日を祝日にしたのは、唐代の玄宗皇帝が初めとされ、千秋節と呼ばれていた。清代では万寿節と称し、元旦、冬至と並ぶ宮廷の三大祝典と定められた。人生の節目とされる60歳、70歳、80歳の祝いはひときわ盛大で、中でも康熙52年(1713)の康熙帝60歳の祝賀は最も華やかであり、文献や絵巻に記録されている。康熙帝の孫である乾隆帝は、80歳を迎えた乾隆55年(1790)は祖父にならった豪華な式典を挙行した。その記録図が、この図巻である。園林の離宮から西直門を経て北京に入り、紫禁城正華門に至る行列を左から右に向けて展開させ、沿道に設けられた舞台や様々な飾り物、行列の見物に訪れた人々を鮮やかに描いている、上下両巻で計130メートル余りとなる。

万寿盛典(まんじゅせいてん)全120巻、康熙56年(1717年)刊清時代

「万寿盛典」は、康熙帝の60歳の誕生祝賀行事を記録した書物で、その巻41,42は図版である。掲載された148枚の図は、つなぎ合わせると一続きの絵になり、長さ50メートル余りにもなる。康熙帝が西郊の離宮・暢春園(ようしゅんえん)から内城にあたる紫禁城に戻るまでの行列と、沿道を彩る装飾や多種の演劇舞台など華やかな慶祝の様子が、忠実に描写され、見物に集まった人々も描かれている。この図面の場合は、左から、店舗、菓子屋、仏具店、香料店、八百屋、仕立屋、煉瓦屋、薬屋、が並んでいる。北京の繁栄の様が見える。この図の構成に注目が集まり、「熙代勝覧」の作成の下絵に参考とされた可能性が高い。

「熙代勝覧」(きだいしょうらん)作者不詳 江戸時代(18世紀)ベルリン国立アジア美術館

東海道の出発点である日本橋と、遥かに富士山を望む、浮世絵の世界である。

日本橋通りの三井越後屋の前である。江戸店(えどだな)でも随一の呉服商である。三井家の越後屋で立看板には「現銀無掛直」(げんきんかけねなし)とある。

神田今川橋から日本橋までの日本橋通りにおける、商家が続く街並みと人々で賑わう様子を詳細に描いている。回向院再建の勧進箱と記される文字から、文化2年(1805年)に描かれたと推察される。文化3年(1806年)の大火で当該地域は焼失しており、それ以前の18世紀後半における日本橋風景が想起される。なお「熙代勝覧」とは「輝ける御世の優れたる景観」の解釈がある。図の中には1700人近い人々や犬、猫などが登場している。この絵はⅠ3年振りの里帰りであり、絶好の機会に見ることができた。全長12メートルの長巻である。図録の末尾に江里口友子氏の”「熙代勝覧」と「万寿盛典」”と題する論文が掲載されており、興味深い見解が述べられているので、最後に紹介したい。

漢装婦嬰図(赤子を抱く漢族の女性)  清時代(18世紀)

北京では、子供が生まれて三日目に来客を迎えて宴席を開き、そして初めて産湯に浸からせる「洗三」(せんさん)や、最初の誕生日に書籍や筆、算盤など様々な品を子供の前に並べ、そこから何を手に取るかで子供の将来を占うという儀礼が行われる。漢族の服装をした女性が、頭頂部で髪を結んだ赤子を抱きかかえる所を描いた絵である。(育てる)

婦女一代鑑 喰初めの図  天保14年(1843) 歌川國定(初代)

子供が生まれて100~120日目には、生涯食べることに困らないようにという親の願いを込めて、小さな祝い膳を用意して食事の真似事をさせる「お喰い染め」が行われた。本資料はこの様子を描いたもので、右上には解説も付されている。なお、愛知・岐阜県では、この「お喰い染め」の習慣は、現在も残っている。(育てる)

過年新都(正月用吉祥画)   清時代(18世紀)     (歳時)

18世紀の北京では、満州族や漢族のほか蒙古、チベット、イスラム系民族など多くの民族が集住し、異文化の受容と融合が進み、より多彩で特徴的な風習が育った。この絵は、新年を祝うために、門口や屋内の壁に飾られる版画で、門神とともに年越しの必需品であった。明代以降、木版印刷によって大量生産されるようになり、鮮やかに彩色した木版年画も多く作られた。福寿や富貴を祈願する画、神話伝説・民間故事など見て楽しむ画、さらに子女を教育する画など幅広い題材を取り扱って、富裕層から庶民まで親しまれた。本資料には大晦日に家族団欒で、神や先祖を拝んだり、餃子を作ったりして愉しむ様子が描かれている。

「十二ケ月絵巻」正月の風景  英一峰作   江戸中期   (歳時)

十二ケ月の行事と風景を描いた絵巻のうち正月の場面である。画面左上の門には角松と正月飾りが備えられ、その横に裃を付けた男性が立つ。彼はおそらく年礼(年始の挨拶)に訪れたとみえ、お供の人物から年賀の品である年玉を手渡されている。左下には、正月の遊びに興じる子供達も描かれている。

天中五毒献瑞図(端午の節句に掛ける絵)  新時代(18世紀)  (歳時)

「天中」とは端午の節句のことで、五毒はその時期に活発になり、毒を持つとされるサソリ、蛇、ムカデ、ガマ、ヤモリの五種の生き物を指す。中心には五毒を避ける力がある虎が描かれており、端午の節句には厄除けのためにこうした絵を掛けた。また絵の中には五毒以外に、様々な旬の果物も描かれている。

五毒肚兜(端午の節句用腹掛け)  清時代         (歳時)

黒地に花、真中に虎、そしてその周りにサソリ、蛇、ムカデ、ガマ、ヤモリの五毒が刺繍された子供用の腹掛けである。5月になると活発になる五毒に対抗するため、子供にはこうした刺繍の施された腹掛けを着せた。

「江戸名所百景」水道橋駿河台  歌川広重作  安政4年(1857)

歌川広重は人気絶頂の浮世絵師であり、北斎を凌ぐ人気を博していた。五月五日の端午の節句は、男児の節句であるという考え方で、武家社会であった江戸時代には特に尊ばれた。この日は邪を払うとされる菖蒲や蓬を身に付けたり、屋根に掛けたりしたほか、酒に菖蒲をいれて菖蒲酒も飲まれた。現代では、菖蒲をお風呂に入れる習慣として残っている。鯉登りを庭先に立てて、子供の立身出世を願った。

 

いろんな歳時は、中国からわが国に輸入され、同じ歳時が、夫々独得に発達したのである。さて、「熙代勝覧」について、図録の巻末に江里口友子氏の”似てて、違って、おもしろい。「熙代勝覧」と「万寿盛典」”という優れた論文があるので、出来るだけ簡潔に触れたい。巻頭の題字「熙代勝覧」は書家・佐野東州の揮毫で、「熙(かがや)ける御代の優れたる景観」と解される。「万寿盛典」は、清朝の全盛期の基礎を築いた康熙帝(こうきてい)の60歳を祝し、帝の詩文や事績、祝賀行事などを詳細に記録した書籍で、康熙56年(1717年)に刊行された。全120巻のうち巻41,42は帝の行列と沿道の祝賀の様子を描いた版画であり、延べ50メートル余の絵巻になる。「熙代勝覧」には落款がなく、絵師は不明である。候補として、巻頭の題字を書いた佐野東州の娘婿が山東供山であったことなどから、その兄の戯作者で絵師でもあった山東京殿(さんとうきょうでん)の説、また絵の作風から勝川春英の説があるが、確定には至っていない。山東京伝は考証学者の一面も持ち、江戸の街頭風景を画文で表した「四季の交加(こうが)」を出版していることから企画者としても考えられている。特に「四季の交加」には「熙代勝覧」と類似する構図が幾つかあることが知られている。「万寿盛典」を参考にした場合、「熙代勝覧」の絵師が実見する機会はあったのであろうか。絵師ではないが、山東京伝の周辺で「万寿盛典」を実見した可能性が高い人物がいる。戯作者で狂歌師の太田南畝(おおたなんぽ)である。南畝は1794年、学問吟味でお目見得以下の主席になり、1801年1月に大阪銅座御用の命を受け、1801年3月11日から1802年3月21日までの約1年間、大阪南本町五丁目の宿舎に滞在していた。その際、「唐土名所図会」の企画者である木村兼葭堂(けんかどう)と頻繁に往来し、1801年6月から翌年1月の間に数回面会したことが「兼葭堂日記」に記されている。兼葭堂は書斎名で、大阪北堀江で酒造業を営んでいた。本草学・物産学を学び、絵画・詩文に長じて様々な器物や書籍類を収集し、出版も行う多芸多才な人物であった。彼のコレクションと知識の広さは、全国に知れ渡り、各地から情報取集や蔵書閲覧を求めて多くの者が集まった。(伊藤若冲も木村兼葭堂と旧知の間柄であった)2万巻に及ぶ蔵書は、1802年に没すると、蔵書の多くは幕府の命により、翌年、下賜金と引き換えに昌平坂学問所に収められた。大田南畝が兼葭堂から情報を得て「唐土名勝図会」編集に用いられていた「万寿盛典」を閲覧した可能性は高い。ところが、その頃、新たな「万寿盛典」の入荷があった。その情報は、南畝の記録に見られる。南畝は1804年から2年間、長崎奉行所の配下として長崎に勤務する。彼は長崎で見聞した唐船の書籍や海外からの新奇な情報、様々な書画などを自著の「瓊蒲又綴」(けいほゆうてつ)等に記録している。「瓊蒲雑綴 巻上」には、1805年1月24日から31日頃の間に清から長崎に入港した中国船の積荷書籍中に「万寿盛典初集」があったこと記されている。南畝が入手することは不可能であっただろう。南畝が連絡して入手させた可能性も想定できる。積み荷の到着した文化2年(1805)1月下旬からほどなく、「熙代勝覧」制作の関係者が「万寿盛典」を入手したと仮定した場合、絵巻の作業工程から判断して「熙代勝覧」の完成は早くても文化3年(1806)以降と推察される。「熙代勝覧」の駿河台町の場面には、回向院本堂再建勧進者の後に付き従っている男性の担ぐ木箱に「文化二年」の銘が記されている。文化3年(1806)3月4日の大火(丙寅大火)で焼失した江戸の街に対するオマージュを込めて、繁栄していた焼失前の姿であることを暗に示すために、この紀念銘は書き込まれたとも考えられる。この文化二年の書き込みから判断して、少なくとも下絵の準備は文化2年(1805)になされており、完成への実際の作画は多少遅れてたとの指摘もある。想像を逞しくすることが許されるならば、「熙代勝覧」の構想を結実させることが出来た大きな要素である「万寿盛典」を、発注者が入手した記念すべき年、あるいは構想が調った年を記したものとは考えられまいか。「熙代勝覧」には、徳川幕府の治世と江戸の繁栄を紀念し、かつ祈念する意も込められて、「熙代」の文字が用いられたに相違ない。このように、それぞれの都市の18世紀の繁栄を描きとどめた「熙代勝覧」と「万寿盛典」は、様々な情報を未来の私たちに伝え、その輝きは未だに精彩を放ち続けている。

さて、私は「お江戸散歩」で思いがけない絵巻「熙代勝覧」に出会い、何とか「本物」を拝見したいと考え続け、思い続けたが、今回、予想外に「熙代勝覧」と「万寿盛典」に接することができ、この半年間思い続けた夢が適った。ただし、「江戸と北京」という展覧会の紹介はかなり省略したことになったが、何分にも「熙代勝覧」を詳しく知りたいとの思いが、すべてを決し、最後には江里口友子さんの論文の要領をまるきり写した感じのまとめとなったが、お許しを戴きたい。

 

(本稿は、図録「江戸と北京 18世紀の都市と暮らし 2017年」、伊藤康広「伊籐若冲」、日本橋保存会「熙代勝覧  パンフレット」を参照しした)

 

 

 

春日大社  千年の至宝(2)

本殿が創建されてしばらくののち、長岡京、平安京と都が遷り、大和の地は古都(南都)として認識されるようになった。しかし、春日大社は藤原氏の氏神としてこの一門の崇敬を受け、ますます発展を遂げた。当時は数日かけてのお参りで、こうした春日への社参は「春日詣」(かすがもうで)と呼ばれ、他の社寺への参詣と一線を画す特別な機会とされてきた。春日を氏神として祀る藤原氏の春日詣は数知れず、有名な事例としては、藤原道長の「御堂関白記」(みどうかんぱくき)に見られるように、藤原氏の氏の長者たる摂関家の当主は生涯において何度も春日詣をしたが、これは自らの地位を内外に知らしめる重要な機会であった。春日詣は藤原氏のみならず天皇や上皇によっても行われた。春日大社は藤原氏の氏神から、国を守護する神として改めて認知されていくのである。

春日宮曼荼羅 二条師忠作(一説)鎌倉時代(13世紀)奈良・南市町自治会

春日曼荼羅のなかには、神と仏が一体であるとする本地垂迹思想に基づき、本社、若宮の本地仏を描く作例が多く見られる。その対応関係は第一殿・釈迦如来、第二殿・薬師如来、第三殿・地蔵菩薩、第四殿・十一面観音、若宮・文殊菩薩である。本図は大幅の一枚絹に描かれた、春日曼荼羅中最大規模をほこる作例である。一の鳥居を起点として金色の参道が通り、左手に東西両塔を見て、参詣の道筋が良く描かれている。画面上部には三蓋山、春日山、若草山が配列さえれている。この山並みに本地仏が、五体配列されているが、これは珍しい特徴である。慶長19年(1614)には、南市の春日講本尊であったことが確認されるが、制作者は二条師忠との説がある。

春日浄土曼荼羅  鎌倉時代(13世紀)  奈良・能満院

画面下部に二乃鳥居以東の春日社殿を、上部に本地仏とその浄土を截金(きりかね)を使用して壮麗に描き出した優品である。春日の神域が仏国土であることを直接的に視覚化したもので、中央に第一殿本地釈迦如来の霊山浄土等を表したものである。

重要文化財 四方殿舎利厨子  室町時代(15世紀) 奈良・能満院

木製、基壇・軸部・屋蓋から成る宮殿(くでん)形厨子である。総体を黒漆塗りし要所に朱漆と彩色を施す。軸部四方の扉奥には、春日神鹿御正体・三面火焔宝珠・大般若経宝幢・五輪塔形の金堂金具を装着し、仏舎利や木彫仏を納めた板をはめている。各種の舎利信仰の意匠を凝らし、精緻な技術を用いた、集大成ともいうべき作品である。この厨子に関して、興福寺大乗院第27代門主である尋尊(じんそん)の記録「大乗院侍者雑事記」に見える。各部分の作者も明らかである。

鹿座仏舎利  慶安5年(1652) 江戸時代(17世紀) 春日大社

白雲に坐した鹿の鞍の上には榊が立ち、その葉叢には円相の舎利容器を安置している。鹿が見にまとっているのは通常は馬につける鞍の皆具(かいぐ)であり、これを装具した鹿に榊という組み合わせは、一連の鹿曼荼羅と共通するものである。他にも鹿の足元の白雲、榊にからむ藤、その枝先に垂れる御幣(ごへい)、榊の根元に巻き付けられた布、外容器に描かれた日輪のさし昇る春日山など、通常鹿曼荼羅図に描き込まれる要素のほとんどが、集められている。外函の添状により、慶安5年(1652)に興福寺の僧侶から、金剛経とともに若宮へ奉納されたことがわかる。

春日権現記絵(春日一巻本) 伝冷泉為恭筆 絹本着色 江戸時代(19世紀)春日大社

春日信仰の一つの集大成が、鎌倉時代後期に成立した「春日権現記」(かすがごんげんき)である。春日の神々への信仰は、多くの美術を生み出してきたのである。この絵は、春日権現記の一部であり、二乃鳥居を経て南門に至る社頭の風景である。小浜藩主酒井忠義(さかいただあき)が冷泉為恭(れいぜいためちか)に春日権現記の一部を写させ、「寄贈」されたものだという。

競馬衝立(部分) 文久3年(1683) 江戸時代(17世紀)春日大社

春日社の式年造替に際して新調される衝立で、文久3年(1683)の式年造替時に調進され、若宮社に置かれたものと考えられる。神事としての競馬が、表裏両面に描かれる。故実にならい、騎手の衣装の色を赤と青に分けて戦う。片面には視線を交わし出走の間合いをはかる騎手たちの図である。相撲で言えば立ち合いの場面である。古くより宮中行事として行われていた競馬を描く衝立である。

獅子・狛犬(第一殿) 木造・彩色  鎌倉時代(13世紀) 春日大社

   

神社や寺院の入口の左右に置かれ、普通には狛犬と呼ばれるが、頭頂に角があるのが狛犬、無いのが獅子である。奈良時代までは獅子一対であったが、平安時代以降は獅子と狛犬の一対であることが多い。春日大社の第一殿の前に置かれていた。外気に触れる環境に長年置かれていたため破損も多く、第60回次造替時に本殿を離れて保存されるようになった。この2躯が、最も優れ、制作時期が古いと考えられる。ずんぐりとして、筋肉の起伏をみせる体つきは鎌倉時代の特徴である。

春日大社にまつわる宝物は多々あるが、ここで選んだ宝物は、特に私が好んだ物である。なお、武具、鎧など是非紹介したい物も多いが、2016年11月に、私は春日大社に参詣し、併せて「新宝物館」も拝観しているので、後日、そこで拝観した武具、鎧等を招介したい。

(本稿は、図録「春日大社 千年の至宝」、図録「平安の正倉院 春日大社の神々の秘宝 2012年」、現色日本の美術「第16巻 神社と霊廟」を参照した)

春日大社   千年の至宝(1)

春日大社は藤原氏の氏神として、神護景雲2年(768)に社殿が建てられて以来、千二百年余りにわたって続く神社である。約20年毎に神社御殿を造り替えを行い、これを式年造替(しきねんぞうたい)と呼び、昨年(2016年)に第六十次式年造替を行った。春日大社は国宝352点、重要文化財971点と国宝4棟、重要文化財27棟の建造物を所有し、神社の中でも屈指の文化財を保有している。春日大社は、南都焼打ち(1180)や松永久秀と三好三人衆との戦い(1567)等の影響を受けることも無く、神域の森に守られ、本殿や宝庫が焼けることも無かった。平安時代最高の工芸品は春日大社にのみ残っているものが多数あり、春日大社は「平安の正倉院」とも呼ばれている。今回の展覧会では、春日大社の宝物を集め、全国に散在する春日信仰の宝物も出品されて、約1300年の春日信仰を拝観できる機会となった。今回の展覧会では、展示品は250点に及び、展覧会の入場者も極めて多く、若い人も多数参観するという珍しい展覧会であった。春日大社は五殿から成り立っている。最初に四殿が出来、平安時代の末頃(1135)に若宮殿が創建された。元来、藤原氏の氏神であったが、天皇の母君である皇后の氏神であり関白の氏神であるため、春日大社は国家鎮護の神社になり、皇室、関白等の参詣が相次ぎ、都が長岡、平安京へと遷り、数日かけてのお詣りとなり、「春日詣」(かすがもうで)と呼ばれるようになった。今回の展覧会では、「小右記」、「御堂関白日記」、「栄花物語」、「台記」等、第一級の歴史的書物が展示され、それを見るだけでも価値がある展覧会である。(東京国立博物館3月12日まで)

鹿島立神陰図  二条英印作   永徳3年(1383) 南北朝時代 春日大社

奈良時代の初め、春日社第一殿の祭神であるタケミカズチノミコトは常陸国(ひたちのくに)鹿島(かしま)から御蓋山(みかさやま)の山頂に降臨したとされる。鹿島からの道行き、命(みこと)は鹿の背に乗り、春日の「杜」(もり)へと降り立ったという。このことから春日大社では鹿は神の使い、すなわち「神鹿」(しんろく)として神聖視され、今も奈良公園に遊ぶ鹿たちは、「命」を乗せた「神鹿」の子孫とされる。霞で隔てた画面上上段の御蓋山、春日山と月輪、鹿に乗る「命」とそれに従う老壮と壮年の二人、金色の円相、藤原氏を象徴する藤がからむ榊と枝先で揺らぐ五筋の紙垂(しで)など、ほぼ同じような画面構成である。画中に描かれる情報を絞り込むことで、礼拝画的な要素を強く押し出した画像である。礼拝の対称となった神鹿の姿は、日常的に春日に社参できない都の人々の礼拝画として作られたものが多い。

国宝 本宮御料古神宝類 黒漆平文根古志形鏡台 平安時代(12世紀)春日大社

木を掘(こ)じた(堀り起した)ような形からその名がある。「古事記」には天照大御神が天石屋戸に籠ったときに、諸神が天香久山に生える榊を根こじに掘って、上枝に勾玉の玉飾りを付け、中枝にヤタノカガミを懸け、下枝には和幣(こぎて)を垂らしたという記事がある。このような習俗が根古志形鏡台の形式に及んだものと思われる。本宮御料とは、昭和5年(1930)の造替に際して「轍下」(てっか)されたもので、これを契機として昭和10年(1935)に建てられた宝物館に収められたもので、今につながる春日大社の宝物護持の考え方につながる。

国宝 本宮御料古神宝類 紫檀螺鈿飾剣     平安時代(11世紀)春日大社

この刀剣は装飾を略した儀仗太刀(ぎじようたち)の数少ない古代の作例である。飾剣が朝議に参列する際に用いられたのに対し、これは「飾剣代」(かざりけんだい)として通常の行事で廃用された刀剣である。本作品では、平安時代後期における高度に発達した装飾表現と、上古より刀装・刀剣の伝統の結実をうかがうことができる。

国宝 若宮御料古神宝類 金鶴及び銀樹枝   平安時代(12世紀) 春日大社

春日大社若宮殿には金銀製の鶴や樹枝の造物(つくりもの)が伝わる。鶴は金の板を打ち出して作った背部と腹部を合わせて別製の足を指し込む構造である。樹枝は銀板を丸めて作っている。州浜台などに立てたらしく、亀なども付属していたと推察できる。恐らくは蓬莱山をかたどった造物であったと考えられる。なお、若宮御料とは若宮神社から「轍下」された宝物の意味である。

重要文化財  秋草蒔絵手箱      平安時代(12世紀)   春日大社

長方形合口造(あいぐちつくり)の手箱で内部に懸子が付き鏡・蒔絵鏡箱・蒔絵白粉箱・白磁合子などが納められている。表面の意匠は、厚い平目地に薄肉金高蒔絵を駆使して、萩・菊・桔梗・薄・女郎花などの秋草が風に靡く様子が表されている。本手箱は内用品が伴っている点が貴重である。

国宝 本宮御料古神宝類 蒔絵琴  平安時代(12世紀) 春日大社

甲面を研出(とぎだし)蒔絵で装飾した13弦の箏で、金、銀に加え銅粉を蒔くのが珍しく、内蒔や蒔暈(まきぼかし)などの技法も用いた平安蒔絵の再興傑作として知られる。周囲に飾られた宝相華文の螺鈿は多くが剥落しているが、花芯に琥珀を飾り、優美で力強く毛彫を加えた高度なもので、当初の華麗な姿を偲ばせる。

 

(1)では、神鹿及び古神宝類をまとめた。神宝とは祭神の御料、つまり神々の使用される物として奉納された宝物をいう。式年造替の場合、神宝類はその都度新調され、その際に役目を終えた旧神宝を社家などに下す「撤下」(てっか)という習わしがあり、この撤下された神宝を「古神宝」と呼んでいる。春日大社に伝わる古神宝は、本社に奉納された「本宮御料古神宝」と若宮(わかみや)に奉納された「若宮御料古神宝」の二つに大別される。古神宝は、平安時代における工芸技術の水準の高さを示している。「平安の正倉院」とも呼ばれる所以である。

 

(本稿は、図録「春日大社  千年の至宝  2017」、図録「春日大社の神々の秘宝 2012年」、原色日本の美術全30巻のうち「第16巻 神社と霊廟」を参照した)