東大寺  東塔(七重塔)の再建計画

東大寺の東塔の跡を遺跡として紹介したが、実は東大寺では、東塔(場合によっては西塔も)の再建の意図の下、発掘調査をしていたのである。東大寺第220世管長の北河原公慶師は、ビジュアル文庫「東大寺」の中で、次のように述べている。「私は別当就任(2010年5月)に際し、在任中に行うべきいくつかの計画を立てました。ひとつは、進行中の「東大寺総合文化センター」に関連することです。(これは東大寺ミュージアムで完成した)もうひとつが東大寺東塔の再建です。これは私が以前から考えていたことです。かって東大寺には、東西の七重塔が建っていました。ともに基壇跡は残っていますが、西塔の近くには民家が立ち並んでいますので、再建可能なのは東の塔です。これから地中探査などを行い、実際にどのような塔が建つていたのかなどをまず検討しなければなりません、七重塔という記録こそありますが、高さは何メートルなのか、伝えられているように、本当に100メートルもあったのか。搭の形も、中国の影響を受けた六角形、もしくは八角形かもしれません。分からないことばかりですので、私の在任中に完成することはないでしぉう。けれど、私の発案が再建の第一歩になればそれでいいのです。」

奈良時代の東大寺の復元された模型  1/50    東大寺蔵

奈良時代、聖務天皇によって創建された総国分寺の東大寺には、東塔と西塔という七重塔が並び立つていた。東大寺の記録によれば、東西両塔の高さは33丈(約100メートル)と23丈(約70メートル)とする2種類の記述が存在している。現在の大仏殿の高さは46.1mだから、そのほぼ2倍の高さの塔が、2基も建っていたことになる。この模型でも、東西両塔の高さが窺い知れる。

国宝  俊乗坊重源像               鎌倉時代(13世紀)

東塔院(搭の周りは四角形の壁で囲まれ、東塔院、西塔院と称されていた)は、天平宝字8歳(764)ごろに西塔院と併せて建設されたが、平重衡の南都焼打ちで大仏殿や南大門などと共に焼失した。時の朝廷には再興する力はなく、資金や材料の調達、造営事業の差配のほとんどが俊乗坊重源(1121~1206)上人に任された。重源は宋に三度渡ったといい、建築技術に詳しく、経営能力も優れていたようである。西日本各地に勧進の拠点を設け、広く寄付を募ると共に、鎌倉幕府を開いた源頼朝の支援を得た。大仏の鋳造には中国の工人陳那郷(ちんなけい)らの協力を仰ぎ、大仏殿、南大門には大仏様と呼ばれる新しい建築様式を採用するなど中国留学の経験えお生かした。大仏、大仏殿、南大門、東西両塔をはじめ多くの堂と仏像を復興した功績は驚異的である。文治元年(1185)には大仏の開眼供養に漕ぎ着けた。重源は大仏殿の再建に取り掛かり、源頼朝が最大の支援者となって再建が進められた。建久6年(1195)の落慶供養には、源頼朝と北条政子も臨席している。元久元年(1204)に最後に着手したのが東塔院だった。その2年後の建永元年(1206)、重源は86歳で入滅した。東塔院は、栄西(ようさい)、行勇(ぎょうゆう)という勧進職に引き渡され、重源の死後20年以上たった嘉禄3年(1227)頃に完成したと見られる。しかし、康安2年(1362)、落雷で再び焼失してしまった。東塔院には現在、土の基壇が残って、礎石は近年すべて持ち去られた。

東塔院の発掘調査(GRPの図面)

平成22年(2010)4月に、東塔の再建を打ち出した東大寺と、奈良文化財研究所と奈良県立橿原考古学研究所は東塔跡の探査を実施することになった。塔跡を含む東西97m、南北110mを対象に、最初の作業を実施した。この試みは地中レーダー(GRP)による探査であった。解析の結果、塔の基壇部分の地中の状況と、東塔院の位置や規模が明らかになった。GRP平面図によれば、東塔院には東西南北の4門があったことが明らかになった。

東大寺東塔院跡(平成27年度発掘による)

 

2015年(平成27年)の発掘調査では、調査地が三か所設定された。中央区は、東塔の中心から基壇及び周辺を含む北東部分で、塔の規模と構造、および基壇周辺施設の確認を目的としている。塔基壇の北側に延長した北区は、東塔院北門の位置や規模の確認を目的として設定された。南区は、推定された東塔院の東南隅部分にL字形に設定し、東塔院の南面回廊及び東面回廊の位置や規模を推定するためのものであった。

中央区での出土遺構図

中央区の調査は基壇全体ではなく基壇の北東部に偏っていたため、心柱を支えた基礎(心礎)とその周囲の柱穴9個を確認した。心礎や礎石は、近代になってからすべて抜き取られていた。その抜き取り穴の並び方の状況から、塔の配置は3間四方で、全体で4×4=16本の柱があったことが確認できた。柱間寸法は中央間20尺(約6m)、両脇間18尺(約5.4m)であったと想定できる。これらの柱の柱間寸法は、鎌倉時代に再建された東大寺南大門の柱間寸法と一致することが分かった。一般的に五重塔は3×3=9本の心柱が最高階まで貫いているが、七重塔は16本の心柱で支えたことが彰になった。

東大寺中寺外惣絵図並山林(部分)                江戸時代(17世紀)

東大寺蔵の江戸初期に描かれた「東大寺中寺惣絵図並山林図(部分)」という絵図がある。大仏殿は柱穴の位置だけ描かれ、大仏は野ざらしになっている。現存する大仏殿の再建が完成したのは元禄4年(1709)であるから、この絵図はそれ以前に作成されたものであろう。東大寺東塔と西塔も柱穴の位置だけが描かれるのみで、焼けた状態になっていたのであろうと推定される。東塔と西塔では柱の並び方が異なっている。この絵図には、失われた西塔の跡を柱間5間、東塔の跡を柱間3間で描いている。今回の調査で、創建時は5間だった両塔のうち、鎌倉時代に再建された東塔は柱間3間に変更され、より大規模になったことが、この絵図から理解できる。

 

東塔跡は、単なる遺跡ではなく、再建の意志の基に、発掘調査がなされていたのである。再建の予定は、平成33年(2021年)から基壇の整備に入るようである。また承平4年(934)に雷で失われた西塔の跡については、平成29年(2017年)に調査を始める予定だそうだ。もし、東西両塔が並び建つ時がくれば、奈良の魅力は一段と増すだろう。梅原猛氏は「塔」の最後のページに次のような言葉を残している。「東大寺の塔は、七重の塔であったという。それは、奈良に存在したいかなるい寺の塔よりも高い塔であった。それは、かの巨大な興福寺の塔よりもなお高い塔であった。そして塔が権力の象徴である限り、この塔は、今まで以上の権力の強さを象徴すべきであった。」七重の塔を権力の象徴と見る意見は珍しい。

(本稿は、図録「東大寺大仏殿  天平の至宝」、ビジュアル文庫「東大寺」、NHK歴史秘話ヒストリア2017年1月3日「古代ミステリー東大寺”七重塔”の謎」、HP「東大寺の再建東塔院発掘調査が明らかにした事実」を参照した)

東大寺   遺跡と池

東大寺の歴史や美術を書いた書籍は枚挙に暇ないほど多数ある。しかし、鎌倉時代や江戸時代の東大寺再建で、再建されなかった遺構も多い。今回は、他の図書があまり取り上げない東大寺遺跡(再建されなかった建物等)と、寺内の池について触れてみた。

東大寺境内の地図             ビジュアル文庫「東大寺」より引用

東大寺境内の全図である。写真は小さくて分かり難いと思うが、まず2つの池を確認して頂きたい。南大門と大仏殿との中程に、鏡池という池がある。また、左奥に大仏池がある。この池が、最初からあったのか、造立に際し掘った池かは不明である。その上で、まず一番手前の南大門を確認してもらいたい。それを真直ぐ進めば、大仏殿である。大仏殿の右側はやや高みになっており、法華堂、二月堂が確認できると思う。大仏殿と法華堂の間に、数多くある御堂が開山堂や、行基堂、鐘楼などである。大仏殿の後ろを見てもらいたい。ここの講堂跡は、平家の戦火で焼失以来、再建されたことは無い。その右の食堂(じきどう)跡も再建されたことが無い、講堂跡の後ろに僧坊跡があるが、これも再建された事が無い。大仏池の後ろに正倉院がある。一番奥の左隅に転害門(てがいもん)がある、大仏殿の左側に戒壇院、勧進所の建物が並ぶ。

鏡池

鏡池の名称については、その由来を知らない。どの本を読んでも、池の由来は語っていない。鏡池の手前をやや右側に進めば、法華堂、二月堂にたどり着く。鏡池に並んだ場所に、東塔跡が残る。

東大寺  東塔跡

東大寺に、東西両塔が聳えていたことは文献でも明らかである。平成22年(2010)に東大寺は東塔再建の意向を打ち出した。西塔は、住宅地になっているため、再建は不可能であり、東塔のみの再建案であった。東大寺と奈良県文化財研究所と共同で東塔跡の探査を実施することになった。文献によれば、塔の高さは23丈(70m)とも30丈(100m)とも伝えられ、わが国で最高の塔であったことになる。因みに、現存する塔の中で最高の高さは、京都の東寺の塔(江戸時代再建)で55mである。東大寺の東西両塔が33丈、もしくは23丈としても、文句なしの日本一の高さである。現在は23丈(70m)の高さということで、議論は進められている。平成22年(2010)の7,8月に、塔跡を含む東西97m、南北110mを対象に、最初の調査をした。その時の結果は、地中レーダー(GRP)による探索であった。その解析の結果、塔の基壇部分の地中の状況と、東塔院(搭の周りを囲む院であった)の位置や規模が明らかになった。(7年後の今日、更に詳しい内容が分かってきたが、やや詳細に亘るので、今回はここまでとする)

講堂跡の遺石

東大寺の講堂は、大仏殿(金堂)の裏に当たり、東西に七重の塔を擁する日本最大の国分寺であったことが判る。講堂跡には遺石が建てられ、1200年前を偲ぶことが出来る。残念ながら、当日その遺跡を見学していたのは、私一人で、通りすがる人もいなかった。恐らく大仏殿を訪れる人の0.1%も。この講堂遺跡を見ないであろう。

講堂跡の礎石                                                           奈良時代(8世紀)

講堂跡の礎石は、まさしく大和国国分寺の礎石であり、整然と並んだ礎石は、全国に広がる元国分寺跡と同じであるが、規模は圧倒的に大きい。私は、機会があれば、全国各地の国分寺跡地を廻っているが、東大寺に勝る講堂跡地は見たことが無い。

東大寺僧坊跡晩秋          入江太吉氏撮影  奈良時代(8世紀)

食堂(じきどう)とは、文字通り僧侶の食堂(しょくどう)の跡である。一段高くなった場所があり、入江泰吉氏が撮影された写真である。講堂跡の右横に当たる。写真は入江泰吉奈良市写真美術館で購入したものである。正に晩秋を表す、素晴らしい一枚である。

大仏池より大仏殿を望む

大仏殿の左奥に、大仏池がある。ここから眺める大仏殿の甍は素晴らしい。大仏殿は正面より観るより、遠く離れた場所や、近く仰ぎ見る方が素晴らしい。

 

東大寺の各寺院を招介したので、順番として遺跡と池を巡ってみたが、やはり正倉院や東塔の開発の最新情報も必要であり、稿を改めることにしたい。

 

(本項は、図録「東大寺大仏 天平の至宝2010年」、ビジュアル文庫「東大寺」、探訪日本の古寺「第12巻 奈良Ⅲ」、入江泰吉「写真 大和路」、青山茂他「大和古寺巡礼」を参照した)

 

岩佐又兵衛  故事人物画・物語絵

岩佐又兵衛は、寛永14年(1637)、還暦を迎えた年に、妻子を福井に残し江戸に向かった。必ずしも、希望して江戸へ下った訳ではなさそうであった。「岩佐家譜」によれば、尾張徳川家の光友に輿入れする将軍家の娘・千代姫の婚礼調度の図案作成が又兵衛に命じられたそうである。このような将軍家筋の用命は、普通ならば御用絵師である狩野派が請け負う筈だが、又兵衛の独特の画風が江戸で評価され、各地にその名声が喧伝されていたことがあったであろうし、姻戚者が大奥に身を置いていた関係も考えられる。因みに、この婚礼用具は、名古屋徳川美術館が保有しており、源氏物語に因んだ絵画が蒔絵で描かれたものだそうである。江戸では、寛永15年(1638)に焼失した仙波東照宮の再建拝殿に奉納する「三十六歌仙扁額」を描いている。幕府の御用絵師である狩野派に属さない又兵衛が担当したことは異例であり、狩野派との衝突もあったことであろう。又兵衛の江戸での生活は多忙を極めたようであり、扁額制作の際、再建東照宮の御大工頭を勤めた木原木工允(もくのじょう)から、歌仙の仕事を早くするようにと督促する手紙が残っている。こうした種類の仕事を受注したことが又兵衛の出府の契機となったのであろう。このあと、慶安3年(1650)に世を去るまでの十余念間、江戸の地が又兵衛の活動の拠点となり、将軍家のみならず、諸国の大名たちの画事などを請け負ったと推察される。MOA美術館では「山中常盤物語絵巻」の展示に合せ、故事人物画・物語絵を展示しているので、この場で紹介したい。

重要文化財 柿本人麻呂図・紀貫之図 岩佐又兵衛勝以作 江戸時代(17世紀)柿本人麻呂図    紀貫之図

 

歌仙絵という大和絵の主題を水墨画の技法によって描いたもので、人麻呂像は奔放自在な描線による減筆体(げんぴつたい)風の手法で、貫之像は濃墨と淡墨を巧みに用いた没骨法(もっこつほう)風の筆づかいで対称的に表している。人麻呂は裸足で歩む好々爺に、貫之は優しい表情の親しみのある人物像に描くなど、又兵衛以前の歌仙絵には見受けられない独創的で自由な解釈が示されている。歌賛、落款、画すべて同じ筆で描かれ、印も斜めに捺されていることなどから即興的に制作されたものと考えられる。署名は、人麻呂が「勝以画之」、貫之図が「勝以図印」で、印はともに「碧勝宮図」白文印を捺す。又兵衛画の中では数少ない落款のある作品で、上部の賛と共に又兵衛の筆跡の基準となるものである。制作は、又兵衛の福井時代の早い頃と推定される。なお,MOA美術館では、勝以の落款の無い図は、すべて伝岩佐又兵衛としている。

寂光院(じゃつこういん)図 岩佐又兵衛勝以作  江戸時代(17世紀)

又兵衛は平家物語に題材をとり何点かの作品を残している。この図もその一つで、京都大原の寂光院に隠棲(いんせい)した建礼門院(けんれいもんいん)平徳子(たいらとくこ)が念仏と読経三昧の生活を送るさまを描いたものとされる。元は八曲一双の押絵貼屏風で、旧岡山藩主池田公爵家に伝来した。「樽谷屏風」とも呼ばれるが理由は未詳である。大正8年(1919)、池田家より売立に出され、現在のような掛幅装となった。「道」朱文印と「勝以」朱文二重印を捺す。珍しく「勝以」印を持つ画である。

重要美術品伊勢物語(鹿と貴人図 部分)岩佐又兵衛勝以作江戸時代(17世紀)

本図は、「伊勢物語」の「東下り」の段に含まれる宇津の山路を描いたものと考えられている。又兵衛得意の銀泥と墨を使った霞引きによって、遠くの山路と、木蔭で休む業平一行という近景が、くっきりと隔てられている。刀を持ち振り返る従者の姿形は、舟木本・洛中洛外図屏風の六条三筋町で抱き合う武士と遊女を振り返る人物と同形であることが指摘されており、又兵衛における図様共有を窺い知ることが出来る。印章は、「道」朱文印と「勝以」朱文二重印で、又兵衛の作品であることは確実である。

重要美術品 官女(かんじょ)図 岩佐又兵衛勝以作  江戸時代(17世紀)

無背景に小袿(こうちぎ)をまとう立ち姿の官女が描かれている。本図は又兵衛が数多く描いた歌仙絵のうちの一つとも考えられている。小野小町を主題とするとの説もあるが断定することは難しい。描線は伸びやかで、衣装の文様や彩色も美しく、官女の舞姿のごとき動きのある表現は見事である。衣や朱の袴は強い印象を与え、画面全体を艶やかに感じさせる。画面の形状から、六歌仙あるいは三十六歌仙を描く屏風絵の一扇であったとも考えられる。「道」朱文印と「勝以」朱文二重印を捺す。又兵衛作品であることは間違いない。

重要文化財  自画像  岩佐又兵衛勝以作  江戸時代(17世紀)

賛も署名もない肖像画である。岩佐又兵衛勝以の遺族の家系に伝わった。晩年の自画像と言われるものである。発見当時はかなりボロボロだったようであるが、幸い目鼻立ちはそのままである。無精ひげをはやし、病にやつれた、風采の上がらない容貌で、さいずち頭も不恰好である。藤椅子に腰かけた小柄な老人は、右手に杖を持ち、左手に数珠を下げ、鹿の子絞りの着物の上に黒い羽織をまとっている。左後ろに長刀を立て掛け、右の机に香炉と書物を置く。こうした賛や画家の落款のない肖像画の像主や筆者を、誰かと判定することは難しい。私は、又兵衛の最後の自画像と認めたい。それは勝以自身の添状があるからである。命日にこれを掛けて供養してほしいと、又兵衛は福井に残した妻子に頼んだと思う。福井の岩佐家に伝来した作品であると言われる。「岩佐家譜」は、又兵衛の没後80年余り後の享保16年(1731)につくられたものだが、これには「新タニ前人未ダ図セザルトコロノ体ヲ模写シ、世態風流別ニ一家ヲをナス。世之ヲ称シテ浮世又兵衛トイフ」とある。又兵衛浮世絵元祖説の始まりである。なお、本図には「岩佐家譜」と勝以自筆状が添えられている。

 

岩佐又兵衛勝以の自筆の作品6点(含む自画像)が,MOA美術館で展示された。いずれも岩佐又兵衛の真筆と信じて良いと思う。又兵衛が果たして、浮世絵の元祖と言えるどうかは別途検証したい。何分にも、作品が多く、いろんな所に分散しているため、又兵衛を、素人の私が追うことは、かなり困難であるが、MOA美術館に多数の保管があり、特に絵巻物については、まだ二巻見ていないので、それを見た上で、再度検証したいと思う。なお「舟木本・洛中洛外図」は既に展覧会で見ているので、時期を見て発表したい。又兵衛工房(京都)の作品であることは間違い無い。

 

(本稿は、図録「岩佐又兵衛作品集」、図録「岩佐又兵衛と源氏絵 2017年」、図録「洛中洛外図と障壁画の美  2013年」、辻惟雄「岩佐又兵衛ー浮世絵を作った男の謎」、篠田達明「浮世絵又兵衛行状記」を参照した)

岩佐又兵衛作 重要文化財 山中常盤物語絵巻

熱海のMOA美術館が、長時間をかけて改修工事を行っていたが、工事は全部終了し、新しく生まれ変わった。今回は、岩佐又兵衛作の重要文化財・山中常盤物語絵巻・全12巻がすべて公開された。(4月25日まで)私は、この公開を待ちに待って、初日の3月17日(金)に、わざわざ熱海まで出かけて、ゆったりと拝観をしてきた。特に、部屋の中央に壁を設け、光線の入り混じりを防ぎ、非常に見学し易い環境になった。併せて、レストラン、カフェ、ショップも一新され、非常に気持ちの良い環境になった。さて、岩佐又兵衛には、重要文化財・山中常盤物語絵巻、重要文化財・浄瑠璃物語絵巻、堀江物語絵巻、おぐり(小栗)判官絵巻という4巻の膨大な絵巻物がある。その内、前3巻は,MOA美術館が保有している。最後の小栗判官物語絵巻は宮内庁所蔵である。その内、特に見たかった山中常盤物語絵巻の全巻が、3月17日より4月25日まで公開されることになった。言って見れば、今年の最大の見物が公開されたのである。「山中常盤物語絵巻」は、義経伝説に基づく御伽草紙系の物語で、奥州へ下った牛若を訪ねて、都を発った母の常盤御前が、山中の宿で盗賊に殺されて、牛若がその仇を討つという筋書きである。慶長、元和、寛永(1596~1645)にかけて操浄瑠璃の一つの演目として盛んに上演され、本絵巻はその正本(テキスト)に基づいて制作されたものであろう。(当然、史実とは異なる)全12巻から成り、全長は150メートルを超える長大な作品である。本作品は又兵衛が描いたと言われる絵巻群の中で、最も生気あふれる力強い作風で、又兵衛自身の関与が最も高いと考えられる。(福井の又兵衛工房の関与は、当然考えられる)特に巻四の常盤主従が盗賊に襲われる場面や、巻九の牛若が八面六臂の活躍によって盗賊たちに仇討ちする場面など、凄惨な場面の描写は、日本の美術品には珍しいもので、本作品の大きな特徴である。絵巻の表紙は、唐獅子模様を織りだした豪華な金襴で、見返しは金箔である。本絵巻の制作に関しては、越前松平家が関与していることが想定される。(「浮世絵又兵衛行状記」によれば、越前藩主松平忠直公の指示によるものとされている。小説であるが、面白い論考である)この作品は、越前藩主松平忠直公の子・光吉が転封(てんぽう)となった先の(岡山県)津山藩松平家に伝来したもので、大正14年(1925)5月の東京美術俱楽部による松平子爵家所蔵品売立てによって世に出た。昭和3年(1928)、ドイツへ売られるところを引きとめた第一書房社主・長谷川巳之吉によって広く紹介され、昭和の又兵衛論争を起すきっかけとなったそうである。(詳しくは辻惟雄「岩佐又兵衛 浮世絵をつくった男の謎」を参照)江戸時代初期の異色の絵巻として、また岩佐又兵衛の画業を考える上でも、極めて重要な作品である。なお、絵の解説は、詞(ことば)を現代語に訳し、更に分かり易く説明した。

重文 山中常盤 第一巻 佐藤(藤原秀衡の意)の館に着いた牛若

おごる平家を討つために、源氏の御曹司牛若は十五歳の春、東国(とうごく)へ下る。頼むは奥州の藤原秀衡(ひでひら)。秀衡(文章の上では佐藤)の館へ着いた牛若は丁重に迎えられ、幸せな毎日を送る。

重文山中常盤 第一巻 常盤は牛若が奥州に居る聞き、直ぐにも遭いに行くと言う

都にいる母の常盤(ときわ)は行方知れぬ牛若を案じ、清水寺に参ったり、八幡山へ百詣でをして、牛若の無事と再会を祈る。その年の秋、奥州の牛若の文が届く。常盤は喜んで、直ちに奥州の秀衡の館を訪ねると言う。

重文 山中常盤 第二巻  常盤は侍従を促す

乳母の侍従は、冬に向かう奥州は無理と押しとどめる。春も半ばとなり、常盤は侍従を従え東国へ下る。

重文 山中常盤 第三巻 牛若を思い、涙ながらに瀬田の唐橋を渡る

奥州は遠国(おんごく)、徒歩(かち)の旅はつらい。やっとの思いで瀬田の唐橋(滋賀県の琵琶湖の流れ)を渡る。二人が(美濃の)山中宿にたどり着くと、常盤は旅の難儀と、牛若恋しさも手伝い、見も心も就かれ果てる。

重文 山中常盤 第四巻 邸の中まで乱れ入り、常盤と侍従の小袖を奪い逃げ去る

山中の宿(しゅく)に住む六人の盗賊は、常盤と侍従を、東(あずま)下りの上臈(じょうろう)と見て、美しい小袖を盗もうと諮る。夜半に押し入った盗賊たちは、常盤と侍従の来ている小袖まで剥ぎ取り、門外に逃げ去ろうとする。

重文 山中常盤  第四巻 常盤は、小袖を返すか、さもなくば命を奪えと言う

夜半に押し入った盗賊たちは、常盤と侍従に着ている小袖まで剥ぎ取ったので、常盤は、肌をかくす小袖を残すがなさけ、さもなくば命もとってゆけと叫ぶ。

重文 山中常盤  第四巻 侍従は常盤を抱き、さめざめと泣く

盗賊たちは常盤を刺し、常盤にすがる侍従も殺して逃げる。

重文 山中常盤  第五巻 宿の主人に問わ、常盤は自らの身分や名を明かす

騒ぎに馳せつける宿の主人は、瀕死の常盤を抱き上げ、都の上臈が若等も連れぬ旅のわけを尋ねる。常盤は自らの出生と事の次第を打ち明けて、牛若に会えずに、盗人の手にかかって果てるは口惜しい。せめて道端に土葬にして、高札を立ててほしい、いとしい牛若が都へ上る折に、道端から守ってやりたい、と主人に頼み、持物を形見にと預けて息絶える。時に常盤は43歳。宿の主人は遺言通りに、土葬にして高札を立てる。

重文 山中常盤  第八巻  牛若は霧の印を結んで目をくらませる

秀衡の館の牛若は、母の常盤が夢にうつつに現れるのが気にかかり、館を忍び出て京へ上る。途中、美濃国赤坂の宿に泊まるが、山中の宿まではわずか三里、一夜の違いで母の常盤に合えないアワレサ。山中の宿で常盤と侍従が殺されたのはその夜のことであった。翌日赤坂の宿を発つた牛若は山中の宿はずれで真新しい塚を見て懇ろに法華教を誦(しょう)し回向する。牛若は何か去りがたく終日をそこで過ごし、その夜は山中の宿に泊まる。その夜、牛若は夢枕に立つた母親の姿や言葉を不審に思い、宿の主人に尋ねると、主人は涙ながらに前夜の出来事を一部始終話し、形見の品々を見せる。牛若は見覚えのある品々を抱きしめて嘆き悲しむ。牛若は心を取り直し、盗賊をおびき寄せて討ち取る為に宿を明日まで借りたいと主人に頼む。女房が、助力しようと、力づける。牛若は座敷一杯に派手な小袖や黄金の太刀を掛け並べてもらい、変相して、この宿に大名が宿を取ったと宿場中に触れ回る。牛若の計略どうり、盗賊はその夜、宿を襲う。待ち構えていた牛若は、霧の印を結び、小鷹の法をつかって六人に向かう。

重文 山中常盤 第九巻 六郎が切られたのを見て、残る五人が一度に切りかかる

牛若は六人を切り殺す。驚く宿の主人に命じ、その夜の中に死骸を淵に沈めさせる。牛若は主人と女房に助力を感謝し、後の褒美を約して秀衡の館へもどる。

重文 山中常盤 第十一巻 牛若は十万余騎をひきいて都へ上る

三年三日の後、牛若は大軍を率いて都へ上る。

重文 山中常盤 第十二巻 常盤の墓前で盛大に回向する

牛若は十万余騎を率いて都へ上る途中、山中の宿で常盤の墓前で手厚く回向した。

重文 山中常盤 第十二巻  宿の主人に山中の土地三百町と、所領安堵を伝える

宿の主人と女房に山中の三百町の土地を与え、所領安堵を伝え、その恩に報いた。

 

岩佐又兵衛(1578~1650)は、京都で絵師としての道を進み、大和絵的な源氏物語図会や国宝・「舟木本・洛中洛外図」、「豊国祭礼図屏風」など、傑作を残しながら、何故福井へ移住したのであろうか。又兵衛の福井移住は元和元年(1615)頃と推察される。時は折しも、豊臣家滅亡を前後するころに重なっている。理由は分からないが、劇的な時世の変化が背景にあったと思われる。又兵衛にとっては不本意な移転であっただろう。「廻国之記」において、又兵衛は「詩歌管弦の歌舞」に親しみ過ごしたみやこ暮らしの華やかさを述廻し、その対比によって「鄙(ひな)の住ゐ」に甘んじ、「いやしの賎(しず)に交」った福井の生活を語る所など、当時の又兵衛の心境を推測させるものはある。福井に移り住んだのは、直接的には越前北庄(きたのしぉう)の本願寺派の興宗寺の僧、心願の誘いによるとするが、背後には藩主松平忠直公の京都からの文化人招聘の意向があったと思われる。忠直は、徳川家康の次男結城秀康の長男で六十八万石を有する越前北庄藩二代藩主である。名門出身の忠直と荒木村重の血を引く又兵衛との交流の様が推測できる。忠直は乱交や将軍家に対する不遜な行動が重なり、元和九年(1623)改易となり、弟の忠昌(ただまさ)がこれを継いだ。又兵衛はそのまま福井に止まり、寛永14年(1637)、江戸に出るまでおよそ二十年を福井で過ごした。福井在住時代に多くの作品を残したが、一連の絵巻物は、すべて福井時代の制作である。又兵衛は、福井では工房を持ち、自身が制作する同時に、工房の弟子たちに背景や建造物などを描かせていたと思われる。だから、MOA美術館では、中山常盤物語絵巻は伝岩佐又兵衛と、慎重な態度を取っている。(辻氏は「巻一から巻四までは、又兵衛の真筆であると断言している)私の目から見ても、工房の弟子に任せた部分が、想定できる。山中常盤絵巻の特徴は、まず彩色にある。人物や建物などぬは、群青、緑青、臙脂、丹、黄土等の原色によるけばけばしい配色を施し、金銀泥でこまやかな文様を加えられて、派手な装飾効果が強調されている。中でもショッキングなのは、巻四の常盤殺しの場面である。六人の盗賊が、常盤の宿に乱入し、主従の衣を剥ぎ取って逃げようとする。常盤が、小袖を返すか、さもなくば刺せと迫ると、戻って常盤を刺し、更に侍従も刺し殺す。この過程を、画家は、執拗に反復する。日本の国宝、重要文化財で血を流す様子を描いたものは珍しい。私は、雪舟の「慧可断碑図」と、又兵衛の絵巻物以外に見たことが無い。常盤と侍従が夜盗に遭って、裸にされ、刺殺される場面を延々と4場面も描く作者の精神にはリアリズムを通り越し、嗜虐的情熱を感じるのである。巻八以降の仇討の場面もスゴイ。牛若が、片端から首を刎ね、胴切り、真向唐竹割りで、あっさり六人を退治してしまう。これも見事な場面である。兎に角、岩佐又兵衛を議論するためには、欠かせない絵巻物であり、私は、想像以上の感激を受けて帰ったのである。まだ見ない二本の絵巻物も逐次公開されるだろうから、すべてを拝観した上で、「岩佐又兵衛論」を書いてみたい。辻惟雄氏の「奇想の系譜」が世に出て50年近い歳月がたったが、伊藤若冲、曽我蕭白、歌川国芳などは世間の評判が高いが、まだ岩佐又兵衛の評価は高く無い。しかし、「舟木本・洛中洛外図」は、国宝に指定され、専門家の間では着々と評価が上がっている。いずれ、若冲を抜き、著名な作家と認識される時代は、さほど遠くないだろう。

 

(本稿は、図録「岩佐又兵衛作品集」、辻惟雄「奇想の系譜」、辻惟雄「岩佐又兵衛ー浮世絵をつくった男の謎」、篠田達明「浮世又兵衛行状記」、菊地寛「忠直郷行状記」、を参照した)

東大寺   お堂(2)

東大寺の境内には、多数のお堂が存在する。特に、東大寺の創建や、再建に功績のあった名僧たちを祀るお堂が多いが、それ以外に鐘楼や転害門(てがいもん)などもある。いずれも歴史があり、東大寺を語るには欠かせない重要なお堂や尊像等である。御堂(2)として、(1)以外のお堂について述べたい。

行基堂  木造  1間四方

聖務天皇は、天平15年(743)10月15日に紫香楽宮(しがらきぐう)で、「廬遮那仏建立の詔」を発せられた。造立の詔の中で聖務天皇は「自ら念を存し、廬遮那仏を造るべし」、「人有りて一枝の草、一把の土を持ちて像を助け造らんこと情(こころ)に願はば聴(ゆる)せ」と述べ、皆のための大仏として、造立に広く民衆に自主的な協力を求めたのである。大仏建立は詔が発せられた紫香楽宮で始められた。当時、すでに民衆からの厚い信頼を得ていた行基が聖務天皇の思いに賛同し、勧進の役を担った。すぐに行基は弟子たちを伴って諸国の勧進に出発した。天平17年(745)5月に平城京に遷都すると8月には大仏建立が大和国金光明寺の地域で再開されることになった。天平17年(745)、勧進の功により行基は大僧正に任じられ、天平21年(749)には聖務上皇らに菩薩戒を授け、行基は大菩薩号を贈られた。大仏の建立が近づいた天平勝宝元年(749)2月、残念ながら勧進の大役を担った行基は大仏の完成をみることなく、82歳の生涯を菅原寺で亡くなった。行基堂は、その行基を祀るために創建された建物である。鐘楼と同じ岡の地区に建ち、質素な方1間の小堂である。如何にも行基らしい粗末なお堂である。

重要文化財 行基画  (四聖御影より 部分)   南北朝時代

行基は、大仏建立の功により、聖務天皇などと共に、「東大寺四聖」の一人に数えられている。聖務天皇、菩提僊那、良弁、行基を「四聖」と呼んで、この「四聖」を描いた「四聖御影」(ししょうみえ)永和本(えいわほん)が伝わっている。その一部である。行基は文殊菩薩の化身とされている。

俊乗堂  入母屋造 本瓦葺           江戸時代(18世紀)

俊乗堂は、鐘楼のある広部に南面して建つ方3間の建物である。江戸中期、公慶上人が重源上人を安置する御影堂として、宝永元年(1704)に建立し、この時、重源像の厨子や位牌なども造られた。落慶御、重源のために法華八幡講が営まれ、現在も続けられている。

国宝  重源商人坐像  木造 像高82.5cm   鎌倉時代

等身大の檜の寄木造りである。俊乗堂に安置されている。やや前かがみに背を丸め、両手で数珠をつまぐる写実的な像である。重源が自寂した直後に造られたものである。作者は、重源を信仰の師として仰いだ快慶とする説もあるが、作風から運慶説もある。毎年7月5日に特別公開される。

国宝 鐘楼  入母屋造り  本瓦葺き        鎌倉時代(13世紀)

大仏殿東方の台地上に建つ。古代伽藍の一般的な鐘楼の位置とは異なるが、梵鐘にも焼損の跡がなく、当初からここに建てられたと考えられる。この鐘楼は、重源に次いで第2代東大寺勧進となった栄西(えいさい)によって、承元年間(13世紀初め)に再建された。基壇上に方1間、四方を吹き放して入母屋造りの屋根を載せている。日本禅宗の祖、栄西が宗で学んだ禅宗様と大仏様の様式が加わった、豪快な建物である。

国宝  梵鐘  銅造  総高 385.5cm  奈良時代(8世紀)

東大寺創建当初に鋳造されたものである。大法要前に集会(しゅうえ)をうながす際や、毎夜8時に撞かれた。大晦日には,NHKの「行くとし、来るとし」で、全国に除夜の鐘として流されたこともある。

勧進所入口(阿弥陀堂、八幡堂、公慶堂など)    江戸時代(17世紀)

勧進所は、大仏殿の西方、戒壇院と大仏殿の間の地にある区域をさす。貞享3年(1686)公慶上人は露座のままだった大仏の修理と、大仏殿の再建のため勧進所(龍松院)を創建し、ここを復興の本拠地として、京都・江戸など全国へ行脚し、勧進に勤めた。勧進所(非公開)には五劫思惟阿弥陀像(ごこうしゆいあみだぞう)を安置する阿弥陀堂や、僧形八幡神を祀る八幡殿、公慶上人を祀る公慶堂なども建っている。

国宝  僧形八幡神坐像  木造 像高87.1cm  鎌倉時代(13世紀)

建仁元年(1201)に快慶により造作された像で、勧進所八幡宮の御神体として制作された。東大寺の鎮守八幡宮の御神体として制作された。京都の神護寺から鳥羽天皇に献上され、鳥羽勝光明宝蔵に収められていた弘法大師由来と伝える八幡神画像に基づき造立されたものである。重源が快慶に写させて制作したという。檜の寄木造り、彫眼、彩色の像で、右手に錫杖、左手に数珠を持つ。秘仏のため、美しい色彩がそのまま残されている。毎年10月5日に転害会(てがいえ)の折に開扉され、拝観できる。重源上人像と同じ日であるので、覚えておくと同日に2つの秘仏に拝することが出来る。勧進所内の八幡殿に祀るが、明治以前は手向山八幡宮に安置されていた。

重要文化財 五劫思惟阿弥陀如来坐像  木造 像高106.ocm 中国宋時代

阿弥陀如来は、西方に極楽浄土を構える以前、五劫の間、思惟(しゆい)されたという。それに因んで作られたもので、頭髪は手入れせず山姥のようになっている、手の印は定印と合掌の二つがあるが、本像は月松印である。東大寺に伝わるこの像は、重源上人が、宋より将来された新様式である。珍しい様式である。私は奈良、京都で5仏を知っているが、数は多くないと思う。勧進所の阿弥陀堂に安置され、10月5日の転害会(てがいえ)の日のみ拝観できる。私は、「東大寺大仏展 2010年」で拝観している。

重要文化財 公慶上人坐像  木造 像高69.7cm  江戸時代(18世紀)

江戸時代前期の東大寺の僧・公慶(1648~1705)は、大仏殿の再興者である。宮津の人で、13歳で東大寺の大喜院に入り、英慶を師として出家し、主に三論を、学んだ。また、修二会にも練行衆として18回余り参籠している。当時大仏殿は三好三人衆と松永久秀の合戦で消亡し、大仏も露座のままであった。公慶は復興の志を固め、貞享元年(1684)大仏再建の勧進を始めた。公慶は、幕府より勧進の許可を得ると、鎌倉時代の勧進聖で東大寺再興の立役者・重源がかって住んだ地に勧進所(龍松院)を設けて、勧進活動を本格的に始めた。全国各地を巡ったが、その誠と熱意の姿に感動して,多数の人々が、多くの布施を施した。元禄5年(1692)には、大仏の補修を完成、開眼供養を行った。さらに元禄7年(1694)江戸に行き、幕府から諸国勧進の便宜を与えられ、諸大名の寄進などもあって宝永2年(1705)に大仏殿の上棟式を挙げたが、落慶を見ることなく、同年江戸で没した。公慶はまさに「俊乗坊重源の再来」と言える人である。この坐像は、勧進所内の公慶堂に安置されている。私は、2010年の「東大寺大仏展」で、拝観している。

国宝  転害門(てがいもん) 切妻造 本瓦葺 八脚門 奈良時代(8世紀)

東大寺西面大垣の北端に位置し、一条大路(通称 佐保通り)に向かって開かれた堂々たる門である。天平宝宇6年(762)頃の造営と考えられる。創建当初の伽藍建築を想像できる唯一の建物である。東大寺の鎮守・手向山八幡宮での転害会(てがいえ)がここを御旅所としたことから、その名がある。昭和20年代は、ここは外部と閉鎖されて、佐保通りへ出られなかったが、現在は通用門が出来て、外部と往来できるようになった。

 

 

御堂は、総じて言えば、東大寺創建、再建に功労のあった人々を顕彰するようなお堂が多いが、鐘楼、転害門等、創建時、再建時の建物もあり、古い時代の東大寺を偲ぶこともできる。大仏殿だけが、東大寺ではない。様々な御堂、建造物もしっかり見てもらいたい。

 

(本稿は、ビジュアル文庫「東大寺」、図録「東大寺大仏 天平の至宝 2010年」、原色日本の美術「第3巻 奈良の寺院と天平彫刻」、「第9巻 中世寺院と鎌倉彫刻」、探訪日本の古寺「第12巻 奈良Ⅲ」を参照した)