東京国立博物館  特別展  茶の湯(2)

室町幕府が力を失った15世紀末頃になると、新たな時代の担い手となる町衆が力を急速につけ、それまで公家の嗜みであった連歌や能、茶、花、香などを愉しみ、究めるようになった。茶の湯を嗜む人々の層が拡大していくと、茶の湯を愉しむ場所、空間が変わっていき、当然茶道具にも大きな変化が現れる。戦国武将や豪商の中には、足利将軍家から流失した第一級の唐物を競うように求める者も現れたが、一方、禅に親しんだ珠光(しゅこう)(1423~1502)や下京茶の湯者と呼ばれた人々の間では、唐物だけでなく、日常の生活の中から自らの気持ちにかなうものを見出し、取り合わせる「数寄」(すき)の茶、いわゆる「侘茶」(わびちゃ)が生まれた。この精神は、堺の豪商武野紹鷗(たけのじょうおう)(1502~55)ら多くの町衆へと広がった。第2章では、15~16世紀を生きた武将や茶人の眼を通じて「唐物」から「高麗物」(こうらいもの)「和物」へと、茶道具に対する価値観が移り変わる様子をたどる。第3章では「侘茶の大成」として「千李休とその時代」を取り上げる。千李休から、「李休没後の様相」として古田織部、織田有楽斎、細川三斎を取り上げるが、桃山から江戸への過渡期を生きた武将たちの茶の湯を展観することになる。

唐物肩衝茶入 銘 桜 南宋~元時代(13~14世紀) 三井紀念美術館

灰色を帯びた茶色の釉で、総体に細見である。甑(こしき)から肩の衝き方は堂々とした姿である。釉には斑があり、幽際が濃い褐色を呈している。なだれには勢いがあり、表常豊かな景色をなす。銘は当初の所蔵者とされる足利義正が命銘したという。戦国武将蒲生氏郷からその孫、忠郷(1602~27)に伝わるが、子がないまま没したため、将軍家の御物となる。その後、徳川第三代将軍家光(1604~51)から家康の外孫で家光の後見人をつとめた松平下総守忠明(1538~1644)が拝領した。子の忠弘から再び家光に献上され、将軍家に伝わり、後に三井家に移った。

重文 大名物 唐物肩衝茶入 北野肩衝 南宋~元時代(13~14世紀)三井紀念美術館

足利義正の東山御物で、三好宗三から天王寺屋津田家に伝わった。当時すでに北野肩衝と呼ばれている。その後、鳥丸家に伝わり、北野大茶会で同家から出品されて、秀吉の目に止まったという。以来、北野大茶会ゆかりの茶入として伝わった。三井家に享保年間に伝わったが、幕末~大正期は若狭の酒井家にあり、その後再び三井家のものとなった。

重文 法語 無夢一声宛 小林清茂(こばやしせいも)墨蹟 三井紀念美術館

小林清茂(1262~1329)は浙江温州の人で、元代禅林の第一人者に挙げられる。日本からの求法僧の間でも産学の師として憧憬され、多くの入元僧がその会下に集まった。冒頭の「清禅人」とは無夢一清のことで、小林ほか諸僧に参禅した在元30年におよんだ。この偈後は一清の熱心な参禅を賞し、一層の勉学を説示している。

国宝  大井戸茶碗 喜左衛門井戸 朝鮮時代(16世紀) 京都 孤篷庵

大井戸茶碗の最高峰として名高い茶碗である。畳付きからわずかに残して、高台脇を力強く大きく削る。高台内もやはり力強く削り込まれ、中央は兜巾状となる。腰からは斜めに開き、胴上方にゆったりとした膨らみをもたせた後に、口縁に向けてわずかに開く。胴には轆轤目が残り、見込は深く、釉の流れも景色となっている。高台内と高台脇の削りの部分には、一部露胎としながら、釉が流れて梅花皮(かいらぎ)が現れている。井戸茶碗はそのなかでも高台の高さや見込みの深さ、そしてそこに現れる景色から、風格と大きさが感じられる名碗である。松平不昧から子の松平月潭に伝えられるが、不昧の正妻静楽院より、大徳寺弧篷庵に贈られた。不昧の「雲集蔵帳」では、この茶碗は「大名物之部」に所載されている。

斗々屋茶碗 銘 かすみ 朝鮮王朝時代(16世紀) 三井紀念美術館

「ととや」は斗々屋、魚屋、渡唐屋等と書き、名の由来は、李休が魚屋の店先で見付けたという説や、堺の豪商魚屋が所持していたなど諸説がある。この茶碗は霞が棚引くような釉景色と腰の縮緬皺が見える見事なコントラストを見せている。永坂町三井家の高泰から室町三井家の高大(ながひろ)が譲り受け、際晩年枕辺に置いた遺愛の品である。「唐物」から、朝鮮半島産の茶碗に嗜好が大きく変更したことが分かる。

千李休像 伝長谷川等伯筆 固渓宗陳賛 安土桃山時代・天正11年(1583)正木美術館

田中宗易(そうえき)(千李休、1522~91)の姿を描いた現存唯一の生前像(寿像)である。黒襟の下着に淡菁色の着物を着け、黒い上被を羽織り、濃紺に縞の入った腰帯を締める。右手に扇子をとり、上畳に坐す。細部にわたり緊張感のある描写がなされている。頭上の大徳寺第百十七世古渓宗陳(1532~97)の賛から、本図が天正11年8月に描かれた六十二歳の寿像であることが分かる。作者は長谷川等伯と伝えるが、これおを裏付ける資料はない。侘茶の大成者として知られる利休の、また異なる横顔を活写した重要な作品である。

国宝偈頌(げじゅ)照禅者宛(しょうぜんしゃあて)破れ虚堂(きょどう)虚堂智愚筆紙本墨書 南宋時代(13世紀)

虚堂智愚(1158~1269)が入宋僧の無象静照(むぞうしょうしょう)(1234~1306)の求めに応じて贈った五言の偈頌である。無象静照は、鎌倉の人で、東福寺の円爾に師事し、建長4年(1252)に宋へ渡った。静照は、慶山の石渓心月について印可を受けたのち、景定3年(1262)に阿育王山に虚堂を訪ねて参禅し、文永2年(1265)に帰朝するまで、虚堂のもとを離れなかった。よって本幅は、虚堂が78~81歳頃の書と推定される。

重文 黒楽茶碗 銘 ムキ栗 長次郎作 安土桃山時代(16世紀)文化庁

楽茶碗については、既に東京近代美術館で行われていた「楽家一子相伝の芸術」で、詳しく伝えているが、そこに展示されなかった作品を若干補足したい。楽茶碗は、手捏ね(てづくね)によるもので、利休の創意を受けて、陶工の長次郎が焼き上げたものと言われる。小ぶりで、手にすっぽりと収まるような独特の姿をした、赤や黒色の楽茶碗は、唐物天目でも、高麗茶碗でもなく、李休の理想とした侘び茶の碗として、利休の感性にかなうものだったのであろう。この茶碗は上半を方形、下半を円形に作る、他に例をみない姿である。利休好みとされる四方釜に通じる造形であることから、この茶碗もまた李休の好みを反映していると考えられる。

重文 黒楽茶碗 銘 俊寛 長次郎作 安土桃山時代(16世紀)三井紀念美術館

利休が薩摩の門人から長次郎の茶碗を求められ、3碗を送ったうちこの茶椀を残し他の2碗が送り返されてきたので、鬼界ケ島に残された俊寛僧都に見立て命名したと言う。極限まで削り込んだ器形には、包み込むような絶妙な手取りの良さがある。長次郎の茶碗への思い入れがそのまま凝結したような精神性を秘めた名碗である。

重文 伊賀耳付水指 銘 破袋 伊賀 江戸時代(17世紀) 五島美術館

伊賀独特の赤黒く焦げた表情と、青いビロードが流れた表情とが一つの器の名に現れ、大胆な造形にさらに釜の炎によって生じた大きなひび割れがその強さをさらに増している。この造形には古田織部が大きくかかわっている。伊賀水指に添えられていたという大野主馬宛ての古田織部の書状には主馬から頼まれていた伊賀の水指ができたことを伝え、「今後是程のものなく候間、如此候 大ひされ一種候か かんにん可也と存候」と、と水指しでありながら、大きなひびというものがその価値を損するものではないと述べている。

 

戦乱で京都が荒れていた頃、茶の湯で大きな存在感をもったのは、新興都市堺であった。幕府の統治力が低下してからは町民の代表である会合衆(えごうしゅう)による自治が行われた。貿易によって財を成した富裕な町衆たちの間に、茶の湯を嗜む者たちが現れた。その中心として茶の湯を牽引したのが武野紹鷗(1502~1555)であった。茶の湯の理論的支柱として禅の思想を取り込んでいった。「茶の湯は禅宗より出でたるによって、僧の行を専らにする也。珠光紹鷗みな禅僧也」と「山上宗二記」に記されるようになった。千利休(法名=宗易)は大永2年(1522)に堺に生まれた。幼名を与四郎と呼ぶ。商家のたしなみとして、与四郎は少年時代から武野紹鷗に茶の湯を習ったとされる。信長は堺や京都の町衆から名物と呼ばれた唐物の名品を強制的に買上げた。「名物狩り」や、家臣が茶の湯を行うことを許可制とした「御茶湯御政道」によって、文化的な側面の覇権を握ろうと企てた。信長は豪商茶人の中から今井宗久、津田宗及、千利休を「茶頭」として召し抱えたのである。本能寺の変で信長が討たれた後、混乱を勝ち抜いた豊臣秀吉は、信長以上に茶の湯に傾倒し、李休をことさらに重用した。そのため周囲の武将たちmp積極的に茶の湯を習い、李休に弟子入りするようになった。大友宗麟は国許宛の手紙に「内々の儀は李休、公儀のことは宰相(秀永)存じ候」と書いた程である。その利休も天正19年(1591)、突然秀吉の怒りを買い、切腹を命じられた。61歳で秀吉の茶頭になったからおよそ10年間、「天下一宗匠」として、李休が茶の湯に与えたインパクトは大きかった。李休没後、古田織部は、窓の多い、明るい茶席を好み、茶席内で使う道具も、動きや力感を大らかに外へ発散していく、ゆがみやひずみを持った道具を好んだ。この織部に師事した小堀遠州(1579~1647)は、織部の死後、将軍家が大名家を正式訪問する「お成り」の際の茶会や、将軍主催の茶会の後見役を務めるなど、茶の湯に存在感を示した。

 

(本稿は、図録「茶の湯  2017年」、図録「美の伝統 三井家 伝世の名宝」、図録「南宋の美 2010年」、千宗屋「茶ー利休と今をつなぐ」を参照した)

東京国立博物館  特別展  茶の湯(1)

東京国立博物館でが、昭和55年(1980)秋、特別展「茶の美術」が開催された。東博の長い歴史の中で、茶の湯と正面から向き合う大規模な展覧会は、初めてであったそうである。この展覧会の図録の中で林家晴三氏は次のように書いている。「喫茶の歴史的な流れのなかで、いつしか固有の文化事業まで高められた「茶の湯」の世界で賞玩されてきたさまざまな美術を唐数寄物(からすきもの)、詫数寄(わびすき)、数寄(すき)の展開と三区分して展示した」。そこでは室町時代から江戸時代にかけて茶の湯を「唐物数寄」から「侘数寄」へ、そして「数寄の展開」という大きな展開としてとらえ、伝世の名品をそれぞれのなかに位置付け、茶の湯の歴史を見ようとするものであった。今回の展覧会では、これおを5つに区分して、茶の湯の全体像を、もう一度通観しようとする試みである。5章に分けて、唐物荘厳から唐物数寄、侘び茶の誕生からその大成へ、さらには江戸期における古典復興と現代の茶の湯の基礎となった近代数寄者の茶の湯を見るところまでである。まず、第一章の「足利将軍家の茶湯」から見てみよう。喫茶の習慣は、本格的に日本で浸透しはじめるのはおよそ12世紀の頃と言われる。僧侶を主とした中国との往来によって、当時宋王朝で主流であった抹茶の新しい喫茶法がもたらされ、次第に禅宗寺院や、武家、公家といった上流階級の間まで広まったと考えられる。室町時代になると、最高権力者である足利将軍には最高級の「唐物」が集められ、それらはコレクションの管理や鑑定を担当した同朋衆(どうぼうしゅう)によって系統立てて評価、分類された。茶の湯にまで及んだこの価値観は、のちの「茶の湯」に大きな影響を及ぼした。

国宝 曜変天目 稲葉天目 中国・建窯 南宋時代(12~13世紀)静嘉堂文庫美術館

「曜変」(ようへん)とは窯変の意味で、内面の黒釉上に斑文がうかび、その周囲に、青から藍に輝く光彩があらわれたものを言う。中国宋時代の建窯(福建省)で焼成された黒釉茶椀(天目)のうち、わが国で最も格付け高く、貴重なものとして伝えられてきた。今日現存するのは世界で三碗のみである。大徳寺龍光院、藤田美術館、静嘉堂所蔵の各一口で、いずれも国宝に指定されている。近年、中国で初めて南宋の都・臨安府(杭州)の官衙(迎賓館)跡地から曜変天目の陶片が出土し、注目を集めている。本碗は「稲葉天目」との別称があるように江戸時代に入って長く淀藩主稲葉家に伝えられた。昭和9年(1934)より岩崎家の所蔵となる。中国陶磁の至宝とされる名碗である。

国宝 油滴天目中国・建窯 南宋時代(12~13世紀)大阪市立東洋陶器美術館

油のしずくを敷きつめたような美しさから、中国では「滴珠」(てきしゅ)とも呼ぶ。黒釉のなかに含まれる鉄の微粒子が偶然に定着してあらわれる現象で、いわゆる窯変(ようへん)である。建窯産の天目茶碗は鎌倉・室町時代から日本に多く請来されたが、なかでも曜変天目と油滴天目は特に珍重された。この茶碗は古来、油滴天目中最高のものとされ、関白秀次が所持していたと伝えられる。その後、西本願寺、三井家、若狭酒井家に伝来したものである。

国宝 出山釈迦図 梁楷筆 三幅の一 南宋時代(13世紀) 東京国立博物館

梁楷(りょうかい)は南宋時代の宮廷画家で、人物・山水・道釈・鬼神を巧みに描いた。南宋初めの宮廷画家である。その精妙な筆は宮廷で敬服された。出山釈迦図は、永い苦行が正しい悟りへの道でないことを知って深山を出る釈迦の姿を描いたものであるが、「御前図画梁楷」の落款から宮中で描かれたことが明らかな作品である。雪景山水2巻と併せ、三幅対として、日本に伝わった。この三幅には、足利義満の「天山」印があることから、日本に舶来後、おそらく義満の時代に三幅対として鑑賞されるようになったと思われる。足利将軍家の蔵品目録である「御物御画目録」に記録され、唐絵の最上の品格を持つ東山御物として重んじられてきた。その後、三井家、本願寺などに別れて伝世したが、平成16年に三巻すべて東博の所蔵となった。

国宝紅白芙蓉図李廸筆絹本着色 南宋時代(慶元3年ー1197)東京国立博物館

李廸(生没年不詳)は南宋の宮廷画家で花鳥画の名手といわれた。本図は李廸の代表作の一つであり、画中に」「慶元丁己歳李廸筆」の落款があり、制作年の明らかな南宋画として貴重な作例である。図は紅白の芙蓉を描いたものだが、これは早朝に白い花を開き、時とともに少しずつ紅くなり、最後は真紅の花になる種類のもので、まるで、酒に酔うようであることから酔芙蓉と言われる。白芙蓉図は酔芙蓉の朝の姿、紅芙蓉は図は酔芙蓉の昼に向かう頃の姿を描いたものと思われる。李廸は時とともに変化する酔芙蓉図を、鮮麗な色彩と細微な筆描を用いて極めて写実的に描いている。本来はそれぞれ画冊形式の作品であったが、日本舶来後、茶室の掛物として対幅の掛軸に仕立てられたものと思われる。

重文 猿図 伝・毛松筆  絹本着色 南宋時代(13世紀) 東京国立博物館

単なる写実を超えて猿の心までとらえて表現していると言われる宋画の名品である。この幽庵とした空間の中に大きく描かれた猿は日本猿であると言われる。狩野探幽は本図に付属している外題で、筆者を南宋宮廷画家である毛松と鑑定している。毛松は南宋の乾道年間(1165~73)に宮廷画家となった子の毛益とともに花鳥走獣画をよくしたと伝えられている。本図の作者の確定は出来ないが、南宋時代の宮廷画家の名手の筆である可能性は高い。武田信玄の添状が付属しているが、それによると、本図は、元亀元年(570)に曼殊院の覚如が天台座主に任ぜられたことを祝って、信玄が覚如に寄進したもので、久しく曼殊院に伝来した。

国宝 青磁下蕪花入  南宋時代(13世紀) アルカシェール美術財団

粉青色の青磁釉がたっぷりと掛った甁は、腰が大きく張り丸く膨らんだ胴に筒状の頸がつき、口縁は平に作られている。大きめの高台が、総体を引き締めて調和の取れた姿にしている。この甁は南宋官窯の作と分類されたこともあったが、現在では龍泉窯の優れた作行きの青磁とされている。伝来は黒漆塗りの内箱の蓋裏に「節斎岡氏什物」と朱書きされているので、江戸時代後期の幕府の医官であった岡節斎の所持していたものと考えられている。節斎はのちに将軍家斉の侍医となり、松平不昧を茶友とした。

重文青磁 鳳凰耳花生龍泉窯南宋時代(13~14世紀)大阪市立東洋陶磁美術館

砧型の器形に、鳳凰をかたどった耳がつく青磁で、俗に鳳凰耳の花生と呼ばれるている。室町時代以降、中国陶磁は日本にさかんに運び込まれ、伝世している例が多い。この甁も何時のころからか丹波青山家に伝えられたものという。鳳凰耳には、「満声」(ばんせい)「千声」という名高いものがあるが、この甁はその比類ない釉色の美しさから、これらの花生に勝るとも劣らない。浙江省龍泉窯の最盛期の制作になるものと思われる。

重文青磁茶碗銘馬蝗絆」ばこうはん)龍泉窯南宋時代(13世紀)東洋陶器美術館

日本に伝えられた青磁茶碗のなかでも、姿、釉色が特に美しいばかりでなく、その伝来にまつわる逸話によって広く知られている作品である。この茶碗は安元初年(1175頃)に平重盛が浙江省杭州の育王山に黄金を喜捨した返礼として仏照禅師から贈られたものであり、その後室町時代に将軍足利義正(在位1449~73)が所持するところとなった。このとき、底にひび割れがあったため、これを中国に送ってこれに代わる茶碗を求めたところ、当時の中国にはこのような優れた青磁茶碗はすでになく、ひび割れを鎹(かすがい)で止めて日本に送り返してきた。あたかも大きな蝗(いなご)のように見える鎹が打たれたことによって、この茶碗の評価は一層高まり、馬蝗絆(ばこうはん)と名付けられた。

重文木葉天目このはてんもく)吉州窯南宋時代(12~13世紀)東洋陶磁美術館

建窯で作られた天目茶碗とは違い、吉州窯の天目茶碗は胎土が白く、土が緻密であるため、薄作りで、碗形も直線的に広がっている。高台が小さいのも特徴の一つである。吉州窯で黄褐色と黒釉の二重かけで、べつこうに似た釉調(ゆうちょう)のものを作っているが、この木葉天目も、その手法を使用して、その葉脈まで焼き上げる技法については、まだ定見を見ない。加賀藩前田家に伝来したものである。

 

通常、「茶の湯」の展覧会と言うと、年配のご婦人方が多数集まることが多いが、今回は若い女性(20~30代)が特に多かった。何故、茶の湯に若い女性だろうか?やはり、一種の教養として、「茶の湯」の道具も見て、知って、話題の一つに加えようとする気持ちが感じられた。だからお茶碗の前は、すごい人出で、釜や掛物は素通りで、殆ど見学する人もいない状態であった。入館する時に、切符を購入したら、「混んでますよ」と言われた。例えば畠山記念館では、未だかって「混雑していますよ」と言われたことは無かった。まさかと思い入って見たら、若い女性の大行列であった。茶道具に興味を持って戴くことは、この上も無く嬉しい。是非、お抹茶も楽しんで頂きたい。この項(1)は室町時代の将軍家の唐物(からもの)が多かったが、次項(2,3)以後は、桃山時代、江戸時代、近代数寄者(すきしゃ)の世界となる予定である。あまり面白い話ではないが、我慢して読んで戴きたい。

 

(本稿は、図録、「特別展 茶の湯  2017年」、図録「美の伝統 三井家 伝世の名宝」、図録「南宋の美  2010年」、図録「東洋陶滋の展開 1990年」、千宗屋「茶ー利休と今をつなぐ」を参照した)

 

東大寺(終)   正倉院

 

「正倉院」の名称は、現在では東大寺大仏殿の背後に位置する宝庫の呼び名として広く知られている。しかし「正倉」とは、本来、田祖として国家に収めた正税(正稲)を保管するとともに、絹製品、鉄製品その他財物をもあわせて収納した主要(=正)な創庫=倉)のことをいい、この正倉院が軒を並べる一区画が正倉院と称するものであった。したがって、正倉院は、奈良時代には多くの大寺を含め、中央の政庁や、地方の国・郡衙にも設置されていたいわば普通名詞であった。しかし長い歴史の間に、東大寺の正倉院を除くすべてがなくなり、正倉院といえば、東大寺のそれを指すようになり、更に明治8年(1875)に東大寺から離れて国に管理が行われるに及んで、全く独立した固有名詞として用いられるようになった。

正倉院建物                奈良時代(8世紀)宮内庁

宝庫は間口33m、奥行9.3m、総高14m、床下の高さ2.4mで、檜材による寄棟造本瓦葺の高床建築で、南北に長く、一棟を3区分して、北倉、中倉、南倉と称している。北倉と南倉は、三角杉の校木(あぜき)を組み上げた校倉造(あぜくらつくり)、中倉は板倉造であるが、現状の3倉は、後世に改造を受けた形とも言われている。北倉の宝物は、天平勝宝8歳(756)6月の聖務太政天皇の七七忌に際し、光明皇太后が天皇のご冥福を祈って東大寺廬遮那仏に献納された天皇遺愛品である。中倉及び南倉は造東大寺司や東大寺の諸行事に関連した品々に分類される。東大寺開眼供養の品々は、ここに収められている。収蔵された宝物類の数は1万点とも言われるが、数え方によっては数万点にも及ぶ。正倉院は長い間「帝室の秘宝として、一部の人を除いては、一般人の伺い知ることの出来なかった正倉院御物の最初の公開は、敗戦直後の虚脱した人々の心に初めて一抹の光りらしいものが差し込んだ感じで、国家の事業としても時宜を得た催しであった」と井上靖は初期短編小説「漆胡樽」(しっこそん)の冒頭で述べている。

鳥毛立女屏風(第4扇)           奈良時代(8世紀) 宮内庁

6扇のうちの第4扇である。各扇は五枚継の本紙に白土を塗り、その上に墨で女性と樹木、岩などを描き、肉身に彩色を施している。当初は、頭髪、着衣、飛鳥、などに鳥の羽毛を貼り付けた六扇一畳の屏風であったが、いまは鳥毛は殆ど剥落し、各扇は分離した状態である。本作品は「東大寺謙物帳」に記載されており、聖務天皇の遺愛品であった。(1990年「日本美術名品展」より)

楽毅論(がっきろん)部分 光明皇后筆天平16年(744)奈良時代(8世紀)宮内庁

「楽毅論」は三国時代の魏の夏候玄(かこうげん)の作で、戦国時代の燕(えん)の武将であった楽毅の人物について論じた文章である。舶載された東晋(とうしん)の王羲之(おうぎし)を模写したもので、筆力の充実した格調の高い書風である。最後の「藤三女」(とうさんじょ)は、藤原不比等の第三女の意味で、この一巻は皇后44歳の筆と知ることができる。(1990年「日本美術名品展」より)

螺鈿紫檀阮咸(らでんしたんげんかん)      唐時代(8世紀)

「東大寺献物帳」に記載がある。阮咸(げんかん)は中国晋時代(3~4世紀)の頃、漢式の琵琶から生まれた弦楽器で、円盤形の胴と長い棹、竿灯の三部からなっている。弦は四本で、棹から胴の上部ぬいかけて十四の柱(じ)を設け、棹頭には絃を巻く天手をつける。表面に貼ってある腹板以外はすべて紫檀製である。なお、阮咸(げんかん)という名称の由来は必ずしも明らかではないが、中国の故事にある竹林の7賢の一人がこれを愛奏したことからその名をとったと言われる。(1990年「日本美術展」より)

十二稜鏡(じゅうにりょうきょう)         奈良時代(8世紀)宮内庁

正倉院には北倉に十八面、南倉に三十八面の鏡鑑が収蔵されており、南倉に伝わったこの十二稜鏡の背面を七宝で飾った注目の一品である。鏡背は盛唐(8世紀)に流行する、連弁系を三重に組み合わせて一つの華やかな花房を構成する典型的な意匠法を採用している。(1990年「日本美術名品展」より)

漆金箔絵磐(うるしきんぱくえのばん)         奈良時代(8世紀)

岩座の上に各段八枚の蓮華弁を交互の御鱗葺(ぎょりんぶ)きに四段を巡し、中心に半球形の蓮肉をすえた蓮華座である。岩座、連弁、蓮肉はいずれも木製で、岩座の裏に「香院座」(こういんざ)の墨書銘があって、仏に備えて香を炊く炉磐(ろばん)の台座であったことがわかる。平成5年(1993)に展示されたものである。(「平成5年(1993)正倉院展」より)

紫檀金鈿柄香合炉(したんきんでんえこうごうろ)   奈良時代(8世紀)

柄香炉(えこうろ)は、僧侶が法会の際などに手に持って仏前で焼香をするのに用いる。炉の口縁に獅子形の鈕を取り付けている。二十四花形にかたどった炉座に金銀珠玉で花文・朱文を表している。柄つきの香炉である。(「平成6年(1994)正倉院展」より)

 

正倉院は、本来宮内庁の管轄であり、東大寺の項目に加えることは問題かも知れないが、元々東大寺の正倉院であり、明治8年(1875)に宮内省管轄、明治17年(1884)に宮内庁管轄となり、宮中管轄はせいぜい130年程度の話であり、それ以前の1200年間は、東大寺の管轄であり、しかも宝物は聖務天皇あるいは光明皇后の遺物であり、本来東大寺に伝わったものであるから、東大寺の締めとして正倉院を述べた次第である。戦前は、天皇家もしくは政府高官(例えば伊藤博文)のみの拝観であったが、日本の敗戦後の昭和21年(1946)十月に初めて、一般国民に公開したのである。当時、新聞記者であった井上靖氏が初期の短編小説「漆胡樽」(しっこそん)の最初の部分に「敗戦後の虚脱した人々の心に初めて一抹の光りらしいものが射し込んだ感じ」と、当時の心境を語っている、正に「開かれた皇室」の第一歩であったのであろう。私は何度も10月20日ごろから11月初めにかけて行われる正倉院展の見学に出かけたが、非常に混雑し、そのために奈良国立博物館では、新館を設立して、国民の期待に応えようとしたが、益々観客は増え、相変わらず、混雑が今日まで続いている。この正倉院の一般開放や、入江泰吉氏が「日本の古美術品が戦後賠償の一部として、国外に持ち出される」というウワサを書いているが、どうも、そういった事実があったようである。詳しいことは、今となっては分からないが、是非その噂を検証してみて、はっきりすれば、この「美」の記事に書いておきたいと思う。「東大寺」というシリーズを書き始めて、この「正倉院」が11回目となり、これを以って終了とする。今後も、日本美術の美しさに気付かされた奈良の記事を引き続き書きますので、是非ご覧頂きた。

 

(本稿は、図録「日本美術名品展   1990年」(天皇陛下の御即位の御大典紀念)、図録「平成5年(1993年)正倉院展」、図録「平成6年(1994年)正倉院展」を参照した)

茶碗の中の宇宙   楽家一子相伝の芸術

桃山時代は、政治史では天正から慶長(1573~1614)までの四十余年を指し、また文化的には江戸初期の元和(げんな)年間(1615~23)まで含めても、五十余年の短期間であった。にもかかわらず、この時代の文化は飛躍的な発展をして、ようやく近世的な息吹を示している。従って清新さにあふれている。楽焼は、この時代(今から450年前)に、千李休の指示のもとで長次郎という人物によって創造され、一子相伝と言う形態で今日まで続いている。この楽焼は茶器の焼成を専らとし、造形は「ロクロ」を使わずに、指先のみの手こねで制作した。同時代の瀬戸や唐津にくらべると異色の焼物であり、日本の陶芸の中でも他に類を見ない独特の美的世界を作り上げてきている。特にその美意識と思想性は「侘び」という言葉に集約され、その美意識は禅、タオイズム等と深い精神的繋がりをもち、日本の精神的土壌に深く根を下ろしていると言えよう。当時長次郎および長次郎の家族は田中姓を名乗ったが、安土桃山時代の天下人(最高権力者)であった豊臣秀吉より楽の印を賜り、楽焼という名称が生まれ、それはやがて楽家という家の姓になったという。以来、450年にわたって楽焼は、日本陶芸史において重要な役割を果たしてきた。

重文 黒楽茶碗 銘大黒(おおくろ)初代長次郎作桃山時代(16世紀)楽美術館

楽家初代であり、楽焼の創始者である。渡来人・阿米也の子とされる。阿米也は中国・明国より三彩陶(素三彩、あるいは華南三彩)の技術を日本に伝えた人物と考えられる。この技術が楽焼の釉技の基本となった。長次郎の妻は田中宗慶の孫娘とされる。田中宗慶は楽家血脈上の直系の家祖であるが、長次郎は田中家の婿として宗慶らと共に楽焼を営む。李休の創意を受け、利休が大成させた「侘茶」の精神を色濃く表した一碗の赤色(土色)の茶碗を制作、さらにその後、黒楽茶碗を完成させる。これが楽焼の始まりとなる。大黒は、利休の侘びの思想が最も濃厚に反映されている作品である。楽の典型的な姿である。腰が丸く、ふっくらとしている。口縁はやや内へ抱え込み気味で、平である。高台は丸く、高台内に兜巾渦巻がある。見込みには茶溜りがなく、丸く、広々とした感じである。茶色味を帯びたやや光沢のある黒釉が塗られている。千李休所持と伝わる。

重文 赤楽茶碗 銘 無一物 初代長次郎作 桃山時代(16世紀) 潁川美術館

 

「無一物」の銘は六祖禅師慧能(えのう)禅師の偈頌(げじゅ)から取られた。高台が丸く、中に兜巾(ときん)渦巻がある。高台のまわりに竪しわがある。口縁は平に近く、見込には茶溜りがない。赤釉はかさかさした感じで、粉を吹いたような肌である。色は薄い赤色である。一切の装飾性を抑え、削ぎ落とした志向性は、簡素化を推し進める抽象表現を感ずる。

重文 赤楽茶碗 銘太郎坊 初代長次郎作 桃山時代(16世紀) 表千家今日庵

「大黒」と全く同じ形である。腰が丸くふっくらとしている。口縁はやや内へ抱え込み気味で、平である。胴に少しへこみがあるが、腰がふっくらと丸い。高台は大黒と同じである。胎土に子砂が多く、肌がさらさらしている。赤色は薄く 、見込みの方がやや濃い。利休が愛宕山の太郎坊の頼みで作ったとされるものである。長次郎は「寿楽土」と呼ばれる聚楽第付近から出る土を用いて制作したと言われる。

重文 黒楽茶碗 銘 青山 三代道入作  江戸時代(17世紀) 楽美術館

三代道入は、二代常慶の長男である。別名「のんこう」の愛称で呼ばれている。本阿弥光悦と親交が深い。光悦が京都・鷹峯の土地を拝領するのは元和元年(1615)、光悦58歳の時である。その時、道入は17歳の青年であった。その後道入は光悦が亡くなるまで長きにわたって光悦と親しい関係を持ち、光悦の茶碗を焼くなど作陶にも協力する。また光悦から、茶碗を造るということに関して大きな影響を受け、光悦の芸術性、新たな造形へ挑む精神を学んだようである。装飾を極限まで切り捨てた長次郎茶碗の伝統に、軽やかな装飾を持ち込む。艶やかな黒釉に抽象的な文様、黄抜けの意匠を表し、黒釉が抽象文に流れ入って自然な変化を加える。

重文 赤楽茶碗 銘 鵺(ぬえ)三代道入作江戸時代(17世紀)三井紀念美術館

この茶碗は、口縁にやや変化があるが、平に近く、美しい赤色で、艶がある。胴部中程に見る不思議な黒い景色。銘は、正体不明の文様を、平安時代に御所に夜な夜な出没した怪鳥「鵺」(ぬえ)にちなんで付けられた。おそらく刷毛で意識的に描いたものだが、どのような釉薬を用いたのかは不明である。野々村仁清の装飾とは異なる発想である。腰は丸く、ヘラの切りまわしがあう。

重文黒楽茶碗銘雨雲(あまぐも)本阿弥光悦作江戸時代(17世紀)三井紀念美術館

刀剣の鑑定や研磨を生業とする本阿弥家、本阿弥光二の子である。寛永の三筆に数えられる。書だけでなく、陶芸や蒔絵など、多くの分野で活躍し、琳派様式の創始者でもある。楽家とは、法華、日蓮宗の信仰を同じくして親しい関係を結んでいたようである。光悦は楽家二代常慶、三代道入の指導・協力を得て、京都・鷹峯を拝領、所謂光悦村を開き、そこで自由気ままな作陶を始めた。それら楽茶碗の制作には楽家二代常慶が手ほどきをし、そのほとんどは楽家の窯で焼かれた。光悦の茶碗は、風流に生きた人の手すさびであったから、その作風は誠に自由で、こころの働くままに手と箆を駆使して形成している。口造りに鋭く平らな箆目をつけたこの茶碗には、長次郎や道入には見られない迫力が感じられる。高台を極度に低く削り出し、まるい腰から直線的に立ち上がった姿は光悦の独創であり、前面にかけたものを一部掻き落としたと見られている釉は、あたかも驟雨(しゅうう)を伴う雨雲のような趣きであることから「雨雲」と銘されたものであるが、一説には、この釉調は窯中で自然に飛び散ってできたものではないかとも推測されている。

重文 赤楽茶碗 銘 乙御前(おとごぜ) 本阿弥光悦作 江戸時代(17世紀)

ふっくらと花の蕾が開くような愛らしい一碗、光悦の赤楽茶碗を代表する作である。口部を三角形に変型させ、口部一方を端反らせ、他方は内に抱え込ませている。左右非対称の動きを巧みに表現している。胴部から腰にかけた丸みは光悦独特の造形、高台は底部からめり込んでいる。いずれもこれまでの楽茶碗には見られない独創的な造形である。なお、楽家とは離れた存在である光悦作品を楽家の作品に混ぜて展覧した企画者には篤くお礼を申し上げたい。実にありがたかった。

赤楽茶碗 家祖年忌 12代弘入作  1890年(明治23年) 楽美術館

十一代慶入の長男で、15歳で家督を継いだ。弘入も父・慶入と同じく明治維新前後の茶道の衰退した時期を過ごしているため、代を継いだばかりの20歳前後の時期は、楽茶碗の制作にも依頼は少なく苦労の日々を過ごした。そうした事情も反映し、実際に作品を世に出せたのは25歳の頃であった。34歳の時(1890年)に父・慶入と共に、長次郎三百回忌を行い、赤楽茶碗300碗を制作しているが、この作品である。この頃から茶道具界の活気が戻り始めた。若い時の作であるが、好入はさまざまな箆を用いてこの茶碗を制作している。

黒楽茶碗銘林鐘(りんしょう)14代 覚入作1959年(昭和34年)楽美術館

13代惺入の長男。第二次世界大戦に従軍し、昭和20年(1945)に帰国するが、父・惺入はすでに1年前に他界していた。混乱の中で楽家を立て直し、晩年には、楽焼の普及や保持のために、「財団法人 楽美術館」を開館した。戦後の厳しい世の中で、お茶の世界もあれたことだろうが、この道一筋に進み、開館と同年、文化庁より無形文化財技術保持者として認定された。九代了入の開発した箆削りの技法は、それ以降、近代の歴代へ大きな影響を与え、装飾的な表現を強めた。角入の取り組みは近代の歴代が見せる装飾的な箆とは異なり、茶碗自体の骨格、形を形成する彫刻的ともいえる箆削りへと昇華させている。この「林鐘」こそ、典型的な楽茶碗であると私は思う。

焼貫黒楽茶碗 15代吉左衛門 銘隴明(ろうめい) 1986年(昭和61年)楽美術館

際めて前衛的な茶碗であり、これに対し世間は驚き、世の中の常識、価値観を揺るがす起爆剤となった。称賛するもの、批判するもの、世の中、ことに茶の湯界は沸騰したそうである。私自身は「この茶碗では、さぞかしお茶は飲みにくいだろう」と思ったが、この色の景色には魅力を感ずる。

 

松原龍一氏が、冒頭の論文で、この「茶碗の宇宙 楽家一子相伝の芸術」について、極めて適切な論文をものしているので、以下引用する。「今から450年前、千利休の指示のもと長次郎という人物によって創造された楽茶碗は、一子相伝という形態で現在まで続いている。一子相伝とは、技芸や学問などの秘伝や奥儀を、自分の子の一人だけに伝えて、他にも秘密にして漏らさないことであり、一子は、文字通り実子ではなくても代を継ぐ一人の子であり、相伝とは代々伝えることである。このような考え方で、長年制作が続けられている楽家の楽焼きは、長い伝統を有しているが、しかし、それらは伝統という言葉で片付けられない不連続の連続であるといえる。長次郎から始まり十五代を数える各々の代では、当代がそれぞれ”現代”という中で試行錯誤し創作が続いている。本展では、現代からの視点で初代長次郎はじめ歴代の”今ー現代”を見ることにより一子相伝の中の現代性を考察するものである。まさしく伝統や伝承ではない不連続の連続によって生み出された楽焼の芸術世界の検証を試みるものである。」これ本展の意義や目的が見事に表明されていると思う。尚、東京(京都)国立近代美術館で開催されていることにも注目して頂きたい。正に、一人一人の現代が「今ー現代」であり、初代長次郎でも歴史的な長次郎ではなく、現代を生きた長次郎である。最後に、12代弘入の「赤楽 家年忌」を取り入れた理由について述べる。私が、昭和31年(1956)、学校を卒業して会社に入社し、最初の任地、長野県上田市に赴任する時、母が12代弘入の制作になる明治12年頃(1879)の作品である「黒楽茶碗」と茶道具一式を、私の旅立ちの記念として贈ってくれたのである。母の形見として、爾来60年以上に亘るが、常に毎日お抹茶を嗜む生活を送ってきた。今年で制作後140年近くになるが、10回以上の転勤にも耐えて、疵一つない黒楽茶碗は、私の大事な「お宝」である。そのために、12代弘入の「家祖年忌」を挿入した次第である。

 

(本稿は、図録「茶碗の中の宇宙ー楽家一子相伝の芸術  2017年」、陶磁体系 磯野信威「第17巻 長次郎」、原色日本の美術 全30巻の内「第19巻 陶芸」、林家晴三「日本の陶磁器」を参照した)

燕子花図と夏秋渓流図

根津美術館の至宝ともいうべき国宝・燕子花図と夏秋渓流図が、今年は同時公開された。期間は4月12日より、5月14日までの約1ケ月間であるが、根津美術館が一番華やぐ1ケ月間である。尾形光琳と言い、鈴木其一と言い、日本琳派を代表する画家である。琳派と呼ばれる画家群の著しい特徴は、古来からあった日本独特の装飾性と調和感覚を、率直大胆に純粋の立場でみずみずしく発揮したところにあり、その点では宗教性や物語性を否定して、純粋な美術として伸びてきたのである。しかし、このような形の美術を生み出す適切な母胎が必要であった。その母胎となったのは、日本の近世の幕を切って落とした根本の勢力と言ってもよい京都を中心とする新興ブルジョジーである。これらの富商階級は、当時は町衆という名で呼ばれていたが、町衆は応仁、文明の乱以後、急速に富力を増し、実力を失った足利幕府にかわった自治能力をも備えてきた自由な階層であり、彼らは没落した宮廷貴族を保護することによって、富力という現実の地盤の上にさらに日本の古典文化の教養を移し入れ、独自の町衆文化を作り出していったのである。桃山文化全体が、こうした町衆文化の背景に根ざし、いきいきとした自由さに支えられたものだったが、時代の主勢力が桃山から江戸にうつり、徳川政権が次第に堅固な藩政をしいて封建的な支配体制をつよめるようになると、これらの町衆は、江戸幕府に対抗する京都宮廷と密接につながって、文化の上で一つの強力なサークルを形成するにいたった。この結びつきは、江戸幕府の政治勢力に対して、文化的実力で対抗しようとした点で、いっそ強いものとなり、事実、近世初頭において、貧弱な江戸文化とは比較にならなぬ高度の文化的成果を続々とあげていったのである。この宮廷と町衆の結合体が生み出したと言って良い名高い修学院離宮や、桂離宮の造営をはじめ、華道や香道の確立、文学や芸能の高い洗練など、その実情をみていただければただちに納得できる事柄である。今回は、根津美術館が保有する琳派の名品を通して、見てゆきたい。

四季草花図屏風  伊年印  六曲一双 紙本金地着色 江戸時代(17世紀)

「伊年」の記の捺された草花図屏風は数多くの作例が現存しているが、本図はその代表となる作品である。「伊年」の印は、作風を異にする多くの作品に捺されている。つまり一人の画家の印ではなく、俵谷宗達(生没年不詳・17世紀の江戸で活躍)の工房内で商標のように用いられた印と推則される。六曲一双の画面いっぱいに金地が透けるように濃淡を微妙に変えた絵具で、約70種の四季の草花が左右に傾きながら植物ごとに株をまとめて右から春夏秋冬の季節の流れに沿って描かれている。手前には背の低い花を配し、上部には空間をあけることで野の広がりが生み出されている。本図は完全に無背景で、土埕も描かれず、草花はほぼ均等に併置されている。「伊年印草花図」の初期の様相を良く示している。

重美 桜下蹴鞠図屏風 紙本金地着色 六曲一双  江戸時代(17世紀)

向かって右隻には、四本の桜の樹に囲まれた懸りあるいは鞠壺(まりつぼ)と呼ばれる場所で、公郷や僧侶、稚児ら8人が蹴鞠に興じる姿を、左隻には、垣根の外の周辺の水辺に近い場所で主人を待つ従者たちを描いている。静かに鞠を追う高貴な人々の優雅さに満ち、一方、待ちくたびれてあくびをする者までいるお供たちはユーモラスである。幾何学的な構図と、飄逸にしておおらか、しかし優美な人物の表現と併せ、寛永年間に宗達周辺で、制作されたと考えられる。宗達は、もともと、富裕な階級の出身であったと考えられている。上層部が抱く公家文化への憧憬が、こうした公家風俗画のベースにあるようにも考えられる。同じ図様の作品が少なからず知られており、その愛好がうかがえる。

国宝 燕子花図屏風 尾形光琳筆 紙本金地着色 六曲一双江戸時代(18世紀)

咲き乱れる燕子花(かきつばた)だけを群青と緑の鮮烈な色彩で描いた。ひとまとまりの花群がいくつかの箇所で同じ形態であることが指摘されており、反復して繰り返し花が絵がかれている。これは染職における花模様の反復を応用したものと言われる。尾形光琳が京都の高級呉服店の生まれであることと関係があるのであろう。燕子花だけを描く花鳥画であるが、「伊勢物語八橋図」に描かれた八橋の段をより純粋に絵画化したと思われる。さらに「かきつばた」の五文字を折り込んだ業平の詠歌そのものを絵画化したとも考えられている。八橋における旅僧の前で杜若(かきつばた)の精が、業平の詠歌の力で成仏したことを語り舞う「杜若」を主題としているとの意見もある。

夏秋渓流図屏風 鈴木其一筆 紙本金地着色 六曲一双 江戸時代(19世紀)

檜の太幹に蝉がとまり、紅葉した桜の葉がまさに水面におちつつある夏秋の光景である。大画面のなかで鮮烈な色彩の対比と水流などに見られる形態感覚に、其一の個性が余すところなく発揮されている。京都画壇の重鎮、丸山応挙の絶筆「保津川図屏風」に見られる水が湧出してくるかのような表現を喜一は知っていたのではないだろうか。檜と山百合、熊笹の大きさの比例関係は無視されて、白昼夢を見る光景となっているとも言われる。樹幹やギザギザした岩にアメーバーのように張り付いた苔の緑が無限に増殖していくという神経を逆なでするような形態感覚がくどうほどに描き込まれている。この屏風を目にすれば、せせらぎと蝉の声が一瞬消えた後に、無音となって凍りついた時空間が現れる。其一渾身の力作である。

夏草図屏風 尾形光琳筆 紙本金地彩色 二曲一双  江戸時代(18世紀)

画面の右上から左下にかけて、晩春から夏にいたる三十種類近い草花が、濃厚な彩色と豊富な金泥によって華麗に描き出されている。本作品の魅力は何と言っても、二曲一双を通じての大胆な対角線構図であり、それにさまざまな視覚効果が生まれている。たとえば屏風下辺でトリミングされた左下の水生植物は自ずとやや俯瞰する視点、本作品の主役ともいうべき紅白の立葵は正面視、右上の春の草は仰ぎ見る視点が感じられ、それは「燕子花図屏風」の左右隻における視点の変化と似ている。金屏風における光琳の草花図のひとつの到達点と言えるかもしれない。

白楽天図屏風 尾形光琳筆 紙本着色  六曲一双  江戸時代(18世紀)

神物の能「白楽天」に取材した作品である。唐の太子の宣旨を受けた白楽天が日本の知恵を計ろうと海を渡ってきた。漁翁の姿の住吉明神が適当にあしらい、日本には和歌や唐に劣らぬ文明があることを示し、白楽天を神風で吹き戻すというストーリー。本図の場面は、白楽天が即興で「青苔衣を帯びて巌の肩にかかり、白雲帯に似て山の腰をめぐる」と、筑紫の海の情景を見事に漢詩で表すと、即座に住吉明神が、「苔衣着たつ巌はさみなくて、衣着ぬ山の帯をするかな」と返歌を返したところを絵画化したものである。横長の画面に漁翁と白楽天が対峙し、船の異様な傾きによって円環的な動きを生じさせる劇的な光景を強調している。

銹絵梅図角皿 尾形乾山作 尾形光琳画 一枚  江戸時代(18世紀)

白化粧した四角い皿の見込みに、銹絵で光琳が梅を描き、林和靖(りんなせい)の詩を乾山が書している。幹のフレームアウトと、垂直や対角線を強く意識した枝の構成、画面中央の枝の真下にほどこされた署名、そして味わい深い書風による漢詩。銹絵具による陶器への絵付とはいいながら、賛のある色紙形の優れた水墨画を見る感覚である。光琳が乾山に本格的に参画するようになったのは宝永6年(1709)江戸滞在を終えて京都に戻ってからであると考えられる。

重文 銹絵染付金彩替土器皿  尾形乾山作  五枚 江戸時代(18世紀)

鉄分の多い土を用い、轆轤を使わず手で形成した五枚の皿。それぞれの意匠に合せて一部を櫓化粧して下地の文様を作り、その上に銹絵具と呉須で絵付けをしてから透明釉を掛けて焼き、更に金彩をほどこしている。下地の梅文様のなかに繰り返される梅、陽光にきらめく海を行くいくつもの帆掛舟、流れる秋の雲を背景に風に揺れる雄刈萱(おがるがや)満月に照らし出される薄、冷たい流水に舞い落ちる雪。日本的な季節感や情緒がすぐれたデザインに昇化され、巧みな筆致であらわされている。

目連棕櫚芭蕉図屏風 伝立林何帠(たてばやしかげい)筆 紙本墨彩画 江戸時代(18世紀)

中淡色を主体にわずかに淡彩を加え、白目連と黄色い花をつけた棕櫚、大きな葉を広げる芭蕉を描く。棕櫚の細い葉にいたるまで、ほとんどのモチーフに「たらし込み」と呼ばれる水墨の滲みをいかした手法が用いられる。光琳の名である「正祝」(まさとき)の印が押されているが、光琳画とは考えにくく、江戸で尾形乾山に学び、光琳三世を継いだとされる立林何帠の筆と見られている。

七夕図 酒井抱一筆 絹本墨画淡彩  江戸時代(18~19世紀)

酒井抱一(1761~1829)は、姫路藩主酒井家の二男に生まれるも、37歳の時に剃髪得度し、以降若い頃からたしなんでいた俳諧と書画に邁進して、ついに江戸文化のリーダーの一人になった人物である。出家後、絵画では尾形光琳の作品に大きな影響を受け、やがて江戸琳派とも呼ばれる。麻のひもに五色の糸が掛り、その下の角盥(つのだらい)には梶の葉が浮かぶ様子を描く。陰暦7月7日の夜に牽牛、織女の二星を祭り、手芸や芸能の上達を祈願した七夕祭りの飾りである。

根津美術館のカキツバタの生える池

根津美術館の庭園の一番下にカキツバタの池がある。5月6日はカキツバタの花の一番美しい季節であった。大勢の観客が、この池の廻りに集まり、写真を撮っていた。これほど綺麗に咲いたカキツバタは珍しい。

 

根津美術館が保有する琳派のほぼすての絵画や、一部の陶器が出品され、今年の燕子花図展は賑やかであった。毎年、五月には根津美術館が大勢のお客さんで賑う。昨年は出品作が少なく、私はあきらめて見学しなかったが、今年は見学者が多く、毎年の五月らしい賑わいを見せた。尾形光琳の「カキツバタ図屏風」と、鈴木其一の「夏秋渓流図屏風」を並べて展示する見せ方は素晴らしかった。鈴木其一は、酒井抱一の弟子で江戸琳派を飾る名画家である。昨年、「鈴木其一展」を開催され、私は「今に鈴木其一が若冲より人気を凌ぐ画家になるだろう」と予言した。中々、「鈴木其一展」の展覧会は難しいが、五月に是非根津美術館で「カキツバタ図屏風」と「夏秋渓流図屏風」を展示して頂ければ、必ず「鈴木其一」ブームはやって来ると思う。

 

(本稿は、図録「琳派コレクション 2013年」図録「KORIN展 2012年」、図録「大琳派展  2008年」、河北綸明「日本美術入門」を参照した)

 

東大寺   東大寺ミュージアム

東大寺は多数の仏像や文化財を多数保有している。東大寺の文化財を総合的に展示する施設が無く、長年に亘り奈良国立博物館に寄託されていたが、平成23年(2011)秋、南大門を入った左手に東大寺ミュージアムが建設され、文化財の展示に自前の施設を持つにいたった。実は、東大寺ミユージアムは、東大寺総合文化センターの一部であり、全体像は東大寺図書館、東大寺研究所、華厳学研究所、東大寺ミュージアム、更に金鐘(きんしょう)会館(研修施設)の四つが、総合的に整備され、展示施設が東大寺ミユージアムなのである。

東大寺ミュージアムの外観

東大寺ミュージアムには法華堂にあった伝日光・月光菩薩像、吉祥天像、弁財天像、の4体の塑像が安置されているほか、東大寺の仏像、考古、絵画、工芸など多くの文化財がテーマを設けて逐次公開される予定である。現在は「東大寺の歴史と美術」と題する展覧会が2013年秋より続いている。

重要文化財  千手観音菩薩立像  三昧堂(四月堂)  平安時代(9世紀)

法華堂の西側の三昧堂(四月堂)に安置されていた仏像であるが、現在は、ミュージアムに安置されている。これを本尊として伝日光・月光菩薩像が両脇に侍する。仏像の詳細については、御堂(1)に詳しく書いた。この像に関しては造立当時の記録が欠けているが、江戸時代に浄土寺から法華堂に移され、明治以降に三昧堂に移動したとの記録が残っている。

国宝 伝日光・月光菩薩立像  塑像・彩色       奈良時代(8世紀)

伝日光菩薩像          伝月光菩薩像

 

仏像の詳細は、法華堂(2)で既に行っている。貴重な奥論文の成果は、東大寺は認めず、あくまで法華堂の「客仏」として扱い、現在は東大寺ミュージアムに属する。千手観音菩薩立像に侍立する形で展示されている。日光・月光菩薩像の袖口がやや青味を帯びているが、平成の修理で、色彩が補色されたのであろうか。

重要文化財  自国天立像            平安時代(12世紀)

かって永久寺にあり、明治の廃仏稀釈時に二月堂に寄進され、東大寺の寺宝となった。左手に剣、右手には宝珠(現在は亡失)を持つ姿は、像内納入品の図像や経典の記載と一致する。宝髷、宝冠、天衣等が別財製であることがこの像の特徴であり、次の多聞天立像との相違点である。

重要文化財  多聞天立像           平安時代(12世紀)

上の持国天立像と同じく、永久寺に伝来したものであり、東大寺に寄進されて、東大寺の寺宝となった。左手は下げ、右手は握り上げる。現在は右手先は失われている。ちょうど多聞天の視線の先に失われた右手先があり、本来は掌に宝塔をのせ、これを見上げる像容だったと推察される。持国天像とは作風、構造ともに異なり、同じ永久寺に伝来してはいても、一具では無いと思われる。

重要文化財  西大門勅額  木造、彩色    奈良時代(8世紀)

平城京の二条通りの東端に西面して建てられていた西大門に掲げられた額である。門は天平宝宇6年(762)に建築あるいは修造されたことが知られる。額面には「金光明四天王護国之寺」の字は、聖務天皇お筆になると伝えられ、そのために勅額と呼ばれる。8体の仏像が補われているが、これは8体すべてが鎌倉時代の制作であることが明らかになった。一説には仏師快慶の作であると言われている。

国宝  金銅八角灯籠火袋羽目板  銅鋳製、鍍金    奈良時代(8世紀)

東大寺前面の八角灯籠の火袋に取り付けられる羽目板四面のうち、かって東北面に嵌め込まれていた一面である。音声菩薩の姿をレリーフ状に表している。菩薩は肉感表現が豊かで、下半身にはたっぷりとした裳(も)・裙(くん)を着け、天衣(てんね)や丈帛(じょうはく)を身にまとう。

 

東大寺ミュージアムは、東大寺の歴史や仏像を手軽に拝することが出来、大変便利であるが、よくよく調べてみると、「所属の不明な仏像が工芸品」が、便宜的に保管・展示される保管庫代わりになっていることが明らかになった。特に、不憫に感ずるのは、天平時代の最高傑作と目される日光・月光菩薩像が、まるで行き場所の無い仏像と見なされ、沢山の仏像類と一緒に祀られていることである。今回、東大寺ミュージアムに入り、詳細に調べてみて、「法華堂の客仏と見なされた日光・月光菩薩と吉祥天、弁財天の四体の塑像を、ミュージアム所属に改めた」とする見解である。まるで「行き場所の無い仏像を一緒にして、ミュージアム保管に改めた」と宣告したようで、悲しく、情けない思いに駆られた。多分、私は東大寺ミュージアムに二度と入ることは無いだだろう。

 

(本稿は、図録「東大寺大仏 天平の至宝  2010年」、ビジチュアル文庫(東大寺」を参照した)

歌川国芳展

辻惟雄氏「奇想の系譜」は1968年の「美術手帳」7月号から12月号にかけて連載された「奇想の系譜ー江戸のアヴァンギャルド」に加筆されて、「奇想の系譜ー又兵衛ー国芳」として出版された。発想から今年で50年を経過するが、今日でも新しい内容である。その「奇想の系譜」の最後に登場するのが、今回の歌川国芳である。従来の浮世絵の歴史は、野口米次郎氏が「六大浮世絵師」で示した春信・清長・歌麿・写楽・北斎・広重とする概念が長く受け継がれて来た。19世紀(幕末)の浮世絵師は、私の偏見でクリカラモンモンのお兄さんが活躍する浮世絵という思いこみがあった。しかし、ボストン美術館の「俺たちの国芳、わたしの國貞」展を見て、今までの偏見をきれいに一掃した。中でも国芳は素晴らしい。特に3枚続きの「化け物」は優れていると思うようになった。そういう目で美術展を観ると、ここ数年「国芳展」が開催されない年は無いと言ってもいいほど、国芳に対する見方は変わり、今更ながら「奇想の国芳」では無く、「実力の国芳」と思う程である。さて、国芳の伝記は、幸い13回忌に当たる明治6年に三囲稲荷(みめぐり)の境内に建てられた「一勇斎歌川先生墓標」に、その生い立ちや画業についての情報が伝えられていた。それによれば、国芳は寛政9年(1791)11月15日に江戸日本橋銀町(ほんしろがねちょう)に生まれ、父は柳屋吉左衛門で染物屋、国芳の俗称は孫三郎と言ったそうである。孫三郎は、7,8歳の頃から絵本を見ることを好み、12歳の時に、鍾馗の絵を描き、当時の浮世絵界の第一人者であった歌川豊国がこの絵を見て嘆賞したとことが機になり、豊国の門に入ることになったと碑は伝える。しかし、国芳の入門は文化8年、15歳の時であるとする説もあり、不明である。豊国は役者絵・美人画双方で人気を博し、門人も多く、特に国芳より11歳年長の兄弟子、国貞は役者絵、美人画で圧倒的に優位の立場にあり、国芳は長年、不遇の時代が続いた。この不遇時代に、国芳は梅屋(うめや)という終生の友を得た。この梅屋が、国芳に絶えざるアイデアを提供したのであろう。文化期には読本、合巻(ごうかん)など絵入りの読み物が隆盛し、その挿絵も浮世絵師の仕事として大きな割合を占めるようになった。その頃、中国の奇譚「水滸伝」が様々な翻訳案が作られ、文政10年(1827)に馬琴が伊勢の知人、殿村篠斎に宛てた手紙の中で、自著の「傾城水滸伝」の人気について次のように記している。「右水滸伝は、はやり候に付き、水滸伝ににしきえ、百枚出申候」。この水滸伝の錦絵とは、国芳の出世作、加賀谷版の「通俗水滸伝豪傑百人之一個(ひとり)」を指す。「水滸伝」は、これまで錦絵として取り上げられたことのない新しい題材であった。人体の動きを活写して、圧倒的な力をみなぎらせる国芳の筆力には、目を見張るものがあり、大人気を博した。

通俗水滸伝豪傑百人之一人 浪裡白桃頂順 文政11年(1828)頃 ボストン美術館

水練の達人である頂順が単身敵城に忍び込み、湧金門の水門を破ったものの、敵兵に集中攻撃を受け壮絶な最後を遂げる場面を描いたものである。四方から矢の飛んで来る攻撃に対し、頂順は果敢に戦うが、壮絶な最後を遂げる。国芳の細部にわたる表現が画面全体の緊迫感を表している。

坂田怪童丸   天保7年(1856)頃

国芳の「通俗水滸伝」シリーズのヒットは、新たな武者絵の購買層を獲得し、武者絵はシリーズ物も誕生した。「坂田怪童丸」はシリーズ名が無いが、「本朝水滸伝」シリーズと同じ様式で作られており、版元も同じ加賀谷である。怪童丸は別に金太郎の名でも親しまれており、足柄山で山姥を母として育ち、源頼光に見いだされて部下となり坂田公時の名を賜った。足柄山では金太郎絵が多いが、本作は金太郎が鯉つかみをする図であり、傑作である。鯉の体の水流の立体感、リズミカルな水の飛沫の表現が素晴らしい。

近江の国の有婦お兼   天保2年(1831)頃  原安三郎コレクション

暴れ馬の端綱を下駄で踏み付けてこれを止めたという怪力の遊女お兼の説話を描くものであるが、「イソップ物語」のライオンと馬の図との関連が、説かれて、背景の連山が「東西海陸紀行」のサン・フィンセント港から写されていることが指摘されている。蘭書の挿絵を取り込んだ事例として、しばしば取り上げられる。(国芳の革新性を示す事例である)

源頼光公館土蜘蛛作妖怪図(つちくもようかいず) 天保13年(1842)頃

天保12年(1841)頃から、老中水野忠邦によって風俗粛清、奢侈禁止を旨とした改革が行われ始め、食物や髪結い、銭湯など庶民の生活に関わる物の値段や賃料が厳しく制限された。翌13年(1842)6月には役者絵、遊女芸者風俗の錦絵出版禁止を命じ、今後は忠孝貞節を旨とすべしという街触が出された。色摺りも7,8編に限り、値段も一枚16文以上にはならぬと厳しく制限されることとなった。国芳は過料を科されることになった。代替商品として出版されたものが子ども絵、忠孝絵、静物絵などが出版されたが、巷間では次第に不満が高じていった。その中で出版されたのが、改革風刺の判じ物である。本作は、病床の源頼光の宿直(とのい)で碁を打つ四天王たちの背後には土蜘蛛が蜘蛛の糸を広げ、さまざまな妖怪が出現している。頼光を悩ます土蜘蛛の画題そのものは、四天王の一人卜部末武(うらべすえたけ)の紋が水野忠邦と同じ沢潟(おもだか)の紋であったことなどから、天保改革を風刺した判じ物であるとの浮説が立ち、江戸中の評判となった。あまりに世間の騒ぎがおおきくなったため、版元伊場屋仙三郎は配った絵を回収して版木も削ったので版元にも絵師にもお咎めはなかったとされる。無許可で模造した海賊版も多く出回って高値で売買されたとのことである。国芳の署名があっても、主版の異なる作が数種伝わっている。風刺画、判じ物が次々に出版された。

荷宝蔵のむだ書            嘉永元年(1848)

弘化2年(1845)、水野忠邦は老中職を罷免された。役者絵の禁令も次第に緩んでいった。「荷宝蔵壁のむだ書」は、土蔵の白壁の落書きを見立てた役者似顔で、釘で引っ掻いたような線が何ともおかし味のある作である。黄色の腰壁が三図(本作は真中)、黒の腰壁が二図あるが、役者は重複しておらず、五図を一組として構想したものと見られる。まさに近代のカリカチャアを思わせる傑作である。

人をばかにした人だ    弘化4年(1847)頃

額に紙片を張付けて、下から息を吹き出して飛ばす「紙吹き」という遊びをしている男の横顔で、「人の心はさまざまなものだ。いろいろくろうしてよふよふ人一にんまへになった」と書いている。人を集めて、人の顔を描いた絵である。パズルのような戯画である。

国芳もやう正札附現金男(しょうふだつきげんきんおとこ)野晒悟助 弘化2年(1848) ボストンン美術館

10人の侠客を描くシリーズものの一枚である。悟助が見にまとう髑髏模様の衣装は、「人の災いを省く髑髏目中の草を抜くがごとく」というモットーを意匠化したもので、初代歌川豊国による「本朝酔菩提全伝」挿図によって定着した。豊国の弟子国芳はこれを継承しつつ、それぞれの髑髏がネコたちが寄せ集まって形作らるという、国芳ならではのユーモアを盛り込んだ作である。張り詰めた漢気に、健気なまでの愛嬌を融合させた、伊達男の傑作である。

鬼若丸の鯉退治  大判三枚続き  弘化2年(1845)頃

鬼若丸、のちに牛若丸、源義経の郎党となる武蔵坊弁慶。比叡山延暦寺の西塔に稚児として預けられ修行していた頃、古池鏡が池に棲む人に害をなす巨大な緋鯉を退治した逸話が描かれている。銅鑼を打ち鳴らして鯉を呼び出し、鬼若丸はきっと目を見開き水面下の怪魚を見つめ、逆手に刀剣を握る童子のぷっくりとした腕に力が入る。そのかたわらで乳母の飛鳥が見守っている。国芳は大判錦絵三枚繋げてスクリーンのような大画面を作り、画面いっぱいに巨大な怪物、妖怪をダイナミックに配置して主な登場人物との大きさを強調する。ここでは黒と青の筋で表された波紋が大緋鯉の動きによって生じた臨場感を生み出している。国芳が描く巨大なバケモノと対決する歴史上のヒーローたちの姿に、江戸の人々は、大いに熱中していたことであろう。

相馬の古内裏に将門の姫君滝夜叉妖術を以って味方を集むる  弘化元年(1844)頃 ボストン美術館

江戸時代の読物で、平将門没後の後日譚「うとう安方忠義伝」(山東京田著)の一場面をダイナミックに描いたものである。下相馬にかって将門が築き、朽ち果てた古内裏で、平安時代の武者源頼信(よりのぶ)の家臣大宅太郎光国(画面中央)が、妖術を操る将門の姫君滝夜叉姫と対決する場面。光国が姫を守ろうとする荒井丸をねじ伏せたとき、御簾を打ち破り巨大な骸骨が襲いかかる。国芳は迫力あるバケモノに変更することで、見る者の度胆を抜いた。国芳は骸骨を描くにあたり、「解体新書」などオランダから伝わった解剖書を参考にしたものと思われる。三枚続きの錦絵は多いが、それを利用して巨大なバケモノを画面一杯に演出したのは、国芳が、初めてであろう。圧倒される。

讃岐院眷属をして為朝をすくふ図 大版錦絵三枚続き 嘉永4年(1851)頃

平安末期、皇位継承に関わる内戦の保元の乱(1156)で、崇徳上皇に味方して敗れた強弓の武将、鎮西八郎為朝が活躍する伝奇小説「鎮西弓張月」(ちんぜいゆみはるづき)の一場面である。父の仇、平清盛を討つため出帆した為朝の船は、暴風雨のため難破した。妻の白縫姫(画面左下)は身を投じて、海を鎮めようとする。自らの悲運を嘆き、切腹しようとする為朝を、讃岐院(崇徳上皇)が遣わした烏天狗が押し止める。その時、為朝のために忠死した家臣高間太郎(たかまたろう)とその妻が乗り移った巨大な鰐鮫が海中より現れ、嫡子の昇(す)天丸を抱える喜平治(きへいじ)を背に乗せ救い出す。この国芳が生み出す奇抜な構図によって、江戸の人々は壮大な架空戦記の世界に一舜で虜になったであろう。

 

この展覧会は府中市美術館が3月11日より5月7日まで開催している展覧会である。副題は「21世紀の絵画力」であった。美術館で購入した図録は、かなり高い2800円であった。しかも講談社刊で、図録ではなく、一般書店でも販売できる形になっていた。多分、府中市美術館のみでは、販売し切れない事情があるのであろう。その内容を一部引用する。「今の国芳ブームには、半世紀近く前に出版された、ある本が関わっていると思われます。辻信雄氏の「奇想の系譜ー又兵衛ー国芳」・1970年ーです。それまで、江戸後期の浮世絵は退廃、爛塾と言う言葉で語られてきましたが、国芳の創作性や画力に着目した同書は、そんな固定化した見方から解放する大きなきっかけとなりました。今回の展覧会に際しては、株式会社講談社から一般書籍として販売する形をとらせていただくことにいたしました。そうした形である以上、通常の図録としての内容はもちろん、出品作品以外にもさまざまな作品や資料を掲載するなど、展覧会をご覧になれない方々にも国芳の醍醐味を味わっていただけるよう工夫いたしました。」実は、この図録の性格を知らないで、私は購入した。帰って、読んでみて、どうも図録としては、納得できないものを感じた。先程の「ごあいさつ」は、図録とは別途に印刷され、挟み込まれていたので、全く図録の意図を知らずに買った次第である。このような図録の有り方には納得できる。しかし、図録の内容には、いささか納得できない部分もあり、昨年見た「ボストン美術館 俺たちの国芳わたしの国貞」の図録や写真を参考にして、国芳の出発から最後のスクリーン型の大画面までを時間を追いながら解説する方法を採用してみた。従って、この展覧会とは、すこぶる内容の異なる解説となった。私は国芳を解読するには、一度時間を追って解説する方式を採用しないと、国芳の良さが、伝えきれないと思ったからである。従って、この展覧会の意図(「21世紀の絵画力」)とは、全く離れた内容となった。この展覧会では、「何故21世紀の今、国芳が注目されるのか」を探っているが、それは殆ど無視して、江戸の人々が何故、国芳に夢中になったかを追跡してみた。多分、結果は同じことになると思う。改めて図録を、しっかり読み直してみたいと思う。

 

(本稿は 、図録「歌川国芳 21世紀の絵画力 2017年」、図録「ボストン美術館 俺たちの国芳渡わたしの国貞  2016年」、岩切友里子「国芳」、大久保純一「浮世絵」、図録「大浮世絵展  2014年」、辻惟雄「奇想の系譜」を参照した)