「バベルの塔」展(2)

 

「旧約聖書」は、特に冒頭に位置する「創世記」に記された物語はキリスト教徒にとっては、欠くべからざる教養であり、「創世記」に記された物語の造形化は、ローマ末期にキリスト教公認の前後から盛んに行われてきた。例えば「アダムとイブの原罪」・「「アベルを殺すカイン」・「ノアの方舟」・「バベルの塔」等、数えきれない名画や名作として伝えられてきた。キリスト教徒でもない、私でも、これらの物語は、小説や図像や、映画で何回も見ており、日本の神話以上に詳しい。これに較べて日本の神話は惨めである。現在、日本の子どもで、満足に日本神話を知っている子供は皆無であろう。日本神話に関する絵本も無い。(マンガの世界は知らない)私は、神話とは、民族の旧い記憶であると考えている。確かに、戦前、日本神話を悪用して「天皇は神である」という滑稽な話を創造して、日本を危険な方向に導いた人は多数いた。しかし、私は子供心に「神話は神話、本当の話ではない」と、思い続けたが、しかし「民族の記憶」として、何かしら、遠い記憶に繋がるエトバスがあると考えていた。キリスト教徒は、創世記に書かれたことは、かなり真実として理解しているようである。「絵で読む聖書」「聖書名画集」等で、大人も子供も親しんでいるようである。また新約聖書の「最後の晩餐」はダビンチの名画として残り、これを真実と思い込んでいるキリスト教徒は、大半であろう。さて、ブリーゲルの「バベルの塔」は2枚ある。1枚はウイーン美術館の「バベルの塔」であり、こちらの絵が大きく、画集に載るのはこちらが多い。これに較べるとボイスマン美術館の「バベルの塔」は、サイズが4分の1程度であり、基本的にウイーンの絵の「焼き直し」と捉えられているせいか、知名度も低い。しかし、実際に、ボイスマン美術館の「バベルの塔」に接して見ると、色彩の鮮やかさなど、第一作に比べて見劣りしない、第一級の絵画である。東京芸術大学では、3DによるCG画法を用いて原作の30倍以上の大きさで、展示している。(7月2日まで)3分間、CGが映し出され、その後「落雷、消灯」で終わりを告げ、また3分間のCG映写が始まる。之を見ると、いかに精彩に描かれているか、「マクロトとミクロ」の統合が行われているか等、学ぶべき点が多い。絵画をご覧になる方は、是非、東京芸大まで足を延ばして頂きたい。

「バベルの塔」 ブリューゲルⅠ世作  油彩・板 1568年ボイスマン美術館

旧約聖書の「創世記」の末尾に「バベルの塔」の物語は、次のように記されている。”世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住みついた。彼らは「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして全地の散らされることのないようにしょう」と言った。主は降ってきて、人の子が建てた、塔の有る町を見て、言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱させ(バラル)、また、主がそこから彼らを全地に散らかされたのである。”(「創世記」11章ー9節)聖書ではバベルを地名として、混乱を意味するバラルをその語源として説明しているが、今日では「バベルの塔」はバビロンにあった大規模なジックラッド(階層式構成の角型の塔)が伝説化されたものと考えられている。

バベルの塔(最上部) ピーテル・ブリューゲルⅠ世作    1568年

材木で足場を組んだ上に煉瓦をはめて固定し、足場を解体する当時の建築技法が正確に描かれている。赤い表面からはまだ煉瓦が新しいことがわかり、時間が経過したことを感じる。土色の底辺部との違いが際立っている。

バベルの塔(中央部左側) ピーテル・ブリューゲルⅠ世作   1568年

ブリューゲルの観察力の鋭さは、煉瓦の色の違いを見ると良くわかる。低層部・中層部が風雨にさらされて灰色なのに、最上部が鮮やかな赤を保つのは、工事が大変に長く続いているせいだろう。地上から頂上部へ漆喰を運んだ白い痕がついている。運搬の途中に落ちた漆喰の粉をかぶったのか、真っ白になった人々の様子が描かれている。中層部にも上層部にも、働く大勢の人がいる。全部で1400人余の人が描かれているそうだ。

バベルの塔(中央部左側)  ピーテル・ブリューゲルⅠ世作  1568年

16世紀のネーデルランドの港などで荷揚げに使われたクレーンの様子が描かれている。人が綱を引くことで、車輪がロープを巻き取り、ロープに吊るされた荷物を引き上げる様が描かれている。ブリューゲルは16世紀の建築や土木技術にも強い関心を向けていたことが読み取れる。

バベルの塔に描かれた沢山の舟は、ブリューゲルが舟の構造について詳しい知識を持っていたことを示すものである。当時のネーデルランドの航海術は、ヨーロッパでは独特の地位を占めており、木材を輸入する際には海路を利用していたから、港の周りには材木が並ぶ様子も描かれている。

バベルの塔(上層部右側) ピーテル・ブリューゲルⅠ世作   1568年

雲が掛っている。それ程の高さなのであろう。上層部にも工事のための仮小屋が立ち、下から煉瓦を運んだのだろであろう。働く人たちが点で表されている。マクロとミクロの見事な調和である。

 

「バベルの塔」は、人間の愚かさに神が鉄槌を下す物語である。手にした技術を駆使して、天にも届かんとする塔の建設を企てた人間への制裁。ブリューゲルが絵の舞台に選んだとされる当時のアントワープは国際貿易のハブとして最盛期を迎え、建設ラッシュだっただろう。この絵には人々への戒めの意図があったのだろうか?ボイスマン美術館のフリーゾ・ラメルツさんは「確かに戒めの意図もあったろう。しかし鉄槌が下る前の良き時代をポジチブに振り返る絵、とも解釈できます。」この1568年こそ、オランダはスペインから独立すべく80年戦争が勃発した記念すべき年であったのである。

 

(本稿は、図録「バベルの塔展   2017年」、2017年1月号「大人のOFF」、朝日新聞記念号外「別摺り特集」、岡崎邦彦「繁栄と衰退」を参照した)

バベルの塔展(1)

東京都立美術館で、ボイスマン美術館所蔵の「バベルの塔」展が7月2日まで開催されている。オランダ絵画については、17世紀の南のルーベンス、バンダイク、北のレンプラント、フェルメール程度の知識しか持っていない私には、それより古いオランダ絵画を見るのは初めての経験であった。「初期ネーデルランド美術」とうたっているが、そもそもネーデルランドとはどの場所を指す言葉だろうか。図録の説明によれな、ネーデルランド(低湿地諸邦)は、およそ現在のベルギーとオランダに相当する地域であり、政治的に融合された地域ではなく、南(現在のベルギー地方)はフランス伯領、ブラバンド公領、北(現在のオランダ)はユトレヒト司教領、ヘルデルン公領、ホラント州、ゼーラント州が割拠していた。14世紀末以降はこれら所領の多くがハプスブルグ家の領土に組み込まれ、1543年にはハプスブルグ家出身の神聖ローマ皇帝カール5世が最後の州を征服し、17州の名で呼ばれる国家が創設された。しかしやがて各地域の伝統、法律、社会体制を犠牲にして中央集権制度を強化しょうとする皇帝の試みに抵抗運動が起こり、これらが特に都市部での反乱へと繋がっていく。低地諸邦はヨーロッパでも最も都市化の進んだ地域の一つだった。15世紀にはヘント(ゲント)とブリュッセル(ブリュージュ)、16世紀にはアントウエルペン(アントワープ)とブリッヘ(ブリュージュ)が最大の規模を誇るようになった。北部の諸都市、ユトレヒト、アムステルダムは遅れをとった。当然、宗教画が一番もてはやされたが、1500年頃になると、「奇想の画家」と呼ばれるヒエロニムス・ボスが最も有名な画家となり王侯貴族や富裕な貿易商が顧客となった。ボスは、大胆に自作に署名した最初のネーデルランド出身の画家となった。

放浪者(行商人) ヒエロニムス・ボス作 油彩・板  1500年頃

ヒエロニムス・ボスは、日常生活の風景を始めて絵に描いた画家の一人である。この絵でボスが描いたのは行商人で、背負子(しょいこ)を結んだものから判断すると、猫の皮と木の杓も商うようである。帽子に錐で糸を留めているから、靴の修繕もするのであろう。服がほころび、左右不揃いの靴を履いているには、貧しいからに違いない。この男は、背後の荒れ果てた建物で、金を使い果たしてしまったのであろう。鳥籠の中のカササギは、屋根の棟に刺した棹の先に掛るジョッキ、鳩小屋と白鳥のの看板とくれば、これは娼婦の家であることは一目瞭然である。男が宿から今しも出てきたところか、それとも通りすがりか、あるいは後戻りを思案中か、知る術がない。最新の解釈では行商人は男性一般を象徴する。男は誰しも、ありとあらゆる誘惑にさらされる。ここではそれがもっぱら色事にまつわる。絵が円形なのは、おそらく鏡を仄めかすのだろう。元々この作品は三連画の両翼の外側に描かれた2枚の絵であった。これら3練画は、おそらく19世紀に、いくつかに切り分けられた。両翼の外側の2枚の絵は接着されたうえで、切り詰められたに違いない。一部を切り取って八角形にしたのが誰であれ、「放浪者(行商人)」に当初から独立した作品として描かれたという印象を与えたいと願ったに違いない。

聖クリストフォロス  ヒエロニムス・ボス作  油彩・板  1500年頃

巨人レブロスは世界で最も力のある人に仕えたいと願い、危険な川を渡ろうとする旅人を背負い、対岸に送り届けていた。ある日、小柄な少年を向こう岸に連れて行くことになったが、歩むほどに少年の身体は重くなり、対岸に着くのがやっとのありさまであった。レブロスが少年になぜそれほど重いのかと問うと、世界と世界の創造者をともに背負ったからと返答があった。巨人はクリストフォロス(キリストを担う者)に改める。ボスは赤い外衣をはためかせ、大股で川を渡る巨漢の姿を描く。手にする杖から生える小さな葉は、少年が真に神の子であることを示すため、枯れ枝に生やしたものである。キリストの最古のシンボルの一つである魚が、杖に吊るされ血を滴らせている、これはキリストが十字架につるされて死ぬことを指している。隠者の背後の木には奇妙なものがこまごまと描かれ、たとえば巨大な水指しの頸部に第二の隠者と思わしき小男が立ち、灯をともしたランプを結わいたロープを枝にかけて狼煙にしている。水の周辺では、小男が蜂の巣に近づこうとする。木の根元近くに繋がれた狐の死骸は、別の木の枝に吊るされようとしている射殺された熊と同様、悪に対する勝利を示すものとも考えられる。色々と不思議な現象や物が目立つ絵である。このボスに倣った絵が沢山出品されていた。ボスの影響力が窺える。それは「ボスのように描く」という第5章にまとめられている。

野ウサギ狩り ピーテル・ブリューゲルⅠ世作  エッチング  1560年

この作品はブリューゲルが図柄を考え、自ら版刻した唯一の版画として名高い。手前の丘から峡谷超しに広々とした風景を望むことが出来る。前景に少人数の人の姿がある。ブリューゲルの緩やかな描写、無数の短い筋や点を伴う不揃いな線の扱いは当時としては珍しく、17世紀のレンプラントの作品に見られる自由なエッチングを予感させる。これによって素晴らしい光の効果も生まれた。

聖アントニュウスの誘惑 ピーテル・ブリューゲルⅠ世作  1556年

聖アントニュウスはエジプトの砂漠で隠遁生活を送った修行僧である。紀元356年に没した後、聖人として敬慕された。伝説によると、アントニュウスは悪魔が徳義に至る道を踏み外させよと企み繰り出すありとあらゆる誘惑に見事うちかった。悪魔の仕掛けるこうした誘惑は、画家の絵心を大いに誘う。この版画でブリューゲルは自らの想像力ばかりではなく、ヒエロニムス・ボスの得意としたモチーフの宝庫を存分に生かした最初の作品である。多くの作品には聖アントニウスを誘惑しようとする女性が描かれるが、ここでは木のうしろで楽器を奏でるひとりを除いて登場しない。何より目立つのは無論、川中に浮かぶ巨大な男の頭で、巨大な魚を載せ木まで生やして奇観をなしている。

金銭の戦い ピーテル・ブリューゲルⅠ世作  板版   1570~72年

「貯金箱よ、樽よ、金庫よ、いざ進め/この闘いも、すべて金と財産のため」。この版画の銘文の意味するところは明らかだろう。すべての悪弊の源は強欲にある。金欲しさのため、人々は我勝ちに烈しく闘う。半身を巾着、財布、金庫に変えた兵隊や騎士たちが、剣、短刀、槍をかざして互いに切り刻む。ユーモアと教訓が手を取り合い、画面にひしめくこの版画はブリューゲルの原画をもとに、作者の没後間もなくアントウエルペンのピーテル・ファン・デル・ヘイデンの手によって彫版され、ヒエロニムス・コックの未亡人により出版された。この作品は、ネーデルランドの交易の中心地アントウエルペンでは、商業、金融が栄えた。ブリューゲルはそうした活動をこの暗部ー強欲、蓄財、私欲ーを創意豊かに暴露し、笑い物にしたのである。しかし、私は、ここから逞しく資本主義が生まれたのだと思う。

バベルの塔  ピーテル・ブリューゲルⅠ世作  油彩、板  1568年

今回の展覧会は、この絵を見る為に、私は半日を費やしたのである。実に見事な絵であり、感激した。旧約聖書の冒頭に「創世記」がある。その中身は「アダムとイブの原罪」、「楽園追放」、「アベルを殺すカイン」、「ノアの洪水」、そして神話的部分の最後に当たるのがこの「バベルの塔」である。この物語の骨子は、思い上がった人々による「天まで届く塔」の建設を試み、その高慢さに立腹した神は「言語の混乱」により、互いの言葉を理解出来ないようにして全地に散らせたのである。「バベルの塔」は多くの画家によって描かれたが、ブリューゲルは2作を作っている。彼はイタリア留学の際に見たローマのコロッセイムは下書きになったことは間違いあるまい。旧約聖書が初めて印刷されたのは15世紀紀後半であった。以降、多くの画家がこれを描いたが、ブリューゲル以前は四角い低層の塔として描かれていた。ブリューゲルの描いた螺旋状の巨塔を目にした当時の人々は、さぞ驚いたことであろう。バベルの塔は、人間の高慢に対する教訓としての物語である。戒めを強調するため、神々の怒りが強風となって塔を崩壊させる様子を描く画家もいた。しかしブルューゲルはむしろ、物語の途中である塔の建設場面を描いている。ボイスマン美術館のシャーレル・エックス館長は「神の怒りよりも、人間が挑戦する場面を選んでいる」と話す。他の追随を許さぬブリューゲルの特徴は「マクロとミクロの統合」である。すなわち巨視的な視点に基ずく大胆かつ明快な構図とディテールにおける驚くべき細密描写が無理なく両立している。「バベルの塔」に描かれた人間の数は1400人に及ぶという。豆粒よりも小さい人々が描き込まれている。ブリューゲルは螺旋状に塔を描くことにより、まるで無限大に、塔が拡大できるように思わせる。兎に角、16世紀の絵画とは思えない壮大な「バベルの塔」である。

 

ブリューゲルの「バベルの塔」は、何故螺旋だったのか?この絵画のバベルの塔の巨大画面を制作した東京芸術大学大学院教綬の宮廻正明先生は「ブリューゲルが表現したかったのは螺旋のエネルギー」と分析している。「螺旋は無限に上昇する構造で、永遠の時間や進化の営みを含意します。塔が未完なのも、螺旋のエネルギーには終わりがないからでは」。バベルの塔は、人間の愚かさに神が鉄槌(てっつい)を下す物語である。天に届かんとする塔の建設を企てた人間への制裁ー。実はブリューゲルが絵の舞台にしたとされる当時のアントワープは国際貿易のハブとして盛期を迎え、建設ラッシュだった、とすると、この絵には人々の戒めの意図もあったのか。「確かに戒めの意もあるでしょう。でも鉄槌が下る前の良き時代をポジチブに振り返る絵、とも解釈できる」と、ボイスマン美術館のフリーゾ・ラメルツさんは語る。「宗教革命で価値観が揺らぎ、また、制作年のまさにその年、オランダではスペインから独立すべく80年戦争が勃発した。崩れるものへの警告であると同時に、人々が協力して作り上げるバベルの塔は、希望の象徴でもあったのではないでしょうか」と語る。

 

(本稿は、図録「バベルの塔 2017年」、図録「栄光のオランダ絵画と日本 1993年」、日経大人のOFF「2017年1月号」、朝日新聞号外「別摺り特集」、岡崎邦彦「繁栄と衰退」を参照した)

新薬師寺   十二神将の寺

奈良市街地の南東方の高畑町にある寺院である。かって、志賀直哉がここに住み「暗夜行路」の筆をとった所である。だらだらと数百メートルの歩んだ先に、崩れ落ちた土塀に沿った小径を愉しみながら歩くと、新薬師寺の東門に着く。それを過ぎて右へ曲がると、南門に達する。「新」薬師寺は、薬師寺と混同を防ぐために「新」と付けたという意見と、「新」には「大きい」という意味があると説く人がいるが、どちらが妥当かは私には分からない。この寺の創建については正史(続日本紀)は何も語っていない。平安時代末頃に成立した東大寺要録という本によれば、天平19年(747)3月、聖務天皇の御病気平癒の祈願として、光明皇后によって建立されたものと伝える。丁度、大仏鋳造が行われた年である。東大寺要録には、次のように伝える。                         十九年丁亥三月、仁聖皇后、縁天皇不予  新薬師寺並造仏七仏薬師像     また   新薬師寺亦名香薬師寺   仏殿九間在七仏浄土七躯 左寺仁聖皇后之建立也  実忠和尚西野建石塔、為東大寺別伝、云々             とあり、仁聖皇后というのは光明皇后の諡名(おくりな)である。この寺の規模は良く判らなかったが、「仏殿九間」といい、宝亀11年(780)落雷により西塔・金堂・講堂を焼失したという。この要録の記事から察すると、東西に塔を備えた七堂伽藍完備の大寺院であったことがわかる。(詳細な歴史については、最後の文章で詳しく解説する)現在の本堂は、宝亀11年(780)の雷火に焼け残った、この寺唯一の天平の建物だが、果たして創建当初の何に当たるのであろう。金堂などの主要建物ではなく、食堂(じきどう)かなにか焼け残ったものであろう。

重要文化財  東門   木造・本瓦葺        鎌倉時代

お寺は、大半が焼け衰退したが、鎌倉時代になって解脱(げだつ)・明恵(みょうえ)両上人が一時この寺に住んだ時、再興した。東門、南門、地蔵堂、鐘楼がこの時期に建立された。

重要文化財 南門  木造・本瓦葺           鎌倉時代

現在の新薬師寺の表門であり、この南門から見る本堂正面は、素朴でしかもゆったりとした優雅な気風をたたえる。

重要文化財  地蔵堂  木造・本瓦葺        鎌倉時代

地蔵堂、鎌倉時代に、この新薬師寺に造立された。景清地蔵菩薩像と通称する鎌倉時代の菩薩像が有り、明治22年(1869)に近隣の地蔵堂から遷されたものである。昭和58年(1983)に。この像の解体修理を行ったところ、内部から裸形像の体部が発見された。納入文書により、この像は興福寺別当を勤めた実尊の追善のために弟子の尊編が造らせたことが判明した。「おたま地蔵」として寺内の香薬師堂に安置している。

重要文化財  鐘楼  木造・本瓦葺        鎌倉時代

解脱(げだつ)・明恵(みょうえ)両上人が、この寺に住んで再興した時の建造物であり、時代を感じさせる建物である。鐘楼の風情はなかなかのものである。

国宝  本堂  入母屋造、本瓦葺         奈良時代(8世紀)

やや本堂にしては屋根が低い印象である。この堂は宝亀11年(780)の雷火に焼け残った、この寺唯一の天平の建物である。果たして創建当初の何に当たるのか。二重壇の上に七間と五間、単層入母屋本瓦葺きの屋根を乗せてしっかり建てられた安定感や、伸び伸びとした大棟、ゆるやかな屋根勾配、深い軒の出、太く簡素な柱と木組みの線、天平建築のみが持つ気品と体臭を感ずる。同時代の唐招提寺金堂とやはり時代的に通じる共通した気品を感ずる。より以上に簡明であるのは、もともとこの堂が、金堂などの主要建物ではなく、食堂(じきどう)か何かの焼け残ったものであるためなのだろう。内部はカワラ敷きの土間、中央五間・二間が内陣で、周囲の一間通りが外陣になっている。内外陣とも化粧屋根裏で、大杜、肘木、虹梁、又首などの構造法はいずれもいたって簡単に要領よく間とまとめられており、外観のみではなく、その内部からも天平の気品が満ちあふれている。

国宝本尊薬師如来坐像と十二神将造平安時代と奈良時代(8世紀)

内陣の中央、白漆喰でつき固めた円形の土壇という珍しい仏壇の上に本尊薬師如来像(国宝・平安時代)であり、これを取り囲むようにして十二神将が円形を描いて安置されている。塑像十二神将立像(国宝・奈良時代)。約1・8メートルの塑像群が、円陣をつくって思い思いの姿態で立っている様はまさに圧巻である。十二神将は薬師如来の十二本願を守護する武将たちで後世もその作例は多いが、塑像で、しかも等身大の堂々たる法量を持ち、写実とともに内造する精神を持ち、制作年代も奈良時代であるというこれらの像に勝るものは無い。十二神将の白眉の像である。これらの像は、元来、この新薬師寺に伝わったものではなく、もと高円山にあった岩淵寺が荒廃したので、ここに移しものだと言う。十二体のうち波夷羅大将の一体は最近の後補であり、国宝ではない。十二神将の塑像の美しさもさることながら、この円陣を組む構成の美しさは他に比類を観ないものと思う。

本尊  薬師如来坐像  木造      平安時代初期(8世紀末頃)

制作年代は記録が無く不明であるが、新薬師寺の創建期までさかのぼらず、平安時代初期・8世紀末頃の作と見られる。坐像で高さ約2メートル近い。頭、躰の主要部分はカヤから造り出し、これに脚部、両脇の一部を繋ぎ合わせるように造られている。一般の仏眼に較べ眼が大きいのが特徴で、「聖務天皇の眼病を光明皇后が眼病平癒を祈願して新薬師寺を創建した」との伝承がある。(まったく逆の伝承もある)昭和50年(1975)の調査の際、像内から平安時代初期と見られる法華経8巻が発見され、国宝の「附(つけたり)」として指定されている。光背には六体の化仏が配されていて、像本体と合せると七体となり「七仏薬師経」を表現していると見られる。(詳細は、後の文章を参考にしてもらいたい)

国宝  十二神将像のうち迷企羅(めきら)像       奈良時代(8世紀)

十二神将と言えば、迷企羅像である。本尊に向かって右側に立つ迷企羅(めきら)像は、私の好みであり、カット眼を開き、怒りを表す像の魅力は最大である。会津八一氏は鹿鳴集の中に歌を残している。「たびびと に ひらく みどう の しとみ より めきら が たち に あさひ さしたり」やはり会津八一氏も、一番好んだ神将だったのであろう。それどころか、入江泰吉氏も、迷企羅像の、素晴らしいカットを残している。十二神将のすべての写真があるが、この像のみで、他は類推して頂きたい。

国宝  十二神将立像のうち迷企羅像    奈良時代  入江泰吉氏撮影

入江泰吉氏は、氏の写真集である「入江泰吉大和古寺巡礼 全6巻」の内の「第1巻 平城京」の中の「新薬師寺・十二神将」の項で、迷企羅像の写真を出して、次のように述べている。「本尊薬師如来を取り囲む守護神、十二神将のなかでも特に傑出した天平期の仏像である。悪魔を取り払う勇猛さが全身にみなぎって、私の好きな仏像の一つである。」この入江泰吉氏の言葉を見つけた私の思いは、いかばりであったろうか。入江泰吉氏は、昭和20年代に大和古寺巡礼をした者にとっては、神様のような存在であった。その思いは今も変わらない。

国宝  十二神将  迷企羅像   彩色再現CG  奈良時代

彩色は、奈良県立大学の研究者が色付けしたものである。「三次元レーザー計測で迷企羅大将の三次元化を行い、鮮やかに彩られていた天平時代の彩色を再現した」と説明している。尚、お寺では、この彩色の過程をテレビ化して、映像を流している。しかし、このまばゆいばかりのメキラ神将は、私には違和感が大きい。

今は無き香薬師像

このお寺には、もう一体の代表的な仏像があった。白鳳期の造仏を代表する傑作であった。この仏像は、小さいためか、可愛いためか、明治期に2回盗難にあい、2回とも短期間に発見された。しかし、昭和18年(1943)に盗難にあったまま、行方が知れない。もう70年以上経過するので、発見は難しいと思われる。誠に痛恨の極みである。白鳳仏の愛らしいお姿であるだけに、痛ましい。現在は、模作が展示されている。

会津八一氏歌碑                昭和時代(20世紀)

この無くなった香薬師像を会津八一氏がうたった歌碑である。「ちかづきて あふぎ みれども みほとけ の みそなわす とも あらぬ さびしさ」

重要文化財 十一面観音菩薩立像  木造彩色  平安時代(11世紀)奈良国立博物館寄託

平安時代初期の代表作である国宝・薬師如来坐像を安置する新薬師寺本土に伝来し、ある時期に薬師寺像の脇侍として安置されていた。きわめて保存状態の良い像で、頭上面の大半や体側を垂加する天衣(てんね)の遊里部、表面の彩色、また光背、台座まで当初のものを伝える。腹部に塑土(そど)を盛り上げて成形する珍しい技法を併用する。木製の板光背を負うことや、胴板切抜きの宝冠をつけるところなど、室生寺金堂の十一面観音像に通ずる。室生寺像に比べ制作年代は1世紀近く降るかもしれないが、南都の技法の伝承があったことを推測させる。この素晴らしい十一面観音菩薩立像が、万一新薬師寺の薬師如来坐像の脇仏として立っていたら、観光客は、現在の10倍になったであろう。それほど素晴らしい菩薩像である。これお奈良国立博物館で発見した時は、正に天にも昇る気持ちであった。この寄託仏の写真をお見せするのは、多分私が最初だろう。

重要文化物 准聤観音(じゅんていかんのん)菩薩立像 木造 彩色 平安時代(10世紀)奈良国立博物館寄託

千手観音として指定されているが、儀軌(ぎき)に合わず、准聤観音(じゅんていかんのん)である可能性が考えられる。サクラ材を用いた一木造りの像。原材の丸太を思わせるような体形や、像内に丸枘穴(まるほぞあな)をあけて台座から出した枘を差し立てる仕様など、平安時代中期の特徴が認められる。現在の表面の彩色は少し下った時期のものとみられ、光背も鎌倉時代の補作であろう。台座の蓮弁の一枚に天禄元年(970)の墨書銘があり、これを造像年と見なす見解がある。奈良・新薬師寺蔵(多分、これは新薬師寺の関係者が戦後、売りに出したものが文化庁の手に入ったものであろう)そういう意味で、この観音菩薩像は、戦後の荒れた人心を示す見本であろう。(新薬師寺が荒れていた時代があったそうだ)なお、私見として、この2体が本尊の両脇に立つ侍仏と見たい。(そうなれば、国指定通り千手観音菩薩立像と見ることができる)

 

正史に創建時の歴史が記録されないため、平安末期に成立した東大寺要録で、この寺の歴史が語られることが多い。東大寺要録によれば、新薬師寺は東大寺の末寺であり、同書の巻1には「天平19年(747)、光明皇后が夫聖務天皇の病気平癒のため新薬師寺を建て、七仏薬師像を造った」とある。同書巻6・末寺章によれば、新薬師寺は別名香薬師寺といい、九間の仏堂に「七仏(薬師)浄土七躯」があったと言う。「続日本紀」によると天平17年(745)9月に聖務天皇の病気平癒のため、京師と畿内の諸寺に薬師悔過(けか)の法の実施命じ、また諸国に「薬師仏七躯高六尺三寸」の造立を命じている。新薬師寺の創建は、この七仏薬師造立の勅命にかかわるものと見られている。先に述べた通り、新薬師寺には香薬師寺という別名があったと伝えられているが、「正倉院文書」によれば、これとは別にやはり光明皇后創建と伝える「香山寺」という寺の名が見られる。正倉院には、東大寺の寺地の範囲を示した[東大寺山偕四至図」という絵図がある。この絵図を見ると、現・新薬師寺の位置に「新薬師寺」、東方の春日山中に[香山寺」の所在が明記され、絵図が完成した天平勝宝8年(756)の時点では、この両寺院は併存していたことが明らかである。福山敏雄博士は、次のように説明している。「続日本紀天平17年(745)9月の条に聖務天皇不予のため京師・畿内の諸寺及び緒名山浄所において薬師悔過の法を行わせたのは,香山寺が京師近傍のため、それにあたるのではないか。その後更に、皇后の御願として西方の平地に大規模な七仏薬師堂が建てられ、これを新薬師寺と呼び、香山の上の堂との由緒上つながりによって、香山薬師寺とも称されたものと考える。こうして七体の薬師像を本尊として規模を誇った新薬師寺も宝亀11年(780)金堂・講堂・西塔を雷火に失い、延暦12年(793)東大寺領の中から百戸を割いて修理料にあてた等の記事が見える。応和2年(1162)、台風のために金堂以下諸堂が倒れた後は、昔年のおもかげを失った。その後、鎌倉時代になって解脱(げだつ)・明恵(みょうえ)両上人が一時この寺に住した時に再興し、東門、南門、地蔵堂、鐘楼(いずれも重文)が建立された。平成20年(2008)、奈良教育大学の校舎改築に伴う発掘調査が行われ、同大学構内で新薬師寺金堂跡と見られる大型建物跡が検出された。同年10月の奈良県立大学の発表によると、検出された建物跡は基壇の規模が正面54メートル、奥行27メートルと推定され、基壇を構成したと思われる板状の凝灰岩や、柱の基礎を支えていたとみられる、石を敷き詰めた遺構などが出土した。当地は現・新薬師寺の西約150メートルに位置し、先に述べた「東大寺山境四至図」にある新薬師寺の七仏薬師堂に相当する建物跡と推定されている。更に十二神将像について、会津八一氏は南京新唱の注で、次のように述べている。「本尊薬師如来像を囲む十二神将は、本尊よりも古き様式を持つのみならず、廃絶せる岩淵寺より移入せるという伝説あり。またこの寺の最初の十二神将は、何の時か興福寺の衆徒のために奪い去られて、その寺の東金堂の段上に陳列され居りしことは、保延6年(1140)の「七大寺巡礼私記」に記しあれども、これ等の神将像は、かの治承4年(1180)の罹災によりて全滅して、今また見るべからず」誠に、この寺の十二神将像は、多難な歴史を辿って、私たちに美しいフォルムを見せてくれているのである。

(本稿は、青山茂他「大和古寺巡礼」、会津八一「自注鹿鳴集」、探訪日本の古寺第12巻「奈良Ⅲ」、入江泰吉大和古寺巡礼「第1巻 平城京」、原色日本の美術「第3巻 奈良の寺院と天平彫刻」を参照した。)

畠山記念館  茶の湯の名品ー破格の美・即翁の眼 

今年に入って「茶の湯」に関する美術展が非常に多い。国立近代美術館「茶碗の中の宇宙 楽家一子相伝の芸術」(3月14日~5月21日)、東京国立博物館「特別展 茶の湯」(4月11日~6月4日)、出光美術館「茶の湯のうつわ」(4月15日~6月4日)等大型美術館が、「茶の湯」美術展を開催し、いずれも若い人達であふれている。一方、近代の数寄者ー畠山即翁の美術品を集めた「畠山記念館」は「茶の湯の名品ー破格の美・即翁の眼」(4月8日~6月18日)は、名品を展示しているのに、来客の数は少ない。私は、5月25日(木)の午前11時頃に入館したところ、せいぜい10名程度の入館者で、空いていた。今回は、創建者の畠山即翁の茶道具コレクションから、誰しも名品と認める極め付きの逸品が多く展示されていた。国宝、重要文化財も多く含まれていた。例えば、「重文 伊賀花入 銘からたち」など、破格の造形に特徴がある桃山茶陶を拝観できた。また生前の即翁が当館の展観で披露した茶道具も再現して並んでいた。近代最後の数寄者と言われた畠山即翁が愛した名品を通して茶の湯を考える好機であった。しかし、残念ながら拝観者は少ない。しかも、期間中「重文 竹林七賢人図屏風 雪村周継筆」を特別公開していた。何故、これだけの名品が揃っている、「茶の湯の名品」を拝観しないのか、私には理解できない。白金台で環境も良い。私の好みの美術館である。是非、一度足を運んで頂きたい。

国宝 林檎花図(りんごはなず)伝超昌(ちょうしょう)筆南宋時代(13世紀)

中国の花卉画で花木の一枝を画いたものを「折枝」と呼ぶ。林檎の花の一枝を描いた本図は古来北宋の折枝画の名手、超昌の作との伝承が付されてきたが、実際の制作は南宋と考えられ、南宋期院体花鳥画の洗練された様式を示す優品である。林檎の花はわずかに赤みを帯び、美しく開いたもの、ほころびかけたもの、まだ蕾の花はわずかに赤みの中に画き込まれている。超昌筆とされた画は日本の茶人に好まれ「君台観左右帳記」の中でも高い評価が与えられているほか、「宗湛日記」、「津田宗及茶湯日記」などの茶会記にも掛物として使用されたことが記され、茶人の間での高尚のほどが知られる。東山御物(ごぶつ)クラスの名品であり、千利休以前の茶人に愛好された作品であろう。

十二ケ月花鳥図の内(6月 百合・葵に雀)酒井抱一作 12幅絹本着色 江戸時代(18世紀)

抱一作品のなかに、十二ケ月花鳥図と呼ばれる十二図一組の作品群がある。各月にちなんだ花と鳥を十二図に描く十二カ月花鳥図のテーマは、伝統的な画題であり、狩野派や土佐派を中心に光琳、乾山らも手掛けている。抱一は琳派の伝統を基本としながらも、自由な十二ケ月花鳥の取り合わせを行い、自身の画風を生かした情緒豊かな作品を作り上げている。中でも私は、この6月の葵が好きである。この掛軸を掛けた茶会は、明るい茶会であったろう。

粉引茶碗 銘松平                 李朝時代(16世紀)

粉引は、白い釉膚があたかも粉を吹いたように見えることから粉引とも称された。三島や井戸と共に高麗茶碗としては古作に属する。しかも伝世品は少ない。作行はいずれも鉄分を多く含んだ黒土に白化粧を施し、その上に透明釉を掛けたものである。施釉の際に一部釉を掛け残し、黒い土層が笹の葉状に現れる景色を火間と呼び、粉引茶碗の重要な見所としている。銘松平は松江藩主松平不昧所持に因むもので、不昧はこれを大名物に列するものとして蔵帳に収録している。

紅葵花絵巻硯箱(こうきかまきえすずりばこ)尾形光琳作 江戸時代(18世紀)

二段重ねの身に深い被蓋の付く硯箱である。身の上段には硯・水滴・筆が備わり、蓋の両脇は大きく削られているが、身と蓋の文様は連続するように蒔絵が施されている。立葵と八重葎が底から生え出し、のびやかに全体を覆う大胆な意匠である。華やかな装飾効果となっている。

黄瀬戸胴紐茶碗(きぜとどうひもちゃわん)      桃山時代(16世紀)

もとは向付として作られたものであろうが、早くより茶碗として用いられている。玉縁の口造り、胴から腰にかけてはゆるやなかな曲線に仕上げられ、底部は浅く彫り込まれた碁笳底(ごけぞこ)である。胴の中央には箆によって刻まれた線が廻り、胴締と呼ばれているが、これにより器を一段と引き締めている。黄瀬戸茶碗の名品である。

赤楽茶碗 銘 早船 長次郎作          桃山時代(16世紀)

初代長次郎の赤楽茶碗である。長次郎七種に数えられる赤楽茶碗では、これが現存する唯一である。この茶碗は、薄作りで、口縁はやや内に抱え込み、胴はまっすぐで、腰のあたりは丸みを帯び、小さな高台が付いている。腰には幅広く箆目が二筋巡り、胴と腰との境界がはっきりしている。口縁から腰回りまでは長い貫入があり、黒漆の繕いを施している。赤土の素地に黄味を帯びた赭釉が掛かり、潤いのある艶を見せる一方、高台際は直接火を受けたかのようにカセている。胴から高台に向かって、山形に青鼠色の釉が流れて独特の景色をなしている。「早船」の銘は、利休が茶会のために高麗から早船で取り寄せたと語ったことに由来する。利休の書状が付属している。

重文 割高台茶碗(わりこうだいちゃわん)      朝鮮時代(16世紀)

割高台とは、文字通り高台の一部を切り落した茶碗のことである。十文字に溝を入れる例はしばしば見受けられるが、本件はかなり大振りの撥形(ばちがた)をしており、まず箆で円形の高台の四方を大きく切り取り、焼成後に畳付の十文字部分をさらに十字型に彫り込んだ珍奇なものである。手取りが重いための工作とも思われるが、そのエキゾチックな形状からキリシタンの洗礼用祭器と見る説もある。元古田織部所持と伝える。如何にも破格の美である。私の好みの逸品である。

重文 伊賀花入(いがはないれ)銘からたち    桃山時代(16~17世紀)

独得の焦げや釉色の変化に特徴がある伊賀焼の中で、その魅力を充分に備えた作品である。口部はふっくらと作り、縁を内側に曲げて姥口とする。頸部は左右に四方板耳を付け、前後に鐶付用の孔の跡があることから、この種の大きな花入も掛花入として茶席に用いられたことが知られる。裾広がりに作った胴部は、六角に面取りし、箆目を入れて区切っている。裾にも箆目が一周する。俗にビロード釉と称される自然釉が裾を残してほぼ全体に厚く掛りそこへ釜の中の灰や土が付着して鮮やかな褐色や緑色、黒く焦げた部分など、さまざまな景色を作り出している。私は、古田織部の匂いを感ずる。誠に伊賀焼独特の造形が加味され破格の美が備わった豪快な花入に仕上がった。口縁の一部が欠けて、その破片が胴に付着した様子を、「からたち」の棘に見立てて銘としたものである。長く加賀金沢の緒家を転伝し、昭和9年(1934)に畠山即翁の所有となった。私の最も愛する逸品である。

黒織部(くろおりべ)筒茶碗   黒部焼き     桃山時代(17世紀)

黒織部の茶碗は腰が張り、口が厚く帯状になった杏形が主であるが、本作は胴が長く歪んだ筒型の姿である。厚手の口縁を箆で削って起伏を持たせ、さらに一段張り出させ丈線を廻らしている。胴には轆轤目が見え、箆による大小の面取りや押し当てなどの技巧が施され、また腰部は張って広く八角形をなして安定もよい。見込みは深く、中央に円形の鏡が認められる。胴の文様は網干といって海岸で漁に用いる網を干している風景を文様にしたものである。黒と白とが醸し出す調べは現代絵画にも通じ、桃山時代の茶陶の底力を見せつける。

重文竹林七賢人(ちくりんななけんじん)図屏風雪村周継作室町時代(16世紀)   左隻                    右隻

中国の魏末・晋初の頃(3世紀)、竹林に集まって酒を酌み交わし、琴を弾じ、清談にふけった七人の陰士がいたという。彼らの姿は権力欲や物欲などを捨てたあるべき人間の理想の一つとして認識されている。中国では4世紀以降、この逸話を題材にした「竹林七賢人図」が描かれるようになり、日本では、他に等伯や探幽なども描いている。雪村周継は、室町時代末期の画僧である。常陸を中心に会津・小田原・鎌倉において活動し、晩年は三春(現在福島県三春町)に渡り、当地で没した。宋元画を学ぶ一方、日本水墨画の大成者、雪舟の画風を慕って大きな影響を受けた。本品や「呂洞賓図」(大和文華館蔵)などに見られる。力強い衣文線、個性的な表情の人物像に独自の画風が観取される。三春における雪村晩年の大作であった。なお、私は、この作品が展示されていることは知らず、現物を見て驚いた次第である。「雪村展」は、芸術大学でこの春に展覧していたが、残念ながら見学することが出来なかったが、ここで、大作にお目に掛かり、大変感激した。

 

この展覧会の副題である「破格の美・即翁の眼」を心行くばかり楽しめた2時間であった。室町時代の御物(ごぶつ)に入るような傑作をはじめ、「破格の美」とも呼ぶべき「伊賀花入 銘からたち」や「割高台茶碗」など、日常見られない傑作を見て、高揚した気分になれた。楽茶碗も良いし、「曜変天目」も素晴らしかったが(「茶の湯」展)、畠山記念館の「茶の湯の名品ー破格の美・即翁の眼」も素晴らしかった。この美しさ、この感動を、僅か700円で堪能できる幸せを痛感した。

 

(本稿は、図録「與願愛衆Ⅰ」、図録「松平不昧の数寄ー「雲州蔵帳」の名茶器」、図録「與衆愛玩ー畠山即応の美の世界」、図録「與願愛衆ー琳派」を参照した)

奈良西大寺展  叡尊と一門の名宝

近鉄の大和西大寺駅を降りると、古びた土塀に囲まれた静寂な伽藍がある。これが西大寺である。その創建に遡ると、聖務天皇の娘である孝謙天皇が天平宝字8年(764)9月11日に恵美押勝の反乱を平定するために発願(ほつがん)した金銅四天王像の像造である。上皇方が勝利し、孝謙上皇は称徳天皇となった。「西大寺資材帳」(宝亀11年ー780年)は、この翌年(781)の西大寺創建を伝えている。この資材帳によると、金堂には薬師如来を安置し、講堂には弥勒菩薩を祀り、その境内は東西十一丁(1200m)、南北七丁(約760m)という広大な寺域には百十を超える堂塔が立ち並ぶ壮麗な大伽藍であった。父の聖務天皇が平城京の東側に創建した東大寺に対して、この寺は西大寺と呼ばれた。神護慶雲4年(770)、称徳天皇が崩御され、都も長岡京を経て平安京に移った。左大寺は、鎮護国家の大寺として栄えたが、その後は他の南都の寺院同様衰退し、再び注目されるのは鎌倉時代に入ってからである。鎌倉時代に中興の祖、叡尊(えいそん)が登場した。叡尊の活動の理念は「興法利生」(こうぼうりしょう)と言われる。「興法」とは仏教を盛んにすることであり、叡尊はそのために、当時乱れていた戒律を復興し、釈迦本来の仏教に立ち戻ろうとした。そして「利生」(りしょう)とは、人々を救うことである。叡尊にとっては、この二つは分かちがたく結びついていた。文暦2年(1235)正月、35歳で西大寺に入った叡尊は、ここを拠点として「興法利生」の活動を始めた。従って、左大寺の歴史は、奈良時代と鎌倉時代に分かれる。

重要文化財 塔本四仏坐像  木心乾漆造 漆箔    奈良時代(8世紀)

西大寺創建間もなく建立された東西いずれかの塔に安置されていたと伝える。四軀とも奈良時代後期に流行した木心乾漆の技法で制作されている。この四仏は、釈迦如来、阿弥陀如来、宝生如来、阿閦如来(あしゅくにょらい)である。前期に並べられた仏像は釈迦、阿弥陀如来の2像であった。(写真右2仏)現在光背を亡失するが、台座は同大同巧のものが揃っている。この四体の基本構造は、頭部・体部をすべて檜の一材で彫り出し、その内部に内刳りを施す。表面の木屎漆(こくそうるし)の盛上げに厚い薄いの差はあるが、木心部はほぼ木彫像と同様の彫りを示している。その様式や技法からみて奈良時代末期から平安初期(延暦初年)にかけて造立されたと考えられる。

国宝  十二天像  絹本着色           平安時代(9世紀)

十二天は八つの方位を守護し、天・地・日・月・を支配する計十二の護法神から成り、密教の修法道場を守護する役目を担っている。本図は現存する十二天の作例の中では最も古いものであり、各尊はそれぞれ二侍者をしたがえ、鳥獣に騎乗している。本図は帝釈天像であり、白象に騎乗している。十二天の図像の組み合わせは、承和2年(835)に始まった真言院御七日御修法(ごしちにちみしほ)など、重要な密教の修法が完成される過程で整備されていったと推測される。本図はその過程に対応する9世紀後半の作と考えられる。(老化が目立つが貴重な国宝である)

国宝 興正菩薩坐像  木造 彩色    鎌倉時代(弘安3年ー1280)

興正菩薩叡尊を慕う門弟たちが合力で造立した叡尊80歳の寿像(生存中に造られた肖像)である。昨年(2016年)に国宝に指定された。作者は仏師善春。善春もまた父善慶とともに叡尊を師と仰ぎ、戒を授けられた弟子同朋であっあったと考えられる。像は鎌倉時代後半を代表する肖像彫刻の傑作である。像内には叡尊の行実や信仰を偲ばせる各種経典、舎利容器、綬菩薩戒弟子名など数多くの納入品が納められているほか、門弟の鏡恵が記した弘安3年8月27日付の造象願文などが納入されていた。

重要文化財 愛染明王坐像  木造 彩色   鎌倉時代(法治元年ー1247)

西大寺愛染堂の厨子内に納めらている秘仏の本尊像で、法治元年8月18日に叡尊とその弟子範恩が、西大寺における三法久住を願って造立した。作者は南都関係の造像を多く手掛けた仏師善円である。日輪光を背にし、宝瓶上の赤色蓮華に坐す総身真紅のお姿は、煩惱をそのまま悟りのあらわれとする密教究極の真理を具象化したものである。焔発を逆立て、五鈷鉤(ごここう)をつけた獅子冠を戴いた三目六臂の憤怒(ふんぬ)の像容は、本経である「瑜伽瑜教」(ゆがゆきょう)に説かれるところと一致している。納入品も多数ある。叡尊は弘安の役のおり、弟子300人余を率い南北二京の僧560余人とともに京都・石清水八幡宮で祈願すると、結願の日に叡尊所持の愛染明王像の鏑矢が八幡宮から西を目指して飛んでいき、異族を滅ぼしたという伝えが広まっている。これは叡尊の験力と愛染明王の霊験の両方を伝えている。

重要文化財 文殊菩薩坐像(文殊五尊像のうち)木造・彩色 鎌倉時代(正安4年ー1302)

文殊菩薩が四眷属を従える文殊五尊像は文殊信仰の中心地として著名な中国・五台山の文殊菩薩の一形式とされ、鎌倉時代には渡海文殊として広く知られていた。叡尊や忍性(にんしぉゆ)は「文殊涅槃経」に説かれる文殊思想をもとに数多くの民衆救済事業を行ったが、法会は25日の文殊縁日に墳墓の近くなどで実行されるのが通常で、亡魂救済の意味も含まれていたらしい。叡尊の文殊信仰の記念的事業になった般若時文殊五尊像の造立もこの思想にもとずいている。左大寺像は文殊菩薩の像内墨書銘から、叡尊が亡くなった3年後の永仁元年(1293)に門弟によって像立が発願され、叡尊の13回忌にあたる正安4年(1302)に完成したことがわかる。前期には右前の善財童子と左奥の最勝老人の二像が展示された。

重要文化財 釈迦如来立像 木造 素地 鎌倉時代(建長元年ー1249)

西大寺本堂の本尊で、造立の経緯は、昭和47年(1972)の修理で像内から取り出された納入品によって鮮明となった。清凉寺の釈迦像はすでに三国伝来正身釈迦として天下に名高く、その模造も実に多いが、原像を前に直接摸刻したと確かに言える像はまさに本像のみである。宝治2年(1248)8月8日に造立の発願がなされ、翌建長元年(1249)2月14日に本仏の供養、木作りが行われ、4月3日には完成し、5日に西大寺に入り、5月7日に開眼供養される。作者は仏師善慶以下9人、他に絵師や番匠の名も判明している。本像が造られた目的は戒律復興と広法利生にあった。檜材の寄木造りで、素地仕上げとし、頭髪に彩色、特徴のある細やかな衣装や丸文などに切金を施している。面貌からわかるように原像の忠実な摸刻というよりも善慶一派の作品解釈、明快な刀さばき、穏健な作風というものが極めてよくうかがえる作品である。

国宝 金銅透彫舎利容器 1基   鎌倉時代(13世紀)

現在西大寺に伝わる、外部を灯籠型とした舎利容器で、内部には、蓋の中央に宝蓋をもつ小さな金剛界大日如来を安置した、脚付の塔形の舎利瓶を納めている。外部の燈籠形の頂上には火焔宝珠舎利容器を置き、屋根は六花形で魚々子地に雲龍と蓮華草文を鋤彫りの肉薄で表し、蕨手の先に宝鐸・瓔珞を下げる。西大寺には、この他に金銅宝塔、鉄製宝塔など3点の国宝舎利容器がある。叡尊の釈迦信仰を物語る逸品であるが、中でも、この透彫舎利容器は、他に類例を見ない逸品である。

重要文化財金銅火焔宝珠形舎利容器 鎌倉時代(正応3年ー1290)海龍王侍

真言律宗一門の名宝である。台座は六花形の二重框座とし、六葉複弁の半花、獅子座、華盤、敷茄子、蓮台と順次積み重ねて、頂上に四方火焔で囲んだ水晶製舎利容器を安置している。当時の金工装飾の粋を尽くした舎利容器である。台座の裏に「正応3年」(1290)の刻銘があり、正応3年に京の工人によって制作されたことが分かる。正応年間は叡尊の尽力によって海龍王寺の堂舎が復興された時期であり、この舎利塔もこの間に作られたことが知られる。

重要文化財 吉祥天立像 木造 彩色 鎌倉時代(建暦2年ー1212)浄瑠璃寺

建暦2年(1212)の造立され、本堂(九体阿弥陀堂)に安置された厨子入の吉祥天女像である。この像を収める黒漆春日厨子内面は、扉六面に梵天・帝釈天・四天王の全六天が彩画され、後壁には八臂弁財天を中心にした五神が一図に描かれている。これらは彫像の吉祥天をはじめいずれも「金光明最勝王経」に説かれる諸尊であり、彫像と厨子絵とで構成される全体が「金光明最勝王経」の立体曼荼羅世界を表すものと考えられる。本像は、浄瑠璃寺でも秘仏であり、滅多に参拝できない。此の吉祥天を拝むだけでも、この展覧会を拝観する意味があると思う。

 

西大寺は創建の由来から言っても、東大寺と並ぶ南都七大寺の中でも、由緒深いお寺であるが、現実には遺跡のみで、殆ど往時の面影はない。この「西大寺展」が開催され、西大寺に伝わる仏像が展覧されるのが、殆ど唯一の機会である。しかし、四大寺由来の仏像は、塔本四仏坐像と十二天像(懸け絵)位で、後は国宝の経典2巻と経箱、西大寺伽藍絵図程度のものであり、後は中興の祖、叡尊に関する仏像や「真言立宗」一派各寺の仏像や図像である。平安時代の末、皇室や政権担当者である藤原氏の内輪の権力争いによって起こった保元・平治の乱は、それぞれの肉親が二手に分かれて戦う痛ましい骨肉の争いであり、それに引き続く血なまぐさい源平合戦の有様と共に、都の人々に「乱世」を実感させた大きな出来事であり、それより前、浄土教系の仏家によって唱えられた、仏法の終わりを示す「末法の世」がまさにやって来ているという危機感を持たせる事件でもあった。こうした状況の中で鎌倉時代がはじまるのである。この時代、寺や僧侶の堕落は眼にあまるものであったらしく、教団の持つ巨大な力を背景とした武力を備えた僧兵の集団を組織して政治に介入したり、世俗的な権利を主張し、争いを起す者さえあった。こうした仏教界に登場したのが、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、時宗の一遍、法華宗の日蓮などで、新仏教とされた。これらは、末法の世から救済を目指したことである。そしてむずかしい修行は必要ではなく、一つの教えを選んでそれに一心にすがれば良いと説き、武士も大衆も競ってこれらの新しい仏教に救いを求めることとなった。こういう時代に生まれた叡尊は、まず醍醐寺で出家し、密教の修行をし、ついでこうした先学の思想と実践に直接、間接に影響を受けながら、天平以来の名刹で、衰微の極にあった西大寺に住み、ここを信仰活動の拠点としてこの寺を再興し、また当時形骸化していた南都の戒律の復興に勤めた名僧として忘れることの出来ない大きな存在なのである。しかもそれだけでなく、実践家として、社会の最下層に位する大衆や、病苦にあえぐ不幸な人たちを救済するなど、思い切った慈善事業まで自ら実行しているのである。叡尊によって1500個寺の末寺を有したとされる。「叡尊と一門の名宝」という名前の通り、末寺のすばらしい仏像等も多数拝観できる展覧会であった。

(本稿は、図録「創建1250年 奈良西大寺展 叡尊と一門の名宝」、図録「奈良西大寺展  1991年」、青山茂他「大和古寺巡礼」、日経新聞2017年4月8日「奈良西大寺展」を参照した)

東京国立博物館  特別展   茶の湯(3)

江戸時代、大平の世においては茶の湯は変化の時代を迎えた。小堀遠州(1579~1647)を中心として、足利将軍家以来の武家の茶を復興しようとする徳川将軍家や、それを取り巻く大名家における動きがあり、公家の雅な世界を取り入れて新しい茶風を創ろうとする動きが生まれた。それが相互に影響を及ぼしあつていたのである。この章では、復古精神に基づきながら「きれいさび」と称される新たな茶風を確立し、武家の茶を再興した小堀遠州にまつわる道具を中心に、江戸時代前半の茶の湯を展観する。更に、松江藩主松平不昧(1751~1818)にまつわる道具や、江戸時代の豪商が所蔵した名品を招介する。なお、第5章として「近代数寄者の眼」があるが、ここでは畠山即応(1881~1971)の残した畠山記念館の名品を2点紹介する。

重文 志野矢筈口水指  銘 古岸 安土桃山時代(16世紀) 畠山記念館

桃山時代の志野水指の中でも、器形・釉調・衣文様において、優れた作行きを示す名品である。肩と胴下部に段をつけて箆で整えており、力強く堂々とした姿の水指で、腰のゆったりとした膨らみに対して頸のしばるは強く、外側に開き気味の厚い口縁と矢筈口を強調している。胴の周囲には鉄釉で葦と桧垣文が下絵付けられており、まるで水墨画のようなその風情が、冬枯れの岸辺を思わせることから「古岸」の銘が与えられた。

国宝  志野茶碗  銘 卯花墻(うのはなかき)安土桃山時代~江戸時代(16~17世紀) 三井紀念美術館

日本で焼かれた茶碗で国宝に指定されているのは、本阿弥光悦作の白楽茶碗(銘富士山)と、この卯花墻の2碗のみである。美濃の牟田ケ洞(むたがほら)釜で焼かれたもので、歪んだ器形、奔放な箆削り・釉下の鉄絵などは織部好みに通じる作行きと言える。もと江戸冬樹家にあり、明治20年代中頃に室町三井家の高安の有に帰した。

黄瀬戸根太香合 美濃安土桃山時代~江戸時代(16~17世紀)三井紀念美術館

上手の黄瀬戸に見られる油揚げのような釉色に、胆盤(たんばん)の深い緑色と鉄顔料のかすれた褐色が味わい深い。陶器の香合としてはごく初期のものである。

志野重餅香合 美濃 安土桃山時代~江戸時代(16~17世紀)三井紀念美術館

志野裕の白に、釉下の鬼板(鉄顔料)の発色や赤い火色は絶妙で、志野香合の優品として知られている。

重文 奥高麗茶碗 銘三法 唐津 安土桃山時代~江戸時代(16~17世紀)久保惣記念美術館

褐色のざらざらとした胎で、口がやや端反りの自然な碗形を描く。両手に余るほど大きく、腰をわずかに折り、裾まで釉を掛けている。見込みには目跡が五つ残り、底は低めに緩く削り出し、兜巾が立つ。「奥高麗」とは、16世紀後半に焼かれた高麗茶碗の初期的な唐津焼と考えられる。

重文 禅院額字「潮音堂」 無準師範筆 南宋時代(13世紀) 致道博物館

無準師範(1177~1249)は臨済宗の高僧で、経山第34世となった。(1232)弟子には円覚寺の開山となった無学祖元や建長寺第二世となった兀庵普寧(1197~1276)、あるいは日本から入宋した円爾(1202~80)等がおり、日本の禅宗にも多大な影響を与えている。これは無準が円爾に贈った法堂の額字である。円爾は宋より帰国した直後、博多に承天寺を創建し、仁治3年(1242)に開山となった。無準はこれを祝して諸堂に懸ける額や牌(看板)のための書を贈った。本幅の紙面には、「普門院」朱文長方印がみられ、円爾が開創した東福寺に長らく伝えられたが、やがて小堀遠州が入手するに至った。茶会の席でたびたび床に掛けている。

重文 菊花天目茶碗 瀬戸、美濃 室町時代(16世紀) 藤田美術館

瀬戸または美濃で焼かれた和製の天目茶碗。中国の天目に倣った姿であるが、色や模様は日本特有のもので、鉄釉に黄色い釉の流れた様子を菊の花に見立てている。茶人小堀遠州が愛蔵したものの一つである。

重文 色絵鱗波文茶碗 仁清作  江戸時代(17世紀) 北村美術館

野々村仁清は色絵を大成し、江戸初期における京焼に大きな影響を与えた陶工である。本作品のように胴をゆるく撓めた茶碗は高麗茶碗に影響を受けたものと言われる。京都の雅な趣きを写した仁清の茶陶は、加賀藩や丸亀藩など、地方の有力大名に好まれ、注文制作が行われたことが記録に残る。本作品も加賀前田家の家老、本田家に伝わったもので、その後三井家に渡った、

重文 粉引茶碗 三芳粉引  朝鮮時代(16世紀)  三井紀念美術館

戦国の梟雄三好長慶が所持したところから三好粉引と呼ばれている。素地に白化粧を施し、上に透明釉を掛けた白茶碗で、その色調から粉引または粉吹と呼んでいる。胴に見られる笹葉状の火間(ひま)は釉の掛け残しによるもので、粉引茶碗独特の見所である。長慶のあと豊臣秀吉の手に渡ったという。

重文 井戸茶碗  銘細川  李朝時代(15~16世紀) 畠山記念館

かって細川三斎の所持によりその銘を冠する「細川」は、「喜左衛門」「加賀」と共に天下三井戸として茶人松平不昧に格を与えられ、大井戸茶碗の代表作に挙げられる。轆轤目が廻ったゆるやかな碗形の姿、ほんのりと赤味をたたえた明るい琵琶色の有、やや小振りであるが、くっきりと削り出された竹節台は高く、腰下高台脇から高台内にかけて梅花皮(かいらぎ)の鮮やかさなど見所を備え、とりわけ品格高く優美な作振りとなっている。本作は、畠山即応の取集品で、畠山記念館に収まっている。私は、畠山記念館は年間に何回も訪れるが、何時行っても目新しい茶器が展示されている。他館から借りず、すべて自館のみの所蔵品で、年間4回の展示替えをする、素晴らしい美術館である。多分、最後の「数寄者」であろう。

 

東京国立博物館の「茶の湯」と題する展覧会は、昭和55年(1980年)以来の出来事であり、約40年ぶりの開催である。ところが、「茶の湯」は上野だけではない。東京国立近代美術館では「茶碗の中の宇宙 楽家一子相伝の芸術」を3月14日から5月21日まで開催中である。その図録によれば、1997年のイタリア展から2015年のロシア(モスクワ)展まで6回の海外展覧会を終えて、最後に日本で、「茶の湯」と、ほぼ同時期に開催している。それだけではない。出光美術館では4月15日より6月4日まで「茶の湯のうつわ」展を開催している。日本を代表する美術館が同じ時期に、かくも大々的な「茶の湯」展を開催する理由は何だろうか?日常的に、さほど興味を示さない人々が、ある時、偶然に、爆発的に「茶の湯」に興味を示すのは何故だろうか。常々、畠山記念館を愛好する私が、あれだけ素晴らしいお茶の美術品を展示する美術展には、お茶愛好家のご婦人としか思えない方々が、十数名程度しか観覧していないのに、何故、爆発的に、観覧者が増えたのであろうか。勿論、美術館側の作戦もあるだろう。例えば、東京国立博物館と近代美術館の間では、直行バスが運行されていた。美術館も独立行政法人となり、自立採算が求められる時代である。相互に顧客を送迎することにより、客数を増やそうとする商業主義も垣間見える。しかし、問題は主催者側だけでは無いだろう。観客側に大きな理由があったのであろう。日本人の生活は、この50年間ですっかり変わってしまった。50年前には、何処の家でも、床の間があり、違い棚があり、室町時代以降の日本の家の基礎が続いていた。それが、戦後、マンション住まいが普通になり、今や床の間や、違い棚が有る家が少数派になった。そんな生活の中で、「お茶を喫する習慣」がすっかり日本人から消えてしまった。「お茶の教室」に通う人すら、お茶を飲むのは「お稽古の日だけ」と答える人が多いそうである。(千 宗屋 「茶」)日常と切り離された「お茶」は今や、憧れの文化であり、文化人としての最低の教養として「茶の湯」を愉しんだのであろう。中には、勿論熱心な「お茶」を好む人がいたことは間違いないが。

 

(本稿は、図録「茶の湯  2017年」、図録「美の伝統  三井家 伝世の名宝  2010年」、図録「茶椀の中の宇宙  楽家一子相伝の芸術  2017年」、千宗屋「茶ー利休と今をつなぐ」を参照した)