タイ~仏の国の輝き  

明治20年(1887)、日タイ修好宣言により、日本とタイの間に正式な国交が開かれて、今年は「日タイ修好130年」の年である。これを記念して「日タイ修好130周年特別記念展 タイ~仏の国の輝き~」が九州国立博物館と東京国立博物館で開催される。タイと日本の文化は、非常に近いものがある。国民の大半が仏教を宗教として崇め、国王(天皇)に非常に親近感を持っている。また、日本の文化は、長く農業を基盤とした時代が続き、タイも古来農業を基盤とした国であった。近年、日本とタイの間では経済、産業はもとより文化交流も活発に行われており、両国の親密な関係は、今後も一層深まることが期待されている。日本の仏教は、「葬式仏教」とも揶揄されているほど、決して深いものでは無い。それに対し、タイの仏教は、今日でも生き生きと息づいている。現在、タイで行われている仏教はインドからスリランカを経て伝えられた上座仏教(じょうざ)。上座仏教とは、釈尊上座の弟子から承継された説教「長老の教え」を意味し、「出家と戒律」を重んじる初期仏教の姿を比較的良く伝えている。それに対し、インドから東漸した仏教(シルクロード各国、中国、朝鮮、日本)は大乗仏教と呼ばれ、「祖師の教えに敬虔に従う」という仏教である。例えばタイでは、通常男女とも、数ケ月、数年出家して僧となり修行を積む。日本では、例えば親鸞の教えを聞き、それに従えば、極楽へ行けると信じられている。タイでは「出家」することが仏教であり、日本では「信仰」することが仏教である。私が、タイで案内してもらった青年は、20歳前後に2年間出家し、かつ2年間軍隊勤務していた。人生の中で、最も大切な20歳代を4年間も、出家、軍隊に費やしているのである。とても日本では考えられないような生活体験である。例えば、鎌倉の露座の大仏の前で、正座し、祈りを1時間も2時間も捧げる東南アジアの男女を見ることが多い。日本の観客は、団体出来て、大仏様の胎内を巡る程度である。この深い敬虔な祈りと、私たち日本人観光客の差は何だろうかと考えることが多いが、双方の受容してきた仏教の歴史ー上座仏教と大乗仏教ーの差であったのだろうか?タイにおける仏教の歴史は図録の「原田あゆみ」さんの11ページに渡る歴史に詳しく書かれているので、興味のある方は、そちらを読んで戴きたい。

仏陀立像  ドヴァーラヴァティ時代(7世紀末~8世紀) バンコク国立博物館

蓮華座上に直立する仏陀像である。衣文を極力省いた薄い大衣(だいえ)が身体に密着し、少年のような細身の身体が際だっている。本像のように直立する仏像は、両手ともに胸横で説法印を結ぶ。ドヴァラヴァーティーの仏像は、両手説法印のものが圧倒的多く、かなり長期間にわたり流行した形である。

法輪(ほうりん)ドヴァーラヴァーティー時代(7~8世紀)ウートン国立博物館

この法輪は立派である。装飾も見事で驚くばかりである。車輪が転がるように仏陀の教えが広まるのを祈るものである。法輪は日本にもあるが、この出展品の存在感はすごい。この法輪に見られる生命力あふれる植物文様の表現や、太陽に関する神像の表現などを考え合わせると、仏法を象徴するのみならず、万物の成長・豊穣の基盤をなす太陽や自然への信仰心を読み取ることが出来るだろう。

法輪頂板ドヴァーラヴァーティ時代(7~8世紀)プラパトチェーンデシー博物館

法輪を載せている方形の頂板である。4面それぞれの周囲には蓮華文をめぐらせ、中央には大きく目を見開き、口からは牙を覗かせる巻毛の人物を彫刻する。私は一見して、奈良の薬師寺金堂本尊の台座に表された「南洋の土人」と名付けた巻毛の鬼神を思い起こした。図録によれば、仏陀は釈迦族の獅子と称され、台座に獅子を表す獅子座はインドのみならず仏教の伝来した国々に存在するそうである。一方、像の両手に握られた植物の茎からは、勢いよく渦を巻く唐草が生じている。この表現は、インドでヤクシャと称される自然神の特徴である。ヤクシャは生命力を内に籠めて、聖なるものを支えたり、植物を生み出したりする、自然界の威力を表現する役割を担っているのである。

菩薩頭部 プレ・アンコール時代(8~9世紀) バンコク国立博物館

頭部の大きさから、もとは3m以上の大きな菩薩立像だったことが想像できる。高く結いあげた鬘の前には、尊各を示す標識があったはずだが、今は決失している。下方を向く両目には、白いものが塗りこめられ、瞳部は孔が穿たれている。輪郭線のはっきりした厚い唇の上には、口髭が見られる。鬘をつくる作例はプレ・アンコールのプレ・クメイン様式(7世紀末)頃から見られるようになった、本像が制作されたタイ北東部、パノムドンラック山脈北側、ムーン川流域では、このような彫刻群の他に、ドラヴァーヴァラティー美術の流れを組む仏像が多数存在する。この地域では、モン族とクメール族の文化圏が接し、時には重なり合い、こうしたモン・クメールの文化圏の中で本像のように独自の特徴を持つ仏像が生まれたのである。

ナーガ上の仏陀坐像 シュリーヴィジャヤ様式(12~13世紀)バンコク国立博物館

今回、展示された仏像の中では、私は一番美しい仏像であると思う。とぐろを巻いた蛇神「ナーガ」の上に座り、静かな微笑みを浮かべて瞑想する仏。背面には光背のようにナーガが7つの鎌首をもたげている。悟りを得て瞑想する仏陀を、竜王が傘となって風雨から守ったという伝承をもとにした「ナーガ上の仏陀坐像」は、端正な顔立ち、細身で若々しい体、降魔印(悪魔を降伏させる印相)を結ぶしなやかな指先が印象的である。台座にはクメールの特徴が確認できる。一方で仏陀の容姿や装飾はシィユリーヴィジャヤの影響を受けている。タイの人々が大切に守り続けてきた像には、当時の多様な文化が凝縮されている。

観音菩薩立像 アンコール時代(12世紀末~13世紀)バンコク国立博物館

カンボジア。クメール王朝のジャヤヴァルマン7世(在位1181~1218、もしくは1220)は、大乗仏教を信仰し、観音菩薩像を多数制作した。アンコール・トムの中心寺院であるバイヨンにある四面の観音菩薩の顔は、その代表的存在として知られている。この作品もそうしたクメールの影響下で制作された観音像である。ずんぐりとした体つきや太い脚など、いわゆるバイヨン様式に属している。本像を特徴づけるのは上半身を覆い尽くす夥しい数の禅定仏(ぜんじょうぶつ)である。こうした像は、現在ではクメール美術でしか確認されないものである。7世紀に北西インドで成立した「カーランヴゥーハ・スートラ」という経典を典拠として作られたと考えられている。

仏陀遊行像 スコータイ時代(14~15世紀)サワンウォーラナーヨック国立博物館

遊行(ゆぎょう)する仏陀像である。ウオーキング・ブッダである。体の滑らかな曲線、しなやかな足運び。弧を描く眉、口元のほほ笑み。だが肩幅は広く、胸や股には張りがあって力強くもある。若く、美しい遊行する仏陀像である。遊行像とは、文字通り仏陀が歩くさまを造形したものである。仏伝中の重要な説話の一つである縦三十三降下(こうげ)は、三十三天に昇っていた仏陀が宝階をつたわって地上に降り立つという話で、スコータイのワット・トラパントーンラーンにこの場面を表した浮彫がある。一方で歩みを進める姿は単なる説話の表現にとどまらず、仏陀の教えそのものを象徴するとの解釈もある。私は「仏陀の教えそのもの」と考えたい。それでなければ、こんなに美しい、楽しい姿になる筈がないと思う。

金像 アユタヤー時代(15世紀初め) チャオサームプラヤー国立博物館

ワット・ラーチャブラーナは、クメール王国のアンコール・トムを攻略したことで知られるアユタヤー王朝第8代王ポーロムマラーチャティラート2世(在位1424~48)が王位継承争いに倒れた実兄たちを偲び1424年の建立した寺院である。久しく放棄されていたが、1958年にこの寺院の大仏塔「ブラーン」の内部に設けられた「クル」と呼ばれる小空間から、総数1万点に及ぶ数々の黄金製品が発見された。この金象は、四肢を地に付け鼻を高く持ち上げた姿が印象的であり、躍動感にあふれており、象の頭部や胴部んは貴石を鏤めた装飾帯をめぐらし、背には貴人が乗るための豪華な輿(こし)を載せている。

カテイナ(功徳衣)法要図 1帖ラタナコーシン時代(1918)紙本着色 タイ国立図書館

アユタヤの国王が、僧院へカティナ(功徳衣)を献上に向かう場面を描いた折本写本。原図はアユタヤー時代、ナーラーイー王が1681年に創建した寺院、ワット・ヨムの布薩堂内の壁画である。本図は、アユタヤーの日本人を描いた資料として良く知られている。象に乗ったシャム指揮官や兵士が並ぶ行列の中に見える。鉈状の刀を刷く。日本人の衣には渦巻き模様が表されているが、タイでは見かけない模様の布地である。アユタヤの日本人たちは、一時期の勢力(1500人とも言われた)を失ったとは言えナーラーイ王の時代にも商人としての力を蓄えていた、当時は、本図のようにシャム人と一緒に僧院に寄付する日本人の姿を見ることがあったのだろう。

ラーマ2世王の大扉 ラタナコーシン時代(19世紀)  バンコク国立博物館

バンコクの名所、旧市街にそびえる大寺院「ワット・スタツト」。堂の入口で、熱帯の光をギラギラと反射する巨大な扉に圧倒される。19世紀に作られた高さ6mの木製の扉は足元から最上部まで精緻な彫刻が彫り込まれている。タイの文化を象徴する芸術作品である。同国の宝とされていた。だが大扉は1959年、寺院の火災で損傷した。劣化も進んでおり、バンコク国立博物館に移され修復が進められた。その時に日本の住友グループから寄金が寄せられた。それ以降、扉は門外不出となった。いま寺院の堂の入口に取り付けられているには別の扉である。今回、当初の大扉が、初めてタイ国外に持ち出され日本で展示されている。見上げるような金色の大扉である。動植物の文様が6層に彫り出されている。天まで伸びて枝を広げる木々にはボタンの花が咲き乱れ、マンゴーやザクロが実を付けている。蓮池には鹿や猿、虎が集い、鳥や虫が飛び交う。彫刻は多層彫りで、世界的に珍しいものである。楽園の情景のようだが、下部の洞窟にはヒマラヤの雪山に住むという人面鳥もみえる。猪熊主任研究員は「現実の世界ではなく、(仏教で世界の中心にあるとされる)須弥山を表現したと考えられる」と解説する。

 

タイ国の人々は、日本に親近感を持つ人が多いと言われる。「ほほ笑みの国・タイ」は日本人にとっても最も親しみやすい国である。食べ物も美味しいし、何時行っても楽しい国である。仏教国であり、常に手を合わせ挨拶をしてくれる様は、実に礼儀正しい国民と感じる。タイと日本の国交樹立から130年を紀念して、同国の1級の仏教作品が展示されている。私は、その初日に出かけ、楽しく拝観することができた。法輪、その頂板、ナーガ上の仏陀像、仏陀遊行像など説明文はいらない。そのまますっと入っていける美しい仏像である。大乗仏教と上座仏教という差はあるそうだが、殆ど違和感なく受け入れることが出来た。日本からも、仏像展のお返しをしなければ、ならないだろう。単に東南アジアの製造拠点とのみ考えないで、文化交流、文化外交を展開する拠点にするべきであろう。       (全く余談ながら、「黒川孝雄の美」が、「にほんブログ村」(974,230サイト)の中の「宗教美術」の部門で総合5位になった。他のブログと比較すると、やや難しい解説が余分かも知れないが、やはりこの程度の解説文は必要だろうと思い、継続する)

(本稿は、図録「タイ~仏の輝き~2017年」、日経新聞 2017年6月24日号 「特集 タイ~仏の国の輝き~」、日経新聞 2017年6月19日号「アート・ライフ」、日経新聞 2017年7月17日「アート ライフ」、8チャンネル 2017年7月25日「美の巨人 タイ~仏の輝き~」を参照した)

 

東京国立近代美術館 館蔵名品展(2017年春・夏)

東京国立近代美術館は、地下鉄竹橋駅近くにあり、交通の便も良いので、毎年2回は訪れる。展覧会の開催に合わせて、館蔵品名品展(略称MOMAT展)を行っている。展覧会よりも館蔵名品展を見る機会が多い。明治から昭和にかけての日本の名作を見るのが楽しみである。明治・大正・昭和の名品が多数(3,000点以上)保管されているが、興味を持つ作品は多分同じである。今回7作品を取り上げたが、過去に取り上げていることもある。「私の好きな作品」ということで、ご理解頂きたい。

重文 騎龍観音 原田直次郎作  1890年(明治23年) 護国寺蔵

明治になり、日本の画家達は、西洋絵画に倣って遠近法や陰影描写を取り入れ始めた。この作品は、受容の初期を代表する作例である。観音の前面は月に照らされて白く輝き、背面は龍の炎で照り返してほんのり赤く染まっている。雲の下にのぞく島影は日本列島だろうか。当時は「サーカスの綱渡りのようだ」と酷評もあったが、これを擁護したのが親友の森鴎外であった。ちなみに本作品は原田自身によって東京の護国寺に奉納され、1979年に東京近代美術館に寄託されたものである。長く護国寺の本堂に掲げられていたそうである。作者は江戸小石川(現東京都文京区)の生まれ、東京外語学校(現東京外語大学)を卒業後、高橋由一などについて油彩画を学び、ドイツに留学した経歴がある。2007年度に重要文化財に指定された。

重用文化財 行く春 屏風 六曲一双 川合玉堂作 1916年(大正5年)        右隻                      左隻

画家は前年の秋とこの年の春浅き頃に秩父へ旅行、長瀞から4里の川下りを楽しんでいる。そのおりの自然の大景観が制作のモチーフになっていると言われる。ここに描きだされているのは、対岸の巌にあわい光が映え、その照り返しに水のぬるみも感じられる桜花散る爛漫の春の景である。3艘の水車舟は川下りの観光船ではない。いずれも岸につなぎとめられ船の中では、水車を利用して穀物がひかれたのであろう。

バラと少女 村山槐多作 油彩・キャンパス 1917年(大正6年)

大きなバラが咲き乱れ、背の高い草の葉が風に揺れている。そんなうっそうとした場所に、頬を真っ赤に染め、口を半開きにした少女が立っている。凹凸をなるべく少なくし、丸太のように単純化された少女の胴は、まるで大木の幹にように描かれている。思春期を迎え、恋や性に目覚めつつある年頃の少女が、ここでは自然に同化したかのように描かれている。いわば、少女は、自分の中の自然の呼び声に気付きつつあるのである。私の好きな絵画である。

重文 湯女(ゆな)土田麦僊作絹本着色・屏風二曲一双 1918年(大正7年)

画面を覆い尽くす松の樹冠と藤の花の隙間からさまざまなものが見える。まず目に入るのは、真っ赤な襦袢をまとい縁側に横たわる湯女である。三味線を持つ別の湯女もいる。山並みや岩場を流れる渓流も見える。渓流や三味線は音の描写でもある。麦僊によれば「人間の生の力が湯女で表現されるように、自然の力は初夏で表現される」という。手前には雉の番(つがい)も見えるが、奥側の湯女に較べるとあまりにも小さい。つまり本作では、さまざまな視点から見られた空間がつぎはぎで構成されているわけである。しかもそのつなぎ目自体は、松や藤が色と形のバランスを調整しながら(つまり装飾的に)配されているのである。装飾性と空間表現との融合を目指した本作は、個性表現を主張して結成された国衙創作協会の第1回展で最も注目された作品であった。

重文エロシェンコ氏の像 中村彜作 油彩・キャンパス 1920年(大正9年)

モデルのヴァシリー・エロシェンコは、現在のロシア連邦に生まれ、鍼灸治療を学ぶために来日した。日本では文筆家として活動し、一時は新宿中村屋に身を寄せていた。本作を彜(つね)は、友人の画家・鶴田吾郎とイーゼルを並べて描いた。明暗のコントラストが強い鶴田の「盲目のエロシェンコ」(中村屋蔵)と比べると、本作が、薄く溶いた茶の絵具でやわらかくまとめているのは、彜がルノワールに心酔していたかわだろう。独自の表現として、額にかかる髪は比較的くっきりとしているのに対し、側頭部の巻き毛は背景に溶け込んでいる。いわば写真のピントの要領で、彫りの深い顔や頭部の量感を描き出しているのである。

舞妓林泉図 土田麦僊作 絹本着色・額  1924年(大正13年)

国画創作協会第4回展に出品された土田麦僊37歳の時の作品である。京都南禅寺の天珠庵の庭を背景に舞妓を描いているが、風景も人物も、画家の求める厳格な構成秩序のうちに平面的に様式化されている。麦僊自身はこの絵の制作意図について次のように語っている。「只純絵画的の眼」の仕事だと語り、さらに「若し私の遥かに求めている憧憬や、緊密な構成、自然の持つ美しい線、色、或いは日本民族に流れている優美等が幾分でも表現できていれば満足です。」ヨーロッパ遊学の重要な成果と考えられている。

春秋波濤 加山又造作  紙本彩色 六曲半双 1966年(昭和41年)

屏風は絵画的な装飾美を発揮するのにふさわしい形式であり、京都の西陣織の衣装図案を業とする家に生まれた加山又造のなかにある装飾的様式美の展開が、堰を切ったようにくりひろげられたに違いない。私は、一見して、現代の琳派であると感じた。春と秋を一つの空間におさめるというのは、一つの宇宙観の表現である。日本人の中にある東洋仏教の教えは、肉化されて、ここでは抹香臭く無く、むしろ一つの美意識に昇化されていると言って良いだろう。図録でも「琳派的にみやびであろう」と、賛美している。

 

日本近代の日本画・洋画を7点見たが、いずれも優れており、優越つけがたいが、私の好みで言えば、最後の加山又造氏の「春秋波濤」を第一に挙げたい。琳派の現代版であり、400年に亘って流れてきた美の伝統が、この作品に見事に表現されている。

 

(本稿は、図録「名品選 国立近代美術館のコレクションより」、図録「近代日本の美術」を参照した)

入江一子シルクロード記念館   

今年は、NHKの大河ドラマを見ないで、2チャンネルの日曜美術館を見ることにしている。6月25日の午後8時の日曜美術館では、思いがけず入江一子さんが(101歳)最初の45分間登場され、彼女の初期作品を始め、晩年の「シルクロードの旅」の名作を何点も招介され、シルクロードの難路を歩く映像とともに、作品を招介する番組であり、実に楽しく見せてもらった。番組の最後に、彼女の自宅の1階に「入江一子シルクロード記念館」として開放していることを知った。ネットで調べたところ、阿佐ヶ谷駅(中央線)の近くで、毎週、金・土・日の3日間11時~17時までの間、開館していることが判った。かねて、入江さんの「シルクロードの旅」展では、100号~200号の大型絵画で、シルクロードを描いていることを知っていた私にとっては、是非、拝観したい記念館であった。家内もかねがね、私から「入江一子シルクロード展」については聞き及んでおり、是非、次回の日曜日に阿佐ヶ谷を訪れようと決まった。               7月2日の日曜日、都議選の投票を終わって、午後1時頃に立川経由で阿佐ヶ谷駅に向かった。日曜日は、中央線は止まらないことを知っていたので、三鷹駅で総武線に乗り換え、待望の阿佐ヶ谷駅へ到着したのが午後2時頃であった。地図では、徒歩6分とあったが、かなり入り組んだ場所のため、タクシーで記念館の近くまで行った。

入江一子シルクロード記念館

入江さんの自宅の1階を開放し、「シルクロード記念館」としたものである。   1階は入口を入ると、三間からなり、入口の1間は、かなり広い、アトリエと思われる部屋であり、200号のシルクロードの絵画が5枚飾られていた。奥の2間は比較的狭く、小品(10号、20号、30号位)を展示していた。

看板

一番奥まった鉄筋の建物であるが、入口の近くには「入江一子シルクロード記念館」の看板が出ていた。午後2時頃の観客は10組程度であった。入口には、入江さんの絵画(0号5万円から10万円)、カラー写真多数、「色彩自在」三五館、「ニューヨーク古展凱旋記念入江一子展」2012年1月 日本橋三越図録、等のグッズを多数販売していた。1階のアトリエには、5枚の「シルクロードの絵画」が展示されていた。

ジェールフナー広場(マラケシュ) モロッコ  200号

1977年12月から翌78年1月まで、モロッコを訪ねた時の作品である。(以下「色彩自在」より引用)                        「マラケシュに到着し、ジェーエルフナー広場には、色とりどりの品を積んだ店が開き、様々な大道芸人が集まって客を呼びます。踊り子、アクロバット、奇術師、ヘビ使い、そのほか世にも奇妙な連中がやってきて芸を披露しては祝儀をもらっています。ここでも日除けに使っているパラソルが花が咲いたように美しく、私はスケッチしたいと思いましたが、あまりにも人が多くて描けるような状態ではありません。ふと見ると、少し高いところにチャイハナ(喫茶店)を見つけ、私は店に入りました。するとどうでしょう。広場が一望に見渡せ、パラソルの美しい絵模様が見えます、やっと、私はここで落ち着いて絵を描くことができました。」

ホータンのまちかど(タクラマカン砂漠)

「この作品は、ロシヤとの境にある、並木の美しい、土塀の続く小さなモスクのある中国の町です。外人は入れないのですが、特別に入らせて頂きました。10号のスケッチブックを開いて20号にしてがんばりました。カセットテープで録音をとり、当時の臨場感をだして、がんばりました。中々思い通りに進まない時、今でも大切に保存している林武先生のはげましの言葉を思い出します。”君が中途で止めておく手腕があれば、君は近々絵を描ける様になったと思います”。当時はあまり分からなかったのですが、現在では苦労の末に分かるようになりました。今年も「シルバーカー」を押しながら、200号をがんばっております」(色彩自在より)「がんばっています」と言う言葉が、新鮮に聞こえました。

トルファンの祭りの日

「遠近法により3人の女性を中心に集める構図にするため、実際周りにいた楽師たちは構成上、背後に抑えて描きました。ウルムチやトルファンはシルクロードとともに歴史を刻んだ場所です。葡萄棚の下のウイグル人の踊りを、どうしても絵にしたいと思っていましたので、訪ねるならば葡萄の実が成る時と決めていました。その機会に恵まれて、1980年8月7日に訪ねることができたのです。スケッチは完成しました。そうして、個展に出品する作品に仕上げるために、日本に帰ってからもアトリエで200号のキャンパスに描き続けました。」(色彩自在より)

敦煌飛天  200号  第47回独立展

「飛天だけ見ても楽しく、私は320窟の飛天の魅力にすっかり魅せられて、なんとしても描き留めたいと思いました。ここは撮影が許可されていないのです。男性の通訳が見張りをしています。しかも、中は真っ暗で、本来は、外国人に模写させないのですが、懐中電灯を灯りとして、2時間かけて飛天を模写させてもらいました。3階もある莫高窟の壊れかけた木の階段をリュックサックに画材やカメラ、テープレコーダー、懐中電灯などを持って、大変な思いをして登った私の熱心さに感激してくれたのか、女性の通訳の好意により特別に模写することができました。そうした私闘の結果200号の「敦煌飛天」が出来上がったのです」(色彩自在より)敦煌莫高窟は、写真は元より、模写も厳しく禁止されています。拳銃をもって警察が警備していますので、私も残念ながら写真を撮影することが出来ませんでした。入江さんの根性に感心しました。

チューリップを持つ人形(円窓)  2002年  40.0×32.0cm

アフガニスタンの少女(円窓)  2002年   49.5×40.0cm

2号室、3号室は、比較的小さな作品やスケッチが並んでいた。スケッチは画家にとって命であると入江さんは言っている。「色彩自由」の中で1979年12月にポルトガルのリスボンの街のロッシオ広場でパラソルの花と噴水の石像を10号のスケッチブックを見開きして20号の絵を描いたが、シェスタ(昼休み)に「おもちゃ屋」に立ち寄り馬のオモチャを買って、店の外に出たとたん、スケッチブックを店の中に置き忘れたことを思い出し、そのドアをたたいたが、もう(昼営業が終り)扉が固く閉ざされて入ることが出来なかった。開店は「午後3時」ということで、言葉は通じないし、外国は厳しいとところだなと思いました。3時きっちりに店の人が来て、「「はい」とスケッチブックを渡してくれた。「私にとっては死ぬほどの思いでした。これは単に物をなくすという問題ではないのです。旅行の間じゅうに描き込んだものですから、中にはそれこそ生涯忘れられない思い出が詰まっているのです。スケッチブックを無くすほど悲しいことはないのですから」(「色彩自在」より)その命に次に大切な、シルクロードのスケッチブックが、何冊も並べてあり、事務員2名で、大丈夫かと思う程のあかっぴろげな記念館でした。

3号室は、日常「お勝手」として使用している部分で、入江一子さん日常生活を丸見えになっており、女流画家の一面を会間見る思いがした。入場料はわずか500円ですが、なかなか展覧会が毎年あるわけでは無いので、数点の200号の絵画や、小品の絵画でも常時見られることは、入江ファンに取っては、大変ありがたい施設である。入江さんは、鎌倉にもアトリエをお持ちなので、開館日は鎌倉で制作に励んでおられると推察した。

入江一子シルクロード記念館の詳細                       TEL    03-3338-0239                  所在     東京都杉並区阿佐ヶ谷北2-8-19            (JR阿佐ヶ谷駅北口、徒歩6分タクシーに場所を言えば近くまで行く470円)開館  毎週金・土・日曜日  11時~17時               休館年末年始(12月25日~1月3日)                  入館料  500円(中・高生300円、小学校以下は無料)

 

(本稿は、図録「入江一子100歳記念展 シルクロードに魅せられて」、「色彩自在ーシルクロードを描き続けて」を参照した)

水墨の風  長谷川等伯と雪舟

出光美術館で「水墨の風  長谷川等伯と雪舟」と題する展覧会が7月17日まで開催されている。この副題の「長谷川等伯と雪舟」という言葉に惹き付けられて、この展覧会を見た。しかし、内容は「水墨の風」であり、肝心の雪舟と等伯は、極めて少数の展示であった。そこで、この「美」では、出光美術館にとらわれず、「雪舟と長谷川等伯」の2名に極力絞って(既に東京国立博物館で見た作品を加えた)解説することにする。展覧会の実態である第3章「室町水墨の広がり」、第4章「近世水墨ー狩野派、そして文人派へ」は割愛した。さて、「風」という文字は「かぜ」以外に「ふう」とも読める。この「水墨の風」と言う展覧会は、会場を流れている涼感を「風」(かぜ)になぞらえると同時に、水墨画の「風=様式・姿」に焦点を当てたものでもある。日本の水墨画において、作品はいかにして過去の遺風を受け、いかに創り上げていくのか。この稿では、雪舟(1420~1506)と長谷川等伯(1539~1601)という、日本の水墨画を考える上で外すことの出来ない二人の画家を見ながら、その「風」の生成の様を追っていくことにする。                                   まず、雪舟について簡単に履歴について触れたい。(以下図録の「田中論文」から引用)雪舟は応永2年に備中(岡山県西部)に生まれて、総社の宝福寺で少年時代を過ごし、その後京都の名刹・相国寺で春林周藤について修行し、また絵を周文に学んだとされる。亨徳3年(1454)に周防国(現在の山口県)へと移住する。彼は雪舟等楊(せつしゅうとうよう)と名乗るのも移住後の46歳(1465)以降のことである。当時この地を治めていた大内氏は、大陸との交易によって繁栄を極めており、応仁元年(1469)に雪舟は、この大内氏が主導する第12回遣明使に随行し、文明元年(1469)まで足かけ3年間を中国で過ごした。帰国時の雪舟は数えで50歳であった。当時としてはもはや老境と言っても過言ではない年齢だが、これ以降が我々の知る「雪舟」の画業の始まりである。帰国後の雪舟は大分に滞在し、そこで「天開図画廊」(てんかいとがろう)というアトリエを構えていた。この頃、雪舟は自身の言葉で「水墨の源流は玉澗(ぎょくかん)」としている。玉澗(1180年頃~1270)は、中国の王朝が南宋から元へと交代する激動の時代に活躍した僧侶である。その伝記によれば彼は、務州金華(現在の浙江省金華市)の生まれで、玉澗はその号である。9歳で出家得度し、後に臨安(りんあん)第一の名刹として知られる天台寺院・上天竺寺(じょうてんじくじ)の書紀にまで登った。晩年は故郷の金華に帰り、諸国遍歴によって高められた画才は生前に知れ渡り、その画を求めるものは引きも切らなかったと言われる。玉澗の名は、中国本土よりもむしろ日本において広く知られ、現存する主要な作品は日本に集中している。本展では、この玉澗の作品の中でも特に名品とされる「山市晴嵐図」が出品されている。

重要文化財 山市晴嵐図 玉澗作 紙本墨画 南宋末期~元時代初期 出光美術館

画面の下には、叩きつけるような濃墨のかたまりが三つ。一方その上には、水気をたっぷり含んだ淡墨の盛り上がりがスケッチ風に描かれている。いずれの筆致も「絵画」と呼ぶには荒々しすぎ、紙の上にぶちまけられた墨にしか見えない。しかし、そこには木橋を示す墨線といくつかの人家の屋根、そして荷を担ぐ旅人の姿が配されることによって、山並みに抱かれた里山の情景が燦然と浮かび上がってくる。一見考えなしに紙面に垂らしただけかのような墨の配置も、実は山並みの奥行きを表現するための周到な計算に基づくものであることがわかる。物としての墨が意味を持つ絵となり、抽象が具象へと変容する。このダイナミズムこそ、本作最大の見せどころである。本作は「瀟湘八景」(しょうしょうはちけい)のうち「山市晴嵐」(さんしせいらん)を描くもので、玉瀾画の中でも特に名品として知られる。足利将軍家が所蔵し、もとは八景まとめて一巻仕立てであったものを各景に分断したとされ、現存するものは本作のほかに「遠景帰帆図」(重文、徳川美術館)と「洞庭秋月図」(重文、文化庁)がある。その後本作は、豊臣秀吉、金森可重、松平不昧公など、当代一級の権力者・茶人などの所属を経ている。

重要文化財 平沙落雁図 牧谿作  紙本墨画  南宋時代  出光美術館

画面の右側を見ると葦に生える水辺、そして左側に列をなして飛ぶ雁の群れと、雲間から顔を見せる遠山が描かれる。夕暮れ時のかすみが立ちこめる空間の中にわずかに見出せる景物を、そのはかない印象のままに描き出したかのような情景が、画面に定着している。「平沙落雁」の景を描く本作も、玉澗の「山市晴嵐図」と同じく、もとは巻子巻であったものを、所有者であった足利義満(1358~1408)がお茶席に掛けるために切断し、現在の形になっている。本作の他に「煙寺晩鐘図」(国宝、畠山記念館)、「漁村有照図」(国宝、根津美術館)、「遠帆帰帆図」(重要文化財、京都国立博物館)の三幅の現存が確認されている。本作はその後、豊臣秀吉の手に渡り、以後上杉景勝、徳川秀忠、越前松平家、石野家、佐々木家の所蔵を経た。越前松平家については、松平忠直郷が、大阪夏の陣で大阪方の首級3600余りを数えたが、恩賞は、この「平沙落雁図」と「初花の茶入れ」のみで、加増が無かったことに不満を持ったと伝えられている。      本作の作者牧谿(もっけい)(生没年不詳)は、南宋末から元初の僧で、南宋を代表する禅僧・無準師範(むじゅんしはん、1177~1249)の法嗣として、杭州六通寺を復興したことで知られている。その画作は、日本においては玉澗とともに珍重され、数多くの追随者を生んだ。例えば、長谷川等伯の画作には、その影響が色濃く反映されている。

破墨山水図  雪舟作 賛/景徐周麟  紙本墨画  室町時代 出光美術館

たっぷりと水気を含んだ墨を縦横に走らせ、そこに濃墨で舟と樹木、そして家屋を配し、水辺の里の情景を描き出す水墨画である。筆さばきはあくまでも速く、あちこちに滲み(にじみ)が生じているが、それがかえって水場から立ち上がる湿潤な空気感を見事に表現している。                       本作の様式が玉澗の画法に則ったものであることは言うまでもない。雪舟は、その画歴の全般にわたって玉澗の水墨画を描き続けている。

国宝 破墨山水図(部分) 雪舟作 紙本墨画一福 明応4年(1495)東京国立博物館

上に挙げた「破墨山水図」に比べると、ずっと瀟洒なものになっている。明応4年(1495)の春、修行を終えて別れ行く弟子如水宗淵(じょすいそうえん)に与えたもので、雪舟自身が絵の由来を記している。室町絵画にはきわめて珍しい画師自身の言葉である。禅宗では弟子が一人前になると師の肖像(頂像)(ちんそう)を描かせて、詩(賛)を書いてもらい伝法の証とする。この絵は、雪舟から宗淵に与えたときには、自題の上には広い空白があった。宗淵は京へ上って有名僧の間を巡り、そこに詩を書いてもらう。上二段(この絵は下のみで、上の詩は見えない)の六つの詩がそれである。雪舟と宗淵の子弟関係は、禅宗界中央の高僧たちの詩に詠みこまれて、より権威づけられたものになる訳だ。雪舟も当然それおを意識していた。自題のなかで、雪舟は、中国へ渡った経験など画師としての自負を語っている。弟子に与えた絵の中で、雪舟は自分のアッピールをしているのだ。絵のほうにも雪舟独特の荒々しさがない。五山の禅僧たちを意識して、都風の瀟洒なものにしたのだろう。それが成功して穏やかな墨のトーンのなかに素直に山や霞や岩をイメージすることができる。(本作は、出光美術館に展示されているものでは無い。黒田論文から引用したものである)

布袋・山水図 雪村作  紙本墨画  三幅  室町時代  出光美術館

  

中幅には頭陀袋に乗った布袋が、片手に杖、もう一方に団扇を持ち、にこやかに笑みを浮かべている。そして各福に配されるのは、玉澗様の水墨三水。右幅の画面上には月、または左幅には寺院を表す塔が描きこまれていることからすれば、右幅は「瀟湘八景」の「洞庭秋景」、左幅は「遠寺晩鐘」にも当てはめることが出来る。布袋があおぐ、団扇から生じる風が、両脇の山水へ吹きぬけているかのようにも見える、ユーモラスな三幅対の作品である。雪村(生没年不詳)は、室町時代から戦国時代にあけて、主に関東を中心に活躍した画僧であり、雪舟に私淑したとも言われている。本作においても量感あふれる布袋の描写は見事であるが、とりわけ左右幅に見られる的確な筆墨には、玉澗風に対する雪村の理解の深さをうかがわせる。

重要文化財 四季花鳥図屏風 能阿弥作 四曲一双 紙本墨画 応仁3年(1469)出光美術館

四曲一双という室町時代としては珍しい形式の屏風ながら、両隻を横並びに立ててみると、左右両端と中央に主要な景物を配する、安定感のある構図ができあがる。右隻には松、左右隻にまたがる中央部には蓮、そして左隻左端には枯木と竹を配し、それを背景として叭々鳥、白鷺、燕、鴛鴦、鳩などの禽獣たちが描かれている。鳥たちの楽園ともいうべき空間があらわされている。           画中に描き込まれたモチーフは、いずれも水墨花鳥の典範としてその名をとどろかせた牧谿の画作からの引用であることが指摘されている。まさに「牧谿づくし」ともいうべき作品である。室町時代において典範となる画家の画風は「様」(よう)と呼ばれ、この「様」を忠実に守っているか否かが、絵画の制作、および作品の評価における重要な基準となった。とりわけ「牧谿様」は、こうした基準の頂点に君臨するものであり、後世に至るまで脈々と受け継がれた。長谷川等伯も牧谿様の作品を数多く描いていることは、この基準がいかに強固なものであったのかを如実に物語っている。本作は能阿弥の代表作かつ制作年の判明している最古の水墨花鳥図という点において貴重であり、また制作年、受容者、そして制作動機が判明しているという点においても他に類例を見ない作品である。

竹鶴図屏風(左隻) 長谷川等伯作 六曲一双 紙本墨画 桃山時代 出光美術館

牧谿筆「観音猿鶴図」の鑑賞体験によって描かれた作品である。現在は屏風であるが、紙継や引手跡によって当初は襖であったことが知られる。左隻の竹林を背にして啼く鶴の姿は、牧谿画の鶴図そのままといえるほどである。しかし、本作品にも牧谿にはない解釈がなされている。それは右隻の巣籠りする雌鶴の存在である。牧谿画猿鶴図は筆者の宗教者としての世界観を象徴し、親子間の愛情も描かれているが、等伯画では、雄鶴の雌への愛情も示す解釈が加えられているのだ。番(つがい)間の情愛表現である。牧谿画で解き明かされた自然界の奥行きを表現する深遠なる墨の濃淡表現に、等伯は日本人に親近される光のもつ温もりに共感を寄せ、それを象徴するように動物の温もりを描いてみせたのではないだろうか。本作品中の竹林の墨の諧調の効いた表現は、「松林図屏風」(国宝)の松林の表現に通じると思う。

松に鴉・柳に白鷺図屏風 長谷川等伯作 六曲一双 紙本墨画淡彩 桃山時代 出光美術館

右隻には巨大な松樹があり、その一枝には鴉が巣を作り、母鳥の下には三羽の雛鳥が見える。近くの枝には餌を運んできたのだろうか、父鳥が止まり、さらに雛鳥たちに餌の催促をされているように映る。左隻では雪景色のなか、柳の古木に一羽の白鷺が佇み、さらに一羽の白鷺が飛来しようとしている。番(つがい)の白鷺の情愛の交歓の場のように映る。本作品には鴉一家の愛情と番の白鷺の情愛の交歓という、動物の感性そのものが描かれていることに加え、右隻の中央よりの松樹がもたす構図の不安定感は「松林図屏風」(国宝)に繋がる新しさであることと、水墨画において黒い鳥は叭々鳥に代わり、古来忌避されてきた鴉をその家族愛というテーマに変えて表現した点に、等伯の水墨画制作における清新な意欲を感じる。このような表現における平明さがいかにも近世的であるし、単に牧谿画の模倣に終始しなかった等伯の真面目(しんめんもく)である。さらに上方には「備陽雪舟筆」という署名の痕跡があり、永い間、雪舟の作品と思われてきた。

国宝 松林図屏風 長谷川等伯作 六曲一双紙本墨画 桃山時代 東京国立博物館

遙かに連なる松林を、四つの樹叢(きむら)に象徴させて描く。左隻にはかすかに雪山が見え、冬の到来が真近にせまった晩秋の風景を思わせる。朝霧なのか、暮色なのか、いずれにしても、刻々と表情を変えていく一日のなかのもっともデリケートに移ろいゆく時間の投影である。まもなく光と大気はその色を変え、やがてこの風景は喪失される。そしてそこには風景に寄せる鑑賞者の憧れだけが残るのであろう。藁筆(わらふで)様の筆での表現は、明らかに牧谿画に拠ったものであるし、光への興味の表れは、玉澗画に拠ったものかもしれない。           牧谿画鑑賞体験後、動物の感性そのものを描くことによって、情感表現を志した等伯が到達した情趣表現の極致であることはいうまでもなく、更に言えば、日本人に親近される水墨画の自律を告げる作品でもある。(本作は、出光美術館で展示しているものでは無い)

 

「水墨の風ー長谷川等伯と雪舟」と題する出光美術館の展覧会の、第3章以降は思い切ってカットし、「雪舟」と「等伯」に絞り込んでみた。理由は、絞り込んだ方が、深く掛けることと、美術館で販売している写真が少なく、到底全部を書くことは不可能であると思ったからである。その代り、雪舟、等伯とも、展覧会に陳列されていない屏風を2双出した。この2双は、いずれも国宝であり、東京国立博物館の所蔵である。たまたま、その写真を持っていたので、参考に資するために、展示した。水墨画については、まだまだ勉強する点が多いが、この企画展と図録の田中論文には勉強させられた。篤く御礼申し上げたい。

 

(本稿は、図録「水墨の風ー長谷川等伯と雪舟  2017年」、図録「没後400年 長谷川等伯  2010年」、新潮日本美術文庫「第1 雪舟」、新潮日本美術文庫「第4 長谷川等伯」、安倍龍太郎「等伯 上・下」を参照した)

「黒川孝雄の美」200編を書き終えて

2011年(平成23年)12月に書き始めて、100編に至るまで約3年を要した。1ケ月につき3偏を書いた勘定である。2014年7月26日号の「国東半島の六郷満山文化を巡る」が、丁度100編に当たる。概ね1ケ月に3回の割で書いてきたことになる。2014年8月5日の「ボストン美術館 華麗なるジャポニズム展」が101編目に当たる。その後2015年12月29日の「神奈川県立美術館 所蔵名品展」まで、書き綴り約180編にまで至った。概ね、1ケ月に4.7編の割になり、かなりピッチを上げたことが判る。                                             しかし、悲劇は、その直後に起きた。年齢も満80歳にとなり、(株)フランチャイズ研究所の仕事を閉鎖しようとして、従来パソコン(2台)、ブログ一切の管理を依頼していた会社から、管理会社を2016年1月1日付で変更することにした。勿論、コストが安くなることも魅力であったが、大きな会社組織で、様々なサービスを割安で受けられるメリットを感じたからである。十分打合せをし、万全を期した積りであったが、なんとブログが1月4日に全部喪失してしまった。よくよく事情を調べてみたら、私は、従来のブログの管理会社をそのまま使用し、その管理(年間維持費の支払い等)を新会社に依頼する予定であったが、新会社は自社のブログを利用する方式を検討していたのである。ブログ180編は、かくして全部抹消されたのである。幸い、最初の100編は、CDに焼き付けて、友人・知人に配布し、私の手元にも5枚ほど残っている。(「黒川孝雄の美」 第Ⅰ輯)     問題は、その後の80編の回復である。美術展の回復は諦めた。奈良・京都の古寺巡礼は、逐次回復していく方針である。(幸い原稿と写真は手元に残っているので、若干の修正・補正を加えて回復する方針である。)しかし、いまだに回復はしていない。                                                             気分も新しく、2016年1月4日に「智積院 等伯一門の障壁画と庭園」から書き始め、2017年6月19日に「新薬師寺  十二神将の寺」で、無事200編となった。101編から200編までは、5.5日に1回の割(1ケ月に6編の割)で書いたことになる。                         私にとっては、書き易い記事は、奈良・京都の古寺巡礼である。大学生時代から65年に及ぶ経験があり、ほぼすべての古寺には拝観した記憶がある。仏像にも愛情が多い。50年、60年経っての記憶であるだけに鮮明に思い出すことが多い。逆に、書き難い記事は、西洋中世の美術である。16世紀~20世紀の西洋美術は、せいぜい30年から50年程度の知識しかなく、親近感も薄い。印象派とか日本近代美術は、見る機会が多かったが、その以外の抽象画には、出来るだけ近づかないようにしている。                           現在1ケ月のアクセスは6千回であり、単純に日割りすれば1日200回である。これが多いか少ないかは分からないが、毎月増加していることは間違いない。望洋会に記事が紹介されるようになったのは、2012年9月9日の「荻須美術館」からである。紹介されると、その後の3日間で20アクセスが増加する。望洋会の会員の中で、メールを操作できるのは15名程度と聞いているので、5名は望洋会以外の方が記事を見てアクセスされるものと思う。               さて、これから201回目に向かう訳だが、ピッチは落とさず、月間6回、年間70回を目途に、再開したいと思う。最終的な目標は500回を目指している。計算では4年程度を要することになる。別に、急ぐ仕事も無く、「美」の記事を書くことを楽しみにして、生きたい。多分、命ある限り、美への愛着は尽きることは無いと思う。                                  今後は、美術展や、古寺巡礼だけに頼らないで、私の「日本美術論」例えば「琳派の美」、「岩佐又兵衛論」、「北斎論」、「尾形光琳論」など、私の好きな画風、画家を自分の意見で書いてみたいと思う。そのように考えていたら、年来の友人であるY君から注文があった。「日本人の美における、わび、さび、ひょうげ、について」をまとめてくれとの依頼であった。                  本格的な茶道を正規に学んでいない私にとっては難題であるが、年来の友人からの依頼であるから、是非挑戦してみたい。このように考えると、生涯を掛けた美術論の研究が必要になり、改めて基礎から学び直す覚悟が必要になるであろう。      今、一番興味があるのは江戸時代である。江戸時代については、従来あまり興味もなく、知識もなかったが、浮世絵や岩佐又兵衛を調べる間に、すっかり虜になり、江戸時代の文物、歴史、思想に強い興味を持つに至った。           なお、200編記念のCDを作る計画であるので、親しい方には配布したいと思う。(「黒川孝雄の美」 第Ⅱ輯)                                            なお、望洋会HPへのアップについては、佐藤治、中山明俊の両学兄に大変お世話になった。篤くお礼申し上げる。