浅井忠の京都遺産展

浅井忠(1836~1907)は、工部美術学校の生徒として、フォンタネージュのよい影響を受けた弟子であった。この子弟のなかには心情的に親しいものがあったと想像される。浅井忠の初期の代表作に第1回明治美術会(明治22年)に出品した「春畦」(はるあぜ)、第2回明治美術会に出品した「収獲」(重文)がある。(これは「芸大コレクション」で紹介している。)いずれも田園風景であり、懐かしい心情を感ずる。浅井忠は、明治31年(1898)、東京美術学校教授に招かれ、浅井教室を持つが、翌年2ケ年間のフランス留学を命ぜられ、フランスに赴いた。浅井忠の洋画家としての地位は既に不動に高まっていたのである。浅井忠はどこの教室にも入らず、黒田清輝が「読書」を描いたグレーに滞在し、またフォンテーヌブローに行き、主として風景画を描いている。浅井がパリ滞在中の1900年(明治33)に、パリでは5回目の万国博覧会が開催された。交通、情報網の発達により5100万人を集客した同博覧会は過去最大規模の祭典となり、装飾芸術が花開き「アール・ヌーヴォーの勝利」と称され、会場にはエミール・ガレやティファーニの華麗な工芸品が並び、ミュシャによる壁画やポスターで装飾された。このパリ万博には、浅井忠をはじめ、夏目漱石、竹内栖鳳など作家、美術家も大勢参加していた。丁度、京都高等工芸学校設立準備のためヨーロッパに来ていた中沢岩太は、パリで浅井と出会い、同佼の図案化教授就任を依頼した。浅井は、この万博で日本の絵画が「精神も無く気力もなく色は全く無味乾燥」であることを痛感し、この申し出に快諾した。(洋画家として黒田清輝と並ぶ大家であったにも関わらず)

椿姫 リトグラフ(懸け幕として使用) アルフォンス・ミュシャ作1896年京都工繊大

中沢氏の依頼を受け、浅井は、パリで京都工芸学校の教材となる資料取集を行った。石膏像のほか、フランス陶磁器19点とヨーロッパのポスター72点がある。中には、当時ヨーロッパを席巻していたアール・ヌーヴォーを代表する人気作家のポスター(懸け幕)もあり、このミュシャと同様のポスターが2点展示してあった。このミュシャの椿姫(つばきひめ)は中でも人気を呼んだ。

グレーの河岸 浅井忠作 水彩・紙 明治35年(1902)泉屋博古館

浅井は、明治32年(1990)、文部省より2年間フランス留学の命を受けた。丁度パリでは1900年のパリ万博が開催されており、彼はその監査官も命ぜられた。しかし、パリ万博もさることながら、浅井を惹きつけたのは、大都会の華やかさよりも、むしろフォンテンブローやグレーの田園景色であった。ここに掲げる水彩スケッチを数多く残している。それまでの彼の作品に見られなかった濁りない色や透明感など、明るい色彩を感じさせる表現が目立っている。

河岸洋館 浅井忠作 水彩・紙  明治35年(1902)  泉屋博古館

上の「グレーの河岸」と同じ時期の水彩画である。素早いタッチで描かれた簡単な水彩画であるが、そこにひそむ田園の詩情を画面に表現する彼の腕前は、見事に発揮されている。

クレーの教会 浅井忠作 水彩・紙  明治35年(1902) 泉屋博古館

特にロアン河畔のグレーの村は、彼のお気に入りの地で、何回となく繰り返し訪れ、明治34年から翌年にかけては、冬の間ずっとグレーに滞在し続ける程であった。素早い筆致で描かれた簡単な水彩画であるが、対象をある一定の距離から的確に捉えている。見事な筆致である。

垂水の浜 浅井忠作 水彩・紙  明治36年(1903) 泉屋博古館

兵庫県の垂水の浜を淡い色で描いた水彩画である。この垂水の浜の近くには住友家の別荘があった。浅井は既に東京美術学校の職を辞し、京都工芸繊維高等学校の教授となり、住まいも京都に移していた。(泉屋博古館は住友家が主催した美術館)

秋林 浅井忠作  水彩・紙  明治35年(1902) 泉屋博古館

帰国後の明治35年(1902)、京都高等工芸学校教授として赴任した浅井は、フランスで学んだものを、関西の穏やかな風景に置き換え、季節や時の移ろいを光とともに映し出す瀟洒な水彩風景画を描いた。これは、京都の大原のあたりの秋の林を描いたものである。京都に根ざした日本画に接し、少年時代以来再び開眼した、軽妙洒脱な筆致で自ら楽しむ風情が共感を呼んだ。

武士狩図  浅井忠作  油彩・カンヴァス  明治38年(1905) 京都工芸繊維大学

本作は、浅井が京都時代に描いた最大級の洋画であり、当時の東宮御所東二の間「狩りの間」に向けられた綴織壁掛の二分の一のサイズの原画である。秋の山路で狩りを楽しむ三人の武士たちが描かれている。本作品を含め、下図など関連資料がⅠ3件残されている。会場では、下絵として馬、武士など4点が展示されていた。(昨年の黒田清輝展でも多数のスケッチが展示されたが、このような下絵の展示は素人には、非常に参考になるので、せめて古い画家には、スケッチを展示して頂きたい)浅井は実際に狩装束を着たモデルを乗馬させて写生し、入念な構図研究を行った。この際使用された装束や馬具類は、京都高等工芸学校に標本資料として現在も資料館に収蔵されている。この下絵の2倍の綴織が、大正2年(1913)に川島織物のもとで完成している。(因みに東宮御所は、現在の迎賓館 赤坂離宮であり、昨年この「美」で取り上げているが、残念ながらこの織物は撤去されていた)この作品は、明治40年(1907)10月の第1回文部省展覧会(文展)に出品された。好評であったが、浅井は装飾的な趣向を目指していたので、好評とは裏腹に、不満の残る作品だったようである。

梅図花生 浅井忠図案 陶磁  明治35~40年(1902~07)

浅井忠は画家として有名であるが、一方後半生に手がけた図案(デザイン)には、絵画に劣らぬ輝きを放っている。風景画が端正であるのに較べ、浅井のデザインは大胆でスタイリッシュ、時には躍動的である。この花生は梅という伝統的な題材であるが、まるでアール・ヌーヴォーを思わせる大胆なデザインであり、極めてスタイリッシュである。思わず「恰好いい」と叫びたくなるデザインである。

野分蒔絵(のわけまきえ) 文庫 浅井忠下絵 杉林古香作 明治39年(1906)

猪を鉛で、牙や目、桔梗を螺鈿で、千草を高蒔絵で表現した本作品は丸みを帯びた形状が光悦蒔絵に通じる一方、猪という漆芸品には珍しい主題で、蓋の曲面を利用して強調された猪の躍動により、独特の表現となっている。

鬼が島 浅井忠作 絹本着色 双幅  明治38年(1905) 個人蔵

幼少の頃、黒沼槐山(かいざん)について日本画を学んだ浅井は、東京時代は油彩画の先覚者として制作を続けたが、京都時代には、黙語(もくご)と号し、一転して軽妙な日本画を多く描いた。戯画風の人物画など、油彩画面にはない描線の軽やかさを楽しむような浅井の日本画は、図案制作とはまた異なる一面を見せてくれる。

大原女  浅井忠作  「黙語図案集」より  明治41年(1908)

浅井忠の図案集「黙語図案集」(出版物)の中の一図である。大原女をデザイン化したものである。

大津絵・藤娘  浅井忠作 「黙語図案集」より  明治41年(1908)

浅井忠の図案集「黙語図案集」の中の一図である。大津絵の藤娘をデザイン化したものである。

 

日本洋画壇の先駆者浅井忠(1856~1907)は、パリ万国博覧会などのため訪れたヨーロッパの経験を通じ、画風を変化させただけでなく、全盛期のアール・ヌーヴォーの洗礼を受け、デザインへの強い関心を抱くようになり、滞仏中に京都高等工芸学校の図案化に誘われ、京都移住を決意した。明治35年(1902)からこの世を去る明治40年まで、浅井は京都で教鞭をとるかたわら、聖護院洋画研究所、関西美術院と続く洋画家育成機関の中心となり関西画壇の発展に尽力した。また陶芸家や漆芸家を結ぶ団体を設立し、自らもアール・ヌーヴォーを思わせる斬新なデザインで京都工芸界に新風を巻き起こした。明治初期の洋画家として有名であるだけでなく、デザイン家としても評価できる仕事をし、近代日本を代表する一人の芸術家である。黒田清輝が、光あふれる印象派の作風を学んで明治26年にフランスから帰朝して「外光派」とよばれたのに対し、アカデミックな浅井の画風は、「脂派(やには)」「旧派」と呼ばれることもあった。しかし、浅井の京都遺産を見ると、単なる洋画家ではなく、優れたデザイン家であった事も理解できた。この展覧会は、今年の大きな収穫であったと思う。

 

(本稿は、図録「浅井忠の京都遺産  2017年」、土方定一「日本の近代美術」、原色日本の美術「第27巻 近代の洋画」、図録「芸大コレクション  2017年」を参照した)

世界遺産”「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群”

第41回世界遺産委員会は7月9日に”「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群”の世界文化遺産への登録を決めた。地元は歓迎一色であった。この登録が決定した遺産群とは、福岡県宗像市の沖ノ島と3つの岩礁(小屋島、御門柱、天狗岩)のほか宗像大社沖津島遥拝所、同中津宮、同辺津宮、と新原・奴山古墳群が一括で登録されたのである。ユネスコ世界遺産委員会は「構成資産は文化的・歴史的に結びついた一体のもので、価値を理解するには全てが必要である」と指摘している。九州北部と大陸の文化交流の拠点であるこの宗像は、玄界灘に面した福岡県宗像市にある辺津宮(へつぐう)、沖合の大島の中津宮(なかつぐう)、そして朝鮮半島と日本のちょうど中間に位置する沖ノ島の沖移宮(おきつぐう)という三つの宮があり、それぞれ三人の女神が祀られている。これら三宮をあわせて宗像大社と呼んでいる。三宮の中でも沖津宮のある沖ノ島は、朝鮮・中国、さらには遠くペルシャといった遠方の工芸品がシルクロードを通して運ばれ、「海の正倉院」と称される内容を持った奉献品を出土したことで知られている。1954年から1971年までの三次にわたる学術調査によって発見され、4世紀から9世紀にわたる沖ノ島出土品約8万点はすべて一括して国宝指定されている。一方、遣唐使の派遣の廃止などをうけ、辺津宮(宗像社)での祭祀が中心となった中世以降も、対外交渉に活躍した宗像大宮司家を中心に宗像三女神への尊崇が続いたことが当時の古文書からも知られる。江戸時代には、宗像大社は福岡藩主黒田家の庇護を受けるとともに、歴代藩主より様々な品が奉納されている。

重要文化財 宗像大社拝殿         桃山時代(天正18年ー1590)

宗像大社の社殿は、遅くとも12世紀末までに築かれたことが判っているが、度々の戦乱などにより焼失し、最後に焼失したのが弘治3年((1557)で、天正6年(1578)に大宮司宗像氏貞により本殿(国宝)が再建され、拝殿(重文)は小早川隆景によって天正18年(1590)に再建された。

重要文化財  宗像大社拝殿  三十六歌仙篇額 36面 江戸時代(17世紀)

柿本人麻呂など三十六歌仙篇額が拝殿に奉納されている。これは黒田藩第三代藩主黒田光之が、延宝8年(1680)に辺津宮に奉納したもので、書は藤原基時(1635~1704)、絵は狩野安信(1614~1685)によるものである。狩野安信は、狩野探幽の弟で、狩野家の頭領となった。のちに江戸中橋に屋敷を拝領し、江戸幕府の御用絵師となり、江戸城などの障壁画制作に係った。絵の技量は探幽に劣ると言わざるを得ないが、著書「画道要訣」(1680)では、狩野派の絵画に対する考え方をまとめ、江戸時代を通して日本絵画史に与えた影響は大きい。本絵馬は、重厚な画風が現れている。

国宝 宗像大社本殿        桃山時代(天正18年1590)

本殿には辺津宮が祀られている。桃山時代を代表する宸殿造りである。特に桧肌葺による曲線が美しいと思う。沖津宮、中津宮も同じ宸殿造りであると言われている。

高宮斎宮                古墳時代(3~5世紀)

宗像大社の横の道をぬけ、背後の宗像山へ昇っていくと、高宮祭場があらわれる。高宮祭場は辺津宮の起源となる古代祭祀の場であるそうだ。この祭祀場は、荘厳な趣きがある。ここより、少し下がった場所に遥かに大島を拝する場所がある。但し、沖津島は、ここからは望めない。

沖ノ島全景

玄界灘の真只中に浮かぶ孤島である。周囲は4km、最高峰一の岳は243m、前面には小屋島、御柱島、天狗岩と島々が浮かぶ。この島は「神宿る島」として人々から宗敬を集めててきた。島の信仰が深まる中で、女人禁制、禊(みそぎ)、島での見聞の口外無用、島内のものの持出無用、一般人の入島禁止など禁忌(きんき)が現れ、今でも厳守されている。この島では、百済との通交がきっかけにヤマト王権による国家祭祀が始まった。当初は巨岩を盤座(いわくら)とし、その上面に祭場を営んでいたが、やがて祭場は岩陰へと移ってていった。岩上祭祀期は弥生時代から古墳時代にかけてである。岩陰祭祀期は古墳時代から磐井の乱の時代にかけてである。露店祭祀期は奈良・平安時代とされている。4世紀初めには、玄界灘と宗像地域に勢力を持った宗像一族が奉斎することとなった。4世紀後半、ヤマト王権と百済の通交開始の際、宗像一族とその信仰の重要性が高まり、沖ノ島でヤマト王権による国家祭祀が始まった。昭和29年(1954)から、昭和46年(1971)に行われた学術調査で、23ケ所の大規模な祭場と約8万点に及ぶ奉納品(国宝)が発見され、この祭祀跡が4世紀後半から9世紀にかけて繰り広げられたヤマト王権・大和朝廷と東アジア諸国との対外交渉に深く関わることが明らかになった。

国宝  三角神獣鏡(さんかくしんじゅうきょう)中国・魏~西晋時代(3世紀)

内区に不老長寿の思想を表す神仙や霊獣の文様を配した鏡を神獣鏡というが、そのうち鏡背の縁の断面が三角形をなす鏡が三角神獣鏡である。わが国では古墳時代前期の古墳から大量に出土し、多くは中国三国時代の魏で製作されれた舶載教と推定されるが、それを模した仿製鏡(ほうせいきょう)も存在する。

国宝 堅玉・水晶・雲母片岩・滑石製棗玉・滑石製臼玉・碧玉・古墳時代

白色を帯びた堅玉勾玉2点のうち、大型品は沖ノ島出土品では最大の勾玉である。碧玉勾玉は出雲の花仙山(かせんざん)産と見られる勾玉5点が含まれる。管玉(くだたま)には経が0・5cm程度のものと、経が1cmの太めの大形のものがある。

国宝 鉄剣、鉄刀、鉄地銀張鎺(てつじぎんはりはばき)古墳時代(4~6世紀)

本作品のうち、鉄製鍔(つば)と銀製鍔の豪華な装具を持つ鉄剣は茎(なかご)の端部近くに目釘孔を一孔穿っている。他の二刀は、倭風太刀で、二振りの捩じり環頭太刀が奉献された思われる。古墳時代前期以来の伝統的な刀剣の外装具の流れを引く倭風太刀の一種で、5世紀に出現した可能性が高い。

国宝  滑石製子持勾玉             古墳時代(4~6世紀)

その名のごとく、比較的大きな勾玉の背・両側面に、複数の小さな勾玉や突起を削り出して形作ったものである。4~6世紀のものであろう。滑石という軟らかい石で作られている。増殖等に関する呪術的な祭具とも考えられている。沖ノ島祭祀では長期にわたって奉献されている。

国宝  金製指輪     朝鮮・新羅時代(三国時代、5~6世紀)

純金製の指輪は、正面中央を上下に突き出るように菱形にした金板を曲げて、正面と反対側で接合し環状に仕上げたものである。菱形状の中心には四枚の花弁を持つ花文があしらわれ、花弁の間には円環を配している。この形の指輪は、韓国慶州にある三国時代新羅(しらぎ)の王陵の出土品に多数類例が見られる。本品は新羅からもたらされたものと見られている。

国宝  カットグラス碗片(わんへん)  イラン・ササン朝時代(6世紀)

気泡を多く持ち、淡い緑色をおびた半透明のガラスの破片は、表面に浮出の円文が施されている。復元すると、上段に九個、下段に七個の浮出文をめぐらした特異な趣のカットグラス碗となる。本作品はササン朝ペルシャから伝来したササン・グラスと見られている。(碗片のみが発見され、この透明のカットグラスは、想像図である)正倉院御物の白璃碗に似ている。

国宝 金銅製棘䈎形杏葉(きょくようがたぎょうよう) 古墳時代(6~7世紀)

鞍から馬の胸部や臀部に伸びる革帯に下げて馬を飾り立てる金具である。馬具は、百点以上出土している。三国時代新羅の技術要素を持つ「新羅系馬具」を主体としており、ヤマト王権と朝鮮半島諸国との活発で複雑な交渉を反映するものである。この馬具類の多さは、戦後発表された、江上波夫氏の「騎馬民族説」を、思い出させる。

国宝 金銅製龍頭(こんどうせいりゅうとう) 一対 中国・東魏時代(6世紀)

一対をなす龍頭は、同形同大のようだが、葉の本数など細部の表現に違いがある。鋭い眼、湾曲しながら後ろへ伸びる頭角、先端が大きく開いている鳥の嘴状に尖った分厚い唇、迫力を持つ龍である。敦煌莫高窟の隋代、唐代の壁画には、竿先に本品と同様の龍がつけられ、口元から幡た天蓋が吊り下げる様子が描かれており、用途を知ることが出来る。

国宝  奈良三菜小壺(こつぼ)         奈良時代(8世紀)

奈良時代にわが国で制作された鉛釉彩陶のうち、複数色を用いた多彩釉陶器を奈良三彩という。7世紀後半頃、朝鮮半島南部の影響の下に製作が始まった緑釉陶器の技術に、8世紀の中国唐三彩の技術が加わり誕生したものである。

 

”「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群”が7月9日にユネスコ第41世界遺産委員会で「世界文化遺産」への登録が決定された。通常、立ち入ることが出来る場所は宗像市の宗像大社と、大島である。今回は、宗像大社に詣で、かつ神宝館の国宝類を見学した。時間があれば、大島の中津宮へ行きたかったが、残念ながら時間が無く、宗像大社と神宝館の国宝に限定した報告となった。大島は、宗像大社の高宮祭場から、やや下がった場所から拝することできた。世界遺産への登録は、参詣者を増やし、大勢の参拝者が訪れていた。しかし神宝館まで、足を伸ばす人は少なく、大変残念である。

(本稿は、図録「宗像大社国宝展  2014年)、日経新聞2017年7月16日、7月17日”「宗像・沖ノ島」世界遺産に”、ウイキペディア「宗像大社」を参照した)

長府藩武家屋敷小路と 国宝 仏殿

今年(2017年)の夏・7月に下関の花火を見学する機会があった。折角の機会でもあるので、下関に行く前に、長府藩毛利邸と武家屋敷跡を見学して、大きな感動を覚えた。そもそも長府藩(ちょうふはん)は江戸時代の藩の一つである。長州藩の支藩(しはん)で、長門府中藩(ながとふちゅうはん)とも言う。藩祖は毛利輝元の四男の穂井田元清の子で、毛利輝元の養子となった毛利秀元であった。秀元は、天正20年(1592)4月11日に朝鮮出兵に向かうために毛利氏の本拠であった広島城に入った秀吉によって養嗣子となることを承認された。但し、後日の紛糾を避けるために「輝元に男子が生まれた場合には分家すること」という条件の下であった。その後、輝元に嫡子秀哉が誕生したので、慶長3年(1598)8月1日に、豊臣政権は秀哉を毛利氏の後継者として承認し、事実上廃嫡される秀元には輝元から所領を分治されて大名となることが決定された。翌年の慶長4年(1599)6月には、この方針に則って秀元に長門国一国と安芸佐伯群及び周防群の合計17万石をもって、叔父である小早川隆景の例に倣って毛利家臣でありながら大名としての身分が認められることとなった。この時(慶長4年)が、長門藩の立藩である。関ヶ原の戦いの後に、毛利輝元は安芸ほか8か国で112万石から周防・長門の2か国29万8千石に減封された際に、輝元が東の守りとして岩国に吉川広家を置き、西の守りとして改めて長門国豊浦郡(元在の山口県下関市)に秀元の領地を与えられた。後に長州藩は、幕府の了解を得て36万9千石に高直しをおこなった。長府藩は、最初6万石であったが、後に1万石を分治して幕末には5万石となった。この長府藩の跡を訪ね、素晴らしい武家屋敷の小路に感激し、かつ国宝の仏殿を拝して、この上ない旅となった。

長府藩の武家屋敷の塀の連なり

長府藩は、明治維新により豊浦県を経て山口県に統合されている。従って、現在の地名は下関市長府となる。江戸時代から続いた武家屋敷の跡が整然と残っており、繕いも出来ない武家屋敷の塀は、どのような経済変化の跡を受けて、現在に残ったのであろうか?鹿児島県には、武家屋敷の跡が残っていることで有名であるが、この長門藩の跡地も素晴らしい景色である。

古江小路(ふるえこうじ)

古江小路とは、上の長府藩の武家屋敷の塀の連りのことを言う言葉であろう。この城下町長府の武家屋敷は合戦に備えて防衛的配慮がしてあり、この土塀は防壁として築かれている。そのため町筋は碁盤の目ではなく、丁字型になった部分も多く、わざと迷路のように造られている。

菅家長屋敷門・練塀

古江小路の中ほどに「菅家長門門・練塀」がある。これは長府藩初代藩主毛利秀元が、京都から招いた侍医兼侍講職を務めた格式のある家柄であった。現在は、門と練塀を残すのみであるが、江戸時代の面影を良く伝えている。

長府  毛利邸

明治維新により大名は、すべて東京に住むことになり、新政府は爵位を与えて厚遇した。長府藩も支藩とは言え大名であるので、東京に住むことになった。長府毛利藩邸は、長府毛利家14代当主の毛利元敏(もうりもととし)公が、政府の許可を受けて、東京から下関に帰住し、この土地を選んで建てた邸宅である。明治31年(1898)に起工し、明治36年(1903)6月に完成した後、大正8年(1919)まで長府毛利家の邸宅として使用された。純日本風の建築であり、庭には淵黙庵(えんもくあん)と名付けた茶室もある。武家屋敷造りの重厚な母屋と日本庭園が、見事な風情を感じさせてくれる。

母屋より庭園を望む

母屋の縁側から、庭園を写したものである。庭園は池泉回遊式である。

池泉回遊庭園より母屋を望む

逆に、庭園から母屋を写した。明治時代の建物であるから、古い家というより、むしろ立派な邸宅という感じを受けた。

国宝 功玉寺 仏殿 二重屋根入母屋造り、 鎌倉時代(嘉暦2年ー1327)

長府の毛利邸を辞する時に、功山寺(こうざんじ)というお寺が近くにあり、長府毛利家の墓所と聞いたので、少し山を登って功山寺を何の予備知識も無く、訪問した。功山寺は、明治維新の前に毛利氏の歴史の上で有名な事件を残しているが、何よりもこの国宝 仏殿には驚いた。まさか、長府の山の中に、これだけ立派な国宝 仏殿があることは全く知らなかった。まるで鎌倉円覚寺の舎利殿と同形式で、鎌倉時代の仏殿建築の代表的な建物である。なお、時間的に午後4時頃であったため、逆光でうまく写真が写せなかったので、後ろから写した写真が見易いと思う。

国宝 功山寺   仏殿  後方からの写真

二重入母屋造りの桧肌葺きである。毛利氏とは歴史的に離れているが、この寺の歴史は毛利氏以前に遡る。毛利氏以前に中国地方で権勢を振るっていたのは大内氏である。大内義孝は周防など7か国の守護職を兼ねていた。天文年間(1532~55)ザビエルを引見しキリスト教の布教を許し、西洋文明の輸入に勤めた守護大名である。しかし、天文20年(1551)、彼は家老の陶晴賢(すえはるかた)に襲われ、やがて自殺するが、その跡を継いだ大友宗麟の弟が、大内義長と名乗った。安芸国(広島)吉田庄から出た毛利氏が、かの元就の代にぐんぐん勢力を伸ばし、弘治元年(1555)元就は陶晴賢を安芸厳島に襲撃、敗死させ、ついで弘治3年(1557)4月、大内義長を長門勝山城に攻めて、功山寺(当時は長福寺といった)に、逃げ込み、毛利勢の追討が押し寄せ、この仏殿で割腹自殺した。その時、従った家来は30名と伝えられている。

国宝  功山寺 仏殿  斜め後ろより撮影

勝者毛利輝元は、中国地方から大内と尼子の勢力を駆逐し、その大部分を支配した。孫の輝元は、豊臣政権下において、安芸・周防・長門・石見・備後・出雲・隠岐・伯耆の八カ国、百十二万石の大大名であり、五大老の一人であった。しかし、関ケ原の合戦(慶長5年ー1600)で、毛利輝元は名義上とは言え西軍の総大将として大阪城に入城したから、徳川将軍によってその罪を問われ、周防・長門二国に領地を削減された。これが以後270年余にわたって続いた長州藩である。八カ国、百十二万石にふくれあがった家臣団を、二カ国36万石の規模に再編成するのは容易なことではなかったであろう。長州藩の本拠萩城では、毎年元旦に大広間に藩士一同が居並び、歴代家老がお殿様に「おそれながら統幕の儀、本年はいかが相はからいましょうや」と申し上げると、殿様が「いまだ時期熟すまい」と答える。これが毎年の行事であったそうである。(多分、後から作った話と思う)

高杉晋作銅像    功山寺内

長州藩では、元治元年(1864)12月16日、高杉晋作がわずか80名をひきいて、俗論党の支配する藩政府を打倒すべく挙兵した。いわゆる「回天義挙」であり、長州藩のその後を支配する最も重要な一つであることは間違いない。長府藩には下関も含む。ここでは、下関海峡における外国連合艦隊と交戦し、長州藩が惨敗した歴史もあるが、長州と薩摩国が連合し、徳川幕府を倒し、明治維新を切り開いた歴史の幕開けの場所でもあった。

下関海峡   ホテルのテラスより写す

遙かに下関より門司を望む景色であり、かって「壇の浦」の合戦の場であり、近くは、連合国との「下関会戦」の場でもあった。日本の歴史の転換点に、登場する下関海峡である。

 

なお、功山寺の寺の前身は、嘉暦2年(1327)虚案玄寂(こあんげんじゃく)が開山として創建された長福寺(ちょうふくじ)という臨済宗禅院であった。しかし、仏殿内陣の柱に書かれた墨書銘によると元応2年(1320)立柱とあるので、創建年代は少し遡るであろう。室町時代には守護大内氏の庇護を受けて、大いに繁栄したが、弘治2年(1556)大内義長が仏殿で自刃するなど、戦乱の余波を受けて衰微したが、長府藩初代毛利秀元は金岡用兼(きんこうようけん)を招いて再興し、功山寺と寺号を改め、菩提寺とした。               長府藩の古江小路と毛利藩邸を見学する予定であったが、思いがけず功山寺 仏殿を拝し、あまりにも豪華な国宝に接し、話が長くなった。中々行き難い場所であるが、下関の花火と共に、今年の夏の良き思い出となった。

 

(本稿は、パンフレット「長府毛利邸」、ウイキペディア「長府藩」、探訪日本の古寺「第14巻 山陽・山陰」、山岡宗八「毛利元就1・2巻」を参照した)

ボストン美術館の至宝展  フランス編

日本でボストン美術館展があれば、必ず見学している積りであるが、図録を探しても「ミレー展」(名古屋ボストン美術館)しか無いし、見学した記憶もない。ボストン美術館の中でも西洋画、なかでも印象派、後期印象派には素晴らしい名品が含まれている筈である。当時、パリをはじめとして多くの国で批評家やコレクター達が、新しい美術運動に疑念を抱いていた時期に、ボストン美術館に後年寄付するアメリカのコレクター達は、積極的集めた筈であり、印象派の最大の支持者は、最初からアメリカ大陸であった。ボストン美術館の中でも特に魅力を持つコレクションである。特にモネ、ピサロ、ミレー、ファン・ゴッホの作品が大きなみどころになっている。

編み物稽古 フランソワ・ミレー作 油彩・カンヴァス  1854年頃

「編み物稽古」は、ボストン美術館では2点所蔵している。今回は1854年頃の旧い方が展示されていた。この時代、自身の衣服をつくることは田園地帯の家庭生活においてはきわめて重要な部分を占めていた。母親たちは娘たちに編み物や縫い物を教えたものであった。その様子は本作品に描かれている、愛情あふれる瞬間にみてとれる。年配の女性の被り物は、彼女たちの住む地域の風習の違いを暗示している。ノルマンディー地方の女性たちはボンネットのような帽子を被っている。

くぼ地のひなげし畑 ジヴェルニー近郊 クロード・モネ作 油彩・カンヴァス1885年

1883年、モネはパリの北西にある小さな町ジヴェニールへ引っ越した。後に有名になる庭と睡蓮の池をつくる前に、彼はまず新居の周辺の田園地帯を描いた。この絵画は、近郊にあった明るく輝く赤いヒナゲシ畑を描いた。初期の作品の1点である。赤と緑の補色の併置は絵に生き生きとした力強さを生み出している。

ルーアン大聖堂、正面 クロード・モネ作 油彩・カンヴァス 1894年

1892年の冬にモネが着手した30点に及ぶ連作のひとつで、ルーアン大聖堂に面した部屋で描かれたものである。彼は聖堂の精巧な石造りの壁にうつろうさまに集中し、一日を通じて太陽の光が角度を変えるたびにカンヴァスを取り換えて描いた。画面を覆う筆蝕は、風雨にさらされた石の肌合いを感じさせる。

睡蓮 クロード・モネ作 油彩・カンヴァス   1905年

1883年にパリ郊外のジヴェニールの村に住み始めたモネは、1890年にそれまで借りていた土地と家を正式に買い取った。その後隣接した土地も買い取り、のちに有名になる庭と睡蓮の池をつくることになる。1903~04年以後モネは第二の連作生み出す。彼の視点はぐっと高まり池の面を見下ろすようになる。水の面に浮かぶ睡蓮の葉も花も、別の次元の空間の中に漂うのである。つまり、その次元とは、時には雲を映し、柳の影を映し、岸の花や叢を映す。あの倒立した巨像の次元なのである。睡蓮は、水面の連続を暗示しながら、その下にあるもっと広大な世界をひらく指標となっている。

腕を組んだバレエの踊り子 エドガー・ドガ作 油彩・カンヴァス 1872年

ドガが亡くなったとき、アトリエには未完のまま残されていたこの絵画はややぎこちない印象を与える作品で、それがスポルディング(寄贈家)の現代的な感性に訴えかけた。踊り子のスカート部分のむき出しの下地の層や、両腕を組むスケッチした輪郭線は、画家の制作過程をあらわにしている。製作中のまま残されたのである。

卓上の果物と水指し ポール・セザンヌ作 油彩・カンヴァス1890~94年頃

傾斜したテーブルの上の果物というシンプルに見えて複雑な一連の静物画は、セザンヌを代表する作品で、いずれの作品も空間と形態の探究、そしてそれらを描く画家の表現手法を示すものである。この絵では、テーブルクロスと背景の落ち着いた緑と青の色彩が、丸味のある果物の明るい黄色やオレンジ色や赤色と鮮やかな対照を成している。

郵便配達人ジョゼフ・ルーラン ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァス1888年子守唄、ゆりかごを揺らすオーギュスティーヌ・ルーラン婦人    1889年

南フランスのアルルに移り住んだゴッホの生活は、依然として、人々の嘲りや無理解にしばしば囲まれていたが、仕事のあいまにくつろぐ夜のカフェなどで、彼は次第に親しい友人を得ていった。この「金の飾りのついた青い制服を身につけ、ひげをはやして、まるでソクラテズのように見える郵便配達夫」のルーランは、なかでももっとも親しく永続的な友情さえ生み出した。ゴッホはルーランに「父というほどではないとしても」、その威厳ある沈黙に尊敬さえ感じていたらしい。この堂々たる肖像画に、そうしたゴッホの感情が十分に見出されるようである。青の強烈さ、画面いっぱいの構図、あらゆる点で、アルル時代の肖像の頂点をなす作品の一つである。ゴッホのこの人物の肖像画は6点あるが、本作品はその最初のものと考えられている( ルーランは郵便配達夫ではなく、郵便管理人だったと言われている。)1888年12月、ファン・ゴッホはジョゼフの妻オーギュティーヌの一連の肖像画を描はじめた。本作品は、かれが完成させた彼女の肖像画のうち、おそらく最後に描かれたものである。鮮やかに花々が配される背景に、彼女の大胆な際立った色彩で描かれており、手にする紐はゆりかごへとつながっている。画面右側に、画家は「ラ・ベルズース」というタイトルを記しているが、このフランス語の単語は「子守唄」と「ゆりかごを揺らす女性」という両方の意味を持つ。ルーラン家には赤子がいたが、ファン・ゴッホはまた、その「揺らす」ということより広い意味でも考えていた。彼は弟のテオに宛てた手紙で、この肖像画の主題について触れている。「漁船の船室の中に」この絵が飾られたとき、「あらゆる危険にさらされた荒涼たる海にたったひとりで残されて、沈鬱な孤独のうちにある」漁師たちは、「ゆりかごに揺られているような感じを経験し、自身がかって聞いた子守唄を思い起こすだろう」と。

 

流石に、ボストン美術館の保有するフランス絵画は優れたものが多い。いずれも感激するが、やはり最後のルーラン夫妻の肖像画が立派であり、アルル時代のゴッホの代表作と呼んでよいだろう。先の「ボストン美術館 東洋編」の最後に、「これと言った名品・珍品がない」と述べたが、これは誤りであった。このアルル時代のゴッホの名品2点は、素晴らしい作品であることを再度強調したい。なお2点を併せ持つ美術館が世界で何館あるだろうか?

 

(本稿は、図録「ボストン美術館の至宝展 2017年」、図録「ボストン美術館ミレー展 2015年」(名古屋ボストン美術館)、現代世界美術全集「第8巻ゴッホ」、福島繁太郎「近代絵画」を参照した)